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2009年8月

2009年8月11日 (火)

鬱に陥った人の休養期の衝動買い現象

 おいでになるクライエントさんの話を聴いていると、欝になって休養を取って休んでいた時期に、それまでやったことがないくらいの衝動買いに走ったという話を聴くことは決して稀ではない。はっきりいって、かなり一般的ですらあると感じている。

 衝動買いを、双極性障害の人の躁状態における典型的行動である・・・・などという教科書的理解をするたけで説明が済むとはとても思えない。

 SSRIなどの抗うつ薬の副作用で「躁転」した時期に生じやすいという場合は確かに含まれているかもしれないが。

 かといって、このような行為に走る人は、いわゆる「新型うつ病」(非定型うつ病)の人に多い・・・・などということを軽々しく言うのも、避けたほうがいいように思う。 私の印象では、この、「衝動買い亢進状態」は、古典的な「メランコリー型」の鬱に類型してもよさそうな人にも、休養のある段階で実は結構見られる気がしてならない。

 そして、どうも、この「衝動買い」現象は、ある程度以上重度の鬱の人の休養治療初期に見られる、「身体を1メートル動かすのもたいへん」という寝 たきりに等しい状態(これは、例えば、気を張り詰めて働いていたのやめ、実際に休むことに決めた翌朝に心身に襲い掛かり、本人もあっけにとられる水準のも のとなり、かなり順調に行っても数週間続く場合がある)を脱して小康を得て外出できるようになった、最初の段階ですでに生じることも多いようである。

 鬱の人・・・・むしろ古典的な鬱傾向の人場合にむしろ余計に当てはなることかもしれないが、充実感を感じられる"task”が着実に目の前にないまま、「まったりと過ごす」ということは、病気になる前からそもそも苦手なのである。

 鬱の人は「暇をもてあます」状況にはそもそももろい。「ともかくしばらくはゆっくり休んでください」「無理はしないで」といわれて「そっとされている」鬱の人は、周囲の人からは想像できない次元で、実は窮地に陥っているのだ。

 鬱の人とは、基本的に、自分の中の「何か」が突き動かす「焦り」に巻き込まれ、安らかに穏やかに休息を味わう境地からは「程遠い」中で休養生活しているものである。

 中には、家事や庭いじり、日曜大工(仕事を辞めた人の場合には)ネットでの求職情報収集などを「熱心にこなす」ことに没頭し始める人もあるだろう。

 こうしたことを性急に「熱心にやり過ぎる」と、それだけで再び鬱が悪化する引き金となり、「ああ、まだ私は治りかかったいたわけではないんだ」と落ち込むという、「二次的な鬱」の悪循環になる場合少なくないのだが・・・・

 しかし、そういう性急な活動開始の結果生じたてん末を、単に一緒になって失望したり、「言ったことじゃない!!無理しちゃ駄目じゃない! 休んで いないとならなかったのよ!!」と責めるみたいな反応しかしなかったら、急用中の鬱の人は更に自己嫌悪の泥沼にはまるだけであろう。

 せめて、「残念だったね」とやさしくその悔しさを共にする心の余裕が、見守る人には欲しいものである。

 休養中とはいえ、鬱の人が、自分が「意味のある活動をしていない」ことにいかに耐え難い思いで悶々と心安らがずに過ごしていることが多いかは、家族すらほんとうには察し切れていないことが多いように思う。

 そうした"task"で時間を埋められないとなると、今度は購入した「もの」で空間を埋めたくなるという方向に転化してもおかしくはない。

*****

 もっとも、こうした発想だけでは不十分だったようだ。

 全く別のアングルから、欝で休養経験のある若い女性クライエントさんが、次のように語ってくれた:

「買い物をしている時だけ、自分は病人ではないという気分を味わうことができるんですよ。社会で普通に働けている人と同じフリができるっていうのかな? 

 鬱になってから、お店で店員さんと話し込んで、じっくりと品物を選びながら買うことが増えていた気がする。働いていた頃は、そうやって話し込むタイプでは全然なくて、ひとりで決めるタイプだった筈なんですけどね(^^;)

 街を、流行の服を着て、お店の紙袋ぶら下げて歩いているだけで、病人でない気分を味わえた。実社会から降りていて、普通に働いている人たちとの間に超えられない隔てができてしまっているという、心の空洞を、そうやって埋めてしまいたかったのだとも思います」

 このようにしてまでも自分で自分を慰めるしかない心の機微を汲むことをまずはしないままに、衝動買いのやりすぎ自体はよくないとばかり言い出すようなカウンセラーではありたくない気もする(^^)

 衝動買いが現実的な問題を生み出すことをどうしたらいいのか?ということを一緒に考えていくのは、次のステップである。

 「ものを買うばかりではない形で、そうした心の隙間を埋めるにはどうすればいいのか?」

(例えば、人との出会いもありそうな習い事に投資する形も考えられないかとか)

 あるいは、

「買い過ぎを押さえるには家計簿をつけてみて、検討してみないか?」

 など。

 ・・・・何か、私なりのソリューション・フォーカスド・アプローチじみた物言いだが(^^)

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2009年8月12日 (水)

フォーカシングをやる中でイメージがひとり歩きし始めることに困惑しているみなさんへ

 フォーカシングをしようと内面に注意を向けると、気になる事柄や身体の感じとの関連すら不明確な形で、あるイメージが「忽然と」生じてきて、それ をただ「感じよう」としていると、イメージが別のものに変化して行き、突然消えてしまったりする・・・・・こうしたことに困惑するフォーカシング学習者の 方は、決して珍しくないようです。リスナー(ガイド役)をしている側の人も、目の前のフォーカサーがこうした展開をはじめると、結構対処に困ることが少な くないかと思います。

 これが、身体の感覚についての「イメージ的」な表現であれば、多くの場合、対応にそんなに困惑しない筈です。単に身体感覚を「どのように」表現す るかということであるに過ぎませんので。身体感覚と密着したイメージは、実際に身体の感じが変化していく小さなステップが生じないままに「一人歩き」する ことはあまり生じませんので。

少なくとも、

「なぜか、嵐か何かで大きな枝が折れてしまった樹木が浮かんできました」

などといったものなら、何か「意味シン」ですよね(^^)。フォーカサー自身も、ガイドの側も、これなら、自分の抱えた問題や、存在のあり方と関係 しているものとして、フェルトセンスの次元で体験する「きっかけ」にはなりそうだという意欲(?)をかき立てられそうです(^^)

ところが、例えば、「目を閉じると、私の前で球体が輝いているのが見えてきました。見ていると、きれいですね」などとフォーカサーが報告したら?

今回は、ちょっとこの問題について、私の考えと、実践的対処法について述べてみましょう。

***** 

イメージは、内側に触れようとする中から、自然と生じてきたものである限り(つまり、意図的に何かを思い描こうとしたり、展開させようとしたのではない限り)、身体のプロセスの中から生じてきたものであることは違いないとは思います。

イメージが生じてきた(別のイメージに転換した)時に、例えば、

「この(新たな)イメージは、自分の置かれた状況や生活や存在のあり方、課題、気がかりや悩みと、どこかで何か響きあっているのかな?」

などと内側に(身体に)問いかけてみるのはいかがでしょうか?

身体の方が、この問いかけに対して「うなづいて」くれれば(たいてい、身体の中の「どこか」特定の部分の感じが、ポッと明かりがともるように鮮明に なり、「そこ」が応答してくれる形になるかと思います)、そのからだの「その」部分の感じとイメージの両方を共に大事に歓迎しながら、しばらく「共にい て」あげてみるのでいいのだろうと思います。

そういう際に、どんな気がかりや、生活状況と関連しているのかが具体的にピピッと実感できることもあります(頭で「推理」しようとしなくても。こうなるとそれはそれ自体小さなシフト(実感的な変化を伴う洞察)体験だといえます)。

例えば、先ほどの2つめの例の、「光る球体」について、自分の内側にこの問いかけをしてしばらくすると、胸の辺りに、何か「キュン!」とする感じが生じて来たします。そうなれば、

「ほんとうはこの光る球体は私の胸の中にあるんですよ」

だとか、

「暗闇の宇宙に浮かぶ光る天体・・・・確かに美しいんですけど、何か凄く孤独で寂しげな気がします。・・・・・「孤独で寂しい」・・・・・「こんなふうな」寂しさを私は感じながら生きているのかな? 私って、結構ナルシストなのかな?」

などという方向に展開したとすれば、もう、そのセミナーに参加している誰も、「この人はフォーカシングをしているのだろうか?」などと疑うことはないはずですよね?

