2008年9月26日 (金)

面接中、クライエントさんは、カウンセラーに対して「感情移入的理解」を向け続けている!!

 このタイトルだけで、

............え? あ? ん?

    何と言う人を食ったことを!!

と、一瞬の「沈黙」を経て、思えた人は、カウンセリングの基本的な勉強をなさった皆様です(^^)

 一般の皆様向けに説明しますと、日本でカウンセラー教育の基礎の基礎として今でも、多くの場合、大事にされている(はずな)のが、来談者中心療法の祖、カール・ロジャーズ(我がフォーカシングのジェンドリンの「共同研究者」です)が言い出した、

  「セラピーの三要件」

と呼ばれるものです。


*******


その、ロジャーズのいう、「セラピーの三要件」とは、

.
1.クライエントさんへの「無条件の肯定的関心(unconditional positive regard)」

2.クライエントさんへの「感情移入的(empathic)理解」

3.カウンセラー自身の「純粋性(genuinness)・自己一致(self congruence)」

のことです。

******

 さて、今、ここで問題にしようとしているのは、この3要件のうち、2番目の、

       「感情移入的(共感的)理解」

ですね。

 ロジャーズは、これについて次のように注釈しています。

「ここでいう『感情移入的』理解というのは、あたかも(as if)その人(=クライエントさん)であるかのように、という状態を失わず、(いわばクライエントさんの感情に巻き込まれることなく)、クライエントさんのパーソナルな世界を、セラピストが感じようとすることである」。

 これを、フォーカシング指向心理療法ふうにいいかえれば、

「クライエントさんが、自分で内側に注意を向ければ感じているであろう漠然とした曖昧な感覚(=フェルトセンス)は『どんな感覚』なのかそれ自体を、カウンセラーは『擬似的に』自分の身体で感じてみようとするようなつもりで傾聴すること。しかし、それを、面接のその場でカウンセラー「個人が」感じているフェルトセンスと混同せず『感じ分ける』こともできなばならない」

となるかと思います。

 (これだけで、

「あ、勉強になりました。フォーカシングとロジャーズ派カウンセリングの接点は「そこ」なんだな、とはじめて気づきました」

と感じていただける臨床系の学生さんや、勉強を深めておられる現場カウンセラーの皆様がおられると、私は光栄に思います。)

 ちなみにここまでのことは、このブログで、「受容・共感と自己一致の相克シリーズ」という連作で、もっとかみくだいた言葉で書いてみてますので、その第1回はここからです。ご一読ください。

******

さて、ここでもう一度、今回の記事のタイトルに戻りましょう。

面接中、クライエントさんは、カウンセラーに対して「感情移入的理解」を向け続けている

というのが、専門家が読んだら一瞬ぎょっとする「逆説」的問題提起だということは、これで、ある程度幅広い層の皆様にも理解していただけるかもしれません。

でも、よーく考えてみてくださいね。

    面接の、少なくとも初期2,3回の段階で、
    「相手に気を使い」
    「相手にどう思われているのかに注意を向けている」
    のは、
    カウンセラーと、クライエントさんとの、
    どちらが強いでしょう??

 おそらく駆け出しのカウンセラーの頃を別にすれば、たいていの場合、

    クライエントさんの方が、
    カウンセラーに『ほんとは』どう思われているか

に、戦々恐々としていて、当たり前だと思いませんか?

 自分が本当は話したい悩みのことすら

   「ここまで話したら、
   さすがにカウンセラーさんにでも軽蔑されるかなあ」

 とか、迷いつつ言葉を選んでいるでしょうし、

     「あ、私の長年の『秘密』口にしたとたんに、
     カウンセラーの先生の顔の表情が一瞬硬くなった。
     やっぱり、こういう秘密を持つ私を、
     カウンセラーさんは心の中で軽蔑し、
     嫌悪を感じた
んだろうな。
     そのあとは、
     いかにもにこやかに話を聞いてくれたけれども、
     あの一瞬で、
     もう、私は取り返しのつかないミスをした。
     次の面接、何か理由をつけて断ってしまおうか」

こうして、その人は別のカウンセラーを捜し歩く日々をくりかえしていましたとさ。

.........などという例、多いと思います。

 そういうふうに「人の顔色」を気にしすぎ、すぐに嫌われた、あるいは「傷つけた」と思いこんでしまうのが、そのクライエントさんの「病理(嫌な言葉ですが)」といえばそれまででしょう。

 でも、そういう「被害念慮的な対人恐怖」を何とかしたいから、そのクライエントさんはカウンセリングの扉をたたいたはずです!!

