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2006年4月

2006/04/30

今日から明日は出張のためネット休み(かも?)

@niftyさんは昨日から今日にかけて、コメントのセキュリティアップのためのプログラム変更を私のブログにもなさってくれたようで、そのせいか、記事とコメントの反映がたまっていましたm(_ _)m

今朝になって、私のコントロールパネル側では「@niftyサイトに」すでに届いている表示になっていた私の記事やいただいたコメントを、再度同一内容のまま「上書き」upやりなおした結果、やっと掲載されました。

私は今日明日と、GWのもかかわらず新幹線で泊まりがけで仕事で出張です。CPAPもはじめて連れて行きます(^^)その仕事のための「宿題」を、結局今日早く現地入りしてホテルで仕上げるしかなくなりましたので、少なくとも今晩から明日夕方に書けてはネット活動自粛となりますjので、どうかご了承のほどを。

2006/04/29

最初はNoの積み重ね(第2版)

ホールボディ・フォーカシング「ホールボディ・フォーカシング」シリーズの延長です。

フォーカンシングでは、

「あなたが」ではなくて、

あなたの中の「その感じ(フェルトセンス)それ自身が」

どう思っているか、どうありたがっているかの聴き手にあなた自身がなることを大事にします。

しかし、これって、難しい課題なんですよね。

ほんとうに、フェルトエンスが、言葉で返事を返してくれるのか?

****

たいてい、最初は、

「言葉を返してはくれない

という返事です。

沈黙の中で、言葉ではなくて、態度で返してきたり、

忽然と、悩みと関係あるかないかわからない、イメージが浮かんだり、

身体の感じそのものが緩んだり、強くなったり、思ってもみない部分の身体の感じに気づける、というかたちをとります。

そうした「反応」すべてが、「返事」なんですよね(^^)

*****

しかし、これでもまだピンとこない人がいるでしょう。

*****

「今、自分の身体の中で、一番注意を向けてもらいたがっているのは何だろう」

気になる事柄や悩みと関係ありそうであってもなくてもいい。

一番「気を引いてくる」身体の感じを見つけてみる。

そして、

「その感じそのものはどうありたがっているのか」を、

身体そのものの動き姿勢の変化として、

表現されていくことを自分で少しずつ『許す』ことをしていく

という道があるわけです。

ホールボディ・フォーカシングではこのことを大事にします。

*****

しかし、これまた、実は結構高度な課題です。

そうした場合に、「両腕を上げていく」ワーク(訳書pp.111,138-9)

が役に立ちます。

正確には、

「からだに『腕があがるのを手伝って』くれるよう、『どうやったら腕があがりやすいか』身体に聞いてみる」

(土井さんの解説の文より)

ということになるのですが。

****

ただ、むしろそれは、

腕を少しずつ上げようとすると、

極論すれば「ミリ単位で」

身体がどのように違和や抵抗を返してくるかに敏感になることなのだ、

と私は感じています。

そっちに1ミリ。.....あ、何か腕が『抵抗』してるな。

それじゃ、こっちに1ミリ。.....あ、さっきの抵抗感はない。『行っていい』ということなのかな?

じゃ、こっちにもう1ミリ。.....え、『やりすぎ』だって?

それじゃ1ミリもどって。......え? 戻るのも『もう違う』って?

じゃ、あっちなわけ?

え、それにはなぜか唐突に腰の方から微かな電撃がきたな。

じゃ、残りは下の方だけなんですが。腕上げろって言われてるのに。

......あ、手首の筋を地面方向にピーンとのばすのはOKみたいね。

でも少し痛いな。

え? あれ、「痛・気持ちいい」感じだから、これはこれで別のOKサインなんだ。しばらくこのまま味わうか。

.......え、もういい? 「この」まんまで一気に10度ぐらい腕全体をあげてもいいって???

まわりのみんなはもっとリラックスしているのに、こんな「硬直」した、腕の上げ方でいいわけ?

....... ??ま、やってみるか!!

え? 「最初に戻れ」、だとぉ!!


******

自分自身からの"Yes"のメッセージに敏感になるには、

まずは、内側からの、さまざまな"No"のメッセージに敏感になることを通してはじめて気づける。

これは、ことフォーカシングに限らないことかと思います。

ひとつだけ、自分の内側からの「赤信号」ではなくて「青信号」が灯っていたら、ともかくその青信号のある場所まで行ってみる。

そしてそこでまた内側の感じに訊いて(きいて)みる。

そのことの果てしない繰り返しの末

頭だけではたどり着かなかった場所こそが、

とりあえずの居場所

ということに気がつくこともあるかと思います。

****

というわけで、「推薦」BGMは浜崎あゆみの


浜崎あゆみ - A Song for XX - Signal"signal"

です(^^;)

(こんな凝った選曲でも直接アフィリエイトがあるとまでは期待してなかった)

アルバムとしては、少しひねってayu−mi−x〈ayu−mi−x|あゆ・み・っくす〉こっちを紹介しておきます。ayuのリミックスは、最近独立したアルバムとして出なくなりましたので、敢えて。

もっとも、この頃のayuは、一度決めたら数百メートルは命がけで直進しかねなかったわけですが.....

2006/04/26

フォトアルバム「CPAPなんて怖くない」登場(第2版)

私が今後装着することになった、睡眠時無呼吸症候群(SAS)の治療装置、CPAPについて、フォトアルバムにしてしまいました。

昨晩、本格的に装着しました。

何しろ、睡眠時の喉を開くために圧搾空気(酸素にあらず!)を鼻から送り込むコンプレッサーですから、最初は、息を吐く時に少しパワーがいる感じですが、不思議なもので、2,30分も装着していたら、全く普通の呼吸の感覚になります(この機械そのものが、自動制御装置内蔵ということもあるのでしょう。

ちなみに、口を開けたままでは、のど経由で鼻から口に空気が口蓋を回り込んで、吹き出すだけとなりますが、意識的に口を閉じようとしなくても、寝てしまえば、人間とは自然に口を閉じてしまうものみたいですね。

ただ、2,3週かけて慣れないうちは、レム睡眠時途中覚醒してしまうこともあるようです。

(後日記:初期には、口を何かに覆われている恐怖にぞっとしても「金縛り」ですぐに動けない、というのにパニクりながら目を覚ましたこともありました。そうやって無理に払いのけても壊れにくらいには、丈夫に、かつ、適当に外れやすくできています)。

私の場合、起き抜けの頭の重さがきれいになくなってしまいまったのはすぐに実感できましたした。ホント、脳が酸欠にあえいでいたとしか言いようがありません。

ちなみに、これをつけることで、長期的に喉がだんだん拡がっていくと言うわけではないそうです。つまり、医学の進歩がない限り、この機械とは末長いお付き合いということですね。トホホ...

2006/04/25

CPAP(携帯呼気コンプレッサー)届く(第3版)

睡眠時無呼吸症候群(SAS)治療用の、睡眠時に装着するマスク、届きました。

マスクと言っても、20x15x10はある本体から延びた、洗濯機用ホースみたいなのを鼻に装着するという、そこそこ大袈裟なものです、保険診療のリースで月5,000円ぐらい。月に一度医師の診断で経過を見ることが条件。

ショルダーバックのようにして持ち歩ける。コンセントは必要。

思わず浜崎あゆみのReal me"real me"のプロモーションビデオに出てくる「踊るサイボーグ」になったかのような、わ・た・し(^^;)

(このPV、傑作です。trfのうち二人が共演してるんですよね[などと、意外なところで元を取るm(_ _)m)

この装置とiPod聴くのは両立するが、眼鏡を書けることは両立しない。横になっても裸眼で読書すること多いから
いいんですが(^^)

今日、とりあえず職場での休息の際に使いましたが、意外とあっさり慣れそうです。

脳が絶えず酸欠になっていたのが実感できました。

****

このテーマ、更に続く

2006/04/24

やっとニューデザインでの文字の表示が正常になりました

たった2個所、「フォトアルバム」と記事の一つずつの

</b>(半角表示するとhtml記述そのものになりますので全角で示します)の欠落

を埋めただけです。

左の段、中央段、右の段、それぞれについて、</b>ないし</strong>が抜けている個所がないかどうか探してみてさい。

新しくアップした記事やリスト項目から順に探す方が、見つかるのが早いようです。

リッチテンプレートご使用の方で、テンプレート変更後にみんな太字になった方のご参考までに。

今日など関東では20度をかなり越える好天です。(山手線が止まった影響はいろんな方に出たようですが)。

夏向きという点でも、この方がすっきりしていていいのではないかと思いますが?

2006/04/23

デザイン変更のため工事中(第2版)

テーマは「バリント」

すなわち、

「♪お魚になった、わ・た・し!」

もとい、

「水を得た魚」、

もとい、

「魚にとっての水のごとく」

です。

Balintbasicfault
「治療論からみた退行」中井久夫訳 金剛出版 ; ISBN: 4772400842 絶版 )

*****

ただ、おそらく、私のどの記事かでのHTML記述ミスによって、ほとんどの記事が太字でなくていい文字まで太字になった状態で、すっきりさせようとしたのに、逆に更に鬱陶しく感じさせていたらすみません m(_ _)m

今更以前のワインレッドデザインに戻っても、それが反映されてしまうのは必定ですので、どこかにある</b>あるいは</strong>入れ忘れを発見するまでお待ち下さい。

2006/04/22

不眠?鬱?.....いえ「睡眠時無呼吸症候群(SAS)」の場合 

体調は回復し、予約のクライエントさんがある日には昼から夜まで職場に詰めていられる日がほとんどとなってきていたのですが、頭脳はここ何年もなかったくらいに明晰な時間が多いのに、どうも眠りが浅い。そのせいで、数日はもっても、必ず反動がくる。

検査の結果、重度の「睡眠時無呼吸症候群(SAS)」との診断を受けました。

居眠り運転などの事故をきっかけにはじめて発見されることも多いとのことです。JRの山陽新幹線の停車駅通過事件で有名になりましたが。

これだと、8時間寝たつもりでも酸欠のため4時間分の熟睡にもならないとのこと。

これから、喉を広げるため寝る時にはCPAPという携帯呼気加圧コンプレッサーのようなものをマスクとしてつけ、旅行にも携帯した方がいいとのこと。

***

実は、私の「居眠り癖」「疲れやすさ」中学時代に始まります。念のためにいいますが、中学・高校時代の私は親に「痩せ過ぎ」とまで言われていました。

私が公的な会議の場所ですら居眠りすることは少なからぬ人には以前から顰蹙を与えていて、申し訳ないと思っていたのですが、これは意思の力ではどうにもならないものだったのです。

でも、これでもし疲れやすさとおさらばできるとすれば、今後の私の人生は変わります(^^)

業務には差し支えないどころか、今よりもっと仕事量を増やせるかもしれないということですから(^^)

****

一般のカウンセラーや、精神科医の方々に、不眠や鬱状態、アパシーなどとの鑑別診断のシミュレーションの際にどれくらい現在認識されているかどうか、気になります。

結果はこのブログでもレポートして行きます。

続きはこちら

2006/04/21

イベリア半島におけるキリスト教国家と「北アフリカの」イスラム王朝との関わりについて(第6版)

仕事が休みの昨日、また「LOVE!シネマ2500シリーズ」第2弾エル・シド<デジタルニューマスター版>映画「エル・シド」を通して見てしまったこういちろうです。

スペイン関係の本は何冊か読んだのですが、やはりElcidbookエル・シッド・カンペアドルの密度が圧倒的なので、

Spanishnithehistory
現在、同じラモン・メネンデス・ピダルの書いた「スペイン精神史序説」という本を読みました。

Spainnnorinen_1
更に、橋本一郎/西澤龍生 編/訳「スペインの理念」(ピダルとガニベー、ライン・エントラルゴの別々に刊行された論文をまとめたもの 新泉社)も今読んでまして、もっと巨視的・通史的な形で、スペインと周辺諸国の関わり全体をとらえてみるつもりでいます。

***

後ウマイヤ朝の滅亡後、当時のイベリア半島北部は、キリスト教国家ですが、レオン・アストゥーリアス・カスティーリア・ナバーラ・アラゴンなどの地域別に、いくつもの国・伯領に分立し、統合しようとし始めているくらいの段階でした。

イベリア半島中部・南部は、タイファと呼ばれるイスラム教君主の小国家乱立状態。

レオン=カスティーリア・ナバーラがひとつに統合しようとすると、「全スペインの皇帝」を称する国王が死んだら分割相続された王子たちの争いになったりとか、なかなか求心力が高まらない。このへんはウィキペディアのこのページの説明読んで下さい

タイファ諸国は、お互いに抗争し、キリスト教国家のそれぞれと戦ったり、貢ぎ物を差し出すことで和平を結んだり、キリスト教国家の重臣すら「裏で」タイファと通じていて、故国の政敵をつぶすために利用したりとか、この辺、むやみに込み行った駆け引きを繰り返したようです。