(もっとも、私は、フォーカシングを学ぶ場が、「これはフェルトセンスを体験しているということなのだろうか」だとか、「これでフォーカシングをし ていることになるのか」などということについて、ああだこうだと頭で論議する場になるようでは、そもそも好ましくないと思っています。大事なのは、「きちんとフォーカシングできること」ではありません!! フォーカシングを学ぶ場で、あなたが「満足する」ことです。「あなたが」満足できないのなら、フォーカシングのワークショップに通うことなどやめてしまいなさい)

*****

 その一方、「自分のなかの具体的にどういう課題と関連しているのかはっきり実感できないけれども、それでも、「どこかで何か」自分のあり方と関連して、このイ メージが生じていそうだという実感があるのであれば、それが具体的に「どういう」自分のあり方となのかを性急に捜し求めなくてもいいのですね(そうした気づきは、必要な時に「向こうから」やってきます)

*****

 そもそも、内側に注意を向ける中で自然発生的に生じてきた(つまり、無理やりに思い描こうとか、展開しようとしたのではない)イメージというのは、私は、体験過程の「暗黙の機能」の働きとして生じてきたことを信頼していいとは思います。

「暗黙の機能」とは、フェルトセンスとして注意を向けることすらしない(できない)次元で進行しているプロセスのことです(ジェンドリン論文集 「セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解」(村瀬・池見他訳)所収の「人格変化の一理論」、p.181の「d)知覚と行動の暗々裏の機能」参照)。

イメージは、この「暗黙の機能」の中から、直接に、いわば「バイパス・ルートを通って」意識に浮かび上がる場合も少なくないのですね。

つまり、イメージが、フェルトセンスを「飛ばして(スキップして)」生じてくることも、それはそれで自然な営みとして受け止めておくのがいいいように思います。

それは、昔ながらの心理学用語で言えば、「解離(dissociate)した」プロセスです。しかし、解離したプロセスですら、自分に「統合」されていないけれども、やはり「自分の-中から」から生じてきたことには変わりがないわけです。

ですから、技法としてのフォーカシングをする際に、仮に、生じてきた「その」イメージが、自分の気がかりや生活上の課題や存在のあり方とどこかで何か響きあって生じていることを、身体の感じが「裏付けて承認する」返事をその時には返してくれなくても、それでも敢えて、

「今は全然ピンと来ないけど、自分のあり方と『どこかで何か』関係する形で生じてきてくれたのかもしれないね。ありがとう

などと、そのイメージそのものに、一声かけてあげておく意味はあるのではないかとは思います。

 

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2009年8月13日 (木)

「孤独」に病むこととしての鬱

 一度、この、非常に素朴な「原点」に立ち返ることが非常に大事ではないかと、最近感じるようになった。

 たとえ職場で勤勉に、必死に働き、同僚たちと普通に会話をしているかに見えても、家族との対話が失われていないかに見えても、徐々に欝へと向かいつつ人の心中には、ある「孤独」が根を張りつつあることが多かったのは間違いないことと思う。

 自分の感じている辛さの核心部分を、周囲の気の許せるはずの人たちにですら、あからさまに打ち明け、グチをいうことすら諦めてしまう心境に、いつの間にかなっていた人が、少なくないであろうということ。

 こんなことまで相談したら、場の和やかさを壊しそうだ。
 こんなことで相談したら、自分の弱みを見せることにしかならない。
 こんなことで相談しても、どうせお説教や、ありふれた激励が返って来るのが関の山だ。
 どうせ、理解されない。
 弱い人間と見られるだけだ。

 日ごろ接する人の前では、明るく元気そうにすらふるまい、自分の心の中だけで、徐々に追い詰められていく自分を感じている。

 破局の予感すら時折覚えながらも、「いや、そんなことはない。何とか切り抜けられる」と自分に言い聞かせ、無理を続ける日々。

 気がつかないうちに、その「やせ我慢」が、実はとてつもない域にたどりついているというのに。

 こうした経緯を全く経ないないまま、本格的な欝状態に陥っていった人など、どこにもいないであろうこと。

*****

 そして、実際に鬱が本格化して、通院などの治療もはじめ、それ相応の病気への理解と配慮を得られるようになって、症状がかなり和らぎ始めてからも、得てして、その孤独の核心は癒されていないままなのである。 

*****

 繰り返すが、この、「孤独」と「無理」という、一見当たり前すぎる事柄に立ち返ってみないと、鬱の 人への医療や精神療法のあり方だとか、社会復帰のあり方についての議論が、変な脇き道にはまり込みかねないのが、今日の、鬱についての情報だけは以前よりもはるかに豊富になり、錯綜を極めるようになった日本社会の現状ではなかろうか。

内心の孤独に病みながら無理を重ねた行き着く先、人はどうなるのか?・・・・・そこには、うつ病についての細かい疾病分類云々以前に大事にされねばならない、ベースラインがあるはずだ。

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2009年8月15日 (土)

「私のうつノート」書評 (第3版)

 苦しいうつ状態を脱して、今度こそ前向きに意欲的に生きようとすればするほど、自分でも自覚できないうちにいつの間にか簡単に「オーバーラン」し てしまい、再び燃え尽き、振り返ってみたら、その高揚状態での活動が周囲にいかに無神経で、迷惑をかけていたかに今更のように気がつくという、波打ち際で 「砂の城」を築くかのような不毛の繰り返し。「自分で自分のペースが取れない」という行き場のない苦しみの中で、何とかバランスを以前よりうまく取れるよ うに、生活の細々したところまで少しずつチューニングし続ける、あまりにも地味でコツコツとした試行錯誤の過程。自分はもう大きな夢は追えないのか? かつての活動的な充実した日々はすべて「軽躁」という「病」のなせる業に過ぎなかったのではないかという煩悶。そうした中で、これからの人生を、より「地に 足を着けて」歩んで行こうという境地に徐々に近づけていくかどうか?

 それが「双極性障害」を生きるということ。

 恐らく、日本では、この読売新聞の記者さんの生々しい闘病記の新聞連載まで、そもそもそうした「双極性障害を生きる」ということのリアルな現実が、お茶の間に届くということそのものがなかったのではないかと思う。

 ここで描かれる、休職の中で順調な回復軌道に乗ったたかにみえたのに、再び躁傾向を押さえきれなくなり、そうした挙句、再び燃え尽きて欝状態に泥 のように沈み込み、絶望の中から小康を得て再出発をしようとすると、またもや簡単に「スイッチが入りすぎて」やり過ぎになるいう、上ったり下ったりの泥沼 のような生き様を読んだ時、この病気に苦しむ人たちや、ご家族等の関係者の深い共感を呼び起こし、「同じことで苦しんでいるのは自分(たち)だけではな い」という連帯の輪をどれだけ広げたことだろうか。

 ここ2,3年マスコミでうつ病問題がこれだけ深く掘り下げて取り上げられるきっかけを作る上で、読売新聞が、所属記者の闘病記を連載することからスタート した「私のうつノート」シリーズが、大きな起爆剤となっていることは間違いない。例えば、NHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」が、実はこの読売の連載を大いに参考にして作られたものであることは、内容を照合すると非常に明白であることに、今回読んで気がついた(誰をゲストに呼ぶか、とか、双極性障害II型と通常のうつ病との鑑別診断の難しさや治療法の違いを番組の大きな主題とするなどの点で)。

「第I部 体験編」前半の、記者さん自身の体験記、「1.私のうつノート-双極性障害の記録」(記事連載時に、第27回ファイザー医学記事優秀賞受 賞)には、ご本人のみみならず、当時奥さんが実はどのような思いをしていたのかも細く触れられている。続く第I部後半「2.うつ病闘病中の同僚記者と」で は、当時上司だった方の目からの報告がなされている。「自分たちの同僚に生じてしまった病と、そこから生じてしまった事態」を、その混乱の渦中にありつつ も重く受け止め、特集として取り上げ続けた、読売新聞生活情報部の記者たち「共同制作」の、ジャーナリストとしての良心の軌跡としての、迫真の「ルポル タージュ」という視点で、本書の存在意味を眺めてみたらどうだろう?

(私は、偶然のなりゆきで、この本にまとめられた連載の中のある特定の回の記事で取材を受けた人物を通して、こうして本にまとまられるとわずか2 ページにしかならない1回分の記事を書くために、記者さん(体験記の筆者ではなくて、その同僚の方)が、取材対象の方に2回「直接」会いに来るばかりか、 ごく短期間に「数冊の」関連書籍を「新たに」読破し、しかもその本の内容を記者さんが明らかに十分「理解」し、取材対象の方にとって、自分の発言意図を 「微塵も」捻じ曲げられることなく記事が出来上がっていく過程を知ることができたので、「うつノート」連載時の読売担当部署の、ジャーナリストとしての 「非常な良心性」は確証できる)。

 新聞掲載時に連載記事を読めなかったけれども、この特集に何らかの情報で関心を抱いていたけれども全体像に触れ得なかった人たちを含めて「まとまった一冊の本」として「通して読める」という形にまとめられただけでも存在価値があるのだと思う。

 第II部「情報編」はやや雑多な形になり、双極性障害についても、より体系的な一般向けの類書は他にも出ているかも知れない。だが、この記者さん の手記連載の後、読売新聞が、うつ病に限らず、他紙の水準を超えた良心的なメンタルヘルス・医療関連の特集を展開し続けるひとつの大きなきっかけになった 原点も、まさに本書に収録された記事たちの連載にこそ、あったと言えるはずである。

 なお、この記者さんは、当初通常のうつ病と診断され、双極性障害II型に診断変更・投薬変更されるまでに、実に4年間の期間を要している。双極性 障害II型の診断が適切な人に、気分安定薬を伴わない、抗うつ薬のみ中心の薬物療法がなされると、その人の躁鬱の波はどんどん極端になっていく場合も少な くないので、本書の体験記の中盤まで描かれているこの記者さんの躁鬱の波の大きさは、[双極性障害II型本来の波]+[当初の4年間の投薬が不適切だったゆえの増幅の強化]という複合的なものであると想定できることに注意して読まねばなるまい。

