皆様、よいお年を
結局テレビだけ結線して、紅白は生で見て、録画は再放送にすることにしました。
マンション全体がつい先日地上波デジタルになったばかり。
もっとも、今すぐそのためのコンバーターに投資する余裕はないので、アナログ変換結線だけで観ます。
(それでも映りは確かにいいような気がする)
毎年恒例ながら、ayuは9時過ぎみたいですね。
それでは、皆様、どうかよいお年を!!
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結局テレビだけ結線して、紅白は生で見て、録画は再放送にすることにしました。
マンション全体がつい先日地上波デジタルになったばかり。
もっとも、今すぐそのためのコンバーターに投資する余裕はないので、アナログ変換結線だけで観ます。
(それでも映りは確かにいいような気がする)
毎年恒例ながら、ayuは9時過ぎみたいですね。
それでは、皆様、どうかよいお年を!!
HEAVENまでやっと追いつきました(^^;)
この後職場に行って、歳末の買い物の必要もあるので、ちょっと前ふりだけ。
このマキシシングルほど、私がayuの曲を「はじめて」聴いた時に、「最初の一撃で」深い感動に襲われ、30分ぐらい呆然とさせたれた体験はなかったということ!!
ayuはこの曲で完璧に新境地に「到達した」と思います。
やっと、新しいスタッフとayuの意思疎通も完璧になり、編曲や音響全体を含めて、ayuは全く新たなステージに「突き抜けて」しまった!!
ayuは見事な「成熟した」大人の歌手になってしまいました。
もう、ayuは、少なくとも山口百恵や松田聖子や中森明菜がまるで手の届かなかった領域に進めてしまった。
ライバルはもはや、はるかに年上のみゆきだけ?日本の宝です(^^)
もう、売り上げがどうのなんて全然関係ない!!
ベートーヴェンですら生前に有名たったのは、
「七重奏曲」(これは確かに初期の飛びぬけた名曲)、と、超ウルトラ駄曲の
「ウェリントンの勝利(「戦争交響曲)」だけ...前者は、クラシックに縁の遠い皆さんも気づかないうちにどこかで聴いてます.が、後者は、たいていの皆さん、名前も知らないし、聴いたこともないでしょ?)
マキシアルバム全体の完成度も異様な、かつてない高水準と思います(とりあえずこの記事も参照)。
*****
これで納得しました。
まだ未聴ですが、
次のフルアルバムまで思ったより短期間であっさり行き着けたこと、当然!!
ジャケットの、何とも自然な笑顔にも納得です!!
2006年のカレンダーの一枚一枚の写真も、はっきりいって2005年の、表情を殺したまるでお人形さんみたいなのより、よほど自然で屈託ないですものね。
何か、写真の表情だけで、ほっとしているayuを感じるんです。ほんと、この2年ぐらい、公私共に、、そして何より、5thアルバム
"RAINBOW"を超えた音楽的領域の探求にたいへんだったろうと思う。
お疲れ様。
そして、おめでとう!!
******
ともかく、1曲ごとに、編曲や詩を含めて、ものすごい成長の「勢い」があるのです
それが聴衆に伝わらないとすれば、あまりに高性能になったayuの録音の良さを生かせない「日本のオーディオメーカー」が悪い!!
忘れないでね。iPodですら「工場」は中国にあること。設計者の感性がすべてです!!
別にかっこつけたくてすべて欧米製の機器になっちゃったんではない。安くてもずっと「音楽的」なんだよ、向こうの製品の方が!!
(細やかに補助電源とヘッドフォン選定にこだわり続けたiPodで聴いてる私の音を周囲に聴かせたらみんなびっくり仰天しますもの)
*****
恐らく、
"SURREAL"を踏切台として、ayuにとって圧倒的な跳躍を果たした、4thアルバム
"I am..."を、
次のフルアルバムでは完璧に超えて、「最高傑作」になっているだろう、と、安心して聴くのを待ってられます!!
(おい、早く届けろよ、やっぱり年越しか? AMAZON!!)
さて、お待たせしました。
Little Non のメジャーデビューのマキシシングルCD、「あきらめないで」をやっと入手、実際に聴くことができました。
(それにしても、私がここで宣伝してしまったせいか(???),私がアフィリエイトしている楽天系の店やTSUTAYAにももう在庫がないみたいなので、最後の手段、Amazon(ここもアフィリエイト先ですけど)から引っ張ってきました。これで中古まで含めれば当分在庫切れの心配ないでしょう)
(誇大妄想? いえ、私のシミュレーションでは、今回は確率45%、私の宣伝効果が波及して数少ない年末在庫がすっ飛んだ可能性ありかと.....)
年明けになれば楽天系でも入荷があると思いますが。
*****
表紙はタイアップした
アニメ「はっぴいセブン」で、いかにもアニメ主題歌CDの体裁なんだけど、それ以外のページはあくまでもシンプルに、「Little Nonのマキシシングル」してて、しかも経歴とか、余計なことは何も書いてないあたりに、
「ホントは歌で勝負なんだ!!」
という気概が感じられて、清々しいです。
全部がヴォーカルのNonことノゾミの作詞、作曲、編曲というわけではなく、バンド全体で作っているのでしょうが、主導権は彼女でしょう。そうでなければ、街頭で「カラオケ」バックにPAなし、観客がいなくても全然平気、というところまで開き直れない気がします。それにしてもいきなりここまでというのはものすごい洗練度ですね。ちょっとここまでくると
「完成度が高すぎるのが弱点」
といいたくなります。
録音も、特別に良くはないけど、後で述べる一点を除いては水準クリアでしょう。音抜けが良くてたいへん聴き易い。
クラシックでいうと、バイオリニスト、
五嶋みどりのデビューの頃のCD思い出しちゃうんですよね。
****
まず、私がアキバの街頭で聴いたのは、メインテーマの「あきらめないで」で間違いない気がします。歌詞が明らかにこんなのでしたから。
ただ,PAなしのナマを目の前で聴いてるからわかるんだけど、ヴォーカルの音の取り方が、ありがちな無難なやりかたというか、レンジ控えめで、かなりダイナミックレンジにリミッターかけて、恐らくソニーあたりの近接マイクで「直接音のみ」収録しているため、あのPAなしの街頭でも「異様に通る声」のオーラがこじんまりととしてしまっているんですよね。これはもったいない。
彼女の声がPAなしでも雑踏ですら響きが通る背景には、「身体で」声を響かせることを会得しているということがあるはず。そうなると実は、一見素直でピュアーなな声なのに倍音成分が凄く豊かな声ということのもなるわけで、声の人工的なステレオ・エコー処理などもっての他ですが、できれば声そのものを近接でもいいから2チャンネルで、口先ではなくてややのど寄りに焦点を合わせて、しかもゼンハイザーとかkossみたいな欧米系のマイクを使ってみてはどうでしょう。
「口先だけ」集音するのではだめなんです。何か彼女が「口先だけの」マイクに向かって必死に声を「吹き込んで」いるさまが目に見えるようなんです。逆に言うと。マイクの使い方という点では、まだキャリアが足りないということにもなるでしょう。
ayuなんて、大舞台のあんな大音響の中で、何とマイクを通さないayuの「ナマの声の倍音成分」がPAとコンマ数秒ずれて、かなりうしろの席ですら「聴き取れる」のです!!
でも、音程の異様なまでの良さ、長く伸ばす音での息の長い持続力の片鱗はCDでも聴き取れます。本当にストレートな声で、avexが「量産」しては萎(しぼ)んで行く、一見「個性的な情緒たっぷり」だけど、ライブでは通用しない声のために「一発屋」で終わる、かわいそうな歌手たちのように、avexの売り込み戦術のベルトコンベアーに載せられた「演出された声」ではない。
(結局この壁を真に突破できたのは、ayu以降では、そんなに宣伝投資は当初しなかったらしい大塚愛だけではないですか)
****
しかし。彼女は自分の声の「真の」持ち味をよく理解して編曲してますね。
曲の全体の3分の2進んで、キーをハイのほうに転調する、
> あの日出逢ったこと
のあたりで、敢えて伴奏パートをほとんど裸にしてしまい、しかもピアニシモの抑制された、一部裏声も取り混ぜたハイ・トーンで、すごく繊細な歌い回しを披露して、聴き手を「はっと」させる。
クラシックの世界でいう、「ソット・ヴォーチェ(Sotto Voce)」(=イタリア語で「ひそやかに」)な歌い方の部分を「聴き所に」できる!!
そのことを本人は完全に自覚して編曲しているんですね。このへんは現状での「自分」の真の持ち味が見えているということ。このこと自体凄いセルフ・プロヂュースの才能が隠れている気がする。
そして、私の知り合いが、
「彼女の凄いのはバラードかうまいことだ」
と言っていたのは、2曲目の「止まらない雨」で大納得。
すげえよ、それこそプロの感性豊かなバイオリニストみたいに、細やかに声の抑揚をコントロールし切ってるんだから。
*****
3曲めの「明日また会おうね」でも、
> たとえ明日世界が 終わってしまっても
> 後悔しないくらいの ステキな今日をありがとう
私は先日の記事で、
「たとえ明日地震で死んでも、後悔しない人生、生きてますか?」
と書いたばかり。
見かけからは想像もできないくらいに、彼女はこれまでもしたたかな生き方をして来て「突き抜けた」人生送って来たろうな、と私は想像します。
一見、何か凄く「健康的」過ぎるくらいにピュアーで、聴いていて「照れくさい」と感じる方は、「何か」を聴き落としていると思いますよ。
****
だから、アニメ音楽では老舗のキングレコードさん、彼女をアニメの枠にとどめないで欲しい。そして、彼女とバリバリ衝突していいから、最後には彼女のやりたいようにやらせてあげて欲しいと思います。
どうみても、ここで終わる「器」ではありません!!
「(精神療法家は)治療にロマンを求めてはならない」
「なぜ精神療法家を生業(なりわい)としているか? と問われたならば、ただ、『日々の糧(かて)を得るため』と答えられるべきである」
「精神療法家がいい仕事ができるのは、若くて貧しくて無名なうちである」
「恩師に若い頃言われたのは、『あなたの持つ、きらびやかな部分を、周囲に出し過ぎないように用心しなさい』ということだった」
******
私の敬愛する、日本の生んだ稀代の精神科医、中井久夫先生のいくつかの著作
で、
先生自身「ひとつの逆説」と断りつつ述べておられる言葉から幾つか選んでみました。
私の「座右の銘」です。
*****
次こそ、Little NonのCD評です!!
(何となく、Nonの音楽の話題に入る前に、書いておきたくなったので)
先日開設1周年を直前にした総アクセス3万突破をご報告したばかりですから、これは必然の成り行きですが、無名の一カウンセラーが立ち上げたブログが+、まずは「1日平均100アクセス」に到達するまでは、結構大変なのは、わかって頂けるかと思います(^^)
現実には、ここしばらくは、1日200アクセス、週間で1400アクセス前後の方にご来訪いただいて、はじめて達成された数字です。
ブログ「カウンセラーこういちろうの雑記帳」、これからもどうかよろしくお願いいたします。
****
ちなみに、次の次の(改訂^^;)記事は、お待たせの、Little Non のCDの感想です!!
ちょっと、数日遅れのニュースになって申し訳ないのですが、私は今日になってやっと「いなほ」号の大事故のことを、JR大船駅のコンコースを東口側に数日ぶりに買い物に出る中で、駅の掲示板ではじめて知りました。
実は私はもう長らくテレビは見ていませんし、新聞も取っておりませんので、MSNのトップページなどのニュース情報の見出しにうまくめぐり合わず、気づかぬままになっていたのでしょう。特にここ数日、FirefoxではないMozziraの英語最新晩版を、安定度の高さという点で見直して、ブラウザとして使い続けていたので、なお気づきにくかったのでしょう。
私は11月に弘前に経由で青森を経て北海道に行ったときに、(今回の事故とは別の号ですが)上りの「いなほ」の車体を実際見たりしているので。
私は、この程度の「縁」であろうと、特に鉄道事故となると気持ちが揺らされてしまいます。
お亡くなりになった方のご冥福と、負傷された方、そして高速道路での事故などを含めて、ただでさえ悪天候の中、こうした事故の影響で、日々の生活や帰省に影響が出ておられる皆様へのお見舞い、謹んで申し上げます。
(最初書きかけのまま手が滑ってアップされてしまい、失礼いたしました)
私の「本部」ホームページ、「阿世賀浩一郎のホームページ」(まんまやんけ!)は、このホームページを開設した1996年(そうか、もう10周年になるんだ)以来使用している、由緒正しきトップバナー
を使用し続けております。
そして、実は、過去のアップロードのかなりの程度の部分を削除して再構築しただけですので、実はあちこちにリンク切れがあるばかりか、それこそRPG的なラビリンス構造で、「過去の遺産」を掘り当てることが可能になっています(^^)
少し具体的に言いますと、
「エヴァンゲリオン論考」
「レタールーム」
「ロベルトの部屋」
はすでに全く痕跡がありません。
しかし、
「ち-ちゃんの部屋」(ああm懐かしい響き!!)の、私の「アニメ論集成」のページには今も行き着けますので。
どうか、
オーソン・ウェルズの映画「市民ケーン」(そうそう、これも絶対生きている間に見ておくべき名画ですよね)とかの主人公になったつもりで、探してみてください(^^;)
などと、またもやコメント繰上げネタですみません m(_ _)m
さて、対人恐怖気味の人の陥りがちな、認知と行動の特性は、一言で言えば、
1,「最悪のシミュレーション」と「楽観的なシミュレーション」の
二つしかしないこと。
2.シミュレーションばかりして、現実の行動としては、ひどく受身で消極的であることにあります。
具体的に例を上げると、
ある典型的なオタクファッションをした人が、街を歩いていて、通りすがりの2人の女の子が、すれ違いざまに
「嫌ねぇ」
といわれたように「聞こえて」、ズキンと傷ついたとします。
さあ、彼の頭の中で何が始まるか?
