「私のうつノート」書評 (第3版)
苦しいうつ状態を脱して、今度こそ前向きに意欲的に生きようとすればするほど、自分でも自覚できないうちにいつの間にか簡単に「オーバーラン」し てしまい、再び燃え尽き、振り返ってみたら、その高揚状態での活動が周囲にいかに無神経で、迷惑をかけていたかに今更のように気がつくという、波打ち際で 「砂の城」を築くかのような不毛の繰り返し。「自分で自分のペースが取れない」という行き場のない苦しみの中で、何とかバランスを以前よりうまく取れるよ うに、生活の細々したところまで少しずつチューニングし続ける、あまりにも地味でコツコツとした試行錯誤の過程。自分はもう大きな夢は追えないのか? かつての活動的な充実した日々はすべて「軽躁」という「病」のなせる業に過ぎなかったのではないかという煩悶。そうした中で、これからの人生を、より「地に 足を着けて」歩んで行こうという境地に徐々に近づけていくかどうか?
それが「双極性障害」を生きるということ。
恐らく、日本では、この読売新聞の記者さんの生々しい闘病記の新聞連載まで、そもそもそうした「双極性障害を生きる」ということのリアルな現実が、お茶の間に届くということそのものがなかったのではないかと思う。
ここで描かれる、休職の中で順調な回復軌道に乗ったたかにみえたのに、再び躁傾向を押さえきれなくなり、そうした挙句、再び燃え尽きて欝状態に泥 のように沈み込み、絶望の中から小康を得て再出発をしようとすると、またもや簡単に「スイッチが入りすぎて」やり過ぎになるいう、上ったり下ったりの泥沼 のような生き様を読んだ時、この病気に苦しむ人たちや、ご家族等の関係者の深い共感を呼び起こし、「同じことで苦しんでいるのは自分(たち)だけではな い」という連帯の輪をどれだけ広げたことだろうか。
ここ2,3年マスコミでうつ病問題がこれだけ深く掘り下げて取り上げられるきっかけを作る上で、読売新聞が、所属記者の闘病記を連載することからスタート した「私のうつノート」シリーズが、大きな起爆剤となっていることは間違いない。例えば、NHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」が、実はこの読売の連載を大いに参考にして作られたものであることは、内容を照合すると非常に明白であることに、今回読んで気がついた(誰をゲストに呼ぶか、とか、双極性障害II型と通常のうつ病との鑑別診断の難しさや治療法の違いを番組の大きな主題とするなどの点で)。
「第I部 体験編」前半の、記者さん自身の体験記、「1.私のうつノート-双極性障害の記録」(記事連載時に、第27回ファイザー医学記事優秀賞受 賞)には、ご本人のみみならず、当時奥さんが実はどのような思いをしていたのかも細く触れられている。続く第I部後半「2.うつ病闘病中の同僚記者と」で は、当時上司だった方の目からの報告がなされている。「自分たちの同僚に生じてしまった病と、そこから生じてしまった事態」を、その混乱の渦中にありつつ も重く受け止め、特集として取り上げ続けた、読売新聞生活情報部の記者たち「共同制作」の、ジャーナリストとしての良心の軌跡としての、迫真の「ルポル タージュ」という視点で、本書の存在意味を眺めてみたらどうだろう?
(私は、偶然のなりゆきで、この本にまとめられた連載の中のある特定の回の記事で取材を受けた人物を通して、こうして本にまとまられるとわずか2 ページにしかならない1回分の記事を書くために、記者さん(体験記の筆者ではなくて、その同僚の方)が、取材対象の方に2回「直接」会いに来るばかりか、 ごく短期間に「数冊の」関連書籍を「新たに」読破し、しかもその本の内容を記者さんが明らかに十分「理解」し、取材対象の方にとって、自分の発言意図を 「微塵も」捻じ曲げられることなく記事が出来上がっていく過程を知ることができたので、「うつノート」連載時の読売担当部署の、ジャーナリストとしての 「非常な良心性」は確証できる)。
新聞掲載時に連載記事を読めなかったけれども、この特集に何らかの情報で関心を抱いていたけれども全体像に触れ得なかった人たちを含めて「まとまった一冊の本」として「通して読める」という形にまとめられただけでも存在価値があるのだと思う。
第II部「情報編」はやや雑多な形になり、双極性障害についても、より体系的な一般向けの類書は他にも出ているかも知れない。だが、この記者さん の手記連載の後、読売新聞が、うつ病に限らず、他紙の水準を超えた良心的なメンタルヘルス・医療関連の特集を展開し続けるひとつの大きなきっかけになった 原点も、まさに本書に収録された記事たちの連載にこそ、あったと言えるはずである。
なお、この記者さんは、当初通常のうつ病と診断され、双極性障害II型に診断変更・投薬変更されるまでに、実に4年間の期間を要している。双極性 障害II型の診断が適切な人に、気分安定薬を伴わない、抗うつ薬のみ中心の薬物療法がなされると、その人の躁鬱の波はどんどん極端になっていく場合も少な くないので、本書の体験記の中盤まで描かれているこの記者さんの躁鬱の波の大きさは、[双極性障害II型本来の波]+[当初の4年間の投薬が不適切だったゆえの増幅の強化]という複合的なものであると想定できることに注意して読まねばなるまい。
つまり、4年間の気分安定剤なしでの薬物療法のおかげで、症状が「こじれた」可能性も考慮せねばならないのである。「双極性障害 -躁うつ病への対処と治療」(加藤忠志著)によると、このような形で生じる躁鬱の揺れのことを「物質誘発性気分障害」と呼ぶらしい(p.44。もっとも、「抗うつ剤の投与を中止して4日以上続くような軽躁状態があった場合には、双極性障害と考えた方がいい」とも付記されています)。
このことに留意しないと、本書第I部のp.69で「かつてのような大きな波はない」と明言される「前の部分」までで描かれたこの記者さんの「睡眠3時間」の高揚状態での活動のありようは、双極性障害「II型」とだけいうには、「躁状態」が激しすぎる状態にあったのではないかとすら戸惑う人すら少なくないかもしれない。(本書p.44に、それが「抗うつ剤」の処方のせいもある可能性を当時すでに医師に示唆されていたことが書かれている)。
「II型」と診断される人でも、繰り返す鬱の波から脱した「一番いい」状態の時期ですら、ほとんどの場面で、おだやかで安定した状態(本書p.88で上司の方がお書きのように、本人からすると「少し落ち込み、やや調子が悪い」と体験される)」でいられることが多い人もたくさんいるのである。これは診断されるお医者さんによって意見が分かれるのかもしれないが、敢えて注意を喚起したい。
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