しかし、領地争いをめぐって、「キリスト教徒が内輪揉めして無駄な血を流すくらいなら」と、双方の国の王がが公認した国内ナンバー・ワンの騎士(「軍旗護衛将」とよばれた)同士を、国の命運を背負わせて、両国王族と観衆の見守る競技場で、カトリック教会の祝福の元に一騎打ちさせて決めるなどという、中世の騎士道物語物語そのもの紛争解決も、まだ実際に行われていたようです

Chuuseiknight
(映画には、ブルフィンチの「中世騎士物語」(岩波文庫)で語られているのと細部まで手順がそっくりの、こうした「国をかけての決闘」戦いの際の作法が再現されています。この本、アメリカではよく読まれていた歴史教養書だそうなので、歴史考証の上で参考にしたのではないかと思われます)。

タイファ諸国の南、ジブラルタル海峡の向こう側では、ベルベル人の「ムラービト(アルモラビト)朝」が勢いをつけ、モロッコからマリ・ガーナのあたりまで征服して、地中海から大西洋まで縦に貫く、北西アフリカの大帝国となっていた。そして今度はイベリア半島の「奪回」を狙っていたわけである。このムラービト朝というのは、同じイスラム教徒でも、地中海東側のアラブ人のアッバース朝とは異なり、むしろ「北アフリカの王朝」というべき性格が強かった。

この北アフリカの王朝の当時の国王ユースフは、国土膨張への野心が強く、好戦的なので、必ずしもタイファ諸国にとっても歓迎すべき存在と映ったわけではなく、純アラブ系の「後ウマイヤ朝」の文化の末裔たちのもとで育まれたタイファ諸国の中には、絶えず、「スペイン側につくか」「北アフリカ側につくか」というあたりで、王室レヴェルだけではなく、イスラム教徒もキリスト教徒(モサラべ)も混在する同じ国内でも、宗派を越えて「スペイン民族派」「アフリカ派」が入り交じり、葛藤し、日和見し、という状態。

この辺、映画「エル・シド」はきちんと歴史考証していて、海を渡ってきた「ムラービト朝」側の兵士の装束って、アラブ的というよりアフリカ的。打ち鳴らすドラムも、「トルコ=中央アジア的」というより、アフリカの先住民の響きがするように思います。このへんは、数百年後のオスマン・トルコの軍楽隊とは全く異質な描き方をしています。

この太鼓の音、この映画を最初にテレビで見た子供の頃も、大変不気味なものを感じたことはよく覚えています。史実でも、エル・シドを追放した「主君の方の」軍隊の兵士たちは、この太鼓の音色だけで恐慌状態になり、雪崩式の敗走をしたそうですから、タイファのイスラム教徒国家の軍隊にはなかった心理戦術なのでしょう(自分たちの居場所を敵に教えるような物ですから、単に軍隊の秩序を守るための行進曲ではなく、イスラム側の兵士を一種トランス状態に置き、敵軍を恐れさせる、一種呪術的な意図はあったのではないかとも感じますが。

「ベン・ハー」や「十戒」のように、欧米人なら常識の聖書の物語ですらないので、特に、かなりのスペイン好きを除けば、日本人とかには、話の筋がとらえにくいかも。同じ人が敵になったり味方なったりがかなり込み入ってますので。でも、この「装束」「文化」の違いに注意すれば、この3つの陣営の区別がつくと思います。

*****

史実のエル・シド(ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール)も、兵糧を調達するためなら、タイファ諸国の大きめの町に「ちょっと立ち寄って」、武力で圧倒し、敵兵士ばかりか住民をも殺したり、町の手前に陣を張り「『あの』エル・シドの軍だぞ」と威圧するだけで降参させたりして、残った住民との『取引』として金品食糧を得た場合もあれば、残った町の住民をまるごと人質にして、その人質たちを別の都市でまたもや金品兵糧と交換の上で釈放したりなどしているのですが、ともかく「自国でも政敵は暗殺する」のが普通の時代です。

国王にカスティーリア国外に追放され、「彼への援助をした者は目をくり抜く(映画では「手首を切り落とす」だか)」との王のおふれの中でもついてきた少数の「私兵集団」に過ぎない以上、国境を越えた『敵地』で、ひたすら『現地調達』で当座を切り抜けるしかない中では、兵を失わず生き延びるためにできるだけ戦わず、敵味方にもできるだけ死人を出さないままのやむをえない「駆け引き」だったとも言える。

これでも、戦利品のために住民皆殺しもいとわなかったキリスト教徒側の「普通の武将」よりは、無駄な殺生を避けるかたちで、ことをできるだけフェロ(キリスト教国とタイファ諸国の個々の国別の慣習法)に基づく「契約」として、穏便に済ませることが多かったらしいです。法律に詳しく、アラブ語の読み書きにも不自由しなかったらしい。

まあ、映画ではそのへんの「イスラム教徒への分け隔てない態度」をかなり誇張していますけど、タイファ諸国の中には、サラゴサのイスラム宮廷では賓客として迎えられるとかは、史実だそうです。

おそらく、時と場面によっては、「恐ろしい殺戮者の頭領」であり、時には王の命令を無視してすら政治的にも軍事的にも活動し続け、兄弟を殺して国位に就こうとしている新しい王にすら、宣誓式のその場で臣従を拒否し、法的根拠に基づき逆に王の「言質」をとって、公衆の面前で王に屈辱を味あわる「政治的な権謀術数家」であり、政敵に嫉妬されたり、タイファ諸国の君主や住民にも尊敬されたりと、いろんな面を見せ、いろんな評価をされていたことでしょう。

しかし、エル・シドが、国王にどれだけひどい仕打を受けようと、国王への5分の1の献納は果たし続け、ほんとうなら自分が受けてもいい、征服した土地の王位をカスティーリアの「皇帝」に献上し続けた。

結果的に、志半ばに死して後も、キリスト教文化とイスラム教文化を融合させる形で「スペイン」という「国家単位」での統合の象徴となり、文化的にも、本人のまだ「生きている」時代から、スペイン側の文書のみならずアラブの年代記にもその名が讃えられた。

"el Cid"という、存命中からのあだ名(現代スペイン語の発音からすれば「エル・シード」が近いそうです)そのものが「頭領、主人」を意味する"sayyid(サイード)"というアラブ語由来で、彼を畏敬するイスラム教徒の間からはじまり、キリスト教圏でも使われゆようになったとのこと。elはカスティーリア語の定冠詞なので、英語でいえば"The Boss"ということになる?

Elcidbunko
そして、武勇と人格については、本人が生きている間に吟遊詩人に歌われ始め、死後わずか数十年から百年の間に、今日に写本が伝わる武勲詩が成立する過程で、アラブ語と古代ロマンス語が融合した、スペイン語の原型になる最初の「国民文学」ともいえる『我らがシドの歌』となったのは確かのようです。

*****

人間とは矛盾に満ちたもの。

カウンセラーとて同じことだと思います(^^)。

自分がどんなつもりで発言しても、行動しても、結局最後の判断はその人と関わった「相手が」判断するのは止められない。

それをみんな「引き受けて」、相手との関係樹立に「役立てて」しまえてこそ、カウンセラーでしょう(^^)

今現在、午前中でないと記事の反映は困難?

どうもここ1週間ぐらいは、午前中の10時台ぐらいまでにアップ(再アップ)しないと、新規にせよ、更新にせよ、記事の表(おもて)側への反映を全く受け付けない場合があるようです。

コントロールパネル側から見ると、とっくに記事はココログサイトに届いているようですが。

読者の皆様にはご迷惑をおかけしています。

2006/04/20

GRADO SR325Iについての記事、「第5版」が容易に反映せず、ご迷惑をおかけしていますので

この記事の第5版で増補した部分のみ掲載します。大変ご迷惑をおかけしております m( _ _ )m

******

ブラグもステレオ標準ブラグのみですから、ステレオミニプラクへの変換プラグは自分で買って下さい。

その場合、

プラグアダプターSONY PC-233Sこの機種のような、表面がプラスチック製やビニール製ではない、金属削り出しのものがお勧めです。

更にその筒状の表面にフチルゴムを2、3重くらいに巻き、表面がそのままではべたつくので、ティッシュを一巻きして余分をちぎってしまうと、しばらく使っているうちに、ティッシュの白さがフチルゴムの黒さに同化して、べたつかなく見栄えもそこそこに仕上がります。

こうすると、金属の鳴きが止まり、しかもプラスチックやビニール皮膜のものよりずっと音が澄んだものになります。

2006/04/19

My Policy

「善良なる者或いは凡庸なる人の前方へ、より優れた人に道を開けてやるだけの見識や自己犠牲の気持ちを持たない者は誰でも『悪しき目で見る者』即ち妬む者である」

ラモン・メネンデス・ピダル

Elcidbook「エル・シッド・カンペアドル」安達丈夫訳 p.329より

2006/04/18

本日はネットもお休みします。

どうも、少なくとも私のブログは、現在、今みたいな、ネット全体のトラフィックが空いている時間を除くと、新規や更新した記事の画面への反映がかなり遅くなっているようです。

本部ページカウンセリングルームサイトでの告知と掲載内容がズレていることが多いのはそのせいなんですが(そちらの方でのアップロードは瞬時なので)

恐らく、カテゴリーがやたらと多い私のブログの「重厚すぎる」(^^;)特性と、ブログの最大手、機能的にも最高水準と言っていい、@niftyココログの、日々刻々と新規増設されるブログのトラッフィクに@niftyサーバーが後手後手の対応でアップアップしているのでしょう。


いずれにしても、皆様にはご迷惑をおかけいたしております m( _ _ )m

****

左上の「バックナンバー」(今で言えば「2006年4月」)の方にだけ新規記事や更新が反映していること「も」あります。

そこにすら反映していない場合も、「固定リンク」だけはすでにできていることもあり、その場合には本部ページ職場のサイトから直接リンクを張ってあります。

しかし、「新規」はともかく、「更新」の方は固定リンクにすら反映していないことも多いです(^^;)

「コントロールパネル」側ではすでに「掲載」されている(つまり@niftyサーバーには届いている)のに、こういう「空いている」時間帯に「全く同じ内容のままでいいから」更新しなおさないと、掲載されないみたいです(^^;)

どうかお許しください。

****

ちなみに今日は面接の予約ありません(私は、ご連絡を受けたその日にお会いすることはしておりません)し、年度はじめを意識しての、連日の怒濤のブログ書きにも少し疲れたので(これで並行して目一杯の面接で埋まっていたら、人間ではありません(^^;))、

カウンセリングルームはお休みにさせて頂きます。

電話・FAX等での、本日のご連絡、お申し込みは、明日のお返事となりますことをどうかお許しください。

2006/04/17

カウンセラーが「前に-いる」ということ(第2版)

ホールボディ・フォーカシング「ホールボディ・フォーカシングの臨床適用についての現段階でのとりあえずの私見」その2です。

*****

自分ひとりだけで、もの思う(reverie))ことと、

目の前に他者がいて、思っていること、感じていることを話すことの間には、雲泥の差があります。

そこに他者がいても、自分の世界に没頭できることとなると、さらにすごいことです。

母親が炊事洗濯をしている背後で、母親の存在を忘れて、おもちゃ遊びの中で、自分の空想の世界に浸っていられる子供でいられような状態ですね。

Abilitytobealone
これを、

イギリスの精神分析家、

ウィニコットは、

「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」

と呼びます。

(↑ここで掲げた本に、そのものズバリ、このタイトルの論文が収録されています。精神分析系に限らず、カウンセラー必読の本のひとつかな)


これは決して「自閉」ではなく、

母親という「環境」に対する基本的な安全感と信頼があってできることです。

****

さて、カウンセリングは、たいてい椅子に座ってなされています。

カウンセラーとクライエントさんの椅子の配置として、

「一番無難な角度は90度」

ということは誰が言い出したか忘れました。

これだと、それぞれが真正面を向けば、視線をそらさなくても、相手と視線を交わさなくて済むし、

逆に、相手と「距離を詰めて」話し込もうとすれば、お互いちょっとだけ内側を向けばいいわけですね。

(どうかデートの時にもご活用を)

もちろん、90度でも、2つの椅子が近すぎると、相手に不安を与えるでしょう(^^)

間に小さめの、背の低いテーブルがあるといいかも。

背もたれや肘掛けも、ある程度しっかりしたものがいいでしょう。

カウンセラーは、開業するとなれば、椅子をどう選ぶかにも気を使います。

私のカウンセリングルームのはこれですが、

現在のdefault(^^;)の配置は、120度くらいにしてます。

実は回転椅子でして、クライエントさんも、カウンセラーも、その時の気分で身体の向き全体を無意識にも変えられるわけですね。

****

なぜこんなことを前フリとして長々と書くのか?