******
{仮説1}あ、やっぱりこんな風体でこんなむさい顔立ちしかしていなかったら、オタクだと「見破られるん」だ
→「自己嫌悪」、
あるいは、
「どうせ俺はオタクだよ!!」という「自己嫌悪的開き直り」、
あるいは
「最近は典型的なオタクファッションではない、むしろ凄くカッコのいい人とか一流企業に勤めるバリバリのスーツ来たビジネスマンがオタクのことなんていくららでもあるのに、認識不足ですね。ああいう人たち」
という、「話題のすり替え型開き直り」(その人がほんとにファッションに凝る時や、一流企業に勤めているのなら、当然こう思う資格アリですが)
*****
{仮説2}いや、あれは僕についての話ではないはずだ、空耳か、そうでなくても、僕ではなくて、きっと僕とは全然関係ない女友達の噂話か何かずっとしていて、通りすがりざまに「嫌ねえ」の部分だけ聞こえただっただけなんだ。
→世間の人がいちいち自分なんかに関心向けるわけないよ。そういう思いに一瞬でもとらわれた僕の方が、実は「自意識過剰」なだけなんだ」
******
{仮説3}仮にあの女の子たちが僕のことを指して「嫌ねえ」と言ったのだとしても、僕は特に何の「損失を被(こうむる)わけではないではないか。通りすがりのあの人たちと僕は2度と出会わないかもしれない。
ましてや、僕は決して浮浪者のような風体をしていたわけでもないから、10分後には彼女らの脳裏から忘れ去られ、喫茶店での話題に種にもならないだろう。
→むしろ、ああいうことを言われたと「感じる」たび、傷ついて半日も落ち込んでしまう自分の方を「困った奴っちゃなあ~」と『苦笑』しながら笑い飛ばせるぐらいが、自然なあり方なのではないか」
*******
さて、今のを読んで、あなたはどう感じますか?
A.「そこまでいろいろ考えるわけ? 疲れる奴っちゃな~」
B.「僕は{仮説1}の最初のところでいつも堂々巡りしていた。こんなにいろんなとらえ方が可能とは気づかなかった。視野が広がり、参考になった」
C.「そういうふうにいろいろと考えてみると、『その時』は少しは気が楽になるんだけど、結局、気がついてみると自己嫌悪の堂々巡りに舞い戻っちゃうンですよ。『似たような』場面に遭遇すると、また半日ぐらい落ち込んでしまって、出口がないんです」
私は、多かれ少なかれ、感想はこの3つのパターンのどれかに当てはまる確率、70%とシミュレーションします。
*****
思い込みに走りやすい人というのには、実は「ものすごい脳のパワー」の持ち主である可能性があると思います。
そのパワーが、いわば「エンジンは優秀」でも、それを車軸に伝達する部分やハンドルなどの他の部分がそのエンジンの性能に追いつかないでいるために、「レース完走」できないFIマシンみたいなものと考えればいいと思います。
いわば、シャッターが下りたガレージの中でのアイドリングだけしかできないうちに、一酸化炭素中毒になってバテるようなものですね
そのエンジンのパワーをもっと「有効活用」することは、かなりの場合に可能なのではないかと思います。
ですから
一方の極に
「一度『特定の』思い込みにとらわれると、ひたすらそっちの方向に突っ走る、『硬い心』だけど『ガラスのようなもろさ』と背中合わせのタイプの人」
がいて、
他方の極には、
「一つだけではなくて、さまざまなシュミレーションを、
白、黒、抹茶、赤、青、黄色、金銀パールプレゼント!!(古い)
とばかりにあれこれ考え直してシミュレーションしてみることをどこかで『楽しむ』境地に達するばかりか、
「しかし私のシミュレーションは、私がただの不完全な生身の人間である限り、決して完璧では「ない」に違いない。
でもそいれでもいいじゃん!! 自分のシミュレーションを超えた思ってもみない事態に直面するたびに、僕の「経験値」は上がり、次の場面では更にシミュレーション能力に磨きがかかるわけだから、「予想外の展開」大歓迎だ!!
シュミレーションを超えたことが次々起こるにどのように対応していくか、こそ、人生の「スリル」だし、生きる「醍醐味」ではないか」
........とまで開き直れる、
「柔軟で臨機応変で、数手先まで様々なシミュレーションをしては現実に行動し、刻々と修正していく、実は『タフな』タイプ」
を両極端にしているのではないかと思います。
今の部分を読んでいて、宇多田ヒカルの
"Beautiful World"の、
どんなことでもやってみて
損をしたって、少し経験値上がる
という歌詞を思い出された方もあろうかと思います(^^)
後者の『タフなタイプ』はこあ~いですよ。
一見お人よし(状況を観察し、掌握するために、まずは「場の雰囲気」に逆らわないで多角的に「サーチ」をかけるから)、ところがいざとなると、数手先まで、普通の人か考えないような可能性までシミュレーションして、ことに臨むから、何が起こっても冷静、
しかも予想外の展開になったらいよいよ、
「自分の実力を伸ばすチャ~~~ンス!!」
といよいよ元気になり、むしろ醒めたまなざしで、脳力100パーセント「やっと」使いはじめる余裕を残している。
創造性が高いし、他者への共感能力も高い。
そして、
いざとなると、
涼しい顔して、「権謀術枢」の限りを尽くす、隙のない「策士」
となる。
******
もちろん、
このようになれるためには、何か不可欠な"something"かあるのではないか?
というのは認めます。
でも、一方には、
「これを読んだだけでもモヤモヤが少し晴れて元気が出てきた」
と感じて下さる読者の方も少なからずいることを、私は信じています。
******
以上、BGMは、浜崎あゆみの
"GAME"および
"Inspire"、
および、少し渋いところで、PSY・Sのアルバム、
の冒頭曲、
"Simulation"
でお送りしました(^^)
******
こういう「ゲーム」や「シミュレーション」を『空しく』感じる人と、『人生のスリル』と感じる人の違いは何か?
このことこそ、ほんとうの"something"なんですよね!!
私は、「シミュレーションし尽した」
という
「自己愛的引きこもり(ユング風に言えば、「孤高」に酔う「自我肥大」)を「超え」、
自分の「孤高」意識の背後にある「寂しさ」に直面しつつ、
その寂しさに「もう一人の自分」が、やさしく『自己共感』できること
と、
「何か」関係あるはず、とは思います。
続きを読む "「思い込みが過ぎる」ことを、実社会を生きるしたたかなシミュレーション能力に「変換」させよう!!(第5版)" »
「こころ相談.com」での私の「カウンセリング特集」第1回、2週間の掲載期間終了しましたが、実は検索すれば今後も同じ記事を引き続き読んで頂けます。
A ルート:
「カウンセラー検索」で「相談分野・地域から探す」をクリック、「ご相談方法」の「面談」にチェックマークを入れ(これを忘れやすい)、さらに「面談場所」として「神奈川県」を選んで頂くと、私のカウンセリングルームについての紹介コーナーに出ます。
B ルート:
「カウンセラー検索」で「一言メッセージから探す」をクリックすると、今のところかなり上段に「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」はリストアップされています
そして、いずれのルートも場合も。最後にその一番下の「カウンセリング特集」をクリックしてください。
*****
このサイトって、絶対パスリンクを張れないように設計されていますので、ごめんどうですが、以上の手順でよろしくお願いいたします。
私は、子供の頃、テレビの
「巨人の星」(本放送)を見ていて、
子供心に、星と花形が「ライバル」だという科白が出てくるたびに、
「そうか、二人は『親友』なんだ」
と思っていました(^^;)
*****
でも。物語全体をを「素直に」受け止めていたら、そう感じられますよね!!
「ライバル=親友」
これで「巨人の星」全体のテーマって、語り尽くせます。
左門豊作、オズマ、中日に移ってからの伴宙太、結局みんなそうじゃないですか!!
どれくらい前でしょうか。秋葉原で、二十歳ぐらいの女の子が、たった一人で、MDラジカセみたいなので伴奏を流しながら、歌っていたのをよく覚えています。
なせなら、その子のPAなしの声は恐ろしく通る澄んだ声で、この子がアマチュアだとしたら、とんでもない水準の声だったからです。
完璧に、普通の街頭ライブの水準を超えていました。
その時は誰も聴衆はいない。
でも、彼女はそんなこと全然気にせず、せいいっぱいの声で、明るい顔でうたい続けていたのです。
「この子、才能あるよな、凄いオーラのある声。
プロになれることを祈っているよ」
と心の中で思いつつも、滅多に都心には出なくなった私の、仕事のついででの、限られた時間の範囲内でのアキバでの買い物でしたから、少し遠くの方からほんの2分ほど足を止めて眺めていただけでした。
*********
ある知り合いと、最近話をしている中で、偶然、
「あなたの『元・ご学友』の娘さんがメジャーCDデビューしてますよ」
という話をその人の方から私に振ってきました。
詳しくその歌手の話を聞くうちに、私が最初に書いた記憶と、その女の子が、完全に一つになりました。
これは、「思い込み」ではなさそうだ。
***
私は、その娘さんの「親」にあたる方の「同級生」で、同じ「文化部」にもいたことがあるんです。
卒業後、その「ご学友」と一切連絡を取り合ったことはありません。
しかし、その人が在学中からライブ活動をしていたことは知っていました、私の当時の「他の同級生」(さっきの人とは別人)には、実際にそのライブに行って来た人がいて「こんな感じだった」という話まで当時聴きました。
****
そうか、
「親子2代で....ついに夢がかなったんだね」
私は深い感慨に耽りました。
*****
でも、きっと、
私の「元ご学友」も、その娘さんも、こうした私の感慨を知ったら、
きっと次のように答えるでしょう。
「それこそあなたの『思い込み』ですよ。
娘(私)は、ただ、自分の行きたい道に自分の力で進んでいっただけなんです」
と。
すでにインディーズの世界ではかなり知られていたらしいですね。
メジャーデビューの機会をつかんでも、
どうか「己れの信じるままに」
たくましく、したたかに、自分の道を進んでください。
****
それこそカウンセリング業界の「インディーズ」から再出発している、私からのメッセージです。
****
だとえ薄い縁とはいえ、親にあたる人の「知り合い」だった私がこれ以上のことを書くのは「タブー」だと思ってますから、これ以上のことは「一切」コメントしません!!
むしろ曲と歌の感想を忌憚なく書くことこそ、ご本人もお望みでしょうから。
トラックバック張りたい人も出てくるでしょうけど、そういうわけで今回は、ご本人および親御さんについての一切のコメント、トラックバック、お断りさせていただきます。ゴメンナサイ。
他の記事の場所でのコメント、トラックバックも、好意的反応であっても、「歌手Little non」の音楽そのもの「以外」について「一言でも」言及したものについては、原則として、見つけ次第削除します!!
この記事の固定リンク(絶対パスリンク)を利用していただく分にはフリーです。
これはayuファンはとっくにご存知かと思いますが、
China Princess Orchestraという、中国の3人の女性古楽器奏者をシンセでバックアップしたグループによる、浜崎あゆみのヒットメドレーのCDがすでにavexから去年発売されていたんですね
(などと、完全にここしばらく、ayu情報音痴になってたのバレバレですが)。
日本でもこの種の、クロスオーバーな試みをするクラシック系奏者や伝統音楽奏者は何人か著名ですが(といっても名前がすぐに浮かばない)、このCDを、ayuのオルゴールCDなどと同列の安直な試みと思っていたら大間違いです。
演奏者はみんな中国の古楽コンクールで優秀な成績を収めた、無茶苦茶に演奏技巧の高いお嬢さんたちです。
しかも、ライナーノーツを素直に読む限り、これはavexからの持込み企画としての臨時編成団体なんかじゃないんですよね。
現代における伝統楽器演奏のあり方について以前から真剣に模索していた中国の大物プロデューサーが練り上げてきた演奏団体が少しずつメンバーを増やしなから成長していく歴史があって、いわば「国際デビュー」のCDを作るために、アジア圏で絶大な人気を誇る浜崎あゆみに目をつけ、どっちから声をかけたかわからないけど、avexから公式にCD発売に踏み切るという、かなり長い時間的経過を経ているようです。
私は、浜崎あゆみのオーケストラやアコースティック・バージョンは必ずしも成功していないものも多いと感じていました。
だだし、
3rdアルバム"duty"の曲を中心とした
これがまずは例外。
全体として凄く編曲が成功している(ayuの声の音源のみ"duty"のものそのままで、しかも盤質の悪い"duty"よりayuの声が透明でクリアーなのは、HDCDデコードなしでも十分に堪能できます)。
まず、オーケストラをバックとした"SURREAL"は壮大で素晴らしい!! よくぞ、オリジナルの超独創的な編曲と拮抗できる世界を作れたと思います....というか、原曲の超独創的な曲の構成を基本的に崩さない限り、さまざまな編曲を許容できるだけの「強い」曲だと思います。
私は、"SURREAL"を、ベートーヴェンでいうと
「運命」交響曲にあたる、ayuが一気に不朽の領域に突入した名作と思ってますので。
あの、ayu個人にとって特別な思いがあるゆえにフルアルバムでは聴けない、知る人ぞ知る超名曲"ever free"は、オリジナルよりこちらの簡素な伴奏の方が、よほど胸に響きます。
あと、
”No way to say"のマキシ
シングルに入っている"No way to say" "SEASONS""Voyager""Dearest""のアコースティックバージョン、
そして、
"HEAVEN"のマキシシングル収録の"HEAVEN""alterna"のアコースティックバージョンは、いよいよ実に素晴らしいんですが。
******
.......なもんだから、そんなに期待せずに聴き始めましたが、
おったまげました!!
古楽奏者の演奏が出鱈目にうまくて、とてもムードミュージック的に聞き流せない。私も先日弘前で生で聴いたばかりですが、津軽三味線の名人の演奏に圧倒されるのと同類のテクニック!!
******
これだけなら、
「女子十二楽坊」とか先例があるではないか、結局あれの二番煎じだろ、ということになります。
いえ、私が更に驚いたのは、
「編曲が驚くほど自然」
ということです!!
もともと日本調なのが明白で、ライブでもそういう演出をするのが恒例な"Moments"が自然なのは想像できるでしょうが、
"Inspire""Fly high""ourselves"がパーペキだ!!