*****

  面接のさなかに、

「実は、先生は私のことを心の底では馬鹿にしているとずっとこれまで思って来たんです」

「前回、私は少し見栄を張って、『少し元気になった』と言ってしまったんです。私の中の、先生に褒めてもらいたい気持ちがそれを言わせたんです。だから面接から家に戻って、すごく落ちこみました。先生は、きっと、この前の私が、そうやって『無理して』元気なふりしていたの、実はその場で見抜いておられたようにも感じられてきて、また落ち込んで以前と同じに逆戻りした私をみて、『やっぱり無理してたんだね。仕方ないな。』といわれそうで、ほんとは今日、ここへくるのが怖かったんですよ」

..........みたいなことまではっきり言い出してくれたら、実は継続的カウンセリングとしては「第3クォーター」の深さまで進んで生じることが多いでしょう。

 私は、こうしたことを語りはじめてくれたクライエントさんに、ある厳粛な畏敬と、感謝の念すら感じることがあります。

******

  とにかく、敢えて多くのカウンセラーのみなさまにお勧めします。

     日頃の面接の中で、
     カウンセラーとしての自分の方が、
     クライエントさんに「気を使わせ」続けて
     いないかどうか?

....と、振り返ってみることを。

 これだけで、「転移」「逆転移」とかの概念の「頭での」お勉強より、クライエントさんとの「関係性」の問題の本質的な核心に一気に気がつけるかもしれませんよ。

******

Esprit410hyoushi
 なお、今回述べた、

「面接の最中、クライエントさんもカウンセラーに刻々と『感情移入』している」

という問題について私が論じた初出は、

現代のエスプリ 410 「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一・阿世賀浩一郎 編 )

所収の、拙論、

「クライエントの体験過程を抱える『容れもの』として機能する技法の試み」

にあります。

 でも、今回の「二番箭じ」の方が、5歳経験を重ねた分だけ、問題の核心に要領よく迫れているかもしれません。

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クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと

さて、ここから延々続いてきている、「受容・共感と自己一致の相克」シリーズ、前回からの続きです。

*******

前回、クライエントさんに「共感しようとがんばる『自分』」と「共感しようとしても感じられる、違和感や苛立ちなど、クライエントさんに対して生じてくるnegativeともいえる感情を抱く『もう一人の自分』の両方を、カウンセラーが、自分の中でどちらも「俯瞰して」眺めて、「対象化」し、

「どちらの気持ちも自然だよなあ、『共感』できる」

と静かに自己受容、自己『共感』して見つめる第3の視点を確保できるだけでも、カウンセラーの中の葛藤は静まり、それこそまさにロジャーズの言う「自己一致」そのものなのではないかと述べ、

そういうカウンセラーの自己一致の達成は、カウンセラーが何も言語化しなくても、カウンセラーの非言語的なメッセージや態度が、2人の「場の雰囲気」を通して「空気伝染」し、数十秒から2,3分の沈黙の後に、クライエントさんもそれまで自分を縛っていた「何か」ほどけ出して、ほとんど無意識のうちに、本人自身それまであまり重大と考えていなかった、一見話が脇道にそれるような形で、むしろカウンセラーがクライエントさんに共感を深める上で結果的に決定的ともいえることを語り始める中で、二人の絆が深まる糸口が見つかることが実は多いということを書きました。

(これくらい「前回のあらすじ」をここで書いておかないと、ちょっと時間が空きましたものね)


******

さて、このことの応用形として、カウンセラーとしては「中級篇」かもしれないことを次に書くと約束していました。

「中級篇」というのは、ここまで私が書いてきたことを全く自然なものとして面接現場でできるようになる前に、以下のことにチャレンジすると、一見似たようなことができたかに見えて。実はクライエントさんにはまだ早すぎる「勇み足」となり、弊害がでることもあるからです。

「『害がない』ことこそが一番の治療である」

確か中井久夫先生神田橋條治先生が繰り返されてきた「逆説的」名言です。

あまり新しい技法の活用への「色気」に乗らないことです

私の中には、実は、この「色気」に屈しようとしている時の自分への厳しい「嗅覚」があります。

.......ということはその「色気」に屈して、痛い思いをしたことが私自身何度となく重ねてきたからこそ成立した「嫌悪条件づけ」のようなものが出来上がっているに過ぎないということなんですが(^^;)。

逆に、

「おい、ここでそんなことクライエントさんに言って大丈夫かよ!!」

と私の内なる声(内なる「批評家(critic)」とフォーカシングの世界では言います)がどれだけかびすましく、一見合理的な理由付けで引きとめようと、私のはるか上空から、

進め!

