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2009年7月

2009年7月11日 (土)

Skype(インターネット音声動画通信)によるフォーカシング有料個別指導コース

 インターネット(Skype)を使った、フォーカシング技法の個別指導(夢フォーカシング、インタラクティヴ・フォーカシングを含む)のお知らせです。

 この個別指導の最大の特徴は、ネットを使って、通話料・通信料無料で、全国の方と何時でもセッションを持てるということです。

 フォーカシングのセッションをする際に、電話や電子メール、映像やチャットを用いる試みは、特に欧米では、かなり以前から試みられ、地理的に散在しているフォーカシング・ピープルを結ぶ架け橋として重要な機能を果たしているようです。

 近年、インターネットのブロードバンド化が進み、無料のソフトを使って、世界中の特定の相手と、1対1で、テレビ電話のように使える音声動画通信と呼ばれるコミュニケーション手段が、幅広く行われるようになりました。

 この音声動画通信を活用し、有料契約によるフォーカシング・ライブ・セッションの機会を提供いたします。


【個別指導内容 】

* 全くのフォーカシング初心者の方が、ともかく「フォーカシングとはどのようなものか」、フォーカサーとして体験してみあるためのセッションとしてもお引き受けします。その後のフォーカシングの学習のお手伝いも致します。

* フォーカシングをすでにどこかで学ばれた方に、更に体験を深めるための個別セッションの機会を提供いたします。

* すでにフォーカシングに習熟された方からの「ガイディングは要らないから、もっぱらリスナーをして欲しい」というご要望にもお応えします。

* 原則として実際の1対1のセッションを重視致しますが、フォーカシングについての質問やアドバイスを求める場としてもご活用下さい。

* リスニング(傾聴)やガイディング(教示のしかた)の練習をしたいという方には、私がフォーカサーとなる形で、その場を提供いたします(Focuser As Teacher)

* 夢フォーカシング、インタラクティブ・フォーカシング、壷イメージ療法のセッションにもお答えします。


【始めるために必要なこと】

 パソコンの常時接続環境をお持ちの方でしたら、別途通信料一切無料で「画像つきの」コミュニケーションが可能です。

 (別途通信料金が発生するのは一般電話回線や携帯電話回線との間で会話する場合のみです)。

 お互いにID(ハンドル名)をやり取りし、通信を受諾した相手としかやり取りしない設定ができますし、当然ながら画像や音声伝達過程は暗号化され、セキュリティは十分に守られた通信手段です。

 具体的には、"Skype"というフリーソフトを使います。Windows Mac両方対応しています。

■Skype 公式サイト(mac/windows 両方式対応)
http://www.skype.com/intl/ja/welcomeback/


 この通信手段を活用するには、ウェブカムと通称される小型映像カメラと、ヘッドセット(マイクつきヘッドフォン)にあたる装備が必要ですが、最近のラップトップパソコンには、これらのすべて、少なくとも内蔵マイクと内蔵スピーカーが最初から装填されているものも少なくないはずです。

 仮にこれらの装備を別途購入するとしても、セットで実売2,000円前後という、たいへん安い価格で、実用上十分な性能のものが購入できます。購入した後の初期設定においても、多くの機種の場合、USB端子に差し込むだけで最低限の設定が自動的になされます。


 Skypeの音声動画通信の性能は、ここ1,2年の間にも急激に向上しています。画質や音質の向上も著しく、以前に試しに使ったことがあって も、しばらく実用から離れておられた方にとっては、ソフトを最新のバージョンにアップデートしてみると、ここまで画質がなめらかで、音声も美しくなったの か!! と驚かれる方が少なくないかと思います。

 これをフォーカシングのセッションに使わないままというのは、あまりにももったいないではありませんか?


