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2006/07/02

「『信』なき理解」

 さて、ついに、,
看護のための精神医学第2版「看護のための精神医学 第2版」(中井久夫 /山口直彦 共著)についての、私なりの感想と、そこからの連想をつづるシリーズの開幕です。

   「『信』なき理解」
    ある種のクライエントさんはさらされている」

という言い方が著作の中に出てきます。

 まずは「この言葉が私の目にとまっただけ」の時点での私なりの感想をお書きします。

*****

「『信』なき理解」とは何か?

いろいろな言い方ができそうな気がします。

   1.クライエントさんの発言や行動について、
    カウンセラーの側が、
    「理解しよう」
    「受容的に受け止めよう」
    とがんばってはいるけれども、
    カウンセラー自身は、
    本当のところは、
    クライエントさんの言動に違和感や嫌悪、恐怖
    あるいは、予後に対して不安を感じているのに、
    理解した「ふり」だけをしてしまうこと。

   2.更に、クライエントさんも、
    カウンセラーのそうした「理解ある」態度を
    「ほんとうに『真に受ける』」か、
    あるいは、
    薄々違和感や抵抗を漠然と感じていたり、
    それどころか
    「全然私の気持ちの
     大事な勘どころををつかんでもらってない」
    とはっきり感じて「いた」のに、
    面接の場のなごやかな空気を壊したくなかったり、
    不満や異論を唱えたらカウンセラーに嫌われたり
    怒られたりしそうなことへの恐怖のために、
    本音を抑えて、表面だけ「理解してもらえたフリ」
    をいつの間にかしてしまっている。
     ところが、クライエントさん自身も、
    この「ほんとうは理解されてない」違和感を
    「抑圧」してしまい、
    「自分は『十分に』理解されている」
    と思い込む方向に、
    「反動形成」、あるいは
    「理想化転移」を治療者に向けてしまう。


  3.その結果、最悪の場合、
    カウンセラーは「理解したつもり」
    クライエントさんは「わかってもらえたつもり」
    という、
    「偽物の相互理解」の「つながり」幻想
    両者に共有される
    
(この「3.」項は、「藤嶽法」の創始者である、三重のカウンセラー、藤嶽大安氏が、すでに2005年の日本人間性心理学会第24回大会発表論文集(こちらを参照)でお書きの表現を拝借しました。)

  4.しかし、この「偽りの蜜月」は、
    何かのきっかけで破綻する。
    「このくらいのこと、
     もういわなくてもわかっているはず」
    と、クライエントさんも、
    カウンセラー自身も思い込んだ結果、
    ある日それが「錯覚("illusion")」であったことに
    双方が直面する、悲劇の瞬間が訪れる。

  5.これをきっかけに、
    クライエントさんはカウンセラーへ
    「猛烈な怒りと恨み」を抱き、ぶつけ始める。

  6.カウンセラーの側は、
    そうした、クライエントさんからの
    「突如の、理屈を超えた怒り」を
    ぶつけられて、
    傷つき、
    途方に暮れ、
    無力感を感じるか、
    逆に、そういうクライエントさんに
    怒りや嫌悪を感じる。

  7.クライエントさんは、この傷つきのために、
    その後別なカウンセラーに相談する際も
    最初から不信感を抱えてしまい、
    すっきりあっさりとは本音を言わなくなる
    傾向が更に強まる。

  8.医者やカウンセラーの方は、その後、
     「このタイプの」クライエントさんだと察すると、
    最初からクライエントさんに「防衛的」
    になり、「苦手意識」が強まり
    「真剣に」クライエントさんの話を聴く
    誠実さを失っていく。

  9.1.に戻る(^^;)

******

 こうなることを防止するのには、ひとつには、クライエントさんの話を「ウン、ウン」とあっさり受け止め、話させ続けるのではなく、小刻みに伝え返しをし、

カウンセラーの側の理解が何かズレていないかを、カウンセラーの側から率先してやさしく小刻みに丁寧に確認していく姿勢が大事と思います。

  「私の言うことが
   何かピント外れだと感じたら、
   あなたは決して遠慮することなく、
   クレームをその場で私につけてね。
   あなたをいつの間にか誤解したくないから、
   早めにクレームもらえた方が、
   私は心からあなたに感謝します