といわれたら、聴いてない人は想像できないでしょう。
******
実は、ayuの曲のメロディって、
原曲をオリジナルアレンジで聴く私たちが普段感じているより、
よほど「東洋的な」響きの上に成り立っていることが多い、
ということに逆に気づかされてしまった、
それが私の衝撃でした。
iPodを使って中島みゆきを聴く人は、Appleのデータベースではみゆきが"World Music"に分類されているのをご存知でしょう。
ayuは"Rock"か"J-POP"です。
でも、
実は、ayuも"World Music"に分類されるべきなんだ!!
これが、私の新鮮な「大発見」だったのです。
ayuの曲を聴く視点が広がりました。
この記事は、ここで頂いたコメントへのコメントとして書いたものの改訂版です。
(このやり方をすると、コメントしていただいた方が私のレスへの再コメントしにくくならないかという心苦しさもあるのですが、どうかお許しください。再コメント、あるいは他の方の新たなるコメント、歓迎しています)
*******
昨晩はイヴにも関わらず、現在の私としては夜までかなり忙しい日だったもので、思わず
中森明菜のCD流しながら寝入っていて、深夜起き出して、この記事の原型になるコメントを書いていました。
(なせ明菜かって? 先日の記事で
「禁句」
という言葉をタイトルにしたからだったりする(^^;)
(もちろん、中森明菜の歌は「禁句」ではなくて「禁区」です。わざとこうしたあたりに作詞者の感性が光っていますね.。
もっとも、この曲は上記のCDには入ってませんので、久しぶりに「禁区」をききたくなった方は
こちらをどうぞ)
営業時間午後から夜までなので11時に起きれれば徒歩10分のオフィスにたどり着くので、どうしても一般の人と生活時間自体に「時差」ができてます
(^^;)
*******
「嫉妬」とか「羨望」というのは、ある意味で複雑でどろどろとした感情で、自分でもそれを直視するのが最も嫌な感情の一つと思います。
恋愛に限らず、恐らく人と人との感情的ないさかいの大半には「嫉妬」という感情が絡んでいる、
ととらえて説明しようとほとんどそれだけで説明可能なくらいですよね。
極端にいえば、戦争すら「嫉妬」を原理として生じていると説明することも容易だし、
恋愛や友達付き合いですら、「この人は私にない何かを持っている」という。隠れた「相手自身への」妬ましさを背景として生まれることがあると思います。
自分にないものを相手が持っているという「幻想(思いこみ)」が「お互いに」うまくかみ合うと、同性でも、異性でも、妙にかみあう深い人間関係になることがありますよね。
二人で行動すればお互い弱点を補い合える、みたいな「相互補完的な」同盟関係といいますか。
あるいは、一方が他方をうらやましく思っていて、その相手の方は、そうやって自分を「うらやんでくれる」その人によって自分の「ナルシシズム」が満たされるのでつきあう、という場合も、同性、異性問わずあるでしょう。
でも、こういう関係って、その裏側に「相手を自分の弱点を補うために「『利用』したい」というエゴイズムや、その相手とつきあうことによって相手と同じレヴェルにまで自分を引き上げてもらいたいというエゴイズム、あるいは、相手を自分の「崇拝者」にし続けナルシシズムを保ちたい、などという、どろどろとした思いが隠れている場合があると思います。
.....で、ちょっとでも「均衡」が崩れると、一転して険悪な関係になってしまう
(そういうきかっけの多くは、「うらやましがる」側が相手と「本当」に対等になりたい、あるいは「自分なりの」自己実現をしたいと「目覚めた」時におこる気がします。)
*****
私の若い頃の恋愛の対象は、あとから振り返ってみると、相手が「女性として」魅力的であるかどうか以上に、相手へのそういう「ねたみ」が実は常に隠れていた気がします。
私は心理学科の学部を出ていないゆえのコンプレックス、現場臨床に出るのが周りより少し遅かったコンプレックスがあったので、「学部からずっと心理学科に通っていた」人、「既に現場臨床の体験がある」女の人にばかり好意を感じ、求愛したりしてばかりいました(^^;)
つまり、恋愛感情は、全部「階級上昇」の野心と結びついて、相手を「利用」したいだけのものだった、ということに次第に気づいていき、そういう自分の「あさましさ」に凄い自己嫌悪に落ち込んだ時期があります。
でも、そういう自分の「あさましさ」に自分で直面し、気づいたから、「人頼み」ではだめで、結局ある意味で「孤独な」努力の中で理想の自分に近づくしかないんだ、と思えるようになった気がします。
*****
今も、例えば、私は、「現場臨床」にこだわっていて、少なからぬ「大学のカウンセリングの先生」より社会の生身のクライエントさんと接した経験量も多く、しかもそうしたクライエントさんとの具体的な関わり方の職人的な経験値は高いという自負はあるし、単に「大学の先生」であることより「現場のカウンセリング」で一人一人のクライエントさんに適切な援助ができることの方が価値が高いんだ、と、ほんとうに思っているわけですね。
常勤カウンセラーとして大学に勤めている時の「デスクワーク」(毎年大学全教職員と、全国の他の大学の学生相談室に頒布するかなり分厚い「報告書」を作るだけでも大変な作業量でした)から解放され、カウンセリング「だけ」を仕事にしていいことに、ある開放感すら感じています。
20年も専門の世界にいれば「臨床心理系」の大学の先生の「実情」がいろいろ見えて来てしまって、そんなにうらやましい境遇ではないよなあ
(「現場」から遠くなる、大学組織内部でのいろいろな雑用にいよいよ忙殺され、講義の準備や自分の研究の時間の確保すら大変になるetc,)
......と、ある程度親しい大学教員の知り合いには、むしろ心からの同情といたわりすら感じることがあります。
*******
ただ、それでも残る、大学の先生に「嫉妬する」唯一の点。
それは、「経済的安定性」です。
私もこれまで大学の「常勤」カウンセラー(教壇に立つ必要はありませんでした)だったから、学会参加などの「研修費」はそこそこ出ていた。それが全部「自腹」となった時点でそのことそのものに「う”〜〜〜」と思ってしまいました。
それに、体調等の病気での休職を経ての辞職でしたから、「私学共済保険の任意継続」での傷病手当が出続けているので何とか借金背負わないでいられるけど、まだ回復途上の体調なのに少なくとも今の2倍は稼げないと本当の安定ラインに届かないんですよね。
だから「経済的安定性」に対する「大学の先生」への嫉妬心だけは今も時々もたげます(^^;)
でも、ひょっとしたら、私が、そうやって最初の1年ぐらいは「そこそこ」クライエントさんに来てもらえれば借金なしで開業を始められ、デスクワークの代わりにこうしてネットで書きたいことだけ書き、カウンセリング「だけ」していればいい境遇になったことに、
(身近な人からはそれでも「ハラハラしながら」見守られているとも思いますが)
「うらやましいよな」という目でも見られているんだろうな、と思います。
******
ちょっと自分のことばかり書きましたけど、
私は敢えて、
「嫉妬」なんてどんな人間にもある「全く自然な」感情で、
「醜い」
と感じてしまうと
「自分の中の「嫉妬君』」
に対して、
「かわいそうな仕打ち」
をしていることにならないかな、と今では感じています(^^;)
『嫉妬君』
そのものが、まるで生身の一人の人間が皆そうであるように、
「邪悪な」だけではなくて、「切実な思い」を秘めた存在
のように思えて来たのです。
そうやって、自分の中の「嫉妬クン」に「共感」と「同情」すら感じ始め、それを、それこそ「ありのままに(♪それこそ禁区!)」許してあげたい気になりました。
そうなったら、不思議ですね。
さらっと「うらやましい」と相手のことを思える状態に、
「嫉妬君」そのものが「生まれ変わった」のですよ。
このあたりになると、頭での理解とかを超えた「悟り」みたいなものです(^^;)
でも、この「悟り」で、私はその「悟り」が得られる前の時点より、明らかに人との関わりに開かれた方向に転じたと思います。
私の、30歳ごろの、人生の大きな節目だったと思います。
........としか言えないんです。ゴメンなさい
*****
最近になって私はみゆきの曲をいよいよ改めて本格的に聞き直すようになったのですが、
最近出た
セルフカバーアルバムの「いまのきもち」にも入っている、
「横恋慕」という曲、
もろに「恋敵」への、ある意味で凄くどぎつい挑発的な歌なんだけど、同時に、実はその女性への共感すら含めたやさしさのある曲と感じられるようになりました。
「本当は私と彼との問題なのに、あなたを巻き込んでごめんね」、という、もはや単なる「嫉妬心」を「昇華」した「いたわり」の歌として、少なくとも「今の」みゆきはとらえているだろうな、だから、再録音する気になったのだと思っています。
「横恋慕」はそれでもどぎつくてついていけないという人には、かつての「妹分」の友人に恋人を取られた恨みを感じながらも、でも彼女の成長への思いやりすら込めた、いかにもみゆきらしい歌、
をどうぞ。これも、「いまのきもち」に収録されています。
******
みゆきって、恋愛に傷つく今の若い「女の人」への深いいたわりを抱いてるんですよね。
それは
「囁く雨」のプロモビデオを見ると嫌でもわかります。
ちなみに、このDVD、同時収録されてるプロモビデオが「歌姫」「銀の龍の背に乗って」「地上の星」という、曲としてもMTVとしても傑作ぞろいの感動もので、わずか1600円ですから、超お買い得商品です
私が若い頃、ユーミンについてまことしやかに噂になっていたことの一つは、
「ユーミンは時々変装してデニーズに出没し、周りの席の若い連中の話に耳をそばだて、それを作詞の発想に生かしている」
というものでした。
まあ、ユーミンも時々お忍びでデニーズで食事をしたかもしれないし、知り合いのエピソードを作詞の題材にしたかもしれません。
しかし、恐らく、当時デニーズで食事をしていた若者の間で、
「ねえねえ、あれ、ユーミンじゃない?」
「え? うっそ〜」
などという会話の中から尾ひれついて生成された「都市伝説」の一つだと思います。
二十数年前なら、ユーミンのファッションや髪型をまね、深いサングラスか何かをかけて街をうろうろしていた女性なんてうようよいたでしょうから。
ユーミンが、実は自分の個人的体験を率直に歌にしていることは意外と多いのではないか、ということは、このページでの”中央フリーウェイ」や「天気雨」の分析で述べた通りです。
そして、例えば”タイフーン"(アルバム"VOYAGER"
収録)のような、ほんとうに「艶っぽい」歌が出てくるのは、結婚後なわけで、その点、ユーミンは実はみゆきよりずっと「奥手」だったのではないかという仮説すら立てられます。
*****
もっとも、有名人は常にスモークガラスの高級車に乗り、護衛に付き添われて移動しているというのはそれまた勝手な思い込みで、私のように鎌倉旧市街ののど真ん中(もうばらしていいですよね、「材木座」海水浴場から歩いて10分でした)なんかに少し前まで住んでいた人間は、「本人に間違いなし!!」という有名作家が一人で普通にJR鎌倉駅で乗り降りしているのを何回も見かけたことがあります。タクシーの運転手さんとかの話を聞いても、有名人がお得意様というのは普通のことのようです。
ただ、ayuがかなりのケースで専属の屈強な護衛の男性数名と共にしか移動していないというのは本当のことのようです。
"Dearest"のプロモーションビデオに出てくる護衛たちは、役者さんではなく、本当の当時のayuの護衛さんたちです!!(このことはドキュメンタリーを含むさまざまな映像資料から確認済み)
でも、すっぴんだったら、そばを歩いていても誰もayuと気づかないだろう、というのも、正式に公開されている幾つかの写真(例えば![]()
写真集"uraayu"
や、
アルバム”My story"のブックレットの写真集)から明白ですね。整形疑惑なんて、メイク技術の凄さをしらない連中のだわごとです。
もっとも、その人が有名人になり、真の才能を発揮するようになるにつれて、ほんとうに素顔も輝き出すというのも真実だと思います。ファンのオーラを浴びているうちに自然とそうなるんですね。
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しかし、次のことは「噂」ではなくて、真実です!!(「噂にもなってないでしょうが)
「カウンセラーこういちろうが、あちこちのファミレスやファーストフードの店で、周囲の席の若者の話に耳をそばだて、現代の若者理解に役立てている」
となりで、明らかに別れ話が盛り上がって来た時なんて最高ですね(^^)
あるいは、30代ぐらいの、「自分ではかっこがいいつもりのナルシスト」の男が、大学生をしきりに口説いていたりする。
ずっと話の展開を追っているとわかって来たのは、
女の子は、何と親友も一緒に来てもらって、その親友の方は、男が「本命」の女の子に核心に迫る話を始めようとすると、さりげなく、全然違う話題を一気にまくしたてはじめて、男のペースを崩してもらうという作戦に出ていた
ということだった!!
そうか、こんなふうな「女の友情」ってあるんだ!!
勉強になるなあ!!。
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恐らくこんなことは、普通の若い人たちには「当たり前」のことでしょうから、こういう例を出すことで「なせ俺のことを書いた!!」みたいな抗議のメールとか来ないと思います。
仮にそういうことを実際にしてくる人がいたとしたら、「思い込みが過ぎる別人だったりする。
(これがネットという媒体の怖さの一つです。と書くと、前の記事で「皆様に想像してほしい」というのがどういう事態のことだったかの半分答えになりましたよね。
もとより「思い込みの権利は万人に保証されねばなりません」が(^^;)
私なんて、昔、あるアニメ監督の作品が、私が「実名で」アニメ雑誌(「アニメージュ」や「OUT」)読者欄に投稿し、掲載された感想を参考にして作られていると確信していました!!(あの「阿世賀浩一郎」が「私」なのです) その「お礼」の手紙をその監督に送ったんです!!
そしたら、
「あなたの投稿は読んだことがなかったが、読んでみたら本当に面白かった、ありがとう」
と、自筆イラスト付きのお返事までいただいたことがあります。それどころか、私の、「ファンタジーアニメと若者の自己実現」をテーマにした、ささやかな講演会に、ご本人が来て下さったんですよ!!
こうやって、
人は、現実に直面する中で「脱錯覚」しつつも、
予想外の形でその人との新たな出会いがあったりするから、
「思い込みも大事」と私は言いたくなるのです。
だいたい、「思い込み」や「脱錯覚」がない恋愛なんてこの世のどこにありますか!!
