2008年9月11日 (木)

クライエントさんからの注文や不信の念の表明といかに対峙できるか

 九州・鹿児島の伊敷病院でずっと勤務されつつ、精神神経科現場臨床に密着した実践的な「面接のコツ」に関する講演や著作で、精神科医・診療内科医にとどまらず、全国のカウンセラーから篤く崇敬を集めているのが、神田橋條治先生です。

 この先生ががおっしゃった、「自閉する能力」という概念があります。

 これは更に普遍化されて、

 「症状」という言い方をする時に、「.....する能力」と読み替えてみたら?

と提言されています。

「引き籠もり」症状ではなくて、「引き籠もる」能力
「人目が気になる」症状ではなくて、「人目を気にする」能力、
「すぐに風俗に通う」問題行動ではなくて、「風俗に通える」能力、
「人にお節介を焼くことで、その相手を自分の人形のように依存させる」能力
「ずる休みをする」問題行動ではなくて、「する休みできる」能力
「解離」症状ではなくて「解離できる」能力
「鬱」症状ではなくて、鬱に陥れる「能力」
「本当の自分を出せない」悩みではなくて、「本当の自分を出さずに済ませる」能力

......と言った具合ですね。

(これだけ並べると、むしろ少なからず多くの人に確かにある程度ある、「適応」能力にすら見えてくるから不思議です)


******


 これは決して単なるポジティヴ・シンキングなどではない

 そのようにすることで、
 クライエントさんは、かろうじてここまでやって来れたのであり、

 もしそういう能力がなければ、
 もっと悪い状態に陥って「いた」かもしれない、

......と、考える余裕を治療者は持て、ということだと私は理解しています。


*******


 この「.....する能力」の応用問題として、神田橋先生の直弟子である、長年福岡の産業医科大学で勤務された、増井武士先生と、その増井先生の兄弟分である、九州大学の田嶌誠一先生が共に強調する事柄に、

「拒否能力」

更に、

「注文をつける能力」

という、現場臨床的に見て画期的な概念があります。

鬱病圏にせよ、統合失調症圏にせよ、神経症圏にせよ、日常の中で、あるいは職場や親などの「重要な他者」との関わりにおいて、こうした能力に乏しい方が多いことを実感し得る現場セラピストは多いからです。

 受容、共感とよく言われますけど、殊に日本人の場合、受容されればされるほど、むしろカウンセラーにほんとうの思いを言えなくなるクライエントさんは、ありがちです。

 わかりやすく言えば、ずっと「人に嫌われないいい子」であろうとしてきた人は、カウンセラーの前でもそれを当然繰り返します

 カウンセラーを信頼すればするほど、


「嫌われたらどうしよう」症状、

もとい、

「嫌われたらどうしよう」と思える能力


が発動するのですね。

 ......そのことに気づかないままでいるカウンセラーなど滅多にいないと信じますが(^^)


 あるいは、人に対する(あるいは、それまでのカウンセラーに対する)不信感が強いあまり、最初からカウンセラーをいろいろ試みるクライエントさんがいるのも、「援助を求めたい相手に、安易に気を許さない防衛能力」といえるかと思います。


*****


 いずれにしても、

それまであまり苦情やカウンセリングの進め方について
違和感や苦情を言わなかったクライエントさんが、
敢えてそれを口にした時

あるいは、

これまで面接の中で取り扱わなかったテーマを
敢えて取り上げたいと自分から申し出る時
には、
それ相応の覚悟を決めていたり、
勇気をふるっていることが多い。

 少なくとも、そのカウンセラーを信じたいという気持ちと不信感がギリギリのところでせめぎ合っていることが多い。

 この時のカウンセラー側の態度如何で、より面接が深まるか、それとも堂々巡りしたり、突如中断したりするかの分岐点になることが多いのは確かです。

 見え透いた「注文歓迎」の姿勢や、「お茶を濁す」態度、あるいは議論のすり替えなどは、容易にクライエントさんに見破られます。


*****


 以前にも書きましたが、こうしたことへの感受性は、少なからぬ場合、カウンセラー自身のカウンセリングの師匠(たとえばスーパーバイザーに)対して感じた違和感を自分でどのように見つめ、対処してきたのかが如実に反映します。