 つまり、4年間の気分安定剤なしでの薬物療法のおかげで、症状が「こじれた」可能性も考慮せねばならないのである。「双極性障害 -躁うつ病への対処と治療」(加藤忠志著)によると、このような形で生じる躁鬱の揺れのことを「物質誘発性気分障害」と呼ぶらしい(p.44。もっとも、「抗うつ剤の投与を中止して4日以上続くような軽躁状態があった場合には、双極性障害と考えた方がいい」とも付記されています)。

 このことに留意しないと、本書第I部のp.69で「かつてのような大きな波はない」と明言される「前の部分」までで描かれたこの記者さんの「睡眠3時間」の高揚状態での活動のありようは、双極性障害「II型」とだけいうには、「躁状態」が激しすぎる状態にあったのではないかとすら戸惑う人すら少なくないかもしれない。(本書p.44に、それが「抗うつ剤」の処方のせいもある可能性を当時すでに医師に示唆されていたことが書かれている)。

 「II型」と診断される人でも、繰り返す鬱の波から脱した「一番いい」状態の時期ですら、ほとんどの場面で、おだやかで安定した状態(本書p.88で上司の方がお書きのように、本人からすると「少し落ち込み、やや調子が悪い」と体験される)」でいられることが多い人もたくさんいるのである。これは診断されるお医者さんによって意見が分かれるのかもしれないが、敢えて注意を喚起したい。

読売新聞生活情報部/私のうつノート

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2009年8月24日 (月)

フォーカシングにおいては、内なる「批評家」だけが厄介なのではない。

フォーカシングを学んだ人なら、「内なる批評家(inner critic)」という概念があるのをご存知だろう。

この「内なる声」については、自分自身を厳しく叱責する「批判的な」声といういうふうに一般には受け止められ勝ちかと思う。

しかし、実は、もっと広い意味で、自分のフェルトセンスからではない形で出てくるさまざまな内側の声全般に当てはまるとみなす方が的確なのではないかと思う。

例えば、

「人生、そんなにうまくいくことばかりじゃないよ」

「無理のし過ぎはよくないよ」

「病気だから仕方がないではないか」

「おまえはもう十分に頑張っているよ」

などといった内側からの声ですら、実はフォーカシングを進める上では障害になる場合が少なくないということである。

私は、こうした一見もっともそうなことを言い始める内側からの声のことを、

我が内なる『知ったかぶり』
内なる『ええかっこしいでいいとこ取りな同情者』
『人生の達観者』からの声
内なる『表面的ななだめ役』

などと名づけている(^^;)

 こうした声についても、

「ご説ごもっともで、感謝申し上げます」

と、一応"say hello"して「認めてあげた(acknowledging)」上で、脇に控えていただくことをしないと、ほんとうの内面との対話が始められず、フェルトセンスからの、更に細やかで切実なメッセージを受け止めていくことはできない場合もあることを、日々心しているのが、一フォーカサーとしての私である。

 ちなみに、この種のことは、アン・ワイザーさんもくわしく書いています。例えば、「フォーカシング入門マニュアル」の第3章「フォーカシングを妨げるもの」にも、しっかりと例が書いてある(特に、3.7「それを直すこと」の項で触れられた、「それをつくろいたい、直してあげたいという気持ち」というあたりのことが、今回私が書いてみたことと一番近いだろうか。

=======引用はじめ========

「痛みや苦しみに出会ったとき、何としてでもそれを繕いたい、直して(fix)あげたいという気持ちを覚えるのは当然のことです。唯一の問題は、これがいかに[自分への]善意のつもりでも、フォーカシングのプロセスの妨げになるということです! 

(中略)

フォーカシングでは、あなたが或るフェルトセンスと一緒に座っている時の[必要な]態度というのは、そのセンス(感覚)がどんな感じか、何を必要としているのか、[フェルトセンスに傾聴する「あなた」の方は]まだ知らないといったものです。大急ぎで繕ったり直そうとしたりすることは、「私が何を必要としているのか、もう知っていますよ」と言わんばかりの態度です。それよりも、耳を傾けて、あなたに向かってそれ[=フェルトセンス]に話してもらいましょう。こうすることで、あなたの内的な自己との信頼おけるポジティヴな関係が広がり強まるのです」(pp.81-2 太字による強調と [ ]内はこういちろうによる補足)

=======引用おわり========

「贔屓(ひいき)引き倒し」になりかねないのに、同情的で「理解ありげな」見地ばかりを振り回す、「評論家」というものはこの世にいくらでも存在するではないかと(^^;)

 

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フォーカシング指向心理療法の認知行動療法的活用についてのとりあえずの覚え書き

 このテーマ、このブログでも以前からお約束していて、書こう書こうと思っていたんですけど、あまりにも大きなテーマで、まだまだ勉強不足と感じている段階ですので、とりあえず、今構想していることを、備忘録的に書いておきます。

 フォーカシングと認知行動療法(ABAも含めて)、両方の技法に関心がある人にも、今私がいろいろ思いながら試みつつあることを未整理のままでお伝えするだけでも、何かヒントになるかもしれませんので。

*****

 認知行動療法におけるオーソドックスな「記録表」とか「カラム表(コラム表)」と呼ばれるものを、私なりに咀嚼して、フォーカシング的に味付けをした形態を示してみよう。

  1. いつ?
  2. どういう状況で何をしていて、
  3. どんな気分や感情や身体感覚(フェルトセンス)が生じてきたか。
  4. それに対してどういう受け止め方(考え方・認知)をして
  5. その結果、更にどんな気持ち(気分、身体感覚・・・・フェルトセンス)になったか。
  6. その直後、どういう行動を取ったか。
  7. その結果状況に何が生じ、
  8. どういう気持ち(気分、身体感覚・・・・フェルトセンス)になって、
  9. それをどのように受け止め(どういう考え方・認知をして)、
  10. 更にどんな気持ち(気分、身体感覚・・・・・フェルトセンス)になったか。
  11. その直後どういう行動を取ったか。

・・・・・このあと、必要あれば、このローテーションを1.から再度繰り返す。

 こうしたことを生活の中で記録する「宿題」をいきなり出されたら、多くのクライエントさんにとっては負担以外の何者でもないだろう。

 むしろ、カウンセラーが順を追って質問していき(あるいは、クライエントさんの語りを大事にしながらも、「穴埋め」的に徐々に質問して、答えを引き出していき)、むしろカウンセラー側で整理 して、図表のようにして呈示することもできるだろう。

 まず最初の段階では、クライエントさんのある特定の日に生じたひとつのエピソードだけを取り出して、その出来事のに何があり、どうか感じたのかを拡充していく形で、このくらい分節化して一覧にして、カウンセラーと二人で、

「なぜここでこういう感じ方をして、こういう行動になってしまったんだろうね?・・・・その結果が結局こうだものね。こういう結果に至らずに済んだとしたら、この日のどこに認知や行動の分かれ目があったんだろうね?」

・・・・など検討してみるというだけでも、カウンセリング場面を、非常に生産的で、クライエントさんにとってもやりがいがあるものにする可能性は高いであろう。

 そして、こういう、ある特定の日の特定のエピソードだけではなくて(クライエントさんに毎日日記のようにつけてもらうところまでしなくても)、面接のたびごとに、その時クライエントさんが語るエピソードについてこうしたことを数回繰り返すだけでも、そのクライエントさんが生活全般の中で繰り返している、認知と行動(問題解決)バターン固有のクセというのものは、法則化可能な次元まであぶり出されて行き、二人で一緒に検討していける材料は、当面出揃うと思うのである。

 私の理解では、認知行動療法的アプローチのベースラインになる「カウンセラーと共に考える(見直してみる、再検討する)」というのは、このような 素朴な水準の検討であり、それを洗練させていくいちに、今日使われる、いろいろな技法が使われるようになった・・・・という視点は大事だと思う。

*****

 さて、認知行動療法にフォーカシングや体験過程理論による「味付け」をしていく勘所について説明を後回しにしてしまっていたので、次に述べたい。

 オーソドックスな認知行動療法においては

状況に対する「認知」の結果として、ある「感情」が生じ、
その「感情」に基づいて「行動」が生じる
(「状況」→「認知」→「感情」→「行動」→「新たな状況の生起」)

という基本的な図式を用いることが多いというのが私の理解である。

 「認知」が先にあって、感情が後に「生じる」というだけでは認知と感情の相互作用は説明できず、実際には、今度はそうやって生じた感情に対する 「認知」が更に生じて、それが更に新たな「感情」を巻き起こす・・・・などという細かな相互作用がどんどん生じているものであろう。つまり、「刺激」は 「反応」を生み、今度は「反応」そのものが次の「刺激」となるという、あたりまえのことである。もちろんここまでのことは、認知行動療法の人たちも重々ご 承知で、技法的にもそもまで手抜かりなく配慮していると言われることだろう。

 これにフォーカシングや体験過程理論を援用すると、人間は「はっきりとした」感情や、「単なる」気分、「単なる」身体感覚が具体的に生じて来る次元とは別に、未分化で曖昧な漠然とした「感覚」それ自体(「実感」そのもの)として状況をまるごと感受する次元(フェルトセンス次元)というものが、人間の認知や感情や行動の生成過程に大きく関与していることを、更に細かく分節化して抽出することが可能になる。

 より理論的に言えば、認知行動療法の理論で「自動思考」と呼ばれているものは、体験過程理論でいう「構造拘束的(structure-bound)な」体験過程様式に該当する。

