2009年12月14日 (月)

「未熟型うつ病」とは何なのか? -福岡県精神保健福祉冬期講座に参加して(2)-

 昨日は、県臨士会のSC研修会でネットは一日お休みしました(お会いできた皆様からたくさん刺激をいただけたことに、心から感謝申し上げます)。

 やっとこの記事の続編(・・・・というか、結論は先に書いてしまったことにもなりますが)を書かせていただききます。

*****

 午後の部の講演に招聘されていた講師の先生は、自治医科大学で奉職されている、精神科医の阿部隆明先生でした。

 先生は、「新型うつ病」の一類型としての「未熟型うつ病」概念の提唱者です。私がこのブログで繰り返しご紹介してきた、内海健先生や加藤忠史先生ともお親しいようで、いわば日本のうつ病治療の最前線におられる先生のお一人です。

 講演のタイトルは、『現代の多様なうつ病像とその治療』でした。

 いわゆる「新型うつ病」や「双極スペクトラム障害」をはじめとする現代日本のうつ病の諸相について、これほど明確かつ立体的に解説していただいたことはない、と申し上げたいくらいに素晴らしい内容で、参加させていただいて、本当によかったと思っています。

*****

 まず、この先生のスタンスでたいへん興味深かったのは、下田光造が1943年に提唱した、うつ病の病前性格概念としての「執着性格」と、1961年にドイツのテレンバッハが提唱した、同じく、うつ病の病前性格仮説としての「メランコリー親和型性格」を、共に、クレッチマー以来躁うつ病の病前性格として提出された来た「循環気質」に対して新たに提出された、両国の高度成長期に生じた、当時の「新型うつ病」概念であると、明晰にお語りになったことです(この点では、内海先生の路線と明確に符合しますね)。

 そして、「執着性格」が、こだわり、几帳面、完全主義的自我理想に動機付けられた高エネルギー型であるのに対して、「メランコリー親和型」は、秩序愛と他者のために尽くすことに動機付けられ、周囲への罪責感という超自我的な動機付けで動く、むしろ弱力型のうつの病態であると解説してくださいました。

 中井久夫先生のご著書(確か、「分裂病と人類」)で、ドイツにおいても、メランコリー親和型性格は、男権的なドイツ的価値観からするとあまり評価される性格ではないということはお読みしていましたが、なるほどと思った次第です。

 もっとも、日本の高度成長期においてはメランコリー親和型性格は、少なくとも、重責に就く以前のサラリーマン道徳としては、明らかに「適者」の存在様式であったことになります。

*****

 「双極スペクトラム障害」についての先生のご解説も、今や0.5型から小数点0.5刻みでVI型まで提唱されているそうで、興味深かったのですが (私個人は、原則的に、DSM-Vで双極スペクトラム概念が気分障害の「大分類」として導入されることに大きな期待をかけているひとりです)、詳細になりすぎるのでここでは割愛させて頂きましょう。

 むしろ、先生が、「軽症うつ病で安易に抗うつ薬が処方され過ぎている」こと、そして、「抗うつ薬をトリガーとした躁転」という問題の重要性をやはり強調されたことは特記しておきたいと思います。

*****

 さて、ここからが一番興味深い部分です。

 阿部先生は、「メランコリー型」「執着性格」を含む、現代のうつ病の諸相の相互関係について、実に明快な図版を呈示くださいました。

 原典は飯田真先生らとの共著にあるとのことですが、敢えてこの図だけはここで配布されたパワーポイントファイルの縮刷版を取り込ませていただくことをお許し下さい(私の書き込みも読めてしまうので、観づらいかとも思いますが。

Dr_abe

 

 この図だけではわかりにくいでしょうから、」ここで、いわゆる「新型うつ病」について、阿部先生が実に簡潔にご紹介くださった既成の諸概念についての解説を、この図と関係ない部分を省略してそのまま転載します。

※青年期のうつ病像

●ディスチミア(dysthymia)親和型 (樽味)

  • 回避的な傾向が強い
  • 不全感と倦怠感
  • 「生き方」と「症状経過」の不分明

※成人期後期(20代後半-30代のうつ病像)

●逃避型抑うつ (広瀬)

  • 高学歴、上司との関係、選択的抑制(こういちろう注:すべてのことへの興味や関心が失われるわけではないということ)、弱力的ヒステリー性格、自己愛的

●未熟型うつ病 (筆者ら)

  • 20代前半までは周囲から庇護されて葛藤なし
  • 職業上、家庭生活上の挫折から発症
  • 経過中に不安焦燥感優位で、自責に乏しい病像
  • 周囲に対する依存攻撃性
  • 状況からのストレスが棚上げされる(庇護的な環境におかれる)と軽躁状態(双極II型-I型的)

 そして、「執着性格」と「未熟型うつ病」が、内因性・生得的な気分昂揚的・躁的素因を持つ「高エネルギー型」であり、「メランコリー親和型」と「逃避型抑うつ」は、そうした「気分高揚方向への」内因的素因がなく、むしろ神経症水準での「弱力型」ということになるようです。

 これに当てはめたら、私なんて、もう、絵に描いたような「執着性格」ってのが、本来のあり方ですね(^^・・・親父もそうだな・・・・)

*****

 さて、この図の鍵は、

  • 「希薄な愛情備給」→「メランコリー親和型」か「執着性格」
  • 「過保護・溺愛」→「未熟型」か「逃避型」

・・・・と一般化されている点でしょう。

 ここで私の頭の中は???で一杯になってしまいました。

 私の父親って、ややおせっかいなところはあったけど、「熱く」私を愛し続けてきてくれた。でも、私の進路や勉強については全く口出ししなかった。子供時代、私の好きな鉄道旅行にどれだけ付き合ってくれたことだろう。全然希薄な愛情備給ではない。

 母親も、ある意味では偏屈で頑固な父親のやさしい話の聴き手になれ、子供の頃から私の前で神経質になることも皆無、まもなく87歳の今も、情緒的 な安定感の高さと同時に、頭脳明晰で愛嬌あふれ、腰が曲がったのを除くと、70前と思われかねないくらいのみずみずしい感性(肌の色艶も)を維持してい る。 

 そして、何より、「未熟型うつ病」の説明図式を追っていくうちに、確かに、こうした説明で典型的に理解できる「新型」うつの患者さんも一定数はいるかもしれないことは認めるにしても・・・・・

 これじゃまるで、育ちのいいぼんぼんやお嬢さんが、厳しい社会に出てはじめて傷ついて発病したみたいな印象与えないか???

 さすがに上の赤字の言い方まではフロアからの発言上は控えましたけど、私が現場で体験しているこのタイプに当てはまりそうなクライエントさんから詳しく訊いた生育暦や、親御さんと接した時の印象との隔たりがあまりに大きいと感じました。

 「未熟型うつ病」であるかに見える人に家族内での葛藤がなくて庇護されていたなんて、私の知る臨床的現実とはまるっきり正反対なのだ。

 確かに、この種の病態を示す人たちの、養育者との関係は「密着していた」時期を持つことが少なくないのは認める。

 でも、それは、断じて、子供の側が依存し、それに対して親が庇護を与えるという循環構造ではないのだ!! 

 得てして、気分変調的な側面をすでに持つ母親まずは存在する。その母親の機嫌を損ねないように、子供の頃から、涙ぐましいまでに気を使い、家庭の平和を守るためのキー・パーソンとして「世代間逆転」的な形で一家を支えてきたのが、患者として現れた若い人たちなのである。

 家庭に葛藤がないかに見えたのは、子供の方が親の気持ちにとことん寄り添って「平和維持」に努めてきたからこそではいか????

 その人たちには、むしろ親に安心して甘えられた経験など欠落している。

 そして、非常に孤独な努力を重ねて、親の引力圏から離脱するために、優秀な大学に入り(得てしてこの時に親元から離れた大学を選択する。それを可能にするためには、地元を離れるに値すると親に見なされるほどに優秀な大学である必要があるのだ!) 

 そして、これまた親のグーの根も出ないくらいの進路(留学、企業)へと進んでいく。ひたすら、親から自由になるために!!

 そうやって、どこまでも飛翔した先の企業などで、彼ら/彼女らはついに力尽きるのである。

 このような経緯を持つ患者さんが、医師との治療関係が一応ついて、「陽性転移」の時期を経たは何が起こるか????

 ・・・・もう、目に見えている。

 親や医師、社会を相手に恨みや攻撃性を爆発させることそのものが、不可避の「治療過程のプロセス」なのである。

 そうした「治療過程のプロセス」を、「疾病像」と誤認することの危険が、あまりに大きくはないのか?

*****

 もちろん、簡潔に、紳士的で丁重な表現を取らせていただきましたが、私がフロアから阿部先生にお伝えした感想は以上のようなものでした。

 このこととの関連で、この前の拙文、

●「過保護」という概念は安易に使われすぎていまいか?

