2010年2月14日 (日)

池見陽著 : 「僕のフォーカシング=カウンセリング」のご紹介を兼ねて

 「書店で目にすることができる多くのフォーカシングの著作は、『誰々が演奏するフォーカシング』になってはいない」(p.2)

 ジャズを勧めるとしたら、最初にジャズの技法や奏法の本を勧める人がどこにいるだろう? ライブかCDを勧めるはずだ。「○○の演奏による」が存在しないジャズの名曲など存在しないというわけですね。

 趣味でジャズ・トランペットを奏することでも知られた池見先生による、「革新的な」著作です。

 全編が、鹿児島で催したワークショップへの出発から大阪への帰着までの「ドキュメンタリー」というより、「私小説」に近いタッチで書かれています。

 こういうかっこよくてクールな文の書き方は、池見先生でないとお似合いになりません(^^)

 先日私もご紹介した、ジェンドリンの「セラピープロセスの小さな一歩」のはじめの方の、

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

(中略)
武装しているという感じになってくる。

を引用して、「武装解除」宣言からはじまるわけですね(^^)


池見陽/僕のフォーカシング=カウンセリング

(楽天ブックス)

*****

 「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、本日、滞りなく開催されました。

 その参加者の方から上記の本をご紹介いただきました。

 この本、その方はたまたま偶然Amazonでの発売予告を目にして予約購入なさったそうですが、2月10日に発売されたばかり。私も、何の情報も持ち合わせていませんでした。

 そのご紹介からの影響からか、今回は、スコット・ラファロ在籍時のビル・エヴァンズ・トリオのような、「各奏者が対等な」、しかし完全に「脱技法化された」対話だけで数時間がじっくりと柔軟に進行しました(^^)

 次回は3/14(日)に開催です。

 フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。

 参加エントリー、お持ち申し上げております。 

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

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2010年2月 6日 (土)

「臨在」="presence" (第2版)

 今年秋9/24(金)-26(日)に、熊本市の熊本大学で開催される、日本人間性心理学会第29回大会の1日目、24日に開催される一日ワークショップの分科会のひとつとして、不肖私が、フォーカシングの講師を務めさせていただくことを受諾いたしました。

 恐らく、すでに昨年、佐賀県教育センターの研修会で確立した方式に更に手を入れて移植するやり方をとらせていただくことになるかと思います。

*****

 さて、私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

(サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の状況から身を守ろうとしているだけの場合すら少なくないと思う。つまり、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態である)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは去って行き)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験のの乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気と忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋ですが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在としてそこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだ実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir.I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な平準化の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

中島みゆき / Singles 2000

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2010年2月 5日 (金)

NHK 追跡A to Z 「問われる日本人の"言語力"」

 前回のワールドカップ、ドイツ大会において、日本代表サッカーチームは、予選リーグで一勝もできないまま敗退した。

 ワールドカップ後の報告書で、日本人選手の「自分の意思を伝える言語力不足」が課題の一つとして取り上げられている。

 サッカーは、野球とは異なり、試合の進行のひとつひとつの局面で、監督やコーチから直接指示を受けることが殆どないまま、各選手は状況判断して進めていかねばならない。

 そのためには、試合の進行中に実際に具体的に意思疎通を図るのみならず、練習やそれ以外の場面を含めての対話の中で、相手とはどういう人間で、どういう場面でどう考え、どう判断しがちかについてまで、お互いに知りあっている必要がある。

 ところが、ワールドカップ初戦の対オーストラリア戦、前半で1点リードの後、後半残り数分で同点に追いつかれた時、日本チームの中で何が生じていたか。

 このまま引き分けに持ち込めればよしという方向で行くのか?
 再度点を取ってリードするまで狙うのか?

・・・・・各選手の感じ方はバラバラであり、このバラバラさが相乗作用して不安を醸成する中で、瞬く間にオーストラリアに追加点を許して行ったのである。

 オシム元監督は語る。

「日本選手はこちらから話しかけると怯えていた。生活において対話が欠けている。誰もが自分の考えを言葉にするのを恐れている」

*****

 日本人の「言語力」(対話力)不足は、産業分野でも深刻な問題となりつつある。

 団塊の世代が次々引退する中、工場での「職人芸」をいかに後続世代に伝承するかが課題になっている。「技は盗むもの」という感覚で生きてきた職人たちは、若い世代にうまくわかりやすく伝える言葉の力に乏しい。

 一方、技術や資格を持ちつつも、会議の議事録やちょっとした報告書をまとめることにすら苦労する若手社員が増加している。

 読んでも意味がわからない。「流れ」が読み取れない。起承転結がある文章が書けないのである。

 このことの影響として、携帯メールに若者が慣れ親しんでいることが番組では示唆されているが、携帯メールでやり取りする時ですら、「流れ」と「起承転結」を想定してやり取りを交わせる若い人は確かにいるので、単純な原因論にしてしまうことには、私個人は違和感がある。

*****

 我伝引水を承知でいうと、私のNHKのドキュメンタリー番組の紹介はこのブログのもはや名物のひとつになっており、ひとつ書く度に多くの読者の方にお読みいただいていることに感謝申し上げている。

 なぜ、私の記事を読んでいただけるのか?

 それは、番組の内容がどういう内容だったかが彷彿として伝わるからであると自負している。

 ところが、実際に番組をご欄になった皆様はお気づきだろう。非常に多くの場合、私は番組の実際の進行を大きく再構成して書いているのである。

 しかし、できるだけ私個人の感想と区別できる形で、番組そのものがどういう内容だったかを、臨場感あふれる形で「文章化」できているつもりである。映像的表現における構成や文法と、文章における構成と文法はかなり異次元のものであることを私は常に意識しているつもりである。

 そして、そもそも、私のブログにおける文章は、特に最近のものほど、「流れ」と「構成」がもたらす効果について、私なりに計算し尽くして、しかし、殆どの場合、前から後ろに「一気に即興で」書いて、誤字修正したものであるに過ぎない。昔のように「改版」を重ねることも珍しくなってきた。

 書き出す段階で、私の頭の中の「非言語的な」「暗々裏の」アウトラインプロセッサはほぼまとまっている。まとまっていないと書き出さない。タイトルが決まれば、本文の内容は、もう流れ出すように結論に向かって書いているわけです(^^)

 このような番組紹介記事の場合には、もちろん番組を見ながらのメモは取っているが、それをどのように「構成」するのかは全くの即興である。

*****

 今回の番組のゲストとして登場したのは、ユニクロのデザインやイメージ戦略を担当していて有名な、佐藤可士和(かしわ)氏であった。

 (佐藤氏は、我が勤務校だった、明治学院大学の学章等イメージデザイン全面リニューアルにも関与している)

