2010/02/08

浜崎あゆみの詞における「僕」と「君」、「わたし」と「あなた」 -サリヴァン的次元で解説してみよう-

 浜崎あゆみさんの詞って、驚くぐらいに具体的なシチュエーションが出てこない。

  •  地名・・・ゼロ。それどころか「海」という言葉は出てきても、「山」「川」はひとつもない。
  •  人名・・・中島みゆきなら「♪真理子の部屋に、電話をかけて(「悪女」中島みゆき - 寒水魚 - 悪女 (アルバム・ヴァージョン))」と出てくるくらいの、一般化した次元でもゼロ。
  •  学校時代をイメージさせる表現・・・・ゼロ。唯一の例外が、浜崎あゆみ - A BALLADS - 卒業写真荒井由実の「卒業写真」をカバーしたケースだけであるという、驚くほどの徹底性。
  •  「僕」「君」「あなた」という人称を異様に多用する。「彼」「彼女」も例外的では?

 そして、そもそも「君」「あなた」が誰なのかが非常に曖昧で多義的で、どのようにでも受け取れ、再解釈できる

  • 生身の「濱崎歩」
  • アーティストとしての「浜崎あゆみ」

    (ベスト盤浜崎あゆみ - A BALLADS"A Ballads"の最後に収録された「卒業写真」のカバーそのものが、「街で見かけた」かつての自分のポスター等との対話というシチュエーションで理解してもらうことをayuははっきり狙っていたと思う。アルバムジャケットも、←こんなふうですからね)
  • 聴衆
  • 過去の、そして現在の同性の親友たち。
  • 父親
  • 過去の、そして現在の異性の知り合い(max松浦もそのひとりだけど、それだけ強調するのは明らかに偏った理解。最近はさすがにこのこじつけはいい意味で廃れましたけど)
  • 過去の恋人
  • 現在の恋人
  • 聴衆にとっての大事な人

 ・・・ちょっと年季が入ったayuファンなら、実は今私が箇条書きにした順序くらいでとりあえずいくつも当てはめていくのが無難であることに気がついているかと思う。

 "teddy bear"浜崎あゆみ - Duty - Teddy Bearや"memorial address"浜崎あゆみ - Memorial address - Memorial Addressの「あなた」がもっぱら父親のことを指す、"ever free"浜崎あゆみ - Vogue - Ever Freeは亡くなった祖母のこと・・・などと、特定的に捉えていい・・・といったケースというのはむしろ例外的なのである。

 要するに、ayuの詞というのは、非常に純粋な形で、「外的」および「内的」な「二者関係」に無限に「投影」させ、「転移」させることに開かれ切っている。

 
似たようなことは、他の歌手でもある程度は曲によって見られるが、ayuのように「首尾一貫した厳密な方法論」と言える域の人を、私は知らない。

 ayuは、本当にこの経験則だけで詞を書き続けていられる。裏を返すとayuのような詞を他人が「模作」しても容易にメッキが剥げる筈と断言できるくらいである。

*****

 この現象をうまく説明するのに役立つ、私の守備範囲に入っている精神療法家は、誰をおいてもサリヴァンである。

 私はこのことを公然とネットで書いたことが実はないままなことに、直前の記事でサリヴァンに言及した際に気がついた。

サ リヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 サリヴァンが、 本書で、「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)なもの」と呼ぶ対人的相互作用の次元での象徴化・言語化様式と、まさにぴったり符合するのだ。

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 (前略)この合理化とは、実は「個性とは一人一人独自なものである」という妄想の特殊な一側面である。それは、「概念としての『私』と「概念としての『あなた』(conceptual "me" and "you")がそれぞれ特異的な境界線をもっているためにどうしてもそのように考えられてしまうのであるが、実際には、「概念としての『私』や『あなた』とは、個人の知覚の舵取り役をつとめるもののその人の経験の意識可能な範囲を限定する参照枠[frame of reference]となるものに過ぎない(邦訳p.111)。

