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2005年1月

2005/01/31

MAC miniの衝撃

実は、MAC miniを衝動買いしたのですが、いろいろな意味で衝撃がありました。期待を遥かに超えています。

特に、パソコンでのAVコントロールセンターとして見た場合の、音質の実力にショックがありました。なんと聴かせ上手な、うまい音作りなんだ!! 

少し前から愛用していたBOSE マルチメディアスピーカー:MEDIA MATE II Black [MEDIAMATEII-BK]【在庫目安:豊富】BOSEのパソコン用小型スピーカーからまさかあんな音がとび出すとは。ayuきいても、Dynabook Qosmioあたりのサウンドとは、何か「伝わってくる」ものの次元が違いすぎるのです。

DVD再生機としてみても、そして、7万円台ではなくて5万円台のCPUの遅い方のやつの256MBのメモリーの素のままで、QuicktimeをProに3000円投資して格上げするだけで、コマ落ちもない、十分な画質と音質です。

ついでに、ADSLも、これまた「素のままで」、いろいろ調整した上でのDynabookより数値的にも体感的にもかなり早いのには「恐れ入り」ました。

明日午後から仕事始めだし、ちょっと原稿書きの仕事も締め切り間際ですので、数日のうちに詳しくレポートすることにして、今日は速報まで。

2005/01/29

「私のフォーカシング」第1部 完結

私がホームページをリニューアル再開した時から1番やりたかったことのひとつ、「私のフォーカシング」、その第1部といっていい、前半が、4ヶ月の長い療養休暇の終わる最後の日の前日、今日、取り敢えず完結しました。

リスナーなしの、ひとりフォーカシングのプロセスを、このような日記的な形で連続的に記録して、それを公開するというのは、少なくとも日本では最初の試みです。しかも、それを書いた人間が、フォーカシングに初めて接した20年前から、日本で一番、ひとりフォーカシングのキャリアを持ち、ひとりフォーカシングの意味と価値について訴え続けてきた人間によるものであることも確かです。

一般には、仮に何の教示をしてくれなくても、リスナーが目の前に、ただ聞いてくれるだけでもいる方がフォーカシングはやりやすいとされています。私はそれに異を唱えてきた日本でほとんど唯一の人物です。

ひとつには、リスナーがいると、リスナーがほんとうに私の言うことにピンと来ているかどうかに、わたしはひどく敏感です。「気配」でわかるんですよね。だから、リスナーに伝わるように「解説」しながら進めねばならなくなる。

もうひとつは、そうやって最初からひとりフォーカシング中心で自分のフォーカシングのスキルを鍛え上げた私の場合、そこで出てくるフォーカシングの内容が、「恐るべき無法地帯」と化していること。それをリスナーには語れないわけですね。仮に性的なものでなくても、ayuメーテルがいきなり出てきて、これらの話にスッとみんなついてこれるリスナーって、普通いると思います?

読まれた方はおわかりのように、もう、なんでもありです。映画、アニメ、仏様、日本神話、セックス、ついにはayu自身まで平気で出てくる。

でも、それが「私の」勝手なイメージの遊びではなく、自分の内側の言葉にならない曖昧な感じそのものを、まるで「他者」のように扱い(これを、「脱同一化(disidentification)」といいます)、「その感じ」からの訴えにひたすら真摯に聞き入り対話するという、実は非常に厳格で厳粛な枠組みのなかで進行させるものであり、一見変な言い方ですが、「私」自身の「恣意的な」介入すらできないのです。

敢えて誤解されるのを承知で言いますが、まさに「内なる神」との厳粛な対話です。

それを、フォーカシングについて予備知識のない皆様にそのまま提示したら、何の脚色をしなくても、それだけで、私という「喜劇役者」が主人公の「エンターティメント」としてすら読んでもらえる。

それをきっかけに、その背後にある、フォーカシングという技法自体に関心を持ってもらえるというという、そういう、フォーカシングの「伝道」もありじゃん? (もとより一種「捨て身の戦術」ですが)……という実験的試みなんです。

でも、実は、これは何の特殊なことでもなくて、例えば、本当にcreativeな創作活動をしている人なら、小説家でも、漫画家でも、シンガーソングライターでも、みんなやってることだと思います。

私の文才が、それらの人たちに及ぶとは思えないし、何しろ、原型は、「日本フォーカシング協会」のクローズなメーリングリストという、フォーカシングにもともと関心の強い人たち相手のものなので、どうしても技法的な話や心理の専門家向けの表現はしてしまいます。

もっとも、WEB版では、できるだけ専門用語をかみくだいた普通の言葉に置き換えましたが、それでもそうした部分がわずらわしい方もあるかもしれません。

今後、そのへんは、「マイナーアップデート」を重ねます(^^)

私のayu論そのものを読みたかった方には、こっちの方ばかりに先に力を入れたことを、申し訳なく思ってます。

でも、休暇中にここまではやっておきたいのは何か、となると、こっちだったんです。お許しを。

これでしばらくは、リハビリ出勤の合間合間に、思う存分、ayuのことも書いていくことはお約束します。

もっとも「私のフォーカシング」は、まだ数話分草稿はあり、内容も、更にすさまじくなります!!(この点では、宗教に関心ある方も、ayuファンも、アニメファンも、決して期待は裏切りません。


何しろ今後の重要キャラ(私は個人的には「守護霊」と呼んでます)のひとりは、

かの有名な「○○ちゃん」ですので!!

( 「あの」制作会社、一定範囲でのWEBでの画像著作権フリーだし!!)


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というわけで、この書き込み、初の「コメントOK」にします

ただし、このブログの「独裁者」は私であることをお忘れなく(^^)。

スパム、出会い系の類をはじめとする不心得ものは、情け容赦なく「削除」!! 書き込み不能の設定に登録します。

 私以外に対してを含む個人攻撃も同様です。

2005/01/28

カウンセラーの「自立」とは?

ちょっとソファでうたた寝をしていたので、こんな変な時間に書き込んでますが、短くこれを書いたら本格的に寝るべく歯も磨きましたので。

(結局「私のフォーカシング」全編で一番面白い可能性がある「第8話」は諸事情で、今日午後か明日ということで.....)

なぜか歯磨きだけはこの休みの間に以前より几帳面になりましたね。休暇中、歯の具合がずっと悪かったせいもあるでしょうけど、生活の中で「次の行動に切り替える」のにちょうどいいからという気もします。あと、歯茎やあごの辺りに頭痛と関係ある「ツボ」がいくつかあるのをパーソナルに「発見」して、電動歯ブラシの振動が心地よくなったのもあるかも。


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朝日新聞(05/1/10付)によれば、日・中・韓で異なるツボの規格統一をするらしいけど、ホントは「その時」「その人にとって」どこがツボか、身体がよく知っているんじゃないかと。どの程度やればいいかを含めて。

施術する専門家を含めて、単なる知識ではなく、その時の身体の感じに敏感になりながらやらないと、むしろヤバイことが待ってる気がする。

このことは、フォーカシングにも言えるし、どの流派の心理療法にもいえると思います。

「型」から入って、それが次第に「魂のこもったもの」になるという、東洋的発想も大事な面もあるんだろうし、本当にフェルトセンスに敏感に対話することがわからないうちに「やりすぎ」になる危険も確かにあるでしょうが。

ただ、少なくともその道の「プロ」になろうとする人は、「こと自分自身を材料とする限りは」ですが、「やりすぎて痛い思いをする」ことでしか学べないことはいくらでもあると思いますが。

フロイトも、コカインの効果を信頼しすぎて自分が一度コカイン中毒そのものになったのは最近よく知られるようになりました(この本にも出てきます。JCBのポイントの引き換えで「ぺ」を「べ」と勘違いして注文してしまったんですが。……なんていう言い訳しなくてもいいか。結構楽しんじゃったし)。


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もとより、すべての人が、そのような「開拓者の『諸刃の刃』」をわたることはないわけです。


私にしても、自分自身のリスナーとしては、実は

「保守的なまでの、頑固一徹なアン・ワイザー主義者」

の一面を持つことは「私のフォーカシング」の連載でも暴露しつつあるとおりです。


ただ、それは、アン個人をまるで母親か何かのように「崇拝」することではない。


たいへん厳しいことを言うようですが、自分のフォーカシングの指導者と、自分の親との関係を結局反復「だけ」しているうちは、「自立した」トレーナーとはいえないと思います。

だから、フォーカシングを学ぶ臨床家も、どしどし他の流派の人と「他流試合」をして、自分を「相対化」するまなざしを失うべきではないです。


フォーカシングなんていう、

狭い世界の中で

他人にどう思われてもいいではないですか!