【音声動画通信利用のメリット】

 私のたどり着いた当面の結論は、メール・カウンセリングや通常の電話カウンセリングに比べても、音声動画通信を用いたフォーカシング・ セッションの方が、直接来談しての場合に遥かに近い形で行なうことができ、相互信頼的な安定した関係性の樹立にも困難が少なく、ユーザーの方の満足度も高いのではないかということでした

 その結果に基づき、今回、音声動画通信による有料の「フォーカシング個別指導」プログラムを、正式に皆様に提供することにいたしました(正確に言えば、「再開」です。以前よりも本格的に広報します)。

 ネットでこのようなセッションを行うことに不安をお持ちの方がいらっしゃいましたら、後続の節で、メリット・デメリットを検討致しましたので、熟読の上、ご利用ください。


【時間・料金】

■指定口座への振込みでお願いします。

■事前にセッション時間を取り決めて行ないます(予約制。 毎週月曜日をの除く10:30-21:00[終了時]のいずれかの時間帯)

■ご面倒をおかけいたしますが、セッション開始時間になったら、「これからはじめます」という電話でのご一報を、ネットを通さずにお願いいたします。

■音声動画通信の開通までのサポート、通信状態の改善のための助言は無料でいたします。どんなことでもご質問ください。

■60分 1回 4,000円 (日本フォーカシング協会会員である方は3,600円)

■ 入金からセッション施行有効期限

  口座振込日から1ヵ月後の同一日まで

※予定日前日までにご連絡頂ければ日程変更に応じさせていただきます。

※最初、通話テストを行いますが、その時間は料金対象外とさせていただきます。当日、万一のネット通信状態の不測の悪化が生じて、再接続を試みてもセッション続行不能と判断できた場合、私側の事情でスカイプでの通信が当日不可能になった場合には、ご指定口座への料金ご返還(あるいは次回セッション料金への振り替え)に応じさせていただきます。


【お申し込み 】
■ 実名、ご住所、お電話とメールでの連絡先、セッション希望日時、(すでに設定済みでしたら)skypeネームをよろしくお願いいたします。

日本フォーカシング協会メンバー割引を希望される方は、お申し込みの際に、会員証ないしニュースレターを送付してきた封筒の宛名書きの部分を、FAXあるいはスキャナ取り込みの添付ファイルメールの形でご送信下さい。

【お申し込み・連絡先・担当講師】

電話&Fax:0942-48-8797
Email:kurumefocusing@live.jp
Twtter@kasega1960へのダイレクトメール(DM)

担当者:阿世賀 浩一郎(あせが こういちろう) 

The Focusing Institute認定コーディネーター、フォーカシング・トレーナー、フォーカシング指向心理療法セラピスト

******

 では、以下に、この、「テレビ電話形式によるフォーカシングのセッション」の長所と短所について、実際にそれを体験したユーザーからのご意見を参考にして、まとめておきます。

* 短所

同じ空間、同じ場の空気を共有して、お互いの非言語的なメッセージすら細やかに共有しながらセッションを進めるという点では、やはり目の前に人がいるライブよりは生々しさが薄いともいえる(逆に、事前に想像していたよりも遥かに生々しいので満足したとの声もたくさんあります)。


* 長所

1. フォーカシングの実体験がより身近で手軽なものとなり、反復して練習する機会も増える。

2. 自分の住む地域にはフォーカシングを体験的に学べる場そのものがかなり遠出しなければ存在せず、しかも年間に限られた回数しか開かれない。そうした制約がなくなる。

3. これまでフォーカシングを学んできたトレーナーや仲間たちとは別の人ともセッションの体験を持ちたいと思っていた。そうした機会を気軽に提供してもらえる。

・・・・・ここまでは「ネットは地理的な制約を越える」「フォーカシング・パートナーへのアクセス性を高める」という方向で共通点があるでしょう。

4. より自分の生活や日常に近いシチュエーションで、生活や日常の実感と身近な状態でセッションを重ねることができるため、フォーカシング体験が日常との連続性があるものとして定着し、自分個人のためにほんとうに「身についていく」「役立っていく」実感が着実に味わえる。

5. 最初はネットでの画像つきのやり取りに戸惑ったが、少し慣れてくると、目の前にリスナー/ガイドがいるという生々しさが減じることで、むしろ恥ずかしさや緊張を感じずに、自分の内側の実感とじっくりと向き合い対話できるというメリットの方を強く感じるようになった。リアル世界での対面セッションよりもストレスが低い気すらする。 「普段着の自分のままでフォーカシング体験をしている」と感じられる。

