Firefox3.5は3.0より動作が軽くなったと思う。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
●土居健郎さんが死去=「甘え」の概念提唱(時事ドットコム)
========引用はじめ=======
日本人の心理を説明する「甘え」の概念を提唱し、さまざまな分野に影響を与えた精神医学博士の土居健郎(どい・たけお)さんが5日午後3時27分、老衰のため死去した。89歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は長男望(のぞむ)さん。
東大医学部卒。米メニンガー精神医学校に留学し、日米の人間の行動様式や心理状況の違いに着目した。帰国後は東大教授や国際基督教大教授、国立精神衛生研究所所長を歴任した。
1971年に発表した「『甘え』の構造」は国内で140万部を超えるベストセラーとなり、数カ国語に翻訳された。日本人特有の「甘え」をキー概念として精神分析したもので、政治学や社会学、文化人類学などの諸領域に影響を与えた。
近年は、「甘え」が必ずしも日本人独特ではなく、ある程度普遍的なものではないかという考察に達していたという。(2009/07/06-13:00)
========引用おわり=======
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
このことはこのブログでもこれまで言及したことがあったかと思いますが、土井先生の「甘え」概念は、その発表以来、「甘え」という言葉だけが独り歩きし、土居先生がそこに込めた含蓄は、的確に理解されないまま今日に至っているように思えます。
つまり、日常語としての「甘え」のことと安易に同一視されてしまい、なぜ、土井先生が「 」つきで、『甘え』と表記したのかということがすっ飛んでしまったままだと思うのです。
私なりの理解を解説すると、土井先生の言う『甘え』とは、
「自分の中に生じてくる欲求を、自分から主体的に相手に言語的に明確に伝達することをしないまま、気持ちを『汲んで』もらい、『察して』もらおうとする、他者との関係性の様式」
を指します。
つまり、例えば、子供が、デパートのおもちゃ売り場で、「○○が欲しいよう!!」などと叫びながら、床に根っころがって泣き叫んでいたとしますね。これは、日常語で言う甘えではあっても、土井先生が言わんとした『甘え』には、必ずしも該当しないのではないかと思えます。
同じシチュエーションでいえば、デパートで、おもちゃ売り場に近づいた時に、子供が、何とはなしにおもちゃ売り場の方に目を向け続ける。親はそれを「察して」、おもちゃ売り場の辺りをうろついてあげる。
でも、子ども自身は、自分からは「これが欲しい」とすらなかなか言い出さない。子供の視線や表情を観察していた親のほうから、「これが欲しいの?」と言い出して、子供ははじめて、遠慮がちにうなづく。
・・・・・もし、こうした流れだったら、それは、土井先生が言わんとした意味での『甘え』に非常にぴったりした状態ということになります。
ある観点からすると、自分から主体的・能動的に、アサーティブに一定の現実吟味を持って)甘えるだけの自我を獲得したら、その人は、土井先生が言わんとした意味での『甘え』の段階を卒業したことになる・・・・というパラドクスがあるわけですね。
*****
土井先生の『甘え』理論を国際的に紹介したのは、ハンガリー出身のイギリスの精神分析医、マイクル・バリントです。この事実は専門家に幅広く知られていても、、バリントが土井生の『甘え』理論を紹介する際に用いた文言を実際にお読みの方は少ないと思いますので、その箇所のひとつから抜粋してみましょう。
========引用はじめ=======
人間がそういう(『甘え』たい)場合にとる態度は西洋人もみんな知っているものばかりだが、西欧では手軽な単語では表現できず、例えば「思い切り甘えたい気持ちを出してはいけないと思い、自分の中に精神的苦痛(恐らく自虐的苦痛)を鬱積させたために、口を尖らせて仏頂面をしている」などといった複雑な句を用いなければならない。
========引用おわり=======
(以上、バリント「治療論からみた退行」(中井久夫訳) 邦訳p.99)
上記の引用内の例えで、長々と語られている心の状態を日本語で表現しようとすれば、「(甘えを押さえつつも)『すねて』いる」といえば済ませられることになるわけですね。
『甘え』にあたる言葉は日本語以外にもあることが様々に論じられていますし、先ほど述べた「自分の欲求を他者に察してもらい、かなえてもらえたい衝動」ということだけを取り出せば、例えば生まれたばかりの赤ん坊は、泣くという行為から、養育者が、何がどう不快でどうして欲しいのかを「読み取り」、ビオンふうにいえば「もの思い(reverie)」して、かなえてもらうことによってはじめて欲求がかなえてもらえるわけです。
また、人の中には、幾つになっても、自ら語らずとも、相手に自分の気持ちを察して欲しいという思いはあり、そうした思い全体を「未成熟な」ものだとみなすのは、明らかに行き過ぎでしょう。自分の欲求を自分の内部で冷静に客観的に吟味し、意識化した上で、言語的にアサーティブに伝える形で人とコミュニケーションするあり方のみを理想化し過ぎになるのも、「独立した自我を持つ人間」というものについての過剰に理念化したなファンタジーであると私は考えます。
つまり、文化や言語を超えて、土井先生の言わんとした『甘え』の問題は普遍的であるということは間違いないので、確かに、単なる「日本人論」としての『甘え』論は、その歴史的役割を終えつつあるのかもしれません。
****
しかし、日本では、今でも、さまざまなメンタルな問題について日常的に批判的に語られる際に、何かというと「甘えている(のではないか)」という言葉が登場します。「甘え」という言葉が日本人の集団的な超自我に深く食い込んだ特殊な含蓄があり、安易に振り回されていること、そして病める人を悩みを深める言葉であることには変わりがないといえるでしょう。
更に言えば、最近流行の「KY=空気(気分)が読めない」という言葉ですが、この言葉は、「自分や集団が暗に求めていることを察して、気持ちを汲んでふるまってくれない」相手への批判的レッテルだといっていいでしょう。
つまり、若い世代を含めて、日本人全体がが未だに「『甘え』の構造」そのものの社会性に身を浸しているからこそ、「KY」なる言葉が、「甘えの通じない人たち」に浴びせかけられているのではないかという視点はあっていいはずだと思います。
つまり、「KY」という言葉を振り回す人たちは、実はオールド・タイプの日本人そのもののままなんだと私は思っています。
物言わずとも相手が自分の気持ちを察して対処してくれることを当然のものとして期待し続けていることには変わりがないのですから。
ぶっちゃけていえば、集団の中で、周囲に迎合しない人には、今や情け容赦なく「KY」という言葉が降り注ぎかねない。