それこそ恋愛のスリルと「醍醐味」でしょ?
(などと平気で言えるくらいには、一介のアニメおたくも、40過ぎて「普通の大人」に成長しました(^^;)
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それはそうと、
私が常々思うのは、カウンセラーは「普通の」俗世間のことをあまりに知らなさすぎるのではないかということです。
もともとは「普通のただの人」であっても、カウンセラーという仕事をするうちに、自分がクライエントさんとしてお会いするような人たちが世間の人たちとイコールだと思い始める。
そのせいで、逆に、そのクライエントさんの「普通で、健康な」部分に対するまなざしと共感能力を見失い、その人を、一層「典型的な重篤なクライエント」へと追い込むという「自己成就的予言」がある気がします。
この、「カウンセラーの世間知らず」の問題については、ayuを題材にした、格好のエピソードがあるのですが、これは、敢えて「少したって」から載せますので、お楽しみに!!
(・・・・・というふうにして、ネタを「引っ張って」、継続読者を増やそうとする、抜け目のないこういちろうであった)
前の記事で、「予定外の在庫一掃セール(予定分はこちらに一覧あります)」ネタとして2つ書けると、いいましたが、こんどはそのもう一つの方。
もう、むっちゃくちゃ挑発的なタイトルにしましたが、「もう若くない(失礼!)」女性のカウンセラーの方向けに、誠意を持ってお伝えしたかったことがらですので。
*****
誰にでも、自分の持ち味を生かしたカウンセリングのスタイルというのはあると思うのです。
私も、自分のことを、サリヴァンの言う「前思春期段階」に問題があったことを引きずってる人間と自己分析してます。ですから、同種の問題を抱えたまま大人になったクライエントさん(お客様)と、ともかく「つながる」までは、以前から得意なカウンセラーでした。
しかし、これは「つながる」までの部分でして、問題の真の解決を援助できるようになるまでは、他ならぬ私個人自身が、社会人、家庭人としての自分の未熟さに「これでもか」というくらいに翻弄される中で、やっとのことで少しは成長できた中ではじめて可能になったことでした。
ユングは、日本では
「心理療法論」(林道義訳 みすず書房)(この本がまだ楽天で買えるなんて!★★★★★の名著です!!)としてまとめられた中の、ある論文の中で、
「治療者自身が行き着けたところまでしか、治療者は患者を援助できない」
と明言し、「教育分析」の必要性をフロイトに提案したのですが、「教育分析」だけでいいかどうかは別として、やはり恐るべき真実だと私は感じています。
10年以上前に学生相談していたころ、「この人、社会人としてどこまでやれるか」と心配していた大勢の社会人「サバイバル」自発的復活組のクライエントさんが、今のところ私の収入を支えてくれている大きな部分だと「こころ相談.com」の「カウンセラー特集」で明言しましたが、以前からの絆があり、その人たちなりに成熟して来たという点を差し引いても、それらの人たちとのカウンセリングが、再開後、大変な人は大変なりに、私すら想像できなかった効率で進んでいるのは間違いないようです。
と書いても彼ら、彼女らは決して違和感を感じないでしょう。ちなみにブログの題材にしているのは、そうしたクライエントさんたちに「私が」面接中に「思いつき」で話したことが実は少なくないのですが、それが「私の」発言であっても、必ず事前に了解をすべて取ってます。
個々のクライエントさんという人格との「相互作用」の中で、はじめて私も「唐突に」はじめて思いつけた、という意味で、クライエントさんの「貢献」も大きいと認識していますので。
即興で「こんなふうな筋で書くから」と非常に具体的に伝えてますので、ネットの私と面接室の私が裏表のない「リアルな」存在だということが実感できるという意味で、クライエントさんが日常に帰ってからの安心や支えにもなるようです。
(当然、面接室には
ayuのカレンダー(これのみ2週間前から。来年のカレンダーですね)やみゆきのDVDが置いてあり、あのオイルヒーターがあり、
iPodもさらしているわけですね)
ただし、クライエントさんの発言や事例に関わることは、過去20年のカウンセリングの中で「数多く」出会った事例、あるいは「私個人の」悩みだったことから混ぜ合わせて「創作」してしか掲載しないという基準をたてています。
私は、ネットで「ハンドルネームで」カウンセラーが別に個人ホームページを持つことの方が、いろんな弊害が大きいという考えです。
これについてはほ守秘義務の守られる学会発表か、どこかの学会でシンポジストやパネリストとして呼んでいただければ「どういうふうに」問題かまで(クライエントさんの了解を得て)具体的にお示ししたいですが、ここでは控えます。
皆さん、どんな場合に「深刻な」事態が生じるか、それぞれ想像してみてください。
*****
何かタイトルと別の話になりましたが、
私は、自分が「どの程度」生身の女性としての「母性」に寄りかかってカウンセリングを進めているのか、正確に「自覚」できるカウンセラーであっていただきたいと思います、さもないと、幸い「母親代わり」まで行き着けた場合にも、そのあとどう進めるかという点で壁に突き当たるかもしれないし、あるいはクライエントさんとぎくしゃくするのはカウンセラーの自覚しない母性の発揮の仕方の質の影響がある場合が多いと思うのです。
「そんなこととっくにわかってる!!」
と言われそうなんだけど、「わかってる」ということと実際に「克服できる」ということは別、ということもお分かりでしょう?
「自分の母性や母との関係に問題があった」と単に「自己嫌悪」しても、それだけでは無意味です。自覚していないよりはましかもしれませんが、およそ「自己嫌悪」とは何の「贖罪」をも意味しません。
(このことは「カウンセラーの方」向けの発言です。クライエントさんは「自己嫌悪」するしかない堂々巡りの泥沼にはまっても「全く自然な」ことだし、だからこそカウンセリングを希望されるのですから。私は同年代や年上のカウンセラーの方には、敢えて苦言をお伝えするというのがポリシーです)
私は「その問題はとっくに自分の場合克服している」と言い切るカウンセラーも信頼しません。「克服してしまう」などということは生涯ない、最良でも、「繰り返し別の形でその問題がぶり返し、それを以前よりワン・ステップだけ乗り越えられる」くらいの螺旋運動でしょう。
今更、フロイトが「終わりなき分析」、そしてまさに女性セラピストの先駆者、メラニー・クラインが、「発達『段階』」という捉え方を避け、「態勢(position)」という、「生涯何度もその『状態』に誰でも多かれ少なかれ『はまる』」という形での早期発達理論を組み立てたことまで思い出してもらうのは「釈迦に説法」でしょうか。
ともかく、日本ではカウンセラーは女性がずっと多い現実があり、ある年齢になると若いカウンセラーへの指導的立場にもお立ちになることが多いはずです。
特に、「若い女性カウンセラー」を、自分の「娘」のように扱おうとする無意識的「誘惑」に用心してください。
*******
「若い女性カウンセラー」層が、真の意味での成熟や社会適応にいかに苦しんでいることが少なくないか、という問題は、いずれ別に取り上げたいと思います。特にここ10年ほど、大学院出の女性臨床心理士が「大量生産」されるようになってから。
ここで取り上げるのはかなり先になると思いますが、非常に深刻なテーマになって来ている気がします。
さて、前の記事の「改訂版」(^^;)で、思わず追加した一言から、まずは、「予定外の」在庫一掃セール」を、ウォーミングアップ的にはじめましょうか!!
前の記事改訂版で、
> 実は、私の書いてるカウンセリング系の文章って、
> 実は一般の方や,
> 「潜在『顧客(=クライ「ア」ント」さん)』層」
を対象にしているだけではなくて、特に「『若い』カウンセラー」を読者層として想定している、と明言しましたので、この部分からだけで「2題」、私としては短めのを書けます(^^)
(もうひとつはこちら)
*******
私が、クライエントさんになるかもしれない人たちのことを「顧客(層)」と表現することがこれまでも平然と繰り返されていることに、ある種の「違和感」があった方はあるかもしれません。
では、「顧客」の英訳は何ですか?
...........
"client"
じゃないですか!!
ただし、日本ではなぜか、
ビジネスの世界では「クライ『ア』ント」、
カウンセリングだけが「クライ『エ』ント」
と使い分ける文化が定着しただけなのです。
私は、クライエントさんを目の前にしていなくても、「クライエント」とだけいうと何か人の名前を呼び捨てにしているみたいなのが凄く嫌なので、これまで「業界内部」でも、口語で話す時にも「クライエントさん」という言い方を好んできました。
最近は、いっそのこと「お客様」とする方が、「的確な」日本語訳ではないかとすら思っています
少なくとも、最近医療業界で使われる「患者様」という言い方の方が無理な響きがあると常々思ってます。
ただ、ある意味では、医療業界の方が、自分たちは「サービス業」である、という意識の成熟が日本ではほんの十数年の間に進んだと思います。20年前に比べたら、多くの医者や受付、看護婦さんたちはすごく親切丁寧ですよね、大病院の多くは、銀行のフロアみたいな雰囲気になりました。
ここには、インフォームド・コンセントという概念の普及、保険料自己負担分引き上げなどと共に、都市部では病院が増えすぎてきて「競争」の時代に入ったことが大きいと思います。
(もっとも、夜間救急医療の体制は相変わらず問題だらけの地域が少なくないようですが)
*****
話を元に戻しますが、
だから、相談に来られる方は、「クライアント(依頼人=顧客)」=「お客様」なんですよね!!
つまり、「クライエント中心療法」とは、
(日本語では、".....-centered"とか、".......-oriented"という言葉のニュアンスをなかなか伝えられないのですが)
文字どおりに理解すれば
「お客様は神様です」カウンセリング
と受け取るのが正しい!!
*******
これって、ジョークみたいだけど、実はそうではないと私は感じるようになりました。
つまり、日本のカウンセリング業界は、いい意味での「サービス業」精神がまだ欠けている、その点ではひょっとしたら良質の病院以下ではないかと感じ始めたのです。
そういう問題意識の具体については、実はこのブログのあちこちで明言し、あるいは明言されないけど言外に、あるいは「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」のシステム上のポリシーとして、具体化させて来た「つもり」ですので、ここでは敢えて繰り返すことをご遠慮し、むしろ読者の皆様のご判断にお任せしたいと思います。
ただ、一言。
日本の「商売」でいう「お客様」と、欧米のビジネスでいう「顧客」に対する意識に当然違いはあります。それはそれぞれ長所短所があると思いますが、
少なくとも日本でもいえることは、いくら「お客様は神様です」と言っても、
お客様がその商売で代価として得られる「サービス」には、
多少の融通はあっても、
やはりある一定の「枠」がある
ということ。老舗のよくできた女将さんなんて、お客の無茶な注文には、「丁重」かつ「にこやかに」。しかし「有無を言わさぬ冷静さと威厳を持って」お断りするだけのすばらしい「オーラ」がありますよね。
(恩師、故・村瀬孝雄先生の奥様でした、大正大学の村瀬嘉代子先生
(先生の近著です)なんて、そういう「老舗の女将さん」的「オーラ」がものすごい先生と思います。クライエントさんには聖母のごとく気を配り、「お店の番頭や丁稚」には震え上がるぐらいに厳しい(^^;))
そういう厳しい「サービス業精神」の修練のためにはそれこそカウンセラーを「老舗」の旅館や料亭、ホテルに「実習」に行かせる方がいいのではないかとすらお思います。
そう、
「千と千尋」みたいに!!
