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2009年9月

2009年9月 1日 (火)

うつ病者の「社会復帰」という言葉

 得てして使われるこの表現に、私は常々違和感を覚えている。

 この言葉には、どこかしら、雇用する側(働かせる側)の人間からの、「労働力として使える状態に復帰できるか否か」という観点で、この問題をとらえるようなニュアンスを嗅ぎ付けてしまうからである。

 極論すれば、あたかも、「使い物にならない人間は、この世で存在価値がない」みたいな。

 もちろん、これは私の感じ方であり、特にそう感じない方も少なくないと思う。やや「被害的で」すらあるのではないかと思う人もあるだろう。

 しかし、その一方、鬱で休職したり、仕事を辞めた経験がある皆様にとっては、幾ばくかの共感を感じてくださる方も稀れではないと思う。

 私としては、

「鬱で就労生活を中断せざるを得なかった人が、再び社会の中で自分の『居場所』があると実感できるようになるまでの過程」

なとどいう言い方を提案してみたくなる。

 この言い方だと、「雇用者サイド」の視点ではなく、「個々の実際に鬱になった人サイド」の視点からの問題設定になりはしまいか?

*****

 もっとも、この言い方だと、今度は、「一度鬱になったら、以前と同じように働けなっても仕方がない」という、逆方向でのニュアンスが出てきたと感じて、こっちの言い方をむしろ嫌悪する皆さんも当然出てきそうだとは感じる。

 しかし、実際に鬱からある程度回復しても、完治には至れないまま以前とほぼ同じ部署へと再就労できた人の中にすら、以前と同じような感覚でもはや職場に溶け込めないだとか、仕事を同じような張り合いにできない自分に直面し、困惑している皆さんも稀れではないはずだ。

 つまり、「社会復帰」できても、「居場所」感覚の方は、発病以前とは異なってしまっていることに困惑したままの皆さんは少なからずいるということである。

****

 ・・・・・この問題についてどのように専門家として援助ができるかこそ、私の後半生のライフワークの最も重要なひとつになると思っています。

 すでに具体的な活動企画として構想を練っています。
 公表まで、あとしばらくお持ちください。

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薬をやめることをお焦りにならない方がいいですよ

●精神科薬物療法に対する猫山司のスタンス(メンタルクリニック.net by 猫山司)

 医師ではなくて、臨床心理士に過ぎない私ですが、この記事で猫山さんがお書きの問題提起について、全面的に共感させていただきます。

========(引用はじめ)==========

 さて、最近、拙ブログのコメント欄でセカンドオピニオンを求められることが多くなってきたように感じています。

 また、その内容に一定の傾向があるように思われるため、今後の無用な混乱を避けるために、精神科薬物療法に関する私のスタンスをここで改めて表明しておくことにします。

 というのも、最近寄せられるご質問やご相談に、「薬をやめたいのだがどうしたらよいか」という趣旨のものが目立つように感じられるからです。

 これまで私が拙ブログでベンゾジアゼピン系薬物や抗うつ薬の副作用や離脱症状について言及してきたからなのかもしれませんが、では私が実臨床でこれらの薬物を使用しないのかと言えばそんなことはありません。

 むしろ私は、向精神薬を積極的に治療に用いるタイプの精神科医であると自認しています。

 副作用が無い薬など存在しませんから、薬を使用することのメリットとデメリットのバランスを常に念頭に置いて置かなければなりませんが、少なくとも初期・ 急性期の治療における向精神薬の有用性に私は一片の疑いももっていません(将来的にはもっと有効で安全な治療法が現れる可能性は否定しませんが)。

 ただ、薬剤の選択や使用量、使用期間について精神科医はもっと敏感になるべきであるというのが私の持論であり、拙ブログで表明してきた主張であるつもりです。

 したがって、拙ブログに寄せられたご質問に対する回答も、「薬をいかにやめるか」ではなく、「薬の使用をいかに最適化していくか」という視点でお示ししていくことになると思います(薬の最適使用の中に「薬の中止」という選択肢も含まれます)。

========(引用終わり)==========

 この、ある意味で当たり前であるはずのことを敢えてネット上で告知せざるを得なくなった猫山医師の心情、コメディカルな専門家として、察してあまりある思いにかられました。

 薬物療法をお受けになっている皆様、そしてご家族の皆様にはっきりとこれだけは申し上げたいのですが、

「薬を飲んで、やっと通常の生活に耐えられるうちは、病気から『回復』したとはいえない」

「薬を飲まなくて済ませられるようにならないと、病気から『完治』したとはいえない」


という発想自体を、この際、とりあえずお捨てになってみてはいかがでしょうか?

 仮に全く薬なしの状態で完全に大丈夫になる時が来るとしても、それは数年以上先になるかもしれないことを想定していただく方がいいと思うのです。

 特に、統合失調症やある程度重いうつ病(双極性障害を含む)に罹患された方は、病気になる以前と全く同じ水準の激務に耐えられるようになった方で すら、少なくとも1つか2つの薬については、当面飲み続けないと、再発のリスクを大きく高めることが多いとということを肝に銘じてください。

 映画「ビューティフル・マインド」で描かれた内容を思い出していただきたいのです。主人公の数学者が勝手に薬をやめてしばらくして、何が起こったのかということ。


 私も以前別の記事で書きましたが、近視になったので眼鏡やコンタクトを活用するだとか、耳が遠くなったので補聴器をつける心臓が弱くなったのでペースメーカーをいつも装着するというのと、そんなに違いがない感覚の「生活ツール」として、薬の服用を当面考えるところまで「開き直って」みるのはいかがかと思うのです。

 いいお医者さんとの共同作業の中で吟味を重ね、調整され続け、適切な処方が維持された薬を、しかも毎日の生活の中でのベストのタイミングで服用し、それによって生じる、副作用に限らない、微妙な体調や気分変化に対するセルフ・モニタリングを頼りにしながら、生活のピンポイント的な要所要所で判断を誤らないで行動選択する習慣が根付いてしまえば、少なからぬ患者さんは、薬物療法の治療の進展がある段階に達すると、ほとんど日常生活や仕事に差しさわりがない域で生活で、のびのびと生活きるようになることが多いのです。