=======引用終わり=======  

 サリヴァンは凄まじい逆説を述べているので、一見難解だが、ちょっと解説してみよう。

 サリヴァンは、本書の別の箇所で、「我々は、基本的には同じような人間である」という前提が大事ということを述べている。

 これは、一見「個性」というものを否定しているかに見えかねないが、一見精神病状態になるかに見える人間でも、基本的には自分と同じような人間として捉える基盤が大事だということを強調していると受け取れるだろう。

 そして、「個人」という自己完結的システムとして人間を捉えるのではなく、「対人関係的相互作用の場」過程という次元でとらえることを基本スタンスとしていることこそがサリヴァンの本質なのだ。

 この点はジェンドリンも「人格変化の一理論」の削除された草稿部分(TFI日本語サイトで村瀬孝雄訳を閲覧できます)で、サリヴァンとの比較論に紙数を割いて評価している。

 「性格は、対人関係の関数である」

・・・・サリヴァンの、もっとも有名な言葉のひとつである。

 ひとは、自我を持つ存在として他者と関わる限り、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる形での言語での意思疎通の能力を身につけねばならない。

 この"consensual validation"という概念は、中井先生の「超訳」の典型として著名だけれども、わかりやすく言えば「お互いに話が『通じあう』水準での言語使用になじむ」必要がある、ということ以外の何者でもない。対義語は、端的に、「自閉的(autistic)な言語使用ということになる。

 もとより、人はこの能力の獲得の過程で、「自己態勢(self dynamism)」から「私-では-ない-もの(not-me)」として解離しなければならない有機体的経験の膨大な領域を持つことになる。そのある部分は容易に他者に投影され、ある部分は端的に「否認」されることになるだろう。

 しかしそれはサリヴァン的な見地からすれば、人がその所属する文化に適応(accultualization)していくための必要悪でこそあれ、さまざまな精神的失調・・・・正確に言えば、そのは単に「個人内」の現象ではなくて、「対人的相互作用」における齟齬ということになる・・・・の温床でもある。

 そうした意味で、アイリッシュ系であるサリヴァンは、WASPを中心とする当時のアメリカの価値観がアメリカの青年、特に前思春期の男子の成長に与える悪影響についてむしろ非常に尖鋭な批判者であったことは是非とも述べておかねばならない。

*****

 さて、こうした前提で、「パラタクシス的なもの」自体についてのサリヴァンの言葉を引用しよう:

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 パラタクシス的[paretaxic]な対人的関わり方とは、話し手の意識の枠内におさまるような内容規定を持った対人関係と並んで[="para-"=並行して] 、影が形に添うように、もう一個の対人関係が存在し、対人的なかかわり合い方の傾向が前者とは全く異なり、しかも話し手はその存在をまず完全に意識していない場合である。

 パラタクシス的な場においては、精神科医と患者とから成る二人組と並んで、ある特別な『あなた』パターンに迎合するように自己を歪めた精神科医」と「未解決の過去の対人的なかかわり合い追体験しながらそれに対応する特別な『私』パターンを現している患者」とから成る幻の二人組がある。コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、この移動が稀にしか起らないこともあるが、いすれにせよ、普通、話し手の気の配り方は、結構ちゃんとしていて、活用や語法、語順などまちがわないで文法に適った言明を作ることができる。そのため一見首尾一貫した議論の立て方となる。またかなりはっきりと聞き手を意識した語りかけ方となる。(邦訳pp.112-3)

=======引用終わり======= 

・・・・この最後のパラグラフなんて、全くもってayuの歌詞のありかたそのものについて言及していると言えるだろう。

 ayuって、びっくりするくらいに、はるか以前の対人関係のことを意識し続け、ひきずり、繰り返し歌い続けずにいられない人のようだ。

 このあたりの具体的な解析と人物の同定については、王子のきつねさんのブログの随所で繰り広がられてきた情報収集力と慧眼と説得力に私はとてもかなわない。

 念のために申し上げると、いわゆる「成熟した」対人関係を持つ人間同士でも、この「パラタクシス的」次元は容易に顔を出す。ベイトソンのいう「ダブル・バインド」も「パラタクシス的なもの」の特殊な形態のひとつといえる。