安易にKYを振り回す人はまだ成熟した大人ではない。
ほんとうの大人とは、KY気味の人にすら、自分から働きかけて、コミュニケーションして、関係を作って、相手から成熟した力を引き出す人たちのことではないかとも思えます。
*****
もとより、これだけはたいへん一方的な言い方でしょうね。
そうした人たちが「KYな」人たちを責めたくなるのは、自分たちが、周囲の人たちや、親や、既成の大人社会から、「はっきり言葉で言われなくても、気配を察して、場の空気に反しない言動を取るように」子供時代から言外の圧力で求められ続け、それにしぶしぶ従ってきたのに、そういう自分たちが従ってきた規範を平然と踏み越えていくかに見える人たちに遭遇すると、むかついて、押さえ込みたくなるという側面があるのだと思います。
更に言えば、自分が「周囲の気分を読む」ことによってはじめて自分に許容されるようになった地位や集団内での安定、そして、集団そのものの安定を、そうした「KYな」人たちが崩してしまうことへ不安の反映ともいえるかもしれません。
人の気持ちを汲み取ろうとするスキルは、単に相手を怒らせないとか、むかつかせない、波風立てないということではないはずです。もっと能動的で個別的な「相手の身になる想像力」であり、相手との相互コミュニケーションのスキルの向上だと思います。
その点から見ても、「KY」という言葉を安易に連発する人たちに、果たしてほんとうに、人の「気持ち汲んだ」コミュニケーション力を持っているのかどうか、自問してみていただきたい思いがあります。
KYな人たち=困ったちゃん、KYではないこと=社会性があること
・・・・という論調に、昨今の日本が染まっていて、一億総「KYでなくなろう」キャンペーンみないな風潮に違和を覚えていたので、これを機会に書かせていただきました。
・・・・・恐らく、こうしたあたりにこそ、土井先生の『甘え』理論が示唆した問題が、『甘え』という概念そのものは、今後使われなくなっても、今の時代のホットなテーマであり続けるためのヒントがあるのだと思います。
*****
なお、「場の空気を読めない」かに見える人たちを、場の空気に「鈍感」だとか「無関心」だととらえるのは間違いです。そうした人たちは、むしろ場の空気を「過剰に」全身で感じ過ぎているために、それを的確に距離をとって、俯瞰して、味わった上で、適切な「読み取り」を確立できないのだという方が、現場臨床的には的確のことが少なくないはずです(増井武士先生なら、そのようにおっしゃるでしょうね)
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
今日は九大西新パレスでの北山修先生の講演会に行ってきた。
福岡市早良区西新は、私の出身校、西南学院高等学校があるところ。

約四半世紀ぶりに行ってみたら、当時のチャペルは「西南学院博物館」の名の元に残っていたけど、校舎は少し離れた場所に移築になっていた。
大正時代に作られた、このチャペルのレンガ造りにデザインを一致させる形で、周囲の西南大学関連の施設がみんな同じようなレンガ造りの外観に統一していたのには感心した。
*****
講演会の内容については後日ご紹介するとして。
講演会が終わった後、久しぶりに百道(ももち)の浜まで歩いてみようかと思った。
私が在学していた当時は、高校のグラウンドのちょっと外まで出ると砂浜だった。
それがそれから15年もたたないうちに、海岸線は埋め立てられて、ウン百メートル先になり、ベイエリアのビル群の向こうに人工海浜が作られるという「福岡市のお台場」というしかない土地に変貌していた。

↑このグラウンドの向こうの松林の向こうがすでに砂浜だったと思いねえ。
その砂浜に、大相撲九州場所の時は各部屋の合宿所があり、お相撲さんたちが稽古をしていて、高校の校舎の周りの道でよくすれ違ったものである。
(遠くに見えるタワーがベイエリアにそびえ立つ福岡タワー。タワーのすぐ右隣(手前の大きいのに非ず)高層ビルがテレビ西日本。フジテレビ系列なので、そこまでお台場に似せるか!! といいたくなるくらいだが)

↑今度は海岸側からみたテレビ西日本社屋と福岡タワー。

↑人工海浜の先端にある、海の中道海浜公園行きの観光船乗り場より振り返る形で撮影。すでに結構海水浴客があふれていました。ドーム状に見える大きな施設は、もちろんソフトバンクホークスの本拠地、福岡ヤフードームである。
●far away(王子のきつねOnline)
↑このページに行くと、航空写真で、どのくらい海岸線が沖に移ったかわかります(^^)
この写真の段階ではまだ福岡タワーも人工海浜もできていません。
↓ですから現在の地図をおまけします。
大きな地図で見る
浜崎あゆみの出身も早良区でして(西新より少し海から離れた六本松地区。私が高校を卒業した直後にayuは生まれている)、幼い日に離婚をきっかけに離れ離れになった父親との数少ない記憶の地が百道の浜だとのこと。
実は、年齢的に見て、ayuの幼児期の百道の浜は、埋め立てより前の「昔の」海岸線だったはず・・・・ということにはなるのですが。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
さて、先日の記事でご紹介した、久留米青年会議所主催の、久留米出身の評論家、宮崎哲弥氏の講演会(正確にはパネルディスカッションと対談)、「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」、面白かったので、早速速報を書きましょう。
会場となった久留米のホテルの大広間は、開始30分前の段階でほとんど満席、主催者発表で660名。
おおおおーっ、日本心理臨床学会大会でもここまで早々に人が集まってる催しはそんなにはないぞ!!
いくら青年会議所とそのバックボーンにある商工会議所の動員力、そして宮崎氏に知名度があるとはいえ、福岡県南部最大の30万都市、久留米のパワーをこれだけ実感できたことは、帰郷してほぼ1年の間にはじめてのこと。早めに整理券予約をしておいてほんとうによかった!!
宮崎さんは、久留米で生まれ、予備校時代までを久留米で育っている。私と2つ違いの方である。これまでも久留米での講演依頼もあったとのことだが、実際に引き受けたのは今回がはじめてとのこと。
宮崎さんがマスコミの表舞台に登場したのは、オウム事件における若者心理について意見を求められることがきっかけだが、あの上祐氏も宮崎氏と同い年、今では久留米市に編入された地域の生まれである。
「最近は政治や経済の評論家とみられてしまうことが多くなったけれども、もともとは若者文化問題や宗教問題から出発した存在に過ぎないので」ということをまず最初に前置きされた上で、司会者に促されて、話は「地方分権」問題へとまずは向かいました。
「東国原知事や橋下知事、全国知事会の発言や提言で、地方分権問題に関心が集まるきっかけとなることはいいことだが、今度の総選挙の争点として見た場合、果たして『地方分権』問題が一大論点とすべき事柄なのであろうか?