 人は、ある一定の、共通する外的・内的布置(constellation)を持つ状況に置かれると、同じ感じられた質のフェルトセンス(正確には、フェルトセンスとしてとして直接注意を向けることが「可能なはず」の、曖昧な実感)を体験することを繰り返す

 そのフェルトセンスにフォーカシングすることをしないままなので、人はいつも同じ状況になると同じような気分になり、同じような以前からの受け止め方(認知)の虜になり、同じような反応・行動を取り、同じように行き詰るという堂々巡りの連鎖から抜けられない。

 誤解なきように言うが、別に技法としてのフォーカシングが介入しないと、この「構造拘束的な」悪循環の輪から抜け出せないと言うことではない

 「別な認知(とらえ方)をしてみる」ことや「別な行動をしてみる」ことをセラピストの側から具体的に「提案」したり、先に試みられることは、フォーカシング的観点から見ても何も差し支えないばかりか、強力な効果を発揮することがある。

 フェルトセンスとの照合によるによるモニタリングは、認知を変えてみたり、行動を変えてみた後で、「後追いで」発揮させても、何ら差し支えはない(このことを、フォーカシシングを知らない人も、日常の中でさりげなくある程度「やっている」し、認知行動療法を受けている人も、自然発生的にかなりの程度「できている」ことにはなる筈である)。

 しかし、その人にとって無理のない行動から少しずつ本人が見つけ出して試していく過程を「共に考える」形でのサポートは大事にしていいだろう。これは行動療法の暴露反応妨害法などでも大事にされている「目標行動のスモール・ステップによる形成化(シェイピング)」だが、実はフォーカシングの世界でも「アクション・ステップ」と呼ばれる技法として以前から知られ、「フォーカシングの第7のステップ」として、最近は以前より更に重視されて来ている(この「アクション・ステップ」についてはこちらで私なりに詳しく実例を書いてみました)。

 シフトとは、別にフォーカシングをして、ぴったりの言葉をシフトと共に見つけ出す際にはじめて生じるものではない。フェルトセンスに直接注意が向けば、それだけでシフトになることも少なくないのだが、実際問題として、人が実際にある行動なし終えただけで、その人の中にシフトが生じることは多い。むしろ日常の中ではそうしたシフトの方が遥かに多く、当たり前のように生じているはすだ。

 例えば、あなたが、事故の影響で電車ダイヤが少し乱れた中、会社に遅刻せずにたどり着けた瞬間感じる「ほっとする」感覚と、身体のちょっとした脱力だって、立派なシフトなのである。

(フォーカシングを学んで来た人のほうが「え? それだけでもシフトか?」とびっくりされそうですが、「未完了(incomplete)」だったプ ロセス、すなわち「時間通りに会社にたどり着けるかどうかについてのモヤモヤ」が、やっと解放されてスッキリした(「完了(complete)した)こと には変わりないわけですね。、電車が定刻より遅れて来ないホームに立っている時や駅の途中で停止した時の体験していたであろう、不快なフェルトセンスは、 会社にたどり着けた時には、見事に「解放」されているでしょう? 更に言えば、空腹の時に食べ物を食べたことによる満足だって「シフト」なので す。・・・・このように見て来ると、「フォーカシングしてはじめてシフトが起こる」「シフトが生じるのにはフォーカシングが必要」みたいな思い込みからどんどん自由になれるかと思います。行動そのものがシフトを引き出すことがいかにありふれているか!!)

 そうではなくて、そうやって定刻にたどり着けたのに、全然身体がほっとした気分にならないで、次の瞬間には別の重苦しい思いにばかりとらわれるとすれば、そちらの方こそが(フォーカシング学習者なら)「意識的な」フォーカシングの対象にできるだろうが。

 次に、「行動」ではなくて「認知」について考えてみましょう。

 そもそも、認知行動療法でのような、「そのことについては別のとらえ方ができるのでは?」というリフレーミングにあたることを、日常の中で私たちは困難にぶつかるたびにある程度は自然発生的にやれているはずである。

 そうした「とらえなおし」によって実際に気持ちが楽になることはあるし、「ほんとうはどうであろうと、このようにとらえておく方が無難だ」という現実的判断としてのダブルスタンダード・・・・例えば、

「相手に敵意があると仮定しない方が、対人関係もうまくいく。特に今のあの人との関わりにおいては、こちらの過剰な警戒心は、むしろ相手の敵意を無用に引きずり出すリスクを高める」

・・・・などと、むしろ実際的処世術の観点から、ものごとの受け止め方を決めるということも、多くの人は日常で少なからずやっているはずである。

 しかし、そうやって、自分なりに、いろいろ「やってみて(行動してみて)」も、「とらえなおし」をいろいろと試みてみても、心定まらず、現実生活の中で「堂々巡り」を抜け出せないからことも多いのですね。

 そういう時に、人はセラピーの門を叩いたりするのだと思います。

****

 ところで、そもそも、そのような個々の「とらえなおし」を意味があるとか的確だと判断しているのは、単にその人の合理性や論理性、すなわち「理性」であろうか? 実際に行なった「より適切な行動」を評価しているのは「理性」であろうか? フォーカシングの立場からすれば、それを最終的に受け入れているのは、その人の実感そのもの=フェルトセンスからの肯定のサインと、小さなシフト体験とそれに伴う心身の安堵それ自体(つまり、身体に「腑に落ちる」かどうか!!)である。

 この点で、平均的な認知行動療法の場合、そうやってとらえ直す「前」と「後」とで、(単なる「知的納得」ではなく)自分の中に感じられている実感がどのくらい変化(シフト)したかということを照合して確認するということを「くっきりとは」やっていないことが、フォーカシングを学んだ人間からすると、もったいなくすら思えてならない。

 私たちは、人の話を聞いて、「なるほど、そういうとらえ方もできますねえ」などとこたえつつも、実は心の中では、その人のとらえ方に違和感ビンビンにことなんて、ありふれてあるではないか? 

 認知行動療法を行なう空間が、単に「先生(セラピスト)に対する「優秀な生徒」として、より適応的な認知という「模範解答」を呈示して、とりあえず「先生」の承認を得るための「ゲーム空間」に過ぎなくなる危険はあるのではないか?(私が体験者に聞いた範囲では、認知行動療法の「グループワーク」になじめない人の少なからぬ部分は、そういう「場の空気」を感じて違和感を隠し切れない人たちのようである)

 ほんとうにその人の生活の中にまで影響を与え続ける「新たな認知」とは、本人自身が、そのようにとらえなおしてみることで心身が実際に楽になるという裏打ちがあって受け入れられた認知のはずである。 

 フォーカシング的に言えば、小さなフェルトシフト体験を喚起するような新たな認知は、その新たな認知を受け入れた際に生じた新たなフェルトセンスと重ね合わせて繰り返し反芻(すう)して味わう(=「共鳴させる」)と、更にその中で、その人の中にしっかりと定着するのである。

 例えば、

  1. (いつ?)おとといの夜、
  2. (状況)知り合いに留守電を入れた後、そのひとから昨日の晩まで連絡がなかった。
  3. (その時の認知)その時私は、「相手に迷惑がられているので返事が来ないのだ」と感じて、
  4. (生じてきた感情)不安になり、ひどく落ち込んでしまっていた。
  5. (その後の行動)私は、もう一度その人に電話をかけてみようかとも思ったが、その勇気が出ず、昨晩かけずじまいだった。

 認知行動療法だと、通常、この中の3.の部分の認知について、そこに「自動思考」がないか、「別のとらえ方」ができないか・・・・というふうに介入する筈である。

 例えば、

 「《一度留守電して、相手からの返事が得られないうちにもう1回催促の電話を入れたら、それだけで相手にとって非常に不快なことである》・・・・という自動思考が存在することが最終的に行き詰らせたのではないか? 社会常識的にみて、4回も5回も催促の電話をしたら相手も『うざく』思うかもしれないが、仮に昨晩更に「1回だけ」再度電話してみたとしても、相手はそのことで余計に不快に思う可能性はほとんど全くなかった筈である」

・・・・・このようにとらえ直してみる提案をして、更に、クライエントさんに、そうとらえてみるとどれくらい楽になるのか、身体の実感に聴いてみることを提案することが、フォーカシングを学んだセラピストならできるのである。

 これは、「昨晩実際に1回だけ電話をかけ、幸い、相手が快く出てくれていたらどうなっていただろう?」ということを、具体的にイメージしてもらい、そのイメージを身体で味わってもらうことによって、更に「強化」される新たな認知となる可能性が高いだろう。

******

 ・・・・いずれにしても、少し訓練を受けた認知行動療法のセラピストなら、クライエントさんの状況を観察して、いかにセラピストの目から見て、それがより合理的で好ましい認知や行動の仕方だと思えても、クライエントさんの方が、そうした受け止め方に難色を示す場合には、その部分を力技で説得してしまうのは好ましくないこと、つまり、新たな認知は「提案」であっても「押し付け」になってはならないことを熟知しているであろう。

 セラピストから提案するにしても、更に別のとらえ方がないかどうか、アングルを変えて提案するであろう。

 そして何より、クライエントさん自身が、自分で、自分なりに、別の受け止め方がないかどうかを自立的に探索する姿勢をこそ喚起しているはずである。

 ところが、そうやってクライエントさんが、「別のとらえ方ができないか」ということを自分で自由に探索してみる姿勢を取れるとはどういうことなのか? フォーカシング的に言えば「(問題と)距離が取れている(making a space)」中ではじめて可能なことなのである。