 興味深いのは、高機能自閉症の人にとっては、まさにこうやって「影のように寄り添う別次元の対人関係様式」という、いわゆる「健常者」が全く無自覚に撒き散らす「含み」の成分というものを厳密に「理解」「識別」できないとパニックに陥るようであるということだ(私は発達障害の専門家ではないが、当事者やご家族の話をうかがう限り、少なくとも高機能自閉症スペクトラムの「あるタイプ」の皆さんの多くの場合にあてはまりそうだ。「どのタイプ」と言えるほどの臨床経験は私にはないが)。

******

 ちなみに、先程の引用部分で、

>コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、

と述べたが、あゆの場合、同じ歌の内容が同じシチュエーション、同じ相手を指すと強迫的に捉えようとすると意味が全体として通じにくくなるケースが稀ではない。

 これについては、先述のきつねさんが、"(miss)understood"(アルバム名ではなくて曲の方浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood)について、見事な分析をしている。

●甘いスイカに砂糖をかける(王子のきつねOnLine)

●Miss Understood Lyrics - 浜崎あゆみ (English and Hiragana)(YouTube)

 私が大好きな歌です。

 ここでいう「君」って、全部ayu自身のことを指すものとして理解しなおしてみるだけで、ぐっと深みが出ますよね(^^)

*****

 もうひとつ、アルバム"(miss)understood"の「心臓」であり、もっとも深みある曲のひとつと私が感じている、"In the Corner"浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner

●Ayumi Hamasaki - In the corner(YouTube)

 ちなみに、この歌詞を聴いて、ayuのことを「ボーダーチック」だとか"as if personality"だとか言い出すのは、私は心理の学部生までしか許さないからね。

 自分のことを振り返ってみなさいよね。

 「まずは罪なき者が石を投げよ」。

 相手への愛情を一瞬たりとも疑ったことがない人がいるとすれば、そういう人のほうが無理のしすぎで心配である(^^)

 ayuは、素直なだけなんだよ。

 あるいは時々、聴衆を意識して、こういうことを敢えて歌にして「予防ワクチン」をファンに打っておかないと、自分も持たないし、ファンも危ういと感じているだけ。

 そういう意味ではほんとに「ファンに気を使っている」からこそ、こんな、ファンを「脱錯覚(disillusion 幻滅)」させる危険がある「暗い曲」をアルバムに入れておく。

 私が聴いた、アルバム発売時のツアーの、少なくとも長野2日めと代々木の楽日という、私が臨席した2つのライブでは歌わなかったけど、最近はライブでも歌っているらしい。

 私なら、ayuをむしろ、若干分裂気質も合質しながらも、高エネルギー型執着気質をベースにした、適応水準の高い双極2型に分類する(・・・・って、それこそ私自身のパラタクシス的「投影」でもあるかもしれないけどね)

浜崎あゆみ/(miss)understood (DVD付)浜崎あゆみ - (miss)understood

(楽天市場の同商品)

*****

 最後に,YouTubeの「公式」動画より。

 敢えて次の初期の曲で、私が最初に提示した「君」の読み替えを徹底的にやってみてください。

●浜崎あゆみ / TO BE(YouTube)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~ - TO BE PVはTO BE

浜崎あゆみ/A COMPLETE ~ALL SINGLES~ (DVD付き)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第3.5版)

 今年秋9/24(金)-26(日)に、熊本市の熊本大学で開催される、日本人間性心理学会第29回大会の1日目、24日に開催される一日ワークショップの分科会のひとつとして、不肖私が、フォーカシングの講師を務めさせていただくことを受諾いたしました。

 恐らく、すでに昨年、佐賀県教育センターの研修会で確立した方式に更に手を入れて移植するやり方をとらせていただくことになるかと思います。

*****

 さて、私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験のの乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気と忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2010/02/05