まず優先すべきなのは、日本全体の景気底上げ対策であり、それが一定の効果を示さないうちに、単に地方に『権限』と『財源』の委譲を、今、行うだけでは、地域間の格差がひたすら広がるだけになる。地方分権そのものはこれから推進されていくのがふさわしいし、実際勧めていく潮流は動かないであろうにしても」
(司会者:国のそうした政策を単に待っているのではなく、地方の側からできることは何かないでしょうか?)
「いったん景気の底上げがなされた後、それをどのように維持し、展開させるかは各地方の自己責任ということになるだろう。
『内需拡大』という言葉がよく使われるけれども、地域内部における『内需拡大』のサイクル、つまり、その地域内での需要に応える形で、その地域で生産し、その地域で消費活動をするという良循環のサイクルが拡大・成長する必要がある。
そのことが成立するためには、「ここ」にしかない魅力、言い換えれば、「ここ」に住まないと得られない「唯一性」のようなものが、住民に魅力として感じられる必要がある。
久留米もそうした地域自立性の高い経済圏として長年発展してきた歴史を背負っているはず。父祖から受け継いだそうした地域固有のアイデンディディをどのように展開していくかが肝心だろう」
*****
話題はここで一度地域経済の問題を離れ、教育問題に転じることとなる。
「今の時代ほど、世代ごとの情報環境が劇的な格差と隔絶を持つ時代は、かつてなかったと思う。
私の久留米での中高生時代は、ちょうど、テレビゲームが、ゲーセンから家庭内ゲーム機へと一気に転換する時期と重なった。
次の世代は、インターネットに接続されたパソコンによるコミュニケーションを身につけているという意味で、上の世代とは大きくコミュニケーション様式が異なっている。
更に次の世代は、今度はケータイ文化という、大人から見るといよいよわからないコミュニケーション様式を備えている。
これほどのコミュニケーション様式の世代感の隔絶は、人類史上かつてない次元のものなのではないか。
この結果、家庭内の価値観伝達機能はほとんど機能しなくなってしまう危機に瀕している。
以前ならば親の背中から学ぶ、ということがまだしも通用した。親と子の「個体間接触」から子供は学んだ。そして本やテレビを通して、親からの価値観とは異なるものを学んでいた。
しかし現在の若者は、遠隔地のネット上の匿名の他者という、個としての存在がたいへんあやふやな存在に、あたかも身近な他者であるかのように依存しながら価値観を形成していく。
単に背中を見せるだけの親など、価値伝達機能を果たす上では、存在しないのも同然なのである。
これは子供との関係に限らない。自分から言葉でコミュニケーションをとろうとしなければ、相手にとって自分は存在しないも同然で、自分からどんどん離れていくことになりかねない、そんな時代なのではなかろうか」
司会者から、倫理や道徳の問題について振られて、
「『天知る、人知る、我知る』という言葉かある、『天』とは、お天道さまが見ているそ、ということで、『人』とは地域社会の目のこと。しかし私は、『人が止めるから駄目だ』だけでは今の時代不十分なのだと思う。『そういうことをやっていて、おまえ自身が恥ずかしくないか』という個人倫理の形成が大事ではないか。個人倫理の形成は、個人としての自我形成と表裏一体のもののはずである。
司会者から、現在の私たちの知識が情報の渦に巻き込まれている点について問われて、
「マスメディアであろうと、ネットでの口コミであろうと、それを鵜呑みにしないことがまずは大事なのではないか。まずは疑ってかかること。この、疑ってかかる力が、今、弱まっている気がする。
まずは自分の常識と照合すること。実体験と照合すること。今の時代、情報の渦の中で、何が実体験なのかわからなくなっているは確かだが、たとえ自分の判断がいろんな常識に毒されているとしても、人はそれを基に『健全な懐疑』をしていくしかないのだと思う。
新聞に書かれていることであろうと、たとえ信頼できる親友が語ることであろうと、『何かこの話はおかしくはないか?』と違和感を感じたら、心の中でいじくりまわしてみることだ。
多くの詐欺や悪徳商法の勧誘とは、そうした身近な人間への信頼感につけ込むものであることを思い出してみてもいいかもしれない。そのような、親しい間柄での対面的な人間関係ですら、自分で吟味していく必要があるのだ。
そうした積み重ねが、個人として強くなる自我形成なのだと思う」
・・・・・この部分なんて、私も、激しく同意!! の域ですね(^^)
*****
ここから休憩を挟んで第2部、「久留米の地域、そして可能性」に入ります。
司会者から、まずは、久留米の明治通りを中心とする旧市街地のさびれようについての言及がありました。
この件については、私も、
・・・・・という、見かけ上物騒なタイトル(?)の記事で詳しく触れました。
久留米市の商業的中心は、かつては一面の水田とレンコン堀だった、合川地区の「ゆめタウン久留米」を中心とする、高速道路のインターチェンジ近くの、ショッピングモールの一群に、この30年の間に、見事に奪われているわけですね。
こうした前提を聴衆がみんなわかっているという前提で、以下の部分をお読みください。
「私は高校時代まで、たがみ書店やリズムレコード(共に明治通りに並行して今も存在する久留米最大のアーケード街、「久留米一番街」を代表する、久留米最大の書店とレコード店だった)に足繁く通っていましたが、もう今はないんですね。
リズムレコードって、奥に扉で仕切られた、色々試聴できるクラシックコーナーがありましてね。私はそこに足繁く通って、店長にクラシック音楽の手ほどきを受けたんです」
・・・・・わ、私も同じです・・・・・
きっと、2歳違いの私も、宮崎さんを宮崎さんと気がつかないまま、同じ店内で何回も遭遇しているはず・・・・
「先ほども言いましたけど、まさにたがみ書店やリズムレコードには、この久留米にしかない固有の文化というものがあったと思う。そういう、他にはない、「ここ」にしかない、豊穣な経験の場となることが必要なのだと思います。
ところが、今、地方で進んでいるのは、全国どこにでもあるような、メガ・ショッピングセンターができることなんですね。
もちろん、コンビニ文化にもインフラとしての意味があります。どこに行ってもほぼ同じ品揃えの商品が手に入るということの。
でもそれだけだったとしたら、なぜ『この』地域に住まうのか? という『唯一的なもの』がないままなんです。
久留米に生まれ、成長し、死ぬことの意味と魅力が大事。そのためには、久留米の中で生産したものを久留米にいて消費することに意味を感じられないと。
地方都市を単に「ミニ東京」化することばかりが進んで行っては、この町で生きていくことの意味がわからなくなる。そして、例えば福岡(市)に需要を奪われるばかりということになるわけですね。
結局、『制度的な』地方分権ばかりではなく、『マインドの』地方分権こそが本質なのだと思います。