 この、「薬の力を借りて実現できた、とりあえずの回復」の水準をまずは目標にしてください。

 通院の際のお医者さんとのちょっとした情報交換ができてないばかりに、実は「それさえ聞けていたら処方が違ってくるよ!!」とお医者さん側すら感じてしまうくらいの形で、薬の出方が有効打でなくなっていることなど、あまりにもありふれています。

 ・・・・このことは信頼できますよ。

 少なくとも、「薬なしでカウンセリングだけで・・・・」という発想は、お勧めいたしません。

*****

 あるうつ状態のクライエントさんからうかがった話です(もちろん、複数の事例を混ぜ合わせ、ご本人にはわからないくらいに脚色して書きます)。

 そのクライエントさんは、すでに処方された抗うつ薬と抗不安薬で、かなりの程度の回復し、休職状態からリハビリ勤務に戻れたのですが、そうなると、今度は夜になってもなかなか寝つけないことに苦しみはじめました。

 眠りがだんだん浅くなり、週末ごろには疲れが溜まってしまうのです。

 「睡眠誘導剤は出ているの?」と訪ねてみると、全身の筋肉の緊張をほぐす抗不安薬であり、なおかつ睡眠誘導剤としても使われる種類の薬が出ていたのですね。

 ご本人は、休職中はそれさえあればぐっすりと眠れたそうです。

 そこで私は(お医者様の中に、「臨床心理士がそこまで僭越なアドバイスをするのか!」とお怒りの方があるかもしれないのを承知で書きます)、

 「仕事を再開したので、あなたの脳が『スイッチ・オン』になってしまうと、夜になってもブレーカーが容易に降りないモードにはまってしまっていて、これまでの眠剤だけでは不十分になったのかもしれないね。
 どうだい?眠れない時、
頭の中はどんな感じ?」

 するとその人は、

「いろんな考えがぐるぐる回って、忙しいままなんですよ。・・・・夢もたくさん見ます。夢の中でも、私は忙しく活動し続けて、しかもその結果酷い目にあってばかりいるんです。疲れる夢ばかりで・・・・」

 そこで私は、

「それじゃ、寝ている間のレム睡眠の時間帯も、あなたの心は、昼間と同じくらいに忙しく仕事をし続けているわけで、全然脳が休まっていないのかもしれないね。・・・・ひょっとするとさ、身体全体をリラックスさせる、抗不安剤も兼ねた眠剤だけでは、あなたの脳は休み切れないのかもしれない。ところが、世の中には、もっぱら脳を休ませることを狙い澄ましたタイプの睡眠誘導剤もあるの。・・・・そのへんのあたり、今度、お医者さんに話を向けてみるとどうかな?」

 そのクライエントさんは、通院先の医者に、私の目の前でやってもらったような、それまでよりもずっと具体的な「脳の実感描写」つきで、不眠の現状を訴えました。

 そして、睡眠誘導剤が別の種類のもの・・・・まさに、私が示唆した、脳を休ませることに特化した性質の「本格的」睡眠誘導剤に処方変更されていました。

 すると、そのクライエントさんは、最初の2,3日こそ。その新たな薬の副作用感(口が渇きやすくなり、ちょっと昼間の抑うつも強くなるなど)がありましたが、ともかく実にすっきりと熟睡できる境地に到達したことに、自分でも唖然としてしてしまったのです。

「睡眠時間5時間でも『熟睡した』と感じられてしまい、疲れが翌日に持ち越されないんです・・・・私が昼間、まだ鬱が抜けないとずっと思っていたのは、ひょっとしたら眠りが浅くて、疲れが翌日に残っていたに過ぎない部分まで勘違いしていたのかもしれない・・・・」

 私は念のためにアドバイスしました。

「念のために言っておくけど、
だからと言ってその薬に頼って無理をしては駄目ですよ。
特に、日曜日の晩の夜更かしだけは、なしにしなさいね。
普通の人ですら、日曜日の晩の夜更かしに始まる『負のスパイラル』がどんどん週末に向けて、疲れを貯める悪循環の引き金になる。
何なら金曜と土曜の晩だけは多少の夜更かしは自分へのご褒美としていいかもしれないけど、日曜日の晩だけは厳禁にしてみたらどうだろう?」

 クライエントさんは、「実は土曜日の夜更かしを止める自信だけはないんです」と苦笑しながらうなづきました。

 私は更に、

 「ところでさ、睡眠導入剤を飲むのは、ほんとうにベッドで横になる直前、ごく少量の水でにすることが鍵なんだよ。
 間違ってもベッドで読書とか始めたら駄目
だからね。
 たとえすぐに寝つけなくても明かりも消したまま、ひたすら横になって『目を閉じて』いるだけでも、脳を休めるのに相当程度役立っているんだと思うこと。」

 というと、クライエントさんは、

「・・・・すみません、眠れないと思うと、すぐにテレビつける癖、ありました(^^;)」

「どーしてもあと少しテレビ観たいなら、テレビ観終わってから、即、飲むこと。
 間違っても『飲んだら観るな』
ですね。
 睡眠誘導剤は、2時間寝ないままでいたら効果が消えます。
 しかもその晩に更に『追加して』飲むことは、身体への容量を超えてしまう薬が多いの。
 お医者さんからそういう、追加する飲み方もOKと明確に指示されていない眠剤は、一晩で一発勝負と思うように」

・・・・・ああ、どうして、こんなあたりまえの睡眠誘導剤の飲み方を、担当医師や処方箋薬局は本人に教えていないのだ全く!!

 臨床心理士が教えることではないはずではないか!!

*****

 この話には更に後日談がある。

 そのクライエントさんは、そうやって、時間短縮のリハビリ勤務を順調にこなし、ついに一ヵ月後にはフルタイム(ただし残業なし)での勤務に戻ることができた。

 彼女はそれがうれしくなり、母親に、「こうやって復職できたのは、どうも睡眠誘導剤を代えて、よく眠れるようになったからという気がしてならない」と口走ってしまった。

 すると彼女の母親曰く、

「でも、あなた、薬を飲んでいるからよく眠れるようになっただけでしょ?・・・それじゃ、治ったとはいえないじゃない?」

 ご本人は、その晩、ムカつきのあまり、実は隠し持っている、イザという時に時に「八つ当たりする」ため専用の、クッションでできた「犠牲の人形」に、久しぶりに、まち針を何回も刺し通したということである・・・ アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!