NHK 追跡A to Z 「問われる日本人の"言語力"」

 前回のワールドカップ、ドイツ大会において、日本代表サッカーチームは、予選リーグで一勝もできないまま敗退した。

 ワールドカップ後の報告書で、日本人選手の「自分の意思を伝える言語力不足」が課題の一つとして取り上げられている。

 サッカーは、野球とは異なり、試合の進行のひとつひとつの局面で、監督やコーチから直接指示を受けることが殆どないまま、各選手は状況判断して進めていかねばならない。

 そのためには、試合の進行中に実際に具体的に意思疎通を図るのみならず、練習やそれ以外の場面を含めての対話の中で、相手とはどういう人間で、どういう場面でどう考え、どう判断しがちかについてまで、お互いに知りあっている必要がある。

 ところが、ワールドカップ初戦の対オーストラリア戦、前半で1点リードの後、後半残り数分で同点に追いつかれた時、日本チームの中で何が生じていたか。

 このまま引き分けに持ち込めればよしという方向で行くのか?
 再度点を取ってリードするまで狙うのか?

・・・・・各選手の感じ方はバラバラであり、このバラバラさが相乗作用して不安を醸成する中で、瞬く間にオーストラリアに追加点を許して行ったのである。

 オシム元監督は語る。

 「日本選手はこちらから話しかけると怯えていた。生活において対話が欠けている。誰もが自分の考えを言葉にするのを恐れている」

*****

 日本人の「言語力」(対話力)不足は、産業分野でも深刻な問題となりつつある。

 団塊の世代が次々引退する中、工場での「職人芸」をいかに後続世代に伝承するかが課題になっている。「技は盗むもの」という感覚で生きてきた職人たちは、若い世代にうまくわかりやすく伝える言葉の力に乏しい。

 一方、技術や資格を持ちつつも、会議の議事録やちょっとした報告書をまとめることにすら苦労する若手社員が増加している。

 読んでも意味がわからない。「流れ」が読み取れない。起承転結がある文章が書けないのである。

 このことの影響として、携帯メールに若者が慣れ親しんでいることが番組では示唆されているが、携帯メールでやり取りする時ですら、「流れ」と「起承転結」を想定してやり取りを交わせる若い人は確かにいるので、単純な原因論にしてしまうことには、私個人は違和感がある。

*****

 我伝引水を承知でいうと、私のNHKのドキュメンタリー番組の紹介はこのブログのもはや名物のひとつになっており、ひとつ書く度に多くの読者の方にお読みいただいていることに感謝申し上げている。

 なぜ、私の記事を読んでいただけるのか?

 それは、番組の内容がどういう内容だったかが彷彿として伝わるからであると自負している。

 ところが、実際に番組をご欄になった皆様はお気づきだろう。非常に多くの場合、私は番組の実際の進行を大きく再構成して書いているのである。

 しかし、できるだけ私個人の感想と区別できる形で、番組そのものがどういう内容だったかを、臨場感あふれる形で「文章化」できているつもりである。映像的表現における構成や文法と、文章における構成と文法はかなり異次元のものであることを私は常に意識しているつもりである。

 そして、そもそも、私のブログにおける文章は、特に最近のものほど、「流れ」と「構成」がもたらす効果について、私なりに計算し尽くして、しかし、殆どの場合、前から後ろに「一気に即興で」書いて、誤字修正したものであるに過ぎない。昔のように「改版」を重ねることも珍しくなってきた。

 書き出す段階で、私の頭の中の「非言語的な」「暗々裏の」アウトラインプロセッサはほぼまとまっている。まとまっていないと書き出さない。タイトルが決まれば、本文の内容は、もう流れ出すように結論に向かって書いているわけです(^^)

 このような番組紹介記事の場合には、もちろん番組を見ながらのメモは取っているが、それをどのように「構成」するのかは全くの即興である。

*****

 今回の番組のゲストとして登場したのは、ユニクロのデザインやイメージ戦略を担当していて有名な、佐藤可士和(かしわ)氏であった。

 (佐藤氏は、我が勤務校だった、明治学院大学の学章等イメージデザイン全面リニューアルにも関与している)

