さて、
ホールボディ・フォーカシング についての、取って置きのエピソードを、遂に公開します(^^)
私、今年(2006年)3月末に、東京女子大学でケビンとポールのワークショップに出て、ケビンをガイドに参加者の前でワークさせていただくという光栄を得るまで、
日本でも、
(東京女子大学の近田輝行先生、(ケビンの本の中にも名前が出てくる)宮川照子さん、そして上記のケビンの本のすばらしい翻訳とやさしい解説の土井晶子さん(全体の半分におよぶ長さ。当然、ケビンの「共著者」とも呼ばれるにふさわしい)をはじめとして、ホールボディ・フォーカシングの日本での普及に情熱を燃やして、ワークショップ等もなさっている方々もあるのですが)、
昨年(2005年)の
カナダ、トロント(ケビンの住んでいる場所でもある)での国際会議の時も、
(もちろんケビンと、例によって私のすんごい英語で、「ある非常に密度の濃い立ち話」(内容を聞いたら卒倒する人が約1名日本にいるかも...。もっとも、もうケビンから話してもらってるかも)はしましたが)、
誰からもホールボディ・フォーカシングについて教わっていなかったし、
他人のパフォーマンスもみたこともなかったし、
簡易マニュアルを読んだこともなければ、
ポールと土井さんの本も、「全く」めくっていなかったわけですね
(などというと、当日の参加者で、私のワークを見た人も「あっけ.....」かもしれませんが)
***
ちなみに、「ワーク」というと、まるで私がトレーナーやガイド役をやってたみたいですが、ホールボディ・フォーカシングは、ガイド役の人に完全に受け身ではできません。
ケビンは、では、私の前で何をしていたか?
(向かい合わせに、1メートルもない感覚で、2人とも、立って対面しているわけですね)
私の身体の中に生じているであろう微妙な感じの変化(必ずしも目に見える変化ではないかも知れない程度の)を、刻々と、私の「身になって」感じたことを、ほんとうに時々、静かに言葉にして投げ返してくれただけでした。
そのケビンの「ホールボディ・リスニング」の応答の感度の凄さ、
これはさすがにこの技法の草案者、そしてそれを何よりまず「自分の」過酷な苦しみのために、「使い込みに使い込んで」きたケビン(この事実はあとで本を読んではじめて知りました)にしてはじめて可能な域の、
最小限なのに、何とも繊細な応答で、それが私の「環境」の一部になっていてこそ成立したコラボレーションなのは確かです。
ホールボディに限らす、フォーカシングのすべての技法が実はそうなんですけど、主役はフォーカサーです。
私はフォーカサーをやったわけですけど、いわゆる「脱同一化(disidentification)」、
つまり、自分の「身体の」感じに注意を向ける主体としての「私」がしっかりそこにいないと成立しない
という点では、普通のフォーカシングより「ごまかしが効かない」とすら私は感じます
(あくまでも個人的見解ですが)
そのへんに、前々回の記事で私が強調した、
「自分の身体『が』どうありたがっているのかを感じつつ、身体に生じるものを私が『許す』」
という、ケビン自身強調しているポイントがあります。
ケビンは、何と旧約聖書の創世記の冒頭の天地創造すら持ち出して、
神様が
「光あれ」
といっただけでは、神様の心の中のイメージとして世界(光)が創出されただけであり、
「すると、光が差した。
神はそれを見て、よしとされた」
というふうにして、
そこに生じてくるままに生じてきたものの存在を、神様が「許す」
という経過が大事だったのでは?
と、カトリック信者としてのスピリチュアルな思いを込めて書いています。
この「許す」という言葉の特別なニュアンス、伝えるのがなか難しいのですが、
日本フォーカシング協会メーリングリストに、
昨年(2005年)の正月頃、
まだ私が完全な療養生活で臥せっていた頃に書き込んだことを、
一部省略しますが、
言葉をまったく改変しないで
転載してみたいと思います。
(以下引用)
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元日の夜になって目覚めたのですが、
この時
「あっさりと『自分で』起き上がるな」
という、身体からのメッセージを感じました。
「意識的に」起き上がるな、と言うのです。
「意識的に」ではなく、徹底的に、「身体の命じるままに」動いたらどうなる?