それは、ホールボディ・フォーカシングを1対1でやる場合、ガイド役とフォーカサーは、1メートル前後離れて向かい合わせに「立って」いることが基本形みたいだからです。

これって、特に日本人にとっては、かなり非-日常的な、他者との対峙のしかたでしょう。

本気でけんかするか、愛の告白をするか、とか(^^;)

*****

もちろん、フォーカサーが望むなら、180度正対でなくてもいいとは思いますが、両者が立っているという基本は崩せないと思います。

なぜなら、ガイド役の人も、「立っている」フォーカサーの人の「身になって」、自分の身体の感覚を「通して」、フォーカサーが感じていることを受け止め、言葉を返す必要があるからです。

そして、実はこうしてガイド役立ってくれているということが、

フォーカサーの「環境」を形成する、場の「守(まも)り」の「枠組み」でもあることは、ある程度体験されると、感じられることも少なくないかと思います。

*****

中には、ガイドの「前に立って」、内面に注意を向けることそのものが、どうにも苦痛という人もあるでしょう。

そういう場合には、

「身体のすみずみの感じに、じっくり聴いてあげましょう。『どういう向きや、どういう姿勢をとりたがっているのかな?...と」

などとガイドは声をかけるかもしれませんね。

この際に、フォーカサーの身体の内側の感じのベクトルが求めている方向に、少しずつ姿勢や向きやポーズが変わりたがっているのを、少しずつ自分に「許していく」というスタンスを取ってもらえるように導ければいいでしょう。

そして、フォーカサー自身の「身体が」

「こういう感じでとりあえずOK」

という反応を返してくれたところで、そのまましばらくその姿勢で内側から味わってもらう。

それは、たとえば、ほんの少しだけ身体の重心を後ろ寄りにする程度でいい場合すらあります。

****

実は、ある程度通常のフォーカシングに慣れた人ですら、これだけで、思いもよらないことが自分の内面と身体の感じに生じはじめることに驚く場合もあるはずです。

*****

この項、更にシリーズ化されるかどうかは、

それこそ、

私の「フェルトセンス」の命じるままに決めます。

*****

ただ、

「最小限、今、このブログで書いておきたかったことは、書いたんじゃないの?」

という「返事」は、今、私のこの世における最高権威から返ってきますので。

「ジャングル大帝」は、今でもネットで鑑賞できる

「ジャングル大帝」は、Biglobe総合動画サイトで、今、いつでも観られるんですね。いい時代だ!!

もちろん、アニメ史上に残る、シンフォニックなあの富田勲のメインテーマと共に。

しかし、今聴いても、BGMが何と贅沢なんだろう(^^)

エンディングは弘田三枝子で(これも名曲)、後に「人形の家」とかで表舞台に出た頃の彼女(?)が、テレビで歌ってくれと言われて歌詞が出てこなかったのを手塚治虫先生に怒られたというのは、結構知られた伝説かも。

もとより、弘田三枝子は、現役のジャズ・シンガーです。

2006/04/16

ホールボディ・フォーカシングの臨床適用についての現段階でのとりあえずの私見(1) [第3版]

またまたホールボディ・フォーカシングホールボディ・フォーカシングについてです(^^;)

ちょうど4月で、臨床心理系の大学や大学院に入ったばかりの、あるいは臨床現場に出たばかりの人に、フォーカシングとはどんなものかを、意識的に入門的なあたりから、このブログでも書いてみたいという思いもあるのですが、

(この約束は必ず果たします。当面は「日本フォーカシング協会」サイト『フォーカシングって何?』私の本部サイト『フォーカシング入門』を読んでください)

どうしても私はその時熱中していることから書かないと”clearing a space”できないタチなので、いきなり応用編の話ばかり書いてるとしたらお許しください。

ただ、これから書くことも、

フォーカシングのみならず、

およそどんな流派の心理療法や、心理テストを『実際の心理臨床現場で』適用する際にも共通する、普遍的な問題意識と絡めた次元で書いていくように努めるつもりです。

*****

ホールボディ・フォーカシングをワークショップ等のワークとして進めるにあたっての最初の教示としては、

ますは集団の参加者に向かって(どうも円陣を組む形が無難のようです)、経験豊富な「ガイド」の人が、

みんな立ち上がった状態で、

「まずは、自分の身体全体が周囲の環境(大地)に支られているという感じをじっくり味わってみましょう」

という実習からはじめることが多いようです。

集団でやっている時には、何となく周りと同じように、身体を楽にして、内側に注意を向けて、何となく味わっていたら、

「あ、こんなあたりでいいのかな?」

と、場の雰囲気に支えられて味わえたような味わえなかったような(?)気分になれる皆さんが多いかと思います。

少なくとも、足の裏が、靴を通してでも床についてる感じを「足の裏で」感じることは無理なくできる方が多いでしょう。

そして、そうやって足から太もも、腰、おなか、背中、肩、首筋、頭というふうに徐々に身体内側の感覚に注意を少しずつ上げていくつもりで向けてみれば、それでけで、

実は人間が『立っている』ということが、それだけでどれだけすごいことか

今更のように、実感を通してお気づきの方も少なくないかと思います。

いかに重力に逆らってバランスを維持するために、身体のあちこちの部分に「負荷」がかかっているか。

筋肉や内臓、関節や首筋など、身体のいろんな部分に、

普段は意識しなかったけど、

いざ実際に感じてみようとすれば、いろんな緊張や無理や痛みが、いろんな質感で、からだのあちこちに感じられていることに気がつける方が少なくないかと思います。

*****

極論すれば、まずはこのことを身体で実感することが、ほんの2,3分でもできて、

思わず「身体のあちこち」に向けて、

「『お前ら』、それぞれ結構しんどい思いして、『俺』を支えてくれとるんだな」

とか、

「でも、しっかりした床の上に『立ててる』時に、『床』はこんなに『私』安心感を与えてくれているんだな」

とかを味わえるなら、

あなたはすでに、ホールボディ・フォーカシングをしていたのです。

この記事の最後の方で、技法としてのフォーカシングの創始者、ジェンドリンが、著作『フォーカシング』で書いてることを私なりに訳し直した部分の表現をわざと借りています)

このような、日常気がつかない内側の微細な感覚への気づきやすさという点で、ホールボディフォーカシングは、座ってやるのが普通の通常のフォーカシングに導入する場合よりも平易かなとすら思います。


座ったままで椅子と接する背中やお尻、膝や足元の感じを内側から感じるよりやりやすい場合が多いばかりか、

通常のフォーカシングの熟練者でも、

「座ったまま」の時とは全く異なった、予想もしない身体感覚に、

「立ったまま」味わうと気がつけることが多いかと思います。

(もっとも、「感じ易(やす)い」ということは、その分体験が「強烈」であるということにも繋がります。「害がないことが一番の治療である」というのはヒポクラテス以来言われ尽くしていることで、神田橋條治先生や中井久夫先生も繰り返されている通りです。この件については次回も触れます)

*****

ところが、そういう集団のワークの中でも、

中には、

立ってしばらく身体の内側に注意を向けてみても、

本音の本音としては、

「自分の身体全体が周囲の環境(大地)に支えれれているという感じをじっくり味わってみよう」????

何なんじゃ、そりゃあ???

という方があるでしょう(^^)

こういう時、欧米での国際ワークショップの参加者だと、

”I can’t understand what you say!!

How may I do?"

とか何とか、集団のワークでも声を上げる人がいるでしょう。

(私の英語の水準だと、とっさに言えるのはこの程度のぎこちない英語でしょう、笑って許して!!)

しかし、欧米人でもシャイな人、まして日本人だと、

指導者が指示したとおりに「感じられない」自分をまずは「責める」か、

何となく「感じられたフリ」をしてしまうんですよね(^^)

おそらく、

”If you ever need help with something, feel free to ask.”

(さすがにこれはネットで調べました)

とか「言って」もらえても、更に心苦しく思い、萎縮したりして(^^)。

*****


広い意味でのカウンセリングの場の中で、

わからないこと、ピンとこないことをクライエントさんが「遠慮しながらも」口にできる、

というだけでも、

実は「すごい」ことなのです!!

それができたら悩み相談には来ない!!」

という来談者の方が多いことをお忘れなく!!

カウンセリング経験を少し積んだら、話し過ぎたり、カウンセラーに不平を言うクライエントさんより、黙ったままだったり、何でも「はい、はい」うなづくばかりのクライエントさんの方が、会っていて「しんどい」ことに、否応なしに気づきます(^^)

******

この種の問題について、

九州大学の田嶌(たじま)誠一先生(名前知らない若い臨床系の学生さんは、これを機会に、この名前を決して忘れず、九大以外の人も、この先生の「ライブの」集中講義やセミナー、ワークショップは見逃さないように!!)は、

クライエントさんの

「注文をつける能力」

と命名しています。

フォーカシングでも、フォーカサーは、ガイド役の人に受身に従うだけではなくて、

「すみませんが、そのように言われても私にはピンと来ないんですが......」

「今言われたこともう一度言ってください」

「私が何を言いたいのか、私の内側ではっきり言葉になるまで、しばらく黙って、待っていてもらえませんか?」

などといろいろ注文をつけてもいいのです。

そして、ガイド役たるもの、むしろこういう言葉が出てきたら、動揺したり、しどろもどろでいろいろ説明するのではなく、むしろ、

「ほう、この人はちゃんと私に『注文つけて』くれるんだ。よかったよかった」

なでと「内心」「静かに」思えるくらいでないと!!

*****

これ、クライエントさんの相手をするカウンセラー一般に求められることです。

というか、

「そのように言われたらむしろ『ラッキー』なんだ。歓迎すべき事態なんだ」

というくらいのつもりで、普段からクライエントさんの相手をしていたら、

なぜか、

クライエントさんが、そういう不平や苦情や注文を「いつの間にか」口にしやすい「場の雰囲気」が生まれます。

*****

実際、カウンセリングの「現場」で、

クライエントさんの少なからずに、

ここで問題にしている「ホールボディ・フォーカシング」を体験してもらおうとすれば、

「自分の身体全体が周囲の環境(大地)に支えられているという感じをじっくり味わってみてもらう」

という最初の段階ですら、

いかに「高度な」課題であるかに治療者は気づくはずです。

「足が地に付いて、支えれているいる感じって、先生がどう喩(たと)えをあげて説明して下さっても、わかんないです。申し訳ないんですが」

と言ってもらえたら、カウンセラーとしてのあなたはクライエントさんに、心の中で、自然と感謝できるくらいになってから、現場で「ホールボディ・フォーカシング」を試してみてください。


*****

この件、次に、「ガイド役がフォーカサーの『正面に立っている』ことの意味」という観点から続きを書きます(^^)

冷たい雨の多い4月。(第2版)

昨日は私のカウンセリングルームは定休日、

都心に非常勤のフォーカシング・トレーニングの仕事に行った帰りに、

銀座のApple Storeに立ち寄ってしばらく前に修理依頼していたiBook(動かなくなって何ヶ月放置していたことか!)の引き取り、

そしてアフィリエイトしていて、他の人も全く同じ動作不良を起こしているのに気づいた以上、パケット通信上でのトラブルではなく、、また、映像ファイル側の問題とも限らず、iTunesのソフト側の問題の可能性もある点についての注意喚起までやっていたので、

起きるのが遅れました(^^;)

*****

もとより、ご相談の予約者がない時間帯であることは掌握した上でです。

これから「朝昼食」とって職場に移動しますので、ご予約等のFAX・お電話をする伝に頂いた方は、更にお返事が遅れますことをお許しください。

****

それにしても、今日も雨。

4月下旬にしては、冷え込む日が多い気もしますが。

2006/04/15

Queenのオリジナルビデオクリップ集、iTunes Music Store独占販売!! ただし.....(第7版)

まだ気がついてない人のために。

私のサイトの本部トップページから私がバナーリンク張ってるクイーンのビデオクリップ集は、iTune Music Storeオリジナルの編成です(DVD未発売曲含む)。

観たら、やっぱ、凄いですね、この人たち。

私はつい最近クイーンの曲聴いたばかりという人間ですが。

ちなみに、iPod持ってなくても、このバナーをクリックすれば、iTuneが自動インストールされます。

もちろんこれだけでは買えないし、観れないわけで、更にネット上で購入契約をすれば、クリップ集みることできるんじゃなかろうか????。

Windowsの場合も、少なくともAppleサイトにあるWin用iPodのドライバまでインストールすれば大丈夫と思いますが(保障はしませんが)。

もとより、ここ2,3年発売のパソコン環境で、メモリも多い人、ブロードバンド環境をお持ちの方でない場合、確実に動作するかどうかはわかりませんが。


*****

あと、カスタマーレビューにもありますが、なぜか"Somebody To Love"と"Innuendo"が私の場合も転送不能でした。

iTune Music Store購入品でも、CDコピーでも、少なくともWin版iTunesでは稀に生じる現象です。

CDは再コピーすればいいものの、ネットダウンロード購入の場合は再度購入しなおす必要もでてくるかもしれないわけでして、重大な問題といえます。

早急な改善を望みます。

*****

追記:(06/07/24)

現在、"Somebody To Love"と"Innuendo"もダウンロード→iPodへの転送可能になりました。もとより"Innuendo"は相変わらず「アルバムのみ」なので、2000円出してビデオクリップ集全体を買い直さねばならないのはやはり不親切である!!