****
浜崎あゆみが
コンサートライブの最後で見せる、ほんとうに深々とした腰を折った長いお辞儀は、ライブを知っている人には有名です。
ayuぐらい、観客の応援あっての自分なんだということに謙虚な歌手は珍しいと思います。
一方でスタッフには震え上がるくらいに厳しい「女将」だろうというのも想像がつきます(^^;)
「『本当の自分』『ありのままの自分』という言葉をカウンセラーの側から安易に使うな」論、ある時点では絶対パスリンクアクセスシェア29パーセントという、カウンセリング系では1ヶ月ぶりくらいのヒット作になりました。
皆様の共感を得られたことにほっとしております。
意外に思われるでしょうが、私としては、一般の方やカウンセリングを受けている方、受けようかどうか迷っている方と同じくらいに、もし若いカウンセラーの方に、
「長い間出口のなかったモヤモヤが少し晴れたような気がする」
と感じてもらえたら、すごく嬉しいのですが。
実は、私の書いてるカウンセリング系の文章って、実は一般の方や「潜在『顧客(=クライ「ア」ント」さん)』層」、あるいは他のカウンセラーの方のカウンセリングや精神神経科・心療内科医の治療を受けている方々を読者層として想定させていただいている同じくらいに、同業者、特に「『若い』カウンセラーに向けて」書いているつもりです。
(わかってた人はわかってましたよね)
*****
さて、16時半ごろ出した「改訂4版」で、大幅に加筆しました。
もっぱら、ayuとみゆきとユーミンが「本当の自分」「ありのままの自分」という事柄についてどう扱っているか、という方向に、例によって「ワープ」した、本文最後に付記した、かなりの長さの「注」の部分です(^^;)。
しかし、本文にも、誤解を与えそうな部分にさりげなく丁寧に手を入れてます。
*****
年末年始には休みを頂きますので、しだいにネタのほうがどんどんたまってきている分について「歳末新春在庫一掃セール」をはじめます(^^;)
といっても、とまったままの「綾波ネタ」や"My Favorite Disk"の更新に進まないところが私の気分しだいのわがままでして、
少しだけ予告すると、
○浜崎あゆみのいろんな曲についての変化球のようでいて実は本格的な評論。
○ユーミンのある有名な伝説と絡めた私の密かな楽しみについて。
○ひょっとしたら、何を今更の、時期遅れのayuの"heaven"論。
○その人が日常に帰って、「その人なりに」生きる力を高めるカウンセリングと、いっそう現実に帰還できなくなり症状悪化するばかりのカウンセリングの違いとは何か?(第3版で新規追加)
○対人恐怖の人が社会で成功する方法
○ストーカー心理についての意表をついた観点からの理解のしかた。
○安くてデタラメに音がいい、iPodやパソコン用に最適の小型スピーカーの紹介(第13版の時点で掲載)
○私の「元御学友」の娘さんの歌手としてのメジャー・デビューを祝す(第4版で新規追加)
○インナーイヤーフォンの頂点に君臨する、「あの」シェアーE5Cの、私のターボ付iPodでの「徹底試聴記」(第6版で新規追加)
○フォーカシングの「認知行動療法的アプローチ」を私が本当に本格的に実践「できている」証拠を、守秘義務に全く抵触せずに示そう!!(第6版で新規追加したけど、「諸般の事情」により、このブログでは取り扱わないままになりそう)
○モバイル通信の栄枯衰世への、こういちろうの悪あがき的挑戦の結末(結末はどうなるかまだわかってないのに第11版で新規追加)
○浜崎あゆみの新アルバム、"(miss)understand"の、シングル先行発売「されなかった」諸曲と、アルバム全体のコンセプトについての感想(やっとこさ第11版で新規追加)
○浜崎あゆみと「ある音楽ジャンル」の関係(第12版で新規追加)
......などなどを予定しています。
いくつ松の内までにできるかわかりませんが。
先ほどの記事の、更に追い打ちを、みゆきとayuでかけますね(^^)
>黙っているのは卑怯なことだと おしゃべり男の声がする
なるほど、「アサーティブ」なことは大事ですよ。
でも、
> 確かな思いは感じるのに ねぇうまく言葉にならない
ことなんていくらでもあります。
自分の気持ちにぴったりの言葉、しかも人に「伝わる」言葉が容易に見つけられないから、みんな悩み、困惑するんですってばさ。
> 上着を着たまま話をするのは 正気の沙汰ではないらしい
「心を開いて」、「本当の自分をさらせ」
と、カウンセラーにいわれると、まるで「脅迫されている」ようにも感じるのにね。
話を受容されればされるほど、カウンセラーと自分の境目がはっきりしなくなり、カウンセラーに自分をすべて「呑み込まれる」ような不安を感じる人もあるかもしれない。
「ほんとうの自分」をさらさない権利は、万人に保証されねばならない。
そうでないと、他者との「本当に深い」心の絆なんて生まれません。
> 脱がせた上着を拾って着るのは 賢いことらしい
そうやって人の心を「守って」いる、大事な「偽物の自分」を引きはがしておいて、そのあとは何もうまく対処できなくて、クライエントさんの症状を一層悪化させて、
クライエントさんはそういう自分を取り繕って、
「カウンセラーを」傷つけないように、慇懃に、「別れの言葉」を述べて立ち去っただけなのに、
つまり、本当は傷つきながらも、カウンセラーを「見限った」だけなのに、
それを「重篤なケースの成功事例」と位置づけて、「学会発表」までして、
自分の「業績」にしてしまうような
「臨床心理学者」
ばかリでないかと思えてきてしまって、
別のカウンセラーに相談しようとしても、
「不信感と猜疑心」だけが先立ってしまって、いよいよ心を開けなくなるんだよね。
*****
i以上、
中島みゆきの”裸足で走れ”
(アルバム「親愛なる者へ」冒頭曲
浜崎あゆみの
"No way to say"
(アルバム"Memorial Address"収録)
よりの引用でした。
*****
何より、自戒と、過去の臨床家としての「私」への反省を込めて。
先ほどの記事は、現段階(17:09)でupしてから100近く、16時台に限定しても51アクセスという、1時間あたりの私のブログの過去最高記録にすでに到達しています!!
「王様は裸だ!!」
と誰かがいわないとならないんですね、全く(^^;)
それを「よその国の王様」にも共感してくださることを期待しています。
*******
以上、
「新興民主主義国家」の元首
より。
のっけから何とも挑発的な発言ですが、
「ほんとうの」自分、
「ありのまま(あるがまま)」の自分、
という言葉を「カウンセラーが」「自分から進んで」使うのを聴くと、
私は「虫酸がはしる」タイプです!!
(もちろん、クライエントさんがこれらの言葉を使う分は何とも自然なことだし、
ayuをはじめとする歌の中で使われる分は全然気にならないのですが(注1))
なぜなら、「本当の自分」「ありのままの自分」でありなさいと「あっさり」言われることぐらい、
クライエントさんを悩ませ、「絶望させる」言葉はないはずなのに、
それを「無神経に」使えるカウンセラーの神経を疑うからです。
******
クライエントさんの非常に多くは、
まさに「本当の自分」とは何か、
「あるがままの自分でいること」とは何か、
ということに苦しんで来たのです。
なのに、カウンセラーの方から、クライエントさんに取っては「絶望的」に感じられている「理想」をまたもや指し示すことでクライエントさんを「苦しめない」であげてほしいのです。
クライエントさんの苦しみに、カウンセラーが、
それこそ「ほんとうに」共感していたら、
「カウンセラーの側から」これらの言葉を口にするのは憚(はばか)られるくらいの思いにかられるのが自然なような気がします。
*****
「本当の自分」「あるがままの自分」とは何か。
「あるがままで」いられなくて、
「本当の自分」がわからなくて、
まさにそのことで苦しんでいて、
その一方では、世間からは「自分探し」そのものがビョーキ、みたいな声すら聴こえて来て、
もっと「まったり」生きろ、とわかったような口をきく「某社会学者」とかもいて、
でも「今の自分の現状に「苦しんで」いて、そういう自分からぬけ出したいと思っているのに、
そういうことでなやんだりすることそのものが問題なんだ、ビョーキなんだ、
みたいに、「評論家やカウンセラー」や「学者は世間を見たような気にな」り、教え諭してくるのにも気持ちは揺るがされるし、
なのにそういう連中はそれを「口にする」だけで「米を買って」いるし、映画やドラマの類いは「はじめから答えを教えてくれる」だけなのに、そんなの「みんな嘘」、物語の世界だけのこととしか思えないのに、それに振り回されてしまう。
、
(細かく典拠は示しませんが、
![]()
![]()
中島みゆきのいろんな歌の歌詞からの引用です)
そういうクライエントさんの苦しみに、
世のカウンセラーよ、
下手なお題目を唱える暇があったら、ともかくまずは実際に、具体的に寄り添いなさい!!
*******
(注1)
ayuが歌詞の中で「ほんとの自分」「本当に欲しいもの」「あるがままに」という言葉使う時は、実は非常に複雑で真摯な思いを込めていることが多い。詞の前後のどういう脈絡で出てくるかに注意して来ださい。
ただ、個人的には、ayuもこれらの言葉に頼らないで、自らの「言葉にならない何か」の、ayuなりの言語化にもっとチャレンジしてほしいのですが。ayuの詩は、時として「難解」と感じさせるほどの不器用さ、で自分の言葉で語ろうとする。最近またその「難解度」が久しぶりに上がって来てます。よくぞこれに曲がつけれられたと「見え」かねないところこそむしろ魅力なのですが。
(みゆきだと、ほとんど「リズムにのせた言葉遊びの魔術師」といいたくなる時ありますけどね。本人も
"SE・TSU・NA・KU・TE”という曲の詞の中で書いてますけど、「キザな」までに「科白をきめる」ことの達人です。
> 上から読んでも 下から読んでも よのなかばかなのよ
(世迷い言)
とか
> ゆうこあいこりょうこけいこまちこかずみひろこまゆみ
(あの娘)
とか。
みゆきは、既に「あるがまま」とか「ほんとうの自分」という言「むき出しで」使うのなんて「ケッ!」というタイプかなと思います。誰よりそのことで悩んで来たからこそ安易に使わない、使ったとしてもかなりひねくれた皮肉になったりする。
むしろ「ほんとの自分を偽らざるを得ない女心」を、すばらしい等身大の詩情をもって、時にはものすごく「開き直って」歌って共感を得て来た歌手と思います。
ユーミンも意外とその種の曲が多いのではないかということはこの前言及しましたよね)
年末年始のお休みのことをお知らせするのをうっかり忘れていました(^^;)
湘南フォーカシング・カウンセリングルームは12/31から1/5(木)までお休みさせていただきます。
それにしても北陸ばかりか、名古屋近辺の雪が凄いですね。
私はここ数年来、藤嶽大安さんたちとのフォーカシングの勉強会で原則月一度三重の四日市には行くのですが(はっきり言って今や新宿や渋谷に行くよりよほど「身近な」土地です)、敦賀湾、余呉湖、関が原、大垣、湯ノ山温泉を超えて四日市あたりまでは、琵琶湖をはさんで本州の中で一番陸地が「くびれた」、「地峡的地域」ですから、本州の隙をついて(^^;)巨大な「隙間風」が吹き抜けやすい土地なわけで、本州太平洋側で一番日本海側の気候がそのまま入り込む特異な地域です。
夏でも雲の流れが凄く速くて天候が他所と違ったり、冬だとあのへんの沿線の山々だけ雪景色というのは近鉄の車窓からもよく眺めてきたのですが、さすが特急で30分しか離れていなくても、「名古屋では異例」ということになるんでしょうね。
冬の「関が原」地区の新幹線の雪による徐行運転は日常茶飯事ですけど、ちょっとの距離に差のようで、そうではなく、恐らく、巨大な砂州ともいえる知多・渥美半島あたりは一気に風が吹き抜け、黒潮の恩恵が得られるし、通常なら北風の方は伊吹山の防壁のおかげで「琵琶湖地峡」寄りに吹き抜けてくれるんでしょうね。
(この記事、意外にも、
ミニアルバム”Memorial Address"収録の、
ayuの”forgiveness"の超傑作プロモヴィデオの精緻な分析と結果的に深層心理的に結びつくという、ユング派の方をうならせる自信がある、私のHP再開後初期の最大の大作です)
で言及した、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の命取りが、熱田(名古屋じゃないか!)のお姫様と深い仲になって、油断して寝所に「草薙の剣」を置き忘れ、伊吹山の冬の神(巨大イノシシ)を甘く見たことでしたよね。
そして四日市南部の「杖衝(つえつき)坂」で
「吾が足三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」
との言葉を残し、その少し先の鈴鹿近郊の能褒野[のぼの]で亡くなって鳥になったのでした。
古来、那古野(敢えて古い字で表記)あたりまで来た冬の旅人は、そこからほんのちょっとの関が原・伊吹山あたりでいきなりあそこまで雪が降るとは予想もせず、痛い目にあってきたのかもしれませんね。
カウンセリング検索サイト、「こころ相談.com」の「カウンセリングQ & A」で新たな質問にお答えしました。
今回は、「酔うと人格が変わる」という方からの質問です。
なお、この記事で引き合いに出された私の過去の学友やカウンセリング業界や他業種の仕事上の関係者が「数名」存在します。
念のために申し上げますが、それは「あなた」のことだけではありません!!(^^;)。
大人になって20数年も生きていれば、このタイプの人に、一般の皆さんも、10名やそこらはお会いになった記憶があるでしょう?
「私も」ですが、成年の読者の皆様の多くがそういう失敗談を幾つか持っているはずです!!
私は、今回、敢えてそういう「日常的・常識的見地」から筆を説き起こし、明らかな「アルコール嗜壁」の人にまで通用するような見地で書いてみました(^^)
ストーカー加害者・被害者や、食べ吐きの摂食障害の方、クレジットカードによる乱費が止まらない方、特異な性的な習癖に悩んでいる方にも役立つ内容にしたつもりです。
*****
ちなみに、専門家向けにご参考までに一言付言すれば、「認知行動療法」という言葉を一言も直接使わずに書いてみることにチャレンジしました。
私なりの、ですが、「クライエント・センタード的」、
「フォーカシング指向心理療法的」な、認知行動療法的アプローチの提案です。
認知行動様法は、実はその療法を施行する「主体」は、クライエントさん自身であり、治療者はあくまでも「コーチ」「作戦参謀」なのだ、という関係性が作れた時、はじめて順調に進むはず、と私は考えていますが、これは「認知行動療法」業界(?)の常識に既になっているのかどうか、私は実は存じ上げていません.(^^:)。
ちなみに、私がセミナー等を受講して、最も感動し、尊敬するに至ったセラピストの一人が、日本における行動療法の天才的治療者、
山上敏子先生であることも、明記しておきます。
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なお、「カウンセリングQ&A」は、メールアドレスの登録を入り口でやって、はじめて閲覧できます。トップページの新着情報の質問項目をクリックするだけでは何の反応もしないので、ご注意ください。
ちなみに、これらの質問は、「こころ相談.com」の側で一定に質問をメールで「割り当てて」来ます。その質問の回答者にならず、他の方にまわしてもらう権利はあります。
どういう質問が自分に「降ってくる」かわからないという意味では、結構スリリングで、カウンセラーの力量がもろに試される場ですね。
先日、まだayuの新作への「封印」が続いている、と書いたばかりですが、昨日、あっさりそれは破られました!!
自宅も大船に移し、新居でのとりあえずの生活パターンが固まってきたこと(ほとんどの段ボール箱を開封しないままですが)。
ともかく、「こころ相談.com」で私の「カウンセラー特集」が始まるまでは、何としてもできるだけの量と質の記事をブログで連発し続け、いろんな層の読者の皆様にこのブログに引きつけ、常連化していただこうと、私が得意とする、一見無関係に見える話題にどんどんワープさせ、記事相互に有機的なリンクの網の目を張るやり方(これをフォーカシング用語では"crossing"(「交差」)といいます)をなりふりかまわず続けてきて、その時何を書くかの優先順位をひたすらその時の「勘」にのみ身を任せ、頭で計画的に書くことを徹底的に放棄することで逆に実は緻密な統合性がいつの間にか発生するのに任せる中で、ayuの方が「私の」ライヴステージから「はじき出される」状態みたいなものに陥っていた訳です。
そして、2万アクセス突破の頃から私が密かに目標としていた、ブログ開設1周年までに3万アクセスを迎えることも、「オイルヒーター」の記事大繁盛という、思いもよらない展開が助けになり、あっさりクリアーしたことで、少し気持ちの余裕ができたこともあるんでしょうね。
ブログ開設ちょうど1周年の17日の時点で、私はやっと、
"fairyland/alterna"の封(文字通り透明カバーの封です)を切っていい、となぜか突然思いました。
結果は、私の期待をかなり超えました!!