をお読み頂ければ幸いです。


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2009年12月11日 (金)

「過保護」という概念は安易に使われすぎていまいか?(第2版)

 これは、前の記事に続き、この後に予定している記事への伏線になる内容なのだが、そちらの記事でこのことまで一気に論じると長大化し過ぎるし、独立したトピックとして敢えて立ててみても大いに意味がありそうなので、こうして「先行掲載」する道を選んだ。

 一般の皆様は驚かれるかもしれないが、心理の専門家の間で、「過保護」という概念が使われることは滅多にない。

 そしてそれは「親に甘えている(甘やかしている)」という言い方を心理専門家が可能な限り排除するのと、実は共通の背景がある。「甘え」という概念が専門家と一般の皆様との間でどのくらいギャップがあるかは、すでにこの記事で詳しく論じた通りである。

 wikipediaの「過保護」の項は、この点についての配慮が行き届いているが、敢えて私なりの言葉で定義すれば、「過保護」とは、次のような現象に関して限定的に用いられるべき概念であると私は考える。


「養育者が、子供の欲求や願望の充足と、不快や不安や困難の低減や除去を何より優先する形で養育活動を行うこと」

 つまり、この場合、親は子供の完全な僕(しもべ)という位置に近い。

 実は、このような、「純粋な過保護」というべき現象は、一般に思われているよりもはるかに少ないはずである。

 英語には、確かに"overprotected"という言葉がある。私の知り合いによれば、ブリトニー・スピアーズにこのタイトルの歌があり、グラミー賞にもノミネートされたようである。ブリトニー・スピアーズ - Greatest Hits: My Prerogative - Overprotected PVが→Overprotected

●britney spears - overprotected(YouTube)

【第2版で追記】:情報提供者から、ブリトニーの他の歌と一緒くたにして伝えていたとの知らせが入りましたので、(^^;)追加しておきます。

●Britney Spears - I'm Not a Girl, Not Yet a Woman (720p HD) + Lyrics(YouTube>

 しかし、この歌は「私はもう少女ではないのだから、もっと好きにさせて」と歌う歌である。つまり、"protected"とは、むしろ親の「拘束」を示唆するものであろう。

*****

 ここでお気づきの方はお気づきだろう。

 「過保護」であるかに見えるケースのほとんどは、むしろ養育者の「過干渉」 とむしろ親和的なのだ。

 「過保護」も「過干渉」も、少なからぬ場合、養育者と子供との距離が過剰に密着しているという点では共通項があるかもしれない。

 しかし、「過保護な子供は葛藤なく育っている。ストレス耐性が低い」などという言い方が安易に使われるとしたら、実は養育者と子供との相互作用の上っ面だけを眺めているに過ぎないケースが大半だと思える。

 現実には、子供の方が親の気まぐれなまでのわがままな言動に必死にチューニングして、世代間逆転的な形で、親のメンタル面での安定を保とうと必死なまでに甲斐甲斐しく振舞ってきた経歴を持つことが少なくないのではないか。

 つまり「親子間の葛藤がない」かに見えるのは、子供の側から、必死になって「平和を支えてきた」からこそというべきケースが多いように思える。

 そのかりそめ平和の中で、一見「仲良し親子」のように端からは見えることが多いかもしれない。しかし、それは実は親のちょっとした不機嫌によって もろくも崩れ去る、薄氷を踏むかのような平和であることに周囲は(酷い時には母子の傍らにいるはずの父親も)、全く不感症である場合がある。

 養育者と当人の間の相互作用を丁寧に観察して吟味していくと、実は本人よりも養育者のほうが(控えめにいっても)よほど「気分変調症」的ではないかと思われてくる事例の多さに注意すべきである。

 子供の方が、むしろそういった親を「あやす」ことを子供の頃から求められ、「オトナとして振舞う」ことを強いられてきた側なのである。

 そうやって成長した子供が、真の自立を求められる局面で失調し、他罰性や攻撃性が強い存在に見かけ上大反転を起こしたとしても、それはまったく自 然な展開ではないか? 目の前にいる、いわゆる「新型うつ病」患者は、実は、家族力動の犠牲になった"Identified-Patient(見なし患 者)"なのかもしれないのである。

 いわゆる「新型うつ病」世代の気分障害全般を考える際、こうした視点は重要な鍵になる可能性があるように私は思えてならない。

 もちろん、だからといって、親を諸悪の根源視してもどうにもならない。親自身が、何らかの意味で、やはり自分の親やもう一方の配偶者との不幸な関係を背負っていることが少なくないからである。

****

 このようにいうと、あの懐かしいカタカナ語を思い出される方があるかもしれない。確かにある程度は重複することになるかもしれない。

 しかし、どのような概念として「説明」するかは、セラピーそのものの成否とは全く無関係である。

 何より大事なのは、目の前に現れた個々のクライエント(患者)さんと虚心に向き合い、安易なレッテル張りや分類を超えたところで相互作用を持ち、解決策を、一緒になって探していく、「テイラー・メイド」ないし「一品料理」を作れる専門家としての力量であろう。


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2009年12月10日 (木)

派遣労働者は企業メンタルヘルスや産業カウンセリングの蚊帳の外? -福岡県精神保健福祉冬期講座に参加して(1)-

 一昨日参加させていただいた、福岡県精神福祉冬期講座「不況を生き抜く -多様化するうつ病と休職・失業からの再出発」の報告記、第1弾。まずは午前の部についてご紹介します。

 講演午前の部に招聘された先生は、大正大学の廣川進先生。「休職・失業のキャリアカウンセリング -人生の危機・転機を越えていくために」という演題でした。

 ベネッセで18年間勤務され、雑誌「ひよこクラブ」などの編集に携われた後、衛生管理者としてヘルスケア部門を担当され、採用・教育研修など、人事の業務も経験されたとのことです。

 40歳を迎えるにあたり、臨床心理士になることを決意されて大正大学大学院に社会人入学。病院臨床の経験も積まれ、現在も大正大学の准教授をお勤めの傍ら海上保安庁にも勤務され、先日の佐世保での事故の際にも危機介入のため活躍されたとのことでした。

*****

 企業人から産業カウンセラー・キャリアカウンセラーの転じられた経歴をお持ちというだけのことはあり、企業の内部事情にも精通された上で、個別処 遇を重視する、会社内のさまざまな関係者を「チーム」としてフル活用した、うつ状態に陥った中間管理職の社員への細やかな復職支援の統合的アプローチの実践例を例示いただき、たいへん参考になりました。

 少なからぬ場合、配置転換されてきた業績至上主義の新上司からのパワハラの問題が関わること、今の日本企業は競争社会になったために、「かわいがった部下に先に昇 進される」リスクがあるため、社内の空気そのものがギスギスしているため対話が少なくなっていること。会社再建のために銀行から派遣された役員によって、 実力ある管理職がスケープゴート的に詰め腹を切らされ、リストラされることが引き金となるうつの発症などがあるというお話は興味深かったです。

 また、うつによる休職と並行して、家族構成員に様々な問題が「同時多発」することが多いということ。子供の引きこもりや行動化、配偶者の抑うつ、 親の介護などの問題が、一気に表面化=「同時多発化」しやすいようです。それまで、「ともかくも働いてしっかり稼いできてくれる」ということによってかろう じて見かけ上の平衡を維持していた家族力動の、潜在的な歪みが一気にあふれ出すということのようです。

*****

 廣川先生のお話は更に、失業者のメンタルヘルスの問題について、ハローワークを訪れる求人者の意識の実態調査に基づいて踏み込んだ問題提起へと展開しました。

 多くの退職者は、見かけ上は、キャリアアップや「今の会社があわない」などの理由を真っ先に挙げますが、実際には社内(特に上司)との人間関係に 悩んだ末であることが少なくないそうです(これは私見ですが、いわゆるリストラの場合ですら、その対象として選ばれるかどうかには、この人間関係上の問題 が少なからず影を落としていることがあると思います)。

 そして、求職者は、もはや仕事が見つからない「恐怖」に脅かされており、それまでのキャリアが通用しないことによるアイデンティティの喪失、求職 活動しては不採用になることを繰り返す中で、精神的消耗やうつ状態、身体症状の悪化、場合によってはアルコールやギャンブル嗜癖に向かうなど、潜在的に 「自殺者予備軍」となる危機にさらされている。

 しかし、ハローワークの現段階でのメンタルヘルス相談の体制は、まだ専門的訓練を受けた相談員が少なく、場合によっては「説教され、発破をかけられる」に留まる状況は何とか改善されていかねばならないことを先生は示唆されました。 

*****

 しかし、こうしたお話をうかがう中で、私の中に、何か大事な問題が抜け落ちているという思いが生じてきました。

 質問タイムが最後に取られたので、私は口火を切ってフロアから感想をお伝えいたしました。

 「大企業の管理職の方々の復職支援における統合的アプローチ、そしてハローワークを訪れる求職者の メンタル状況のついてのお話はたいへん示唆に富むお話でした。

 しかし、今日のうつ病患者の増加は、20代後半から30代において顕著であり、私がお会いしてきた通院中のクライエントさんの非常に多くが正社員ではなくて派遣勤務です。

 リストラされなかった正社員のバーンアウト症候群の問題は確かに深刻ですが、それと平行する形で、それまで派遣社員を統括していた正社員自体が配置転換され、「ベテランの派遣社員」に、その正社員の業務が「丸投げ」される現象が生じてきているようです。

 その結果一番優秀な派遣社員がオーバーワークになり、深刻なうつの危険に直面している気がします。

 しかし、多くのケースにおいて、派遣社員は産業カウンセリングや企業メンタルヘルスのシステムの蚊帳の外に置かれたままという気がしてなりません」

*****

(以下、第2回、午後の部についての記事に続く。午後の部は、「未熟型うつ病」概念についての非常に詳細な解説と問題提起を含みます。畢生の超大作になりますので、明日になってから書きます)


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2009年11月11日 (水)

ついにあの、「NHKスペシャル うつ病治療 常識が変わる」書籍化!!