 フォーカシングでいう「内なる批評家の声(inner critic)」というのも、認知行動療法的に言えば、自己処罰的な「自動思考」である。

 フォーカシングを進めて行くにあたっては、実は認知行動療法で言う「自動思考」を次々と「棚上げ」にしていくセルフ・スキルの形成が、自明の前提として組み込まれてすらいるのだ。

*****

 認知行動療法をフォーカシング的にアレンジする際に、生粋の認知行動療法セラピストよりも強みになりそうなのは、フォーカシングを学んだセラピストは、クライエントさんの言葉ではっきりと説明しにくい、曖昧で漠然とした未分化な内部感覚をじっくりと傾聴しながら受け止め、クライエントさん自身が丁寧に、自分の気持ちにぴったりの固有の言語化を細やかに見つけていく過程につきあうことにめっぽう強いという点だろう。

治療者側からの「別な認知の提案」を、そのクライエントさんにぴったりの形でどう提案できるか、というセンスの向上にも、治療者側の、クライエントさんの過程に対する「感情移入的フェルトセンス」形成を経て思いつく提案の方が、杓子定規にならないで済むはずである。

 認知行動療法においても、カラムを書き込む際に、ある状況下において自分の中に生じてきた「いくつもの」感情について、パーセンテージで数値化しながら表示させてみるというやり方もあることは私も知っている。

 例えば、クライエントさんに、ある時に家族といさかいを起こした「直後の」感情について、

怒り(30%) 悔しさ(20%) 劣等感(20%)悲しみ(20%) 孤独(10%) 

などと記入してもらったりするわけである。

 これはこれで、繰り返しワークしてもらうと、自分の気持ちの襞を細やかに自覚していくスキルアップに役立ちそうなのですが。

 ただ、このようにして、人間のある一定の状況下での複雑な感情を、並行記述的(あるいは「微分的」)に無理やり展開して表現するという手法には、ある限界さと不自然さがあると思う。

 なぜなら、人が自分がそのときに体験している感情に貼り付けるラべリングは通常ひとつずつしかできないからである。

つまり、例えば、

私は、「怒り」を感じていたが、そのうち、「怒り」の奥に「悲しみ」を新たに見出した

というのが人間の自然な営みに即した感情(表現)過程(feeling prosess)であり、

「怒り」と「悲しみ」を感じている

などというのは、はるかに「人工的」な説明様式であろう。

私が今味わっているのは「砂糖40%」と「塩60%」である

と、料理に熟練しているわけでもない人には表現できるわけもないのと同じである。

 フォーカシングをやっている私のような人間がアレンジすると、次のようなやりとりをすることを連想してしまう(すでに、オーソドックスなフォーカシングの教示からすれば、「かなり思い切った草書体」に書き崩していると思うが)。

T:「その時あなたはどんな気持ちだった?」

C:「・・・・・やはり『怒り』でしょうかね」

T:「『怒り』(エエ)・・・・・そういう言い方でその時のあなたの気持ち、言い尽くせているでしょうか? もし、それが単に『怒り』だけではないとすれば、どんな気持ちなんでしょう?

C:「そうですねえ・・・・『悔しく』もあるかな」

T:「『悔しい』(エエ)・・・・・『怒っている』だけではなくて『悔しく』もあるんですね」

C:「いえ、そういう言い方よりもですね・・・・・『悔しい』から『怒って』いたというほうが近いかもしれない」

T:「ああ、『悔しい』から『怒って』いた」

C:「そうです。・・・・ほんとうは『悔しい』の方が強かったんでしょうね」

T:「ほんとうは『悔しい』の方が強かったようにも思えてきたんですね(エエ)。・・・・・では、その『悔しい』という気持ちは、いったい何を引き金として、どんな思いから生じてきたんでしょうね(直前の状況行動の探索)

C:「昔は弟よりも僕の方が勉強もできたし友だちがたくさんいたんですよ。でも今の僕は働けないまま病気で家にいる。弟はフリーターしながらも家に はお金を入れもせずにのうのうと生きていて、結構遊び回っている。そうやって夜遊びから帰ってきたばかりの時に、無神経に僕を軽蔑するようなことを言った んですよ。そういう弟に『悔しさ』を感じたんです・・・・・そうか! 『悔しい』って思うのは、今の僕は、あんな弟にですらも『劣等感』を感じはじめているていうことかもしれませんねフェルトシフトと共に、自分の感情についての新たな認知を獲得している)

T:「いつの間にか、弟さんに『劣等感』すら感じるようになっていたことに気づいたんだね(エエ)・・・・・今、君は『劣等感』って言い方をしたけど、もっと別の言い方ってできないかしらね

C:「弟に対して、いつの間にか『萎縮』してしまっていた自分がいるのかもしれない。いや、弟に対してに限らず、家の中で『萎縮して』しまっている自分が自分でも苦しいんですね(体験過程尺度でいうと、ある特定の状況についてのひとつの気づきが、より一般的な状況についての気づきに拡張しているので、stage7に該当する)

T:「その『萎縮』の感じを少し身体で味わってみて。・・・・・・そして、今度は、そうした『萎縮』から自分を魔法のように解放できたらどんな感じか、ちょっとだけ試してみるのもいいかもしれない(フォーカシングでいうaskingの教示のひとつのバリエーションであるともいえるし、解決指向心理療法で言う「ミラクル・クエスチョン」の典型でもある)

C:「・・・・・(沈黙)・・・・・ちょっとだけ身体が楽になりました。僕って、家を離れて、この面接室に出てくる時にまで、わざわざその『萎縮』をかかえて持ってきていたんですね」

T:「何もこの面接室にまで、ずっとその『萎縮』を抱えて来なくてもいいではないかと思えてきたんですね」

C:「そうですね。僕は何をそこまで、ここに背負ってくる必要があったんだ?、という気分ですね、今は。(弟さんとの事件があった後、「萎縮」を抱え続けていたことの「非合理性」についての気づき)

T:「・・・・ちょっと聞いてみたくなったんだけど、いいかな?(ドウゾ)、例えば、ここに来るまでの電車の中で、弟さんと同じ世代の、楽しそうな若い連中とすれ違う時に、そうした『萎縮』は感じていましたか?」

C:「・・・・・・・いや、待って。・・・・・そういう、すれ違う人たちから新たに刺激を受けて『萎縮』が更に募る感じがあるかってことですか? (ソウ、ソンナノ)・・・・・ちょっと待って下さいよ。・・・・・・うーん、そこまでは、なかったなあ・・・・ないですよ! そこまでは、さすが に。・・・不思議なものですね、あくまでも、弟の振る舞いだから、僕の気持ちをあれだけ揺らしている気がする。

・・・・こうした展開の中で、

少なくとも、弟を目の前にしてもいないし、家の中にいるわけでもない状況下でも、『萎縮』を感じ続けていく必要など、どこにもないではないか?」

・・・という新たな認識と、それに伴う心の自由が徐々に準備されていくのである。

 「弟に対してどう振舞うか」という課題は、次のテーマとして先送りしてもいいであろう。

 背後には、彼の中に、例えば、「人に叱責されたら、その時の辛い体験の実感は心身に刻み付けて味わい続けるべきであるなどという、一見何とも非合理的な自動思考(・・・・・親から同じことで繰り返し叱られるたびに、「叱られた時のことをもう忘れているのか? それはおかしい」という教育を我々は無意識のうちに受けているはずである)が隠れていたことへの気づきに結びついていくかもしれない。

******

 ・・・・・以上は、私の面接場面で普通にやっていることを脚色して再構成してみた創作と受け止めて欲しい。

 今の私の現場面接は、このような、やや「ソリューション・フォーカスド・アプローチ」や「認知行動療法」(更にはABAも。「論理療法」っぽくもありますよね)のテイストも混ぜ込んだ、フォーカシング指向心理療法である。

 ・・・・・何か十分な整理にならなかったかもしれないが、私が自分で現在展開し、進展させつつある、カウンセリングの方向性の進捗状況をその「未完成」のままでとりあえず公開したものと受け止めていただければ幸いである(^^)

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自分自身の内なる叫びや痛みのそばにたたずみ、思いやりを持って接することができること

私は、これがフォーカシングのアルファであり、オメガなのではないか?・・・などと、初心に帰るかのように、思う時があります。

英語のあいさつの慣用句である、

"Take care of yourself"
(「お元気で」、「どうかご自愛の程を」)

ということの本質も、またそこにあるのではないか。

あまりにも言い古された、「自分で自分を大事にする」ということはどういうことか?

単に、「アサーティブ」であること(自己主張のための健全なスキルがあること)だけではなくて、もっと手前にある、大事なことがある気がするのです。

(アサーションのトレーニング自体は、たいへんに有意義なものだと思っていますが)

他者との関わり以前にの問題として、まずは、自分自身との接し方において、人は得てして、自分を大事にできていないのではないか?