 得てして、カウンセラーは、自分のカウンセリングの師匠の嫌な部分だけを無自覚に取り入れるという「反復強迫(やりたくもないし、用心しているのに、実はそのことをいつのまにか繰り返してしまうこと)」を持っています。

 これは、多くの一般の人が、親を反面教師にしようと懸命に努めてきたのに、いつの間にか、自分の子供が自分のことを、かつての自分と同じように嫌っている事実に直面してショックを受けるのと全く同じ次元でのことなのです。

 そういう意味では、そういうカウンセラーになってしまった責任は、実は師匠との関係性の質に大きく影響される(どちらが悪いとは言えませんが)。

 ただ、師匠に全責任はないにしても、そういう「スーパービジョン」や「教育カウンセリング」経験、あるいは師匠が弟子に研究室の日常の中でどう接したかという「トラウマ」を背負うあまりに、クライエントさんとの関係で苦しみ続け、堂々巡りを続けるカウンセラーがこの世にたくさんいることも確かなようです。

 だから、カウンセラーにどうしても違和感があり、どう伝えても通じない壁があると感じたら、そのカウンセラーは、よほどたちの悪い「師匠」や「先輩」に負わされたトラウマに無自覚なままだ、と発想しているのも、いいかもしれません(^^;)


*****


 何より、自戒を込めて。

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2008年9月 4日 (木)

カウンセラーとクライエントの「こころ」が共同で生み出した「物語」への尊厳

 私のカウンセリングルームでの「個人情報のお取り扱いについて」に関連した、カウンセリングの専門家に向けての問題提起です。

7.甲(カウンセラー)は、学会発表や著作等に、乙(来談者)との相談内容を具体的に事例として記述する場合には、乙の許可を受けて公表します。その場合も、乙との相談が終結して原則として満 1 年を経過した事例についてのみ公表します。乙 には事前に発表内容について閲覧し、甲に修正を求める権利があります。公表の際、聴衆や読者に乙という特定の人物が推測・同定できない水準まで、個人情報の一部を改変・省略して公表するように努めます。

 こちらの方は、すでに臨床心理士の共通理解として定着したものです。

 私も異論はありません。個人情報保護の観点からみても、必要なことですし。

 たいていのカウンセラーが実践しているのは、「発表についてクライエントさんの承諾をいただく」という水準のことかもしれません。

 しかし、特に日本心理臨床学会大会の多くの個人口頭事例発表に参加して気がついたのは、近年、クライエントさんに、発表草稿全体を文書の形で全文クライエントさんに読んでいただき、いただいた感想まで含めて発表なさるカウンセラーの皆さんが徐々に増えて来ている気がするということです。

 私はこうした発表者の姿勢に心から敬服しています。


*****


 一方、クライエントさん本人に「発表すること」の許諾は求めても「発表内容」全体までクライエントさんに開陳することには踏み切れないでおられるカウンセラーの皆様は、少なくないかと思います。

 
*****


 個人情報保護の観点ではなく、純粋に臨床的観点から考えた場合、「発表することをクライエントさんに許諾していただく」ということそのものが、治療的に悪影響を与えないか、という不安を、多くのカウンセラーは一度は抱くと思います。 クライエントさんの症状が再び悪化したらどうしよう?....などと。

 確かにこれは大変デリケートな問題なのですが、少なくとも、「発表の草稿をお読みいただくこともできます」と選択肢を提示したり、「私としては、むしろ一度お読みいただきたいのです。よろしければ、感想やご意見、間違いの指摘などをいただきたいのです」と、カウンセラーの側から提案することは、フランクになされていいのではないかと感じます。

 カウンセラーの方によっては、むしろ、これを「フォローアップ面接」のいい機会と受け止めておられる方もあるかもしれません。

 もちろん、こうした、発表についてのクライエントさんとの話し合いの中で、クライエントさんが発表に難色を示した場合には、どれだけ発表したくてもおやめになるカウンセラーの方が多いと思います。