6. メールや電話を通してのフォーカシング・セッションの経験はあったが、やはり画像を通してのライブのコミュニケーションも進めているというだけで大きく印象は異なる。上半身だけであっても、相手の表情やたたずまいが見えているというだけで、安心もするし、相手の気配を察しながらの細やかなやりとりができる気がする。

7. セッションそのものや、フォーカシングについての質問などについてのやりとりに集中できる場を作りやすく、それ以外の余計な無駄話もなく、フォーカシングを学ぶ場での「社交」などを気にしなくていい、構造化の度が高い、割り切ったシンプルな関係性の場だと感じる。

*****


【附録:必要な周辺機器や設定に関して】

↑例えばこの製品で、スカイプの使用に全く不満はないはすです。

 もっとも最近のラップトップ型パソコンの場合、パソコン本体にマイクとスピーカーが最初からついていることがほとんどかと思いますし、ウェブカメラも内蔵機種が少なくないでしょう(スピーカーだけではなく、内蔵マイクも実は見えないところに装備されていることに気がついていない皆様も結構あるかと思いますcoldsweats01)。そうした場合には、とりあえず初期投資ゼロ円で済むということになります。ヘッドセットを頭につけなくても、手ぶら(ハンズフリー)で音声動画通信を楽しめるわけですね。

 しかし、私の考えでは、そうした「ハンズフリー」環境をすでにお持ちの方の場合でも、ヘッドセットの購入はお勧めいたします。それは、音質のよさを求めるという意味ばかりではありません、パソコン本体の内蔵マイクは、パソコンそのものや、部屋中の騒音を拾う性質を持っています。ネットを通して伝送する際に、そうした雑音までデジタル情報に変換することになります。それが映像通信の質に、思いもよらないくらいの負荷を与え、画像の滑らかさを損なうばかりか、回線の中断というアクシデントも増やすことはあまり知られていません。

 もっとも、ご使用のパソコンが最近購入の、十分にメモリー搭載したハイ・スペックのものでしたら、あまり影響はないかもしれませんが、ADSL通信の比較的低速回線で契約されている皆さんや、XP時代からの機種を今もお使いで、メモリーが1GB以下の場合には、通信性能にかかなりの影響があります。

 ヘッドセットは、片耳に引っ掛けるのタイプの中では、左右の耳どちらにも対応、柔軟に形を変形でき、耳へのなじみがいい方でしょう。耳に「きちんと差し込む」ことにとらわれず、「引っ掛けておく」ぐらいの感覚でいいかと思います。もっとも、耳たぶや耳道に炎症を起こしやすい人の場合、両耳タイプの方がいい場合もあるかと思いますが。

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2009年7月16日 (木)

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(1)

 先日の「久留米でフォーカシングを学ぶ会」の最初の部分で、6名の参加者においでいただいた際に、私は、会の最初から、これまでになくひとつのことに心配りをするように決めていました。

 それは、主催者である私自身、そして参加者の皆さんのひとりひとりが、集いの場の中で、自分のボディ・センス(フェルトセンス。内側に感じられる 曖昧な実感)を大事にし、ボディ・センスと絶えず照合しながら、お互いに言葉を交し合うような関係性を最初から自然に持てるような空気を醸成するというこ とでした。

 それまでは、普通に、ひとりひとり自己紹介するように私が促すことからはじめてしまっていることが多かったのですね。しかし、これだと、誰かが話した話題をきっかけにちょっと雑談めいた方向に話が流れてしまうことも少なくなかったわけです。

*****

 もちろん、フォーカシングの集いの場であるからといって、フォーカシングについての話題以外を語りにくい空気にしてしまうことは、何かがおかしいと私は考えています。

 フォーカシングとは、意識的に技法として用いなくても、私たちが日常の中で接する様々な思いに対する付き合い方に、少しずつでも以前とは異なった スタンスを生じさせていくためにこそあります。単にワークショップの場でトレーナーやガイドとして有能になるために学んでいるのではありません(^^;)