とすらいいたい。


その意味で、フォーカシングのフォの字も出さないままでの「現場臨床」を持ち続けられたことは、私にとっては幸せでした。

それがプライベートな「日常」にすら「真に」定着するのに、この数ヶ月がかかったのだと思います。




****


きっと、これからの後半生、何度も道に迷いかかり、自分を再び見失い、

「『あの』数ヶ月の自分を思い出せ!!」

と、自分に言い聞かせる羽目に何度もなると思いますが。




> 何度道に迷ったのだろう
> その度にあたたかい手を
> 差しのべてくれたのも あなたでした


Voyage"voyage"

詞・共同作曲・歌:浜崎あゆみ


「あなた」とは「彼氏」のことではなくて、「聴衆」あるいは「もう一人の自分」と受け取めて味わってもみるのが、ayuの詞を読む時の「作法」です。



*******

そうした意味で「あなた」を読み替えた時、特別な意味を持つ曲。


ayuが、唯一、CDの中でカバー曲(他の人の歌った曲)として吹き込んだ、

日本の歌の歴史に永遠に残りそうな曲で、

今回は締めくくりたいと思います。


> 人ごみに流されてかわってゆく私を
> あなたはときどき遠くで叱って

> あの頃の生き方をあなたは忘れないで
> あなたは私の青春そのもの


荒井由美/Super Best of Yumi Arai1972-1976「卒業写真」

詞・曲:荒井由美

(浜崎あゆみバージョンは、浜崎あゆみ / A BALLADS (CD) (Aポイント付)アルバム"A BALLADS"に収録)


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学校生活に少しでも関わりそうな歌詞をついぞ「一度も」自分では書いていない、ayuの、唯一の「例外」。

しかもそれすら、自分の詞ではないということの意味……

2005/01/27

「私のフォーカシング」本編、久々の大更新!!

2大連載のひとつ、『私のフォーカシング』、一気に6話、7話、追加できました。

皆さん、どのような感想を持たれるでしょうか?

……といいつつ、実は次の「8話」まで行って、ほんとうの意味があるのだと感じてます。

急用がない限り、今日のうちに一気にやります!!

そこまでやって、はじめてayu関係も本格的に前に進めていいという心境になりそうですから。

2005/01/24

勤務再開確定!!

1/31(月)からの勤務再開、確定しました。

個人的なことなので、いちいち書くまでもないのかもしれないけど、それに至るまでの心境を、ここまでここで吐露させていただいてきた以上、行きがかりとして(?)、つつしんでご報告させていただきます。


とりあえず最初の2週間は月・水の4時間のみ。

その時点で産業医と再度面接して見直しという、慎重なスケジュール。

私も完全に納得です(^^)

大学側の手厚い配慮にも感謝しています。

2005/01/23

地名とフォーカシング ~私のフォーカシング 特別編5~

おととい、昨日は、月に1度、恒例の、三重県四日市市でのフォーカシングの勉強会でした。

「私のフォーカシング」最終回で登場したヤマトタケルノミコトの終焉の地とされる能褒野[のぼの]はこの近く。

そもそも「三重」の名の由来そのものが、今の四日市市の釆女付近の坂で疲れ果て、足が萎えて、

「吾が足三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」

と言われたと「古事記」で伝えられることにさかのぼります。

現在その地は「杖衝坂」と呼ばれて史跡になっています)。


現地のホテルから書こうと思っていたのですが、パソコンの電源コードを忘れるという失態のため(私のパソコンは充電池だけでは1時間半しか持ちません)、先延ばしになりました。


***


カウンセリングで強調される、「受容」とは何か?

私は、クライエントさんと「共にする」面接の「場」の中で、私自身の中に生じてくる、すぐに言葉は見つからない、曖昧な感覚を、その共感できる感覚、あるいは抵抗や不安を感じさせられる側面すら含めて、みな、それぞれの感覚を、私自身の中に「認めてあげられて」、「共にいられる」ことだと思っています。

53556098つまり、カウンセラーは、クライエントさんに「共感できない」でいる自分すら、自分の中で認めておく、これが必要なんであり、何かすべてを受け止めてあげられる「聖者」のような境地に無理してなろうとすることではないわけです。これが、来談者中心療法の祖、ロジャーズの言う「治療者の自己一致」ということです。

むしろ、そうやって、カウンセラー側が、「無理に」すべてを受け止めたつもりになろうとかしたら、その分の「歪み」が、クライエントさんと共にする「場」の空気に微妙に影響し、伝染し、クライエントさんをむしろ「拘束」し始め、クライエントさん自身が、己れの感じることを深い次元で味わい、言葉にしていくプロセスを妨害し始める。

つまり、治療者が「自分自身でいられること」と、クライエントさんが「自分自身でいられること」は、完全にパラレルな現象とすら、私は仮定しています。

クライエントさんの「生の哀しみ」すら含めた何かを「共にさせていただいた」と感じたとき、私自身の中にも「それでも生きていける」というエネルギーをクライエントさんから「分けていただけた」気すらします。

******

幼児虐待や性的虐待、暴力や戦争や災害後のストレスに苦しみつつも生きてきたクライエントさんについて、"survivor"(生存者、生き残り)という言葉が使われることがあります。

治療者以上に過酷な苦しみの中で、ともかくも「生き延びて」来れたクライエントさんに、敬意と崇敬すらを感じながら、実は生きる元気をいつも「もらいっぱなし」になってるのは「治療者」としての私の側ではないか、とすら言いたくなります。

この前書いた、

「他人の人生に『寄生』していくことを『生業(なりわい)とする』」もの

としての

人生の「『漂泊者』としてのカウンセラー

とは、実はそんな次元のことすら含みはしないかと思っています。

でも、たいへん逆説的なことに、これくらいに治療者が感じてお会いしている方が、クライエントさんも「自然と」自分の悩みを克服していく。

クライエントさんを「救う」ために何とかしないと!! などと感じているうちは、治療者は自分のことをクライエントさんより上位の存在と位置づけ、暗黙のうちに自分の「支配下」に置こうという「悪魔の誘惑」からは自由になっていないわけですね。

カウンセラーの中の、このような無意識的な「優越感」や「差別意識」に、クライエントさんは、実に敏感なアンテナを持っているものです。


****


いずれにしても、そうした意味でも、クライエントさんに会えないというのは、カウンセラーにとっても、つらいことでもあります。

3日前の産業医との面接で、

「まだカウンセリングそのものには戻らない方がいい」

といわれました。

まずは「通勤する練習」ぐらいのつもりで、

週2日ぐらいから、勤務時間も短縮して、

ということは、ある程度は自然と受け止められるものもありました。

病後に無理をしすぎて後で迷惑かけるくらいなら、そのほうがいいし、実はこの2日間の四日市へのセミナー講師としての外出をしてみて、家ではピンピンしていても、まだまだ以前より疲れやすい自分も自覚しましたので。