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2009年9月 2日 (水)

睡魔に襲われる人へ

コネタマ参加中: 睡魔に襲われたとき、どうやって眠気を覚ます?

 不可欠ではない過剰な労働をせず、退屈な人間関係に付き合いすぎることなく、夜更かしも程々にして(特に週の就労開始日前日、多くの人にとっては日曜日の晩ですね)きちんと熟睡していれば、睡魔に襲われる確率そのものがぐっと減ると思います(^^;)

 「眠気を覚ます」必要が頻繁に出てきた時点で、何かライフスタイルに問題出ているのかもしれない(^^)

 安眠できることこそ、人生の宝です!!

 ・・・・・思わずコネタマのテーマそのものをおちょくってしまった(^^;)

 

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2009年9月 3日 (木)

若手カウンセラーの方が、私たちよりも「したたかに」実力をつけていくのではないかという、大いなる期待

おゆとり様”世代を考える.(ココログニュース)

=========引用開始(若干改行を増やしました)========

 2002年度に“ゆとり教育”を導入した新学習指導要領。その頃に中学生だった人たちが今、成人を迎える時期にきている。物心ついた頃からずっと不況で、「貯蓄を重視」し「巣ごもり傾向がある」。

 その一方で『hanako世代』にあたる母親の影響を受け「ファッションには敏感」であり、それでも他人と比べるようなブランド物よりは、ユニクロなどのファストファッションを好む、といった特徴が見られるという。この世代を“おゆとり様”と呼ぶのだそう だ。

 高度経済成長期に熱い若者だった団塊の世代からは、「(おゆとり様には)社会人となり業務上で難題に対し、死ぬ気で何とかやり遂げようとする言動が あるのかしら」と戸惑いの声があがる。

 身近な20代女性が「いかにお金をかけないで」楽しむことを重視しているのを見て「これが消費しない若者世代の モットーなのか(中略)そんな彼女たちのマインドにヒットする商品は なかなか難しい」(神戸ものがたり)と、彼らの消費行動が景気に影響を与えるとの見方も。

 一方で、ゆとり教育世代の息子を持つ『主婦だってがんばっちょる!』のブロガーは「どんな時代になろうとも地道が一番だし、何かあった時にやっぱり 必要になるのは貯金ですから」と、その堅実さを肯定する。

 また、“おゆとり様”の傾向分析やカテゴライズそのものに違和感を覚える人も多い。大学生と身近に接する人の中には、全体としてそのような傾向があ ることは認めつつ、「ファッション好き」と「貯蓄好き」の差は大きく、「別の物と思ったほうがいい」との意見がある。

 さらに「この多様化極まる時代にある 特定の層に“だけ”スポット当て、十把一からげ宜しくレッテル貼りの作業。もうこんな手法は飽きた」など、辛らつなコメントは少なくない。ラベリングで特定の層を表現するのは、物事をわかりやすくしているように見える反面、肝心な部分を見落としてしまう可能性もあるのかもしれない。

(ははぎく)

=========引用終わり========

 8月末、東京、町田での日本人間性心理学会第28回大会に出席した。

 この大会期間の中の2日間に、8つの時間帯の個人発表「枠」があった。この時間枠は、日本心理臨床学会大会のように互いに折り重なることはない。つまり、8つの個人発表を連続して聴くことが、参加者に可能な最大数であった。

 この折に、大学院博士後期過程在学中、ないし、少なくとも博士前期課程は修了して、臨床現場に出て数年以内の、非常に若い世代の臨床家たちの個人発表を7連続で「はしごして」回る形になった。

 正確に言うと、私が発表を聴いた中のお一人のみが中堅(というよりベテランの域に踏み込みつつある、私とほぼ同年齢の、学会でも著名な実力派カウンセラー)であり、残りの7人は、48歳の私よりも20歳は若い世代の方々だったのである。

 それらの人たちは、ここでいう「おゆとり様」世代よりはほんの少し上ということにはなるかもしれないのだが。

 事前に送られてきた論文集で目を通して、「ほう・・・・」と感心させられる"something"を感じた方の中からセレクトした。何とその結果、上の世代や同世代ではなくて、一番若い世代こそが、私の鑑識眼を刺激したことに、我ながら驚いたのである。

 7名全員が、日本の「フォーカシング技法」および「フォーカシング指向心理療法」の「第3世代」というべき若手研究者・実践家である。

 もっとも、この学会は、フォーカシング関連の発表が非常に多い学会なので、同じ時間帯に別の教室でフォーカシング関連で発表される若い方がいる(要するに、「裏番組」も観たい状態・・・という苦渋すべき事態が頻発した。

 特に心理臨床系の個人発表のように、最低でも1時間の時間枠が与えられる個人発表についての、大会論文集上の抄録の情報量というものは、発表内容の全容を掌握するリソースとしては、実は不十分なものである。

 ですから、たまたま私が「究極の選択」に窮して会場に出向かなかった若手の発表者の皆様、どうか、別に阿世賀が「裏番組」の発表の方が優れているなどと判断したとは、夢にも思わないでいただきたい。

 私の身体はひとつしかないので、「行きたかったけど、行けなかった」だけです!!

*****

 全くおだてだとか餞(はなむけ)の儀礼などではなく、率直に申し上げたい。

 その7名の発表者の方全員が、私の期待以上の研究実践水準であった!!