絶対命令が聞き取れたら、「御心のままに」一気に突っ走る、そしてそういう時はなぜか失敗しない、「ジャンヌダルク」こういちろうなんですが(^^;)

(ミラ・ジョヴォヴィッチ主演、リュック・ベッソン監督の「この」映画は、カウンセラー、特に精神分析系の人にはお勧め!!)


*****


などと余計な薀蓄はこれくらいにして、その「中級篇」の具体とは?

クライエントさんに共感できない自分を「もう一人の自分」として「内なる<第3の視点>から」、静かに「自己共感」するところまでは同じです。

次に、そこで感じている自分のクライエントさんへの「共感できなさ」のモヤモヤした感じに、感覚的にぴったりの手短なことばをじっくり捜します。

「え? それって、面接の最中に、カウンセラー自身が自分の内面にフォーカシングはじめちゃうわけ?」

そういうことになりますが、フォーカシングを一人フォーカシングが自分の現実生活に役立つぐらいにまで身につければ、あなたも必ずできるようになります!!

(クライエントさんとの話が沈黙に入った瞬間でもいいですが、慣れてくると、クライエントさんの話を聴き、伝え返しをすることをしながら「マルチタスクで」このことをできるようにもなります)


例えば、その結果カウンセラーの内面に浮かび上がってきたぴったりの言葉が

「いらいらする」

だったとしましょうかね。

カウンセラーも、クライエントさんの発言に「いらいらする」ことがあるのだ、とここではっきり書いてしまうことそのものに反感に近いものすら感じる方が、同業者の中にもあるかもしれません。しかし、私は、いわゆる「カウンセラー的な」、やさしく、美しい、達観して、人の心のことなら何でもわかっているような言葉を書き連ねるあり方そのものが大きらいなもので。むしろ「自分を含めて、人の<心>とはそんなに容易にわかりえない"something"だからこそ、生きた生身のひとりひとりの人間に宿る、尊重に値するものと思っています。つまり「わからない」「共感できない」「理解できない」ことを自分の中で認めるところから、はじめて、自分や他者の<心>に寄り添い、交流する糸口が生まれるのです。)


さて、

「いらいら」しながら話を聴いているカウンセラーとしての私がそこにいる。

ある意味では、クライエントさんに「いらいら『させられて』いる」と感じている私がいる。

その「いらいら」をクライエントさんのせいにする(attribute)形で決め付けるのはよくないのはいうまでもあるまい。

「この人、やっぱり『ボーダー』ね。こうやって治療者を巻き込もうとする」

・・・・・なーんて内側で連想する「気休め」はじめるカウンセラーなんて最悪ですね。

その瞬間に、上っ面はどんなに受容的でも、カウンセラーである「あなた」の体が発散する「気」が、クライエントさんに「見捨てられ体験」をひきおこしはじめていたりして(などと、少し「中級篇の」皮肉^^;)

****


1.しかし、「この」クライエントさんが、「私」をいらいら『させる』形でしか、今は私に伝える術(すべ)をもたないのだとしたら?


そういう発想をするだけで、また少し、カウンセラーである私の中に、少しの「心の余裕」が増加します。

******

2.次に、

ひょっとしたら、「この」クライエントさんは、

家族や親しい友人やそれまでのカウンセラーとも

私が今、「こんなふうに」感じているような形で、

相手を『いらいら』させる結果、関係が悪化するという

「堂々巡り」

をしてきたのではないか、


仮定して、感じてみる。


これでまた、カウンセラーの中に、クライエントさんへのむしろ「同情心」すら感じる余裕が、さらにできます。


*****


3.更に、


「クライエントさんが、こんな不器用なやり方で、まわりに伝えたいのに、結局果たせないで来た<思い>って、何だろう?」

と、クライエントさんの「身になった」感情移入的フォーカシングを虚心にしてみる。

例えば、


『わがまま』?