 特に「成功事例」と考えるものを発表する場合、そこには、カウンセラーの中にある「評価を受けたい欲求」という厄介なものが介入していることも少なくないかもしれません。しかし、それが発表者の「記憶そのもの」を変容させる可能性は,確かにあると思います。

 しかし、「失敗事例」「中断事例」とカウンセラーご自身が考えているものを敢えて学会で発表したり、論文で書こうとされているカウンセラーも増えて来ているように思います。こうしたことは、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、こうした事例で的確な考察がなされているもの、あるいは、座長やフロアの参加者と活発な議論がなされた上で、それも大事にして論文におまとめになることは、他の臨床家にとっても、大きな学びの場を提供して下さることとなり、敬意を表しています。


*****


 更に、事例研究発表を考える際に忘れてはならないのは、発表するために、記録に基づき再度事例を振り返り、まとめ直し、考察する過程そのものが、実は、カウンセラー自身による、面接過程の「再話」であり、「物語化」であるということです。

 私はこれを、必ずしも否定的な意味で述べているのではありません。そうした再検討の過程で、記録の中の、完全に忘れていたさりげないエピソードに気づくことをきっかけに、以前から頭の中で思っていたのとは別の形で事例全体が見えてくることは、実によくあることだからです(臨床家の皆さん、経験がありますよね?)

最近、「ナラティヴ(説話、あるいは「物語ること」)」という社会構成主義の観点からカウンセリング過程を検討することが盛んになっています。私は、実は未だにこの用語についてほんとうに納得できたと感じたことはない不勉強なものなので、以下の内容はこの概念の奥行きを理解していない浅学な者の引きつけ方かもしれませんが、ともかくナラティヴという概念も連想した、私個人の素朴な考えというぐらいのつもりで以下の内容をお読みいただければ感謝いたします。
 

*****

 
1. そもそも、クライエントさんが、カウンセラーに語り出す内容そのものが、すでに、クライエントさんが無意識のうちに創造したた「物語」だともいえます。

2. クライエントさんの周辺の人たちが、クライエントさんをどう見ているか、というのも、ひとつの「物語」です。

3. 更に「周囲の人たちが自分をどう見ているのか」というクライエントさんの「物語」という次元がある訳ですね。

4. カウンセラーがクライエントさんの話をどのように理解するかも「物語化」の過程です。

5. カウンセラーにどのように理解されているのか、というのも、クライエントさんの「物語」です。

6. そして、こうしたこと全体が複雑に相互作用している多元的なトポス(場)として、治療場面は存在します。


 いずれにしても、「事例発表」は、質のよい事例発表ですら、クライエントさんが聴いたらびっくりたまげかねないような「カウンセラーの物語」になっている可能性はたいへん高い。これは、カウンセラーが誠実であろうとしているか、などと言った次元でなく、生身の人間ゆえの限界でしょう。

 現実には、事例発表の段階で、すでにそのカウンセラーを直接指導する先生や、スーパーバイザー、事例検討会に参加した他の参加者の紡ぎだす「物語」との相互作用が進んでいるわけで、それらをもとに学会発表された時点ではすでにもの凄い「物語化」が生じているわけですね。

 それを学会で口頭発表する際に、クライエントさんの感想も聞く。

 更に、学会発表の際の座長やコメンテーターの先生や、フロアからの発言。

 それに輪をかけて、論文を投稿した後の、査読の3人の匿名の委員の先生との文書によるやり取りの繰り返し。

 ......果たして、これらがほんとうに、カウンセラーの見地を「より真実に迫らせた」といえるかどうか????

 何しろ、ロジャーズ派や一部の家族療法を除いては、面接の過程の記録を、録音や録画の形で検証可能な状態にないのが普通です。仮にそれらが存在したとしても、リアルタイムで面接と同じ時間をかけて)再生し、それらを全検討者が検証するというのは非現実的であり過ぎます。どこかで「圧縮」が必要なのです。


*****


 だとすると、最低限どのラインで、「物語化の副作用」を抑止し、修正することでけじめをつけるか。

 私の答えは、面接過程の中で、折々、クライエントさんと、それまでの面接過程について小刻みに振り返り、クライエントさんがそれまで感じていたけどコトバにならなかった違和感などを、面接のなかで取り上げて互いに納得いくまで相互作用することを繰り返し、学会発表のための草稿をまとめる時点でその一応の総決算をしておくことだろうと思います。

