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2006/05/28

それぞれの日常を生きるということ(第2版)

 私がこうして「独立開業」していると知ると、皆さん、

「上司もなく、時間にも拘束されず、うらやましい」

とお感じかもしれません。

 そう、幸か不幸かまだむちゃむちゃ繁盛していないので、時間はあります。
 面接の予約時間でない限り、何をするのも自由です。
 だから、音楽を聴いたり、専門とは無関係な、本を読んだり、昼寝をしたり。
 全く勝手気ままな生活と言えば言えます。

 以前にも何回か書きましたが、病気ゆえの退職、療養を兼ねて(私学共済の、月給8割分の傷病手当も出ていますし。もっとも、あと35日分で支給は終わりです)、できることからはじめるという上で、この独立開業というのは、臨床心理士と、The Focusing Instituteの「フォーカシング指向心理療法(FOT)セラピスト」「フォーカシング.トレーナー」、および「コーディネータ」=FOTセラピストとトレーナの養成と資格認定の「国際資格者」であり、それ相応の現場臨床経験は重ねたものの、大学での研究や教育のキャリアはほとんど持たない私にとって、実は唯一「現実的な」道であるに過ぎませんでした。

(私の経歴と資格については、詳しくは職場サイトのここをご覧下さい。)

*****

 でも、毎日、何から何まで自分でやることを一から決めねばならない生活って、自由であるがゆえに大変でもあります。
 雇われる側の人間として、毎日決まりきった仕事の枠の中で、求められているルーティンを果たせばいい『枠』があるということによって、人は生活のリズムを得られ、「深く考えすぎないで」、人生を消化できるともいえるかもしれません。

*****

 このことは、長い闘病生活を経て、社会復帰したクライエントさんとおつきあいする中で、「お互いに」、自然と認めあえる事柄のようです。
 なぜか、自然と、お互いに、お互いの境遇を「うらやましい」と感じ、かつ、お互いの「たいへんさ」にも共感しあえるんですね。

  そのことができた時、
  カウンセラーとしての私、クライエントさん、
  それぞれが、
  やっと、
  普段は「どこか」に置き忘れている「もやもや」の
  存在を、
  自分で認知(ackowledge)し、
  その「もやもや」を
  「無理に解消」しようとしたり、
  答えを出してしまおうと「焦り」もしないまま
  
無理のないペースで、抱え続け、
  少しずつ

   「溶かして(解かして)」

  いけるがままに任せられる。

 カウンセラーとクライエントさんが、「自分のペース」を築いていく過程が各々(おのおの)の中で、やっとはじまるようです。

  セラピストの成長は、
  クライエントさんの成長と,
  同じテンポで、
  相互作用的に進む。

 それを、決してきれいごとではない,生々しい実感として、感じ続けています。

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コメント

お久しぶりです
時間の制約がないという事は、本当に自ら選ばねばならないので、ある意味大変ですよね
自由とは、選ぶものですからね
しかし、日々のrutineはさすがに飽き飽きするとは思います
だからといって刺激のありすぎる毎日も困るのですが・・・・
休養を要する患者にとって、突然の膨大な時間の扱いはやはり困るものでして、仕事でバタバタ動いていた者などは、じっとしている事すら耐えられないかもしれませんね
今は休む時、と言い聞かせられるようになればいいのですが、中々そこまでが難しいですね

投稿: pecado | 2006/05/30 00:57

お久しぶりです。

 確かにrutineばかりの生活をしていると、飽き飽きしてくるし、「何か大事なことを置き忘れたままでは」というモヤモヤともじっくり向き合えない。

 かと言って、病気で休養して、「休め」「余裕を持て」といわれても、困ってしまいますよね。


 5分で話をいそいそと切り上げる医者に「余裕をもて」といわれてもね(^^;)


こういうことって、言葉でどう伝えるかではないなと思います。言外にお互いに伝え合う中に、

 そこはかとな~い余裕を感じさせつつ「そこにーいる」というスタンスが自(おのず)ずから生まれはじめた時、相互に余裕を作りあう関係になるのかな、と思います。

投稿: こういちろう | 2006/05/30 19:01

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