****


しかし、心の一方で、奇妙な「引っかかり」が自分の中に残りました。

私はこの「引っかかり」をすぐにうまく説明できませんでした。私が本当に回復しているのかについて不信の目で見られている面に、少し「傷ついている」自分にはすぐにその場で気がつきましたが。

唯一続けていた、都心のカウンセリングルームでの非常勤の面接の仕事の中では、むしろ自分が存外に、相手と、それまでにない深い次元で「あっさり」つながれ、現実と戦い続けるクライエントさんの心の修羅場を、ありのままに共有させていただき、クライントさんにもいい後味を感じていただきながら面接できることに、私自身驚きすらしました。

自分の「ふところ」というか、まさにイギリスの精神分析家、Bionがいう、心の容器、"container"が、いっそう深くなり、自分のカウンセラーとしてのいっそうの成長のひそかな手ごたえを感じていました。

でも、私が「私のフォーカシング」で連載しつつある、自宅でのひとりフォーカシングの中でどれだけのことを積み上げたかなんて、産業医に話しても意味はないし、確かに外出を仕事のために連日続けたことはない以上、客観的に見ても、走り出してからまた息切れするくらいなら、無理のないペースでリハビリ出勤からはじめるのがいいし、まわりもその方が心配せず、納得するだろう、というのは「頭では」わかるけど、何か「腑に落ちない」。


****


私は大学からの帰りの電車の中で、その独特の「腑に落ちなさ」を、"キープ"し続けました。

「ああ、今もあるよね」

と、何分かに一度

「認めてあげ」はするけど、

それ以上の「頭での」こねくりまわしはしない。

これを私は個人的に昔から


「フェルトセンスの”キープ(keep)"」


と読んでます。


「保持し続ける」という意味では"hold"とかでもよさそうなんだけど、"hold"というと、精神分析用語として、イギリスのWinicottが言う「抱えること」を連想させすぎる。


むしろ、飲み屋での「ボトル・キープ」の感覚に近いものすら感じていたので。


その言葉にならない、「一定の質感を持った曖昧なモヤモヤ感覚それ自体」を、ゆったりと自分のペースで「味わえる」『あの』場所にもどるまでは、「そのままにとっておいてもらう」。


****


途中の経過は省きますが、自宅でのひとりフォーカシングの結果、たどり着いたのは、

「私の中の、クライエントさんと会いたいという気持ち」を「自分で」押し殺して、「来年の勤務契約が確定するまではおとなしく上役や産業医に『仰せの通りでございます』とばかりに頭を下け続けた、

「私」


『保身』優先の態度


「私」自身が、自分でも『傷ついて』いる、


ということでした。


****


現実には、今の時点では「ことを荒立てない」のがいいことは、わかっています。

でも、

そういう「保身する」自分に傷ついている

"「もう一人の自分」"がいることを、

少なくとも「認めてあげておく」必要はあるのだと。


****


そのひとりフォーカシング体験のあと、

ある人から、先日の『茨流(いばら・る)』について、おもしろいヒントをもらいました。


「茨城(いばら・ぎ)」の名の由来は、


「北方の豪族から攻められないように、『茨の城』を作った」


ことから来ているようです。


私なりに調べると、ここにもそれについての説明があります。
(私の方からの初のトラックバックです)


しかし、自分の身を守ることが長期的にはカウンセラーとしての社会的身分の維持につながるとはいえ、ほんとうはクライエントさんに会いたい気持ちを抑えつけてでも「保身」のために大学の組織的決定には進んで順応し、身を守る


「茨流(いばら・りゅう)」


はつらいと思いました。


****


いや、まてよ。


もっと「とげを出す」


のが、

ほんとうの

「茨流」

の保身術かな?


****


さて、最近は必ず音楽とも結びつけることにしてるので、どうしようかな。
(まるでWeb上のDJみたいになってきた)


> あんたも朝から忙しいんたろ がんばって稼ぎなよ
> 昼間 俺たち会ったら お互いに「いらっしゃいませ」なんてな

> 狼になりたい 狼になりたい ただ一度


          
             「狼になりたい」
            詞・曲・歌:中島みゆき
            アルバム、親愛なる者へ「親愛なる者へ」より


*****


もっとも、日本のフォーカシングの世界では、このページの存在そのものが、とっくに「狼」になっているという噂も、ちらほらあったりして。

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2005/01/21

フォーカシングと「やまとことば」  ~私のフォーカシング 特別編4~

産業医との面接のあと、「人事課長などの方々の決済」が降りるまで、結局今日もお休みのこういちろうくんです(^ ^ ; )

とっくにピンピンしている人間に、ただ飯食わしている方がよほど大学側の損失だと思うのだが。


***


ayuネタの更新を期待されている方には、この「雑記帳」の話題がどんどんayuから離れて拡散していくかのようにお感じになられるかもしれなくて、少し申し訳ないと思っています。

次に本格的「おすすめayu」でayuネタやる時は、何しろあの「三部作」ですから、いくら草稿がすでに手元にあるとはいえ、少し気力を「貯め」、ここぞというタイミングを計っているものとご理解ください。

私がayuについて書こうとする際の方法論が、実は、中島みゆきだろうが、シューベルトだろうが、基本的には同じであり、我々が日々「目に映るもの、聞こえてくる声」を、いかに味わい、「受け止めて」いくかという、ある意味では、あまりにさりげないことを、いかに丁寧にじっくりやるかということであり、それが実は日常化したフォーカシングなのであり、そのことによって、世界"graceful"なものに一変して体験され始めるのだ、というあたりを、ゆっくり山の裾野を散策するようにして、感じて、味わっていただければと思っているわけです。

(などと、まだ、ここで書いた、ELTGraceful World"Graceful World"にまた引きつけたりして。

*******

前回、恩師村瀬孝雄先生のことに少し触れましたが、その村瀬先生に、大学院生の頃にお伝えして以来、あちこちで吹聴していただく光栄に預からせていただいたことがあるんです。