 まずは、このことがカウンセラーとクライエントさんとの相互作用の中で、丁寧になされていること。


 敢えて言います。

1. カウンセリングの過程をどう受け止めるかは、究極的にはまずはクライエントさんの内心の自由であること。

2. 続いて言えば、カウンセリング過程の直接の当事者であるクライエントさんとカウンセラーの共有物であるということ。

3. もし、カウンセラーとスーパーバイザーや指導者との共通理解の方が、2.よりも長期にわたって優先するようになったら、もはや注意すべき状態ではないかということ(たとえ、いわゆる「現実吟味」が低下している重症精神障害や認知症や発達障害の場合ですら!!)。

4.時として、カウンセラーとクライエントさんの間のいわゆる「転移/逆転移」関係の中で、一度お互いに何らかの意味で「クレージーな」状態を経過するリスクを幸いうまく切り抜けられたので、活路が開けるということもままあることである。指導者やスーパーバイザーは、そうした可能性を一方で必要な時点で示唆することを忘れるべきではないが、クライエントさんとの相互作用のただ中で、両者が自発的に脱錯覚していく権利は保証されるのが望ましいのではないか。


******


 面接過程は、担当カウンセラーとクライエントさんの共同作品です。

 いかなる権威も、指導者も、二人の関係に、ある「尊厳」を感じ、「抱え」の姿勢で見守る、フィロバティックな姿勢を堅持してこそ、自律的な、責任感ある、経験を消化する力の高い、良き治療者は育つのだと思います。


*****


 私は、6年ほど前、福岡在住で、ウィニコット、ビオンをはじめとするイギリス対象関係論のもっとも誠実な日本での指導者であり、現場カウンセラーとしては、重度の摂食障害患者との入院治療で知られた、松木邦裕先生に、かつて、大会場での事例のコメンテーターをお願いするという、怖い者知らずなことをいたしました(カウンセリング関係者なら、これがいかに無謀か、ご想像できるかと)。

 結局、例のごとく、カミソリで痛みもなく斬られました(^^;)。

 先生の見解にすべて納得したわけではありません。

 しかし、先生の


 「クライエントさんを汚しちゃいけないよ」 


という言葉だけは深い印象に残っています。

 ......ここからの自由連想なのですが、


 「クライエントさんと、カウンセラーの関係を、汚しちゃいけない」 


とも言えるのではないか。


 .......日本中のカウンセラーの指導者の先生方に向けて。


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2008年9月 1日 (月)

スーパーバイザーとカウンセラーの関係は、カウンセラーとクライエントさんの関係の「写像」となる?

 ケーススーパービジョンを受けているカウンセラーであるあなたが、ケーススーパーバイザーである先輩カウンセラーに「気にいられたい」と思い、「本当はスーパーバイザーの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺しているのだとすれば、

1.あなたのクライエントさんは、カウンセラーであるあなたに「気にいられたい」という呪縛を抜けられず、「本当はカウンセラーであるあなたの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺している可能性が高いと思います。

 あるいは、

2.カウンセラーであるあなたは、クライエントさんに「気にいられたい」という呪縛を抜けられず、「本当はクライエントさんの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺している可能性が高いと思います。

*****

 スーパーバイザーの先生に、

「先生の言ったとおりにクライエントさんに接したら、事態は余計悪化してしまいました」

と不平を述べた時の、スーパーバイザーの先生の反応に注意して下さい。

A:「それはあなたの言い方(やり方)が悪かったんだ」

とかいうふうにして、更にカウンセラーであるあなたのやり方を責めてくるか。


それとも、

B:「そうか。きっと、私たち二人は、クライエントさんの言ったことについて、まだまだ検討不足だったのだろう。こういう時、私たち二人が二人ともまだ『見落として』いることがあることが多いと思う。
 あなたがまだここで語ってくれていない事柄の中に、重要な鍵があるのかもしれない。
 これはあなたを責めているのではないよ。私(スーパーバイザー)がある仮説や感想を述べたものだから、その後、あなたが自然と口にしたかもしれないことを私が結果的に話せなくしたのかもしれないからね」