 イメージやデザインという「非言語的な」媒体を取り扱うにもかかわらず、佐藤氏は、仕事の経験を深める過程で、言語的な対話能力の重要性に目覚めて行ったという。

 クライアント(顧客さん)相手にせよ、協働するスタッフ相互間にせよ、中途半端なやりとりだけだと、お互いに勝手に違ったものを思い描いていることに気づかない。

 そしてユニクロで共同作業をした、ドイツ人のデザイナーの圧倒的に雄弁な言語での表現力にも大きな刺激を受けたという。

 ドイツでは、幼稚園段階から、自分なりに自分の言葉で表現するための訓練がカリキュラムとして緻密に織り込まれている。まだ小学校低学年くらいの子供たちに、サッカーのコーチが練習中に「何が問題だと思う?」と問いかけた時の、各人各様のしっかりした意見の述べ方は見事なものだった。

 そして、ドイツの大学の入学試験はすべて論述式とのこと。日本では、ちょうど私の世代(1960年生まれ)から、マークシート全盛の時代に突入している。

*****

 日本サッカー界で、従来の常識を覆した選手がいる。

 本田圭祐。

 昨年の試合で、フリーキックの際に、中村俊輔に任せるのが通例だった流れに逆らい「俺に蹴らせてくれ」と何回もアピールした。

 彼はオランダの2部リーグでキャプテン、および司令塔として活躍、チームのリーグ優勝に貢献した。

 セン・ファン・ダイク監督は、彼をフリーキッカーに育てるつもりだったが、本田は、いざ試合中にそうしたタイミングになると、他の選手からの「俺に蹴らせろ!」というアピールの凄さにしばしば気押しされ、譲ってしまっていた。

 そうした彼の様子に、監督は、「フィールドでは常にリーダーであれ」と発破をかけたという。

 それから1年のうちに、本田はチームメイトからの信頼と敬意を集めるようになる。

 現地で覚えたブロークンな英語しかできないが、コミュニケーションの細やかさという点ではそれまでの欧米人のキャプテンにはみられなかったセンスを絶妙に発揮する。

 伸び盛りの若手には時として厳しく。
 プライドの高い選手には、気を使い、相手を具体的に納得させるような調子で。

 他の選手は語る:

 「これまでのキャプテンは、キャプテンの立場からしかものを言わないキャプテンばかりだった。でもホンダは相手を見て、もののいい方を変える」

 ひとりひとりの違いが見えることは、相手がどう出てくるかが読めるようになるということでもある。

 気配を「察する」能力。これは日本人本来の「気遣い」の伝統にも一致している感性の世界だろう。

 これに、「わかりやすく伝えよう」というスイッチが加わった時に、何か大きな活路が開かれるはずだ。

 オシム氏は語る:

「日本人は日本人らしさを追求しない。これも私の疑問だ。すぐに他の国と比べたがる。そうやって他の国を見習って追いついた時にはその国はもっと先へと行っているのに。追いつくのではなくて、追い越さないと」

 本田は今、ステップアップを目指してロシアのリーグに移籍している。

*****

 佐藤氏は、次のようにも付け加えた:

「言語力とは、『自問自答能力』ともいえるかもしれない。相手からこう訊(き)いてきたら、どう答えるか?・・・というシミュレーション能力みたいなものを鍛えられるかどうかということ」

「それは、自分の頭の中にばやーっと浮かんでいることをはっきりさせていくこと、ちょうど、ぼやけていた画像で、カメラのピントをはっきりさせていくようなことなんじゃないでしょうか?」

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2009年12月27日 (日)

書評 : エルフィ・ヒンターコプフ 著 「いのちとこころのカウンセリング -体験的フォーカシング法-

エルフィー・ヒンターコフは、アメリカ生まれだが、ヴイーン大学で、先年亡くなった、ナチの収容所体験とその極限状況下において生の意味を見いだせる人たち について考察した「夜と霧」で有名な、実存分析の大家、フランクルのもとで学んだ後、文化人類学に専攻を変え、ネイティヴ・アメリカンについてのフィール ドワークに打ち込み、更にフォーカシング技法の祖、ジェンドリンのもとでフォーカシングを学び、今や心理療法家、フォーカシングの代表的トレーナーとして 活躍中の方である。

 厳格なファンダメンタリズム(聖書を字義通りに理解し、進化論も否定する)の家庭で育ったが、13歳の時、やりたかったダンスを取るか宗教を取るかを決 断せざるを得なくなり、彼女はダンスを選んだ。何事も「すべき」か「すべきでない」かでとらえようとするキリスト教の風土は彼女にとって無意味に思われた。それ以来彼女は宗教を拒絶したが、日常の中で、ある「無意味感」を抱え続け、彼女が「意味の探求」と呼ぶものをはじめたという。

 前述のフランクルは、生の意味は自分の内側からくみ取るしかないと諭したが、それがどういう意味なのか、この時点での彼女には実感としてはわからなかっ たという。「わたしは、内側から意味を見出すには何をすればいいのかわかっていなかった」。平和部隊に参加して訪れたインドではヨガの導師に教えを請い、 瞑想を学んだが、瞑想をしている最中は安らぎが得られるものの、日常に帰ると、また再び、以前からの葛藤に翻弄されてしまったという。

 ジェンドリンとフォーカシングに出会って後、フォーカシング体験を積む中で、はじめて彼女は、以前フランクルが諭した「自分の内側から生の意味をくみ取る」ということ、すなわち、「内側からの、静かな、かそけき声」を聴くということ体験的に理解できるようになった。そして、更に、フォーカシングを深く進 める中で、「神、人間、森羅万象と自分が共にある」という体験に至り、仕事や他者との関わりや余暇の過ごし方において、自分の実感を大切にしながら生活することができるようになったとのことである。

 スピリチュアリティという言葉を安易に使うと、日本のカウンセリングの世界では、オーソドックスな専門家からはそれだけで少し安っぽく見られる傾向がある(一般の方からすると驚かれるかもしれないが、「高尚」にはみてもらえない)。

 しかし、欧米では、クライエントに、性に関する質問を面接の中でしても、 日本でに較べれば遙かにフランクに話してくれることが少なくないが、相手の信じる宗教は何かについて訊ねることは、日本人からは想像がつかないくらいにタブー視されがちとのことである。

 