 すでに我々フォーカシング「第2世代」(池見先生や、吉良先生、日笠さんや近田さんや村里さんや田村さんや天羽さんも含みます!)が、試行錯誤の中で日本に本格的に根付かせようとしてきた中で積み上げてきたものを、それぞれなりに「当然の前提」として咀嚼し、消化した上で、それぞれの現場に密着した問題意識を抱き、身につけた専門的なリサーチ能力を高度に駆使し、パワーポトントをはじめとする視聴覚素材での洗練されたプレゼンテーション能力も発揮しながら、厳密な臨床研究手法で、一歩一歩前に進もうとされてる方々ばかりでした。

 池見先生や田村さんや私のような「古株」があら捜しすれば、確かにいろいろと理論的理解や技法実施上のテクニック、統計手法、研究デザインなどに関して、個々の問題点は指摘できますし、それらについては、その会場にいたこれらの先生方と共に、私も遠慮なく(でも簡潔に!)コメントさせていただきました。

 しかし・・・・池見先生すらも休憩時間に私に漏らされたんですよ。

「『第3世代』は僕たちの若い頃の域をすでに超えかかっているのかもしれないね」

・・・と。

(注:日本のフォーカシング「第1世代」とは? 戦後しばらくして大学教育を受け、主としてカール・ロジャーズの「クライエント中心療法」や「非構成的エ ンカウンターグループ」の研究実践者として、1970年代までにすでに一定の業績を上げた先生方の中のある部分の先生方が、1978年に、ロジャーズの共 同研究者でフォーカシング技法の創始者であるジェンドリンの来日を期に、フォーカシング技法の日本への紹介と摂取に尽力されることになる。故・都留春夫先生、我が恩師、故・村瀬孝雄、そして現在も活躍されている村山正治先生、大澤美枝子先生、白岩紘子先生、井上澄子先生をはじめとする、すでに60代以上の先生方を指します)

*****

 今の若い世代の人は、私たちの若い世代に比べれば過酷な受験戦争を体験していないかもしれません。

 しかし、こちらの記事で書いたこととも関連しますが、高度成長期からバブル崩壊前の楽観主義の中でしか、自分の進路や将来像を描けないまま社会に出てしまった世代に比べれば、自分たちが参入していく社会の現実をシビアにとらえ、自分の立ち位置と社会に出てからの歩み方について、非常に足が地に着いた考え方と判断力でやっていかざるを得ないように、子供時代から肌身で感じて育っていると思うのです。

 そのしたたかさが、実はこれからの日本を支える若い力になるのかもしれない。

 どうか、バブル崩壊以前に社会に出た、現在アラフォー「以上の」世代全体を、どんどん「実力で粉砕」して、「社会を動かす」側に回ってください。

 もし、言ってることややってることがヤバイと思ったら、本気で忠告します。必要とあらば論戦も厭わない。

 いざとなったら、あなたたちと、武器を手にとってでも、将来「内戦」するかもね!!

 それが、私の世代に、これからできることなのだと。

 「おゆとり様世代の諸君、エースをねらえ!!」


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2009年9月 5日 (土)

神田橋條治先生はフォーカシングの熱烈支持者なのです。

 すでに絶版になった(Amasonの古書市場では入手可)古い私の共著なんですが、日本を代表する精神科医、神田橋條治先生が、この著作への書評を、刊行直後に寄せてくださっているのです。

 今更なんですけど、それをご紹介させていただきたくなりました。

*****

●神田橋條治先生による「フォーカシング事始め―こころとからだにきく方法」(村瀬孝雄・日笠摩子・近田輝行・阿世賀浩一郎 著) 書評

 ヒトは「体験」の延長上にコトバを造り、コトバ文化を展開し、万物の霊長となった。ところが、時を経るにつれ、ヒトの?下にあったはずのコトバ文化が自らの勢いで跳梁・跋扈し、発祥の地である心身の体験と離別し、ついには主家である心身をないがしろにするほどになった。今やヒトの心身は、コトバ文化が編み上げた疑似体験に隷属し、身を屈してすごすようになっている。他方、コトバ文化の方も、母体である心身体験と離別したせいで、華麗にして空疎なものとなった。

 「フォーカシング」とは、体験の延長上にコトバが生じるという原初の自然なありようを復活させようとする原理主義の運動である。この運動は、心身に根ざした「体験」を蘇生させるとともに、母体との密着へ復帰させることでコトバ文化の鼓動をも蘇らせようと意図している。

 だがこれは、コトバ文化の支配下では困難な反体制運動である。「フォーカシング」の優れた紹介がすでに何冊か出たものの、コトバ文化の典型である出版の部分であるという障壁を突破しえず、「体験」を蘇生させ得なかった。読者という立場には、目で活字を追いイメージを膨らます体験しか生じないからである。

 ゲリラ的にフォーカシング運動を進めてきた著者らは、その「体験」の生の記録を展示することで、フォーカシング体験の運動に踏み出そうよと読者を誘惑する。

 その誘惑に乗る読者が一人でも多いことを評者は願う者である。なぜなら、今日の心理療法の対話の現場でこそ、心身の体験とコトバ文化との密着が復活することが急務であると考えるからである。

 今日、善意と熱意と訓練と勉学にもとづいて行われている心理療法が生み出している悲惨は目を覆うばかりである。責めはおおむね治療者のコトバ文化が自身の体験と乖離し、治療者の心身がコトバ文化の編み上げた疑似体験に身を屈していることに帰せられる。よってたつ理論基盤を問わずすべての心理治療者がフォーカシングを体験することで、心理療法の失敗のほぼ7割は消滅すると評者は推定する。

 それゆえ、第9章「カウンセラーがフォーカシングを学ぶことの意味」をまず読まれるようお勧めする。そこには、筆者である近田輝行氏の体験が展示されている。その記述は、心ある読者の内部に自身の体験の記憶を呼び寄せ、充分な誘惑となり、他の章へそしてフォーカシング体験へと進ませるであろう。

 ちなみに、評者は心理療法の対話の場で、聞くときはリスナーになり、語る時はフォーカサーになるという心組で「わたしのフォーカシング」を体験している。そのようなつまみ食いでも利益は絶大である。

[(「精神療法」誌 第22巻 3号 (金剛出版) 書評より]

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2009年9月 6日 (日)