 例えば、家族や同僚や友人と接した際に、心がかき乱された時や、朝の交通渋滞に巻き込まれた時にイライラしながらいろんなことの連想の渦に書き込 まれた時、気持ちにちょっとスペースを作り、自分がどんな実感でいるのかに「気づいてあげて」、そうしたさまざま思いや気分をそっと「認めておいてあげ る」、そうしたことが、半ば条件反射のように自然にできるようになることが増えてくれば、フォーカシングが「そこそこ身についている」ということです。

 あるいは、読んだ本でも、雑誌記事でも、テレビドラマでも、ドキュメンタリーでも、映画でも。音楽でも、心の中に、ある小さな感銘や痛みや新鮮な 魅力を感じた時、たまたま入ったレストランの雰囲気やもてなしや料理の味わいが気にいった時・・・・・いや、もっとささやかなものでもよくて、たとえば、 春になって、毎朝歩く通勤の道すがら、少し前の寒い日々には感じられなかった、緑が燃え立ち始める匂いを感じとって、季節のめぐりを実感した時のささやか な感慨でもいいでしょう、そうしたもろもろの実感とそこで生じる思いを、ちょっとだけ自分の中で自覚しなおし、味わったテイストを受け止めてい く・・・・・そうしたことがに、もはやフォーカシングという技法を自覚しない次元で、さりげなく増えていくこと自体が、ありがたみなのですから。

 フォーカシング「について」話をしていなくても、およそ人が体験し、実感し、受け止めていく、すべての事象との関わり方の中で自然発生的に生起し ているものが、「フォーカシング」というこころの営みなのですから、「話題が」フォーカシングについてのものかどうかに拘泥している「フォーカシングの集 いの場」がなるとすれば、それは何か大事なことを勘違いしているのではないかと思います(^^;)

****

 でも、フォーカシングの集いの場でのやりとりが、ボディ・センスを実感しながらその場の空気を味わい、ボディ・センスと照合しながら言葉を紡ぎだ し、ボディ・センスを通して他の参加者の話や話しぶりやたたずまい(プレゼンス)を受け止めていく形でやりとりがなされていく、自然な空気を生み出すこと は、集いの場の責任者に必要な心がけなのだと思います。

 言うまでもありませんが、これは「ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスと照合しながら言葉にしていきましょう」などということを、主催者が参加者に単にレクチャーしたり、参加者同士が「ボディ・センスを通して傾聴するとはどのようなことですか?」「あなたはほんとうにボディ・センスと照合しながら言葉を発しているのかしら?」などという話題で話をしていることとは無関係なのですね(^^;)

 繰り返しますが、話の内容は、何でもいいはずなのです。昨日見た映画のことを参加者の一人が語っていても、それは全く自然なこと。

 大事なのは、ボディ・センスを通して出て来た言葉を発し、ボディ・センスを通して傾聴していくということが、自然発生的に場の中で生起するような場作りがなされることです。そうした場の中で、参加者ひとりひとりが、体験的にそうしたあり方に習熟して行き、その勘所に気づいていってもらえることだと思います。

 そのことは、恐らく、集いの主催者である私自身が、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスから出て来た言葉で応答する姿勢を、場の中で隅々にまで行き渡らせることがひとつの出発点である。

 そのことを改めて再確認させれたという意味で、先日の集いは、私にとっても学びのある集いでした。これも参加者の皆様の生み出した場の力があってのことであることに、感謝を感じています。

*****

さて、先日、「学ぶ会」で、集まって来た参加者の皆さんを出迎え、「道に迷いませんでしたか?」などのやりとしをして、参加名簿に記帳していただき、料金徴収と領収書の発行を終えた段階で、私がまず参加者の皆さんに提案したのは、

「どの部屋で全体会を開きましょうか?」

という提案でした。

 参加者の皆さんに最初に入っていただいたのは、私が普段使っている面接室です。作り付けの本棚があり、事務机とパソコンと私用の椅子、3人がゆっ たり座れる横長のソファ、小さな丸テーブル、そして、背もたれはあるけれどもパイプでできた椅子3脚を臨時に持ち込んだスペースでした。すし詰めとまでは 行きませんが、やや閉塞感があります。

 隣に、ダイニングキッチンの広めの部屋があります。ただし、壁には食器棚が並んでいますし、テレビも置いてあります。玄関から通じる部屋の入り口との間には、簡単な暖簾以外の仕切りはありません。全く、木造の普通の民家のダイニングキッチンそのものなのですね。