そこで「新鮮なayu」にあっさり出会えたのです。
ます、バックのサウンドのだだならぬ複雑な精緻さに驚きました。徹底的にシンセサイザーバリバリの音作り。しかもそれをここまで凝りまくるというのはただ事ではない。私は現在のJ-POPをあまり聴いていない訳ですが、どう考えてもこの「伴奏トラックのマルチ的重ね塗りぶりと音色の多様性」は、今のJーPOPの中でも「最前衛」といっていいのではないか。
そのかわり、これを「うるさく混濁せずに」鳴らせ、ayuの歌詞を鮮明に聴き取れるには、装置のバランスがよほど良くないと無理です。
この点で、過去最も高度な音作りの一つだったと思える”Ourselves"が、
ミニアルバム”Memorial Address"で悪名高いHDCDエンコードをきちんとデコードした場合に聴こえるとてつもない精密な音作りに久しぶりに匹敵したと思います(幸い、"ourselves"は
マキシアルバム"&"収録のものはHDCDエンコードなしですので、だれでも簡単に比較できますが。
HDCDエンコード問題というのは実はCCCD問題よりよほど深刻な音質への影響要因だった。
これ、"Windows Media Player"の設定を一カ所変えるだけで、エンコードONとOFFの時の音の違いは、極論すれば昔のカセットデッキでDolby C録音したテープをDolby offでそのまま聴くぐらいのとてつもない歪んだ音であることが、そのパソコンのサウンドボードかそれに対応していれば、ですが、簡単に聴き分けられます!!
(サウンドボードが対応していなくても、ソニーのDR-260DPという「マイク付きヘッドフォン」(すでに生産していない模様。楽天フリマにも今日現在出ていません)におまけのように付属していた「オーディオ・ボックス(私のはUAB-260と表示。恐らくヘッドフォンなしの単体では買えません。ドライバーのインストールも何もいらないということは、今のWinXPにもドライバが標準装備されているはず、ということになりますが、現行の後継機種にもHDCD対応が継続されている絶対の保証はないと思います)をUSBを介して接続すれば、ある程度の水準のヘッドフォンやしっかりしたパソコン用スピーカーで容易に聞き分けられます。)
特に低域のだぶつき、瞬発力の鈍さ(5th"Rainbow"収録の”Free & Easy"の「あなたの声が聞こえる」という部分でのエレクトリックギターの突然の大音響の部分の衝撃力の比較をするとわかりやすい)、ヴォーカルのエコーの過剰さ(これは4th"I am..." の冒頭同名曲の、無伴奏でのayuの歌い出しのエコー成分の比較が一番)、高域がささくれ立つなどが聴き分けの基準です。
何と、日本の「大半の」オーディオメーカーはHDCD「非対応」のままだった(
イギリスのLinnのCDプレーヤーは標準装備です)という信じられない事実があり、バランスのいい装置できちんとHDCDデコードした場合にayuのサウンドがどう聴こえるかの実態を、
4thアルバム”I am..."以降の大半のayuファンは知らないままという、とんでもない状況が続いていたわけです。
4thアルバム"I am...."はまだしもHDCDエンコードをデコードできないままで聴いても、それまで3枚のフルアルバム![]()
![]()
よりマスタリングが「圧倒的に」向上したため、音がいいのは明白にわかるから良かったようなものの、はっきりいって"RAINBOW"と"Memorial Address"に関しては、HDCDをきちっとデコードしないままでの装置の響きは実は「とてつもなく」歪んでいました。(
2枚目のベストアルバム"A Ballads"は、静かな曲が多いため、さいわいこの落差が目立ちません)。
avexは2004年になり、あの「ayuの一声」事件をきっかけにした劇的な社長交代劇の後、あっさりとHDCDとCCCDを完全にやめた訳ですが、今度はHDCDなしで、DVD-AudioでもSACDでも現行CD規格でもいい音に響くところまでシステムやミキサーの感性が再適応するのに結局1年ほどの過渡期を要したと考えられます。その過渡期の真っ最中に
"My Story"は発売されてしまった。これも一つの不幸だったと思います。
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しかし、どうも問題はそれだけではない。
私は、この1年ほど、ayu関係の情報を完全シャットアウトしていました。ファンクラブ会員なのに会報の封も切らない、他のayuサイトもまったく見ないという恐るべき徹底性で。
ですから、私は作曲者や編曲者、その他音響担当者やバンドメンバーに及ぶスタッフが「実は相当入れ替わってきているはず」ということを、ジャケットのクレジットすら目を通さないまま、「私の耳だけを信じて」推測だけで判断しています。
実は、この"Fairyland"のアルバムに、一つ前のアルバムの”STEP you"のリミックスが入っていますよね。私はこのリミックスを聴いて、思わず
「え? "STEP you"ってこんなにいい曲だったわけ?」
とあっけにとられました。
白状しますと、私がayuの完全封印を断行した最後のきっかけは”STEP you"がシングルとして出た時点で、何かすこい欲求不満と違和感に教われたからなんです。
そこには、アルバム"My Story"で、シングル先行発売「されなかった』曲の多くにつきまとった違和感と同じ質のものだったのです。
ミニアルバム"Memorial Address"までのayuは、既にシングルやマキシシングルとして発売されず、アルバムだけの新作オリジナル曲の中にこそ、実はそれまでのayuの枠を超えた、幅広い大衆的人気は必ずしも得られないかもしれないけど、「真の名曲」が必ず存在しました。
”A song for xx"が実はシングルリリースされていない曲だし、コンサートに欠かせない
"Who..."もシングルでは出ていません。
3rdアルバム”duty"の場合も、あのピアノソロ伴奏のみの佳曲、"teddy Bear"がそうだし、そもそも
あの名曲”SURREAL"はアルバムと同時にシングル発売されました。"audience"は更に後でのシングルカットですよね。
4th”I am..."に至っては、トランスミュージックの超傑作"Connected"や、"Natrurally""DayBreak"そして隠れた超傑作"No more words"が「アルバムでの初出曲です。
5th”Rainbow"になるといよいよ困った事態となり、”We Wish"や、
超傑作プロモビデオを持つ、ayuのテクノ系ダンスミュージックの代表作”real me"がアルバムで初公開のオリジナル!! あと、個人的趣味からすると、"Over"というバラードがありますよね。あれ、リスムの使い方や転調の仕方がものすごく凝っていて、「通」向けのひどくチャレンジングな曲です。
続く"Memorial address"が、タイトル同名曲が実は、”teddy bear"とワンセットで
コンサートで歌うのが「当然」の、ayuにとって「超特別」な曲で、おかげでayuはコンサートではあそこまで熱唱するのに、どのカラオケでも歌えないようになっているわけです(これはayu「特命」で、avexの著作権担当者が目を皿のようにしてその申請を蹴り続けていると考えられます)。ちなみのこの曲が誰に捧げられたものかわからない人は、ayu自身も当時のインタビューで書いてますけど、詞を「素直」に読む力があまりになさすぎますね(^^;)
と、ところが!!
6thアルバム"My story"に至って、唐突に。シングルで出た以外の曲のほとんどが、何かayuの詩に追いついていないと感じたのです。
その延長に、同じような不充足感を私に残した”Step you"が出た時点で、私はこれはヤバいと感じたのでした。
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話を戻しますが、ところが"Fairyland"に収録された”STEP you"のリミックスには、
「あれ、こんないい曲だったっけ???」
になってしまったのです。
そこで
"Step you"のシングルオリジナルを改めて聴いてみた。
ここで、すべての謎が解けました。
やはり、オリジナル・ミックスだと全然ものたりないんですよ!!
テンボが少しのろい。ベースのパートが分厚すぎて、曲が必要以上に重く、単調に響く。
そうか、このへんをayuとスタッフたちは「大手術」することにしたんだ!!
ベースを分厚く重くせず、むしろテクノ調のシンプルな「打ち込み」にして、そして、音の空間に、広がりと、反応の機敏な軽快なハイスピード感のある編曲に変えてしまった。
そしたら、やっと、ayuの高域に独特の癖がある響きが凄く「生きる」ようになったのである!!
恐らく、今後、このリミックスの方が「改訂版」としてayuも好んで歌うのではないか???
”Fairy land"には、その、何か一つの方向を見いだして吹っ切れたayuの勢いを感じます。メロディも独特の「人なつこさ」かあっていい。そして、歌詞も、明らかに前作より「吹っ切れて」いる!!
> 僕たちは今、最も永遠に近いところにいるのかも
と、さらっといってのけたayu。
私は、夏に発売されたこのシングルアルバムを「今ごろ」聴いて、ほんとうに安心したのでした。
ayuはまだまだどんどん新境地を切り開いて行ける、という確信が。
****
ついに、開設1周年にして、やっとこのブログで、ほんとうのayu解禁になりました。
そうなると、これくらいのことを一気にかかないと気がすまなかったのです。
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........しかしこれで、"My Favorite Disk"で書こうとしていたことのかなりを一応先取りして書いてしまったことになります(^^;)。
これで、年末までには、より練り込んで、しかも、すでに公表した、3rdの”duty”までを含めてネットで音楽配信されている曲は各曲ごとにアフィリエイトリンクをつける(!)という形で、少なくとも「メモアド」までは行けますね、まず。
実は昨晩は自宅に結局光通信と無線LANを引いたものの、少し設定に手こずっているうちに、どうも本日午前1時頃、当ブログが開設以来30000アクセスを突破していたことがわかりました。
ブログ開設1周年を4日後(12/19)に控えてのことでした。このペースなら無理なくこの日を待たずにクリアーするなと2週間ぐらい前には予想がついていたことなのですが。
この1年は、私に人生にとってももっともラディカルに方向を変えた年でした。
ブログ開設の時点では、1年後に自分が開業するとは考えてもいませんでしたから。
ayu中心で気軽にともかく始めようというくらいでしたから。
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実は、独立開業は、3月初め頃のある日、ほとんど「天からの宣託」のごとく唐突に脳裏に浮かび、それからわずか1時間半ほどの間に、コースや料金システム全体や収益の試算や立地についての基本構想は「完全に」出来上がっていました。
試しに今年のこの日の記事、およびそれに続くコメントで書いていることと、現在の「湘南フォーカシング/カウンセリングルーム」の実際のシステムを比較してみてください。ほとんど何の違いがないことに気づかれるでしょう。
これが決して『無謀な』ことではなく、未だに1日8時間労働が全く不可能で、「他所に出向いての非常勤のかき集めなど決して身体がもたない」ことを、まるで私個人の体調回復度の予想すら超えた「大いなる叡智」が事前に見抜いて宣託を下したとしか言いようがないくらいに、私の思っていた以上に「現実的な」道だったことにも驚いています。
そうやって自分の土俵を持ち、自分が信じるカウンセリングのスタイルを、クライエントさんとの共同作業で模索する中で、私自身驚くようなペースで、「私の」カウンセリングのスタイルが一気に洗練され、私自身の言葉でそれをあふれるような勢いでこのブログで言語化でき、
極端にいえば、寝てるか面接してるかブログの記事を書いてるかだけでどんどん日々が過ぎていき、体調の枠内で、生涯最も充実した無駄のかけらもない日々を送れているのが不思議でたまりません。
これから1年が、果たして預金口座に「入金する」だけで「現金を引き下ろす」ことがほとんど皆無というところまで、段階を追って行き着けるかの勝負です。
これからも、どうか、そういう私と、このブログで「スリルを共に」していただければと思います!!