誰かに相談してもらえることへの感謝の念

 誰かが相談に応じてくれることへの感謝、ではない

 誰かに相談してもらえるだけで、感謝の念を感じていいのではないかということである。

 そして、私はこのことを、私のような援助的専門家の職業意識のありようとしてだけ述べているつもりもない

 一般の皆様が、家族や友人や恋人や同僚から相談を受けることについてもそのまま通じるのでないか?という意味でお書いきしているつもりである。

****

 なぜなら、
 誰かがあなたに相談してくれるとすれば、
 その誰かは、
 あなたという人間存在を、
 何らかの意味で認めてくれていて、
 何らかの意味で信頼してみることに、取りあえず賭けてくれているからである。

 その人があなたに自分から差し出して、投げかけてれた<絆>に対して、敬意と感謝を持って応対する姿勢を失ったら、あなたは、今度は自分の方がいざ誰かに相談したいと思った時に、今度はなかなか喜んでそれに応じてくれる人が見つからないというしっぺ返しを食らうかもしれない。

 相談を受ける人は、相談してくれる人がいることで、その人なりの人間関係の<絆>の「潜在的な豊穣さ」を築き続けているのである。

****

 これをお読みの皆様の中には、

「情けは人の為ならず」

ということわざの本来の意味の話をしているだけじゃないか?と思われる方々もあるかもしれない。

 (このことわざがは、「情けをかけることは相手のためにならない」という意味ではないのに、誤解している人が少なくないことはよく知られているかとは思うが)

 でも、敢えて言いたい。

 私は単に「見返りが期待できる」ことを問題にしたいのではないのだ。

 見返りなど、多くの場合、ないかもしれない。

 しかし、あなたは、誰かから相談を受けたその時点で、人間関係の中に居られているのである。孤独ではないのである。

 このことの「逆説」のありがたみが身に染みてきた時、その人は、できる範囲で相手の話をともかく聴いてあげるだけの時間を割く心の余裕を持つことができるのでっはないか。

 相手の話を表面的にしか聞かないうちに、安易に知ったかぶりの自分の意見を開帳するのではない形で、人の相談に乗るひとときの意味を噛み締められるのではないかとも思うのだが。

****

 また、この種のことを、今や廃れた「共依存」という概念だけで、十把ひとからげに、否定的に意味づけて説明して済ませるのは、いかがなものだろうか?

 「共依存」的人間関係なしで人間関係を築けているなど、実はどこにも居ないはずである。

 それが過剰に「嗜癖」化した人と、good enoughな人、「自立」とか「自己責任」幻想に溺れ、あまりに乏しい人が居るというだけではないかとすら思う。

 ・・・・・何より、自戒を込めて。

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2009年9月 8日 (火)

「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

 私は、このサイトで、これまで何回か、「人は鬱になることで『鬱』になる」という表現を繰り返してきた。

 現在のDSMなどの診断基準では、鬱病は「気分障害(=mood disorder)」の下位分類になっているが、この「気分障害」という言葉は非常に誤解を招きやすい側面があると思う。

 「気分」という言葉にしても、moodという言葉にせよ、日本語では何か曖昧な「気持ちの」状態であるに過ぎないかのように受け止められかねないからである。

 単に「落ち込みが持続する」のが鬱状態ではないのだ。私の考えでは、「落ち込み」とは、気分障害の「本態」としてその人の心身に生じている慢性的な脳生理的消耗状態(正確には、脳生理上の消耗に至らせる悪循環的なループ)の、二次的な「随伴物」のひとつであるに過ぎないようにすら感じられる。

 以下、臨床心理士の分際をわきまえない内容すら入っているであろうこと、部分的に脳生理学的に不正確な著述があってもお許しいただきたい。

*****

 これも何回もこのサイトで書いてきたことだが、鬱(双極性障害も含む)の「本態」は、心身が極度に消耗したのに、それを「疲労」と実感できなくなってしまう形に脳内のメカニズムが慢性的に変化して、とりあえず不可逆的になってしまうという脳生理学的変容そのものではないか。

(このこと関連する言及をした最初が、この記事である)

 そのごくごく軽微で、慢性化しないまますぐに回復するミニマムな(微小な)形態は、一般の人でも実は何回も体験している。

 徹夜覚悟で仕事や勉強をしている時に、眠い眠いと思っていたのに、ある時から突如スイッチが切り替わる。

 頭が冴え、意欲が亢進し、いくらでも起きていられるかのようにすら感じ、実際に仕事が終わって横になった後も、頭が冴えて眠れなくなって困ってしまった経験が、これまでの人生で1回もないという人は滅多にいないと思う。

 そういう時には、独特の「脳が暖まっている」ともいえる感覚と、身体全体の「ふわふわした」感覚も伴うはずである。一種の「ランナーズ・ハイ」状態である。

 もちろん、そうやって眠れない夜を過ごしても、朝になる頃にはいつの間にか寝入っていて、目覚めた時には、今度は前の晩の無理のリバウンドであるかのように、心身に泥のような疲労感が襲い掛かるものであり、昼間は眠い目をこすりながらも何とか切り抜け、その日の晩に、文字通り爆睡する形になって、やっと普段の状態が回復するというケースがほとんどだろう。

 精神科医の中井久夫先生の言葉を借りれば、「48時間で帳尻が合う」というサイクルである。これが健康な人の「無理」→「疲労回復」過程なのだ。

 欝になる人の多くは、はっきり鬱になる前の時期のおいて、必ずしも徹夜仕事を重ねるわけではないにしても、長期に渡って非常に「気を張り詰めて」仕事や勉強を続けねばならない状況に身をさらすうちに、いわば慢性的な「ランナーズ・ハイ」状態に陥っていき、むしろ人間の心身の本来自然なバランス機能として生じるはずの、「リバウンド」としての怒涛のような疲労→爆睡ということそのものが、徐々に生じなくなって行く体験をしている(後から振り返ってみて、はじめて気がつけることなのだが)。

 こうしたことを繰り返す中で、疲労物質が生じると心身の活動水準を落とすという、動物である限りは当然備わった、休息に向けてに脳内の自然なフィードバック回路が徐々に機能不全になるともいえるだろう。