それは、

「フォーカシングの中で、決定的な鍵を握る、心に響く言葉となるのは、なぜか『やまとことば』が多い」ということです。

ここでいう「やまとことば」とは、「漢語」ではない、あるいは、「音読み」より「訓読み」指向、ぐらいの意味に幅広く受け止めていただいていいです。


***


わたしが村瀬先生に当時お話ししたのは、次のようなひとりフォーカシングの経験でした。

それは、当時、もう誰だか忘れましたが、ある人との対人関係の中で、心に「しこり」のようにして残った「モヤモヤ」についてふりかえるフォーカシングの中でのこと。

まずは


「嫉妬」


という言葉が浮かびました。


でも「もっと」しっくりそうな言葉がありそうで探していると、


私はその人を「なめて」いた


という言葉になり、


「ねたましい」


という言葉になった。


でも、これでも95パーセントぐらいいいけど、何か、今ひとつ。


更に探しているうちに、


「うらやましい」


という言葉になったんです。


そしたらすごいシフト、つまり、身体感覚全体の心地よい変容を伴う洞察体験になりました。


「ああ、あの人のことを『うらやましく』思っている自分をあっさり認めたら楽になるではないか……」


その瞬間に、一見当たり前の日常語だったはずの


「うらやましい」


という言葉そのものが、自分にとって、いろんなことについての気付きを、多様な次元で連鎖反応的にもたらす、パーソナルな、深い含蓄を持った言葉に変化しました。


****


私は当然、「うらやましい」という言葉は、すでに「知っている」し、始終何かで読んでいたわけです。

しかし、よくふりかえってみると、「うらやましい」という言葉を、私自身の「自分の気持ちを表わす言葉」としては、日常の中で、ほとんどそれまで使っていませんでした。

ところが、これ以降、例えば、他の人が自分にないものを持っていたり、予想していたより、人間として優れていることに直面した時、

以前なら、


「自己愛」が傷つけられた


とか、


「劣等感」を刺激された


と感じて落ち込むような場面で、


「そうか、私はこの人が『うらやましい』んだ」


と感じることが自然にできるようになることが増えました。


カウンセラーって、こういう「自己愛」やら「劣等感」やら「抑うつ」やら、専門用語に整理して、人の心を理解して済ませてしまう習慣にいつの間にか取りつかれる中で、


「その人の、その時の」心の微妙なひだ


を感受しようとしなくなる「職業病」があると自戒してます。

それに対するアンチテーゼとしての「やまとことば」の復権、という思いもあります。


***


敢えて理屈で説明すれば、「うらやましい」という言い方には、


「その人のようになりたい」


という、自分の気持ちへの自己肯定と、


「その人のようになれるかもしれない」


というかすかな希望の光のにおいがすると思うのです。


そして、その人のあり方を否定したり、ねたんだりする、「相手へのnegativeな感情」もすでに「止揚」され、「昇華」されて、


"I am OK,You are OK"


の境地に達したとも言えます。

もとより、これらは、あとで振り返ってはじめて出来る、retrospective(遡及的)な説明のいくつかの例であるに過ぎず、もっといろんな説明は考えれるでしょう。


しかし、それらの説明は、

「うらやましい」

という言葉が私の中に思い浮かんだ「その」瞬間には、まだ思い浮かんでもいない。

しかし、「うらやましい」という言葉が浮かんだその瞬間に、すでに、私は、もう引き返しようがないところまで「変化している」のです。

世界や、周囲の人間についての、身体ごとの、ものの感じ方全体が、少しだけ変容移行(shift)してしまい、新たな成長のステップに「進んでしまっている」のです。


****


それは「悟り」に近い何かのような気がする、とお感じの方もあるかもしれません。

ただ、「悟り」という言い方のは、すこし「ご大層な」響きがあり過ぎる、と、個人的には感じます。

むしろ、「悟り」とは、そんな「ご大層な」ものではなく、さりげない日常のそこここに、いくらでも入口は「開かれて」いるのかもしれないと思います。

> 何てことない毎日こそが
> 何よりも素敵だって知ってるから


と、ここで、唐突に、
ayuのGreatful days"Greatful Days"と結びついたところで、今回の終わりとします。


(などというふうにして、実はちゃんとayuの話でまとめちゃうあたりが、私の、油断も隙もないとこだったりして)

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2005/01/20

突然シューベルト ~私のフォーカシング 特別編3~

いよいよ明日に産業医との面接となりました。

でも、その結果を受けて、人事課長が決済を下し、センター長を交えての、今後の勤務についての話し合い、という手順を踏むとなると、正式に業務に更に数日以上を要するかもしれない、というのが私の「勘」です。

ま、あっさりあさって、金曜から仕事、あるいは来週月曜からの復帰はあるかもしれません。

主治医の診断書には「2日勤務、1日休みでの当面の復帰が望ましいと考える」とありますので、おそらくそれが今年度の残りの今後の勤務には採用されるでしょう。

***

そうした中でのフォーカシング


途中の経過は「封印」します。

ただ、最近恒例の、へそのあたりの下の感じがメインであったこと。

そして、最後は、イメージの中で、亡き恩師、村瀬孝雄先生に頂いた紙に、筆の達筆の楷書体で黒々と、


「茨流」


という文字が記(しる)されていた、という終わり方だったということだけ、お証ししておきます。

「いばら・りゅう」

ではなくて、なぜか

「いばら・る」

と読むことで身体にしっくり来ました。


*******


この言葉、手元の辞書、電子辞書ではこの言葉では全く検索不能!!

「(茨)いばら」という言葉からは実に様々な次元で、心に響きあうものがあります。

最近、川の流れに関わる話をこことかここでも書いたので、「流」という字が出てくるのも何となくわかる。


「茨城県」の地名まで検索しましたが、そこにもなし。

「茨木」市も調べたけど。

「茨」と「薔薇」はいうまでもなく、やまと言葉として同源。

「茨の花」は夏に咲くものとされ、そのせいか、季語としては「夏」らしいですね。


*******


> Roeslein, Roeslein, Roeslein rut,
> Roeslein auf der Heiden

と、「野ばら」のゲーテの詩まで思わず鼻歌で浮かぶ始末。


上に引用したのは、

「薔薇よ、薔薇よ、赤い薔薇よ、荒れ野に咲く小さな薔薇の花よ」

ぐらいの意味。


このサイトに、原詩と対訳、そしてこの詩がいかに多くの作曲家によって作曲されたかが書かれています。

でも、代表的なのは、パン・フルートウェルナーのと魔王(シューベルト&シューマン歌曲集)/ボストリッジシューベルトのでしょうね。

原詩は、一見子供と薔薇との対話に見せてますが、「童は見たり」の「童」のドイツ語の"Knabe"は「少年」でなくとも、幾つになっても「独身男性」には皆使えるらしいです。

そのつもりでもう一度これ(特に、下のほうのドイツ語と対比した「直訳」の方を読み返してください。

****

このように言われて、
もう一度ゲーテの詞を読み返した瞬間にあなたの中で味わえる


「その」身体感覚まるごとの変化


が、フォーカシングで


 「シフト」


と呼ばれる現象(の、ごくごく小規模のもの)です!!


単なる「認知の変化」ではない。「身体の感じ」が「変わってしまう」でしょ?


(このへんが、「ゲシュタルトの転換」とか「ディコンストラクション」という、従来の概念にないもの。「解釈の仕方でどのようにでもなる」なんてもんじゃないの!! そういう言い方する人は、まだ「頭で」わかってるだけ!!)


 「世界の感じられ方、味わい方」そのものが一気に変わる瞬間

 そして、一度そう味わったら、もう、以前の「世界」には戻れなくなる


(正確に言うと、このことがさっきの私の示唆なしに皆さんの中で「自然発生的に」起こる場合。でもこうして私が示唆しても、シフト「しない」人は必ずいる!!)。


恐らく、言葉のニュアンスを体得している生粋のドイツ人なら、そしてゲーテがプライベートでどういう人だったか知ってる人なら、私に言われなくても「気付く」でしょうが、ドイツ人でも、小さな子供の頃はわからなくて、ある年齢に達して、ある日突然、「そうか! うふ、気が効いてるよな」とシフトするものなのかも。

ですから、ウェルナーのメルヘンチックな作曲ではなくて、シューベルトの少し皮肉っぽいメロディの方が、詞の本質を深くつかんでいると私は思っています。


ウェルナーに「観えて」なかったものが、

シューベルトには「観えて」いたのね。


ウェルナーに「観えて」いたら、ムソルグスキーの、これまたゲーテの詩による、ヴォルガの舟歌~ロシア愛唱歌集「蚤の歌」のような曲にしたかもね。

(ウェルナーに、そこまで作曲の才能があれば、の話だけど、少なくとももっとコミカルな曲にしようとしたかも。その代わり、幾多の作曲家のこの詞への作曲のように、忘れ去られてたりして。ドイツ人でも、「観えない」人には全然「観えない」証しみたいなもんだな)


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2005/01/17

更に中島みゆき

前回、寒水魚「寒水魚」収録の「時刻表」について言及したので、勢いでもうひとつ。

「時刻表」とこの曲を、みゆきの2大「鉄ちゃん」ソングと呼ぶのは私だけか?