........うーん、何か違う。


『頑(かたく)な』?


........お! かなりいい線行ってるけど、あと一息欲しいナア.........


『頑固』


........うん、こっちの方がいい!!

たいてい、カウンセラーの中でほんとうにしっくりくる言葉は、こうした、2,3回の試行錯誤の過程で出て来るんですよね(フォーカシング一般がそうですけど)。

次に、そういう試行錯誤のプロセスで「棄却された」言葉すら活用する!!


*****


4.なぜ『わがまま』ではだめで、『頑固』だとOKなんだろう」

と、カウンセラーは再び自らのフェルトセンスに問いかける。


「..........『頑固』っていうと、何か、本人が自分の意志で、石のように動かない、っていうエネルギー溢れる「何か」が含まれている気がする。そういう含蓄は『わがまま』だけでは感じにくいような........」


実はこの「ぴったりの言葉を捜す過程で棄却した言葉(ここでは『わがまま』)を、最終的に選択した言葉(ここでは『頑固』)と比較する形で味わい、最終選択した言葉の固有の含蓄を更に深く見出す技法は、私もまだ既成のフォーカシングの技法書では読んだことがありません。

これを機会に『差分的照合』と命名し、著作権主張しておきますか! (c)阿世賀浩一郎

もっとも、この技法の先駆に当たることは、他ならぬ私自身が、13年も前の駆け出しの頃に「学会誌処女原著論文」でに書いているのですが。

(「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 人間性心理学研究  第9号 1992 研究業績目録参照)


******


5.こうした比較の中でさらに鮮明に浮かび上がった、この『頑固』という言葉ではじめてしっくりくる固有の感覚の質を、カウンセラー自身の身体に、そして面接現場の場の雰囲気に響かせるつもりで味わう。


......まあ、面接のやり取りを進めるただ中で(!)、カウンセラーが、こうしたことをマルチタスクで、あるいは沈黙の中でのショートフォーカシングとしてやっていたら、それは「場の雰囲気」として「空気伝染」して、そのころにはクライエントさんとのやりとりは、「どういうわけか」生産的なものに変化しているでしょう!!

『頑固』という言葉そのものは結局クライエントさんに語られないままなのです。


仮に言葉にするとしても、それは、ちょうどいいタイミングがくるまで、「クライエントさんに無理なく伝わる言い方」を更にフォーカシングして探して、暖めておきます。

それは例えば、

「あなたの話を聴いていたら、あなたの中に、どうしても守り抜きたい『何か』があって、それを、デン!と座って、必死にかかえて『守って』いるような気がしてきたんだけど」

という言い方になるかもしれません。


思わす、これを書いている「今」、ayuの、


> ガラクタを守り抜く腕は どんなに痛かったことだろう
> 何を犠牲にしてきたのだろう


と、

浜崎あゆみ/A BALLADS "TO BE"

の歌詞が思わず浮かびましたが、

私はこういう時、


「あなたayu知ってるかな」


といって、一節歌ったりするんです。

すると、思わす目頭を熱くし始めるクライエントさんも、時にはいます。


*******


以上、実はすべて、過去の経験からシミュレーションした、「架空の例」です。

そっくりそのまま「ああ、自分とのカウンセリングだ」と当てはまるクライエントさんはいないはず。

でも、自分とのカウンセリングも、「これに似た」形で進められていたのかな、と、思い返すクライエントさんは少なくないかもしれませんね。


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自分が相手に共感できて「いない」ことを「自己『共感』」すればいいのだ!!

さて、「受容と共感」と「自己一致」の相克シリーズ前回の続きです。

前回は、クライエントさんを受容できなくなっていくカウンセラーの内面を赤裸々に暴露しすぎて(^^;)世間一般の人へのカウンセラーが人格者であることへの幻想を打ち砕き、がっかりさせてしまったかもしれませんが、

カウンセラーは「聖人」ではありません!!

むしろ、普通の人がプロとしての職人芸を磨いたものなんです。

むしろ、その「職人芸」の実際に感心してもらえることを私は目指しています。


****


実は、前回書いたようなところまで、カウンセラーははっきり「自覚しないまま」、ただ、やみむもに、我を忘れてクライエントさんを受容しよう、しようとがんばっていることが多いんですね。

だから、このブログをお読みのカウンセラーの皆様も、私のコメディタッチのカウンセラーの内面描写を、むしろ爆笑しながら


「そうそう! そうなんだよな~」


と、それこそ「共感しながら」読んでくださったものと信じます(^^)。


*******


では、どうすればこのジレンマから抜け出せるか?