 私が延々と連載記事を組み、私のサイトが一気にうつサイト化するきっかけとなった、画期的な番組、「NHKスペシャル うつ病治療 常識が変わる」書籍化されたようですnote

NHKスペシャル うつ病治療 常識が変わる

(楽天ブックス)

 恐らく番組では描き切れていなかったことまで書かれているでしょうから、もう、期待大というしかなく、楽天ポイントも生かせる(結局書店で買うよりコンビニ受け取りで安くなってしまう)ので、早速注文しました。

******

 ほんとうに、あの番組を境に、このサイトの「鬱サイト化」が急激に進行したわけです。

 気分障害全般にわたる薬物療法について、このわずか半年あまりの間に、臨床心理士の分際で、むやみやたらと勉強させていただきましたし。

 実は、うつ病と気分障害の誤診と、薬物投与の問題点のおかげで、いつまでも苦しんでいる人たちがいる可能性に気づかされたのは、この番組の放送直前の時期のことでした。

 あるクライエントさんとお会いしている時に、調子がよくなると通院しなくなり、調子が悪くなると別の病院で通院再開されるパターンを数年にもわたって繰り返しておられることに気がつき、投薬歴をすべて訊き出して、カウンセリングルームに常備していた「今日の治療薬 ―解説と便覧」首っ引きで点検していったのですね。

(楽天ブックス)

 すると、処方されてきたのは、三環系にしてもSSRIにしても、ともかく抗うつ薬ばかりが中心。

 私には、そのクライエントさんには、まさに双極2型に相当する周期的な気分変動があるために、鬱が治ったと感じた時点で治療中断を繰り返す現象が生じているかに思えもしたので、リーマス、デパケン等の気分スタビライザの処方がなされたことがあるかどうかを確認したかったのですが、一番最近の病院でやっとごく少量のリーマスの処方がなされたばかりでした。しかも、リーマスの処方の際に並行して不可欠なはずの「血中濃度検査」を受けた形跡がないのです。

 私はしっかりとこうした点を紹介状にしたため、その地域の信頼できそうな精神科病院に行くことを勧めることになりました。

*****

 そうしたできごとからさほどたたないうちにこの番組に接したものですから、インパクトはたいへんに強烈でした。

 この本だけは、読まないうちから安心してお勧めできそうです(^^)

 Amazonの書評も好発進しているようですし。

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2009年10月28日 (水)

カウンセリングの中で、自分の内面に気づけるようになってからが実は大変なのに・・・・

 以下は、裕’s Object Relational Worldの裕さんのエントリー、

単純な関係にしか耐えられないカウンセラー

へのコメントとして私が書かせていただいた内容の転載です。

*****

 田嶌誠一先生の言葉をお借りすれば、「カウンセラー」がただ自分の縄張りの中に待機していて、話を聴くだけの「密室カウンセリング」の打破は、これからの臨床心理士が否応なしに突きつけられるテーマだと思います。

田嶌誠一/現実に介入しつつ心に関わる―多面的援助アプローチと臨床の知恵

 早い話、「カウンセラーだけが」、クライエントさんのかかえた課題に応えていく「すべてを握っている」かのような思い込みは有害でしかない。

 カウンセラー(いや、援助的専門家全般)は、クライエントさんの置かれた「状況・環境全体との」相互作用を良循環に持ち込むためのアシストをする「ひとつの触媒」であるに過ぎない。しかし「たかがひとつの触媒、されどひとつの触媒」として尽力すべきなのである。

 仮に直接お会いしたり連絡を取らなくても、クライエントさんの家族だとか、主治医、担当教師、同 僚、上司、治療クループの他のメンバー、いきつけのお店の人、近郊の住民(!)との相互作用の「良循環化」が生じる端緒がどこにあり、それが現実にどれく らい生じつつあるのかという「巨視的な」視点から状況全体を見守り、ここぞというタイミングで、クライエントさんにとって最小の努力と決断できる可能性が ある「ささやかなこと」をアドバイス・提案できる「超プチ・危機介入」(クライエントさんがこちらの提案したとおりのことをする必要などない。ささやかな 刺激剤になれば、あとは、無理のない範囲で、適切なタイミングで、こちらが思いもよらない切り口と方略で、クライエントさん自身が「勝手に動き出す」のを 見守れればいいのだ)のセンスが臨床家には必要だと思う。

 さもないと、洞察的なセラピーを受け、下手に自分の内面に気づき、漠然とした違和感に敏感になり、「自分に嘘がつけなく」なる方向に「目覚めてしまった」クライエントさんは、場合によっては、以前よりも、苦しくて傷つきやすい形での現実との直面を強いられ、なのにカウンセラー側はそれに気づかず、勝手に舞い上がっているなどという事態は生じ得る。実は「気づける」ようになってからがクライエントさんは大変なのだ(・・・以上、自戒と過去の反省を込めて)。

 ・・・・書いているうちに思い出しましたが、こうした「患者さんを支えている隠れた対人ネットワークを細やかに観察する」発想法のひとつの古典として、中井久夫先生の「世に棲む患者」(1980年に書かれ、著作集第5巻「病者と社会」所収)は、やはり凄い論文だったと思う次第です。

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2009年10月 7日 (水)

10月4日付け読売新聞日曜版「本よみうり堂」に掲載された、精神科医、春日武彦氏による「『病気の押し売り』を検証」と題する書評記事への感想 (第2版)

 この春日武彦氏の書評の全文がYOMIUYI ONLINEで読めます(直接リンク)。

 実は、私はこの書評の対象となった本を実際にはめくっていない。そうした段階で、どのくらい良心的に「書評そのもの」の問題点をあぶりだせるのかに挑んでみるつもりである。

*****

 春日武彦氏の文章というのは、時として独特の屈折したシニカルさがあると思う。

 例えば、過去のご本人の著書のタイトルのつけ方にしてもそうだ。

 「問題は、躁なんです」 ・・・・・鬱ばかりが論じられ、躁鬱病の問題についての一般向けの著作が当時少なかったので啓発書として書きたかった意図はわかるが、だからといって、それこそこんな「軽躁的な」タイトルをつけてふざけているあたり、週刊誌の見出しじゃなかろうがといいたくなる。

 「ロマンティックな狂気は存在するか」・・・・・・新書化される前のモト本を私は若い頃に読んでいる。小説や映画で描かれるような「ショックのあまり『気がふれて』おかしくなるという現象は現実にはあり得ないことについて書かれた本。
 内容的にはもっともなことが書かれているので、啓発書としての意味はあるが、そもそも精神科医がお書きになる本で「狂気」という言葉をむき出しで使う本は、実は滅多にない。
 日ごろ実際に精神病の人たちと接している臨床医の先生の多くは、その人たちとの関わりがどれだけ大変な場合があっても、同時に、そうした人たちの実存のプレゼンスに接していると、ある独特の「厳粛さ」を感じずにいられなくなることが少なくないようだ。

 そうした意味では、春日氏の言葉運びには、現実の精神病者への、ある「酷薄さ」が感じられることが、本書に限らず少なくないように思える。

 ・・・・結局、上から目線なのだ(実は読者に対しても)

 それがいい意味でのウィットとして機能する場合にはいいのだが、ちょっと今回の彼の書評は、彼の「無神経さ」という側面があぶりだされたもののように思えてならない。

冨高辰一郎/なぜうつ病の人が増えたのか
クリストファー・レイン/乱造される心の病

 書評の対象になったのは、この2冊である。

*****

 「うつ病が急増しているといわれる。(中略)実際、1999年から2006年までの6年間の間に、うつ病患者は2倍以上に増えている。99年から患者数が急増しているのである。ではその年に何があったのか」

 このことが、冨高氏自身の発想の原点にあったことは、Amasonのサイトですでに確認済みである。

 春日氏は、社会情勢の変化(1999年は確かにバブル崩壊の年である)、若者層を中心とした精神構造の変化がその原因であるという論調が多いことを示唆した上で、

 「しかしそれでノイローゼ患者が増えたというのならばともかく、うつ病患者が2倍にも膨れ上がるものなのか」

 この言葉が冨高氏の原著にある言葉なのか、春日氏の表現なのか不明だが、ノイローゼにだって「鬱症状」は得てして存在する。

 更に先までシミュレーションすれば、「ノイローゼ」はあくまでも心因性であり、狭義のうつ病とは「内因性」である兆候が明確に認められねばならないなどと、春日氏がこの私のブログ記事を読んで下さったら、言い出す可能性があるかな?