シングルでは「わかれうた」のB面だったと思いますが、アルバムではあ・り・が・と・う「あ・り・が・と・う」の方に切り離されて入ってたと思います。

「わかれうた」とは一転して、見かけはすごく平易でのびやかなフォーク調なんですが。

> ふるさとへ向かう最終に
> 乗れる人は急ぎなさいと
> やさしいやさしい声の駅長が
> 街なかに叫ぶ

> 振り向けば空色の汽車は

……と始まる曲。

「ホームにて」。

だだ、恐らく、「空色の汽車」は実在しない。


>ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券


それに乗ることは、かなえられない、心の中だけの「帰省列車」。

この歌も、前回述べた、「故郷喪失者」の歌に入ると思います。

再び中島みゆき

年の瀬に、「時の異邦人」というタイトルで書いたことの延長なんですが。

すべての詩人がそうとはいえないでしょうけど、広い意味で文筆や芸術を業(なりわい)としている方って、土地に根を張った「実業」の中で生きる人たちに対して、微妙な「異邦人」意識を持つことが少なくなく、それを延々疎外感として引きすりながら、それを主題として描いていくタイプの人と、むしろ「今いる場所こそその時の自分の故郷」みたいな心境に至れる人(もちろん、その二つの間を揺れ動く人)がいると思います。

カウンセラーも、「自分の人生」を生きるのではなくて、いわば「他人の人生」を生きること」、より過激な言い方をすれば、他人の人生に「寄生する」ことを生業(なりわい)としているという意味では、永遠の漂泊者という気がするのです。

だって、自分ひとりではとても体験不可能な、さまざまな人の生き様を

「見せていただける」

「聴かせていただける」

わけで。

でも、それはカウンセラー自身の人生ではない。

極論すれば、クライエントさんを自分の「生きがい」にしてしまうことで、いつの間にかクライエントさんを無意識的に自分に縛りつけ、いつまでも「先生、先生」といってもらえることに満足を見出す状態にはまる、「悪魔の誘惑」と戦い続けなばならない。

ちょっと前に流行って一気に廃れた言葉ですが、カウンセラー自身のクライエントさんへの「共依存」への誘惑です。それをきつい言葉で言えば「寄生」になるわけですが。


私たちは、クライエントさんからいつの間にか忘れ去られる存在にならねばならない。

少なくともそのことへの「覚悟」は常にしていなければならない。


***


ふしぎなもので、自分がちょうど克服したばかりの課題をもろに抱えたクライエントさんが突然目の前に現れるってこと、よくある気がします。

どうみても、それがこちらが今そのことに関心を持つ「認知枠」を持ち、そこで自分に「ひきつけよう」としているからそう思える、というだけでは説明がつかないケース。

ユングの言う

「治療者は自分のたどり着いた所までしか患者を治療できない」

が真実と思える瞬間です(ユング 『心理療法論』 みすず書房)。

相手との関係がバランスがいい場合、なぜかクライエントさんは、その時点でどこまでその治療者に話しても大丈夫か、ほとんど本能的に察知しているのではないかと感じる瞬間って、よくあります。

ま、単に、以前もクライエントさんはその種のことを話していたけど、その時点ではこちらにそれを受け止めるセンサーがなかっただけ、という場合も、面接記録を詳細に読み返すと気づくことも多いですけどね(^^;)

そして、自分のことが見えてくるにつれて、他人のこともわかる(より正確に言えば、相手の方に、「わかってもらえたという手ごたえ」を感じていただけるようになる)というのも、なにも治療場面に限らず、日常の対人関係でもおこる、当たり前のことかもしれませんね。

****

私はこの数年、面接場面に埋没しすぎたと思ってます。結果的に、「カウンセリング」を生きがいにしすぎたと。

もとより、それが体調を壊し、こういう経緯を経て、大の社会人が経済的心配をせずに、4ヶ月も無為の日々をもち、とことん自分の好き勝手ななかで無為の日々を過ごし、自分を振り返れたということ自体、ほんとうに贅沢な「充実しきった」日々でした。

私は、セミナーとかで人にフォーカシングを「教える」という意味での才能はないと思ってます。自分がフォーカシングひとりでも「できすぎちゃう」から。他人がそれをできないのが「理解できない」から。

ひとりフォーカシングがなぜ世の中に常識的知恵として普及しないのか、「理解できない」から。

周りの人が「ついてこれない」「ひいてしまう」などという理由で、手加減なんてできないから。

だって、そうやってぎりぎり限界のフォーカシングをして、やっと生きていられるんだから、

もっと加減しろ、なんて、私に「死ね!」といってるのと同じだから。


あえて宣言しますが、


「私は、自分のためにしか、フォーカシングをしません」


「フォーカシングを臨床現場で生かせないか」という観点からフォーカシングに関心をもつのが「入口」になるのはそれはそれでいい。


でも、それがきっかけであるに過ぎない段階を「卒業」できないのなら、


「フォーカシングの『臨床適用』」

なんて発想自体、

「糞食らえ!!」


です。

私は、とことん、技能としてのフォーカシングを「私物化」します。


*******


でも、こういう本音を隠し持った人間が、「業界」の中にひとりぐらいいた方が、これからフォーカシングを「自分のために」学ぼうとする人たちにとって、好ましい状況を維持するための、

まさに川の流れのど真ん中の

「巌(いわお)」

としての役割を果たせそうな気がするから、

協会の運営にも関われば、

コーディネーターやトレーナーの資格も返上しないだけです。


*******


そして、一フォーカサーとしての経験を「つづる」こと、「しるす」ことならできる。

これが私のフォーカシングの伝え方なのではないか、と思うに至りました。


「私のフォーカシング」シリーズには、そのような私の思いが込められています。

今、連載更新が見かけ上止まっていますが、これは単に成り行き上そうなってるだけで、予定された全10数話は、草稿はすでにほぼ完成の形で手元にある以上、こつこつとHTML化を進めますので、お楽しみに。

それらがすべて公開された時、そしてその存在がネットを通して、フォーカシングに関心を持つ日本の人たちの多くに知れ渡った時、私は大きな役割を果たしたことになる、という確信だけはありますので。


****


この前、「『巌』となりて」を書いた時に親愛なる者へ「小石のように」で久しぶりに中島みゆきのことを思い出したので、思わずCDを何枚か買いました。大学生時代にLPでは予感「予感」あたりまでは持ってたんですけど、アナログプレーヤーは壊れたままだし。


実は「予感」以降の中島みゆきはフォローしてないので、口を挟まないことにしますが、やはり、寒水魚アルバム「寒水魚」は、何か特別な光輝くオーラで包まれたアルバムですね。

特に最後の2曲、「砂の船」

> 誰か 僕を呼ぶ声がする
> 深い夜の 海の底から

と始まる曲と、

「歌姫」

> 歌姫 スカートの裾を
> 歌姫 潮風になげて
> 夢も哀しみも欲望も 歌い流してくれ

ともりあがる曲、この2曲は、歌詞の意味内容とかに関係なく、「この世の人」が歌っていると感じられないくらいの、言葉で言い尽くせないオーラに満ちていると感じてます。

この2曲を知らずして、日本のポピュラー音楽を語るなかれ、と個人的には言いたくなるほどの、深い思い入れが「今でも」できることに、気がつきました。

****

実はこのアルバムの「時刻表」という曲に、

> 誰が悪いのかを言い当てて
> どうすればいいかを書き立てて
> 評論家やカウンセラーは米を買う

> 見えることとそれができることは
> 別物だよと米を買う

という、辛辣そのものの歌詞が出てきて、大学院生の頃から、いい意味で「苦笑」していたんです。

でも、やはり、

> 見えることとそれができることは別物

であってはならないし、別物であり得ないとすら思います(^^;)