そして、カウンセラー個人の信仰と全く相容れないことをクライエントさんが語り始めた時の葛藤は、日本人には全く想像もつ かないくらいに根が深いらしい。

 それにも関わらず、広い意味での宗教的なことに関わるテーマが、多くの面接の中で不可避に登場する。違う宗派の人間同士の結婚にとどまらず、同じ家族の 中で、それぞれ信じる宗教が異なり、3つも4つもの宗派に分かれてしまうことも稀ではない。

 

そして、「重要なのは、イエスと私がどんな関係にあるかという ことなんです」「私は神に対して否定的な感情しか持てないでいます」「私はこれまでの生涯でずっと信心深い人間だったつもりですが、実は一度も神を体験し たことがないんです」「私が前世で体験したことが今の私を支配しているんです」などということがカウンセリングで真摯な悩みとして語られることも少なくな いらしい。

 こうした中で、ヒンターコフは、まず、"religiousness(宗教性)"と"spirituality"(霊性。以下の文中では特に断りがない 限りカタカナで「スピリチュアリティ」と表記する)を区別することを提案する。"religiousness"とは、「ある特定の、組織的な宗教団体や教 会などの信念と実践を守ること」である。それに対して、"spirituality"とは、「超越的(transcendent 常識的・合理的な判断を 越えた)」次元での、独特の、個人的に意味深い体験」全般のことを指す。

 このようにとらえると、個々の具体的な神秘思想や宗派を信じると言うより、遙かに広範な経験が「スピリチュアリテイ」の名のもとに包括されることになる。例えば、自然や芸術作品を味わう中で生じた深い感動なども含まれてくる。

 そのような、日常のすぐそばに、誰にでもある、ささやかなこころの癒しの世界への、フォーカシング技法を媒介とした手引きとして読む時、本書は身近な本になるであろう。

エルフィー・ヒンターコフ/いのちとこころのカウンセリング―体験的フォーカシング法

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2009年12月19日 (土)

「協調性」についての誤解

 「協調性」とは、断じて、周囲の目を気にするあまり「単に控えめにすること」ではない。

 人と積極的に、新たな「関係をつけ」、「切り拓く」能力である。

 その際に必要なのは、単に「相手に嫌われないか」という行動原理ではない。相手がその日常(生活、家庭、職場)の中で、どういう心境と実感で生きているのかに対する感情移入的想像力を最大限に駆使して、相手のニーズを想定し、それに応えようという方向で、むしろ自分から相手に「声をかけていく」ことなのだ。

 もとより、いつも言うように、他者の気持ちに対する人の想像力など結局はたかが知れている。実際に他者の言い分を訊けば、自分の思い込みは容易に脱錯覚させられる。

 しかし、そこから先、相手の言い分をきいて対話し続ける時、はじめて相手との対等な絆と連帯と協働の世界が「リアルに」築かれ始めるのである。

 それこそが、他者との絆を「信じる」ための自己投企である。

 もはや、自分の「空想の世界」での他者配慮の一人相撲で堂々巡りする、「一応集団の中に入れてもらっている中での孤独」に、別れを告げよう。

*****

 BGMは、中島みゆきの中島みゆき - I Love You, 答えてくれ - 本日、未熟者「本日、未熟者」

●本日、未熟者

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2009年11月26日 (木)

「フォーカシング事始め」(村瀬孝雄・日笠摩子・近田輝行・阿世賀浩一郎 共著)

 私自身が共著者の一人として名前を連ねて1章だけ書いているので、ご紹介するのは少し恥ずかしいのですけれども、それでもやはり、日本(特に関東地区)におけるフォーカシングの普及において、ひとつのターニング・ポイントになった本だと思いますので。

 それはどういうことかといいますと、本書が刊行(1995年)された少し前、フォーカシングの有力なトレーナーであるアン・ワイザー・コーネル女史が初来日され、ワークショップを開催しました。その時の実習と、当時ワークショップ参加者だけが購入できたアンさん独自の技法マニュアル(それが後に刊行されたものが、あの「入門マニュアル」「ガイド・マニュアル」です)を元に、東京の日精研などを舞台として、恩師、故・村瀬孝雄先生や日笠摩子さん、近田輝行さんたちと共に、そのアンさんの技法を自己掌中のものにするべく勉強会を重ねました。

 そうした中で、村瀬先生の立案で、アン・ワイザー法を詳しく具体的に紹介することに大部を割いた本を4人で1冊書くことになったのです。

 つまり、本書は、日本における、公刊された、アン・ワイザー法フォーカシング「事始め」でもあるのですね。

 日本フォーカシング協会設立の、少し前の時期のことです。

フォーカシング事始め―こころとからだにきく方法

●神田橋條治先生による本書の書評(「精神療法」誌 第22巻 3号掲載)

******

 次に、本書の目次をご紹介します。

  1. フォーカシングとは?(村瀬孝雄)
  2. フォーカシングの不思議な力(村瀬孝雄)
  3. 熟練した2人のガイドとのフォーカシング経験(日笠摩子)
  4. あるワークショップの記録(村瀬孝雄)
  5. フォーカシングを実際にやってみるために(日笠摩子)
  6. フォーカシングQ & A(村瀬孝雄・日笠摩子)
  7. フォーカシングの歴史と理論(村瀬孝雄)
  8. フォーカシングの諸相と日本・世界の現況(村瀬孝雄)
  9. カウンセラーがフォーカシングを学ぶことの意味(近田輝行)
  10. フォーカシングの「臨床適用」について(阿世賀浩一郎)
  11. 補章:谷川俊太郎の詩 「きもち」を借りてフォーカシングを解説する(村瀬孝雄)
  12. フォーカシングについてもう少し知りたい人のために(村瀬孝雄)

*****

 その後、私たちは、後続するジェンドリンや奥様のメアリー・ヘンドリックス(The Focusing Institute 現CEO)、アン・ワイザー、エルフィー・ヒンターコフ、ジャネット・クライン、ケビン・マケベニュ、バラ・ジェイソンらの著書や論文、ワークショップ(邦訳はありませんが、メアリー・マクガイア、ドラリー・グリンドラーをはじめとする人たちによる、重篤事例についての重要な論文があります)からさらに多くのことを学び、日本国内でワークショップ・セミナー・研究会を仲間たちと実施したり、それぞれの臨床・教育現場の中での適用を模索する中で、更に研鑽を積んで行きました。

 しかし、今回、本書を久しぶりに読み返してみたのですが、(自画自賛じみて申し訳ありませんが)、よくもまあ、この段階で、ここまでフォーカシングの当時最先端の潮流を咀嚼し、広範囲の視点から総合的にご紹介できていたなと、ほっと胸をなでおろした次第です。