というのに近い反応をしてくれるか。

 後者のタイプのスーパーバイザーに、若きカウンセラーの皆様が巡り会えることを。

 以上、自戒を込めて。

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私の個人ケーススーパービジョン ~実践編~

 さて、ケーススーパービジョン論、後編。

 これまで私が自分のカウンセリングルームでやってきた、実際の個人ケーススーパービジョン(ケーススーパーバイズ)の手法を公開してしまう、ということをこれからやってみます。

*****

 幸いにして、というか、私にスーパービジョンを求めにこられた方は、若い方が多く、現場でのカウンセリングのケース量(担当クライエント数)もまだそんなに多くない方が、多いです。そして、特定のケーズについて、せいぜい数回の面接の展開について助言を求められることが多い。

 そこで、ここでは、そういう若いなりたてカウンセラーへの、クライエントさんとの面接回数がまだ少ない場合を前提に書いてみましょう。

 ケースたくさんになると、ケーススーパービジョンや事例検討会のための、面接記録のまとめなおしそのものが、忙しい中、膨大な手間と労力がかかる作業になってしまうんですよね。

 私はできればその種の「ケース提出者」」になることはもうあまりやりたくないです(^^;)。

 でも、まだ持ちケースが少ないうちに、特定の事例について細かくまとめなおし、検討する機会を持つことはたいへんな勉強になります。

*****

 私は、基本的にはスーパーバイジー(助言を求めに来たカウンセラーさん)のニーズを伺い、それに沿った進め方を柔軟にとるつもりです、何なら、ケース記録のまとめなしで、口頭で、気になるケースについて思いつくままにお話になってもかまいません。

 しかし、「スタイルは先生に任せます」と一任されたら、ケース記録を作って来れる方には、次のような要請をします。

1.クライエントさんの語ったことについてだけではなく、その時クライエントさんに、カウンセラーとしてのあなたがどう応答していたかも、要所要所でいいから、書いてきて欲しい。

 .......よく、事例検討会や、学会の事例発表とかで、クライエントさんが言ったことばかりを延々と書き連ねて来る方が居ます。

 あの~、カウンセラーとしての「あなた」は、「そこに-いた」わけでしょ? そして何らかの反応をしたわけでしょ? その結果としてクライエントさんの反応の展開がこうなった、という相互作用の過程全体を振り返る必要があると思うんですけど、といいたくなります。

 中には、

「私はここでこのクライエントの治療者への負の『転移』感情について『解釈』した」

とだけ書いてあったりする。

 あの~、その「転移感情の解釈」とやらを、どういうタイミングで、どういう言い方でしたんですか?

 私は、面接場面全体が彷彿としてリアルに伝わってくるような事例提示が、「どんな流派でも」必要だと思っています。

****

2. できれば、クライエントさんのやり取りのさなかにカウンセラー自身が感じていた漠然とした居心地や、色々な連想も、思い出せる範囲で書いてきてもらうと助かる。

(例えば、

「ここで私は、『しまった、動揺して、苦し紛れにこんなこと言ってる!』と感じていた」

とか、素朴な書き方で十分)

 つまり、面接をしながらのカウンセラーの内面の「実況中継」も書いてきてもらうと助かるのです。

 もちろん、それを訊いてみたくなったら、書いてきてもらってなくても、私は、スーパーバイズのその場で尋ねますが。

****

 次に、実際のスーパーバイズの場で、スーパーバイジーのカウンセラーさんと、私がどんなやり取りを進めているか、です。

1.適当な、あまり長くはならない区切りで止めて、

「ここまでの部分で、あなた自身、この面接の展開を、今、どう思う?」

 これに対して、例えば、

 「この部分で自分がこんな言い方をしなくてもよかったかなと思います」とスーパーバイジーさんが言うのなら、

 「じゃあ、どういう言い方をすれば、もっとよかったと思う?」

「うーん......」

とスーパーバイジーさんが考え込み、ためらいがちに自分なりのアイディアを見つけ、語りだすのを私はじっと待っています。

 私も、自分の中で、「どんなふうに対処するのがもっとよかったか」を探して、見つけようとしていくのですが、スーパーバイジーさんより先にそれを告げることはしません

 不思議ですが、こういう、沈黙しながら共に考え、感じてみる時間を、スーパーバイジーさんと共にすると、スーパーバイジーさんは、決して、というのに近い確率で、「どうにも頓珍漢な」改良案とかは言い出しません