 素朴な比喩を承知で言うと、「レースコース」から一時的に「ピット・イン」させる方向にポイントを切り替える、本来自律的な脳内安全制御システム(フィードバック回路)に、いつの間にか、常に「ピット・インさせないまま走り切れ」という指令を出す、非常に危険なバイパス指令回路が形成されてしまうのだと思う。

 私の考えでは、これは行動主義心理学的な意味での、環境適応のための「条件付け」形成過程であると同時に、困ったことに、脳のある部分にある脳神経系の回路内で、神経繊維同士が、そういうバイパス回路を形成することそのものを「学習」してしまうという、生粋の脳生理学的次元での変化すら伴っているようにも思えるのである(お医者様向け追記:「シナプス可塑性」のことを言いたかったのです)。

 このような、他の動物の動物の常識ではあり得ない異常な心身の使い方で「脳神経を痛める」ことまでやらかしてしまえるのは、人間が文明の発展の中で、一日の半分は働くということを当然のこととするようになったことと大きく関係している。

 そして、むしろ、周囲が自分に何を求めているかに敏感で、働くということに過剰適応できる強靭な精神の持ち主こそが、結果的に脳の生理学作用を破綻にまで追い込んでしまうわけである。

(最近、「新型うつ病」に関連して、病気になる前は勤勉ではないタイプも増えているのではないかということも取りざたされ、何かというと「性格的な問題」という言い方が安易に使われる。しかし、そうした人の成育暦を探ってみると、学校時代の少なくともある段階までは、親の期待に応える非常な優等生だったり、親には決して迷惑をかけない「いい子」として育ったり、精神的にはもろさを持った親のいる不安定な家庭の中で、親の気配を察して必死に「トラブルシューター」として子供の頃から頑張り、親の不安をケアしてきた人まで含めると、やっぱり「過剰なまでの無理をする頑張り屋さん」だった歴史をどこかで長期にわたって持つという点では、共通項を持つことが多いことに気がつく。つまり、子供時代からずーっと一貫して無気力でアパシー的だった「新型うつ病」の人となると、なかなかいないのではなかろうか???) 

*****

 いずれにしても。本格的に鬱が出現する「直前の」、まだ仕事等の活動水準を維持できており、「落ち込み」は自覚しなかった時期に、持続的な睡眠障害を経験しなかったという人は滅多にいないだろう。

 本人はそれを「苦しい状況を切り抜ける強い自分になった」などとすら思い込んでしまうことも多いものである。実際には、そうやって無理を重ねた「負債」は心身のどこかに慢性的に蓄積されている筈だからである。

 それが実際に身体の調子を崩して(風邪ぐらいのこともあるが、実際にはっきりとした身体病になることがある。私にとってのそれは「尿管結石」になることだった)休みを取らざるを得なくなる機会を提供してくれればまだ幸いですらあるかもしれない。

 もとより、その身体疾患から取り合えず回復すると、また働いていた時のモードに戻って行くことが少なくない。でもそれは、身体病という形での「坑道のカナリア」からのせっかくのイエローカードを無視して更に突っ走る形になりやすいのである。

 こうして、その人の中の「疲労を感知して休息させる」脳内システムが、一度完全に機能不全に陥り、脳神経の伝達回路内での物質のやり取りの中で悪循環のループを確立してしまい、「疲れを疲れとして体験できない」状態で固定化してしまう。この段階で、脳そのものがかなりややこしい心身症状態に突っ込んでいるとも言えるだろう。

 本格的に鬱を発症する直前の数ヶ月の間に、こうした「以前よりも疲れを疲れとして感じずに、状況を切り抜けられてしまう」時期を持っていた人は非常に多いはずなのだが、なぜかこのことは意外なまでに鬱に関する本で語られていない気がする。

 漫画「ツレがうつになりまして。」では、ご主人のツレさんがソフトウェア会社で働けていた時代の末期の状態として、このことがはっきりと描かれている(NHKドラマ版ではこの点はやり過ごしている)。

 そして、こうして疲れを疲れとして体験できなくなって最低数ヶ月が経過した時点で、突如、「ブレーカーが下りる」。仕事を滞りなく進める気力が枯渇し、そういう自分にやっと「落ち込み始める」のである。

 私が「人は鬱になることで『鬱』になる」という時の、1つめの鬱という文字は、実は、この、脳内で形成されてしまった「疲労を疲労と感じなくなる悪循環のループ」(慢性ランナーズ・ハイ状態)の確立それ自体のことである。むしろ、健康な人にでも生じておかしくない次元での「普通の」落ち込みや疲労を感じられなくなるということなのだ。

 2つめの『鬱』という文字は、そういう慢性ランナーズ・ハイがついに限界に来て、心身が一気に消耗してしまって何もできなくなった後の自分に対する、深刻な絶望感のことである。

 長期的な無理を切り抜けるために自分の身体が産出した「脳内麻薬」の慢性的な中毒状態に一度陥り、身体自身の脳内麻薬生成プラントをことごとく食い尽くし、「操業停止」に陥らせるところまで心身の消耗が進んだ時に生じた、深刻な「脳内麻薬切れ」=神経伝達物質の「自己破産」状態が、おもてに表れた「うつ状態」の発症の時だとも言えるかもしれない。

 自分の身体の資源を切り刻むようにして、身体の内部から麻薬物質の捻出して、過酷な状況を自力で切り抜けようとしたのだ。大量の飲酒癖にすらならず、ましてや不法な薬物に手を出すこともなく、自分をひたすらランナーズ・ハイに誘導するという、文字通り「身を削る」形でである。

****

 実は、こうして脳内麻薬の「異常な産出回路」が脳神経内に確立されてしまうと、その悪循環ループというものは容易にその人から消え去らなくなる。

 薬を飲んで休養して、少しやる気が出てきたかなと思って活動し始めると、またもや悪循環ループのスイッチが入り、無理を無理と感じないまま活動し始めてしまう。

 その人の中の「脳内麻薬精製プラント」は壊滅的な打撃からとりあえず「復旧した」に過ぎないので、活動の再活性化は長持ちせず、再びブレーカーが落ちる。

 そして、「もう治りはじめたかと思ったのに、実はそうではなかった」という事実にその人は落胆し、落ち込む(これが私が「二次的な鬱」と呼ぶものである)。この時の落ち込みこそが、むしろ死にたくなるほどの絶望を招き寄せやすいものなのである。