 私たちの「フォーカシングの青春時代」は無駄ではなかった(^^)・・・・まだ、古くなってないです。

*****

 本書の中の白眉のひとつは、日笠さんが苦心の末に編み出した、当時のアン・ワイザー法に基づく「フォーカシング・フローチャート」(p.pp.124-6)でしょう。このフローチャートを観てみるだけのためですら、本書を借り出したり、購入する価値があるかもしれません。

 ジェンドリン自身のオリジナルのフォーカシング技法が、単純に要約された、せいぜい1,2ページのマニュアルとして配布され、「それがフォーカシングというもの」と学習者に思い込まれてしまって伝播したことの最大の弊害は、フォーカシングの手順というものを、「空間づくり」にはじまり、「フェルトセンスをつかむ」→「手がかりとなる言葉やイメージを見つける」→「見出した言葉やイメージが実感にぴったりかどうか共鳴させる」→「フェルトセンスに問いかける」→「受け止める」という段取りを、順序だてて進めたときにはじめてフォーカシングしていたことになる・・・かのような誤解を広め、それでは思うように成果が上がらないと諦められてしまう事態を招いたことでした。

 (このことが、ジェンドリンも望まない事態で、もっと柔軟な適用が肝心であることについては、ジェンドリン自身の著作、「フォーカシング」を丁寧に読み解けば、繰り返し説かれていることなのですが)

 アンさんは、ジェンドリンの技法をベースにしながらも、それをわかりやすくて「勘所」を明確にした「5つのステップと5つのスキル」に再構成しました。

 その結果、気がかりな「事柄」からであろうと、その時の漠然とした「身体の感じ」からであろうと、柔軟にフォーカシングを始められるばかりか、内側から生じてきたものは取りあえずなんでも「認めてあげる(acknowledging)」ことと、フェルトセンスから性急な言語化を引き出さないまま「共にいる」ことを重視する丁寧でかゆいところに手が届くものとなりました。

 この「認めてあげる」や「共にいる」は、実はセッションの最中のいたるところで提案される教示なので、実は番号を振って直線的に順序だてて説明することになじみにくいところがあります。

 更に、フェルトセンスから「遠すぎる(too distance)」状態になった人と、「近すぎる(too closed)」状態になった人(アンさんのいうフェルトセンスを「脱同一化(disidentification)」して感じられる状態が程よく維持できないという点では、どちらの事態も共通です)への臨機応変な介入も必要です。

 これらをすべて表現しようとすれば、もはやフローチャート形式をとって空間的な表現にして、必要あればあっちに行ったりこっちに戻ったりということを一望できる図版にするしかない。

 日笠さんを中心とした人たちが取り組んだこの「図版化」は、アンさんの技法書のどこにも出てこないオリジナリティあふれるもので、これがアンさん来日2年目で達成されたことは、再評価されてしかるべきと思っています。

 (アンさんの技法体系そのものも、その後進化を続けていますが、この段階でのアン・ワイザー法の、几帳面な丁寧さのプラス面は、フォーカシングを「意図的なスキル」として緻密にトレーニングする場においては、決して過去のものにされてはならないというのが私の信念です。このフローチャートは、私の主催するささやかなグループでの恒例の配布資料で、現在もあり続けています(^^)) 

*****

 さて、私が執筆した第10章ですが、のっけから「臨床家自身がフォーカシングを身につけ、日常の中で役立てられていないうちは、臨床現場での適用なんていうことは考えない方がいいのでは?」という、不遜なまでに挑発的なメッセージからはじまっています。

 さすがに若気の至りではなかったかなと、その後多少自己嫌悪に襲われ、長らく読み返さないでいたのですが(^^;)、本書刊行から14年を経て、一読者の心境で客観的に読み返してみたところ・・・・ほっとしました。私なりに十分にジェントルで丁寧な語り口で書けている。

 (つい最近、認知行動療法の大家、伊藤絵美先生が、これからCBTを学ぶ専門家への心構えとして、実にそっくりの表現を、著作でなさっているのに気がつき、安堵したというのあります)

 そして、当時はジェンドリンが書きつつある「フォーカシング指向心理療法」のdraftを村瀬先生によって手渡されて、その一部を読み解くぐらいの段階でしたが、私がその時点で言葉にできた「臨床現場でフォーカシングをどのように生かすか」という方向性に、その後ブレはなかった、完全に今日の私のスタイルへと繋がっていると確信できました。

*****

 更に、この私の書いた章、さすがアニメおたくカウンセラーこういちろうですね(^^;)、私自身すっかり忘れていたのですが、次のような部分がありました(pp.241-2):

========引用はじめ=========

 このようなクライエントさんたちにとっては、自分が「どんな」感じでいるのかついて語ることは、まだサナギの状態でしかいられない昆虫が、請求に脱皮を急がされたような外傷体験に容易に結びついてしまう危険があるのです。・・・最近(95年7月)、「風の谷のナウシカ」等で有名な宮崎駿氏らスタジオジブリ制作による長編アニメ、「耳をすませば」が封切られ、映画館でご覧になった方も少なくないかと思いますが、この映画の中で、主人公の月島雫(しずく)という中学生の少女が、留学した恋人が日本に戻るまでに、自分もなにかをやり遂げようと一大決心をして、受験勉強を投げ出して、寝食を忘れてファンタジー小説の執筆に打ち込む展開があります。

 憔悴して眠り込んだ雫は、ある悪夢にうなされます。鉱脈の中の壁一面が原石でできた洞窟の中で、ほんとうに輝くただひとつの純粋なエメラルドを見つけ出そうと焦って探し回るけれども、なかなか見つからない。これぞと思って壁から抜き取った石は最初は光り輝くかに見えました。しかし次の瞬間にその石は、雫の手のひらの中で、まだ卵からかえっていないヒナの死体へと変容するのです。

 悲鳴rと共に飛び起きる雫。目の前には一向に進まない、破り捨てた書きかけの原稿用紙の山があります。

 映画の中の雫の場合には、物語をともかくも書き上げるだけの自我の強さと、そうした彼女を理解して見守る幾人かの周囲の人たちのまなざしがあったから救われたのですが、私たちが現実の臨床現場の中で出会うクライエントの中には、まさに賽の河原で石を積んでは壊されるかのようにして、自分の中の「卵」や「サナギ」を性急に孵化させようとしては流産させることを繰り返す中で傷つき、内面をすり減らし、蟻地獄のような絶望と無力感に次第次第に沈んで行く人たちも少なくない思えます。

 むしろそうしたクライエントさんたちにまず必要なのは、自分なりにさなぎ(繭)をつくって、その内部で成長と分化が暗黙のうちに進展するのを見守ることが許されるような治療的な場の保障と関係性ではないでしょうか。