しかし、この2曲のために再購入ダウンロードしても同じ結果になった人も一時期あるはずですから、「ビデオクリップ第2集」を出す折に付録としてつけ、「第2集全曲まとめて購入」の料金を更に大幅値引きするぐらいのサービスはしてほしいものです。

2006/04/14

カウンセリングの時間以外もカウンセラーはクライエントさんと交流し続けている

クライエントさんとお会いしているのは、多くても週に1時間だけです。

忘れてはならないのは、

カウンセリングの1時間は、残りの24×7-1時間のためにある

ということかなと、ふと今朝から思っていました。

いわばお月様みたいなものですね。

その月は雲に隠れているかもしれない。

昼間の間、さりげなく、その人の頭上にぼんやりとあるのかもしれない。

二人とも、恐らく同じ時間に同じ月を見上げていることはない。

でも、二人は、月下に共にいるのかもしれない。

それだけでいい場合、いや、それこそが大事な場合があるのかな、と、ふと思ったのです。

「我が青春に悔いな~し!!」の由来(第4版 二重チョンボ修正版)

前の記事でも使った、

「我が青春に悔いな~し!!」

の元ネタが、高橋留美子の『うる聖やつら』

うる星やつら TVシリーズ 完全収録版 vol.40 ◆20%OFF!179話、「青春おじさん登場! 輝け夢の大喫茶店!!」(DVD vol.40収録)や、第157話キツネとしのぶの話の2つ目(DVD Vol.34収録だが絶版)の中に出てくる台詞(せりふ)だとすぐわかる人がいるとは、とても思えずも、敢えて使っている、かつての超絶『うる星』ファンの阿世賀です。

(上記の部分、第3版で誤りを修正しました m(_ _)m

 181話は、しのぶとキツネのエピソードの第4作」です。

これも傑作ですが、幸か不幸か、同じVol.40収録の179話にも「同じ台詞」が出てきたので許してください。「本放送」ビデオは持ってても、DVDは持ってないので、ネットのみの調査でミスしました)

*****

今や、高橋留美子さんっていえば、『犬夜叉』であり、『らんま』すら知らない若い人が多いですからね。(浜崎あゆみが『犬夜叉』のエンディングで


  浜崎あゆみ - Dearest - Dearest"dearest"

歌ってたのは知らないくらいに、ある時期以降のアニメと無縁なんですが)

実は、いまや巨匠視される押井守さんがチーフディレクターの時代よりも、やまざきかずおさんの時代の前半ぐらいまでが好きだったという、変わり者なんですが。

そりゃ、20%OFF対象外東宝 うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー劇場版の「うる星やつら2 ビューディフル・ドリーマー」は超傑作だし、

その原型の、うる星やつら TVシリーズ 完全収録版 vol.20 ◆20%OFF!「みじめ、愛とさすらいの母(101話)」(DVD vol.20収録だが絶版)が初放映された時なんて、よくテレビでこんな前衛的なのやったなと喝采しましたが(^^)。

この回、何と、「現在の私がやってること」が登場するわけで(爆)、実は私は四半世紀かけて、「なるようになった」だけの人間なのかもしれません(^^;)

****

いずれにしても、上記にご紹介したTVシリーズの4話分ずつのDVD3本は、押井監督時代、やまざき監督時代、それぞれの、一番油が乗り切った時代のものです。

vol.20は98話「そして誰もいなくなったっちゃ」を含み、

vol.34は島本須美さん演じる、男嫌いの水乃小路飛麿の妹、飛鳥初登場の、天才アニメーターもりやまゆうじ節大爆発の傑作娯楽編の前後編(何と原画の一人が「エヴァ」の庵野秀明さんです)という、全くキツネとは異質の世界が同時に堪能でき、

vol.40は第180話、「ダーリンのやさしさが好きだっちゃ」(原作でも「最後のデート」というタイトルで、印象深いエピソードの一つ。それを原作のスピリットそのままの叙情詩として、もうこれ以上ない水準で完璧にアニメ化)

を含みます(完全に四半世紀タイムスリップした形で「記憶の引き出し」が開いている)。

当時のテレビシリーズアニメとしてはアナーキーでシュールでしかも繊細そのものの、そこはかとない痛み(悼み)に満ちた世界を、若い世代のアニメファンの方にも堪能していただく「お試しコース」としてはいいかもしれませんね。

私の永遠のテーマの「思い込み」というテーマの、ひとつの原点かな。

***

そうそう、やっと初代「ガンダム」TVシリーズが、やっとDVD化されるらしいですね。

やはり、このへんにはまった世代だから、今の私があるのだと、つくづく思います。

*****

最近、このブログにおいでの方は、この記事ごとのノンジャンルぶりに「あっけ....」だとわかってますが、これも、検索エンジンによる「予想外の顧客層」に関心を持っていただくきっかけにもなればと思い、自分の精神的「全資産」を総動員して運用しているだけです。

まあ、少なくともアウトドア派でないことはバレバレですが.....

でも、知ってる人はm上記の作品群って、みんな内容的に「深い」でしょ?

『ガンダム』の「ニュータイプ」なんてトランスパーソナルチックだともいえる。

フォーカシングとは、実はシンプルなものである(第3版)

私の本部ホームページ冒頭に掲げた一句、

”There is no authority above his/her own felt sense on earth.”

(地上に自分のフェルトセンス以上の権威なし)

というのが、私なりにたどり着いたフォーカシングのエッセンスであり、

フォーカシング的な生き方だということは、

以前にもこのブログでお書きしたかと思います。

****

一見傲慢不遜な言葉だし、正直に言って、現在の私が、これを完璧に実践しているかどうかとなると、必ずしもそうではないと思いますが、

人生の決定的な瞬間の「多く」において、少なくとも自らのフェルトセンスからのメッセージに「全く反する」行動は取ってこなかった、

それゆえに、今の今、さまざまな重荷と十字架を背負いつつも「生きていられている(Suvivalできている)」のだ、という思いには変わりありません。

それこそ、さまざまな失敗は重ね、「取り返しのつかないこと」をしてきたという「痛み」と「悼(いた)み」は抱え続け、時々それは改めて疼(うずき)出し、あらためてじっくり味わいなおすことも多いのですが、

その「味わいなおし」そのものが、すでに「癒し」であり、変化と成長の厳粛なプロセスなのだと感じています。

そういう意味では、「私のフォーカシング」シリーズで繰り返した通り、

「我が青春に悔いな~し!!」

なんですよね。

もとより、フェルトセンスに「従う」ということかどういうことか体得されていないと、「似て非」なるものになります。

まあわかりやすく言えば、自分の「奥底からの実感」に忠実ということなんですが、

それが、最近再三ご登場願う「内なる批評家」、改め、「内なる『突っ込み』君」とどう違うかという点で「聴き違えない」ようになれるかどうかです。

****

ちなみに、これまた最近再三ご登場いただくホールボディ・フォーカシングケビンさんの「ホールボディ・フォーカシング」にも、次のように書いてあります。

「私は、私たち自身の内側にあるものこそが、どんな権威よりも、私たちの人生を癒すために必要な多くのことを知っているということを繰り返し確かめることができました」(訳書pp.2-3)

この「権威」の中には、フォーカシングの指導者すら含まれます。

そのことわかってないと、フォーカシングは、フォーカサーではなくて、フォーカシングの指導者のみを癒すための「代理フォーカシング」に成り下がります。

******

なお、私は、フォーカシングの「指導」と、「通常のカウンセリング」を、完全に別のものとみなしており、

「フォーカシング学習をクライエントさんにこちらからお勧めすることはない」と、カウンセリングルームのサイトで明言しました。

これは、

1.私のカウンセリングルームにおいでになったら、フォーカシングを学ばねばならないと、皆さんに誤解していただきたくないこと。

2.一般の方への現場カウンセリングは、特定の技法を適用すればいいというものではなく、その方のお話をうかがう中で、共同作業していく「コラボレーション・ライヴ」であると私は考えていること

のためです。

ちなみに、ケーススーパーバイズの場合ですら、私はその方が主に学んでこられた流派を問わず、実際にお引き受けしています。

詳細は「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」のサイトをご覧ください。

****

もちろん、通常のカウンセリングの際にも、クライエントさんを前にして、カウンセラーとしての私自身の中では、絶えず「場の」感じに触れつつ、フォーカシングしながら、クライエントさんの感じているであろう「言葉にならない思い」まで、クライエントさんの「身になって」味わい、共有しようとし続けています。

そして、次に何を言葉にするか(しないか)を、私自身のフォーカシングの中で吟味し、

クライエントさんに、その時、あるいは長期的に見て、どんなお手伝いができるか、フォーカシングしながら思いをめぐらし続けているのですが。

****

最後に、フォーカシングの草案者、ジェンドリン自身の、その人がフォーカシングができているかどうかについての

「最も端的な定義」

と私が長年考えているものををご紹介。

IF DURERING THIESE INSTRUCTIONS SOMEWHERE YOU HAVE SPENT A LITTLE WHILE SENSING AND TOUCHING AN UNCLEAR HOLISITIC BODY SENSE OF THIS PROBLEM,

THEN YOU HAVE FOCUSED.

It dosen't matter whether the body-shift come or not.

It comes on its own.

We don't control that.

Focusingoriginal
(Gendlin,E.T.,"Focusing",Bantam Books,1981 p.45
ISBN 0-553-27833-9)

ここまでの教示を(自分に)にしていく間のどこかで

(気がかりな)問題をめぐって、

はっきりしない身体すみずみの感覚が感じられ、

しばらくその感じに(内側から)さわり、感じてみることが、

ほんのちょっとの間でもできたならば、

あなたはその時フォーカシングをしていたのです。

身体の感じに変化(シフト)が生じてきたかどうかは気にしなくていいんですよ。

そういう変化は「向こうから」自然と生じてくるもの。

ガイド(トレーナー、リスナー)である私や、フォーカサーであるあなたが「操縦して」、そういう変化の感覚を生み出すわけではないんです。

[上記の訳、第3稿で更に手を入れています]

Focusing_hyoushi
「フォーカシング」 ユージン・ジェンドリン著p,74に該当しますが、敢えて私自身で訳し直してみました。

フェルトセンスに変化をもたらす「内的な導き手」は、フェルトセンスそれ自体であり、あなたはそれに気づき、それを感じることを自分に「許す」主体でしかありません。


***


「この部分の訳、変です。抜け落ちている単語もあるし。これじゃ誤解されますよ」

と、共訳者の故・村瀬孝雄先生にご注進した、大学院入りたての、もう21年前になる、若き日の思い出がよみがえります。

宝塚とハロプロで「リボンの騎士」!!

かの「モーニング娘」や松浦亜弥をはじめとする女性アイドル集団「ハロー!プロジェクト」と宝塚歌劇団が組んで、

初のコラボレーションミュージカルとして、

手塚治虫原作の「リボンの騎士」

のこの夏挑戦するとか。

公式HPはこちら。

スーパーバイザーはご子息の手塚真さん。

****

「ベルサイユの薔薇」のこと考えれば、この種の企画、発表されてみれば、とっくにあっておかしくなかった「夢の題材」「夢の組み合わせ」でしょうけど、それを現実化させるには、誰か「企画の大風呂敷」を広げて現実化させるバワフルな人間がいないと無理なんだろうと思います。

などと、一見唐突に書くのは、完全に「アトム」世代、「ジャングル大帝」も「リボンの騎士」もリアルタイムで観ていた私の感慨のなせる技です。

特に「シャングル大帝」、富田勲作曲の、あの増大なテーマソングは特撮もの「マイティ・ジャック」と並び、永遠の名曲と思ってますし、「ジャングル大帝」に至っては、何と、アニメの各回ごとにBCM作曲してたんですよね。確か曲だけ先に作ってあとでストーリーかぶせた回とかもあったはず。

『リボンの騎士』も富田さんが音楽担当、テーマソングは名曲ですよね。

『ジャングル大帝』『リボンの騎士』を含むなつかしアニメの、「放送当時のオリジナル音源」聴きたい方は、これをどうぞ!!