答えはある意味でシンブルなんですよ。


「カウンセラーとクライエントさんは、自分と別の人格を持った個人なんだから、相手の言うことにすべて共感できないのは当たり前だ


という前提に立つことです!!


ただ、普通の人と違うのは、そうやって「相手に共感できない自分」「対象化」して、「自分の中にもそういう『共感できない』部分が『いる』」ことを、共感を持って(爆)、静かに「自己受容」するスキルを磨ける、という点にあります。


「今私は、一方で、クライエントさんの気持ちに寄り添って理解しようとしている、そういう『私』の気持ちって、当然だよな、『共感』できる」

「でも、もう一方で、クライエントさんの言ってることに、むかつき始めている。そりゃ、前回に続いて、今度はどのように死にたいかまで詳しく話し始めるんだものな。『こっちが必死に心配しているのに、何だこいつは』といらだち始める、『もうひとりの私』がいて、これも当然だし、『共感』できる


この時点で、カウンセラーは、自分の気持ちに正直になれています。

つまり、「自己一致」できているんです!!


*****


不思議なもので、カウンセラーが、そうやって、自分の中の『二人の自分』の両方に共感できた時点で、カウンセラーの気持ちも楽になり、心にある種の余裕すら生まれます


「ま、あとしばらく、クライエントさんの言い分を聴いていると、共感の糸口となること、話してくれるかもな」


・・・・・・驚くべきことに、これはそれから「数十秒から数分のうちに」、現実になることが多いです!!

クライエントさんが、それまで話していなかった、予想外の話題を突然話し始め、それを聴いたら、以前より、クライエントさんの心境に、実際、「共感」しやすくなるのです。

面白いのは、クライエントさんの側には、そんな重要なことを話したという自覚はなく、「何となく」話題をそちらに向けたという自覚しか、少なくとも当初はないことです。

しかし、その「何となく」の「余裕」を、クライエントさんに生み出したのは、実は、さっきまで「受容できないものを受容しようと必死にがんばっていた」カウンセラー自身が、さっきのような「自己共感」の段取りを内面で進行させて、「余裕」を取り戻したことが、カウンセリングの「場の雰囲気」を通して、クライエントさんに「空気伝染」したからではないかと、私は考えています。

「空気伝染」というのは、半分ジョークですが(^^;)、人と人とは、非言語的な「気配」でコミュニケーションしている部分が、実は一般に思われているより大きいのではないかと思います。

早い話、カウンセラーが「強情なまでにがんばって」話を無理して聴いていたら、クライエントさんも「強情に言い募る」と思いませんか?

***

さて、次回は、このカウンセラーの「共感できない自分」の自己受容を、さらに積極的に「活用」して、面接を生産的にするコツのことを書きましょう。そこまでくると、カウンセラーとしては「中級編」の技能に属することですが。

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カウンセラーは、クライエントさんの話を「受容・共感」できない方向に、徐々に追い詰められていくことも多い

さて、カウンセリングにおける受容・共感についての入門編であった前回の続きなんですが。

受容・共感していくつもりで話を聞いていくと、カウンセラーであるあなたは、必ずといっていいほど、途中で、ある葛藤と壁にぶつかります。

クライエントさんが、あなたが受容も共感もしにくいことを話し始めるわけです。

例えば、やや極端な例で言えば、

「死にたくて、その方法を色々考えているんですよ」

「実は、私は同姓のほうを好きで、性転換手術を真剣に考えてお金を貯めています」


なんてその典型です。

そこまで行かなくても、

「大学を辞めてしまいたい。この大学の人たちってちゃらちゃらしている奴が多い。あんな連中ばかりじゃ友達もできない。授業も退屈で。やはり第一志望だった大学に入りなおそうかと、仮面浪人を考えています」


なんて話を聴いていたら、あなたの中に、思わず


「どこの大学だって似たようなものだよ」
「友達ができないのは、あなたの受け身な性格のせいもあるのでは?」
「まじめな学生や、いい先生とまだめぐり合えてないだけだよ」
「友達が大学でできなくったって、バイト先とかでいい友達にめぐり合えればいいじゃないか。実際私はそうだったし」
「辞めることで高い入学金や授業料、アパート代とかを払ってくれた実家の親に申し訳ないと思わないのかしら」