 しかし、DSMからはすでに「神経症」という診断項目が消えた。これには一面で理由あることなのだと思う。

 そもそも神経症の概念は、19世紀ヨーロッパで、主として中産階級を相手にしていた精神科医の間で、「内因性精神病」とは分化させた概念として定 式化されたものである。そこにはクレペリンやブロイラー、シャルコー、ジャネ、フロイトなどの多大な貢献があるわけだが、その時代に「典型例」として抽出された「神経症」像が、特に第2次世界大戦後の経済成長に伴う国民全体の経済水準の上昇を契機として大衆全体に広まる過程で、「典型例」にあてはまりにくい「非定型化」が進行したことと関連する。

 「非定型」とされたものが、次第にその細部の特性や治療法が分化・明確化してとらえられるようになり(それが「診断学」というものであろう)、それぞれ固有の診断分類として分化していくことは、医学全般に共通することであり、それをすべてDSMの操作的定義・マニュアル指向の弊害に還元することにはちょっと無理がある。

*****

さて、続きに進もう、

 「99年は、本邦でSSRIと呼ばれる新型の抗うつ剤が導入された年である。ニュータイプの抗うつ薬の売れ行きと、うつ病患者の急増は相関している。だが新薬登場でうつ病患者が減ったというのならばともかく、逆に増えたとはどういうことなのか」

 「ここで製薬会社による啓発活動(一般市民および医師への)がクローズアップされる」

と続けている。

 冨高氏が、日本以外の、アメリカやヨーロッパ諸国でも、SSRIが認可された時を境にうつ病患者が急増した統計データも示してくれているかどうかに関心がある。

 統計を持ち出す場合には、常にこうした発想法が必要であることは、私もこのブログで、薬物療法と認知行動療法との併用だけではなく、他の流派の療 法との併用を施行した場合という「対照群」の統計があるなら見たい、さもないと、単に認知行動療法の人たちが実証データを取るのがお好きな(まさに、プロモーションがうまい!)「だけ」ということになるのに、誤解を与えますと常々申し上げている通りである。

 もとより、「1995年ごろには欧米でSSRIへの評価が下がりはじめたので、日本が特にプロモーションのターゲットにされた・・・・というあたりの論が冨高氏の著作の方で展開されている可能性あり!とシミュレーションしますが。

****

 次に、先述の、

 「ここで製薬会社による啓発活動(一般市民および医師への)がクローズアップされる」

 SSRIになって製薬会社(正確に言うと、日本の製薬会社ではなくて外資系の製薬会社である)の販売促進プロモーションがいかに活発になったかという問題については、ネットをあさればいくらでも話題にされてきたことである。

 特に、パキシル(パキセロチン)の発売元であるグラクソ・スミスクライン社の広報活動と不利な情報隠蔽体質に関しては悪評ぷんぷんたるものがあることは、検索すればいくらでも情報源があるが、私は敢えてここで、加藤忠史氏による「躁極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)」すでに書かれていることから引用したい。

 (この本は、基本的には双極性障害「1型」を主眼とした著作であるが、すでにご紹介してきた内海氏の本を読む前に読んでおくと、内海氏の本がやや難解だという印象が大幅に薄らぐと思う。また、後半部分で展開される、世界最先端水準の脳生理学、神経化学、DNAレヴェルでの遺伝子上の実証研究の当事者という、加藤氏の、現場臨床医とは別のもうひとつの顔で描かれている部分が、私には滅法読み応えがあった。そして、これからいくつか例を挙げるように、冨高氏が著作の中で書いているはずのことのいくつかをすでに「先取りして」書いているのである)

 以下、紫色の部分は「加藤氏の」この著作からの引用です: 

「それどころか、これらの新しい抗うつ薬が、うつ病にほんとうに効くのかどうかということまで、最近議論になってきておりまして、ちょっとその話題を紹介したいと思います。

 実は、抗うつ薬をうつ病の方に処方して、効いたかどうかを調べた臨床試験の結果は、論文になっているものといないものがあるのですね。

 そこで、アメリカにFDA(食品医薬品局)という薬の認可をなどを行っている部署があるのですが、そこの論文開示請求を出して、論文になっていないパキセロチン(パキシル)の臨床試験を出してもらった、という研究があります。

  そこで再解析したところ、論文にされていない臨床試験は、みな効果がない結果に終わっていました。論文になっているのは、効果があるものだけだったので す。それで、これはバイアスがかかっているのではないかという研究結果が論文として報告されました」(pp.177-8)

 加藤氏は更に続けて、その後の論文で、パキシルは中症から重度の患者ではプラセボ(偽薬)よりもやはり有効だったけれども、その効果はわずかで、軽症例では効果に差がないというものが公表されていることを示しています。

 更に加藤氏は、アメリカの臨床試験の厄介な問題についても言及しています。

 「アメリカではこういう臨床試験に参加した人に報酬を払うのです。報酬が出るとなると、お金だけがほしいといういう人もいまして、こういう臨床試験をいくつも掛け持ちする人が出てくるわけです。

 たくさんの臨床試験に偽名で参加して、報酬だけもらいながら薬は捨ててしまう。そして医師には、うつらしい症状を話しながら治ったふりをする。そういう人たちがいるのです(中略)。[これでは、]効くべき薬に[統計調査上の]差が出ません。飲んでいないのだから差が出るわけがない」(p.179-80)

 ちなみに、こうした治験では「二重盲検」というやり方を採ります。これは、担当する医師にも治験患者にも、それが偽薬なのか、ほんとうの薬かどう かが知らされないままなのです。恐らく個々のタブレットにつけられた製造番号みたいなものだけで識別できる形で、治験の研究者は統計処理をしていくのだと 思います。

 ・・・この辺に関わる問題のある程度は、今回の書評の対象になっている2冊の本で言及され、しかも更に詳細に報告されている可能性はあるかと思います。

*****

 さて、この「製薬会社のプロモーション」の問題を考える際に、ちょっと視点を変えますと、実は同時に考えねばならない重大なテーマがあるはずです。

 それは、「薬価」の問題です。これは医療機関が国に保険適用について申請する際の公定基準なのですが、建前上は、薬剤の開発・研究費用、そしてそれが新薬であることが算定基準になっており、改訂される際には下がることになっています。

 ジェネリック(後発医薬品。同じ成分の薬を他の会社が製造することが許可された薬)の場合には、研究開発費がない分だけ、薬価は当然より低く押さえられることが多い。

 これはまわりまわって、競争原理が働くわけで、オリジナルの製造会社も薬価をある程度下げるべく、申請を国にせざるを得ない方向に誘導することになります。

 この「薬価」というのは、業者からの仕入れ価格そのものを規制するものではないために、そこで「利ざや」を稼ぐことが可能です。きっとこのあたりも、書評で紹介された本の中で紹介されている問題なのだろうと思います。

 もとより、心ある現場の医者は、もう、単純明快に、実際に効くか効かないかだけで薬の選択を判断するものです。そういう点で、プロモーションなんぞには全く惑わされず、自分の臨床眼と、患者さんの反応、信頼できる医師同士の情報網だけをたよりに薬を選んでいるはずです。

 このあたり、例えばkyupinさんがサイトでお書きになっていることは、ネット界では最も突っ込んだ次元でのもののひとつであると私は信頼しています(kyupinさんのパキシルを含むSSRIへのスタンスは、最近の記事ではこの記事にもよく表れています)。

 薬価が高い薬を処方する際に、敢えて「申し訳ない」とはっきり口にしてくださる先生もいます。 

*****

 それにしても、もし私がこの2冊の本で言及されていると嬉しいと思っているのは、そもそもなぜSSRI(特にパキシル!)の薬価があそこまで高いのかという問題それ自体です。

 SSRIは、本国でも価格が基本的に高い薬なのですが、単順に経済的に考えて、もし「薬価」を法外に高くせざるを得ないやむをえない事情があるのであれば、特に保険制度を民間に依存しているアメリカでは、「プロモーション活動」に巨額の投資をせざるを得なくなるだろうということになります。

 それとも、最初からそのプロモーション費用を「回収する」見込みまで立てて、「薬価」が高くなるようにいろいろ偽装したということまでありでしょうか?

 このへんのあたりのからくりまで、2冊で追求されていれば、興味深いのですが。

*****

 次に、特に冨髙さんの本で、「鬱症状」の病態によって、使用する薬を変える必要性についてどこまで踏み込んだことをお書きになっているのかについても関心があります。

 Amazonの書評欄を見ると、本書の中で、「再発予防のためのリハビリの重要性」だとか、「(SSRI以外を含めた)多種多様な抗鬱剤の効果の程がわかる」とのことなので、この点はあまり心配しなくてよさそうである。

 ひょっとしたら、うつ病と誤診されやすい双極性障害II型において、リーマスや抗てんかん薬、場合によっては非定型薬、更には睡眠誘導剤が役に立つことについても言及されているだろう。

 そして、薬物療法だけではなくて、医者の小精神療法やカウンセラーによるカウンセリングが連動していること、更には家族や雇用者側の対応についてまで踏み込んでくれていることを期待したい。

 なのに、こうした観点は、春日氏の「書評」にはぜーんぶ抜け落ちているのである!!