 こうして「少し元気が出る→動いてみる→簡単に消耗する→挫折感」というサイクルが単に積み上げられるだけだと、その人の自信喪失と絶望感はどんどん深刻化する危険がある。

 実は、休養して鬱から相当程度回復したかに見える人にも、この、トリガーを引いたら暴走する悪循環ループは脳内にしっかりと残っていることが少なくないのである。

 SSRIなどの抗鬱剤そのものがこの悪循環ループ自体を消してくれるわけではないのではないか。薬物療法に真に見識のある医師の処方する薬物・・・・狭い意味での抗鬱剤に限らず、気分調整薬、抗不安薬、睡眠誘導剤などを含む・・・・が適切な効果を上げる際に生じているのは、実は一方で脳内麻薬の枯渇による、生へのエネルギー自体の「破産」に対する最低限の「公的救済処置」(自殺に至らないために)という側面を持ち、他方では、その人の中で再び自己破壊的な脳内麻薬産出プラントが安易に操業再開をする「引き金(トリガー)」になるような神経伝達物質の発動そのものやセンサーでの受容をむしろ妨げ、じっくり穏やかに休養してもらい、生体が本来持っている自然回復能力が徐々に賦活する中で、脳内でいつの間にか異常な回路形成に到達していた物質代謝メカニズムが、自然なバランスと働きにを取り戻すことをサポートするという、絶妙のカクテルを、その時のうつ患者のにふさわしい「一品料理」として調合するという形になっているはずである。

****

  少し前にも書いたが、いったん鬱になった人の中では、回復期になっても「その時の自分の心身がどのくらい疲労・消耗していて、どのくらいまでの無理なら、どのくらいの休息で回復できるか」というセルフ・モニタリング能力が決定的に損なわれたままになっているともいえる。

 これは、そうした「自分の無理と疲労度のシミュレーション」が当たり前のようにできた、以前の自分のことを思うと、ほんとうに悲しくなるまでに「自分の実感があてにならなくなる」ことなのである。

 穏やかな休息だけでは、社会で再びサバイバルするだけの脳の自然な働きまではなかなか回復しないのである。

 このセルフ・モニタリング能力の「再建」が必要なのである。いや、はっきりいって、それは「再建」ではないのだ。それまでは言わば「勘」に頼っていたセルフ・コントロール(それはすでに脳内で一度壊滅的に崩壊した)を自覚的に運用できるようになるために、それまで人の中に存在しなかった新たなスキルとして、自分の生体の無理と疲労のメカニズム監視と統御・・・・・休息にせよ、活動にせよ、その時に適切な行動選択を自律的にできる技能を「人工的に学習する」必要が生じてくるともいえるだろう。

 それは一度学習して身についてしまえば、言わば特定のスポーツのための運動能力や楽器の演奏、自動車の運転のように、普段はほとんど無意識に、なるで本来の天性のようにして活用できるものになるだろう。

 私が思うに、それこそが、鬱の人「のための」心理療法として展開されていくべき領域なのである。

 もちろん認知行動療法もそのひとつの重要な展開であろうし、応用行動分析(ABA)も非常に参考になる業績を含んでいるように私は感じている。

 私は、それらも視野に入れながら、フォーカシング技法を、鬱の人の心身状態のセルフモニタリングスキルと、そのモニタリングに基づいて生活の中でどのように小刻みなアクション・ステップを組み上げ、またもや燃え尽き→挫折の堂々巡りに陥らせることなく、休養時から新たに「持続的な成長可能な形で」社会的活動範囲を広げていくために活用可能な、「学習可能なプログラム」として特化させて発展させることはたいへんな可能性を秘めていると考えて、模索しているところである。

 その模索の一端を示したのが、こちらの記事であるとご理解いただけると幸いである。

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2009年9月18日 (金)

書評 : 内海健 著 「うつ病新時代 -双極2型障害という病-」

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

    
5つ星のうち 5.0  現代の「すべての」うつ病患者さんに向けて書かれた本 2009/9/14       
 

 今日、鬱は昔よりも「軽症化」しつつあると言われているのに、実際には、昔の鬱病の患者さんの方が、きちんとした服薬や休養生活(場合によっては入院) を経れば、長くても数ヶ月以内に社会復帰できる人がずっと多かったということを、さまざまな精神科医の先生が指摘している。

 鬱になる人の病態のマジョリティー(多数派)自体が、時代と共に変質してきている可能性を多くの専門家が認め、「新型うつ病」「非定型うつ病」 などという言葉が繰り返しマスコミに載るにも関わらず、古典的な「メランコリー型」うつ病ではない人たち(本書で取り上げられている「双極性2型」以外に も、「気分変調性障害」「双極スペクトラム障害」などと診断される方たちを含む)に対する少なからぬ医者の取り上げ方は、どこかしら「近頃の若い者 は・・・・」的なノリで、そうした人たちの「性格の問題」という言い方が安易に振り回される傾向があるように思えてならない。

 しかし、それは実は根本的な認識不足なのではないか?

 結局、医者の側が時代の変遷についていけていないことの「逃げ口上」ではないのか?

 そうした問題提起をする上で、この著作以上に強力な著作は、刊行3年めにして、まだ現れていないように思われてきた。

 古典的な「メランコリー型」うつ病は、実は第2次大戦敗戦国である日本と「西ドイツ(!)」において、戦後の復興を経て高度経済成長期に入るという、固有の経済発展様式を取らざるをえなかったために、結果的に、1970年代まで、他の欧米諸国よりも「遅延されて」残存した、実は「オールド・タイプ」のうつ病のあり方であるに過ぎず、現在ではこれらの国でも、主として中年以降の世代にのみ残存している病態であるに過ぎないのではないか?