 イメージやデザインという「非言語的な」媒体を取り扱うにもかかわらず、佐藤氏は、仕事の経験を深める過程で、言語的な対話能力の重要性に目覚めて行ったという。

 クライアント(顧客さん)相手にせよ、協働するスタッフ相互間にせよ、中途半端なやりとりだけだと、お互いに勝手に違ったものを思い描いていることに気づかない。

 そしてユニクロで共同作業をした、ドイツ人のデザイナーの圧倒的に雄弁な言語での表現力にも大きな刺激を受けたという。

 ドイツでは、幼稚園段階から、自分なりに自分の言葉で表現するための訓練がカリキュラムとして緻密に織り込まれている。まだ小学校低学年くらいの子供たちに、サッカーのコーチが練習中に「何が問題だと思う?」と問いかけた時の、各人各様のしっかりした意見の述べ方は見事なものだった。

 そして、ドイツの大学の入学試験はすべて論述式とのこと。日本では、ちょうど私の世代(1960年生まれ)から、マークシート全盛の時代に突入している。

*****

 日本サッカー界で、従来の常識を覆した選手がいる。

 本田圭祐。

 昨年の試合で、フリーキックの際に、中村俊輔に任せるのが通例だった流れに逆らい「俺に蹴らせてくれ」と何回もアピールした。

 彼はオランダの2部リーグでキャプテン、および司令塔として活躍、チームのリーグ優勝に貢献した。

 セン・ファン・ダイク監督は、彼をフリーキッカーに育てるつもりだったが、本田は、いざ試合中にそうしたタイミングになると、他の選手からの「俺に蹴らせろ!」というアピールの凄さにしばしば気押しされ、譲ってしまっていた。

 そうした彼の様子に、監督は、「フィールドでは常にリーダーであれ」と発破をかけたという。

 それから1年のうちに、本田はチームメイトからの信頼と敬意を集めるようになる。

 現地で覚えたブロークンな英語しかできないが、コミュニケーションの細やかさという点ではそれまでの欧米人のキャプテンにはみられなかったセンスを絶妙に発揮する。

 伸び盛りの若手には時として厳しく。
 プライドの高い選手には、気を使い、相手を具体的に納得させるような調子で。

 他の選手は語る:

 「これまでのキャプテンは、キャプテンの立場からしかものを言わないキャプテンばかりだった。でもホンダは相手を見て、もののいい方を変える」

 ひとりひとりの違いが見えてくるとは、相手がどう出てくるかが読めるようになるということでもある。

 気配を「察する」能力。これは日本人本来の「気遣い」の伝統にも一致している感性の世界だろう。

 これに、「わかりやすく伝えよう」というスイッチが加わった時に、何か大きな活路が開かれるはず

 オシム氏は語る:

「日本人は日本人らしさを追求しない。これも私の疑問だ。すぐに他の国と比べたがる。そうやって他の国を見習って追いついた時にはその国はもっと先へと行っているのに。追いつくのではなくて、追い越さないと」

 本田は今、ステップアップを目指してロシアのリーグに移籍している。

*****

 佐藤氏は、次のようにも付け加えた:

「言語力とは、『自問自答能力』ともいえるかもしれない。相手からこう訊(き)いてきたら、どう答えるか?・・・というシミュレーション能力みたいなものを鍛えられるかどうかということ」

「それは、自分の頭の中にばやーっと浮かんでいることをはっきりさせていくこと、ちょうど、ぼやけていた画像で、カメラのピントをはっきりさせていくようなことなんじゃないでしょうか?」

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2010/02/03

日本人間性心理学会理事に当選させていただきました。

 ご投票頂きました会員の皆様に感謝申し上げますと共に、今後会の発展のために微力を尽くす覚悟です。

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2010/02/02

カウンセリングルーム開室日程について(第2報)

 3/27(土)に緊急の出張が入ることになりました。この日を臨時休業とさせていただきます。

 皆様のご理解とご協力をよろしくお願い申し上げます。

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2010/02/01

パソコン内部のファンを1つ取り替えるだけでここまで静音になるとは!!