などなどという、いろんな思いがあなたの中を駆け巡り、それが、

「クライエントさんの言うことは、まずは『受容・共感』して聴いてあげないと」

という、カウンセラーであるあなたの中のドグマ(「カウンセラー教」の、神聖にして犯さざるべき「絶対的教義」)葛藤を起こし始めるかもしれません。

*****

こういう時、とりあえず無難な切り抜け方は、

カウンセラーとしても受容・共感しやすい切り口から、クライエントさんに更に詳しく話してもらう方向に促すことです。

「そんなに死にたくなるようにつらいんだ。そのつらさについてもっと話してくれる?」
「自分が男(女)であることへの違和感って、どういうあたりから感じ始めたの?」
「授業がつまらない、って、たとえばどんなふうに?」

こうやって、クライエントさんに事情や状況を更に詳しく話してもらうだけで、クライエントさんがそれまで語っていなかった、カウンセラーにとっても予想外の、受容・共感しやすいエピソードが語られ始めることも少なくありません。

*********

しかし。こうした「更に詳しく話を聴くこと」で、クライエントさんに共感しやすい接点が見つかる場合ばかりとは限りません。

聴けば聴くほど、いよいよ受容・共感「しにくい」話を繰り広げ始めるクライエントさんも沢山います!!

あるいは、前回の面接で、理解しあえる接点が見つかったと思ったら、次の面接ですべては振り出し、ということもあります。

例えば、今度は、自分がどのように死のうとしているかについての具体的な計画をいよいよ延々と具体的に話し始めるかもしれません。

カウンセラーとしてのあなたは、正直うんざりし、無力感すら感じながら、

それでも「負けてたまるか!」とばかりに、

(おいおい、あんたはクライエントさんと「勝ち負け」争ってるわけ?)>

「このクライエントさんを受容・共感してみせる!!

という使命感に燃え

表面上はニコッとした優しい顔で、

がんばって話を聴き続けるかもしれません(^^;)

あるいは、

「こういう『希死年慮』が強いクライエントさんは精神医療との連携を考えるべきである」

という方向に一気に考え出すかもしれません。

(半分皮肉なの、わかりますよね)

*******

なにか、こういうあけすけな次元で、カウンセラーの葛藤をリアルに書いた文献ってあまりない気がしてきました。

次回、請うご期待!!

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2008年9月25日 (木)

「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)

さて、前回の、カウンセリング場面で、クライエントさんを受容・共感することと、カウンセラー自身が「自己一致」していることをどうやって両立させていくかについて、私がカウンセリングの現場で用いている技法について具体的に説明していきます。


まずは、「共感的理解」についての、私なりの入門講座からスタートします。


*****


私は、「共感」ということは、一般に考えられているより、はるかに精緻な事柄と思っています。

これは、すでに"7.11 Asega Doctrine"のなかでも、その中の「プロ・カウンセラーの第3の条件」として書いていることにもつながるのですが、

例えば、恋人に振られて「傷ついて」いる人がいるとして、その人に「共感的理解」を示すとは、とういうことを指しますか?


1.同情深げに、ともかく相手の話を「うん、うん」と聴いてあげることでしょうか?


なるほど、自分の意見を差し挟まずに、まずは相手に話したいだけ話させてあげること、それは「受容的傾聴」の基本です。

現実の友人関係とかでは、相手の話途中でさえぎって自分の意見を述べたり、

「あたしの場合はね~」

......とかいう調子で、「自分の」失恋談義に「すり替えて」しまう(^^;)とかが普通です。


カウンセラーは、まずはそういう聴き方を「超える」ことができねば「存在意義」はありません。


ただ、できれば、一方的に、「うん、うん」というだけで延々黙って聴いているのではなく、

時々、「クライエントさんの身になって」、自分の解釈や意見を差し挟まずにクライエントさん自身が使ったキーワードはそのまま大事にしながら、要点だけでも「伝え返し」をして、カウンセラーの理解と、クライエントさんの伝えたいことにズレが出てきていないかを照合することは大事です。