・・・・フォーカシングを学び、身につけていく過程ほど、「自分で自分を大事にする」ということの核心を生き生きと深く体験させてくれるものはないと、私は確信しています。

*****

 更に付け加えて、大事なことを。

「自分を愛することができない人間は、人を愛することができない」

という言い方がよくなされます。

フォーカシングを「技法として」学んでいるかいないかに関わりなく

こうした自分への労わりと愛しみを、まだ深く味わったことがないとすれば、そして、生活の中で、折々、自分自身に対してとることができないのならば、

その人は、他者に対する思いやりとはどのようなものかも、未だわかっていない(勘違いしたまま)なのかもしれないとすら思います。

「(ただのナルシシズムとは区別できる形で)自分を愛しむということを知らない人は、人を愛する(思いやる)ことをホントはわかってないのかもしれない」

ということです。

・・・・たいへん不遜な言い方かもしれません。お許しください。

 

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「第一に大切なのは関係であり、第二が傾聴で、ようやく三番目にくるのがフォーカシングの教示なのである。」

 タイトルは、「フォーカシング指向心理療法(下)」でジェンドリンが書いている言葉(訳書p.497)として、フォーカシングを学んだ人たちの間では、つとに有名な言葉のひとつであろう。

 この言葉は具体的にはどういう意味か?

 そのことを考えるためのヒント。

 

「リスナーがいる方がフォーカシングはやりやすい」

という言い方が良くなされるけれども、これは半分真実であり、半分は事実に反するというのが私の考えである。少なくとも、このことを絶対的にそうだと思い込むと大きな間違いだと思う。

 このことを、ある程度セルフ・フォーカシングに熟達したフォーカサーは良く知っているはずだ。つまり、自分にとって心地のいい空間で、ひとりきりで自分のリスナーをしながらフォーカシングをするのがうまくいく時の、我が内なるリスナーと、内なるクライエント(フェルトセンス)との内的関係性の深さと純粋性とインティメートなやさしさに満ちた交感状態は、正直にいって、ありふれた対人関係の中で感じられる気持ちの通じ合いなどの比ではないくらいに心を癒してくれるものである。

 自分の内奥から訴えてくる「何か」(フェルトセンス)という「もうひとりの自分」と「私」との間の、静かではあるが、圧倒的なまでの信頼関係の<絆>の感覚を味わえるものなのであり、極論すれば、自分の気持ちを他者に深く受け止めてもらうこと、他者に癒してもらうことに期待することが、何と空々しくて徒労な企てではなかったかと感じるくらいのものである。

 そうしたセルフ・フォーカシング体験を一度して。自分の中に理想的なリスナーやガイドを形成することに一定水準まで熟達してしまうと、生身のリスナーというのは、どうにも物足りない存在になる場合も出て来る。

 こう言っては失礼だが、生身のリスナーというのは、自分の中に飼っている(?)「理想的なリスナー」に比べると、どうにもこうにも鈍感で察しが悪くて不器用かつ人工的な存在に思えてくるのである。

 そして、まるでそのリスナーに、こちらのプロセスについてきてもらうためにいろいろキュー出ししないとならないみたいな、妙な気分になってくることがある(少なくとも私には)。

 つまり、すべてのセッションがリスナーを「教育」するためのフォーカサー・アズ・ティーチャー化してしまうというのに近い。これじゃ「私のために」フォーカシングしているのではないよとすら感じ出してしまうのである。

 なるほど、リスナーがいる方が、私のフォーカサーとしてのフォーカシング・セッションのプロセスは「よく回る」気はする。でも、何かひとりでフォーカシングする時のような深みに基本的に欠けている。

 それなら、「リスナーに何の伝え返しも教示もしないように頼んでみたら?」というのが教科書的な解答のはずだが(^^;)、そうやって仮にリスナーに全くの沈黙を最初から求めた場合ですら(!)、リスナーのプレゼンスを気にするあまり(!)、私の内面の自由はそれだけで損なわれる感じしかしない。

 仮にそのセッションの時には大きな気づきに思えたとしても、そのセッションの場を離れると一気にリアリティが喪失し、空虚な虚妄だと思えてきてしまうのである。

それは、私の「生活の中での」気づきではないということかと思う。

*****

ところが!!

 そういう私が、聴き手がいる方が、明らかにフォーカシングが進行するという例外的な経験を、ある特定の人物とだけは頻繁に持てる現実に遭遇することとなる!!

 私はその人物の前で、意識的にフォーカシングの技法を自分に試みることは滅多にない。普通に身の上話をしているだけなのである。ところが、その人に話していく時には、自分ひとりで意図的にフォーカシングしている時には決して克服できなかったような、自分にとっての大問題についての洞察的な気づき(シフト)が、いつの間にか自然発生的に生じる確率があまりにも高いことに気がついた。

 普段飛べないハードルが、その人と話しをしていると、やすやすと飛べていく
のだ。

 しかもそうした際の気づきは、私の現実的重大問題についての行方に少しずつ確かに影響を与えるくらいの、具体的な決断に結びついてすら行く、一時の主観的な「癒し」などでは済まない、大地を一歩一歩蹴っていく推進力の礎、具体的な布石、橋頭堡を生み出すのだ。

 その人は、別にリスナーとしての訓練を受けているわけでもなく、カウンセラーですらない。いわゆる専門家的「傾聴」の姿勢を保つことなく、結構自分の意見を言ってくるし、時には私の話を遮りすらして自分の話題へと持って行く(!)という、ほんとうに日常的な「普通のおしゃべり」ポジションのはずなのである。

 間違いないのは、お互いのことに関心を持ち、信頼しあい、相手への違和感でも何でもぶっちゃけて真剣に話し合える関係だけはできている間柄ということだった。

 そうであれば、たとえフォーカシングしようとしなくても、その人との普通の会話の中でフォーカシングは自然発生的かつ無意識的・条件反射的に(?)私の中で進行してしまうのである。

 私は、この事実に気がついた時、はじめて、ジェンドリンが、「フォーカシングにおいて一番大切なのは関係である」ということを口をすっぱくして言い続けている真意がわかった気がした。

 すごく相手に打ち解けていて、その人になら何を話しても大丈夫で、こちらが投げた球なら何でもがっしりと受け止めてくれるみたいな絶対的な信頼感で相手に自己投企できるか?

 ・・・・・そこまで行って、はじめて私は、自分自身を超えたリスナーの存在を認めることができたのである。

****

 ちなみに、その人物は、あくまでも、プライベートな「ネット友だち」だったりします(^^)

 ・・・・・この話、フォーカシングを学んでいる皆さんに、何かヒントになれば。

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フォーカシングのアクション・ステップ

 先日の認知行動療法的フォーカシングの試みの記事でもご紹介した、フォーカシングの「アクション・ステップ」とは、具体的にどのようなものかについて、もう少しご紹介してみたいと思う。

 以下に述べるのは、あくまでも私流の普段使いのやり方/教え方なので、詳しいことは、ジェンドリンの「フォーカシング指向心理療法(下)」第17章、「行動ステップ」(訳書pp.382-399)、あるいは、より簡略なものとしては、アン・ワイザー・コーネルの「フォーカシング入門マニュアル」の第3部「フォーカシングを妨げるもの」の3.7「行為についての特別な覚え書き」(pp.83-85)をお読みいただきたい。

*****

  1. フォーカシングを進めて行った結果、シフトと共に「私は〇〇をやりたいんだ!!」ということに気がついた・・・・というところをスタートラインにするのが一番適切である。
     しかも、別々な時に、何回フォーカシングを試みても、結局、フェルトセンスからのご宣託が「〇〇をやる」ということ自分に勧めてくる方向に収束するのに、なぜか実際にはそのことに具体的に取り組む気になれないことを繰り返している場合があるだろう。

     例えば、
    • シフトと共に生じてきた、フェルトセンスからのご宣託:
      「私はその人との関係を深めたい。そのためには手紙を書くのがいいだろう」
       →なのに、手紙を書き始めても全然うまくまとまらず、繰り返して中途で投げ出してしまう。
    • 同じく、フェルトセンスからのご宣託:
      「私はやはり社会人入学してでももう一度勉強したいのだ」
       →どうしても資料請求のための申し込みのメールを大学に打つ決心がいつまでもつかない

      ・・・・こうしたケースを想定して欲しい。
             
  2.  こうした時に、
    アン・ワイザーさん流儀だと、

    「私の中の一方には、そのことをやりたい気持ちがある。でも、もう一方には、そのことをやることに抵抗している(恐れている、すんなりやる気になれないでいる)『何か』があるみたいね」

    ということを確認して、その両方に対して、それぞれ「わかったよ」と言ってあげるということを試みることができる("feeling about feeling")。

     そして、やることにブレーキをかけているもう一人の自分の方に向かって、丁寧にその気持ちを聴いていくつもりでフォーカスするというのも、有意義なことなのだが・・・・
       
  3. そうした"feeling about feeling"の方略なら、すでに普段からやり尽くしてきている、というフォーカサー向けの、よりアクティブな提案は、次のようなものだ(ここからが本題!!):

     「その行動に踏み切る前に、私の身体がやりたがっている『何か』にまだ自分でも気がつけていないのではないかしら?
      それは、そのこと(例えば、ある人に手紙を書くこと)とは一見無関係過ぎるくらいの、小さな事柄かもしれないけど」


    このように内側に問いかけて、静かに答えを待つのである。
       
  4. 得てして、こうした試みに対しては、「内なる批評家」が大反撃をはじめる。
     批評家曰く、

    「お前はそうやって結局どうでもいいことばかりををやって、肝心なことを延々と先延ばししようとしているだけだろう?」

    などと。
     しかし、そうした「批評家的な声」に対しては、更に、「内なる調停者」(!)に登場いただき、

    「・・・・ご説ごもっともでございます。
     でも、どうでしょう?
     そうやってあいつ(自分自身のことなのだが)を糾弾するのは、あいつが今度そうやって別のことを先に実際にやってみた後でも、相変わらず堂々巡りして、新たなことには取り掛からない時に「それ見たことか!!」と改めて糾弾するのでも、遅くはないとは思うのですが? あいつにもう一度チャンスを与えてあげてみては?」