 以前、

●暑い季節を前に、パソコンの熱暴走対策をどう考えるか

・・・という記事を書いたけれども、まだ寒い中、デスクトップパソコンの音の大きさが、音楽を聴く際だけではなくて、ネット面接でも影響を与えていることが気になりだしたのです。

 そこで、電源ボックスに手を出す下準備をそろそろ始めようかと調べ始めたら、「ケースファン」という、小さくて安価なパーツが電源ボックスとは別に、デスクトップ型では最低2,3箇所に使われていることを知りました(電源ボックスの中にもファンが一体型で内蔵されています)。

Heatsync ←まずは、CPUの上の冷却フィンと合体しているものが一つ(左に張り付いた黒いボックスの部分)。

少なからぬ製品は、金属のヒートシンク(フィン)部とフックで取り付けられているだけで、他社製とすら交換することができる。

 あとは、パソコン内部に風を送るものと、パソコン内部から熱を逃がすためのものが更に2つ(少なくとも私の場合)。

 そして、この「ケースファン」の世界が、現在、低電圧、高能率(風力が強い・逆流しない)、そして音が静かであることについて、製品の性能・価格競争状態であることに気がつきます。

*****

 購入する際に用心すべきなのは、4.5cm,5cm,6cm,8cm,12cmなどと、すでに使っている函体によって使用できるサイズに制約があるということである。実際に蓋を空けて、サイズ(ネジの中央の部分同士の距離)を正確に実測しておく方がいいでしょう。もとより、函体によってはオリジナルよりも大きなファンを取り付けることも可能な場合があるようですが。

 そして、むやみ風速があればいいというものではなく、音が静かで、消費電力を抑える(電源ボックスの容量がある)上では、低速回転で、羽根の風力的デザインやモーターの軸受のベアリング構造に注目すべきということになることがわかってきたのですね。

 本日所要で福岡に出た際に、とりあえず1個試してみようと、CPUのヒートシンクの上にあるファン(函体の構造上、そのすぐに外側に空気取り入れ用の網目がある)だけを取り替えてみることにしました。

 CPUは5年も前のCeleronD 3.2GHzで発熱も最新のPentiumよりは低い筈だし、ヒートシンクに溜まったほこりの大掃除をしてしまえばそれだけで本来の冷却性能が回復するはずと考えて、敢えてCPU冷却ファン用ではなく、高能率のケースファン(8cmサイズ)に交換してみることにしたのだが、ビックカメラ天神店で、たったの980円なり(4ピンと3ピンの変換ケーブルつき)。

SP0825FDB12L KAMA FLOW2 8cm 1400rpm

*****

 以下の作業は当然電源を切るばかりか、コンセントも引き抜いてから行います。

 まずは函体をあけ(たいてい2箇所ぐらいの大きめのネジ外しでパカっと容易に外れるはず。どっちにずらすと外れるかにコツがあることが多いだろう)、前のファンをCPUのヒートシンク部からパカっと外す(隅の4箇所フックで止めてあるだけ)。そして、たっぷりホコリがたまっているはずのヒートシンクの板の間を、毛先が長くて固いブラシで一気にお掃除。

 掃除の後は、電気掃除機を精密部品にぶつけないように慎重にあてて函体内部の埃全体を吸引。

 そして、新しいファンを、向きを間違えないようにしてパカっと取り付ける(外す前のファンの向きを覚えておくに越したことはなかろう)。

 私の場合には、新品に付属していたケーブルを用いて4ピンと3ピンの間の変換が不可欠な結線だったが、これもプラグを合計で三箇所ぱちっとはめればいい。

 極論すれば、USBと同じように、果てしなくこの種の機器を「増結」できる,何ともシンプルなプラグ構造であることもわかった(電源ボックス側の容量に用心すべきだが)

 以上、終わり。メモリの交換・増設とさほど手間が変わりません(^^)