今、「クライエントさんが使ったキーワードはそのまま大事にしながら」と書きました。

例えば、クライエントさんが

「悔しくて」

という言葉を使ったところについて、カウンセラーが不用意に、

「腹が立って」

置き換えてしまうのは、実質的には無害なことも多いですが、時には、それだけでも、いつのまにかクライエントさんとの間に気持ちの溝ができてしまうこともあります。

ただし、こういう「言い換え」の微妙な危うさ、カウンセラーが体験的な実感として理解していないうちに、ただ「相手の言ったことをそのまま『鸚鵡返し』する」ようなことをドグマのようにカウンセラーの卵に教え込むのは、クライエントさんにカウンセラーが、非人間的な、ただの「鸚鵡返しロボット」のように感じさせてしまい、話を「聴いてもらっている」気がしない状態に陥らせる危険があります。

カウンセラーは、クライエントさんの気持ちに「触れようとする」という基本姿勢を失ってはならず、言葉の上での「理解」や「言葉の返し方」の技術講座になっては意味がありませんから。

この辺の勘所をつかむには、カウンセラーがフォーカシングをフォーカサーとして学ぶ経験を積み上げると、その「塩梅(あんばい)」が体験的に身につきます。

一言で言えば、カウンセラーがクライエントさんに同じ言葉で伝え返しをするのは、クライエントさんにその言い方で自分の実感にぴったりか照合してもらうためだけではなくてカウンセラー自身が、自分の身体にそのクライエントさんの言葉を発声しながら「響かせる」ことによって、クライエントさんへの「感情移入的なフェルトセンス」カウンセラーの中に「擬似的に」喚起するための手助けである、と私は考えています。

このことはたしかすでに治療者にとってのフォーカシング「現代のエスプリ 治療者にとってのフォーカシング」のどこかで私は書きました。

*****


2.「共感的理解」とは、クライエントさんの失恋体験とカウンセラー自身の失恋体験と重ね合わせて、その傷つきを共有することでしょうか?

カウンセラーとクライエントさんの心は、パソコン同士がネットワークでつながっているようにつながっているわけではありませんので(^^;)、クライエントさんの感じている「傷つき」を、カウンセラーに「転送」するわけにはいきませんよね。

その意味では、カウンセラーは、クライエントさんの話の内容や話しぶり、声の調子、身体言語などから受け止められるものを、自分の想像力と感受性を総動員して、自分の過去の類似の体験の時に自分がどんな「感じ」になったかとも重ね合わせながら「擬似的に」追体験しようとするしかありません。

場合によっては、クライエントさんが振られるまでの、具体的なエピソードとか、その時その時の思いを、さらに詳しく話しをしてもらうように、クライエントさんに促さないと、カウンセラーは、十分なリアリティと臨場感のある形で、クライエントさんの失恋の傷つきを「追体験」して「感じ取ろうとする」ことはできないかもしれません。


*****


しかし、忘れないでくださいね。

どこまで行っても、カウンセラーの「失恋体験」と、クライエントさんの「失恋体験」は、別のものだということ。

 今や日本を代表する精神分析の大家となった、九州大学の北山修先生が、かつてはフォーク/歌謡曲の世界で大作詞家であったことをご存知の方は少なくないかもしれません。

 先生の著書に「幻滅論」という著作があります。

 先生は、この著作の中で、浮世絵に多い、母と子が同じ月を見上げ、子が月を指差しているている構図に注目し、「共同注視」という概念を提唱されています。

 そして、(まさに北山先生の特権、独壇場と申し上げる島ありませんが、自作の杉田二郎&因幡晃 - SHAKE THE MUSIC LIVE ~杉田二郎&因幡晃~ - あの素晴しい愛をもう一度「あの素晴しい愛をもう一度」の歌詞を引用されています。つまり、


あの時 同じ花を見て 美しいといった二人の


感じていた「美しさ」すら、実は「同じ」体験ではないのかもしれない。

それはひとつの「共同幻想」、「錯覚(illusion)」なのであるが、人間にとって大事なものであると。


恋する二人においてですらそうなのです。

まして、カウンセラーであるあなたの「花(恋愛体験)」とその人の「花(恋愛体験)」は別々のものでしょう?