決定盤!テレビ・アニメ主題歌 オリジナル・サントラ集 昭和38年〜昭和43年

「ヤダモン」の「腹へった!!」も聴けます!!(やっとネタばらしだよ、○○君)


2006/04/13

やっとiTune Music Storeからアフィリエイトもらえた

恐らく申請者があまりに多いことがあったんでしょうが、ともかく「四顧の礼」で認可されました。

これからは、曲ごとのアフィリエイト・リンクもできそうですけど、そこまで過去に遡ってやっていたら「定休日」が休日になりませんもので。

今のところここをはじめとする本部ページからだけですので、よかったらお使いくださいませ。

再びエル・シッドについて(第6版 ピダルの著作の刊行年確定版)

Erlciddvdエル・シドについて、
更に続きですが、

史実としてのエル・シド(エル・シッド)については、
Elcidbookエル・シッド・カンペアドル
(著者:ラモン・メネンデス・ピダル 1950) 以上の著作はないでしょう。

スペイン本国でも、ヨーロッパでも、イスラム教圏でも、ここまで歴史的評価が混乱し、揺れ動いた人物は稀とのことです。当時中南部に小国分立してたイスラム教徒から金品を巻き上げるただの盗賊騎士団の頭領だったという見解から、ヨーロッパ的な歴史観における「レコンキスタ」(つまり、本来キリスト教徒の土地であったイベりア半島を「侵略」していたイスラム教徒を「追い出す」までの歴史過程における聖なる英雄、いわば「ヨーロッパの西側における私設「十字軍」みたいな存在として祭り上げられたり、あるいは「スペイン」民族主義の象徴、更にはスペインが「つい四半世紀前まで」フランコ独裁体制にあったことからくる(若い人の中には、「へえ、そうなんだ」という人もいたりして)、歴史の流れの中で、いいように利用されて、誹謗されても来た人物なのです。

しかし、アーサー王伝説とかとは異なり、まさに中世後期に忽然とタイムスリップしてあらわれた「古代の伝説的英雄」みたいな人ですので、実は同時代の『現在進行形」的文献的記述が、スペイン(当時のレオン=カスティーリア王国)王室に残る公式の文書から、エル・シードの歌「我らがシドの歌」をはじめとする、すでに彼の死の直後に成立した吟遊詩人の伝承の記録や、イスラム圏を含めた年代記における、その武勇と戦略についての賞賛すら含む記述等を含めて、山のようにあるそうです。

現在進行形的な情報が、いかに主観に歪められがちかは、現実の「今の」歴史が証明しているでしょう。しかし、良きにつけ、悪しきにつけ、歴史はそういう「誤解」と「思い込み」の中で動くものですから。

エル・シドが、一騎士としても抜きん出た人物で、戦略家としても有能、裁判官としても、ローマ法、「フェロ」と呼ばれる、王室と地域諸領主との間の慣習法)にも精通して公正な裁判を行うだけの明晰な知性を持ち、王室に対して発言力があり、多くの政敵に嫉妬され、謀略の中でも生き延び、志半ばで死ぬしかなかったものの、現実に彼と関わり、彼の姿を観た人々に取って、忘れがたい「何か」を発散し、彼なしでは世界史、少なくともスペイン統一までのあり方が変わり、それは、コロンブスによるアメリカ「発見」以降の「大航海時代」がどのようにはじまるかにも影響したろうと言いたくなるのは確かです。

そこから「歴史」と「伝説」を丁寧に選り分ける膨大な作業を費やし、学術書「エル・シッドのスペイン(1929)」をまとめた時点で、数百年続いたエル・シッド論争に終止符が打たれたとまでいわれたそうです。

更に、第2次世界大戦後、ピダルは、この著作に基づきつつも、スペインのアウストラル蔵書のために一般向けに書きおろしたのが、この「エル・シッド・カンペアドル」なのですが、これですら、今時1500円というのが嘘みたいな、ヘヴィーな2段組の「大著」ですよ。ここまで公平で多角的で、学術的正確さを期しつつ、歴史読物としても読める歴史書は稀でしょう。

ただ、いきなり読むと、スペイン史(というか、イベリア半島におけるキリスト教圏とイスラム教圏の矛盾に満ちた、長い「抗争」と「共存」「相互影響」の歴史が頭に入ってないと、ついていけないでしょうから、上に紹介した、映画「エル・シド」を先に観てからにして下さい。

この映画の脚本家がその時点でどれだけ卓抜な歴史認識をもっていたかもわかります。もちろん、史実を強引に「圧縮して」いるし、エル・シドを実際より「いい人」にして、影の側面はある程度切り捨てているとは言えますが、それでも。ここで描かれた「歴史をほんとうに動かした人」の存在感の生々しさ。そこでくり広けられた政治的駆け引きのシビアさ。脚本家の「歴史的洞察力」が当時としては半端ではなかったのは確かしょう。ピダルの原典は1950年に出版されています、それを十分に活用しているようにも思えます。

まあ、映画のエル・シドと現実のエル・シドの違いは、このブログでイメージされる私と現実の私ぐらいの落差しかないかも(爆)

チャールトン・ヘストンの真の代表作は、「十戒」でも「ベン・ハー」でもなく。この作品です

この人、その後全米ライフル協会の会長なんかに祭り上げられなかったら、もっと光栄に満ちた老後を迎えているでしょうに。

浜崎あゆみの"startin'"を中心に

ともかくayuは、「腹をくくった」のです。

歌手であることに。

歌手である限り、世間的な普通の幸せなど得られないことに。

そこにたどり着くまでの時期のayu(特に【CD】【10%OFF!】MY STORY(DVD付) / 浜崎あゆみアルバム"My Story"の頃
の彼女の詞(うた)は、聴いていて辛すぎた。

ほんとうに、自分を、いじめて、いじめて、ばかりで。

私は、浜崎あゆみ MaxiCD+DVD【Step You / Is This Love?】送料無料(4/20発売)"Step you"/"Is This Love?"が出た時点で、これは「分岐点」だなと思い、ひやひやして、もう、聴いていられなくなった。

おかげで、ayuがその後どう「変化」するのかを「離れて観てい」る■送料無料■浜崎あゆみ CD+DVD【(miss)understood】 06/1/1("althena")しかなくなった(笑)

何を「やって」も、「やらなく」でも、結局どうのこうのいわれるのなら、あるがままに。

私はこの歌詞には、私自身を重ね、「痛く(誤字にあらず)」共感しましたが(爆)

ただ

■送料120円■浜崎あゆみ CD+DVD【Startin’/Born To Be...】 06/3/8"startin'"で、

いつでも終われる、いつでもはじめられる。

でもそれは、「誰のためでもなく」「自分のために」ほんとうに腹をくり、歌手としての自分を引き受ける、「貫ける」、その気になった時にはじめて人が言える言葉だと思います。

答えは、探し求めても、どこにもない。

あるとしたら、自分はすでに手にして「いた」ことに、今更のように気づくことができるかどうか。

(まるで、フォーカシングやないか)

****

ちなみに、なぜ、"Born To Be..."が、"Born to be Free"という、すっきりしたタイトルにすることを避けた理由をいろいろ考えてみるのも楽しいですね。

むしろ"Born to be"で"..."を取ったらどうなるか。とか。

これでもよかったと思います。

でもそれでは、例の、世間で使い古された「あるがままに」になっちゃいますかね。

"...."という"something"が大事な気もします。

変化していく可能性に、絶えず開かれていることを自分に「許して」あげられるか。

それは、「虚無」と背中合わせ。

でも、もっとも、自分を取り巻く世界との親密な関係性から生じるプロセスに開かれたありようなんでしょうか。

あ、言葉にしてしまうとつまんねえや。

本当は、曲を繰り返し聴いたり、頭の中で自動再生しながら「味わいつつ」「感じ取る」中で徐々に、身体そのもの「が」受け止める「に」任せるべきことで。

*****

ただ、ayuは、その時の心境をほんとに「すなおに」詞にしているだけ、とは常々思ってます。

刻々と、苦悩しつつ、螺旋階段をのぼるように変化し、成長して来た自分のプロセスをさらしているだけ。

......ということは、"Is This Love?"まで、ayuは恋を知らなかったということですね(マジ)

男女関係の量と、自分の「恋心」に真に直面することは別です。

(今では、この曲の独特の「痛み」「苦さ」を伴う重さのなかでの、荘重なメロディラインが好きで、長野のライブでもベストの熱唱が聴けて大満足でした。


ayuは、ある意味では、ずっと、すっと子供の国、妖精の国浜崎あゆみ MaxiCD+DVD【Fairyland】"fairyland"に「いた」のです。

やっとayuはそれがとっくに「焼け落ちて」いたことに気がついたんですね。

そして、心の中で「再生」させて「守って」いく"teens")ことにしたのでしょう。

2006/04/12

「Web版 臨床心理士に出会うには」にやっと「ホントに」全文掲載されました!!

ここから、『神奈川県』で検索して、2ページ目です。名称をクリックすれば、一定のフォーマットに則(のっと)った、詳しい案内の単独ページが開きます。

神奈川県だけで、現在「2ページ」あることをお忘れなく!!

*****

どうも、これに掲載されてないと、

「こいつ、ほんまに臨床心理士か?」

湘南フォーカシング・カウンセリングルームは、ほんとうにこの世に『実在』するのか?」

実は怪しげな出逢い系サイトなのではないのか?

と、まだ疑って、迷っている皆様がおられるような気がしてしまって(^^;)


*****


ほんとうに、私との「コラボレーション・ライブ」が、あなたの人生にとって一回6000円+交通費の価値があるかどうか?

お試しになっていただける皆様が増えることを心待ちにしております m(_ _)m


*****


もとより、「臨床心理士」とは、ただの資格です!!

(それになるために必死に勉強したり苦労している皆様には申し訳ないですが)。

以前も書いたように、およそ「資格」とは、コネなしでも求職活動したり、開業するための「オープンな」パスポートであることにこそ意義があります

もちろん、来談されるクライエントさん「に」お役に立ったと感じていただけるかどうか、

そしてそれで「食べていける」かどうかは


> あとは君しだい

(浜崎あゆみ"Startin'")


です。!!

(これ、若いカウンセラー志望の皆様へのエールのつもりです)

*****

(今、■送料120円■浜崎あゆみ CD+DVD【Startin’/Born To Be...】 06/3/8このayuのアルバムの3曲がいつも頭の中でBGMとして鳴ってるのです)

私が「ホールボディ・フォーカシング」を「発見」した日のこと(第2版)

さて、ホールボディ・フォーカシングホールボディ・フォーカシング についての、取って置きのエピソードを、遂に公開します(^^)

私、今年(2006年)3月末に、東京女子大学でケビンとポールのワークショップに出て、ケビンをガイドに参加者の前でワークさせていただくという光栄を得るまで、

日本でも、

(東京女子大学の近田輝行先生、(ケビンの本の中にも名前が出てくる)宮川照子さん、そして上記のケビンの本のすばらしい翻訳とやさしい解説の土井晶子さん(全体の半分におよぶ長さ。当然、ケビンの「共著者」とも呼ばれるにふさわしい)をはじめとして、ホールボディ・フォーカシングの日本での普及に情熱を燃やして、ワークショップ等もなさっている方々もあるのですが)、

昨年(2005年)の

カナダ、トロント(ケビンの住んでいる場所でもある)での国際会議の時も、

(もちろんケビンと、例によって私のすんごい英語で、「ある非常に密度の濃い立ち話」(内容を聞いたら卒倒する人が約1名日本にいるかも...。もっとも、もうケビンから話してもらってるかも)はしましたが)、

誰からもホールボディ・フォーカシングについて教わっていなかったし、

他人のパフォーマンスもみたこともなかったし、

簡易マニュアルを読んだこともなければ、

ポールと土井さんの本も、「全く」めくっていなかったわけですね

(などというと、当日の参加者で、私のワークを見た人も「あっけ.....」かもしれませんが)

***

ちなみに、「ワーク」というと、まるで私がトレーナーやガイド役をやってたみたいですが、ホールボディ・フォーカシングは、ガイド役の人に完全に受け身ではできません。

ケビンは、では、私の前で何をしていたか?

(向かい合わせに、1メートルもない感覚で、2人とも、立って対面しているわけですね)

私の身体の中に生じているであろう微妙な感じの変化(必ずしも目に見える変化ではないかも知れない程度の)を、刻々と、私の「身になって」感じたことを、ほんとうに時々、静かに言葉にして投げ返してくれただけでした。

そのケビンの「ホールボディ・リスニング」の応答の感度の凄さ

これはさすがにこの技法の草案者、そしてそれを何よりまず「自分の」過酷な苦しみのために、「使い込みに使い込んで」きたケビン(この事実はあとで本を読んではじめて知りました)にしてはじめて可能な域の、

最小限なのに、何とも繊細な応答で、それが私の「環境」の一部になっていてこそ成立したコラボレーションなのは確かです。

ホールボディに限らす、フォーカシングのすべての技法が実はそうなんですけど、主役はフォーカサーです。

私はフォーカサーをやったわけですけど、いわゆる「脱同一化(disidentification)」

つまり、自分の「身体の」感じに注意を向ける主体としての「私」がしっかりそこにいないと成立しない

という点では、普通のフォーカシングより「ごまかしが効かない」とすら私は感じます

(あくまでも個人的見解ですが)

そのへんに、前々回の記事で私が強調した、

「自分の身体『が』どうありたがっているのかを感じつつ、身体に生じるものを私が『許す』」

という、ケビン自身強調しているポイントがあります。

ケビンは、何と旧約聖書の創世記の冒頭の天地創造すら持ち出して、

神様が

「光あれ」

といっただけでは、神様の心の中のイメージとして世界(光)が創出されただけであり、

「すると、光が差した。

神はそれを見て、よしとされた

というふうにして、

そこに生じてくるままに生じてきたものの存在を、神様が「許す」

という経過が大事だったのでは? 