最近、プロ野球の球団も地域が応援するという方向が強まっています。若者音楽の分野でも、ミュージシャンが、有名になって、ヒットチャートに乗る様になっても、自分の拠点となる出身地域から離れないまま活動を続けるというケースが増えています。ヒップホップグループにも、「この町」を大事にするメッセージを発信し続けながら全国区になることが生じている。
そうやって、自分の生まれ育った街から離れたがらない若い人たちが増えてきた。そういう若い子たちの後押しを地域がしていくことが大事で、そうした意味で地域の青年会議所の果たす『黒子』としての役割は大切だと思います。
こうしたことをしていくためには、単なる利潤追求の市場経済原理のどこかで対抗していく必要も出てくるはず。でも、それこそが『地方主権』ということだと思う。
そうでなければ楽しくない。この町にいて『楽しい』と思えるかどうか。主人公は一般の久留米市民なんだと思う。
久留米で生まれたのが必然で、久留米で死ぬのが必然であると市民が自然に感じられるような地域づくりになることでしょう。私も、引退したら久留米で死にたいと思うかもしれませんので、その時は不肖の息子をどうか迎えてくだされば」
・・・・・・久留米に30年ぶりに舞い戻った私の心に響く締めくくりでした。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
評論家の宮崎哲弥さんが、実は、我が故郷、福岡県久留米市の出身であることをご存知の方もいらっしゃること思います。
明日4日、久留米青年会議所の主催で、「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」と題して講演会が開かれるので、それに参加することにしました(すでに応募締め切りです)。
【追記】参加報告はこちらです。
****
更に、翌日の5日、九州大学の北山修先生を講師とする、「九州大学対人援助職スキルアッププログラム」の一貫として、「人生物語 (ライフ・ストーリー)の読み方 -精神分析入門-」と題した講演会が開かれます。
(こちらもすでに参加募集締め切りです)
今の私は福岡市まで出向くことはそんなに機会が多くありませんが、福岡市近郊のの臨床心理士の皆様、私を見かけたら気軽にお声をおかけくださいませ。
この2つの行事参加のため、私の開業カウンセリングルームは、この土日の2日間、臨時休業とさせていただきます。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
しばらく前にご紹介した、精神科医、泉谷閑示氏の「8人に1人が苦しんでいる! うつにまつわる24の誤解」シリーズの中の、
●クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界――「うつ」にまつわる誤解 その(10)
で、いくつかの点で重要な示唆が示されているのでご紹介したい。
> もし患者さん自身が、クスリの使用に何らかのためらいや後ろめたさを持っている場合には、「クスリに頼っている」のではなく、「クスリを活用している」のだと捉え直していただくことが必要になります。
この件に関しては、私も何回か取り上げてきました。
治療をお医者さんや薬に単に「委ねている」という意識だけが強いうちは、薬というものは安定した効き目を発揮しにくいように私は感じています。
薬というのは、それを飲みさえすれば、すべての悩みや問題を解決してくれるほどには「便利な」ものではない。しかし、うまく活用すれば、自分の「身を守る」ために、大きな働きをする「武器」なんです
(敢えてこの物騒な言い方を使わせてもらいます)。
「武器」の使用には、常に「危険性」が伴います。また、使い方については、自分の身体になじませるための相当な訓練が必要です。
医者に相談することもなしに、服薬をやめたり、調整したり、ましてや個人輸入の薬を飲むことは避けるべきですが、それでも、薬を「使いこなす」主体は自分自身、参謀が「医者」なのだ、という意識があるだけで、こころに影響する薬の効き目にかなりの差が出てきて、薬との無理のない「同盟関係」が成立することが少なくないことは、敢えてお伝えしておきたい事柄です。
*****
そうした観点からの延長として触れてみたいのが、薬の「副作用」という概念です。
ありがちな「副作用」への誤解は、薬の中の「毒の成分」が身体を害することである、というものかと思います。
しかし、少なくとも現代の高度な化学合成技術で作られた薬の場合、薬に「不純物」に過ぎないものが組み込まれ、毒性を発揮するということは、もはや考えにくい水準に達していると思います(かつての薬害エイズ事件を例外として)。
以下に、「副作用」についての、より重要な次元での視点だと私に感じられているものをいくつか取り上げてみたいと思います:、
1.ある症状を緩和しようとする薬の効能が、ある均衡した効き目のレヴェルを超えると、今度は逆方向の症状を引き起こす場合?
このタイプの例としては、過緊張や不安や対人恐怖を緩める抗不安薬の多くが、気分を楽にして、リラックスさせてくれる筈なのに、それを通り越して、「ボーっとしてしまう」「集中できない」という悩みを引き起こす場合です。
ところが、この種のケース、その人のその時の心身状態にとって薬が多すぎたということであり、少し少なめに量が調整されれば済むのか? というと、そんなに単純に解決しないことが多いことは、服用を経験した皆様の少なからぬ部分が体験した現実かと思います。
しかし、それが抗不安薬の効能の「限界」であるとばかりいえるのかどうかと、私は感じています。
そういう皆様には、実は多少の休養が本当に必要な時なのかもしれません。
多少の休養を取ってみると、その後再び以前の生活に復帰しても、同じ量の抗不安薬が、今度は、気分を落ち着けてはくれても、ぼーっとさせてり集中力を低下させたりはしなくなることなく、活動への支障になりにくい状態が結構持続することに拍子抜けする皆様もあろうかと思います。
こうした時、休息を取らずに、ただ抗不安薬をあれこれ代えてもらったり、服用量を増強してもらおうとばかりすることは、むしろ悪循環の引き金になることも少なくないでしょう(筋のいいお医者さんなら、こうした点で間違った判断はなされないことかと思います)
同じように、睡眠導入剤を飲んで、以前よりは眠れるようになっても、朝寝覚めが悪いという場合、薬が強すぎる=薬の効能が朝まで残っているからそうなっている・・・・ということは、昔の睡眠薬ならともかく、最近処方されている新しいタイプの眠剤の場合には考えにくいかと思います。
むしろ、単に睡眠の改善補助だけではどうにもならないくらいに、その人の心身の疲労やストレスが慢性化し、(例えば)うつ状態の入り口に立っているためとみる方が自然でしょう。