「自分は人に、ひどく迷惑なことをした」
という思いに縛られるあまり、身動きが取れなくなり、悩みの淵に沈み込んでいる人たちがいます。
例えば、
「せっかく高い入学金と授業料を払ってもらって大学に入ったのに、結局いつの間にか通えなくなり、前期の試験をほとんど受けなかった。もう取り返しがつかない」
「鬱病で休職している間、同僚にその分仕事を肩代わりしてもらった。復職してからもまだ以前のようには働けない。申し訳なくてやめてしまうしかないのではないかと思う」
「今思うと恋人に凄く残酷なことをいって傷つけたまま別れた気がする。あの人にどうしとうもない心の傷を残したのではないか。この前メールして謝ったら『もういいよ、そのこと』と返事が来たけど、本当だろうか。直接会って謝りたい気もちもあるが、そうやって今更会うのも相手に迷惑な気がして」
「そもそも両親は『できちゃった婚』で、私が生まれなかったらとうに父とは別れているという愚痴を一度母から聞いたことがある。そもそも自分はこの世に存在すべきではなかった人間ではないのか、という思いが、いろんな面で私が自分を否定的にとらえ、前に進むことをできなくさせている」
(以上、みんな「思いつき」の例として創作して書いています。どこか似た相談を私とした記憶がある人もあるかもしれません。それはあなたとのことからの影響もあるかもしれませんが、あなたとのこと「だけ」から生み出されたものではなく、似たような相談をいっぱい私が受けてきた帰結と見なしてください)
******
ここでいつもの私の「逆説」です。
この前は「人はお互いに理解しあえねばならない」病について書きました。
今回は、
「人は他人に迷惑をかけたままであってはならない」病
というものがある気がする、というお話です。
********
もちろん、相手にはっきり謝ったり、金銭的な賠償をするのがいい場合もあります。
でも、よく考えてみると
日本人の「謝る言葉」の多くは、基本的に矛盾に満ちています。
「済みません」=基本的に、これで『済む』ということはない、ということですよね。
「申し訳ありません」=どのように言葉で説明しても、「申し開き」ができない、ということですよね。
「ごめんなさい」=これは本来、武士が相手(あるいはその場にいあわせる主君や上役)に対して、得てして人殺しすらする前に、あるいは突然立ち去る際に、「御免!」=「罪や失礼を免じてください」と、ことにおよぶ及ぶ前に「前もって」一言ことわりを入れる際の言葉ですよね。
結局、日本語の「謝る」言葉には
「許されないけど、そこを曲げて、どうか許して下さい」
という果てしない堂々巡りの言葉しかない。
*****
本当に「傷つけた」のか、本当に「許してもらえているのか」を執拗に正確に確認しようとすること自体、問題の本質を「相手の判断」に委ねている訳です。
本当は、何より「自分で自分が許せない」だけなのに。
***
だから言います。
「これまでに」人にかけた「かもしれない」迷惑は一生自分で背負って、ともかく「今の」「自分の」人生を生きることに踏み出せ
としかいいようがない場合があるということ。
「迷惑をかけた」という思いは、その人が自分自身を、これまで背負ってきた過去に「封印」「呪縛」してしまい、「現在」から先の「未来」のために「一歩踏み出す」ことを不可能にしてしまいます。
時には、相手に「申し訳ない」と感じ続けることは、
「その相手との関係を終わらせてしまいたくない」
という
「喪失」への不安、
あるいは
「未練」の裏返し
であることが少なくないと思います。
*****
人は、生涯他者に依存し、迷惑をかけないと生きていけない存在かもしれません。
でも、同時に、生涯、人に迷惑をかけられることを許し、耐え、人に頼られるのに報われない存在かもしれません。
*******
ですから、私にとっては、迷惑をかけたかもしれない相手への、最高の謝罪の言葉は、
「ありがとう」
かもしれないとおもいます。
「有難い」とは、
「ほんとうならば、あなたとの出会いがなければ『有り得なかった』ような経験をさせてもらえたこと全体にに感謝する」
という意味かと思います。
そこには、その相手から受けたいい影響や楽しかった日々への感謝も含まれています。
そして、(穿った見方かもしれませんが)、逆に、相手から受けた迷惑を「許せないけど許す」という思いも含まれている気がします。
だから(少しブラックユーモアですが)、時には「ありがとう」ということそのものが、
相手への感謝だけではなくて、
実は
「訣別」
や
隠れた「恩着せがましさ(=ありがたく思え)」
という含蓄すら含むことがあるのかもしれません(^^;)。
「ああいう」状況で別れる時に、私からありがとうといわれて少しぎょっとした皆様、
それは私が「人がいい」からではなくて(^^;)
およそすべての人生経験を肥やしにして、その「スリル」や「意外な展開」を「興味深く観察し」、「楽しみ」すらしながら生きていく
ということに開き直れるタイプだからに過ぎないの「かも」しれませんよ(^^;)
*****
私は、本日になって、日本の人間性心理学の発展に寄与された、文教大学前学長の上杉喬先生が、12月6日、私の恩師、村瀬孝雄先生と同じ間質性肺炎という難病で亡くなられたということを、旧住所から転送された葉書で知りました。すでに告別式は昨日終わった後でした。
生前の先生には、人間性心理学会において、私が学会運営委員(理事)を務めさせていただいた折や、しばしば文教大学で開かれた学会大会の折に、時々私の突飛な振る舞いや、未熟さゆえの頼りなさ加減に、それこそ「ご迷惑をおかけした」のではないかという思いも残ります。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
そして、ふと、その、同じ病気で亡くなられた村瀬先生が、まだお元気な頃。立教の研究室で、
「欧米人には、自分の人生をひとつの『ゲーム』としてとらえる視点があるからね」
と、さりげない談話でおっしゃっていたことを、懐かしく思い出しました。
この言葉は、どこかで私の人生観に、確かに影響を与え続けています。
カウンセラー検索サイト、
「こころ相談.com」の「カウンセラー特集」に、
今日から2週間、湘南フォーカシング・カウンセリングルームの私こと阿世賀浩一郎が登場しています。
(トップページの真ん中の列のやや下が「入り口」です)
どうかよろしく!!
実は、昨日の記事は、この特集の内容につながるように意識的に書いているので、どうかその「続き」をこのサイトで読んでいただければと思います。
私が学生相談をしていた頃、非常に頻繁にうけた相談の一つは、
「友達ができない。まわりの連中はお互いにノートの貸し借りとかをして試験を受けているのに、自分はノートを『貸す』側にしかまわったことがない。大学のどこにいても『居場所』がない」
などというものでした。
実は私もそのタイプで、学部生時代、知り合いの代理で一日だけ国際交流の催しに出た1日を別にすると、
何と「無遅刻無欠席」で4年間を過ごしました(^^;)
しかも、教室が開いている限り、早い時間からその教室で過ごすのが恒例だったので、講義開始直前になっても私が教室にいないと、「休講掲示」が出ていないかとマジで掲示板を見に走る学生もいたとか。これは同期生の間ではささやかな「伝説」と化しています。
当然、成績はAが多かったです。だいたい、他人の書いたノートなんかを読むだけでテストでいい点が取れる奴らもいるというのが信じられなかったですが。
それなりに友達はいました。いつでもつるんでる友達も2人いました。
でも、周囲の学生たちの「恋愛談義」とかになると全然入ってはいけず、そういう自分にものすごい劣等感を感じていました、そして心理系の読書や音楽やアニメやオーディオの世界に没頭していたんですね
ちなみに、学部は法政の哲学科です。
専攻は「記号論理学」、ウィトゲンシュタインでした(^^;)。だから前回の須賀原さんのマンガも、普通の人よりは、須賀原さんがどれくらいその哲学者を「理解して」書いているかはよくわかる立場にいます。
今から振り返れば、ある意味で、何とももったいない4年間の使い方だったかな、もし、「今の私」が今の私の経験値と感性のままで人生やリ直せるなら、自分からもっと幅広い経験をして、いろんなタイプの友達とも付き合い、恋愛と幾つかもしたかなとも思いますが、でも、決して「後悔」はしていません。
******
学生相談を始めたばかりの頃は、私は最初のような相談に対して、もっぱら「友達ができない孤独感や劣等感」に共感ばかりしていた気がします。
でも、その学生の劣等感や孤独感の更に奥深くにある、
「普通に周囲と楽しくやれている学生たち」
に対する
ものすごい「嫉妬心」
や、
ほとんど「怒り」の域に達した、
「のけものにされているかのような思い」、
自分は「普通の人間」にはなれない、
社会人としてもやっていけないのではないかという「絶望感」
まで汲み取ってあげていたかなという反省があります。
*******
私自身、ともかくも「カウンセラー」という職業に就け、
「一人前の社会人のふり」
ができるようになった段階で、
本当はその「カウンセラー」という
「外面(そとづら)」
の背後に、あいも変わらず深刻な形で存在する、
圧倒的な疎外感や
他人への「逆恨み」的攻撃性(=ねたましい)
が隠れていることに自分で直面できなくなっていたんですね。
カウンセラーが、自分で直面できてもいないものについて、クライエントさんに真の共感を向けられるはずがない。
******
それが、この前書いたような次元での「うらやましい」につき抜けるまでは、更に数年要したわけです。
須賀原洋行という漫画家さん、「モーニング」に「気分は形而上(うああ)」という漫画を連載している頃から、人間観察に長けた漫画家として、たいへん好きだったのだが、![]()
「新釈うああ哲学事典」に至って、いよいよ感心させられてしまった。
ただ、この作品の連載が始まった頃から、私のayu熱が高まり、それまでずっと読んでいた「スピリッツ」と「モーニング」を買うこともやめ、およそ活字媒体をまるで読まない時期に突入したものだから、実は最初の数話しか読んでいないままになっていた。
(私にとっては漫画ですら「活字媒体」に分類される!! そして「映像媒体」といえばayuのライヴのDVDやプロモーションビデオとアニメと実写映画みんなひっくるめて「同次元の」ものとされる。私の中には「芸術」とやらと「大衆娯楽」を区別する物差しは何もない。 ちなみに,「シリアス」と「ギャグ」という区分もない。さらに言えば,私個人のあり方としてすら「真面目」と「不真面目」の区別もない!!)
*****
ところが、ある人に、
「哲学入門書としてはどんな本がいいでしょうか」
とたずねられた時、私は結局,この作品しか,私のフェルトセンスがgoサインを出してくれる作品を思いつかなかった。
そこで、自分でも「単行本として」、やっと買ってみて、その全貌に接してみたわけである。
*****
基本パターンは、日常を生きる普通の人間が、ほとんど奇人変人のようにしてなぜか現世にひょっこり生きている古今東西の有名「哲学者」と出会ってしまい、そのおかげでSF的でシュールな体験世界に巻き込まれてしまうというものである。一話完結で、いわゆる「ギャグ漫画ページ数」でこの内容を連載するというのは、とてつもない密度というしかない。
この漫画家さん、若い頃には人生に悩み抜き、さまざまな哲学書を「自分で」とことん読みまくったのではないかと思う。
そうでないと、こういう次元でギャグ漫画として表現することは不可能である。
それはもはや、個々の哲学者の基本思想の紹介として優れているという域を超え、
「哲学するとは何なのか」
ということの本質について、見事に浮き彫りにしてくれる。
つまり、
哲学とは、普通の人なら全然気にも留めない「あたりまえのこと」を敢えて疑い、徹底的に理論再構築することによって、むしろその「あたりまえの」人の生について、新鮮なアングルから「出会いなおす」ための、壮大な思考実験である、
ということ。
伝説なのかもしれないが、りんごが木から落ちることから、一気に地球と月という2つの「球体」の関係に「飛翔」し、
およそ「質量」があるものは「お互い」に引き合う、月が地球に落ちてこないのはちょうといいスピードで公転する「遠心力」とつりあっているからだし、潮の満ち引きは、太陽と月に海水が「引っ張られて」いるから、
という、物理学の基本の公理を生み出したニュートンが、実はものすごい「変人」でもあったことは、ご存知の方はご存知だろう。
(中井久夫・飯島真「天才の精神病理」参照)
もし許されるのなら、こういう須賀原さんのような本が書ける「臨床心理学者」に、「現場カウンセラー」を引退した「晩年には」なりたいと、マジに、思ってしまう私であった。
****
カウンセリングとは、それを信じれば心の秘密がみんなわかるというような意味での「宗教」ではない。
ある意味で、クライエントさんその人にとっての「常識」を、「その人自らが」変だと感じ始め、一見さりげない形で、再び「新たな」常識的見地へと「その人なりのユニークな仕方で」「再着地」する旅の行程にお付き合いすることだともいえると思う。
その「同行(どうぎょう)」の過程で、個々のカウンセラー自身の、それまでの「常識」も、必ず打ち破られ、組み替えられる(はずである)。
*****
ジェンドリンが、心理療法の世界における「アインシュタイン」であったことが「歴史的常識」になるのをこの目で見てから死にたいものである。
これはここでのコメントとして述べたものの改訂版です。
******
人からうらやましがられる境遇って、本人からしたら、
「な、何か違うんだけどな.......」
といいたくなることって、よくあることなのだろうと思います。
私も、少なくともひと世代以上下のカウンセラーの卵たちの、少なくとも男性の一部からすると、何やらものすごいカリスマチックな存在に見られることがあります。
学会の懇親会とかで、こいつが阿世賀だと誰かに紹介されたとたん、
大の男が目を「うるうる」し始めるのがわかる。
おいおい、俺は浜崎あゆみじゃないっつーに!!
その後飲み会に誘って、「こういう機会だから、どんな質問でもどうぞ」と水を向けても、まだ、身を硬くして、
「き、緊張してます!!」
そのうちに、気がついたら私のほうばかりが話をしていて、あ、しまった!! と思って、もう一度「何でもいいけど。何かない?」と水を向けても無言。
私のほうの、そういう後輩たちからの話の引き出し方がまだ未熟で、たとえば
「フォーカシングのどういうところで今戸惑ってるの?」
とか具体的に話を振ればよかったのかなとは反省していますが、
この「うるうる」眼(まなこ).......ほんとに相手の目が一種の「なみだ目」になり、目の玉がぴくぴく。結果的に瞳全体がきらきら輝いてこちらからは見えるんですよね)で見られた体験、一度や二度じゃないもので。
「あの~ 私、ほんとにフォーカシングの本の『一読者』に過ぎなくて、フォーカシングについてはり合いのある話し相手を求めていくうちに、自然とこうなっちゃっただけなんですけど」
というのが今でも本音です。
******
だから「わらしべ長者」の話とかもしたくなるのかもしれない。
******
ただ、私の場合、むしろ、
単なる「憧れ」
から
「うらやましい」
に
「進化」するまでというのが、
実はかなりの「飛躍」を伴う、大事な過程なのかなと思います。
単なる「憧れ」は
「とても自分はその人のようになれるわけがない」
が暗黙のうちに含まれている。
「私もそうなりたい」は、あったとしても小さな部分。
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次のステップが「ねたましい」かな。
自分もそうなりたいけど、なれそうにない「悔しさ」から、心のどこかで、相手をむしろ何かのきっかけで足を引っ張り、自分と同じ地平に「引きずり降ろす」といいますか、化けの皮を剥ぎたがるといいますか(その「化けの皮」という「光背」をそのひとにかぶせて「理想化」したのはご当人なのに)。
「どうせああいう人たちは○○」なんだから、
という、イソップの「酸っぱい葡萄」的「合理化」というか、「価値の引き下げ(dincount)」をはじめる。
これじゃ、
I,m not OK,
You are not OK
にはまり込んだことになる。
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ほんとうに「うらやましい」って思えるためには、
「自分にも相手と同じようになれる資格があるんだ!!」
という、ひょっとしたら向こう見ずかもしれない「自己の可能性への信頼」がもてる必要があるのだと思う。
自分の相手へのジェラシー、「ねたましさ」の中に潜在している「私だってあの人のようになれるかもしれない」という思いを素直に肯定した時、
はじめてほんとうに心から、
「うらやましい」
と思えるんだと思う。
I,m OK
You are OK
の「うらやましさ」の境地に。
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最近の私は、自分が自分にない何かを持っている人にモヤモヤした屈折した感情
(例えば、「つまらん学会発表しかしてないのにどうしてこの人が大学教授なんだ!!」とか(^^;))
を感じた時、
そうか、私はこの人が「うらやましい」わけだ!!
とあっさり「認知の再構成化」をはかることを習慣にしています。
そうすると、むしろその人の学会発表の「いい点」についてコメントしたあと、いわば「修正意見」として、欠点をさりげな~くgentleに「付加的に」述べる、みたいなオトナの態度かとれ(^^;)、
「うーむ、こいつ鋭いところをさりげなくついてきているが、私の体面はつぶさなかった。こいつのことはどこかで覚えておこう」
とかなったりして。
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ちなみに、このことは、今をさること10ウン年前の、学会誌投稿論文初掲載の時に、私自身のひとりフォーカシング体験に基づいて述べたことの焼き直しに過ぎないんですが....
阿世賀浩一郎 「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 人間性心理学研究 第9号 1992(著作・論文・学会発表目録参照)
要するに、最近著作権宣言した「差分的照合」の最初の例です。.