****

 薬品会社のプロモーションが会社に与える影響問題についてもう一点述べると、例えば、今や双極性障害II型が鬱病と誤診され、抗鬱薬の処方だけだと、むしろ双極性障害2型の素質を「開花」させてしまう・・・・当然治療は膠着状態になることの危険の問題は、お医者の間でかなり認識が深まっているようだ。

 このことは、新たにおいでになったクライエントさんから「投薬暦」をうかがう度に感じさせられる。

 そういう中で、リーマスやデパケンの需要は以前よりもかなり高まりつつあると思えるのだが・・・・果たしてこれもまた、薬物会社のプロモーションの結果として生み出された、新たな流行に過ぎないのでしょうかね?

 ところが、これらの薬の薬価は、三環系抗うつ剤並みに安い。更にどちらもジェネリックは出ていますし。利ざやの稼ぎようはほとんどないと思います(^^;)

 私が言いたいのは、個々の製薬会社の個々の薬に関して、治験のあり方、副作用の問題、プロモーションのあり方が問題にされてもしかるべきだけれども、十把ひとからげな医療不信を煽る発言は、患者を不安に陥れるばかりで危険だということです。

 本来抗てんかん薬だったデパケンが双極性障害の治療薬になることなど、製薬会社には当初思いもよらないことで、臨床現場の経験値に出発して統計を取ってみた論文が出発点になっているようで、脳内での生科学的作用という点では未解明のまま、治験に基づき、双極性障害への適用も慎重に認可されたようである。

 (薬の保険適用申請においては、個々の薬について認可されたある特定の(いくつかの)疾患にしか受理されないという原則があるのです。だからデパケンなどの抗てんかん剤が、双極性障害への気分スタビライザーとしての処方をも認可されるまでに更に数年かかっているのです)

 先述の加藤先生のご著書によると、やっと最近になって、抗てんかん薬が双極性障害の人のニューロンの生化学作用に与える影響についてのとりあえずの「仮説」が立てられた段階のようです。

 最初胃腸潰瘍薬だったドクマチールもまた、その後統合失調症やうつ状態の改善に役立つことが「発見」されました。この薬は、すでに日本で最初に販 売されて30年経過という、恐ろしく息の長い古株の薬で、さすがに今では「主薬」として用いられることはあまりないでしょうが、抗うつ薬だけでは鬱症状の 改善に効果が出にくい時、薬物療法に秀でたお医者様が、副剤として処方されるケースがままあることも結構知られているかと思います。

 要するに、良心的なお医者さんは、製薬会社の宣伝を、鵜呑みにしないばかりか、製薬会社の側に、「この症状でも効果があるので、国に保険適用の申請を出せ」というプレッシャーを与える側の存在でもあるという、双方向性はある程度機能しているいうことです。

*****

 さて、いよいよ、今回のクライマックスなんですが。

 「これはメタボリック・シンドロームと同じ構造である。以前だったらただの『小太り』が、今で病院受診や保険診療の対象となる。早期治療といった考え方もあろうが、いたずらに多数の『病人』が作り出されたとも言えるだろう」

  この部分は、冨高氏ではなくて、書評の春日氏の言葉であろう。

 これじゃ、うつの患者さんを傷つけるばかりではない。成人病と鬱のどちらか重いかなどという比較論はもちろんできないと思う。でも、成人病予防検診によって慢性の病にならずに済んだ人がどれだけいるであろうか? そして何より、「小太り」の人を侮辱していると受け取れる発言になっている。

 リアルタイムに面と向かってユーモラスに語る時と、文章として書く時では人に与える印象がどれだけ違うか、もちょっと気を配って欲しい。例えば、「ちょっとおなかが出ている人」とするだけでもニュアンスは変わる。

*****

 春日氏の「書評の」先の部分:

 「ただ啓発運動が逆に病気でないものを掘り起こしているといった視点もある。『病気の押し売り』と評され、うつ病以外に小児の躁うつ病、男性型脱毛、性機能障害、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、軽い高コレステロール血症などが欧米では批判されているらしい」

 Amasonの書評を読む限り、このテーマは、書評の対象となった2冊で共に論じられているようである。

  またもや加藤先生のご著書「双極性障害」に戻らせていただくと、実はすでにこの本で、「小児思春期の躁うつ病」問題について、第2章第4節全体(pp.47-51)を割いています。

 特にアメリカでは、一時期、ほんの3,4歳の子供まで双極性障害と診断され、薬物療法の対象になるケースが結構あったようです。

 加藤氏は、これに対して、大人の双極性障害に適応が認められている薬を、臨床試験なし子供たちに使うことができるアメリカの現状を危惧しています。

 2歳の時に「いつもそわそわして走り回っている」との理由で診断を受け、検査の結果、3歳になった直後に、ADHDすら飛び越して双極性障害と診 断され、非定型薬、気分安定剤をはじめとする1日10錠もの薬を飲んでいたそうです。そして4歳になって、薬の過剰摂取が原因で亡くなって、両親が第1級 殺人罪として起訴され、両親側は医師の指示に従っただけと主張したという事件があったとのこと。(CBSドキュメントによるとのこと。探せば今でもサイト 上に何かあるかな?)

 ADHDへの「精神刺激剤」投与の経験がある人に小児期の双極性障害発症生じやすいという研究があることも紹介されています。

 そして極めつけは、次の事件。ここも加藤氏の著作よりの引用:

 「小児双極性障害の診断増加に中心的な役割を果たし、こうした子供に対する抗精神病薬治療を境に先駆けて提唱していたのは。ハーバード大学のビーダーマン教授でした。最近、小児性双極性障害の権威である同教授とその同僚が、製薬会社から多額の現金を受 け取り、大学に報告していなかったという事実が報道されました(2008年6月8日 ニューヨークタイムズ)」

 どうも、この事件のことは、冨高氏の著作でも言及があるらしいことはAmazonで確認済みです。

 日本では、基本的に子供の精神医療に薬物療法を施行することにはたいへん慎重な先生方が多いですし(一時期ほど、「ADHDにはリタリン」という 一本調子もなくなってきたのでは?)、ADHDをはじめとする発達障害についても、細やかな目で診断できる専門家が急激に増えています。

 私が発達障害のお子様を待つご家族からおうかがいする範囲でも、教育現場での対応について、まだいろいろ問題があるのは確かなようですが、当事者 のご家族の活動などもあり、少しずつ変化してきているようです。セラピー的にもプレイセラピーや行動療法、家族全体のケアという方向性が定まってきているので、アメリカのような「子供の薬漬け」は生じそうもないのですが。

 何かというと、「日本の(精神)医療は欧米よりも遅れている」といわれますが、実際には、最近の経営淘汰的な面や医師確保の面を別にすると、オバマ政権の下、やっとのことで公的保険制度の設立に手をかけつつあるアメリカに比べれば安定しているともいえます。

 アメリカの病院事情も、実は非常に悪いようですし。フロリダ州には「産婦人科」病院が実は一軒もないという凄い話も。

 薬物療法についても、アメリカは、先端的であると同時に、極端に走りやすいともいえます。逆に、一度何かに対する「アンチ」がはじまると、これまた逆の極端の論調が出やすい。

 精神医療において、アメリカにすぐに追従する形にならないという点では、むしろ一種の安全装置として機能している面もあると思うのですが、そのへんを冨高氏自身がどう具体的に論じているのかどうか。 

****

 いずれにしても、 さすがに春日氏も、

「製薬会社陰謀論になりかねず、また早期治療の重要さという点においてもデリケートな問題である

とは言い添えてはいる。

 しかし、おしまいは、

「『まだ病気ではない』と『もう病気かもしれない』の間には、莫大な利益が埋もれているのである」

・・・・と、またもや少し無神経な言葉が出ている。

 ・・・・結局、春日先生、最後まで、薬物療法以外の人的資源や精神療法に関しては一言も触れないまま、あたかも薬物療法がすべてであるかのように「病気」の話をしているという、最大の自己矛盾に陥っている。

 我々は、健常者でも、病気でもある以前に、人間である。

 この春日氏の、書評の対象となった2冊の著者の側には、患者(とされた人)に対する、そうした目線がありそうで仕方がない。

*****

 最後に、ひとつ、決定的に重大な問題に触れておこう。

 レーン氏の著作の原著"Shyness"のAmason英語版サイトまで読みに行って気づいた、「驚愕すべき」事柄。

 それは、レーン氏の原著が、あくまでも、単なる内気な人が、特に「社会不安障害」というレッテルを貼られる過程を告発しようとした著作であるということである。

 なるほど、ある種の「社会不安障害」や「強迫性障害」について、SSRIが適応されることは事実ではあるのだが、春日氏が、この本がうつ病を主なるターゲットに据えたものではなくて、「社会不安障害」がメイン・ターゲットであることについて、ただの一言も言及しなかったということは、もはや、医者としての良心のかけらもないばかりか、ある種の情報操作に加担しているといわれても仕方がないように思われても仕方がない。

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2009年9月18日 (金)

書評 : 内海健 著 「うつ病新時代 -双極2型障害という病-」

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

    
5つ星のうち 5.0  現代の「すべての」うつ病患者さんに向けて書かれた本 2009/9/14       
 

 今日、鬱は昔よりも「軽症化」しつつあると言われているのに、実際には、昔の鬱病の患者さんの方が、きちんとした服薬や休養生活(場合によっては入院) を経れば、長くても数ヶ月以内に社会復帰できる人がずっと多かったということを、さまざまな精神科医の先生が指摘している。

 鬱になる人の病態のマジョリティー(多数派)自体が、時代と共に変質してきている可能性を多くの専門家が認め、「新型うつ病」「非定型うつ病」 などという言葉が繰り返しマスコミに載るにも関わらず、古典的な「メランコリー型」うつ病ではない人たち(本書で取り上げられている「双極性2型」以外に も、「気分変調性障害」「双極スペクトラム障害」などと診断される方たちを含む)に対する少なからぬ医者の取り上げ方は、どこかしら「近頃の若い者 は・・・・」的なノリで、そうした人たちの「性格の問題」という言い方が安易に振り回される傾向があるように思えてならない。

 しかし、それは実は根本的な認識不足なのではないか?