更に例を挙げれば、鬱の診断を受けて、「抗うつ剤」の飲み始めた初期の心身の反応として、むしろ余計に欝になったと体験される皆様も非常に多いです。そしてしばらくすると今度はやや躁的になる人も稀ではない。その後また押ち込み気味になるわけですが、こうした心身の変動に耐えながら、抗うつ薬が安定した効き目になるまでの苦労は患者さんにとって結構たいへんな場合が少なくありません。
こうしたことを引き起こすのは、薬が心身になじむまでの初期副作用ともいえることも多いいのでしょうが、私は、その段階での心身の基本的な消耗が薬の効果を「暴れさせる」のではないかという思いを、最近強くしています。
いずれにしましても一般的に言って、「薬の効き過ぎ」での「副作用」であると本当に見なしていいケースは、多くの人にそう感じられている程には多くないのではないかとも思います。
敢えて言えば、「心身が過剰に疲労しているので、薬が効き過ぎる」という言い方はできるかもしれませんが。
薬という「リトマス試験紙」を身体に投入してみることではじめて自分の実感として、はっきり意識的に受け止めるが可能になった、慢性的な心身の消耗なのかもしれません。
・・・・こうした可能性も含めて、お医者さんと更に話し合ってご覧になることをお勧めします。
多分に逆説的な言い方なのは承知ですが、薬が「効き過ぎる」という体験は、その人が長年「抑圧」してきた辛さに「気づかせてくれる」きっかけとしての「効能」を持ったのだ、と肯定的に受け止めてもいいのかもしれません。
もう一度繰り返しますが、十分に休養がとれ、実際に心身が慢性的な消耗からある程度回復してくると、薬が「効き過ぎる」のではなくて、「ちょうどよく」なくことも少なくないのですね。
身体に、薬を「生かす」体力が回復するのかもしれないと思います。
*****
2.その物質の投与は、ある症状の緩和に確かに貢献する。しかし、その物質が、症状とは一見無関係な、生体の別の機能のバランスを崩してしまう。
多くの薬は、肝臓に負担をかけます。緑内障を亢進する可能性がある薬が少なくないことも知られているでしょう。ドグマチールは、女性の月経をいったん止めてしまう場合がありますし、湿疹もよく見られます(飲むのをやめると再開するという点では全く心配が要らないそうです)
同じSSRIでも、過食や便秘や肥満を引き起こしやすいタイプ(パキシル)や、下痢を誘導しやすいタイプ(ジェイゾロフト)があるなどについては以前書いたとおりです。
これにはかなりの体質差があります。
恐らく、厳密な意味での、狭義の「副作用」というのはこうした領域のものを指すとみておくのがいいのではないかと思います。
しかし、やはり、心身に十分な休息が欠けていると、こうした身体面中心の症状すら、一層亢進しやすいのも確かかと思います。
どんな身体症状でも、心身症としての側面はありますので。
*****
3.その薬の効能は、病気の治療や症状の軽快という観点からすると十分に発揮されているのだが、その人がその薬によって期待している改善の効果の「理想像」とズレているために、その人が薬の効能を自己受容できないでいる「心身自己不一致」状態を、薬の「副作用」と見なしている場合。
この3.のケースは、そうやって薬の効き目が指向している身体そのものの「安定状態」と「頭」での理想的な治癒のイメージが「心の中で」葛藤しはじめるという、一種の二次的な神経症状態にはまり込んでいることになります。
例えば、躁的な過活動傾向の面を持つ人が、抗躁剤や気分安定薬(気分スタビライザ。「抗不安薬」と混同してはならないことはこのサイトで繰り返し書いてきました。リーマスやデパケン)を服用すると、薬を飲む前のように、勢いづいたら止まらない、気分は高揚して頑張り続けられる・・・・というふうには、「なれなくなる」わけですね。
躁的な人は、自分がそうやって躁状態で頑張れていた時にはじめて社会的承認を受けや収入を確保できるような活動ができていたという思いが強いので、心の中で、薬のこうした効き目と「喧嘩(葛藤)」状態になりやすい。
もっとも、実は躁的な人は、実は単にルンルンで活力あふれ、湯水のようにわきあがる発想や、ものごとを享楽するこを「楽しめて」いるかというとそうではないわけです。そうした人の心中には、躁的状態の只中においても、自分が独特の抜き差しならない「何か」に衝き動かされているという悲愴感に近い何かがブレンドされて「いた」ことに、少なくとも後から振り返ってみると、ご本人は気づけることも少なくないようです。
躁状態というのは、ご本人にとっても、ある意味では「苦しい、牢獄のような」体験であり、だからこそ、更に活動をエスカレートさせる形で「破局に陥らせる」という手段で「抜け出そう」とする結果を、一部のそうした方々に招きやすいとすらものだとすらいえます。
でも、人間の意識的自我というのは、そうした十分の心の中の複雑にブレンドされた綾のようなものをシンプルに割り切りたがるところがあります。つまり、躁状態、過活動状態の時
の「苦しさ」の方は意識から抑圧してしまいやすいのですね。
こうして、「気分安定薬を飲んだら、昔ほどやる気が出なくて働けなくなった」ことに苦しむばかりか、(お医者さんとのコミュニケーションや信頼関係が良好でないと)、「気分安定薬の『副作用』で以前のようには働けない。薬を代えられないか」と訴える皆さんも少なからず出てくることになります。
気分安定薬のデパケンは、単剤処方(恐らくリーマスとの併せ技の場合も含む)だと、少なからぬ人の場合(特に双極性II型寄りの診断を受けた人の場合)、躁と鬱の間のプラスマイナスゼロではなくて、マイナス1くらいのごく軽度のうつ状態のあたりで、躁鬱の波が静まる形になりやすいようです。その、ごく軽度の抑うつ感が、デパケンを飲みだす前の調子のいい時には可能だった活動水準にもはや至れない自分に対する悲哀感のようなものを呼び起こしやすいように思います(デパケンは量を増やしすぎると、むしろ欝を深める場合があるらしいこともお伝えしておきます)。
でも、実は、その人は、そうした過活動状態にはまっては、何らかの意味で行き詰る(仕事を辞めるなど)ことを一定周期で繰り返してきたケースが多いわけです。
デパケンを飲んで心身に無理が生じない水準のライフスタイルをリラックスして自己受容してしまうことになじむと、その制約の範囲では、存外に安定してコツコツと仕事ができます。
(他ならぬ私がそのタイプで、一日8時間労働を週4日以上やれといわれれば絶対に心身がつぶれると思います。しかし、こうしてほそぼそと開業している限りは、まあ、湘南時代に比べても、今の方が多少はましなカウンセラーとして活動できているかなとは感じています)
******
・・・・・などと、いつの間にか、私自身の考え方の方ばかりをどんどん書いてしまいましたが,、ここで、このエントリーで本来私が一番紹介したかった、泉谷さんの見解について紹介します。
=========以下引用==============
>抗うつ剤を飲んだら眠くなったのは副作用か?