と、カトリック信者としてのスピリチュアルな思いを込めて書いています。

この「許す」という言葉の特別なニュアンス、伝えるのがなか難しいのですが、

日本フォーカシング協会メーリングリストに、

昨年(2005年)の正月頃、

まだ私が完全な療養生活で臥せっていた頃に書き込んだことを、

一部省略しますが、

言葉をまったく改変しないで

転載してみたいと思います。

(以下引用)

****

元日の夜になって目覚めたのですが、


この時


「あっさりと『自分で』起き上がるな」


という、身体からのメッセージを感じました。


「意識的に」起き上がるな、と言うのです。

「意識的に」ではなく、徹底的に、「身体の命じるままに」動いたらどうなる?


***


そしたら、それからの30分くらい、すごいことになりました!!

まずは寝たまま、手足や胴体が、ゆっくりと動くがままに任せる。

すると、自分では意識的には取ったことがない、すごいポーズを、身体は私に次々と要求してくるのです。

時にはすごい力でその姿勢で踏ん張ることを求められたり。

あるいは、重力との兼ね合いでバランスを取るのがむちゃくちゃ難しい姿勢を求めれれたり。

掛け布団を身体に挟み込んだままだから初めて可能な力の入れかたしたり。

これは、絶対たたみの上では出来ません!! すべって危険だと思います。

袋状の、木綿の敷布団のシーツという、すごく「摩擦抵抗」が強いものの上だから出来る。

*****

私は、身体が動こうとする方向を、少しでも「先取り」して意識的に動こうものなら「危険だ」と直感しました。

身体の指し示すベクトルを、ほんの少し「後追い」するくらいのつもりでやらないと!!

さもないと、身体が不用意に滑ったりして、自分の体重で手足をくじく危険すら犯している!!

念のために言いますが、一度身体の筋を伸ばすポーズを一度数秒取ったら、自然と「弛緩した」体勢にもどり、「一息」つく、というリズムそのものを「身体が」自然に作ります


***


私は、20年位前、一回だけ、カイロプラクティックの専門家に施術してもらったことがあります。その時にしか体験したことがないくらいに、次々と、脊椎をはじめとする身体の節々が」すごく大きな音でカキッと鳴って、ずれが補正されていきます。

この調子で、自(おのずか)ら(また「やまとことば」!)、ともかく仰向けになって起き上がる方向になるまでですら十数分。ともかく立ち上がるまで更に数分、立ち上がってから、どんでもない姿勢でバランスを取ることを繰り返し求められて10分。

やっと、「このへんで終わっていい」という体からの指令が出ました。

*****

(引用終わり。以上、focusing-net 書き込み5720[2005/1/3]より転載)

*****


私は、

「おお、これは凄い発明をした。『阿世賀法ボディワーク』とでも名づけよう」

とまで調子に乗って書き込んだら(^^;)

「あの、それって、『ほとんど』ホールボディ・フォーカシングです」

と、訳者・解説者の土井さんからすぐに書き込みのレスをいただきました(^^;)

****

,,,,,今にして思えば、私が1年数ヶ月前に書いたことを、ここでそのまま公開することは、私がこれまでこのブログで弄した多弁全体よりはるかに、ホールボディ・フォーカシングそのものを、自分のために「身につけたい」皆様のために、「誤解を生じさせる」以上に「お役に立てる」と感じましたので、ここに紹介します。

*****

「おい、自慢話もええかげんにせえや!!」

と、私の中の「内なる批評家」、

改め、

相棒の「内なる『ツッコミ』君

が言ってまいりますが(^^;)、

私の中のフェルトセンスが

「私」を通して、

皆様に、こうしたことをお伝えしたいのは、

フォーカシングに熟練し、

それを自分の生活に役立てたいと、もがき苦しみつつも、

徹底的に「興味本位」で、自分の身体を「実験材料」にして、

「いけるところまでいこう」

というところまでフォーカシングで人生を「真剣に」遊んでしまえるならば、

そうした人間同士は、

いつの間にか、

似たような「創意工夫」を「自分で」創出してしまい、

それを、つまらぬ「先駆者の巧名争い」なんかせずに、

「お互いに」シェアして、

より高次のものに「練磨しあえる」だろう

ということです。

****

日本も、そうした「創意工夫」の提案国になれるはずです。

幾人か、すでにそれを、私より積極的に編み出しつつある方たちがいます。

私は、その方たち、その世代のための、「繋ぎ役」をしていく、トリックスターとしての
Erlciddvd
エル・シドであることが、天命なのだと、思っています。

浜崎あゆみが"teens"を歌うこと

この記事、こちらに移動させ、リニューアル掲載しました。(06/5/8)

****


浜崎あゆみ浜崎あゆみの曲の購入にご利用くださいませ

2006/04/11

自分の臨床家としての能力が伸びたと感じる時(第3版)

前の書き込みまで、

私の悪いクセの

「孤高の」「悲劇の」「天才」フォーカシング実践者気取り

が、また暴走気味になってしまいましたm( _ _ )m

(などという言い方を平気で言い足すことでさらに「馬脚」をあらわしてしまって平然としているあたりが、いよいよ困ったもんだと、私の中の「内なる批評家」は思っているようですが(^^;)

******

私に限らず、カウンセラーって、実は多少なりともナルシストで、「小山の大将」が多いと思っています(^^;)

「理解する」ということが、理解された側の人間が「理解してもらえた」と感じなければ無意味なのと同様に、

カウンセラーを「評価」するのは、どこまでも個々のクライエント(=顧客)さんであり、

指導教授でもスーパーバイザーでも職場の上司でも医者でもないと、

常々思っております。

それを「転移」「逆転移」やら「投影同一視」やらの言葉を巧みに使って言い訳するのがうまいカウンセラーにだけはなりたくないものです(^^)。

敢えて言うと、自分のカウンセリングが失敗した自己嫌悪に浸ることそのものも、

カウンセラーの「思い込み」の「勝手な自己完結」であり、

ナルシシズムの裏返しでしかない。

実は、このことを体験的に自覚していれば、まさに「転移」の問題の本質がすでに「そこそこ」わかっているということになるかと思っていますが。

(「陽性転移」や「陽性逆転移」を含めて)。

「あ、自分はこの人とのカウンセリングがうまく進んでいると勝手にうぬぼれてるな。馬っ鹿じゃねえの?」

「あ、クライエンとさんの『行動化』が自分のせいだと自己嫌悪してやがんの!! あのさ、クライエンとさんの全人生は自分次第だなんて思い込んでるわけ、アホかお前は!!」

などと、舞いあがったり、落ち込んだりしてしまう(これ自体はカウンセラーも人間だから仕方ないですよね)その後で、さほど時がたたないうちに、自分で自分の「滑稽さ」を笑い飛ばした上で、

不死鳥のように「復活」し(^^)、

それでも「腹を据えて」、「虚心に」、次の面接に向かい合う、

カウンセラーはそれしかできないし、

それさえしていれば、

「こ、これは、

ほ、ほんとうに、

クライエントさんのお役に(前より)少しは立てたかな?

こわいよー!!

「思い込み」や「夢」であってくれればいいのに!!

そんな現実には耐えられない!!」

と、

ある「畏怖」と共に、

「自分の身体『が』感じること『を』

自分『に』

『許して』あげられる」

日が来る気がします。

****

(この最後部分の表現、ホールボディ・フォーカシングの基本概念のひとつなんだけど、

この言葉に理屈ぬきでノックダウンされることを、「自分で自分に『許して』あげられる」人こそ、

フォーカシングが「身についている」人です。

「フォーカシング」を「学んだ」ことがあろうとなかろうと。

*****

「....などと、

また、『謎かけ』に走るぅ~」

という、

「内なる批評家」、というより、「内なる『突っ込み』君」の声。

そう、「内なる批評家」陛下という守護霊(!)が、毎日自分に死刑を言い渡し、鞭打ちで責め苛(さいな)むような存在から、

漫才コンビの「突っ込み」のように、

「自分」に向かって自由にふるまってくれることを、自分で自分に許してあげられることで、

「立て直し」ができることを、自分で自分に許してあげられること(おい、「お前」、わざとしつこく繰り返してるだろ)が「多い」方向に、

徐々に「進化」するものだと。

*****

フォーカシングを身につけていると、

「悲しいことに」(と敢えて書きます)

すべての人生経験から、その時点での自分ができる範囲のものを、消化吸収し、すでに「学んでしまっている」自分

を自分で愛(いとおしみ)、育(はぐく)みつつ、許してあげられるようになるみたいです。

もう、以前の自分には戻れないのね。

でも、それは、普通の意味での「大人になることの悲しさ」とは少し違います。

普通の意味でのそれには、

「内なる、子供のままの、傷ついた自分」への、少しずつの「癒し」

伴わないことも少なくない。

「体験過程が推進する」とは、そういう点で、普通に言う「成長」とは似ていて違う何かなのだと思います。

でも、

ほんとうに

「悲しいことに」

なんですが。

>あの日はとおく、
>美しく
>すっと守っていよう

*****

>あの頃の僕らのように ひたすら無邪気に
>笑っているのは 難しくなっても

>今なら わかる事がある
>今なら 見えるものがある

BGMは、くどいけど、やっぱりこれしかないです。

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*****

今の部分引用だけではぴんとこないかもしれないけど、

浜崎あゆみの歌詞にある、

空々しいありふれた「人生の応援歌」を超えた「何か」。

ほんとうは、すごく「悲しい」、「悼(いた)みに満ちた」歌なんだと思いますよ。

この件の続きはこちら

フォーカシング指向心理療法」を日本臨床心理士会は「心理療法」とみなしていなかったらしい(第2版)

なぜ掲載が遅れているのかといいますと、

請求した申し込み用紙の

「実施している援助技法やアプローチ」

十数項目の選択肢に、

"EMDR"まであるのに、

「フォーカシング指向心理療法」

が含まれていなかった(!)のに、

私がゴネて、むりやり選択肢を「増設」してもらう

ということをやってしまったせいもあるんです(^^;)

*****

すでに、日本心理臨床学会学会誌、「心理臨床学研究」で、

Key Wordとして、

「フォーカシング」

という用語は

「箱庭療法」

に次いで2位のヒット率を誇るみたいですけど、

実は学会の本音はこんなあたりなんですよね(^^;)

まあ、私が、日本初の「フォーカシング」を常設相談機関の名称に公然と掲げた最初の人間に過ぎないくらいだから、仕方ないんでしょうけど。

(でも、日本にはTFI認定の「フォーカシング・トレーナー」および「フォーカシング指向心理療法セラピスト」の国際資格を所持している人間が50名はいる現実があるのです!! それで開業して「食っていこう」としている人間がまだ私しかいないって、もう無茶苦茶「異様な」事態というしかないではないですか。

これじゃ、そういうトレーナー同士が時々集まってお互いに「癒し」の場を作る「貴族階級」を構成しているだけで、

この人たちは「フォーカシング」そのもので「癒される」ことを求めているにすぎないどころか、

「フォーカシング」を名目とした「場の」人間関係に癒されている
としかみられなくても仕方ない。

このギャップを何とかしないと、フォーカシングとその関係者全体が、

ただの

「裸の王様」

「『小』山の大将」

的自己満足

に浸っている人間だと、他流派のカウンセラーにみられていても仕方ないです!!

****

「学術研究」と「臨床現場」の、この「圧倒的ギャップ」は何なのか????

****

この秋の人間性心理学会大会で私が敬愛するアン・ワイザー・コーネル先生とシンポで対談なさる、関西大学の池見陽先生(詳しい情報はネット上ではこちらからの検索が便利でしょう)、

そして、今度の心理臨床学会大会ワークショップで「フォーカシングの臨床適用」について講師をなさる日笠摩子先生

をはじめとする日本のフォーカシング関係者の皆様、

この、壮絶なギャップをかかえた「現実」を

共に「嘆き哀しみ」、

共に「戦おう」ではありませんか!!

(これ、本気で書いてるんですよ!!)