 ・・・著者ははっきりそこまで言い切ってしまっている。

 (古典的)鬱病者における病前性格としての「メランコリー親和性」ということをはっきりと打ち出したのは、ドイツのテレンバッハという精神病理学者である。ところが、今日では臨床家の間で基本教養の一部というべきこのことをテレンバッハが著作「メランコリー」ではっきりと書いたのは、何と1961年という、思いもよらないくらいに最近の(・・・・などと、1960年生まれの私だと書いてしまう)ことなのである!!

 もっとも、1961年といえば、西ドイツも日本も、西側陣営の中で、まさに目を見張る勢いで高度経済成長していた渦中に他ならないではないか!!

 「この時代の」「西ドイツにおける」精神科現場臨床におけるうつ病患者の診療の治療の膨大な蓄積の中で、テレンバッハが提唱し、ドイツで、日本で、そして欧米で幅広く受容されるに至ったのが、「メランコリー親和性格」仮説なのである。

 この本は、単に、DSMという診断基準が指し示す、狭い意味での「双極性2型」障害についての著作などでは決してない

 恐らく、通常のうつ状態と診断されている患者さんたちの多くが読んでも、深く共感する内容に満ち溢れているはずだ。

 実はその点にこそ、この著作の只ならぬ奥の深さがあるのである。

*****

 Amazonの本書への私のフックレビューより転載しました。

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2009年9月19日 (土)

書評:アン・ワイザー・コーネル著「フォーカシング入門マニュアル」

アン・ワイザー・コーネル/フォーカシング入門マニュアル

(同著への楽天ブックスへのリンク)

 フォーカシングの名教師、アンの著作の中で、日本で最初に翻訳されたものである。

 だが、およそフォーカシングを「技法体系」として身につけるために正攻法に学ぼうとした場合、その内容の明快さと体系性、にもかかわらず同時に「かゆいところまで手が届く」細やかさという点で、現在に至るまで、これほどバランスのいい著作は刊行されていないように思う。

 フォーカシングの発案者、ジェンドリン自身の「フォーカシング」は、もちろん今でもフォーカシングを学ぶ際のベースとして大事にすべきである(書評はこちら)。

 しかし、その著作の中で、ジェンドリンは、フォーカシングという技法のアイデンディディを確立する立場にあったためか「フォーカシングでないのは何か」「フェルトセンスでないのは何か」ということをくどくどと説明し過ぎたところがある気がする。

 それがむしろ学び手に「私はきちんとフォーカシングしているのか?」という不安を喚起する副作用を生み出した側面は否めない。

 ところがアンは、この点で正反対のアプローチを取った。すなわち、ただの身体の感じでも、イメージでも、それどころか、ジェンドリンが「内なる批評家」と呼び、ますは追い払うべきと述べた、自分自身を叱責する超自我的な内なる声ですら、フェルトセンスの形成に役に立つことを強調した。

 更に言えば、フェルトセンス自体と静かに「共にいられる」内的関係を築ければ、フェルトセンスからシフト(洞察を伴う気づき)が生させようとせっかちにならなくてもいいことについて、技法体系の中に明確に組み込んだ。

 このアンの柔軟なアプローチが紹介されるのを待ってはじめて、日本でのフォーカシングの普及はひとつのブレイクを起こしたといっても過言ではない。

 フォーカシングのトレーナーをめざす人は、先述のジェンドリン自身の「フォーカシング」を併読しつつも、何よりこの著作に書かれた内容を自己掌中にするまで身につけるべきであると思う。

 フォーカシングをフォーカサーとして学ぶ一般の皆さんにとっても、学びの過程で疑問や行き詰まりが生じた時には、本書のどこかに、その解決のためのヒントが書かれていることを期待していいだろう。

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2009年9月20日 (日)

書評 : ジェンドリン「フォーカシング」

ジェンドリン/フォーカシング

(楽天ブックスでの本書の紹介)

 自分の内側の言葉にならない曖昧な感じからのメッセージを少しずつ受けとめていく技法、フォーカシングの創始者自身による、一般向けに書かれた最初の「技法」解説書としての価値は不朽である。

 言うまでもなく、フォーカシングに関心を抱く人必読の「第一基本文書」だが、技法の手引きとして、他の欄でも紹介している、アン・ワイザー・コーネルをはじめとする様々な実践家による著作で、更なる展開がなされていることを忘れてはならない。

 翻訳の水準は、章によって若干ばらつきがあり、重要な語句の翻訳が抜けている場合もある。しかし、技法としてのフォーカシングの用語の「定訳」を定めた功績は大きい。

 ただ、現実のトレーニングの現場では日本人にすっと入らない教示の言葉も日本語として多く、工夫を要する。

 なお、ジェンドリン自身が実は強調していることだが、フォーカシングにおいては、フェルトセンス(自分の状況と結びついた、自分の中の曖昧で言葉になりにくい実感それ自体)にちょっとだけ触れ、しばらく味わっていられたら、それだけでその人は「現象としてのフォーカシング」を十分体験「していた」していたことになるのである(訳書p.74)。このことは6つのステップを進めている「どの時点でも」生じ得るものであり、6つのステップのすべてを達成した時に、はじめてフォーカシングが完成したのではない。

 「フェルトシフト」と呼ばれる、心身の緩みと共に気づきや洞察が生じる体験は、何回もかけて、小刻みな小さなステップとして生じて行く中で、あたかも漢方薬のようにじんわりと効き目をあらわして「いた」ことに、後で振り返って気づけることも少なくない。

 また、シフトとは「向こうからやってくる」ものであり、「生じさせる」ものではないともジェンドリンは明言している(訳書pp.74-5)。

 こうした簡便化されたマニュアルでは抜け落ちがちな事柄を、この本の中でジェンドリンはあちこちで「さりげなく」書いている。

 この本と出会って20年になる私すら、時折本書をめくり出してみると、「なんだ、このことはジェンドリン自身がすでに書いていたではないか!」と気づかされる部分に遭遇する。

 そうした意味では、やはり技法開発者自身の最初の一般向け著作は奥が深いものだと思う。

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 これも、以前Amasonのレビューとして書いたものに更に手を入れて、今の私の思いに近づけてみました。

 

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