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そしたら、それからの30分くらい、すごいことになりました!!
まずは寝たまま、手足や胴体が、ゆっくりと動くがままに任せる。
すると、自分では意識的には取ったことがない、すごいポーズを、身体は私に次々と要求してくるのです。
時にはすごい力でその姿勢で踏ん張ることを求められたり。
あるいは、重力との兼ね合いでバランスを取るのがむちゃくちゃ難しい姿勢を求めれれたり。
掛け布団を身体に挟み込んだままだから初めて可能な力の入れかたしたり。
これは、絶対たたみの上では出来ません!! すべって危険だと思います。
袋状の、木綿の敷布団のシーツという、すごく「摩擦抵抗」が強いものの上だから出来る。
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私は、身体が動こうとする方向を、少しでも「先取り」して意識的に動こうものなら「危険だ」と直感しました。
身体の指し示すベクトルを、ほんの少し「後追い」するくらいのつもりでやらないと!!
さもないと、身体が不用意に滑ったりして、自分の体重で手足をくじく危険すら犯している!!
念のために言いますが、一度身体の筋を伸ばすポーズを一度数秒取ったら、自然と「弛緩した」体勢にもどり、「一息」つく、というリズムそのものを「身体が」自然に作ります。
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私は、20年位前、一回だけ、カイロプラクティックの専門家に施術してもらったことがあります。その時にしか体験したことがないくらいに、次々と、脊椎をはじめとする身体の節々が」すごく大きな音でカキッと鳴って、ずれが補正されていきます。
この調子で、自(おのずか)ら(また「やまとことば」!)、ともかく仰向けになって起き上がる方向になるまでですら十数分。ともかく立ち上がるまで更に数分、立ち上がってから、どんでもない姿勢でバランスを取ることを繰り返し求められて10分。
やっと、「このへんで終わっていい」という体からの指令が出ました。
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(引用終わり。以上、focusing-net 書き込み5720[2005/1/3]より転載)
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私は、
「おお、これは凄い発明をした。『阿世賀法ボディワーク』とでも名づけよう」
とまで調子に乗って書き込んだら(^^;)
「あの、それって、『ほとんど』ホールボディ・フォーカシングです」
と、訳者・解説者の土井さんからすぐに書き込みのレスをいただきました(^^;)
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,,,,,今にして思えば、私が1年数ヶ月前に書いたことを、ここでそのまま公開することは、私がこれまでこのブログで弄した多弁全体よりはるかに、ホールボディ・フォーカシングそのものを、自分のために「身につけたい」皆様のために、「誤解を生じさせる」以上に「お役に立てる」と感じましたので、ここに紹介します。
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「おい、自慢話もええかげんにせえや!!」
と、私の中の「内なる批評家」、
改め、
相棒の「内なる『ツッコミ』君
が言ってまいりますが(^^;)、
私の中のフェルトセンスが、
「私」を通して、
皆様に、こうしたことをお伝えしたいのは、
フォーカシングに熟練し、
それを自分の生活に役立てたいと、もがき苦しみつつも、
徹底的に「興味本位」で、自分の身体を「実験材料」にして、
「いけるところまでいこう」
というところまでフォーカシングで人生を「真剣に」遊んでしまえるならば、
そうした人間同士は、
いつの間にか、
似たような「創意工夫」を「自分で」創出してしまい、
それを、つまらぬ「先駆者の巧名争い」なんかせずに、
「お互いに」シェアして、
より高次のものに「練磨しあえる」だろう
ということです。
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日本も、そうした「創意工夫」の提案国になれるはずです。
幾人か、すでにそれを、私より積極的に編み出しつつある方たちがいます。
私は、その方たち、その世代のための、「繋ぎ役」をしていく、トリックスターとしての

エル・シドであることが、天命なのだと、思っています。
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