 これは、新しいクライエントさんとカウンセリングをはじめた早い段階で、最近の私はクライエントさんに必ず伝えます。

 そして、私の理解の誤りをクライエントさんに実際に指摘してもらえるたびに、

   「私の理解がずれていたことを
    あなたが、
    率先して言葉にしてくれたことに
    感謝します

とすら時々言い添えます。  

 これ、実は”Focuser as Teacher"で述べたことを、一般面接の中で、カウンセラーの側からクライエントさんにそれとなく促進するための、さりげない工夫であると、気づいていただける皆様、結構あることかと思います。

********

 さて、カウンセラーをはじめとする「援助職」の人が陥りやすい「形だけの受容」が引き起こす、ある意味ではより不幸で深刻な問題について、続編で論じたいと思います。

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コメント

以前に(といっても5~6年前ですが)一度ホームページに伺わせてもらったものです。覚えておられないとは思いますが(^-^;A

確かにそういう「分かっているつもり」「分かってもらえているつもり」という感じの面接になってしまうことってあります。カウンセラー-クライエント双方とも関係を崩したくないがために、二人で「共謀」してカウンセリングを続けているのだと思います。

そして、そうならないようにカウンセラーも手を打つ必要があると同時に、どうしてこういう関係性になってしまったのか?どういうところからこれが再演されてしまったのか?について考えることもまた大切だと思いました。

もちろんカウンセラーがスキルを磨いて、それを回避することも大事ですが、片方ではそういう関係性の中にクライエントの病理が含まれていることも、少ない可能性ですが、一つの可能性としてあるのかなと思いました。

やはりそれに気づくには、カウンセラーの中に生起している微妙な感情や違和感に敏感になることが必要なのでしょうね。分析的には逆転移というのでしょうが、精神分析の先生が学会などでコメントしていると、やはり逆転移がどのように動いているのかってところのように思います。

ま、そうはいっても、この逆転移に気づくにはある程度、カウンセラーが治療態度やスタンスに一貫性を持たせておく必要がありそうです。態度やスタンスに強迫的に固執するのではなく、その態度やスタンスが崩れそうになった時、「なぜここで崩れそうになったのか」「なぜここで感情が動かされたのか」について敏感に気づいていけるようになると思います。

長々と失礼しました。

セーイチ様

 大変貴重なコメント、まことにありがとうごさいます。相当キャリアをお持ちのカウンセラー、あるいは精神療法を大事になさっている精神科医の方とお見受けいたしました。
 
 ご趣旨、全面的に同意いたします。すでにご覧いただいているかもしてませんが、私もすでに、このブログのこの記事で、カウンセラーがクライエントさんのことを受容・共感できなくなった時には、

「こんなふうな」感じにカウンセラーである私がさせられるのは、そのクライエントさんが、私とだけではなく、そのクライエントさんと関わる「重要な他者」の幾人かにも「こういうふうな」感じにさせてしまうパターンを繰り返してきた可能性があるのではないか?

...を考えてみて、

「この人が、『このような』形でしか、その「重要な他者」に訴えることができなくなるパターンを繰り返してきたのではないか?」

....と連想してみると、そのクライエントさんに「巻き込まれる」ことなく、カウンセラーは、クライエントさんへの思いやりと余裕を少し取り戻せる。

 そして、いわばカウンセラー=クライエント関係の力動を「俯瞰する」第3の視点を確保できるのではないかということを、その記事で書いてみています。

これは、クライエント中心療法の用語に置き換えた「治療者の逆転移の活用」そのものの平易な説明であり、実は私もまだ十分読み込めてはいないのですが、オグデンの「第3主体」論や、ケースメントの「内なるスーパーバイザー」論ともとこかで接点が出てきそうだと感じています。

 更に付け加えれば、私はこうした治療的面接上でのトラブルを、クライエントさんの「症状」ということに「安易」にしてしまう未熟な治療者の傾向に、ちょっと水を差したい思いもあるんですよね。

「自分で蒔いた種である」
「少なくともクライエントさんの症状を『憎悪』させた可能性がある」

と(もちろん、生得的な要因の関与を私は否定しません)。

 私は、こういう時、こんどはひたすら「内罰的に」治療者自身の「性格分析」
をはじめるばかりになるのも困ったものだと思っています。

 「♪わかっていーても、やめられない!」

それが「反復強迫」ですよね(^^)

 ですから、敢えて、少し職人的な「レシピ」化があってもいいと思うのですよ。そういうレシピ化の『副作用』が出る可能性にも慎重な配慮をしながら。
 その点で、中井先生の著作は、含蓄に満ちていると思います。