 それどころか、私が自分で考えていたのとはまったく別のアングルから、私も感心するくらいの新鮮な改定案を提示してくることもすくなくありません。最悪でも、”2nd choice"というか、「次善」の策、あるいは「『害のない』」案を出してきます。

*****

3.次に、そのスーパーバイジーさんなりのアイデアとその長所を具体的に感想として述べ、それについて多少やり取りをした後で、まるでおまけのように、

「あなたのもいいけど、私なら、例えば、こう言葉を返したかも」

と、私の考えていた答えを伝えます。

 そして、

「でも、私のの方がいい、という意味ではない。面接にはカウンセラーその人のあり方に応じたいろんな対処があるし、どんなカウンセラーでも、一回の面接で、すべて最良の応答なんてできてないから」

とか、言い添えます。

*****

4.こんなことを、例えば、

「この部分で、クライエントさんはどんな気持ちでいたんだろうね?」

「この部分で、もっとよく対応できたと感じるのはどの部分?」

「この部分で、あなたが結構うまく対応できたと感じるとすれば、どの部分?」

「この部分では、何が面接の展開の鍵だったと思う?」

みたいなバリエーションで繰り返します。

****

 つまり、スーパーバイザーの私が「どうすればいいか」を教えるのではなく、可能な限り、スーパーバイジーのカウンセラーさん自身に、自分の面接を、丁寧に感じなおし、しかも自由な発想で振り返り、答えを見つけるように促すのです。

 私はこれを

  「スーパーバイジー・センタードのスーパービジョン」

と呼んでいます。

 このやり方は、そのカウンセラーの中に、早い段階から、

自分なりの「内なるスーパーバイザー」

つまり、「カウンセラーとしての自分」「クライエントさん」の面接の相互作用全体「俯瞰」し、冷静に、しかし「両者」に思いやりをもちながら(!)見守る、「第3の目」を育成するための訓練のつもりです。

 あと、現段階では詳しい説明までは控えますが、私なりのこのスーパービジョンのスタイルの成熟に、「藤嶽法」と、インタラクティヴ・フォーカシングの影響があることを書き添えさせていただきます。

*****

 最後に一言。若い臨床家に。

 何がクライエントさんのためになるのかを、自分自身で、試行錯誤しながらでいいから、クライエントさんと共に感じ、考えられるカウンセラーを目指してください。

 「大先生」や、指導教授や、スーパーバイザーに「気に入られる」かどうかを、クライエントさんを大事にすることより大事にしている段階からは、早く卒業して下さいね。

 そうでないと、あなたのクライエントさんは、カウンセラーである「あなた」に「気にいられ」たい、という「呪縛」を超えられず、ほんとうの、その人なりの成長を、あなたは援助できないでしょうから。

 さもないと、あなたはそのクライエントさんがカウンセラーになるためのモデルしか提供できないことになるでしょう。そんな「ネズミ講的構造」にはめさせることばかり多いカウンセラーにはならないでくださいね!!

 「先生のような、カウンセラーを目指すことにしました」

あまりに多くのクライエントさんに言わせ始めたら、あなたはプロじゃないんですよ。

 クライエントさんが、自分なりの人生を主体的に歩み出す自由を侵害しないようなカウンセリングをして下さい。

 それでもなお、「カウンセラーになりたい」なんて言い出すのは、100人に一人の変わり者でいいんですよ。

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2008年8月27日 (水)

「ケーススーパービジョン」とは何だろう 〜入門編〜

 まず、一般の皆様のために説明いたしましますと、「ケーススーパーバイズ(ケーススーパービジョン)」とは、カウンセラーが、自分のクライエントさんとのカウンセリングのついて助言と指導を受けるために、経験豊かなカウンセラーに、一定の時間と時刻を決めて、一定料金を払い、多くの場合、ある程度継続的・定期的に相談することをいいます。