「抗うつ剤を処方されて飲んだけど、すぐに眠気がひどく出たので、自分には合わないと思って飲むのを止めました」
薬物療法開始時に、このような理由で服薬を中止される方がいます。しかしこれは、副作用が出て薬を中止したのだから適切な判断だった、とは言えないところがあるのです。
以前から使われていた古典的なタイプの抗うつ剤(三環系や四環系と呼ばれる種類)では、確かにそのような可能性もあることは否定できませんが、近年主に使われている新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRIといわれる種類)では、古典的なタイプでしばしば問題になったような副作用(眠気、口の渇き、排尿困難など)がかなり改善されており、眠気が副作用ではなく「作用」によって生じた可能性も大いにあると考えられるのです。
治療を受け始めるまでは、患者さんは慢性的な精神の緊張状態にあり、内部にはかなり蓄積した疲労を抱えているものです。そこに、抗うつ剤が投与されたことによって、精神の緊張が突然ゆるみ、蓄積していた疲労が一気に噴き出してきて、それが眠気として顕在化することは珍しくありません。
ですからこの眠気は、むしろ望ましい変化の現われである可能性も大いに考えられるわけです。
この点についての見分けは専門医でなければ難しいことも多いので、独断による服薬の中止はリスクが高いと言えるでしょう。
=========引用終わり==============
SSRIを飲んだ後で「眠気」が出る場合、実は十分な休息が取れないまま無理をし続けていた状態に働いた、薬の「主作用」の現れであらわれである可能性があるというのは、私自身の過去の経験と全く見事にマッチングします。
更に私は現在も眠剤代わりにデジレルを少し飲んでいます。デジレルはSSRI誕生までの過渡期の中間的な薬で、今は主剤として使われることはほとんどなく、SSRIや気分スタピライザを飲んでいる人に「睡眠導入剤代わりに」使われる用途が多いかと思います。
ところが、この薬を飲んですぐに眠くなる(私はほんの20分もかかりません)のは、私がやや無理を重ねた時期と一致しています。しかも、そうした消耗期に飲むこの薬の飲み心地は、何か独特の、「脳や胸の辺りに少し不快な」感じもつきまとう。
無理をしなくなると、この薬を飲んでも、そうした「いやな感じのする眠気」はなくなって、単に「気持ちがストンと落ち着く」かな・・・というぐらいの、全く不快感のない、水みたいな薬になってしまうんですね。そして、特にこの薬に頼ったという自覚なしに、無理なく眠れるようになります。
こうした、さまざまな身体的な指標に敏感になって、薬といい同盟関係を結んで、無理のない範囲で仕事をして、慎ましやかなライフスタイルを静かに送るのが、今の私のささやかな満足でしょうか。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
先日国会で成立した「農地法」改正は、「土地所有者中心主義」から「耕作者中心主義」への大胆な改革である。
働き手を失い、休耕地ばかり増えた日本の農業政策の歪みを正し、農業の大規模化と企業参入を促し、「内需拡大」し、食料自給率を回復させるという意味では、いざという時の「国防的」観点から見ても望ましい政策であろう(ここは多少ウィット)。
この制度の欠点として、法律の概要についての「論評全く抜きの」NHKの報道を元に、私が「全く自分の頭だけで」考えてみた問題点を列挙してみよう。、
1.小規模耕作にしか適さない土地の零細な農家がいよいよ経営的に淘汰され、過疎化が更に進む地域が出てくる可能性が高い。
2.外国の農業メジャー資本が日本に大規模進出する可能性にも目を向けるべき。輸出向き作物ばかりになっても困る。
3.大規模産業化は市場価格へのいろんなの影響も考えられる(1.につながる)。
4.大規模効率化の名の下に日本農村の自然生態系をいよいよ破壊する危険がある。
【第2版で追加】
この4.の点に関しては、
●農業開国論 第12回「農協トライアングルがついに崩壊?減反見直しの旗を立てた石破農水相の賭け」 (by 山下一仁 日経online)
における、
> 週末片手間にしか農業を行えない兼業農家より、規模の大きい農家の方が肥料や農薬の投入量を減らす環境に優しい農業を行うことができる。
という形で、大規模集約型農業経営の長所を指摘している見解に説得力を感じました。
なるほど、除草の点でもそうでしょうし、農業の門外漢なりに類比的に想像しても、およそ「薬」というものは、少量ずつ少しずつ投与する方が「体内に吸収」される効率はよく、再び「排泄」(用水路に流れ出さず)に済むものかと思いますし、長期間効果を維持する農薬や肥料の方が何かと問題も多いのではないかと思います。
こうした観点から、この4.の懸念については、とりあえず取り消させていただいておきます。
例えば、すでに近代的な用水路が整備されてしまった、大規模耕作機械も導入可能な平野部の米どころなどでは、大規模集約型経営の方が、農作業の直接管理をするチーフが手を抜かなければ、環境メリットの方が大きいと思われます。
【ここまで第2版での追加】
*****
更にもうひとつ、重要なポイント。
特に日本の農村の、自民党支持層の皆様に問題提起したい。
5.実際には若者はほとんど農業回帰せず、そこで雇われて働くのが、賃金の安い「外国人労働者」中心となり、日本の地方の農村には外国人が満ち溢れる自体が生じる可能性が高い。
さあ、こうして、都市部に留まらず、「国籍問題」や「外国人参政権問題」が農村でも一気に深刻化するのである。
*****
過去の歴史について学ぶことは、歴史の先について、ちょっと想像力をふくらませてみるセンスに結びついた時に始めて意味があると思います。
すると、
「自民党は、大規模耕作に不向きな農村の過疎化を更に『推し進め』、今後、地方の農業に、大量の外国人労働者を雇用できる集約型農業施設の設置を容易にする『ために』、実はこの法律を制定した」
つまり、農村の長年の自民党支持者をいよいよ裏切り、だまし討ちするような法律を平然と制定した!!
という仮説が浮上したわけである。
(少なくとも、そうなる危険性に当面目をそらしたまま、この法律を制定してしまったのは確かだろう)
自民党が、地方の農村票を失わないために、何かに目隠しして、曖昧にしたままこの法律を通してしまっていないこそ、注視すべきではないか。
農村の皆様、こうした点についてお人よしにならないまま、今度の選挙には投票いたしましょう!!