 すなわち、彼ら/彼女らは、まずは、自分たちの中にうごめく形(言葉)にならない混沌が、自分を破壊する可能性がある脅威ではないという安心感を抱けるように徐々になれる治療的な場を保障してもらえる必要があるように思います。

 そして、その言葉にならない混沌を、いとおしみながら育み育てるための子宮的な空間を、自分の身体の内部や外部に安定した形で確保できる自分なりの工夫を見出せるようにサポートされるべきです。

 (これが、本書でもすでに第5章で示した、アン・ワイザー女史の言う、フェルトセンスと「一緒にいる」ということにあたります)

========引用おわり=========

耳をすませば [DVD]

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2009年11月 2日 (月)

理解の核心は、「論理的な」理解ではない。

 実生活において、あるいは文章や映画を体験して、それを自分の身の肥やしにして、今度は自分の側からの表現として再生産するのには何が肝心なのかを、僭越ながら、ちょっとテーマにしてみたいと思います。

 まず、大事なのは、すでに持っている「知識」や、新たに検索して入手する「情報」の、の問題では全然ないのです。

 あるいは、よく言われがちな「情報整理術」の問題かというと、そうでもないと思います。

******

 このことに関して、我が意を得たり!! と絶賛したくなることをお書きのサイトを発見しました。

 実は「はてな」では有名サイトみたいですが、確かにこの人の文章力と説得力は半端ではない。ご本人もお書きだけど、いわば「極論」めいた逆説の山を築く中で、何か普通のサイトでは感じられないsomethingを醸し出す達人の域の方ですね(^^)

●意外と知られてない、自分を飛躍的に成長させる読書テクニック(分裂勘違い君劇場) 

========以下引用========

(前略)

よく「文章の論理構造の理解が一番大切だ」と言う人がいるが、文章の種類によっては、この固定観念が癌になる。

論理構造の理解は確かに必要なのだが、それを優先して文章を読解しようとすると空回りして不毛な誤読をして、結局、一番肝心な部分が分からないままになってしまうことが多い。

最優先でやるべきは、作者や登場人物の情動回路を自分の脳内で動かすことだと思う。

(中略)

作者や登場人物になりきって作者や登場人物の目から見える世界を思い浮かべ、作者や登場人物が感じた息苦しさ、悔しさ、理不尽さ、憤りを自分も味わってみることだ。

それも、作者や登場人物の背の高さ、体の重さ、姿勢の歪みからくるにぶい苦痛、自分の筋肉や骨や間接 や胃や腸やさまざまな内臓が蠢いたり痛んだりする生々しい感覚、汗で服が皮膚に貼り付く不快感、まさぐられ、押さえつけられる苦痛、抵抗できない悔しさ、 視界から見えたり触っているさまざまなものの ディテールを、リアルに生々しく、自分がいままさに体験しているかのように、作者や登場人物の中に「入り込み」そこでわき起こる様々な感情を自分の感情として味わうことだ。

このような情動シミュレーションさえしっかりできれば、文章の論理構造など、さして努力しなくても自然に浮かび上がってくる。

それも、単に論理骨格を追いかけるより、はるかに精密に論理構造が見えるようになる。

(中略)

そもそも、他人の異質な情動を自分の情動の中に食い込ませるから異種混交が起きて自分の精神が豊饒に なって成長していくのであって、過去の自分の情動の自動再生ばかりやっていては、自分の精神は単線化し、貧しいままになってしまう。遺伝子プールの多様性 が重要なように、自分の脳内のミームプールの多 様性が重要だが、情動シミュレーションをおろそかにしたまま大量の本を読むと、情動という肉を伴わないミームの骨格部分(≒単なる知識や情報)だけが頭の 中でガチャガチャ骸骨ダンスを踊っているような状態になる。

また、情動シミュレーションをしながら本を読むということは、決して作者の情動に押し流されて洗脳されてしまうことを意味しない。むしろ、情動シミュレーションによってより精密に作者の情動を捕まえるからこそ、その情動に逆らって思考することができる。

(中略)

相手の身体を押し返すには、相手の重心をしっかり捕まえなければならない。

相手の情動が分からないと、自分が相手と同じ思考をしているのか、相手と関係ない思考をしているのか、相手と反対の思考をしているのか、そもそもそれが分からないから、無意識のうちに同じような思考を リピートして堂々巡りをしてしまい、「新しい脳神経パターンを開墾する」ことができなくなってしまう。

情動シミュレーションによって、相手の情動までしっかりと把握するからこそ、相手の情動に逆らって思考する、すなわち、「ちゃんと思考する」ことができるようになるのだ。

そして、お察しの通り、情動シミュレーションは単に読書だけでなく、仕事、生活、遊びのさまざまな局面で決定的に重要になる。

情動シミュレーションをしながら作り上げた企画と、そうでない企画には、そのクオリティに雲泥の差が出てくることが多い。

(後略)

========引用終わり========

 私の畑のフォーカシングの言葉で言えば、

「相手の身になって、相手のフェルトセンスを感じながら(同時に自分のフェルトセンスも大事にしつつ)、場に関わっていく」

にあたることを、ここまで「ご自身の言葉」でお書きになれる人がいることに、心から敬服するしかないです。

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2009年9月 3日 (木)

若手カウンセラーの方が、私たちよりも「したたかに」実力をつけていくのではないかという、大いなる期待

おゆとり様”世代を考える.(ココログニュース)

=========引用開始(若干改行を増やしました)========

 2002年度に“ゆとり教育”を導入した新学習指導要領。その頃に中学生だった人たちが今、成人を迎える時期にきている。物心ついた頃からずっと不況で、「貯蓄を重視」し「巣ごもり傾向がある」。

 その一方で『hanako世代』にあたる母親の影響を受け「ファッションには敏感」であり、それでも他人と比べるようなブランド物よりは、ユニクロなどのファストファッションを好む、といった特徴が見られるという。この世代を“おゆとり様”と呼ぶのだそう だ。

 高度経済成長期に熱い若者だった団塊の世代からは、「(おゆとり様には)社会人となり業務上で難題に対し、死ぬ気で何とかやり遂げようとする言動が あるのかしら」と戸惑いの声があがる。

 身近な20代女性が「いかにお金をかけないで」楽しむことを重視しているのを見て「これが消費しない若者世代の モットーなのか(中略)そんな彼女たちのマインドにヒットする商品は なかなか難しい」(神戸ものがたり)と、彼らの消費行動が景気に影響を与えるとの見方も。