 結局、医者の側が時代の変遷についていけていないことの「逃げ口上」ではないのか?

 そうした問題提起をする上で、この著作以上に強力な著作は、刊行3年めにして、まだ現れていないように思われてきた。

 古典的な「メランコリー型」うつ病は、実は第2次大戦敗戦国である日本と「西ドイツ(!)」において、戦後の復興を経て高度経済成長期に入るという、固有の経済発展様式を取らざるをえなかったために、結果的に、1970年代まで、他の欧米諸国よりも「遅延されて」残存した、実は「オールド・タイプ」のうつ病のあり方であるに過ぎず、現在ではこれらの国でも、主として中年以降の世代にのみ残存している病態であるに過ぎないのではないか?

 ・・・著者ははっきりそこまで言い切ってしまっている。

 (古典的)鬱病者における病前性格としての「メランコリー親和性」ということをはっきりと打ち出したのは、ドイツのテレンバッハという精神病理学者である。ところが、今日では臨床家の間で基本教養の一部というべきこのことをテレンバッハが著作「メランコリー」ではっきりと書いたのは、何と1961年という、思いもよらないくらいに最近の(・・・・などと、1960年生まれの私だと書いてしまう)ことなのである!!

 もっとも、1961年といえば、西ドイツも日本も、西側陣営の中で、まさに目を見張る勢いで高度経済成長していた渦中に他ならないではないか!!

 「この時代の」「西ドイツにおける」精神科現場臨床におけるうつ病患者の診療の治療の膨大な蓄積の中で、テレンバッハが提唱し、ドイツで、日本で、そして欧米で幅広く受容されるに至ったのが、「メランコリー親和性格」仮説なのである。

 この本は、単に、DSMという診断基準が指し示す、狭い意味での「双極性2型」障害についての著作などでは決してない

 恐らく、通常のうつ状態と診断されている患者さんたちの多くが読んでも、深く共感する内容に満ち溢れているはずだ。

 実はその点にこそ、この著作の只ならぬ奥の深さがあるのである。

*****

 Amazonの本書への私のフックレビューより転載しました。

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2009年9月 8日 (火)

「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

 私は、このサイトで、これまで何回か、「人は鬱になることで『鬱』になる」という表現を繰り返してきた。

 現在のDSMなどの診断基準では、鬱病は「気分障害(=mood disorder)」の下位分類になっているが、この「気分障害」という言葉は非常に誤解を招きやすい側面があると思う。

 「気分」という言葉にしても、moodという言葉にせよ、日本語では何か曖昧な「気持ちの」状態であるに過ぎないかのように受け止められかねないからである。

 単に「落ち込みが持続する」のが鬱状態ではないのだ。私の考えでは、「落ち込み」とは、気分障害の「本態」としてその人の心身に生じている慢性的な脳生理的消耗状態(正確には、脳生理上の消耗に至らせる悪循環的なループ)の、二次的な「随伴物」のひとつであるに過ぎないようにすら感じられる。

 以下、臨床心理士の分際をわきまえない内容すら入っているであろうこと、部分的に脳生理学的に不正確な著述があってもお許しいただきたい。

*****

 これも何回もこのサイトで書いてきたことだが、鬱(双極性障害も含む)の「本態」は、心身が極度に消耗したのに、それを「疲労」と実感できなくなってしまう形に脳内のメカニズムが慢性的に変化して、とりあえず不可逆的になってしまうという脳生理学的変容そのものではないか。

(このこと関連する言及をした最初が、この記事である)

 そのごくごく軽微で、慢性化しないまますぐに回復するミニマムな(微小な)形態は、一般の人でも実は何回も体験している。

 徹夜覚悟で仕事や勉強をしている時に、眠い眠いと思っていたのに、ある時から突如スイッチが切り替わる。

 頭が冴え、意欲が亢進し、いくらでも起きていられるかのようにすら感じ、実際に仕事が終わって横になった後も、頭が冴えて眠れなくなって困ってしまった経験が、これまでの人生で1回もないという人は滅多にいないと思う。

 そういう時には、独特の「脳が暖まっている」ともいえる感覚と、身体全体の「ふわふわした」感覚も伴うはずである。一種の「ランナーズ・ハイ」状態である。

 もちろん、そうやって眠れない夜を過ごしても、朝になる頃にはいつの間にか寝入っていて、目覚めた時には、今度は前の晩の無理のリバウンドであるかのように、心身に泥のような疲労感が襲い掛かるものであり、昼間は眠い目をこすりながらも何とか切り抜け、その日の晩に、文字通り爆睡する形になって、やっと普段の状態が回復するというケースがほとんどだろう。

 精神科医の中井久夫先生の言葉を借りれば、「48時間で帳尻が合う」というサイクルである。これが健康な人の「無理」→「疲労回復」過程なのだ。

 欝になる人の多くは、はっきり鬱になる前の時期のおいて、必ずしも徹夜仕事を重ねるわけではないにしても、長期に渡って非常に「気を張り詰めて」仕事や勉強を続けねばならない状況に身をさらすうちに、いわば慢性的な「ランナーズ・ハイ」状態に陥っていき、むしろ人間の心身の本来自然なバランス機能として生じるはずの、「リバウンド」としての怒涛のような疲労→爆睡ということそのものが、徐々に生じなくなって行く体験をしている(後から振り返ってみて、はじめて気がつけることなのだが)。

 こうしたことを繰り返す中で、疲労物質が生じると心身の活動水準を落とすという、動物である限りは当然備わった、休息に向けてに脳内の自然なフィードバック回路が徐々に機能不全になるともいえるだろう。

 素朴な比喩を承知で言うと、「レースコース」から一時的に「ピット・イン」させる方向にポイントを切り替える、本来自律的な脳内安全制御システム(フィードバック回路)に、いつの間にか、常に「ピット・インさせないまま走り切れ」という指令を出す、非常に危険なバイパス指令回路が形成されてしまうのだと思う。

 私の考えでは、これは行動主義心理学的な意味での、環境適応のための「条件付け」形成過程であると同時に、困ったことに、脳のある部分にある脳神経系の回路内で、神経繊維同士が、そういうバイパス回路を形成することそのものを「学習」してしまうという、生粋の脳生理学的次元での変化すら伴っているようにも思えるのである(お医者様向け追記:「シナプス可塑性」のことを言いたかったのです)。

 このような、他の動物の動物の常識ではあり得ない異常な心身の使い方で「脳神経を痛める」ことまでやらかしてしまえるのは、人間が文明の発展の中で、一日の半分は働くということを当然のこととするようになったことと大きく関係している。

 そして、むしろ、周囲が自分に何を求めているかに敏感で、働くということに過剰適応できる強靭な精神の持ち主こそが、結果的に脳の生理学作用を破綻にまで追い込んでしまうわけである。

(最近、「新型うつ病」に関連して、病気になる前は勤勉ではないタイプも増えているのではないかということも取りざたされ、何かというと「性格的な問題」という言い方が安易に使われる。しかし、そうした人の成育暦を探ってみると、学校時代の少なくともある段階までは、親の期待に応える非常な優等生だったり、親には決して迷惑をかけない「いい子」として育ったり、精神的にはもろさを持った親のいる不安定な家庭の中で、親の気配を察して必死に「トラブルシューター」として子供の頃から頑張り、親の不安をケアしてきた人まで含めると、やっぱり「過剰なまでの無理をする頑張り屋さん」だった歴史をどこかで長期にわたって持つという点では、共通項を持つことが多いことに気がつく。つまり、子供時代からずーっと一貫して無気力でアパシー的だった「新型うつ病」の人となると、なかなかいないのではなかろうか???) 