実は私もあまり進歩はしていないのかもしれない。
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このネタは、結果的にこちらに「続編」としてつながります
さて、ここからはじまった、「わらしべ長者」論の更に続編なんですが。
私の、高橋留美子を通してのayuとの出会い、という方向に前回は力が入りすぎましたので、
もう一度、この昔話そのものに立ち返って、私なりの、「こうも解釈できる」というあたりを述べてみようかと思います。
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ころんだ偶然に手にしたわらしべを、ないがしろにせずに、「いじくりまわして」いるうちに、これまたたまたま回りを飛んでいてうざったかったあぶをく繰りつけて振り回し、それを牛車に乗った子どもが欲しがり、みかんと交換して.....と。ある意味で成り行き任せを重ねて行くうちに、本人も思いもよらなかった長者になりわけです。
前回までは、その「偶然の積み重ねの、成り行きに身を任せる」態度を、目標を目指して効率優先で脇目も振らずにがんばっては挫折するパターンを持つ人間に欠けた「何か」を示唆しているのではないかという観点から見ていったわけです。
今回は、この主人公の別の側面から光を当ててみます。
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観音様のお告げは「まず最初に手にしたものを大事にせよ」というだけで、それをほしがる人とどんどん物々交換していけ」などとまではいっていない訳です。
文字通りに「大事にせよ」というだけなら、牛車の子供がそれを欲しがった時に、みかん3個とはとりかえないままにすることのほうが、観音様のお告げに従うことだったはず、とも解釈できます。
しかし、かれは、その段階で自分の「唯一の所有物」であるわらしべを、子供にくれてやる決断をした訳ですね。
その後も基本的に同じパターン。反物の時は3つの中でひとつだけで馬と交換して、残り
2つで装束を整えるという知恵を発揮してますけど、それを除くと、ともかくその時点での所有物すべてを相手に提供するという態度で基本的に一貫してます。
しかも、相手がその代償として提供するものを断りもしなければ、逆にそれでは足りないと駆け引きすることも一切ない。遠慮がないとも言えますが、「ありのままに」受け取るのみともいえます。何の計算も入ってないんですよね。
何の計算も入ってないまま、それを欲しいという人が現れた時、はじめてすべてを差し出す。そしてその代価をありのままに受け止める。
ある意味で「欲がない」というか、「執着」というものがない。自分からは何ものかを欲しがろうともしない。
その点からすれば、実はこの主人公そのものが「仏様」の境地にあるとも言える気がします。
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あと、この説話の時代背景を、勝手な思い込みで考えてみました。
この話、封建制度ががっちりと機能している、江戸時代以降に時代設定すると成り立たない面がある気がします。むしろそういう制度のたがが緩んでいる時代。
牛車というものがいつごろまで貴族階級に使われたのかわかりませんが、あえて時代設定すれば、応仁の乱の室町後期から戦国時代ではないかとも思えます。物々交換でばかり話が進むのは、貨幣というものの信用がまるでない時代と想定できます。
そして、最後に「戦に出向くために」馬と領地を交換する武士というのも、江戸時代の幕藩体制の元では考えにくい話で、「どこかの領主に自分を売り込み、戦いで手柄をたてて一気に成り上がろう」と考えていた、ごくごく小規模の領地しか持たない貧しい武士だったと想像できます。
主人公はその小さな領地に満足し、そこをまじめに耕す中から得られた利益で満足していた。幸い、領地争いの戦とも無縁な、地政学的にも地味な土地だったんでしょうね。だから「長者」といっても、ものすごいお金持ちではなくて、せいぜい村の庄屋さんとして土地を貸した小作農からの上納米をもとに取引できるぐらいの収入が得られたので、一般の百姓よりは1ランク羽振りがいい、それ以上の欲もなかったのだと思います。
恐らくこの時代、領主が誰かもはっきりせず、それこそ
映画「七人の侍」のように、野盗や山賊まがいの支配者が、武力で兵糧や若い女を略奪し、一つ間違えば、丹誠込めたせっかくの田畑が戦場として踏み荒らされる、ある意味でまさに「わらにもすがって」いないと、明日の生活がどうなるかもわからない中で、土地に縛られずに、臨機応変に刻々と変わる現実を受け止めて生き延びた風来坊の中に、むしろ本人も予想していなかった「階級上昇」を果たした連中も、少ないながらもいたのだと思います。
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私たちは。今の現実が同じように明日も続くという前提に立って、今の経済や社会の継続を前提にした「長期的計画」のもとにやっていることが多すぎるのではないでしょうか。
敢えて言います。
明日地震がきて、自分が死んでしまっても、悔いのない人生、生きてますか?
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死ぬまでに、『七人の侍』と
『ローマの休日』だけは観ましょう!!
どっちかというとみゆき党で、ユーミンの方は「荒井」時代をほとんど知らず、いきなり、
"REINCARNATION""VOYAGER"
"NO SIDE"
とアルバム3枚を学生時代にリアルタイムで買って、その後も詳しくは知らないという私なんです。
この3枚、プラス、
「荒井」時代のシングル全集
を繰り返し聴くうちに、
「みゆきはクラくて、ユーミンは明るい」
という、ありがちなイメージに何か凄い違和感が出てきました。
このことについては、時を置いて何回かいろんな観点から書きたくなる気もするし、"My Favorite Disk"の方でもこれから書くかもしれないけど、とりあえず書いてみたいことを、まずはユーミンの方から書いてみます。
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この歌、「調布基地」から、恐らく遠く見積もっても八王子インターまでという、ひどく短い距離しか情景描写されていないことをどのくらいの人が意識しているだろうか?
八王子といえば、学生時代のユーミンが住んでいた土地である。つまり、どこまでも「彼氏に家まで送ってもらっている」歌なのだ。
そして2番の歌詞になると、唐突に、
> この頃は ちょっと冷たいね 送りもせずに
となる。1番の歌詞とさりげなく「時制がすり替えられている」のだ。
つまり、曲が終わってみれば、「中央フリーウェイ」で彼とドライブしたのは、すでに「過去完了」の「思い出」の歌」というふうになってしまっている!!
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次に。私が個人的に、シンコペーションが効いたリズムに乗ったメロディラインが大好きな「川景色」("REINCARNATION"収録)を取り上げよう。
まるで、この時のことがすべて過ぎ去ってから振り返っていることであるかのようにも誤解させる「現在形」と「過去形」の微妙な混用。
> 恋が消えてしまったら この景色も消えるから
まるで、「どうせこの恋も終わる」とすでに決めてかかり、だから「今の」この瞬間を楽しんでいる、ということを「自覚して」しまっている。
これじゃ心の底では不安を実感してしまっていていて、「今」に刹那的に浸りきれない「脱同一化(disidentification)」された「もう一人の自分」の醒めたまなざしが絶えずそこにあるということではないか。
> 流れが音を立てて 足元を危うくする
などというあたりも、この恋そのものの危うさ、儚さの詩的隠喩といえるだろう。
もし、こうした次元での「詞の深み」に、むしろ「大人の女」(人によっては逆に「大人になりきれないモラトリアム少女」などと言い出すかもしれないが)を感じて、自分の恋愛体験と重ねて、深く共感して、ユーミンを愛している層がかなりいるのだとすれば????
もしそうだとすれば、男たちは、結構鋭い刃物を陰で突きつけられながら「にこにこ笑っている」ユーミン好きの彼女の外面にだまされている、「懲りないやつら」と言えるかもしれない
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以前、「天気雨」
について紹介した時の、鉄ちゃんならではの分析は該当ページの終わりの方を参照してほしい。
いずれにしても、この歌、茅ヶ崎で彼とはじめて合流する「おしかけデート」の歌であり、「クールな彼」に気持ちがほんとは通じていないのを「顔で笑って心で泣いている」=「天気雨」の歌なのである。
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このように見てくると、
「決してこの恋は報われない」
という強迫観念に近いものが「荒井」由美時代の「後期」から実は執拗に繰り返し歌われていることに気がつく。
そのもっともストレートな表現の曲が、ユーミンの不滅の代表曲である、
であり、
> 次の夜からは欠ける満月より
> 14番目の月が一番好き
そして、松任谷プロヂューサーとの結婚を機に、「荒井由美」卒業、引退も考えていたという、「ひょっとしたら最後の曲になるかも」
という深い思いの中で作られた
で、なぜか
> 輝きは戻らない
> 私が今死んでも
という、荘厳なまでの超傑作の「別れの歌」となってしまっている、ということにもつながるのである。
ユーミンにとって、結婚という「満月」に達することそのものは、それまでの自分全体の「死」の危険を犯すことでもあったのだろう。
幸い、ユーミンの真の円熟期は、そのもう少し後の「松任谷」時代にあらわれた、最初に述べた3枚という気が私はするのだが。
ネオ・シーダーというのが各地の薬局で売ってることが多いのはご存知の方も多いでしょう。これはあくまでも咳を鎮め、痰を切るための「医薬品」です。禁煙のためのものではありません。
あと、有害物質除去と節煙(徐々にニコチン依存を緩める)補助効果が公的にも認定されたパイプとしては、
Re80というのが一番高性能ではないかというのは私がいろいろ試してきた帰結です。使い捨てカートリッジとかもなし。本体をアルコール洗浄すれば1年使え、しかもタバコの味をあまり変えない程度は確かに私の経験からも最高級。
専用ケースを使ったアルコールでの洗浄のしかたに、私の発見した「コツ」があります。専用ケースでアルコール漬けにして20分経つまで放置、そのあとケースごと「シェイク!!」するまでは仕様書どおりですが、ここで一度ケースからバイプを取り出し、アルコールにぬれたままの状態で、パイプの両側の口から「細身の綿棒」を突っ込んで、綿棒が全く汚れなくなるまで「煙突掃除」をする。その上で再びアルコールに浸して数分、再びシェイク!! そして水洗い、という順序にすればパーペキです。
このパイプ一本がそこそこ値が張るので、スペアとしてもう一本買っておいて、送料を浮かすと、いざなくなったリ見当たらなかった時、「損した」気分を味あわずにすむかも。
*****
なお、湘南フォーカシング・カウンセリングルームは室内禁煙です。
そのせいで寒い吹きさらしでもタバコをすわずにいられなかったので風邪がこじれた......な~んて書いたら「喫煙者のたわごと」といわれるでしょう m(_ __)m
むしろ、今回の、何と1年半以上引かなかった風邪は、やはり知らず知らずのうちに無理をしているのがたまった結果だというのは、身にしみて感じてます。
それにしても、自分の風邪すらネタに商売する、転んでもただでは起きないこういちろうであった。
予約ケースもないのをいいことに、昨日は湘南フォーカシング・カウンセリングルームに一度も顔を出すことなく、医者からもらった薬を飲んで自宅でひたすら静養していました。
今日は第一土曜というもともとの定休日です。医者からの薬は効いて、明らかに峠も過ぎましたが、大事を取って、今日一日はネット活動も自粛します。
金曜日(12/2)にご予約・お問い合わせのあった方がありましたら、お返事は明日(12/4)
午後以降になりますことをお許しください。
そうした中、昨日(12/2)は316アクセスいただきましたことに感謝申し上げます。
最近どんどんひどくなる一方の、ココログのライターの書き込み深夜掲載時の異様なトラフィックの悪さ、そのため二重掲載をやらかしてしまうことで、読者の皆様にもご迷惑をおかけしている現象、それどころか、最悪の場合、自分のコントロールパネルへのアクセスすら不能になる現象に対する@niftyサイドの説明はこのようなものです。
ま、@niftyさん側も山のようなクレームに神経をすり減らしていることでしょうが、今や個人ユーザにとっては従来のホームページに取って代わるほどに主流となりつつあるブログにおけるこの問題、いわばメールにおけるスパム対策と似た性質もある気がします。
自分にとって意味のあるメールをスパムの山から見つけ出すたいへんさ(むしろメールソフトやセキュリティソフトで自動的にスパムと選り分けられた中から、たいてい、そんなに普段はやりとりしない個人からの重大なメールを発掘し、クリーンメールとして設定しなおす労力の方が大きい)。
そしてインターネットのパケット通信の恐らく9割近くがそのような無意味な情報に容量を浪費されている現実。
インターネットの、個人に自由な開かれた双方向メディアという情報伝達の最大のメリットと表裏一体かもしれないですが、まさにこれは戦場の中でいかに生き延びるかに近い、シビアな問題で、こちらもよほどタフな神経としたたかさを持っていた時はじめて有効に使いこなせることは、肝に銘じて行きたいと思っています。
さて、前回の「わらしべ長者」の補遺みたいなものですが。
......つまり、私の場合、
アニメ「犬夜叉」のエンディングであった
"Dearset"を経て浜崎あゆみに出会う、という、高橋留美子経由でayuファンになった人の「黄金ルート」を経ていないわけですね。
そもそも、もう、「犬夜叉」の頃には高橋留美子の
原作もアニメももう全然見てない!!。だからいつ頃の時期のアニメ版で"Deatest"が使われていたのかも掌握してませんでした。
(追記:そこで今回調べたところ、第40話から第62話までと判明したので、上のDVDのアフィリエイトも、その範囲の中のひとつと置き換えました)。
ま、とりあえず、
このCDに"Dearest"は、TVエンディングバージョンの短縮版ですが、確かに入ってるわけです。...
もっとも、TVの
「高橋留美子劇場」の時間帯で、引き続いて
「人魚の森」が大変高水準でアニメ化されたのは嬉しかったですけどね。![]()
主題歌もすごくよかったし。
******
さて、
更に別次元でayuと「わらしべ長者」をワープ・リンクすると?
> すべては偶然なんかじゃなく
> すべては必然なことなのかもしれない
*****
と、いうことで、同じアルバムに収録された"Dearest"を含めて、"My Favorite Disk"での”I am..."評掲載が、実は風邪がぶり返しまして(^^;)遅れてることの罪滅ぼしも兼ねて....
(罪滅ぼしとしては、結構、このアルバムの「本質」についての私なりの理解をさりげなく提示した、相当高度な「ワープ能力」を駆使していることはわかる人にはピンと来ると思いますが)
ちなみに「わらしべ長者」ネタはこっちにも続きます!!
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