*****
ちなみに、私個人は外国人差別には反対の立場です。
私がこの記事でシミュレーションしてみた「論理の戦略」にこそ、私がお伝えしたいことの本質があります。
つまり、私は、敢えて、「保守主義者」の思考法を徹底して採用してシミュレートする、思考実験をしてみただけです(^^;)
「借り物でない意見」をネットで発信する、とはどういうことかということ。
そんなに日本の農政に詳しくなくても、調べなくても、自分でものごとを考え、想像力を膨らませ、現実吟味をできる人間なら、解説や論評抜きの1分ぐらいのNHKニュースからだけで思い至れるのではないかなあ・・・と。
*****
更にもう一点付け加えれば、自分とはものの感じ方や考え方が違う相手の思考法や感じ方に「あたかも自分自身であるかのように」感情移入し、その人ならどのように感じ、考え、判断するかについて刻々とシミュレーションしながらも、同時に、自分自身がそれに対してどのような違和感を感じているかについても刻々と気づいていられ、自分を見失わないこと(「自己一致」していられること)は、ロジャーズの来談者中心療法に限らず、およそカウンセラーたる者にとってたいへん大事な能力であろう。
それは、カウンセリングを超えて、およそどのような事柄に接する際にも活用できるのである。
*****
【第2版で追加】
すでに紹介した山下一仁氏の「農業開国論」の別記事、
●平成の農政改革と呼ぶには程遠い 農地法改正は「昭和の懐メロ」だ(第14回)
によれば、実は今回の農地法改正においても、日本農業の大規模集約化による再生という観点から見ると、企業参入にあまりにも障害が多過ぎるという論が展開されています。そこでは民主党が修正した部分の問題とかも消し飛んで、自民党の「農政族」議員の多くを敵に回しかねない大胆な提言がなされていく。自作農家がどんどん淘汰されて集約されていくことをやむを得ずという、徹底的にマクロ経済学の視点から見た政策見解。
この人はそもそも減反政策をやめて米の値段が下がって自作を諦める農業者が淘汰される過程で米作を企業的に大規模集約化、日本のおいしい米をアジア諸国への重要な輸出品目にするという壮大な提案をしている。
「内需拡大」や「産業振興」について決定的な政策を打ち出せないまま国民にひたすら我慢を強い、老後の不安も解消できないまま、未来に希望を見出せない勤労者をより過酷な勤務状態に追い詰め、うつ病者を増やすばかりになりかねないばかりか、多くの障害者の自己負担分を増加させた、現状の日本の政策展開を見るにつけ、こういう「建設的な」(あくまでも「 」入りだが)政策ビジョンも興味深く感じたので、その所在を紹介しておくことにした。
こういう巨視的な見解こそ、目先の利害や組織票を超えた「徹底した保守主義」の、ひとつの見識なのかもしれない?
【第2版で追加】
| 固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)
復活!! ベスト20集計の3回めです。
前回危惧したとおり、30日に一度の集計に切り替えた結果、統計の公表を2日忘れていました(^^;)
でも、前日までの30日間の集計じゃないと簡単にはできないので、今回は、5/24-25の分は反映させないままでやらせていただきます。
「毎週のベスト10」は右フレームに自動集計されて表示されています(前日までの7日間とカスタマイズしています)ので、今後はそちらをご参照くだされば幸いです(^^)
以下の統計は、PCサイト版へのアクセスにのみ基づき作成されています。
****
以前と同様、@niftyにある私の3つのブログ、今のところ5つのフォトアルバム、更に全体のプロフィールページを含めた総合ランキングです。
この「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の記事については【雑記帳】、
「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」公式サイトの記事については【開業サイト】
と略記することにします。
稀に私の他のブログ・フォトアルバムもランキング入りすることがありますが、その際は略称を用いずに【 】入りで表示します。
*****
個別記事エントリーだけではなく各ブログの「トップページ」「カテゴリーインデックス」「毎月のバックアップのインデックス」および全体の「プロフィール」ページも集計の対象にしています。
この結果、個々のエントリーの最高位は、よほどのことがない限り3位になってしまいますが、もし2位以上になれば、その記事が個別エントリーとしてその一ヶ月によほど読まれた、慶賀すべき事柄です(^^)
もっとも、この30日間の間には、「ためしてガッテン」についての記事の、6/21-22の「はてな」サイトにおける「ドミノ倒し」的スマッシュ・ヒット事件が生じたおかげで、普段の一ヶ月とは異なる、異常なアクセス結果が出ていますので、その「慶賀すべき」を通り越して、呆然とするしかなかった、「17年蝉の大発生」みたいな(?)、異常なランキングなんですが(^^;)
・・・・・あー、ホントに、大型台風直撃のようだった(爆)
*****
アクセス数が同じ場合には、訪問者実数上位の記事を上位とし,訪問者実数も同じ場合にのみ、同じ順位として掲載します。
30×24時間、つまり今回は、6/24日(土)24:00の時点での集計です。
●この1ヶ月間のPCサイト総アクセス数(TA)、延べ39,746アクセス(前回14,364アクセス)
1日平均アクセス(前回1324.87アクセス)
訪問者実数(UA)は、33,937名様(前回10,726名様)
1日平均1131.23名様(前回357.53名様)
うち、
●【雑記帳】のアクセス数(TA)、延べ34,148アクセス(前回11,790アクセス)
1日平均1138.27アクセス(前回393.00アクセス)
訪問者実数(UA)は、29,675名様(前回8,931名)
1日平均989.17名様(前回297.70名様)
●【開業サイト】のアクセス数(TA)、延べ5,149アクセス(前回2,330アクセス)
1日平均171.63アクセス(前回76.67アクセス)
訪問者実数(UA)は、3,934名様(前回1,630名様)
1日平均131.13名様(前回54.33名様)
*****
●PC全サイト総合での「一限さんでない率(リピーター率) 6.0%(前回7.6%)
「毎日必ず」おいでになる「完璧常連様」は、39名様 1.5% (前回6名様 0.3%)。
※【開業サイト】単独での「一限さんでない率(リピーター率) 9.6%(前回13.3%)
●それでは記事別ランキングの方の発表!!