    などと調停的な介入をしてもらい、批評家にはしばらく脇に控えていてもらうのがいいのではないかと思う。

****

 さて、上に例としてかかげた、「手紙が書けなかった人」は、それから2日後、突如、すらすらと手紙を最後まで書き上げられてしまって、内容にもフェルトセンスがあっさりOKを出してくることに、自分でもびっくりすることとなる。

 その人は、フォーカシングに慣れていたので、自分がその2日の間に、すでにどのような小さなアクション・ステップを見出し、実行したのかすら忘れていた(^^;)

 
そこで、その2日間のことを丁寧に思い出してみた。

 「この2日の間に、私は何か、それまで自分に許してはいなかった、新しい小さな行動のステップを、手紙を書くことと一見関係なさそうな、意外な場面で、『何か』やったのではないか?」

・・・・と。

 その結果思い当たった、唯一思い出せた、その2日間の新たな行動内容

 
二日前の晩、手紙がうまく書けないまま「自分はこの後何をしたいのか?」という問いかけへのフェルトセンスからの返事は、「ともかく一度家を出て夜風にあたりたい。コンビニに追加の買い物に行くのはどうだ?」ということ。

 
コンビニにたどり着き、再び「今自分は何を買いたいのか?」問いかける。それに対して、フェルトセンスが推して来たのは、意外な品物を買うことへの非常な積極的支持のサインだった。

 こうして、今年の夏になってからは決して買わなかったあすぎアイスバー1箱6本セットを買うことを自分に許すこととなった・・・・

「・・・・どうも、それが、2日後に手紙をすんなり書けたか書けなかったかの違いをもたらした行動ステップだったとしか思い返しようがない」

・・・・と、その人は言うのである。

 振り返ってみると、結果的に、あすきバーを2日かけて6本とも食べ終わった翌朝に、その人はなぜか自然と手紙を書き出せる心境になっていたことになることに気がついたという。

 この現象について、その人は以下のように自己分析した:

自分に甘くあってはならない、みたいな決心が今年になってから強くて。別にダイエットのためとかだけではなくて、自分に対する戒めであるかのようにして、おやつやスナック菓子の類をできるだけ買わない決心をしていたんですよ。アイスクリームを買ってもいいし食べてもいいけど、一度に一個、どうしても食べたい時に買うみたいにしていたんです。

 でも、それは、自分をむしろ狭い世界に押し込め、自分でできる範囲に活動範囲を留めて、ひたすら我慢し、耐えさせる方向にばかり向かわせるエネルギーになって、人に心を開いて接してみるみたいな、開かれた外側への態度を持ちたいという自分の中の部分のエネルギーを徐々に開放していくことを自分に許すこととは矛盾すらし始めていたのかもしれないですね。

 だから、あずきバー6本まとめ買いを1年ぶりに自分に許してみた時、私の心が、自分の気持ちに素直に文を書いてみるのを自分に許せるきっかけとしてのスモール・ステップになったのかもしれません」

 フォーカシングを学ぶ皆さんが、アクション・ステップの小さな一歩というものを、自由かつ柔軟に発想してみるためのヒントになれば幸いである。

*****

 あるひとつの行動をなす上で、実はその前に幾つもの小さな、そのこととは全然無関係にも見える行動を、幾つも重ねていく方が、気持ち的にも楽なだけではなくて、性急にひとつの行動だけにつき進んだ場合には避けがたかった様々な副作用・・・準備不足を力技で乗り切ってもその後が続かなくなるとか、回避可能だったはずの周囲の人との不要な摩擦の火種になるなど・・・を減じ、当初の行動が順調に運ぶだけの諸状況を、多角的に「外堀から埋める」形で準備することになることは少なくないと思う。

 中井久夫先生のよくお使いになる登山についての比喩をお借りすると、「最短ルートで頂上に向けて登攀しよう」とする「超限的努力」をするアプローチは、自他共に甚大な弊害と副作用を起こすことが多い。

 ベースキャンプを幾つものステップに渡って作って行き、少しずつ高度を上げるようなアプローチ、あるいは、急斜面を這い登りたい誘惑を退け、どれ だけ遠回りして緩い安全な斜面を探して、時間をかけて、折々休息を挟みながらでも、ゆっくりと登ろうとしていた人間のほうが、途中で挫折もしないで、その人なりの山頂・・・・最初は山脈の尾根の一番手前の小さなピークの安全な山小屋に過ぎなくても・・・に、その日の日没までにたどりつけるのかもしれない。

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「双極性II型」気分障害と高度成長期との関連 -星飛雄馬や矢吹丈や岡ひろみのように生きてしまうこと- (第3版)

 安易な「世代論」は慎みたいのだが、現在40代までの世代のうつ病のあり方が、以前とは異なってきていること(いわゆる「非定型」うつ病や「双極性障害II型」気分障害と診断を受ける人が増加していること)を検討する上で、やはり必要な観点として、ちょっと大胆すぎるかもしれないことを、敢えて書いてみたくなった。

 日本の「高度成長期」とは、狭い意味では、オイルショック(1973)に至るまでの1955年から1973年までの18年間であるという前提で以下の話を進めたい。

 そして、「高度成長期に育っている」世代というのを、私なりの、やや強引かもしれない境界線として、少なくとも小学校時代全体を1973年度までに終えていると設定することに同意していただければ幸いである。

 そうなると、単純計算で、そうした世代の一番若い人間は、1961年(昭和36年)生まれであり、今年度(2009年)のうちに満48歳を迎える人間であるということになる。

 更に、上限も規定しよう。高度成長期に突入した時点(1955年)で、いろいろな幼年期の記憶が残りはじめていることが確実な年齢層。それを3歳から5歳ごろと仮定すると、2009年現在は58歳から60歳の人たちということになる。

 この範囲におさまる人たちは、まさに12年=1世代である。いわゆる「新人類」世代といわれるものと、実にぴったり重なることになる。

 現在では、この世代の人たちが、社会を実質上動かす「壮年期後期世代」として活躍していることになる。一世代ばかり上には「団塊の世代」が今も「ボス」として君臨していることになるわけだが。

 この世代の人間は、子供時代の重要な時期を、未来に向けての「人類の進歩と調和」を疑わず、日本も どんどん経済成長する中で、「親がすでに獲得した立ち位置で、更に努力を重ね、精進していけば、会社での昇進や事業拡張に伴う収入増加と、家庭の生活水準 が向上していく」ことを非常に楽観的に信じていられる中で育っている。

「会社のために尽くせば尽くすほど、その忠誠心に応えて、会社は必ず自分に報いて生活水準の向上をさせてくれる」

ということを素朴かつお人よしなまでに信じていられたという点では、高度成長期のサラリーマンは、バブル崩壊以降、リストラ等の現実に直面し辛酸を舐めて来た世代に比べると、信じがたいくらいに純情ですらあり、(敢えてこの言葉を使わせていただく)日本的な『甘え』の構造に、骨の髄まで浸かっていたと思う。

 このわずか十数年の間に、年功序列も有名無実化し、終身雇用制度も風前の灯の「実力主義」の生き馬目を抜く競争社会に日本も急速に変貌してきた。

 天下泰平の江戸時代の武家社会以来命脈を保って来た、「忠義には恩賞で応える」という職業倫理観そのものがもはや崩壊してしまった。

 日本における古典的な「うつ病」のあり方が、実は欧米社会のそれとは、メンタリティが一見似ていて内実は異なる点が得てして見落とされている。中井久夫先生が「分裂病と人類」の中で指摘しているがごとく、うつ病の病前性格とされた「メランコリー親和型性格」とは、欧米(この概念をテレンバッハが生み出したドイツにおいてですら!!)では、当初から、むしろあまり高い価値づけを与えられる・タイプではなかったのである。

 日本における狭い意味での「古典的な鬱病者」とは、実はこうした、すでに過去のものとなった「会社への『忠義』が報われる」という社会システムへの過剰適応者に生じる失調形態であり、今や、古き良き日本の職業観に基づき生きてきた、すでに60歳より年長の世代に固有の「社会的性格」を担う人たち(および、その世代の「超自我」を、不幸にしてもろに転写する形で受け継いでしまった、「すでに時代とズレた」メンタリティの、後継世代の一部を占めるに過ぎない人たち)に、かろうじて残存しているに過ぎないと考えるべきなのである。

*****

 もっとも、「新人類世代」は、高度成長期においては、まだ十代ないしそれ以下の「扶養家族」であり、本人自身はまだ実社会に出た「就労者」ではなく、家族の生計の当事者ではなかった。実はこの点こそが肝心である。

 現実社会の中で「努力と根性」で生きて、一家を支えているのは、戦前(昭和10年代=1935年前後以降)・戦中に生を享けて、戦後初期の貧しさの中で子供時代から十代を過ごす中から、死に物狂いで家の生活水準を上げてきた「親世代」なのだ。


 新人類世代の人の子供時代においては、「努力と根性」の果てに立身出世するという倫理は、自分がそれをやるかどうかは別として、ひとつの「理想像」としては、結構素直に受け入れられていたと思う。まさに「巨人の星」「エースをねらえ!」を子供時代から十代前半に堪能していた世代そのものなのであるから。