 一方で、ゆとり教育世代の息子を持つ『主婦だってがんばっちょる!』のブロガーは「どんな時代になろうとも地道が一番だし、何かあった時にやっぱり 必要になるのは貯金ですから」と、その堅実さを肯定する。

 また、“おゆとり様”の傾向分析やカテゴライズそのものに違和感を覚える人も多い。大学生と身近に接する人の中には、全体としてそのような傾向があ ることは認めつつ、「ファッション好き」と「貯蓄好き」の差は大きく、「別の物と思ったほうがいい」との意見がある。

 さらに「この多様化極まる時代にある 特定の層に“だけ”スポット当て、十把一からげ宜しくレッテル貼りの作業。もうこんな手法は飽きた」など、辛らつなコメントは少なくない。ラベリングで特定の層を表現するのは、物事をわかりやすくしているように見える反面、肝心な部分を見落としてしまう可能性もあるのかもしれない。

(ははぎく)

=========引用終わり========

 8月末、東京、町田での日本人間性心理学会第28回大会に出席した。

 この大会期間の中の2日間に、8つの時間帯の個人発表「枠」があった。この時間枠は、日本心理臨床学会大会のように互いに折り重なることはない。つまり、8つの個人発表を連続して聴くことが、参加者に可能な最大数であった。

 この折に、大学院博士後期過程在学中、ないし、少なくとも博士前期課程は修了して、臨床現場に出て数年以内の、非常に若い世代の臨床家たちの個人発表を7連続で「はしごして」回る形になった。

 正確に言うと、私が発表を聴いた中のお一人のみが中堅(というよりベテランの域に踏み込みつつある、私とほぼ同年齢の、学会でも著名な実力派カウンセラー)であり、残りの7人は、48歳の私よりも20歳は若い世代の方々だったのである。

 それらの人たちは、ここでいう「おゆとり様」世代よりはほんの少し上ということにはなるかもしれないのだが。

 事前に送られてきた論文集で目を通して、「ほう・・・・」と感心させられる"something"を感じた方の中からセレクトした。何とその結果、上の世代や同世代ではなくて、一番若い世代こそが、私の鑑識眼を刺激したことに、我ながら驚いたのである。

 7名全員が、日本の「フォーカシング技法」および「フォーカシング指向心理療法」の「第3世代」というべき若手研究者・実践家である。

 もっとも、この学会は、フォーカシング関連の発表が非常に多い学会なので、同じ時間帯に別の教室でフォーカシング関連で発表される若い方がいる(要するに、「裏番組」も観たい状態・・・という苦渋すべき事態が頻発した。

 特に心理臨床系の個人発表のように、最低でも1時間の時間枠が与えられる個人発表についての、大会論文集上の抄録の情報量というものは、発表内容の全容を掌握するリソースとしては、実は不十分なものである。

 ですから、たまたま私が「究極の選択」に窮して会場に出向かなかった若手の発表者の皆様、どうか、別に阿世賀が「裏番組」の発表の方が優れているなどと判断したとは、夢にも思わないでいただきたい。

 私の身体はひとつしかないので、「行きたかったけど、行けなかった」だけです!!

*****

 全くおだてだとか餞(はなむけ)の儀礼などではなく、率直に申し上げたい。

 その7名の発表者の方全員が、私の期待以上の研究実践水準であった!!

 すでに我々フォーカシング「第2世代」(池見先生や、吉良先生、日笠さんや近田さんや村里さんや田村さんや天羽さんも含みます!)が、試行錯誤の中で日本に本格的に根付かせようとしてきた中で積み上げてきたものを、それぞれなりに「当然の前提」として咀嚼し、消化した上で、それぞれの現場に密着した問題意識を抱き、身につけた専門的なリサーチ能力を高度に駆使し、パワーポトントをはじめとする視聴覚素材での洗練されたプレゼンテーション能力も発揮しながら、厳密な臨床研究手法で、一歩一歩前に進もうとされてる方々ばかりでした。

 池見先生や田村さんや私のような「古株」があら捜しすれば、確かにいろいろと理論的理解や技法実施上のテクニック、統計手法、研究デザインなどに関して、個々の問題点は指摘できますし、それらについては、その会場にいたこれらの先生方と共に、私も遠慮なく(でも簡潔に!)コメントさせていただきました。

 しかし・・・・池見先生すらも休憩時間に私に漏らされたんですよ。

「『第3世代』は僕たちの若い頃の域をすでに超えかかっているのかもしれないね」

・・・と。

(注:日本のフォーカシング「第1世代」とは? 戦後しばらくして大学教育を受け、主としてカール・ロジャーズの「クライエント中心療法」や「非構成的エ ンカウンターグループ」の研究実践者として、1970年代までにすでに一定の業績を上げた先生方の中のある部分の先生方が、1978年に、ロジャーズの共 同研究者でフォーカシング技法の創始者であるジェンドリンの来日を期に、フォーカシング技法の日本への紹介と摂取に尽力されることになる。故・都留春夫先生、我が恩師、故・村瀬孝雄、そして現在も活躍されている村山正治先生、大澤美枝子先生、白岩紘子先生、井上澄子先生をはじめとする、すでに60代以上の先生方を指します)

*****

 今の若い世代の人は、私たちの若い世代に比べれば過酷な受験戦争を体験していないかもしれません。

 しかし、こちらの記事で書いたこととも関連しますが、高度成長期からバブル崩壊前の楽観主義の中でしか、自分の進路や将来像を描けないまま社会に出てしまった世代に比べれば、自分たちが参入していく社会の現実をシビアにとらえ、自分の立ち位置と社会に出てからの歩み方について、非常に足が地に着いた考え方と判断力でやっていかざるを得ないように、子供時代から肌身で感じて育っていると思うのです。

 そのしたたかさが、実はこれからの日本を支える若い力になるのかもしれない。

 どうか、バブル崩壊以前に社会に出た、現在アラフォー「以上の」世代全体を、どんどん「実力で粉砕」して、「社会を動かす」側に回ってください。

 もし、言ってることややってることがヤバイと思ったら、本気で忠告します。必要とあらば論戦も厭わない。

 いざとなったら、あなたたちと、武器を手にとってでも、将来「内戦」するかもね!!