つまり、「できない」なら「見えてもいない」のよね、

ホントはね。

2005/01/14

”My Forite Soft”コーナー作りました

……といっても、DVDソフトでは「ない」というあたりが、どこでもパソコンを正式に学んだことない文系人間としては、厚顔無恥な試みなんですが(^^;)

この新コーナーは、私が普段使っていて本当に役に立っていると感じているソフトを、特にネットセキュリティとパソコン高速化、不要ファイル・レジストリ消去どいう特定の部門にしぼってご紹介し、よければ人様にも買ってもらい、おこぼれに預かろうというセコいコーナーです。

実は、私の業界では、私程度でも、パソコンができる人に入れられてしまって、時々他人にどのソフトがいいか尋ねられたり、人に紹介したくなったりすることも時々あるので、「この」ページに行ってもらえばリンクすべて張ってますから、と言って済ませられるという効用もあります。

しかし、ブロードバンド化の流れの中で、ソフトって、「中身が空っぽに近い箱」を店で買うものではなくて、相当な巨大ソフトですら、ダウンロード購入が手っ取り早くて安い時代になってしまったものだと最近つくづく思います。もとよりバックアップはしっかり取らないと、お金払ったのに手元に何も残らなくなる危険はあるわけですが。

このような「偏った」ジャンルのソフトにありがたみを感じるあたり、私のある種の潔癖症(いつの間にかゴミファイルとか余計なものが貯まっていないかどうかの確認癖)が出ているなと我ながら思うのですが。その割にはこてごてインストールしてます。でも、私のパソコンは本来のスペックからすれば軽快に動く限界に近い状態をそれでも維持しているという自負はあります。

2005/01/13

今晩、恐らく誰も予想もしない新コーナーが突然現れます

昨日は、日本フォーカシング協会のネット関係の「仕事」だけで1日が終わってしまい、久々に全くの無更新の日でした。

その副産物でもあるのですが、本日中に、唐突に、皆さんの予想もしないコーナーをオープンさせることを思いつきましたので、お楽しみに!!

2005/01/11

コメントOKはあと少し待ってください

どうも、やっとトラックバックに使っていただける方も出てきたようで、感謝いたします。

でも

「どうしてブログの醍醐味のひとつである『コメント』受付してないの? そうすれば横のネットワークどんどん広がるのに」

とお感じの方もあるかもしれません。

いずれ、『コメント』受け付けもはじめたいと思っていますが、

1.デザイン等を含めて本部ホームページのリニューアルをまずはもっと進めたいこと。

2.私の「2大連載」である、「私のフォーカシング」にしても、「こういちろうのおすすめayu」にしても、某メーリングリストで書き溜めた草稿がそれぞれ十数回分すでにある(!)現実の中で、それらの吟味とHTML化を、とことん自分の納得いくペースで進めたいこと。

3.それこそ、やることのourselves「選択肢が多すぎて、見当もつかない」もので(^^;)、自分なりのペースを取ることを優先したいこと。

4.そもそも「固定リンク」の使い方に昨日やっと気付いたくらいに、ブログについてまだ無知な人間であること(^^;)

あたりが主な理由です。

早い話、「何か書きたいと思った時に、気軽に書き込めて、それで見た目もきれいなページが簡単にできちゃう」メリットあるなというのが、ブログをはじめた最大の理由でしたから(^^;)

いずれにしても、私のコンテンツの中で、一番activeなのがこのページです。ちょくちょく覗きに来てくだされば幸いです。

ayuプレゼンのpptファイル、あと少しだけ追加公開しました

学会でやらせていただいた「浜崎あゆみとスピリチュアリティ」のプレゼンで使わせていただいたパワーポイントのファイルのうち、forgiveness"forgiveness"のPV関連の「宇宙卵」の部分はすでに公開させていただいていましたが、今回、プロローグの一部も追加公開させていただきました。

学会や教育場面だからはじめて許容されるであろう、著作権のギリギリまでプレゼンではやってますので、こんなふうな、文字だけの部分の部分公開にとどめるつもりです(これ以上は、パワーポイントの内容の直接の公開範囲は広げないと思います)。

あとは、webで可能な形に変えての「こういちろうのあすすめayu」の連載をお楽しみに!!

2005/01/10

トップページの表示の仕方、明解な形に変えました

これを機会に、トップページの表示を明解な原則に整理しなおしました。

今後は、原則として、DVDやCDやPVのソフトの縮小画像そのものをクリックすると、それらのソフトの購入ページに飛びます。

その縮小画像の後ろ文字リンクをクリックすると、それらについて言及した私のコンテンツに直接移動します。

そのような形に表示を統一しました。

これまで煩わしい思いをした皆様、ごめんなさい m(_ _)m

要するに、ブログ初心者ゆえに「固定リンク」の使い方の便利さに気付いてなかった……ということと、見る側の立場に立った視点がまだ欠けていたということで、反省しております。

(といっても、どなたかからクレームのメールが届いたというわけではなかったんですが。前の書き込みをしている最中に「なんとなく」気がついたのです)

年賀状の部分、煩わしいかもしれませんが、地元鎌倉のタクシーの運転手さんの話だと、「この3連休までは初詣客がおいでになる」という意識で仕事されてるようです。

私もそれにならいます(^^)

今日の16時ごろの更新は?

えーっと、今日の16時ごろHP更新していることになってるけど、どこの何を更新したか、いいますと、●浜崎あゆみ “MY STORY”<通常盤+予約先着ハマダオリジナル特典+beat freak 12月号プレ...”MY STORY"について書いた「タイタニックとayuと三船敏郎」の、"MY STORY"の個々の曲から、moraのダウンロードサイトへのリンクをつけただけです(^^;)

ayuファンの人なら、当然アルバム買ってるから、こんなリンクわざわざつけなくていい(アフィリエイトの対象ですらないです)でしょうが、このページには「フォーカシングに興味をもっててもayuは普段そんなに聴かない人」も大勢いらっしゃいますので、アルバム買っていただく意欲持っていただく「お試し」のきっかけとして、こういう「こまめな」リンクサービスにつとめとります(ちなみに、primixTVから直接ダウンロードするより楽天からの方が価格は「安い」です)。

以前も私の観たお相撲さんの夢について書いた時に触れたけど、アフィリエイトにしたからって、かなり多い日ですら「全ベージ総計で」200と数十アクセスが普通の、「幕下」クラスのHPで得られる見返りなんて、ほんと「わーい、今日は1円玉2枚ももらちゃった~ 貯金箱に入れておこ」の次元ですってばさ。

それが十両を経て、前頭ぐらいになって、「横綱」と対戦できるまでは、早くても1年はかかる、というくらいの、気長な「長期的展望」でしか考えてません。

フォーカシング関係では、「日本フォーカシング協会」を別枠にすれば、とっくに日本一の検索ヒット率ですけどね。

2005/01/09

"MY STORY"やっと登場

浜崎あゆみ/MY STORY ≪限定版 +DVD≫"MY STORY"、やっとホームページ本部の「私のフォーカシング」「特別編2」として登場です。

(「2」ということは、「1」も何か考えてるということですね。それはまだ秘密)。

今回もまたまた、タイタニック「タイタニック」、そして、この前紹介した戦国魔神ゴーショーグン 劇場版 Special【PIBA-115006】 =>20%OFF!《発売日:02/02/22》『時の異邦人(エトランゼ)』やら、すさまじい寄り道をします。

それでも、終わってみれば、まるで計算され尽くしたかのような浜崎あゆみ論になっている、という、困った代物ですが、どうかよろしく。

2005/01/07

「巌」となりて ~私のフォーカシング 特別編1~

フォーカシングを日常に生かす」って、どういうことなのか?