*****

 いずれにしても。本格的に鬱が出現する「直前の」、まだ仕事等の活動水準を維持できており、「落ち込み」は自覚しなかった時期に、持続的な睡眠障害を経験しなかったという人は滅多にいないだろう。

 本人はそれを「苦しい状況を切り抜ける強い自分になった」などとすら思い込んでしまうことも多いものである。実際には、そうやって無理を重ねた「負債」は心身のどこかに慢性的に蓄積されている筈だからである。

 それが実際に身体の調子を崩して(風邪ぐらいのこともあるが、実際にはっきりとした身体病になることがある。私にとってのそれは「尿管結石」になることだった)休みを取らざるを得なくなる機会を提供してくれればまだ幸いですらあるかもしれない。

 もとより、その身体疾患から取り合えず回復すると、また働いていた時のモードに戻って行くことが少なくない。でもそれは、身体病という形での「坑道のカナリア」からのせっかくのイエローカードを無視して更に突っ走る形になりやすいのである。

 こうして、その人の中の「疲労を感知して休息させる」脳内システムが、一度完全に機能不全に陥り、脳神経の伝達回路内での物質のやり取りの中で悪循環のループを確立してしまい、「疲れを疲れとして体験できない」状態で固定化してしまう。この段階で、脳そのものがかなりややこしい心身症状態に突っ込んでいるとも言えるだろう。

 本格的に鬱を発症する直前の数ヶ月の間に、こうした「以前よりも疲れを疲れとして感じずに、状況を切り抜けられてしまう」時期を持っていた人は非常に多いはずなのだが、なぜかこのことは意外なまでに鬱に関する本で語られていない気がする。

 漫画「ツレがうつになりまして。」では、ご主人のツレさんがソフトウェア会社で働けていた時代の末期の状態として、このことがはっきりと描かれている(NHKドラマ版ではこの点はやり過ごしている)。

 そして、こうして疲れを疲れとして体験できなくなって最低数ヶ月が経過した時点で、突如、「ブレーカーが下りる」。仕事を滞りなく進める気力が枯渇し、そういう自分にやっと「落ち込み始める」のである。

 私が「人は鬱になることで『鬱』になる」という時の、1つめの鬱という文字は、実は、この、脳内で形成されてしまった「疲労を疲労と感じなくなる悪循環のループ」(慢性ランナーズ・ハイ状態)の確立それ自体のことである。むしろ、健康な人にでも生じておかしくない次元での「普通の」落ち込みや疲労を感じられなくなるということなのだ。

 2つめの『鬱』という文字は、そういう慢性ランナーズ・ハイがついに限界に来て、心身が一気に消耗してしまって何もできなくなった後の自分に対する、深刻な絶望感のことである。

 長期的な無理を切り抜けるために自分の身体が産出した「脳内麻薬」の慢性的な中毒状態に一度陥り、身体自身の脳内麻薬生成プラントをことごとく食い尽くし、「操業停止」に陥らせるところまで心身の消耗が進んだ時に生じた、深刻な「脳内麻薬切れ」=神経伝達物質の「自己破産」状態が、おもてに表れた「うつ状態」の発症の時だとも言えるかもしれない。

 自分の身体の資源を切り刻むようにして、身体の内部から麻薬物質の捻出して、過酷な状況を自力で切り抜けようとしたのだ。大量の飲酒癖にすらならず、ましてや不法な薬物に手を出すこともなく、自分をひたすらランナーズ・ハイに誘導するという、文字通り「身を削る」形でである。

****

 実は、こうして脳内麻薬の「異常な産出回路」が脳神経内に確立されてしまうと、その悪循環ループというものは容易にその人から消え去らなくなる。

 薬を飲んで休養して、少しやる気が出てきたかなと思って活動し始めると、またもや悪循環ループのスイッチが入り、無理を無理と感じないまま活動し始めてしまう。

 その人の中の「脳内麻薬精製プラント」は壊滅的な打撃からとりあえず「復旧した」に過ぎないので、活動の再活性化は長持ちせず、再びブレーカーが落ちる。

 そして、「もう治りはじめたかと思ったのに、実はそうではなかった」という事実にその人は落胆し、落ち込む(これが私が「二次的な鬱」と呼ぶものである)。この時の落ち込みこそが、むしろ死にたくなるほどの絶望を招き寄せやすいものなのである。

 こうして「少し元気が出る→動いてみる→簡単に消耗する→挫折感」というサイクルが単に積み上げられるだけだと、その人の自信喪失と絶望感はどんどん深刻化する危険がある。

 実は、休養して鬱から相当程度回復したかに見える人にも、この、トリガーを引いたら暴走する悪循環ループは脳内にしっかりと残っていることが少なくないのである。

 SSRIなどの抗鬱剤そのものがこの悪循環ループ自体を消してくれるわけではないのではないか。薬物療法に真に見識のある医師の処方する薬物・・・・狭い意味での抗鬱剤に限らず、気分調整薬、抗不安薬、睡眠誘導剤などを含む・・・・が適切な効果を上げる際に生じているのは、実は一方で脳内麻薬の枯渇による、生へのエネルギー自体の「破産」に対する最低限の「公的救済処置」(自殺に至らないために)という側面を持ち、他方では、その人の中で再び自己破壊的な脳内麻薬産出プラントが安易に操業再開をする「引き金(トリガー)」になるような神経伝達物質の発動そのものやセンサーでの受容をむしろ妨げ、じっくり穏やかに休養してもらい、生体が本来持っている自然回復能力が徐々に賦活する中で、脳内でいつの間にか異常な回路形成に到達していた物質代謝メカニズムが、自然なバランスと働きにを取り戻すことをサポートするという、絶妙のカクテルを、その時のうつ患者のにふさわしい「一品料理」として調合するという形になっているはずである。

****

  少し前にも書いたが、いったん鬱になった人の中では、回復期になっても「その時の自分の心身がどのくらい疲労・消耗していて、どのくらいまでの無理なら、どのくらいの休息で回復できるか」というセルフ・モニタリング能力が決定的に損なわれたままになっているともいえる。

 これは、そうした「自分の無理と疲労度のシミュレーション」が当たり前のようにできた、以前の自分のことを思うと、ほんとうに悲しくなるまでに「自分の実感があてにならなくなる」ことなのである。

 穏やかな休息だけでは、社会で再びサバイバルするだけの脳の自然な働きまではなかなか回復しないのである。

 このセルフ・モニタリング能力の「再建」が必要なのである。いや、はっきりいって、それは「再建」ではないのだ。それまでは言わば「勘」に頼っていたセルフ・コントロール(それはすでに脳内で一度壊滅的に崩壊した)を自覚的に運用できるようになるために、それまで人の中に存在しなかった新たなスキルとして、自分の生体の無理と疲労のメカニズム監視と統御・・・・・休息にせよ、活動にせよ、その時に適切な行動選択を自律的にできる技能を「人工的に学習する」必要が生じてくるともいえるだろう。

 それは一度学習して身についてしまえば、言わば特定のスポーツのための運動能力や楽器の演奏、自動車の運転のように、普段はほとんど無意識に、なるで本来の天性のようにして活用できるものになるだろう。

 私が思うに、それこそが、鬱の人「のための」心理療法として展開されていくべき領域なのである。

 もちろん認知行動療法もそのひとつの重要な展開であろうし、応用行動分析(ABA)も非常に参考になる業績を含んでいるように私は感じている。

 私は、それらも視野に入れながら、フォーカシング技法を、鬱の人の心身状態のセルフモニタリングスキルと、そのモニタリングに基づいて生活の中でどのように小刻みなアクション・ステップを組み上げ、またもや燃え尽き→挫折の堂々巡りに陥らせることなく、休養時から新たに「持続的な成長可能な形で」社会的活動範囲を広げていくために活用可能な、「学習可能なプログラム」として特化させて発展させることはたいへんな可能性を秘めていると考えて、模索しているところである。

 その模索の一端を示したのが、こちらの記事であるとご理解いただけると幸いである。

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2009年9月 2日 (水)

睡魔に襲われる人へ

コネタマ参加中: 睡魔に襲われたとき、どうやって眠気を覚ます?

 不可欠ではない過剰な労働をせず、退屈な人間関係に付き合いすぎることなく、夜更かしも程々にして(特に週の就労開始日前日、多くの人にとっては日曜日の晩ですね)きちんと熟睡していれば、睡魔に襲われる確率そのものがぐっと減ると思います(^^;)

 「眠気を覚ます」必要が頻繁に出てきた時点で、何かライフスタイルに問題出ているのかもしれない(^^)

 安眠できることこそ、人生の宝です!!

 ・・・・・思わずコネタマのテーマそのものをおちょくってしまった(^^;)

 

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2009年9月 1日 (火)

薬をやめることをお焦りにならない方がいいですよ

●精神科薬物療法に対する猫山司のスタンス(メンタルクリニック.net by 猫山司)

 医師ではなくて、臨床心理士に過ぎない私ですが、この記事で猫山さんがお書きの問題提起について、全面的に共感させていただきます。

========(引用はじめ)==========

 さて、最近、拙ブログのコメント欄でセカンドオピニオンを求められることが多くなってきたように感じています。

 また、その内容に一定の傾向があるように思われるため、今後の無用な混乱を避けるために、精神科薬物療法に関する私のスタンスをここで改めて表明しておくことにします。

 というのも、最近寄せられるご質問やご相談に、「薬をやめたいのだがどうしたらよいか」という趣旨のものが目立つように感じられるからです。

 これまで私が拙ブログでベンゾジアゼピン系薬物や抗うつ薬の副作用や離脱症状について言及してきたからなのかもしれませんが、では私が実臨床でこれらの薬物を使用しないのかと言えばそんなことはありません。

 むしろ私は、向精神薬を積極的に治療に用いるタイプの精神科医であると自認しています。

 副作用が無い薬など存在しませんから、薬を使用することのメリットとデメリットのバランスを常に念頭に置いて置かなければなりませんが、少なくとも初期・ 急性期の治療における向精神薬の有用性に私は一片の疑いももっていません(将来的にはもっと有効で安全な治療法が現れる可能性は否定しませんが)。

 ただ、薬剤の選択や使用量、使用期間について精神科医はもっと敏感になるべきであるというのが私の持論であり、拙ブログで表明してきた主張であるつもりです。

 したがって、拙ブログに寄せられたご質問に対する回答も、「薬をいかにやめるか」ではなく、「薬の使用をいかに最適化していくか」という視点でお示ししていくことになると思います(薬の最適使用の中に「薬の中止」という選択肢も含まれます)。

========(引用終わり)==========

 この、ある意味で当たり前であるはずのことを敢えてネット上で告知せざるを得なくなった猫山医師の心情、コメディカルな専門家として、察してあまりある思いにかられました。

 薬物療法をお受けになっている皆様、そしてご家族の皆様にはっきりとこれだけは申し上げたいのですが、

「薬を飲んで、やっと通常の生活に耐えられるうちは、病気から『回復』したとはいえない」

「薬を飲まなくて済ませられるようにならないと、病気から『完治』したとはいえない」


という発想自体を、この際、とりあえずお捨てになってみてはいかがでしょうか?