 不器用な私でも所要20分。

*****

 恐らくこのことは、電源部とマザーボードの動作についてのOS側での自動再設定を飛び込むのでしょう、起動の際には、外付けHDをお使いの方は汎用のUSBドライバの自動再読込に少し時間がかかることがあるかと思います。

 この段階で、私は気がつきました。

 音が、うるさい。

 ・・・・・HDのカチャカチャいう音って、ここまでうるさかったんだと。

 聴覚心理学の実験でいう、「マスキング」効果なんですね。

 つまり、4つのファンのうちの1番重要なファン(なにしろ、CPUのヒートシンクを音響板(?)として多数従えていますので、共振作用も大きいはず)を換えただけで(もとより、残り3つのファン周りも皆清掃していますが)、ここまでパソコン全体が静寂になってしまうというのは驚き以外の何者でもなかったのです。

 主観的には、ファンの音が5分の1ぐらいに落ちたぐらいの印象。部屋の静けさがまるで違います。

 そして、以前のままの、「後方へ」排出するケースファンから背後に排出される風の強さまでまるで変わりました

 純粋に物理的に見ても、CPUの上に載せたのは、CPUへとケース側面から外の空気を導く「吸入」方向に取り付けているので、PCの函体内部の空気圧の方が相対的に高くなっていることになります。そうやって取り入れた空気が今度は出口を求めて必死になっている「ターボエンジン的」相乗効果状態なのだと思います。

 更に、ボードそのものが数年前一世を風靡したASTSTeK P5S800-VM/SiS 661FXです。マザーボードそのものに、ファンの回転自動コントロール回路があるので、ファン相互間の運転バランスそのものも変化したのでしょう。

 部屋は静かになったのに、部屋の空気全体が以前よりもそよいでいるのをはっきり肌で感じます。

 ・・・・それだけ、パソコンが部屋の塵や埃のフイルターになる副作用が強まるわけで、内部の掃除も今後頻繁に必要になるということにもありますが、私はデスクタワーを机の上の隅に置いていますので、床の埃を吸い込む度合いは少ないはずです。

*****

 もとより、大事をとって、数日中に、函体の後ろにある2つの吸気・排気のケースファン(50mm)も静音型で高能率、しか低電力消費のものに変えてしまうつもりですが・・・・当然、今よりもっと静かにになるわけですね。

 そして、夏場の前に、最後に電源ボックス(この内部のファンだけは一体型ですし)を代える、という3ステップで行くことにしました。

 なお、ケースファンや電源ボックスをはじめとした、入門者にもわかりやすい自作情報とパーツ情報なら、以下の2つのサイトへ。以上の私の記事も、この2つのサイトで学んだ情報に基づき書きました。

パソコン工房

*****

 この、「新品で高性能のケースファンを使い古したCPU専用冷却ファンの代わりに使う」というやり方は、Pentium4以降のパソコンだと冷却能力という点で非力な可能性があり、原則的には、若干価格は上がっても(・・・といっても2,000円ぐらい)、新しいCPU専用のファンへの取替えをお勧めします。

 基本は同じデザインですが、羽根の数が多かったり、羽根一枚あたりの面積が広かったりするので、ひとめで見分けがつきます。

 

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2010/01/31

久留米でうつと働き方を語る会、次回は2/28(日)開催です。

 「久留米でうつと働き方を語る会」、第6回は、本日滞りなく開催されました。

 体験談ばかりではなく、様々な情報を提供くださり、私にとってもたいへん勉強になり、刺激を受ける場となったことについて、参加者の皆様に感謝申し上げます。

 次回は2/28(日)13:30から開催予定です。

*****

 おしまいに、ご紹介いただいた参加者の方からご許諾をいただいたので、元気が出ない時に観るという、次の動画をご紹介させていただきます(^^)

●【ニコニコ動画】俺らゲットワイルだ'89 / IKUZO+TM NETWORK (音質改善 再うp)

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«そして、カウンセラーこういちろう自身のYouTube動画。