「データ更新中につき、しばらくお待ちください」

.......まで検索で表示されるようになりましたね(^^;)

何か私が急かしてるみたいで

(実はこうやって暗黙の急かしてるんです!! 担当者の方、ごめんなさい)

2006/04/10

「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」の「Web版 臨床心理士に出会うには」への掲載・途中経過続編

前項で予告した

「Web版 臨床心理士に出会うには」への掲載ですが、

今のところ、「名称」と「アクセス」だけはすでに一覧表に並んでいるみたいですね。

今のところ、「神奈川県」で検索して「2ページめ(!!)」のトップに並んでいることに自分でも気づいていませんでした。

ほんとうは、このページの「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」をクリックすれば、一定のフォーマットに従った、業務内容の紹介が掲載されている独立したページにアクセスできるようになります。

それまでは、業務内容については、直接「こちら(私の運営するサイトそのもの)」をご覧下さい。

*****

なぜ、今、わざわざここまでお書きするのかというと、@nifttyココログの新規記事のpingサーバーへの送り先がいつの間にか増えていて、「この記事からの」新規の訪問者の皆様がおられる可能性があるからです。

このブログ「カウンセラーこういちろうの雑記帳」についてのとりあえずの解説はこちらにありますので、初訪問のお客様、ご参照ください)

****

このブログの、カウンセラーのブログらしからぬ、とらえようによっては「傲慢不遜」で、クライエントさんを傷つける危険すら犯しているかもしれない内容は、むしろこういうブログにするから「こそ」私をカウンセラーとして信頼して下さる方があると確信しているからなのです。

もとより、これまで書いて来たことの中に、自分でもやり過ぎたとか、いろいろ後悔したり自己嫌悪にかられる内容も含まれています(私はそれに気づかないほど鈍感ではないですよ)。

*****

ただ、敢えて重要な、ひとつの思いをここで書かせて頂きます。

ウェブ上の活動と、実際カウンセリングに来て頂けるかどうかは切り離したいと思います。

過去、実際にこのブログでコメント等を書き込んだ方と、私は、カウンセリングルームで直接お会いしたことは、「まだ一度も」ありません。

*****

すでに過去の人生経験の中で、カウンセラーや精神科医というものへの不信感の塊になった人にこそ、関心を引くサイトを目指していろいろ試行錯誤しています。

まだまだ日々成長しつづけている段階ですが、これからもどうかよろしくお願いします。

「Web版 臨床心理士に出会うには」でまもなく検索可能になる.....はずです

「Web版 臨床心理士に出会うには」は、

日本臨床心理士会運営による、日本全国のカウンセリングを受けられる組織・個人の検索サイト。

私の「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」もまもなく検索可能になるはずです。

(何日後かわかりませんが、アクセス可能になったらまたお知らせしますね)

2006/04/09

音空間のAmbienceは普通の2チャンネルステレオ機器「だけ」で体験できる!![第3版]

今回は、私が書く、初の「ピュア・オーディオ」(モバイル・オーディオではなく)についての記事となるかと思います。

そして、これから書くことは、前回まで、「ホールボディフォーカシング」やバリントについて書いたことの延長でも「実は」あります。

******

ヘッドプォン・ステレオで聴く音楽というのは。実は「音場空間」という点では、本質的に歪んだ音の世界です。

理由はいたって単純です。

ヘッドフォンの2つのスピーカーは、耳に直接かぶせたり差し込んだりする形で、しかも「向かい合わせに」音源を配置してあるわけですね。つまり、


左スピーカ→左耳→脳←右耳←右スピーカ


現実の音の空間はと言えば、一番シンプルな2チャンネル録音を設定すれば


     音   源


         
左マイク ↑     ↑ 右マイク 

      

まあ、こんな感じでしょう。


右マイクと左マイクの間の距離は、オーディオで左右のスピーカーを配置する距離と同じ、マイクと音源の距離もスピーカと聴く人の距離と同じ。

再生のスピーカーも、2つのスピーカーの傾きとマイクの傾きも一致している必要がある。

     左スピーカー 右スピーカー
       ↓       ↓


         リスナー

室内の大きさや反射音や吸音やスピーカーそのものの形状のことは、この際話がめんどくさくなるので無視するとして、

これで、2チャンネル収録のスピーカー再生なら、スピーカーの間だけではない形での音の広がりで、しかも部屋の実際の空間のサイズすら無関係に、あたかも「空間そのものが」音を出してるように、音の「前後の」定位すら含めて音が感じられるはず,,,,, ということになります。

忘れてはならないのは、

1.この場合、右チャンネルの音を右耳で拾い、左チャンネルの音を左で拾ってるだけではなくて右チャンネルの音も左耳で拾い、左チャンネルの音も右耳で拾っているということ

2.ある楽器の音が「右寄りから」聴こえるということは、単に右チャンネルの音が左チャンエルネルより「大きい」ということではなくて、むしろ両チャンネル間の音の位相成分(正相か逆相か)の配合で決まっているということ。それが、ステレオ再生におけるambience(アンビエンス。周りを取り巻く「環境」「雰囲気」)を「自然と」形成します

「だから」、論理的には、「3次元的な」バーチャルリアリティ的な音響空間は、真横や後ろ寄りからの音すら、正面2つのスピーカーのステレオ再生だけで、何のサラウンド装置や回路の介入がなくても「再現」できる!!

もし、あなたのステレオ装置が、右スピーカーより更にかなり右側、左スピーカより更に左側から音が鳴っているような体験を「サラウンドなしで」したことがないなら、本来の「ステレオ再生」のを聴いたことがないということです。

それは、多くの場合、ソフトの録音そのものの限界のためでもありますが、装置の使いこなしで、ボピュラーでも、クラッシックでも。良心的に録音された音楽ソフトなら、かなりの程度体験できますよ(^^)

それは、ステレオの音場が、先ほど述べたように、単に右から出た音は右よりから出るというのではなくて「位相」というものを持っているからです。

モノラルマイクで収録した個々の楽器の音をミキサーで右から左に順に並べる「マルチチャンネル」収録だけでは「ステレオ録音」ではありません!!

(それにしても、ここで解説されている「アンビエンス」の定義なんて、実は日本のオーディオの現状を見事に象徴する、.....な「定義」です。)

****

昔一時期流行った、人間の頭のダミーのしかも耳たぶの所にスピーカーを配置する「バイノーラル録音」ではなくて、「ステレオ録音」である限り、実はヘッドフォンのよって頭の中に形成される音の広がりはひどく空間が「歪んだ」ものになっているはずということになります。

(厳密には胴体部分すらダミーが人間の身体と同じ吸音特性を持ち、人体と同じだけの「骨電動」も頭部のマイクに伝えられないとならないことになる)。

音は頭の後側寄りに広がり、舞台中央のソロ(楽器)は、後頭部のあたりに定位されているのに、長年の習慣で「ボーカルは前!!」というふうに補正することをヘッドフォンを使い慣れた文化の人間は「習慣的に」できるようになっているだけです。

****

現実には、ミキサーやデジタルアンビエンスコントローラーによる調整によって、(ヘッドプォンで聴こうがラジカセで聴こうが、そこそこのコンポーネントオーディオで聴こうが、AMラジオで聴こうが、どんな再生装置でも「無難に」それっぽく響くように果てしのない細工をして、いよいよノイズやひずみだらけの音にする危険を犯して、たいていの音楽ソフトは供給されているわけですね。

ただ、この「危険を冒す芸当」のセンスが、日本と欧米の音響スタッフの間に、まだまだ凄い開きがある。

浜崎あゆみも■送料120円■浜崎あゆみ CD+DVD【Startin’/Born To Be...】 06/3/8この前のマキシアルバムからやっとアメリカ録音に切り替えましたが、日本の音響機器とそれを操る人の感性の多くの現状からみたら、「やっと英断したか!!」ともいいたくなります。

何かこのマキシから音が「ノーブルな品格」出始めたと感じる人も少なくないはず。でも、"Born to be..."はともかく、"startin'"にはまだまだ改善の余地あるぞーーーー!!


*****


「♪更に言うとすれば〜」、

ほんとうにいいステレオ再生ができていたら、個々の楽器の「音像」の輪郭線(特に高域端)がきこえることはないでしょう。個々の楽器は空間全体とシームレスな響きにとけ込んだものになるはずです。

目を閉じて実際のオーケストラ音楽を聴いた方、かなり前の正面の席でも、目を閉じて、どこにどの楽器があるかなんて実はほとんどわからないのが「あたりまえ」ということをご存知でしょう。空間と個々の楽器や奏者は一続きにつながっている「綾」のようなものです。

そして、スピーカーの間隔の間どころか、実際の部屋の天井や壁のサイズすら無視して、自分の目の前(というより、ほとんど身体を包み込むように)別な「異空間」が、ただならぬ広がりで広がっているのと、視覚的な現実の部屋の光景やサイズが全く一致しないことに戸惑うかもしれません。

トランペットのソロやテノール歌手の声は例外的にそれがはっきりしている場合がありますが、それは彼らの響きがで一番共振する周波数成分が、人間の耳の音の「方向性」を感知する帯域と一致しているせいなんですね。

往年の名歌手、【音楽CD】オ・ソレ・ミオ、ビー・マイ・ラヴ〜デル・モナコ・ソング・アルバムマリオ・デル・モナコが「黄金のトランペット」と渾名されたのは(もちろん彼の生なんて知りません)当然かもしれません、オペラでタイトルロールを張る名テノールには、そういう、自分の声だけで、他のすべての音響や豪華な舞台装置の存在を忘れさせ、「彼の」ambience音響空間の背景に過ぎなくさせてしまう魔力がありますのね。

******

ちなみに、センターのソロ楽器や歌手の声が、スピーカの単に中央あたりだけに広がるだけではなく、なぜか更に1メートル以上「上空」あたりに定位し、まるでステージの「かぶりつき」で歌手を見上げながら聴いているかのような錯覚に陥り、音の「上下の」空間的広がりすらある程度感じられるのが、正しいセッティングができた場合の特徴で、

これを俗に、

「音が立つ」

というそうです。

もし、あなたが、たとえば60年代頃録音のバイオリン協奏曲の録音を聴いて、オーケストラ全体よりも左右に幅が遥かに巨大なサイズのバイオリン(恐らく全長30メートル以上!!!)が、しかもオーケストラより「上空」で音を奏でているかのようにきこえることの「滑稽さ」にふと気がつき、爆笑してしまったことがあるなら、あなたは自分の感性にきわめて素直ですし、あなたの装置や装置の使いこなしは、値段に関係なく極めて「ナチュラル」な、本来の「ステレオ再生」ができています。

60年代頃の大抵のステレオ装置って、今でいう「セパレート型」ではなくて、スピーカー一体型が普通で、2つのスピーカーが数十センチも離れていない前提でミキシングかけてましたから、今風のスピーカー配置にしたら、こういう極端な音場空間になって響いて当然なんですね。

ビートルズのステレオ録音の成熟過程なんて凄いですよね。ステレオ録音になってからの初期アルバム日本盤CD RUBBER SOUL("RUBBER SOUL")は、ヴォーカルと楽器群が完全に別々に右と左のチャンネルに「振分けられて」聴こえる曲もあったりして

(でも実はちゃんとアンビエンス的音空間が聴き取れます。ただの「マルチモノ」の振分けではこう聴こえないはず。1曲1曲にふさわしいステレオ効果を必死で模索していたのがわかります。でもそれが「一曲ごとに」全然別々の形でのふさわしさを模索しているので、今の若い人がはじめて聴いたらたまげるでしょうね。どうも、曲によって楽器編成やヴォーカリストが変わるのに、楽器を演奏しながらのメンバーのヴォーカルの定位を、スピーカーの間の間隔がせいぜい数十センチの状態での、非常な近接試聴を前提に一致させたかったのではないかと思えます)

昔の日本のたいていの演奏会場(多目的ホール!!)で、バイオリンソロの音がほとんど全く「きこえない」体験をなさった記憶がある方は少なくないでしょう。そりゃ、伴奏しているオケにバイオリンをはじめとする弦楽器がいったい何十台あるかを考えてみるだけでもわかります。まして昔の日本のたいていのホールは、響きがデットで、汚い乱反射の塊で、音を観客席へと包み込むように「押し出す」ような、オーケストラを鳴らす「楽器」としてのホール設計なされていませんでしたから。

教会や宮殿にはじまり、オペラ劇場のに引き継がれる響きの中で自然と形成された伝統がなかったのだから、しかたないのですが。

*****

ライブの場合、今のポピュラー系の歌手はマイクという拡声器に依存できるわけですが、耳をつんざくエレクトリック楽器やシンセの中ですら、まずはその歌手の声の存在感が圧倒するオーラを持ちうる人がどれだけいるのか。比較健闘したことないから。ここで言葉を止めますが。

*****

というわけで、引き続いて、ついに、私の現在のピュア・オーディオシステムと、それとiPodをいかに繋ぐかをご紹介します

2006/04/07

「世界と恋に落ちる」技法

ともかく従来の関係性論には、まるで真空の中に自我やらsplitされた部分対象やらが浮いていて、「場の空気」やらた「気配」すべて主体の投影であるかのような人格図式論になってはおるまいか。

私はここである意味で、物理的・生理学的な実在論に立ち返ってみたい。しかも「宇宙空間ははエーテルに満たされている」という前近代的な宇宙観にたちもどろう。

(バリントも本のどこかで、マジに「エーテル宇宙論」を引き合いに出して、「四大元素」的な空間という「前ー対象」との関わりをベースしした、独特の対象関係論」あの、「友好的な広がり」という海の中でお魚のように生きていることを「あたりまえ」と思っている人々が多いので、「対象との空隙」を真空であるかのように感じて「生き(息)づらく」なっている人たちに、自由に泳ぎまわれる「水」として支える空間を醸成するの治療者のあり方を論じたのである。こっちが「息切れ」しない余力を確保しつつ「泳がせられる」までが大変ですが)