 それが、私の世代に、これからできることなのだと。

 「おゆとり様世代の諸君、エースをねらえ!!」


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2009年8月24日 (月)

「双極性II型」気分障害と高度成長期との関連 -星飛雄馬や矢吹丈や岡ひろみのように生きてしまうこと- (第3版)

 安易な「世代論」は慎みたいのだが、現在40代までの世代のうつ病のあり方が、以前とは異なってきていること(いわゆる「非定型」うつ病や「双極性障害II型」気分障害と診断を受ける人が増加していること)を検討する上で、やはり必要な観点として、ちょっと大胆すぎるかもしれないことを、敢えて書いてみたくなった。

 日本の「高度成長期」とは、狭い意味では、オイルショック(1973)に至るまでの1955年から1973年までの18年間であるという前提で以下の話を進めたい。

 そして、「高度成長期に育っている」世代というのを、私なりの、やや強引かもしれない境界線として、少なくとも小学校時代全体を1973年度までに終えていると設定することに同意していただければ幸いである。

 そうなると、単純計算で、そうした世代の一番若い人間は、1961年(昭和36年)生まれであり、今年度(2009年)のうちに満48歳を迎える人間であるということになる。

 更に、上限も規定しよう。高度成長期に突入した時点(1955年)で、いろいろな幼年期の記憶が残りはじめていることが確実な年齢層。それを3歳から5歳ごろと仮定すると、2009年現在は58歳から60歳の人たちということになる。

 この範囲におさまる人たちは、まさに12年=1世代である。いわゆる「新人類」世代といわれるものと、実にぴったり重なることになる。

 現在では、この世代の人たちが、社会を実質上動かす「壮年期後期世代」として活躍していることになる。一世代ばかり上には「団塊の世代」が今も「ボス」として君臨していることになるわけだが。

 この世代の人間は、子供時代の重要な時期を、未来に向けての「人類の進歩と調和」を疑わず、日本も どんどん経済成長する中で、「親がすでに獲得した立ち位置で、更に努力を重ね、精進していけば、会社での昇進や事業拡張に伴う収入増加と、家庭の生活水準 が向上していく」ことを非常に楽観的に信じていられる中で育っている。

「会社のために尽くせば尽くすほど、その忠誠心に応えて、会社は必ず自分に報いて生活水準の向上をさせてくれる」

ということを素朴かつお人よしなまでに信じていられたという点では、高度成長期のサラリーマンは、バブル崩壊以降、リストラ等の現実に直面し辛酸を舐めて来た世代に比べると、信じがたいくらいに純情ですらあり、(敢えてこの言葉を使わせていただく)日本的な『甘え』の構造に、骨の髄まで浸かっていたと思う。

 このわずか十数年の間に、年功序列も有名無実化し、終身雇用制度も風前の灯の「実力主義」の生き馬目を抜く競争社会に日本も急速に変貌してきた。

 天下泰平の江戸時代の武家社会以来命脈を保って来た、「忠義には恩賞で応える」という職業倫理観そのものがもはや崩壊してしまった。

 日本における古典的な「うつ病」のあり方が、実は欧米社会のそれとは、メンタリティが一見似ていて内実は異なる点が得てして見落とされている。中井久夫先生が「分裂病と人類」の中で指摘しているがごとく、うつ病の病前性格とされた「メランコリー親和型性格」とは、欧米(この概念をテレンバッハが生み出したドイツにおいてですら!!)では、当初から、むしろあまり高い価値づけを与えられる・タイプではなかったのである。

 日本における狭い意味での「古典的な鬱病者」とは、実はこうした、すでに過去のものとなった「会社への『忠義』が報われる」という社会システムへの過剰適応者に生じる失調形態であり、今や、古き良き日本の職業観に基づき生きてきた、すでに60歳より年長の世代に固有の「社会的性格」を担う人たち(および、その世代の「超自我」を、不幸にしてもろに転写する形で受け継いでしまった、「すでに時代とズレた」メンタリティの、後継世代の一部を占めるに過ぎない人たち)に、かろうじて残存しているに過ぎないと考えるべきなのである。

*****

 もっとも、「新人類世代」は、高度成長期においては、まだ十代ないしそれ以下の「扶養家族」であり、本人自身はまだ実社会に出た「就労者」ではなく、家族の生計の当事者ではなかった。実はこの点こそが肝心である。

 現実社会の中で「努力と根性」で生きて、一家を支えているのは、戦前(昭和10年代=1935年前後以降)・戦中に生を享けて、戦後初期の貧しさの中で子供時代から十代を過ごす中から、死に物狂いで家の生活水準を上げてきた「親世代」なのだ。


 新人類世代の人の子供時代においては、「努力と根性」の果てに立身出世するという倫理は、自分がそれをやるかどうかは別として、ひとつの「理想像」としては、結構素直に受け入れられていたと思う。まさに「巨人の星」「エースをねらえ!」を子供時代から十代前半に堪能していた世代そのものなのであるから。

 ところが、それはあくまでもひとつの「ファンタジー」ないし「自我理想」として存在しても、自分の身にひしひしと差し迫るリアリティとしては体験していない。

 そうした中、当時の子供にとって、唯一の例外の「努力と根性」へのプレッシャーを社会から否応なしに受けるリアルな場が、現在よりも「遥かに」過激な受験戦争だったろうとは思う。

  しかし、(敢えて言わせて頂ければ)受験勉強というのは、一度乗っかってしまえば、ゲームの上達と同じような、シンプルな仕掛けの「バーチャルな」次元での競争であるに過ぎない(ネットゲームやセカンドライフ的仮想世界では、ある種の「対人関係スキル」がある程度問われることは否定しない。ここでいう「ゲーム」とは、あくまでも、「スタンドアロンな」ゲームの場合である)。

 受験とは、複雑な人間関係や駆け引きなどへの対処を含めた、実社会でのサバイバルや栄達までの修羅場で必要な、複雑で多次元の「全人的能力」の総合性が試されるフィールドではないのだ。

 いくら「学歴信仰」が今よりも強い時代だったとはいえ、大人になった自分が「実際に」世間の荒波に飲まれてどこまで「通用するか」とは別次元の問題であることなど、子供心にもうすうす懸念していたことが多かったはず

 つまり「勉強ばかりさせられる」ことだけで、大人として通用する未来が開けるわけではない筈だと、心のどこかで気づいていたのではないかということだ。

 大人になって、世の中を生きるとは、そんな単純には行かないものでないか?