「ちょっと世慣れていないけど、やさしく話しきいてきれ、気持ちを汲んでくれる、『人間的にすばらしい』人だから、組織のなかでそういう存在のあり方を許される」

みたいなカウンセラー像や教師像なんて、これから、いろんな現場で活動していくようになれば、通用せず、むしろ裏返しの「甘え」と「おごり」であると言われる時代になる気がします。


「周囲が、カウンセリングのことについてよく理解してくれない」

などというグチ、

「現場にカウンセリングについて認識してもらうための啓蒙普及活動」

なんていう次元を超えて、

カウンセラー自身が、したたかなまでに現実的な「社会性」の持ち主になること、今後は「独立開業」のカウンセラーが今思われているよりも早いベースで急増していくと私も思っていますが、場合によっては、ある種の「経営感覚」をも持っていて、そういう点で海千山千の社会人たちに「なめられない」存在になっていくことも大事だと思うのです。

もとより、とっくのむかしにそういう「現実との格闘」の泥沼の只中にあり「大学という恵まれた環境で、体調壊しても失業の恐怖もなく、私学共済の手厚い手当てもらってる人間にそんなこと言われたくないワイ!!」とうけとられる方もあるかもしれないのは覚悟で、


「カウンセラーよ、逞(たくま)しくあれ!!」


ということを、再出発に際して、何よりまずは「私自身を元気づける」ために書いているものとご理解ください。

****

実は、産業医との面接を経て、はじめて「休職」解除になるもので、まだその日取りが決まらず、実質的に休暇はまだ続いているんですね。

そうやって、休みを実質延長でとれて、ホームページの更新もはかどるかなと思ったら、さにあらず。

昨日届いたMacのiPOD、ホント楽しみにしてたのに、まだ箱の封も切ってない。

****


そうした中でのひとりフォーカシングなんですが。

途中の経過は略しますが、

例の、「宇宙卵とフォーカシング」の中で、おへその下の私の「棲み家」のあたりの感じとして、改めて出てきた最後の言葉だけをここで書きます。


「巌(いわお)」


いうまでもなく、「君が代」の「巌となりて」の「いわお」です。


あの歌の意味、皆さんも一度くらいは誰かから説明してもらったと思いますが、


「小さな小石(細(さざ)れ石)が大きくなって、苔のむす大きな岩になるまで」


という、「自然界の法則の正反対」を歌っているわけですが(^^;)


もとより、川を流れ下った細かくなった堆積物が地層になって、褶曲して地面に出て、さらに侵食されて大きな岩の形になるまで、と言う意味に解すれば、

「人類史なんかはるかに超えたすごい悠久の時」

を歌った歌として「再認識」出来ますが(^ ^)

もともとは、どうも筑紫の国(つまり我が故郷であり、ayuの故郷でもある、福岡!!)の伝説に基づき歌い継がれた古謡にさかのぼり(実は雅楽の「越天楽」も同じメロディに起源を持ち、更には、まさに福岡の「黒田節」も同源というのはかなり知られたことかと思います)、古今和歌集で撰者の紀貫之が、「賀歌」の項の筆頭歌として、「君が代は」ではなくて、「わがきみは」で始まる歌として採録したあたりから、「公的な」色彩を帯びるわけですが。

(追記:恐らく、中国の隣の「小国」日本が、世界に名だたる「大帝国」になるまで……という意味で「公的には」受け取るべきなのでしょう。でも、ひょっとすると、「わがきみは」で始まってた当初の由来は、ひとりの娘さんから男性への「あなたにずっといて欲しい。あなたに栄達して欲しい」という「恋歌」だったのかもしれない。このへんはまだ資料にあたってません)


****


いずれにしても、私の中では、「いわお」という言葉は、山奥の大渓谷の数十メートルはある大きな岩魂(がんこん)、苔どころか、上に何本も松の木が生い茂るくらいの岩のイメージとなり、それが私のおなかのあたりに「どっしりと」ある、という実感で見事に身体と響きあい(resonateして)、味わえていました。


****


私としては、その地域の教育委員会と教職員組合が、そんなつまらないところでの論争に明け暮れるくらいなら、そして、その程度のことで教師の処分とかがなされるくらいなら、目の前にいるひとりひとりの子供たちのことについてもっと「具体的に」考えることに共にエネルギーを注ぐのが当たり前の時代が早く来ることを祈るのみです。

もとより、近隣の国でも、お札の「国家最高指導者」の肖像の部分に折り目を入れただけで罰されたり、映画館で映画が始まる前に国王の姿と国歌が流れる中で全員起立しているかどうかを憲兵が見張る国もある。

都知事になる以前の青島幸雄が訳した、ジェームス・クラベルの「23分間の奇跡」という本にも描かれているごとく、「国旗への忠誠」問題は他ならぬアメリカの公教育上の問題としてブッシュ政権よりはるか以前から問題視されていたことは知っています(それを引き合いに出して、「アメリカだってそうなんだから日本でも」という論理しかいえない奴は、「自分」というものがないただの○○(^^;))なんですが)。

私自身は、君が代は、東洋の国歌のなかでも民族的な旋律の響きをもっとも大事にして作られた「名曲」のひとつであり、親しみを覚えます。

早く「起立したかしないか」を「卒業」しないと、むしろこの歌がかわいそうです(^^;)


****


そして、もうひとつ、この時の私の連想と結びついた、歌をご紹介して、終わりとします。


> 山をくだる流れにのせて
> まだ見ぬ景色あこがれ焦がれ
> 転がりだす石は16

……と始まる歌なんですが。


……この歌を「君が代」との対応で考えたことある人、います?


「小石のように」

詞・曲・歌:中島みゆき
親愛なる者へアルバム「親愛なるものへ」に収録

(CD:ヤマハミュージックコミュニケーションズ ASIN:B00005HVAZ)


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2005/01/05

突如スピリチュアリティの話

私がayuページをざっくばらんにやる一方で、ことフォーカシング、特に「私のフォーカシング」で書いてることって、妙に「神秘主義的」で「宗教的」ですらあり、ついていけないと感じてしまう人もあるかもしれないので一言。

フォーカシングそのものは、全然特定の宗教とは関係ないし、私個人も、平均的日本人なみに、特定の宗教の信者として入れ込んでるわけでもなんでもない人です。

ただ、誰にでもある、自分の中の、言葉に容易にならないモヤモヤときちんと向き合って、それをことばやイメージとして新鮮に体験できるようになるための技法が、フォーカシングであるに過ぎない。

例えば、ある映画を見たあとに、「ある独特のあと味」を伴う感動って「あとを引く」余韻として延々として残ることってありますよね。

「よかった!!」友達に話したら、

「あれのどこがよかったの?」

とかいわれたりした時、自分の「感動」を説明するのに「言葉につまる」ことってあるじゃない?