 仮に全く薬なしの状態で完全に大丈夫になる時が来るとしても、それは数年以上先になるかもしれないことを想定していただく方がいいと思うのです。

 特に、統合失調症やある程度重いうつ病(双極性障害を含む)に罹患された方は、病気になる以前と全く同じ水準の激務に耐えられるようになった方で すら、少なくとも1つか2つの薬については、当面飲み続けないと、再発のリスクを大きく高めることが多いとということを肝に銘じてください。

 映画「ビューティフル・マインド」で描かれた内容を思い出していただきたいのです。主人公の数学者が勝手に薬をやめてしばらくして、何が起こったのかということ。


 私も以前別の記事で書きましたが、近視になったので眼鏡やコンタクトを活用するだとか、耳が遠くなったので補聴器をつける心臓が弱くなったのでペースメーカーをいつも装着するというのと、そんなに違いがない感覚の「生活ツール」として、薬の服用を当面考えるところまで「開き直って」みるのはいかがかと思うのです。

 いいお医者さんとの共同作業の中で吟味を重ね、調整され続け、適切な処方が維持された薬を、しかも毎日の生活の中でのベストのタイミングで服用し、それによって生じる、副作用に限らない、微妙な体調や気分変化に対するセルフ・モニタリングを頼りにしながら、生活のピンポイント的な要所要所で判断を誤らないで行動選択する習慣が根付いてしまえば、少なからぬ患者さんは、薬物療法の治療の進展がある段階に達すると、ほとんど日常生活や仕事に差しさわりがない域で生活で、のびのびと生活きるようになることが多いのです。

 この、「薬の力を借りて実現できた、とりあえずの回復」の水準をまずは目標にしてください。

 通院の際のお医者さんとのちょっとした情報交換ができてないばかりに、実は「それさえ聞けていたら処方が違ってくるよ!!」とお医者さん側すら感じてしまうくらいの形で、薬の出方が有効打でなくなっていることなど、あまりにもありふれています。

 ・・・・このことは信頼できますよ。

 少なくとも、「薬なしでカウンセリングだけで・・・・」という発想は、お勧めいたしません。

*****

 あるうつ状態のクライエントさんからうかがった話です(もちろん、複数の事例を混ぜ合わせ、ご本人にはわからないくらいに脚色して書きます)。

 そのクライエントさんは、すでに処方された抗うつ薬と抗不安薬で、かなりの程度の回復し、休職状態からリハビリ勤務に戻れたのですが、そうなると、今度は夜になってもなかなか寝つけないことに苦しみはじめました。

 眠りがだんだん浅くなり、週末ごろには疲れが溜まってしまうのです。

 「睡眠誘導剤は出ているの?」と訪ねてみると、全身の筋肉の緊張をほぐす抗不安薬であり、なおかつ睡眠誘導剤としても使われる種類の薬が出ていたのですね。

 ご本人は、休職中はそれさえあればぐっすりと眠れたそうです。

 そこで私は(お医者様の中に、「臨床心理士がそこまで僭越なアドバイスをするのか!」とお怒りの方があるかもしれないのを承知で書きます)、

 「仕事を再開したので、あなたの脳が『スイッチ・オン』になってしまうと、夜になってもブレーカーが容易に降りないモードにはまってしまっていて、これまでの眠剤だけでは不十分になったのかもしれないね。
 どうだい?眠れない時、
頭の中はどんな感じ?」

 するとその人は、

「いろんな考えがぐるぐる回って、忙しいままなんですよ。・・・・夢もたくさん見ます。夢の中でも、私は忙しく活動し続けて、しかもその結果酷い目にあってばかりいるんです。疲れる夢ばかりで・・・・」

 そこで私は、

「それじゃ、寝ている間のレム睡眠の時間帯も、あなたの心は、昼間と同じくらいに忙しく仕事をし続けているわけで、全然脳が休まっていないのかもしれないね。・・・・ひょっとするとさ、身体全体をリラックスさせる、抗不安剤も兼ねた眠剤だけでは、あなたの脳は休み切れないのかもしれない。ところが、世の中には、もっぱら脳を休ませることを狙い澄ましたタイプの睡眠誘導剤もあるの。・・・・そのへんのあたり、今度、お医者さんに話を向けてみるとどうかな?」

 そのクライエントさんは、通院先の医者に、私の目の前でやってもらったような、それまでよりもずっと具体的な「脳の実感描写」つきで、不眠の現状を訴えました。

 そして、睡眠誘導剤が別の種類のもの・・・・まさに、私が示唆した、脳を休ませることに特化した性質の「本格的」睡眠誘導剤に処方変更されていました。

 すると、そのクライエントさんは、最初の2,3日こそ。その新たな薬の副作用感(口が渇きやすくなり、ちょっと昼間の抑うつも強くなるなど)がありましたが、ともかく実にすっきりと熟睡できる境地に到達したことに、自分でも唖然としてしてしまったのです。

「睡眠時間5時間でも『熟睡した』と感じられてしまい、疲れが翌日に持ち越されないんです・・・・私が昼間、まだ鬱が抜けないとずっと思っていたのは、ひょっとしたら眠りが浅くて、疲れが翌日に残っていたに過ぎない部分まで勘違いしていたのかもしれない・・・・」

 私は念のためにアドバイスしました。

「念のために言っておくけど、
だからと言ってその薬に頼って無理をしては駄目ですよ。
特に、日曜日の晩の夜更かしだけは、なしにしなさいね。
普通の人ですら、日曜日の晩の夜更かしに始まる『負のスパイラル』がどんどん週末に向けて、疲れを貯める悪循環の引き金になる。
何なら金曜と土曜の晩だけは多少の夜更かしは自分へのご褒美としていいかもしれないけど、日曜日の晩だけは厳禁にしてみたらどうだろう?」

 クライエントさんは、「実は土曜日の夜更かしを止める自信だけはないんです」と苦笑しながらうなづきました。

 私は更に、

 「ところでさ、睡眠導入剤を飲むのは、ほんとうにベッドで横になる直前、ごく少量の水でにすることが鍵なんだよ。
 間違ってもベッドで読書とか始めたら駄目
だからね。
 たとえすぐに寝つけなくても明かりも消したまま、ひたすら横になって『目を閉じて』いるだけでも、脳を休めるのに相当程度役立っているんだと思うこと。」

 というと、クライエントさんは、

「・・・・すみません、眠れないと思うと、すぐにテレビつける癖、ありました(^^;)」

「どーしてもあと少しテレビ観たいなら、テレビ観終わってから、即、飲むこと。
 間違っても『飲んだら観るな』
ですね。
 睡眠誘導剤は、2時間寝ないままでいたら効果が消えます。
 しかもその晩に更に『追加して』飲むことは、身体への容量を超えてしまう薬が多いの。
 お医者さんからそういう、追加する飲み方もOKと明確に指示されていない眠剤は、一晩で一発勝負と思うように」

・・・・・ああ、どうして、こんなあたりまえの睡眠誘導剤の飲み方を、担当医師や処方箋薬局は本人に教えていないのだ全く!!

 臨床心理士が教えることではないはずではないか!!

*****

 この話には更に後日談がある。

 そのクライエントさんは、そうやって、時間短縮のリハビリ勤務を順調にこなし、ついに一ヵ月後にはフルタイム(ただし残業なし)での勤務に戻ることができた。

 彼女はそれがうれしくなり、母親に、「こうやって復職できたのは、どうも睡眠誘導剤を代えて、よく眠れるようになったからという気がしてならない」と口走ってしまった。

 すると彼女の母親曰く、

「でも、あなた、薬を飲んでいるからよく眠れるようになっただけでしょ?・・・それじゃ、治ったとはいえないじゃない?」

 ご本人は、その晩、ムカつきのあまり、実は隠し持っている、イザという時に時に「八つ当たりする」ため専用の、クッションでできた「犠牲の人形」に、久しぶりに、まち針を何回も刺し通したということである・・・ アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!


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