 これに対して、カウンセラーが、自分のカウンセラーとしての資質を自己修養するために、自分の流派の先達をカウンセラーとして、実際に「本物の心理療法」を本気でみっちり継続的に受けること「教育カウンセリング〈教育分析)」といいます。


*****


 日本の心裡臨床家の世界では、この「スーパーバイズ」「教育カウンセリング」ということが混同なされていることがまだ少なくなく、クライエントさんとの関わり方について助言を受けに来たカウンセラーが、

「このクライエントさんとうまく行かないのは自分の性格にまだ未熟なところがあるためだ」

という「自虐的」モード(!)にはまりやすいのですが、


*****


 私は「スーパービジョン」「教育カウンセリング」は、本来、別人の先達に、切り離して受けるのが正しいという考え方に立っています。

 少し厳しいことを言うようですが、プロって、結果がすべて、「自分の性格がまだ至らないからだ」といくら弁解しても、言い訳にならないでしょうし。 


*****


 「スーパービジョン」とは、あくまでも、すでにプロの(あるいは、プロになりつつある)カウンセラーが、自分のカウンセリングの技量を磨くための場です

 その一方、「教育分析」は、本当に情け容赦なく自分が「クライエントになって」自分を見つめなおすことです。

 カウンセリング技量の向上と、カウンセラーの人格的成熟、この二つには、当然切り離しえない側面もあります。しかし、どちらが主で、どちらが「背後で暗黙のうちに結果的に伸びていくこと」なのかは、はっきり区別する「別の設定」がある方が生産的と思います。

 もっとも、教育カウンセラーとスーパーバイザーの考え方があまりに異質だと、若いカウンセラーの皆さんは混乱するだけになるとは思いますから、そのあたりは先輩や指導教授と話し合って決めるのがいいかもしれませんね。


******


「ケーススーパーバイズ」が先で、「教育カウンセリング」は後から始めるのでも、何も問題ないと思いますよ。「完璧に成熟した、性格的欠点のない人」なんてこの世に居ませんから、改めて自己修養の必要を感じた時点で「教育カウンセリング」を始めるのでも一向構わないと思います。

 付け加えますと、「スーパーバイズ」も、「教育カウンセリング」も、大学の自分の直接の指導教授には受けないのが、正しいあり方です。

社会的に直接の「上下関係」にあるもの同士では「本当の修行」になりません!! 時には別の流派の先達に教育分析やスーパーバイズを受ける方が効果的なこともあります。、


******


 さて、ケーススーパービジョンにおいて助言を求められるカウンセラーは「スーパーバイザー」と呼ばれます。

 実は、スーパーバイザーをするには、そのための特別な資格があるわけではあません。敢えて言えば、助言を求めに来たカウンセラー(「スーパーバイジー」といいます)が「臨床心理士」なら、「スーパーバイザー」も「臨床心理士」でないと、臨床心理士としての資格更新(5年毎)のための研修「実績」と認定されない、というくらいでしょうか。


 実は、私、湘南ではじめて開業した時に、開業の先輩に、

 「スーパーバイザーになるには何か資格認定協会に特別な書類を出して選考を受ける必要があるんでしょうか?」

とお尋ねしたんですね。そしたら、

「特にない」

とあっさり言われて拍子抜けしました。


 もっとも、個々の心理療法流派によっては、「その流派の心理療法の」正式な指導資格がある指導者を定めている場合もあると思います。

 あるいは、ある程度の規模を持つ相談機関では、機関内部での事例についての報告とスタッフ間での検討、あるいはその相談機関指定のスーパーバイザーのスーパービジョンを受けることが職務上の規定となっている場合もあるでしょう。

 しかし、流派や所属機関を超えて(並行して)スーパービジョンを受ける権利は、臨床家に保障されています。


*****


 私は、フォーカシングの研修暦があるなしとは関係なく、「流派を問わず」、スーパービジョンをお引き受けしています


 流派に関係なく共通する、カウンセリングのエッセンスというものの基本を学んでもらうことが可能と信じているからです。


 私のスーパーバイズの具体的な進め方については、続編として独立した記事にします。

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