でも、カウンセラーがそのことを謙虚にわきまえながら、なおも、クライエントさんの失恋体験の話を共感的に傾聴し続けている時、クライエントさんの間に、ある独特の「絆」が生まれ始めることが多いのは確かです。

******

次回は、この、受容と・共感的理解が、できなくなって行く方向に追い詰められていく、現場カウンセラーの赤裸々な現実を暴露しましょう。

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相談に来た方の話を「受容しよう」と「がんばる」ばかりのカウンセラー

特に、カール・ロジャーズのクライエント中心療法的なカウンセリングの教育を受けたカウンセラーの陥りがちなジレンマは、

クライエントさんを受容しよう、しようと「がんばる」

ばかりとなり、

クライエントさんを「受容できない」カウンセラーとしての自分を、まだ「未熟だ」と責め苛(さいな)む悪循環にはまりやすいことです。

これが、もともと、他の人の顔色を伺い、本音を出せず、自分の気持ちを押し殺して順応する傾向が強かった人がカウンセラー修行を始めた場合、どうにもならない行き詰まりを生み出すことがあります。


私は、


カウンセラーの、クライエントさんへの共感的理解とは、『努力』して『達成』するものではなく、

カウンセラー自身が、

ありのままの自分=ありのままの「世界」

に開かれていれば、『向こうから自然とやって来る』ものではないか


と感じ始めています。


*******


このように言うと、少しカウンセリングを勉強した人だと、


受容、共感だけではなくて、カウンセラーが「自己一致」していること、

つまり、自分の経験と感情に開かれた、自分に正直でいられることと両立しないとならない、

とは、ロジャーズが「治療の3要件」として述べている。

そのことでしょ?」


とお感じかもしれません。


なるほど、私は、これまで言い習わされてきた言い方で言うところの、

「カウンセラーの自己一致」

「共感」「受容」のジレンマという問題について述べているつもりです。


では、現実のカウンセリング場面で、カウンセラーとしての「あなたにとって」、自己一致する、とは、どのようなことですか?


例えば、クライエントさんの語ることがあなたにとって不快なときに、


「あなたのそんな話を聴いていると嫌な気分になります」


と告げることですか?

それをやったら、今度は「受容」の方の条件が満たされなくなりますよね?


「自己開示」

という言葉が最近安易に使われる傾向がある気がします。

私がこの言葉がうさんくさくて大嫌いだ、ただの美辞麗句に過ぎないと感じているんですね。


ひとは「そこにーいる」というだけで、すでに自分の存在を世界に曝(さら)しています。

これは以前、心理臨床学会での青山学院大学の北村文昭先生「カウンセリングにおける身体性」と題するご発表で、アフォーダンスと関連付けて述べられたことを会場で聞かせていただいた私が報告した時にも、北村先生自身のご発言からを引用したとおり、

「『非』言語的コミュニケーション」とは、ほんとうは「顛倒した」言い方であり、「身体性を持ってそこに存在し続けている」カウンセラーとクライエントさんが、まず先に「そこに-共にーある」

ここからは私の感想も入りますが、カウンセラーとクライエントさんの「言語的相互作用」なんて、その身体性の上に「乗っかってる」やり取りに過ぎないわけですね。

敏感なクライエントさんは、カウンセラーの語る「意味内容」と、声の調子やそぶり、漂わせる雰囲気が「一致していない」ことを、何となく察知しているものです

もとより、クライエントさんによっては、すごい、歪曲された形でそれを「意味づけ、カウンセラーの『本心』を決め付けてくる」ことも多いのですが、それはクライエントさんの生育暦や素質のせいばかりではなく、その火種は、必ずカウンセラー自身も、たいてい「見え透いた、形だけの、薄っぺらな受容」という形で蒔いています。

私は、クライエントさんが、えらく根の深い、ある種のボーダーライン性や妄想性を持つ場合は、「薄っぺらの」受容、あるいは「無理を重ねた」受容しかしなかった「歴代」カウンセラー、精神科医によって、「引き出され」、「増悪された」繰り返しの結果の可能性があると思います。

だから、私は、みゆきの中島みゆき/Singles 2000「空と君のあいだに」を引き合いに出して、


> 君の心がわかると、たやすく誓える男(=カウンセラー)に
> なぜ女(=クライエントさん)はついていくのだろう、そして泣くのだろう

といいたくなるわけです。


*****


では、私の考える、実際の臨床現場での、真の「受容・共感」と「自己一致」との共存とは何か?

それについては、続編で論じます。


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