「治療にロマンを求めるなかれ」

 中井先生が、この「『信』なき理解」の章のレシピをお書きになる際に下敷きにしている、以前お書きの「ある論文」でお書きの、逆説的な名言、私の「座右の銘」です。

コメントありがとうございます。

僕は臨床心理士4年目であり、まだまだ未熟者だと思っております。相当のキャリアには程遠いです(^-^;A

前の「クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと」の記事については読んでおりませんでしたので、さっそく読ませていただきました。

先生が書かれている第三の視点というのはとても興味深く思いました。サリヴァンの「関与しつつの観察」もそこに含まれてくるのかもしれませんが、僕自身はまだまだそこまでできたことがありません。僕が今せいぜいできるのは、その時その時に感じた感情や情緒や感覚というのをできるだけケース記録に書くぐらいです。そして、あとでSVで検討しながら、少しずつ、第三の視点を取り入れていく程度のものです。

いつかはこういうことが面接をしながら自分の中でできれいければと考えております。なかなか難しいですが精進のしどころだと思っています。

セーイチ様

 更なるコメントありがとうございます。

 臨床心理士4年目とは!! 私が「キャリアがある」という、それこそ「錯覚("illusion")」に陥ってしまったといくことは、それだけセーイチさんの視点とその論じ方が、たいへん的確で、大事なポイントを見事にとらえたものだったからだと思います(^^;A (←この「汗」の書き方、今後、使わせていただきます(^^))

 きっといい先生の元で、非常に的確な指導をお受けになって来られて、ご自身も精進なさったいることのあらわれです。私は臨床心理士4年目のの時点ではとてもここまでコメント書けなかったと思います。

 「その時感じた感情や感覚をケース記録に書く」というのは、臨床経験を積み上げていく上ですごく大事だと思いますよ。

 こちらのスーパービジョン論でも述べましたが、クライエントさんの話ばかりで、カウンセラーの自分が「何を言ったか」すらほとんど記述のない「事例発表」に接することがありますが、いくら紙面が限られているからと言って、それでは実は何も伝わらないと思うんですよね。

 一人のカウンセラーが「そこに-いる」という「関係性」の中で、クライエントさんのすべての言動は生まれているわけですから。

 私は、学会でフロアから質問する時、必ずと言っていいほど、

「あなたはクライエントさんのここまでの発言や態度、日常での言動の報告を目の前でお聴きになっていて、どんな気持ち(気分)になっていましたか?」

という質問をします。

 (心理臨床学会で、私がフロアにいるご発表をお聴きの方にとっては、「名物」化し始めているのではないかと思います。一昨年は、その発表の座長をなさった北山修先生に「もういいだろ」と暗に言われるくらいまでやってしまいましたが。(^^;)
 でも、そこまで聴かないと、面接の中身についてのコメントは「何もできない」し、仮に私が直接コメントしなくても、「フロアの皆様が事例を共有する」上での「臨場感」と、議論の深まり」がまるで違ってくるはずと考えるからです。

 遠からず、そうやって面接の最中のカウンセラーとしての自分の「感じ」の変化のセルフモニタリングを、まさにその進行中の面接のさなかに、クライエントさんとの関係性に反映させることができるようにおなりになると思います。

 いや、実はカウンセラーがその「セルフモニタリング」をしているか、いないかという違いだけで、もはや非言語的コミュニケーションの次元で全く異なってくる(「抱え(holding)」の構造が安定する)と思いますよ。
 その意味では、あなたはきっと、すでに、そこそこ(good enough)いいカウンセリングをなさっているかもしれない。
 
 どうか、今後、その姿勢を大事にしながら、がんばり過ぎないでがんばって(爆)くださいね。
 
 壁にぶつかっても、きっと道が開けますから。


 

こんにちわ。レスありがとうございます。

スーパーヴァイザーは一応は精神分析系の先生なのですが、僕はまだ臨床を始めて間もないので、精神分析に固まらず一般的な心理療法ということでヴィジョンを受けております。

そこではあまり専門的な理解や介入を教えてもらうというよりは、こういちろう先生のスーパーヴィジョンでしておられるのと似ているような感じで、「今ここで何を感じた?」「それについてどう思う?」といったようなやり取りが大半を占めています。ですから、僕自身の言った言葉や表した態度やその時の感情体験をできるだけケース記録に書いて持っていっています。