 ところが、それはあくまでもひとつの「ファンタジー」ないし「自我理想」として存在しても、自分の身にひしひしと差し迫るリアリティとしては体験していない。

 そうした中、当時の子供にとって、唯一の例外の「努力と根性」へのプレッシャーを社会から否応なしに受けるリアルな場が、現在よりも「遥かに」過激な受験戦争だったろうとは思う。

  しかし、(敢えて言わせて頂ければ)受験勉強というのは、一度乗っかってしまえば、ゲームの上達と同じような、シンプルな仕掛けの「バーチャルな」次元での競争であるに過ぎない(ネットゲームやセカンドライフ的仮想世界では、ある種の「対人関係スキル」がある程度問われることは否定しない。ここでいう「ゲーム」とは、あくまでも、「スタンドアロンな」ゲームの場合である)。

 受験とは、複雑な人間関係や駆け引きなどへの対処を含めた、実社会でのサバイバルや栄達までの修羅場で必要な、複雑で多次元の「全人的能力」の総合性が試されるフィールドではないのだ。

 いくら「学歴信仰」が今よりも強い時代だったとはいえ、大人になった自分が「実際に」世間の荒波に飲まれてどこまで「通用するか」とは別次元の問題であることなど、子供心にもうすうす懸念していたことが多かったはず

 つまり「勉強ばかりさせられる」ことだけで、大人として通用する未来が開けるわけではない筈だと、心のどこかで気づいていたのではないかということだ。

 大人になって、世の中を生きるとは、そんな単純には行かないものでないか?

 だからこそ、多くの子供は、受験勉強にばかり縛り付けられることに、自分の未来への、漠然としてはいるが深刻な危機意識の中で「抵抗し」、ほんとうは、何か別のものをこそ、大人から吸収したかったのではないかと思う。

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 そういう中で、自分が成長していく上で見習っていく先達=「大人」としての手本を、その世代はリアルワールドの中では見失っていたのではないかとも思う。

 いわゆる「ポスト全共闘」しらけ世代にあたる、自分より少し年長の、大学生から社会人になりたての世代は、自分の目から見ても、「身体を張って生 きてきた」親世代そのものに比べると、心優しいけど、どうにもこうにも軟弱で、「お兄さん」「お姉さん」ではあっても、「大人としてのあり方」として憧れ るというのにはイマイチだ。

 そういう、自分よりも少し年長の世代にあたる「物語上の」主人公たちが「努力と根性」で社会に巣立っていくまで支え、見守り、鍛え上げる、更に上の大人世代・・・・まさに星一徹や宗方コーチの「大人としての厳然たる存在感」がなかったならば、その種の成長ドラマは、子供にとっても、全然魅力的なものとはならなかったはずである。

 しかし、自分の親そのものは?・・・・厳しい小言はいうけれども、少なくとも家庭で見るその姿は、経済的豊かさを「消費」しながら、休日はぐったりと横になっているばかりで、全然かっこよくない(ほんとうは、多くの場合、職場では地道にその人なりに奮闘していたであろう、親の大変さまでは子供にはリアルに実感できないのだから)。

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 私は、この「新人類」世代の人が鬱になる場合は、それ以前の世代の人が鬱になる場合と比べても、すでにかなりの傾向差があるし、更に「新人類」世代以降になると、更に別の傾向を示すのではないかとも感じている。

 大雑把過ぎるのを承知で、敢えて大胆に言うならば、「新人類世代」=特に「双極II型親和的」な世代ではないか?・・・という思いが私の中に生じてきているのである。

 古典的なメランコリー鬱病親和的な人たちは、「新人類世代」になると、ぐっと割合が減り始め、それと交代するかのように、「双極II型」と診断される人の率が増える・・・・という仮説である。

 現状では双極II型の診断を日本の精神科医・心療内科医の多くが十分に的確にできるようになるまでの「途上段階」に過ぎないので、日本における「双極II型」と診断される患者さんの年齢別・世代ごとの分布の統計が、もし仮にあったとしても、十分に信頼できる水準のものと言える段階ではないかもしれない。

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 しかし・・・・・ふと思ってしまうのである。

 星飛雄馬は、大リーグボール3号を編み出しこそしたものの、それはまさに「身を削る」投法に他ならず、最後には腕の筋肉が断裂するという形になったではないか。

 矢吹丈にしても、そうだ。ホセ・メンドーサとの死闘の後で、皆さんご存知の通り「真っ白な灰」になった。

 岡ひろみも、宗方コーチの死のショックから立ち直って、再びウインブルドンに旅立つまでに、どれだけぼろぼろな日々を送ることになったか。.

 この3人の生き方って、もう、びっくりするくらいに、双極性II型気分障害に陥った人の「現実の人生」と類似しているのではないか?

 双極性障害II型の人に内在する超自我は、まさに「星一徹」や「宗方コーチ」のような超然たる厳しさを持ったものではないか?

 そうした「内的コーチ」の期待と信任に応えるべく、極限までの努力を孤独の中で重ねて、遂には燃え尽きる・・・・

(宗方の死で幕を閉じた、アニメのTV版「新・エースをねらえ!」あるいは劇場版「エースをねらえ!」しかご覧になったことがない皆さんは、原作の物語がその後延々と岡ひろみの「リハビリ」の過程(!)を描き続けたことまでご存じないかもしれません。実は、原作における宗方の死以降のストーリーも、原作とはかなり異なる展開ですが、かなりたってから、実に丁寧にアニメ化され、2クールかけたオリジナルビデオアニメシリーズという形で発売されています(「エースをねらえ! 2」 「エースをねらえ! ファイナルステージ」)。もっとも、その後衛星放送やCSや深夜時間帯で何回も放送された筈なので、そういうきっかけでご覧になった皆さんもあるかとも思いますが)

*****

 こうした、「新人類」世代の子供時代のヒーロー、ヒロインが「努力と根性」の果てに燃え尽きていくドラマを、あたかも自分自身が現実の中で再演する「かのようにして」、結果的に生きてしまったのが、双極性障害II型の人の生き様である・・・・という、大胆な仮説はどうだろう?

「現状がいかにしょぼくて、疎外されたものであろうとも「努力と根性」さえあれば、いつか報われるに違いない」

「 ・・・・・その前に、自分程度の者は、燃え尽きてしまい、安住の地にたどりつけないのではないか?」

「でも、このやり方しか自分にはできないんだ! きっとそのうちに誰かが認めてくれる・・・」

「それにしても、この、一見のどかで平和な時代って、何か、ふわふわしていてさ、生きている実感に乏しくて、どこか「嘘くさく」ないか?」

「きっと、「ほんとうの現実」っていう奴が、どこか別のところにあるんだよ」

「もし、そこに待ち受けているのが悲劇の幕切れであろうとも、自分が「ほんとうの現実」に触れた充実感に出会えるのならば、それが一瞬の花火でもいいではないか!」

・・・・まるで、徐々にパンチ・ドランカー症状に苦しみ始めた矢吹丈が、試合の前に、川辺で(ジョーを慕っていた)紀子に語った、かの有名な「真っ白な灰になる」という結語に至る一連のセリフみたいであるが、双極性II型の皆さんの中に、ある共感を抱いてくださる方が少なからずあるのではないかと思う。

 そして、そういう生き方が、自分を苦しめ、燃え尽きることを繰り返す双極性の病に陥らせたことへの、砂を噛むような不毛感も。

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 もちろん、こうしたことを「テレビやマンガの悪影響」などという次元で私は語っているつもりは全くない。

 (恐らく、ここで書いてきたことは、「メディアの子供への悪影響」という論を張るのがお好きな人たちにはむしろ絶対に思いつけないし、お知りになったら「呆然とする」見解(?)であろう。星飛雄馬や岡ひろみの生き方を「不良」で「不健全」呼ばわりする人など、そういう人たちの中にこそ、一番いそ うではない気がするので)。

 私が伝えたいのは、そうした人たちが子供時代を過ごした社会全体の「時代の空気」(豊かさと、「成長」幻想の影に隠された不安と焦燥)との「隠された」親和性の問題である。

 この世代の、少なくともある一定範囲以上の人たちが、社会に出るまでの間の成長過程で育んだ、「成長」や「自己実現」の理想化されたイメージと、大きな共振作用を起こす形で、こうしたヒーロー・ヒロインの物語上での生き方として社会的=象徴的に「表象された」のではないか?

(このようなメジャーな雑誌に連載される、すでに人気が出た物語の原作者というものは、その時代の読者層をいかに感動させる物語展開にするかにこそ、神経をすり減らしているものであることはいうまでもないでしょうから)

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※関連記事

●若手カウンセラーの方が、私たちよりも「したたかに」実力をつけていくのではないかという、大いなる期待(・・・実は「おゆとり様」世代論です)

●Amazonの関連商品:巨人の星エースをねらえ!あしたのジョー

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2009年8月26日 (水)

カウンセリングが人を救うのではない。

カウンセリング「を通して」、人様のお役に立てるように務めるのだということ。

 このことを、カウンセラーたるもの、決して勘違いしてはならない気がする。

 それは、法律が人を救い、守るのではなくて、
 法律「を通して」、人を救おうとする人たちがいるということと、同じようなことという気がする。

 何より、自戒を込めて。

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明日から、東京です。

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