****
1.【雑記帳】NHK「ためしてガッテン」、-「うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療」- [15,697アクセス/14,533名様]
2.【雑記帳】トップページ (↓) [2,107アクセス/1,116名様]
3.【雑記帳】「眠らないままでいよう」とする衝動を語った鬱の人 [1,284アクセス/1,199名様]
4.【開業サイト】NHKのクローズアップ現代・「抗うつ薬の死角 ~転換迫られるうつ病治療~」について [780アクセス/581名様]
5.【雑記帳】「治療」と「養生」の違い。人類は鬱になった人に「恩」を感じ、「感謝」を忘れてはならないということ [691アクセス/643名様]
6.【開業サイト】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第1話の段階での感想と今後の展開への期待 [651アクセス/554名様]
7.【雑記帳】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第1話、十分に内容があったと思います。 [432アクセス/329名様] =6位の記事の別バージョン
8.【開業サイト】トップページ (↓) [431アクセス/258名様]
9.【雑記帳】欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている (↓) [411アクセス/361名様]
10.【雑記帳】エージング効果は抜群だけど、アンプやスピーカー、ヘッドフォン壊れても自己責任!!でお願いしたい方法(↓) [402アクセス/345名様]
11.【雑記帳】「カウンセリング」と「身の上相談」の違い (↓) [334アクセス/234名様]
12.【開業サイト】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第2話 [291アクセス/209名様]
13.【雑記帳】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第2話 [281アクセス/217名様] =12位の記事と同一内容
14.【雑記帳】「ツレがうつになりまして。」原作も読みました。 [272アクセス/251名様]
15.【開業サイト】双極性障害(躁うつ病)と単なるうつ病とでは薬の処方が全く異なる -NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想(2)- (↑) [260アクセス/210名様]
16.【雑記帳】「ゴースト」と「ファントム」 -押井守と神田橋條治の共通項- [253アクセス/237名様]
17.【雑記帳】SkypeやWindows Live Messengerの使い方の勘所は、「自動調整」を外すこと。 (↓) [234アクセス/196名様]
18.【雑記帳】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第3話 [219アクセス/175名様]
19.【開業サイト】特集記事: NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」(カテゴリー。全文1ページで読めます) [196アクセス/151名様]
20.【雑記帳】NHKのクローズアップ現代・「抗うつ薬の死角 ~転換迫られるうつ病治療~」について [180アクセス/142名様] =4位と同一内容
****
私の@niftyココログPCサイト全体の通算アクセス数は、6/25 18:07現在、全体で541,888アクセスです。(前回512,136アクセス)
【雑記帳】通算記事数は、この記事で1,850本めです。この30日に42本記事を書いたことになります。
【開業サイト】通算記事数は、119本です。NHK番組関係の感想が多かったこともあり、【雑記帳】との並行掲載記事が多数出て、この30日間に16本でした。
今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」および「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」公式サイトを、よろしくお願い申し上げます。
| 固定リンク
このDVDに関しては、実は何年か前に購入していながら、封を切らないでいた。ちょうどいいタイミングなので、やっと観てみる気になった。
もっとも、この映画においては、押井さんは、原作と脚本のみである。しかし、押井さんといつも仕事をしてきたスタッフたちの手により、実に見事に押井ワールドが構築されている。ある意味で、「総合的なバランスのよさ」という点では、押井作品の中でも出色の完成度といっていいのではなかろうか。
もっとも、ある独特のいびつさ、バロック的ともマニエリズムといいたくなる側面というのも、彼の作品の独特の魅力なのだが・・・・ベートーヴェンだって、作品としては無茶苦茶にいびつであり、作品発表直後は批評家に叩かれまくったものだ。
そして、ベートーヴェンが、ピアノの性能向上をはじめとする最先端の楽器をいち早く採用し、それまでの古い楽器では描き切れないものを無理やり楽譜に詰め込んだのと同様に、押井さんの作品には、最先端のアニメ技術を予算的に可能な範囲で、まるで「船の甲板の板まで引っ剥がして薪にくべるようにつぎ込む(精神科医、中井久夫先生が自著、「西欧精神医学背景史」について「あと書き」で語った表現)」ために生じる、画面として観た際に生じる独特の不整合感・・・・旧手法と新手法の「きしみ」のようなものがひっかかりを残すのも、やむを得ない。
押井さんの作品が古典になった時、こうした面をどうこういう批評はもはやあまりなされなくなっていくはずである・・・・まさに、ベートーヴェンのごとく。
*****
公開されたのは、"GHOST IN THE SHELL"(1995)の後の時期にあたる2000年である。この公開年から考えれば、CGを全くに近く使わず、セルアニメの手法のみで、しかもここまで贅沢に豊穣に描き切った、その画面の醸し出す雰囲気は、作品世界の、昭和30年代後半のパラレルワールドのレトロな空気とも見事にマッチして、何とも贅沢な映像体験をさせてもらっているという思いを強くする。なかなか、ここまで、セル動画や背景画に一切の手抜きなしの均質性というのは、現実には体験したことがない。
物語世界については、結局、国の警察機関内部とセクトとの間での人間関係に閉ざされおり、そうした組織の論理が前面に打ち出されているため、それだけで「作品世界が閉じている」云々と言い出して、この映画に入れないという人も結構あるのだろうと想像する。しかし、そのことだけで、この映画を「作家性優先」だとか「オナニー映画」などと言い出す人は、どんなものかなあ・・・・と、率直に言って、思う。性急に「自分の願望」を満たしてくれない映画を単に「気に入らない」というだけならばともかく。
この作品世界にほとんど相似の現実は、第3世界にいかに満ち溢れていることだろう。自爆テロ、どこまでが一般市民でどこまでがテロリストかわからない世界、一国の中で警察や軍事機構が複雑な構造を持ち、互いに権力争いしている世界・・・・・実は「ありふれた」現実ではないか。
押井氏は、自らの学生運動体験(その中での恋愛体験?)へのオマージュをも込めながら、そうした世界の現実を、パラレルワールドの日本に招聘し、観客の目に突きつけただけだとすらいえる。
そして、何らかの意味で組織や団体やグループに加入しているもの同士が出会う時、まさにここで繰り広げられているようなことが生じているのだ。これは我々が幼稚園や小学校時代から積み上げてきた、社会との軋轢の歴史である。組織の論理に憑依される人々。構成員の間の内部闘争、建前と本音、権謀術数、「社会正義のための(ヒューマンな)」組織の内部ですら進行する冷酷な非人間性と闇、裏切りや嘘。秘められた恋と、それを不条理な思いを抱きつつも断ち切る(断ち切られる)ようなことは、人生の中で少なからぬ人が身近に遭遇してきた現実のはず。武器や殺人がなく、主人公のように無敵のスペシャリストではないというだけのことであろう。
そのことを思う時、この映画は、辛口だが、何とまっとうな、男と女の出会いと別れの物語ではないかと思う。それを描くのに、ヌードシーンはワン・シーンも不要なのだ。
これだけ、「ごく普通の」大人の感受性を維持した「成熟した」アニメ映像作家が、日本のどこにいるだろう?
(そういう人を知らないだけかもしれないが。・・・・・敢えて言う、宮崎さんだとは、私には思えない。宮崎さんは、社会的要請によって、必死に「大人の代表」を演じなければならなくなった、絶えず「背伸び」を強いられてきた、「永遠の少年」のように感じられて仕方がないのだ。押井さんの方が、「等身大」のままでいられている。「だから」ジブリに後継者が育たないのだ! 押井さんの方が、この作品の監督の沖浦さんをはじめとして、結果的に、後進を順調に育てているように見える。そうした人たちは単なる押井さんの劣化コピーにはならないないだろう)
押井さんより9歳年下だが、昭和35年生まれであるおかげで、この作品の中で描かれている風景が、幼児期の「テレビを介さない」記憶として残っている世代として。
押井さんだって、このくらい「普通の」脚本を書く時は書くのである。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
最近のコメント