 だからこそ、多くの子供は、受験勉強にばかり縛り付けられることに、自分の未来への、漠然としてはいるが深刻な危機意識の中で「抵抗し」、ほんとうは、何か別のものをこそ、大人から吸収したかったのではないかと思う。

*****

 そういう中で、自分が成長していく上で見習っていく先達=「大人」としての手本を、その世代はリアルワールドの中では見失っていたのではないかとも思う。

 いわゆる「ポスト全共闘」しらけ世代にあたる、自分より少し年長の、大学生から社会人になりたての世代は、自分の目から見ても、「身体を張って生 きてきた」親世代そのものに比べると、心優しいけど、どうにもこうにも軟弱で、「お兄さん」「お姉さん」ではあっても、「大人としてのあり方」として憧れ るというのにはイマイチだ。

 そういう、自分よりも少し年長の世代にあたる「物語上の」主人公たちが「努力と根性」で社会に巣立っていくまで支え、見守り、鍛え上げる、更に上の大人世代・・・・まさに星一徹や宗方コーチの「大人としての厳然たる存在感」がなかったならば、その種の成長ドラマは、子供にとっても、全然魅力的なものとはならなかったはずである。

 しかし、自分の親そのものは?・・・・厳しい小言はいうけれども、少なくとも家庭で見るその姿は、経済的豊かさを「消費」しながら、休日はぐったりと横になっているばかりで、全然かっこよくない(ほんとうは、多くの場合、職場では地道にその人なりに奮闘していたであろう、親の大変さまでは子供にはリアルに実感できないのだから)。

***** 

 私は、この「新人類」世代の人が鬱になる場合は、それ以前の世代の人が鬱になる場合と比べても、すでにかなりの傾向差があるし、更に「新人類」世代以降になると、更に別の傾向を示すのではないかとも感じている。

 大雑把過ぎるのを承知で、敢えて大胆に言うならば、「新人類世代」=特に「双極II型親和的」な世代ではないか?・・・という思いが私の中に生じてきているのである。

 古典的なメランコリー鬱病親和的な人たちは、「新人類世代」になると、ぐっと割合が減り始め、それと交代するかのように、「双極II型」と診断される人の率が増える・・・・という仮説である。

 現状では双極II型の診断を日本の精神科医・心療内科医の多くが十分に的確にできるようになるまでの「途上段階」に過ぎないので、日本における「双極II型」と診断される患者さんの年齢別・世代ごとの分布の統計が、もし仮にあったとしても、十分に信頼できる水準のものと言える段階ではないかもしれない。

****

 しかし・・・・・ふと思ってしまうのである。

 星飛雄馬は、大リーグボール3号を編み出しこそしたものの、それはまさに「身を削る」投法に他ならず、最後には腕の筋肉が断裂するという形になったではないか。

 矢吹丈にしても、そうだ。ホセ・メンドーサとの死闘の後で、皆さんご存知の通り「真っ白な灰」になった。

 岡ひろみも、宗方コーチの死のショックから立ち直って、再びウインブルドンに旅立つまでに、どれだけぼろぼろな日々を送ることになったか。.

 この3人の生き方って、もう、びっくりするくらいに、双極性II型気分障害に陥った人の「現実の人生」と類似しているのではないか?

 双極性障害II型の人に内在する超自我は、まさに「星一徹」や「宗方コーチ」のような超然たる厳しさを持ったものではないか?

 そうした「内的コーチ」の期待と信任に応えるべく、極限までの努力を孤独の中で重ねて、遂には燃え尽きる・・・・

(宗方の死で幕を閉じた、アニメのTV版「新・エースをねらえ!」あるいは劇場版「エースをねらえ!」しかご覧になったことがない皆さんは、原作の物語がその後延々と岡ひろみの「リハビリ」の過程(!)を描き続けたことまでご存じないかもしれません。実は、原作における宗方の死以降のストーリーも、原作とはかなり異なる展開ですが、かなりたってから、実に丁寧にアニメ化され、2クールかけたオリジナルビデオアニメシリーズという形で発売されています(「エースをねらえ! 2」 「エースをねらえ! ファイナルステージ」)。もっとも、その後衛星放送やCSや深夜時間帯で何回も放送された筈なので、そういうきっかけでご覧になった皆さんもあるかとも思いますが)

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 こうした、「新人類」世代の子供時代のヒーロー、ヒロインが「努力と根性」の果てに燃え尽きていくドラマを、あたかも自分自身が現実の中で再演する「かのようにして」、結果的に生きてしまったのが、双極性障害II型の人の生き様である・・・・という、大胆な仮説はどうだろう?

「現状がいかにしょぼくて、疎外されたものであろうとも「努力と根性」さえあれば、いつか報われるに違いない」

「 ・・・・・その前に、自分程度の者は、燃え尽きてしまい、安住の地にたどりつけないのではないか?」

「でも、このやり方しか自分にはできないんだ! きっとそのうちに誰かが認めてくれる・・・」

「それにしても、この、一見のどかで平和な時代って、何か、ふわふわしていてさ、生きている実感に乏しくて、どこか「嘘くさく」ないか?」

「きっと、「ほんとうの現実」っていう奴が、どこか別のところにあるんだよ」

「もし、そこに待ち受けているのが悲劇の幕切れであろうとも、自分が「ほんとうの現実」に触れた充実感に出会えるのならば、それが一瞬の花火でもいいではないか!」

・・・・まるで、徐々にパンチ・ドランカー症状に苦しみ始めた矢吹丈が、試合の前に、川辺で(ジョーを慕っていた)紀子に語った、かの有名な「真っ白な灰になる」という結語に至る一連のセリフみたいであるが、双極性II型の皆さんの中に、ある共感を抱いてくださる方が少なからずあるのではないかと思う。

 そして、そういう生き方が、自分を苦しめ、燃え尽きることを繰り返す双極性の病に陥らせたことへの、砂を噛むような不毛感も。

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 もちろん、こうしたことを「テレビやマンガの悪影響」などという次元で私は語っているつもりは全くない。

 (恐らく、ここで書いてきたことは、「メディアの子供への悪影響」という論を張るのがお好きな人たちにはむしろ絶対に思いつけないし、お知りになったら「呆然とする」見解(?)であろう。星飛雄馬や岡ひろみの生き方を「不良」で「不健全」呼ばわりする人など、そういう人たちの中にこそ、一番いそ うではない気がするので)。

 私が伝えたいのは、そうした人たちが子供時代を過ごした社会全体の「時代の空気」(豊かさと、「成長」幻想の影に隠された不安と焦燥)との「隠された」親和性の問題である。

 この世代の、少なくともある一定範囲以上の人たちが、社会に出るまでの間の成長過程で育んだ、「成長」や「自己実現」の理想化されたイメージと、大きな共振作用を起こす形で、こうしたヒーロー・ヒロインの物語上での生き方として社会的=象徴的に「表象された」のではないか?

(このようなメジャーな雑誌に連載される、すでに人気が出た物語の原作者というものは、その時代の読者層をいかに感動させる物語展開にするかにこそ、神経をすり減らしているものであることはいうまでもないでしょうから)

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