場を共にするは、同じ「地面の上に」立ったり座ったりしているということなのだ。そして同じ空間の空気を吸っているということで、それは相手の吐き出した呼気すら吸い込んでいるということである。我々は空気という媒体を伝染してくる音を聞くことで相手の発する「音」を覚知することがはじめてできている。

相手の体温の変化は即空気を通して私の体温調節にも影響しているはずであり、相手の皮膚や呼気から発散される湿っぽい空気を我々は実に浴びなければならない。場合によっては相手の唾の飛沫やら、あいての体臭すら吸引しており、特別な場合を除き、それら、大地と空気という媒体を通してしか他者とかかわっていない。

長野でのayuのライブで久々に自覚的に再体験したのだけれども、ステージに大仕掛けの華々しい衣装でayuがスポットライトを帯びて登場したその瞬間、ビックハットの空間には、一気にむっとするような妖しい「匂い」が立ち込めた。

そこにいる聴衆男女のフェロモンの大放出の、ほんとうにむわーっとしたすごく濃い「におい」である。香水の匂いなどではない。ほんとに、若い男女の毛穴から一気に噴出す、フェロモンとしかいいようがない。

もしこの匂いが日常空間で漂おうものなら気持ち悪い悪臭というしかない、動物的な匂いである。

そういえば、昔、映画館でも、場面がラブシーンとかになると、いつも「この」においが猛然と立ち込めたのを思い出した。

************

ホールボディ・フォーカシングでまず多くの場合立ち上がって感じるように求められている、大地のなかに支えられtりる「環境の」感覚とは、そうした空気の湿り気やかすかなにおいや室内の響き全体に支えられている自分の身体内部外部すべての感覚に身を委ねるということである。

それが、

大地にしっかり足をつけた感触を「足場」(枠)にしながら、からだまるごとそういう「世界」に身をひたし、その一ひだ一ひだのディティールを、「身体内部感覚」を含めた「五感を総動員して」まんべんなく「体感」する、ということなのだと思う。

これが、ケビンの「相棒」、ポール・ハウシルトが発したという

本の帯にもある、

「世界と恋に落ちる」

という過激なあおり文句につながるのである。

(このポールという人、芸人でも絶対食っていけるパフォーマンスの天才であることは、日本ではその片鱗しか見せていない。その、参加者を遠慮なくサカナにして繰り広げられるアメリカ風の、30分ぐらいなら即席で満場を一気に巻き込むトーク・ライブノそのアブナさについていけなくて、TFI国際会議行きをやめてしまった日本人すらいるとのことだが、実は繊細そのもののプレゼンスを秘めたデリケートな人である)


*****

というわけで、アフィリエイトは、ややなつかしの、伝説の作品でいきましょう!!

DVD トップをねらえ! Vol.2 <送料無料>トップをねらえ! Vol.2

(ああ、なんと言う不親切な解説なんだ。だから私の世代の特権で私の自慢のおまけをつけよう)

2006/04/06

PiotrowskiにおけるM反応の定義

「立っている」それどころか「寝ている」であろうと、とにかく

「なんらかの意味で『筋肉の緊張』が感じられているはすの」『姿勢』として明言されれば、たとえそれが「静止」していても、立派な『M反応』である」

そして、まさにこのPiotrowskiの解釈を捨てがたく感じ、ラージM反応の多さとフォーカシング・アビリティの高さの関連について『体験過程と心理療法』の解説で示唆したのが、我が師、故・村瀬孝雄である。

一緒にい続けるにはいつの間にか持続的にこちらも動き続けて行くに任せるしかない場合がある

これから当分、ホールボディ・フォーカシングについてすでに体験的に知っている人間にしかピンとこないかもしれないことを、お読みになる大抵の皆様には「不親切に」過ぎるほどに、「備忘録的に」時々書く為にこのブログを使うことをお許しください

(項は切り離しますが、ayuについてやオーディオ系についてもこれまで敢えて自制していたネタが、その中に「無秩序」に「乱入」すると予想されます。私の現在のオーディオ装置(予想外にシンプルですが、一種媚薬的な音の世界です)の全容と、そこに込めたポリシーの全面公開も考えていますし)

*****

「フェルトセンスとちょうどよい案配で「共に居続ける」ためには、身体そのものが結果的に少しずつ動き出してしまうことによってはじめて可能な場合がある」

このことをはっきリ指摘した点で、ケビンはアンを越えた領域に突入したそうに思える。

ただし、このことと、身体を「意識的に」動かすことや、無意識のままに動きに委ねることとの違いをほんとうに体得する前に、ホールボディ・フォーカシングは「身体が動く」ものという先入観を一度持ってしまうとむしろ厄介かもしれない。

敢えて堅い言葉を使うと、フェルトセンスというものそのものが一種の「ベクトル的」『志向性』を暗に内包しているものとして体験されることが多いことは間違いない。

それが身体の重心の掛け方のコントロールの全く自然な延長として実際の動きにもなってしまうという方が近いかもしれない。

****

あと、ケビンは、

1。grounding......自分が大地を通して「身体全体」が「世界」に「支えられている」感じ

をまずはベースラインとして十分体感できるように求める

ワークショップの通訳では「まわりに」と訳されていたけど、これは平易にしているようで、全くの「誤解」を与えるリスクの方が大きい気がする。

「『まわりに』支えられている」

では、

「周りの人に」

と言う意味に「しか」、

たいていの日本人は受け取らないではないか!!

そういう意味での「まわり」生きづらさ(「息」辛さ!)を感じてる人がカウンセリングにくるのではないか?

ワークショップに来ている人は世間の人とは違う、純粋な人、あるいは聖人ででもあるかのような幻想を振りまく訳語を私は取りたくない。


「環境に」という言語が難解なら、シンプルに「大地に」と意訳する方がいいくらいかもしれない。

本当は、バリント風に言えば、「地水火風」すべてとしての「環境」全体に支えられている感覚なのだろう。

これら「四大元素」の中で唯一、objection(抵抗、反発)のある個体であるところの「大地」の感覚を一番キーになる支えとすることそのものが、ある意味で、実は外界に対して開放系の水分とやわらかい組織でしか構成されていない、いわば「液体袋」同然の危うい「かたち」しか保ち得ない人体の感覚を味わうベースとして大事なのだ。

いわば大地を味わうことの反作用のようにして、まさに重力に逆らいながら、内蔵を支える骨格と筋肉とそこに張り巡らされた神経全体の不安定のなかにも統合を維持している「身体性」の精妙さへの信頼そのものを実感として支える上での「枠」が生まれるのだと思う。

その大地の上にかろうじて這いつくばることなく直立歩行して生きているに過ぎない人間同士の「関係性」などを基盤にしようとするからおかしなことになるのだ。

同じ大地に支えられ、かついろいろ苦労しながら引力に無理な抵抗をしながらかろうじて調和を保っている生き物であるに過ぎないことをそれぞれに体感しあっているというベースの上にしか「人」と「人」との関係性など論じ得ない。

幸い「大地」という言葉は「地面」などという無愛想な訳語に比べても、「自然の風景」の連想と結びつき易く、輪郭がないけれども実は生きて(息して)いくのに不可欠な風(=空気)や湿り気(=水気)全体を結果的に感受させてくれるという点でも「実用的に」好都合な訳語ではなかろうか。

****

1.この「大地に」支えられた「身体全体」という感覚、

そして、

2.身体への「まんべんのない」感覚-する-こと

3.そして、私流に言葉にすれば、その「身体全体の」感覚の中に生じてくる「局所的な感覚」の「所在」を認知して、それがその「生き場(行き場)」を自ずから在るがままにを許してあげて
おくこと

この3つを3重構造、およびこれら3つに交互に「平等に漂う注意」を向け続けるとした点、にケビンの技法の大きな鍵がある。

しかし、後2者のためには、実は、最初の「大地に」支えられている身体全体をじっくり味わうというベースラインをしっかり味わえることこそが決定的なのである。

私はこの最初の部分を集団でワークした際、その直前までは気になっていた身体の局所的な痛みなどは、消えはしないものの。背景に退き、全く思いもよらない「別の」身体の部分に、それまで感じたことがなかったような質の局所的な非常な苦痛が鮮明化してくることに当惑した(しかしこうしうたことがむしろごく普通であるとケビンも書いていることを後で知ることとなる)。

次のようなことが私にワークの現場で生じたのだ。

「頭痛」は気にならなくなり、左腕の付け根の強烈な凝りと痛み。まるで左腕だけが別の生命体として「ちぎれかかりながら」機能しているような。

それに耐えかねて、午後のデモ・セッションに私は遠慮なく志願することにしたのである。

私の身体が、私がこれまで体験したことがないような形で、私の心身の苦痛を体験しているという感覚は、それほどに「斬新な」ものだったのである。

それはケビンとのたった10分ほどのセッションで、身体に「何か」がはじまった。収拾し始めた。

*****

しかし、それは「はじまり」に過ぎなかった。

私はそれから一週間、ほとんど寝たきり状態で、背中の敷き布団の接している面に「支えられている」感覚、むしろそれを「苦痛に」感じている「部分」それぞれを認めてあげながら、身体のあちこちにに刻々と手を変え品を変えて生じるさまざまな生理学的な変化の感覚を次々とただ味わい。受け止めていく過程に「身を委ねる」しかなかったのである。

そして、やっと3日前になって、唐突に気分的には、長らく体験したことのない安堵と静けさに「抜けた」(身体の一部には、厄介な症状が丸一日続いたが、家にいる限りは特に困らない症状だった)

そして、タンノイの前に落ち着いて座って

「ああ、これがこの家で味わいたかった念願の居心地だ」

としみじみ感じながら、音楽を静かに流しながら1日かけてケビンの本を読んだ。

(さすがにこういうときはayuはかけません。クラシックです)

****

書いてあること、すべては、私の体験したとおりだった。


2006/04/05

ホールボディ・フォーカシングこそフォーカシングの現段階での極北を含んでいる!!

とりあえずは、左サイドの書評欄の「檄文」を参照ください!!

(一度これくらい書かないと先に進めない!!)

ホールボディ・フォーカシングホールボディ・フォーカシング -アレクサンダー・テクニークとフォーカシングの出会い- 著者:ケビン・マケベニュ /土井晶子 出版社:コスモス・ライブラリー /星雲社

とりあえず、これも参照。

年度はじめの辞

ここしばらく、自分のライフスタイル全体をこれまでとは異次元のものに変えていく必要に迫られ、ネットの方もお留守になるばかりか、職場への電話連絡などでも、ご迷惑をおかけした皆様が決して少なくなかったようで、ここにお詫び申し上げます。

その過程で、今後人生で繰り返し出会うことはまずないかもしれないくらいの、いろいろなことを「しのぎ切り」、気づかされることになりました。

おそらくそれについては、私の責任で書ける範囲のことは、ここでむしろ皆様とシェア(共有)させていただきたいと思います。

******

もっとも、その結果として生じた現状は、体調の(空前の乱高下の末の)安定であり、新たな幾人もの人との出逢いであり、新たな興味と関心の対象との出逢いであり、私の専門とする心理臨床へのスタンスの変化であり、フォーカシングについての新たな可能性との出逢いでもありました。

それについては折を見て、少しずつ何らかの形で、ここで言葉にしていけそうな気がしています。

自分がこれまで書いてきたことを、「今の」自分がどう「とらえなおして」いくか。まるでばらけたパーツをもう一度くみ上げてみたら、ずいぶん違う形でその部品が再利用される形になるかもしれません。

それは「片手間」ではできない、「手間隙(てまひま)」かかることになりそうです。


相変わらず、このアルバムが今一番しっくりくる私です。

●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)浜崎あゆみ/Startin’/Born To Be...(DV...浜崎あゆみ/Startin’/Born To Be...

このアルバムに収められた3曲目,"teens"、何とTRFのカバー曲なんですが、これぞまさに今のayuの心情であり、過ぎ去った時代を振り返る私の思い、そして、これから星空の下、私と同じ時代を共に生きるかもしれない人たちに捧げたい、大事なものが含まれているとおもいます。

"HEAVEN"とこの曲のアコースティックバージョンを長野でナマで聴いたとき、コンサートの後半で(!!)バラードを歌うときのayuのライブでの魂を揺さぶるインパクトと精妙さがここまできたか、「これはもう録音媒体には収まらない」と感じました。

■送料無料+10%OFF■浜崎あゆみ DVD【ayumi hamasaki COUNTDOWN LIVE 2005-2006】3/23発売今年のカウントダウンのDVD、つい先日聴きましたけど、おそらくayuの過去最高の「記念碑的」ライブ記録でしょう。

紅白の直後に、たった一回の取り直しの効かないライブで、最後までここまで完全燃焼しても燃え尽きない彼女。

こんな彼女に何がしたんだろう? 

ここまで、あまりにも抜きん出た領域に突き抜けて、それでも走る余力を残した彼女は、

なのにもう、「何かを背負った重さ」から解放されているのだ。

これは、騙されたと思って、買って決して損はしません。

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