「あの、トム・クルーズの……」

といいかけたら

「トム・クルーズなんかのどこがいいんだよ!!」

と言い返されたりして。

自分が体験した、感動を、他人に「実感として」伝えるのって、すごくむすかしいよね。

「私、○○君、いいとおもうんだけど」
「えーつ、あいつなんかのどこかいいのよ?」
「だって、ええっと……やさしいし……」
「あいつのどこがやさしいのよ、あいつのこと好きなんて、信じらんな~い!!」

とかいわれて、すごく傷ついたり。自分でも、ほんとにその人のこと好きなのか、自信なくなったり。

ayuも、No way to say“Original Mix”"No way to say"で、

「誰もが言葉にならない思いを抱えながら、今日を生きている」

って歌ってるけど、

自分がほんとに感じてる「実感」って、実はそう簡単には自分でも言葉にすぐにはならないのが本当だと思う。言葉で説明するのがやたらと流暢でうまい人って、単に自分の中で「すでに出来上がっている」理屈をうまく使い分けてるだけで、自分の気もちには実は全然触れられないところで生きているだけってこと、ある気がする。

宗教信じてる人でもそれは同じで、まるで辞書を引くみたいに教祖様の言葉を引用して、まるで世界のすべての原理がわかったみたいな顔してさ、

「じゃ、あなたは神様が本当に存在するっていう『実感』を感じたことってあるんですか?」

とかになると、

「そういうことは、ものすごく修行を積んで、はじめて実感できる境地」

だとか、

「神様を体験したとか言う人なんて、うさんくさいよ」

とか言い出したりすることもある。

そういうのきいてると、

「あなた、ほんとのところ、その宗教を通して「仲間」や「指導者」に出会えたから救われただけで、「その宗教」に救われてるんじゃないんじゃない?」

とかいいたくなることもある。

ほんとうは、特定の宗派を「信仰する」ことと、その人が「スピリチュアル」な体験の中から、ほんとうに救いを得たり、変化していくことってのは、全然別のことだと思う(それが重なり合う人もいると思うけど)。

敢えて誤解を招くのを承知で言えば、実は、みんな、自分のためだけの「宗教」を持つことが出来るんだと思う。世界との関係、他者との関係、自然との関係、生きる意味、すべてについて。

そして、その生き方が、他人から見ても全然変ではなくて、むしろこの人は確かに人間として成長していると、有無を言わさぬ説得力で感じてもらえるということは、ありうると思う。その人が、別に「教祖様」にもなろうとはせず、一介の社会人としてごく普通に生きているだけであるとしても。

そういう、とことん「パーソナルな」spiritualityを持った人は、実は少しずつ増えているのが、今の時代なのではないか。

そして、そういう人たちこそが、政治的な「煽動」に乗せられて、国全体が変な方向に進むことを抑止する「地の塩」としての働きをしていくことを、私は信じたいと思っています。

この辺については、私がここで書いてることも、ご参考に。

”Kanariya”できました

こういちろうのあすすめayuのほう、

やっと更新、kanariya“Original Mix”-Radio”Kanariya”です!!

実は書き始めるその瞬間まで、
その次の「あれ」のことを書こうと思っていたのに、
いざ打ち込みはじめたら、

「やっぱりこの曲に触れないまま先に進むのはイ・ヤ・だ!!」

と私の身体が駄々をこねたので、渋い路線になるのは覚悟で、ayuプレゼンでは実際にはやらなかったこの曲を独立して取り上げることにしました。

"immature"と同様に、今のayuはライヴでもう決してやらないので、意外と、この曲そのものを、若い世代は聴いたことなくて、逆に新鮮かもしれません。

ライヴのアンコールのラストとしておなじみの、名パラード、”Who...."の音源にもリンクを張るチャンスにもなりましたし。

2005/01/02

お正月休みのせいか?

お正月休みのせいか、特に夜になると楽天ダウンロードサイトはかなり渋滞してつながりにくい場合もあるようです。

リンクはきちんと張られていますので、その場合は時間を置いて再チャレンジしてみてください!!

明けましておめでとうごさいます

皆様、明けましておめでとうございます。

ayuのカウントダウンは今年はまだ体調に自信がなくて諦めたといいましたが、結局紅白からTBSの年越しライブを全部見倒してしまい、さすがに元日はHPの更新もこの日記も休ませていただきました。

(カウントダウン、あの雪の降った寒い中、代々木に実際見に行った人には格別の感慨があったでしょうね。かわいそうに、地方の人の中には、交通機関がままならなくてたどり着けなかった人も出たらしいことは、ニュースでまで報道されてましたが。)

いずれにしても、こうでもしないと私は「ayu以外」のその1年のJ-POPの状況など把握しとらんのだ(^^;)

ただし今年はプロジェクター……学会とかで常に自分の納得いくパワーポイント表示できるので「自前」にしました……で、「80インチサイズで」見られたので、ある臨場感はあった。ただし、以前テレビを置いていたAVセットの壁面にもろにスクリーン吊るしたので(音楽のみ聴くときだけは巻き上げる)、ニュースだろうと天気予報だろうと80インチなんですが。空冷ファンが回り続けるプロジェクター、これ動かしだしたらエアコンをかなり弱めにしないとならない。ラップトップパソコンがひざの上だとカイロがわりになる(あまりこれをやるとCPUが熱暴走するのかもしれないが)のと同様に、ものすごく暖房の足しになります。……ということは、夏は逆の事態が待っている……ということになりますけどね(^^;)

どうもNHKに出てくる時のayuって「借りてきた猫」みたいに何か緊張していることが多くて、オープニングでは、和田アキ子のとなりという、一番よく画面に映る場所をもらいながら(あれは和田アキ子の配慮だと思う)、相変わらす表情は硬かったけど、今年は賞レース辞退で昨年までほど年末に声を酷使していなかったことと、MTVのAWARDの大舞台で外国勢相手にあそこまで歌えたことでひとつのハードルを越えたのか、そして、直前の韓国の(名前忘れた)有名女優兼歌手の歌唱と演出のインパクトに闘争心かきき立てられたのか、Moments"Moments”は95点ぐらいの出来になっていたと思う(繰り返すけど、MTVの「受賞式」でのBecause of You"Because of You"という、120-130点くらいのをTVを通してとはいえ見てしまった上での評価である)。

振り付けと演出は、その「受賞式」の前日のライヴでのものを手直ししたもの(後半の衣装速変わりを別にして)だったけど、その日のやや緊張しすぎで硬さがありで、85点くらいのよりは、はるかに、いい意味での緊張感を維持できたステージだった。

「ayuは歌が下手だ」とかいう人に限って、ayuにとって年間で最悪のコンディションの大晦日の一連のライヴの「テレビ中継」くらいしか知らなくて、ここ2,3年のライヴのDVDとかは観てないんではないかと思う。

恐らく30日に前撮りした、TBSの方の"GAME"INSPIRE”INSPIRE"も90-95点はいっていた。

あと、思ったのは、AVEX系のアーティストって、なんのかのといって「平均水準」高い。歌唱力も、センスの点でも。

実はさくらんぼ大塚愛のライブ映像を「はじめて」TVで見たオジサンなんですが(^^;)、あの子がAVEXで今一番伸び盛りの、何か独特の光るオーラがある子というのはよくわかった。この子はまだまだ伸びる、その点で心配ないと思う。

あの、「拡声器」を使うというアイデアには、はじめてみたオジサンは「コロンブスの卵」だなと嫌に感心してしまった(先例あるのかな?)

すごく声の魅力と歌唱力を感じても、「この人、この曲が生涯の代表曲にならないかな」と予感させる歌手って、よくいる気がする。そういうことと、「年々成長していく」可能性だとか、舞台の上でのオーラの強さは別物だと思う。ayuなんて、パフォーマンスも歌唱力も年々伸び続けているしね。

そういうのとは別の意味で、あややとかも、つんくファミリー全体がどうなろうと、アイドルとしてまだまだ「生き残る」オーラがあると思う。

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