僕としてもそういう生の体験のところを扱っている感覚がとても新鮮です。大学・大学院で習ったような知的な側面ではなく、生の臨床体験を勉強させてもらっているような感じでやっております。

そして、その中で思ったことは、どちらかというと陰性の感情というのは比較的認識しやすいが、陽性の感情というのはなかなか認識しにくいという印象を持っております。

カウンセラーがしんどい、めんどうくさい、眠い、つらい、辟易する、イライラする、といった感情はとても覚えやすいし、なんとかしようという気持ちになれるように思います。

が、助けてやりたい、救ってやりたい、大切に思う、印象が良いな~、といった陽性の感情はなかなか認識しにくいように思います。違和感を感じにくいと表現できるかもしれませんが。もちろん、程よいものであれば、カウンセラーとしての治療動機に繋がりますし、がんばってやていこうというポジティブな方向付けになるのだと思いますが、あまりにも行き過ぎると、やはり巻き込まれたり、「第三の目」が機能しにくくなるように思います。

僕もどちらかというと親身になりすぎてしまう傾向があるようで、それが今のところの僕の一つの課題となっていますし、カウンセリングの中でどのように意識化していくのかというのがテーマとなっています。


>「あなたはクライエントさんのここまでの発言や態度、日常での言動の報告を目の前でお聴きになっていて、どんな気持ち(気分)になっていましたか?」

僕はこの文章の中の「ここまで」というのが印象的でした。というのも、やはり面接を続けていくと、関係性が変化するとともに、お互いのお互いに対する印象や感情は変化していくものだと思います。はじめてあった時の印象と、終了する時の印象ってやっぱり違うものだと思います。そういう印象の変化を継起的に捉えていくとカウンセリングの進行具合や停滞具合なんかも理解できていくのではないかと思いました。


少々、個人的なことを書きましたが、これで失礼します。

 セーイチさんのコメントのセンスと「切り口の的確さ」「バランス感覚」にはほとんど私は「うならされて」しまっています(^^;A

 でも、私はセーイチさんのスーパーバイザーではないわけですし、私も、順調に行けば、今日(7/6)の夕方ぐらいまでには「続・『信』なき理解」のアップを予定しています。

 そこで、この辺で、この記事についてのセーイチさんとのやりとりは「お開き」にするのが「いい塩梅(あんばい)」ではないか、と私のフェルトセンス『が』私『に』忠告してきましたので、closingに向けて、最後にひとつだけにしばって感想を述べて終わりにします。

>が、助けてやりたい、救ってやりたい、
>大切に思う、印象が良いな~、
>といった陽性の感情はなかなか認識
>しにくいように思います。
>違和感を感じにくい
>と表現できるかもしれませんが。
>もちろん、程よいものであれば、
>カウンセラーとしての治療動機に
>繋がりますし、
>がんばってやていこうという
>ポジティブな方向付けになるのだと
>思いますが、あまりにも行き過ぎると、
>やはり巻き込まれたり、
>「第三の目」が機能しにくくなる
>ように思います。 

 全くその通りですね。

 私は、「その種」の「いい」感覚に、

「おーい、これはあまりにも出来過ぎでないかい?」感覚

「気持ち悪い『いい感じ』」

「『妙に』こちらがハイ(躁)になってくる感じ」

などと命名して、感じのtasteの違いに敏感であろうと務めています。

*****

 時には、この種の「『いい』感じなんだけど....」型の内なる警告信号が、むしろ「杞憂」に終わることもあります。

 でも、そういう時は、私が、いつの間にかクライエントさんを「みくびっていた」ことが多い気がしています。

 わかりやすく言えば、私自身が、いつの間にか「過保護、過干渉型の、おせっかいな『親』的役割を引き受け、見事に「陽性逆転移」にはまっていた、でも、クライエントさんはそういう『親』のおせっかいを振り切って、私から「自立していった」ということですね(^^;A

 これが、早過ぎる「自立」であれば、クライエントさんの「行動化(家出)」のバターンの反復強迫になってしまっている可能性大でしょう。

 しかし、面接が熟した末でのものであれば、治療者は、むしろ、ある「一抹の寂しさ」を「抱え」つつも、あっさりと「送り出す」ことが「務め」の場合がある気がします。

 これ、退院する患者さんの「送り出し方」についての『看護のための精神医学』での著述にも、似たことがレシピ的に書かれていますよね、確か。

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