今年秋9/24(金)-26(日)に、熊本市の熊本大学 で開催される、日本人間性心理学会第29回大会 の1日目、24日に開催される一日ワークショップの分科会のひとつとして、不肖私が、フォーカシングの講師を務めさせていただくことを受諾いたしました。
恐らく、すでに昨年、佐賀県教育センターの研修会で確立した方式 に更に手を入れて移植するやり方をとらせていただくことになるかと思います。
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さて、私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、
「ひとりでフォーカシングできる ようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」
という発想であることは繰り返して述べてきました。
なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険 がある。
このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。
この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。
さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)
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なぜこうしたことが生じるのか?
それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンス としての側面を大幅に持つから です。
当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンス も、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。
ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」 に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けている のであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的 な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられる わけですね。
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少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ない フェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で 向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域 です。
そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねない くらいの「トップ・プライベート」 な心象域があり得るという仮定を持っている。
サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。
「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?
(サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべき という意味で理解していただくと助かる)
サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)
その「超個人的」領域 には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」 、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」 と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。
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こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか?
たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。
一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しない だろう。
・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれない が(^^;)
それは「嗜癖的な」依存状態 であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの 」ではなくて、「フォーカシングの集いの場 」に癒されている状態であるに過ぎない。
それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる 技法である。
これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学 を生み出す。
(何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身 がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の状況から身を守ろうとしているだけの場合すら少なくないと思う。つまり、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性がある という、笑うに笑えない事態である)
こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは去って行き)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性 を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?
もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊 なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきた のも確かであろうが。
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以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献 しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのか という疑念を容易に振り払えなかった。
今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く 感じていたからに他ならないと思う。
もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年め に私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力 が飛躍的に 上昇した。
それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎 はこの世に存在しなかったろう。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?
しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの 自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験のの乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気と忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。
その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。
フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・ ・・・と。
「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけ ではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。
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最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。
「セラピープロセスの小さな一歩」 と題するエッセーからの抜粋ですが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。
ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)
日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」 も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。
==========引用はじめ 太字 化および[ ]内はこういちろうによる========== 私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。すなわち、人とワークすることの本質は、 生きている存在としてそこにいること(to be present)です。 そしてそれは幸運なことです。なぜなら、 もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、 成熟しているとか、賢明でなければならないのなら 私たちは恐らく困ってしまうでしょう。 しかし重要なのはそれらではありません。 重要なことは別の人間と共にいる 人間であるということ。 相手をそこにいる別の存在 として認識すること。 たとえそれが猫や鳥であっても もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら 知っておかなくてはらない最初のことは、 そこの誰かがいるということ。 そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が あなたに接触しようとする のを待たねば なりません。 それは私にとって、最も重要なことのように思えます。 (中略)私が情緒的に安定していて、 しっかりそこにいる必要はないのです。 私がただそこにいることだけが必要なのです。 私がどういう人でなければならないという資格はありません。 大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、 そこにいようとする 人なのです。 そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、 ある種の客観的な態度で、私は、 私が人であることを知っています。 (中略)フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、 二人の間に挟み込んではならないのです。 それをはさみこみとして使ってはならないのです。 「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、 僕は卓球バトルがあるから君には負けない、 何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。武装しているという感じになってくる。 そうでしょう。 私たちには方法があるし、 フォーカシングも知っているし、 資格も持っているし、博士号ももっている。 私たちはこんなものをいっぱいもっています。 だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで 座っておくのは簡単なことです。 はさみこんではならないのです。 それをどけなさい。 クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。 (中略) それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で とても必要なのです。 (後略)
========引用終わり========
もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。
重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとする 」 こと、すなわち"presence" である。
ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。
しかし、それは「ただそこにいさえすればいい 」ということとは遠く隔たった 状態であろう。
この点で、「プレゼンス」というカタカナ語 をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎 であると私は感じている。
なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだ実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく) であるに過ぎない。
少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、
"Hi,Sir.I'm present."
と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?
それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に 実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。
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私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」 という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。
しかし「臨床」 という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される 気がする。
そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。
「やっと、『君』のそばに戻った」
・・・・と。
それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。
つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な平準化の中にこそあると思えてならないのだが。
・・・・ということで、何を今さらですが、
And the people bowed and prayed To the neon god they made. And the sign flashed out its warning. In the words that it was forming. And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls And tenement halls." And whisper'd in The Sounds of Silence.
●Simon & Garfunkel - Sound Of Silence
Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends
セントラルパーク・コンサート [DVD]
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そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。
これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。
そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。
●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】 (YouTube)
asegaの日記 の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!
中島みゆき / Singles 2000
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