 

そして、そちらの部屋でやりとすれば、椅子が不足し、全員が、フローリングの固い床に車座になって座るしかありません。

 私は、参加者の皆さんにを隣の部屋に通して、「居心地の実感でどちらかを選んで欲しい。後で2つの小グループに分かれた時に、もうひとつの部屋を使いことができる」と求めました。

 参加者の皆さんは、全員、ダイニングキッチンのフローリングの床で車座になることを選びました。

 私なりの実感としては、ダイニングキッチンの方がややふさわしそうだという思いは当初からあったのですが、このように、参加者に部屋を「選んでもらう」プロセスを経たこと自体意味があったと思います。・・・・そう、参加者ひとりひとりのボディ・センスの実感として体感された「居心地」を大事にしながらふるまってもらうことへのさりげない促しは、すでに始まっていたことになるからです。

*****

 次に、参加者の皆さんが実際に車座になって座ったところで、私はいきなりひとりひとりの自己紹介に入るのを避けました。

 

「まずは、この場にこうして座ってみて、皆さんひとりひとりが、今、どんな感じで座っているのかな・・・というのを、ちょっとだけ味わってみる時間を取りたいと思いますが、いかがでしょうか?」

 私は、

「今の段階では、今の自分の居心地や、どんな思いでここにいるのか、これからどんなことをこの集いの場で期待しているのか、何をやりたいのか・・・ などを、ちょっとだけ点検してみる・・・・ぐらいのつもりでいいです。フォーカシングになっているかどうかも気にしなくていいので」

などとも付言しました。

 このあと、皆さんに、「はじめていいでしょうか?」と確認した上で、

「脚やお尻が床に接している感じを内側からちょっとだけ味わってみるのはいかがでしょう? それが「どんな」感じかを自分の中で言葉として見つけよ うとなさらなくてもよくて、『このあたり』と『このあたり』が床に接する形で座っているんだなあ・・・・ぐらいが確認できれば十分かと思います」

 この部分は、皆さんの様子を見ながら、30秒ぐらいの時点で、皆さんに、とりあえずOKかどうかの確認をしました。

「それでは、身体の内側への周囲を、もう少し胴体の内側に上げていって・・・・『今、自分はどんな心地でこの場に座っているのかな』、というあたりをちょっとだけ味わってみるのはいかがでしょう」

「具体的に『どんな』感じなのか、言葉を見つけようと、今の段階ではお焦りにならなくてもいいかと思います。『こーーーんな』あたりの心地で、この場所に座っているというのが、何となく味わえるくらいでいいのではないいかと」

(ちょっと間をおく)

「そして、例えば、次のようなことをなさってみるのもいいかもしれませんね。・・・・これはあくまでも私からのアイデアの提案ですから、すでに皆さんひとりひとりがなさっていることそのまま続けていただいて結構ですが、参考になる人は試してみてください。

  • 今の自分の身体の内側は、どんな感じでいるのかな?

    とか、
  • 今、ここに来て、こうして座っていて、どんな居心地、どんな気分で座っているのだろう? この場の空気をそのように味わっているのかな?
  • この集いの場に、自分は何を求めて来たんだろう? そして、今実際にこの場に来て、この後、どんな場になればいい、どんなことをしたいと感じているのだろう?
  • こうしている中で、いつの間にか、ここに来るまでの日常生活の中で生じたことだとかについての記憶や連想がすでに沸き起こって来ている方も あるんじゃないかと思います。そういう場合には、「どういうわけか、そのことが思い浮かんでしまっているなあ・・・」というのを、静かに受け止めておくの でいいのではないかと思います。今は「必要があれば、この後のセッションでそれに関することの相手を(自分が)してあげられるかもしれないね・・・」くら いでいいかもしれません。
  • 気になるからだの感じに注意がすでに向いている方もあるかもしれませんね。そういう感じに対しては、「ああ、『この辺』に何か気に なる感じが出てきているねえ。そうやって出てきているのはわかったよお、必要あれば後で相手して上げるからね」と、ちょっと目配せして、挨拶しておいて上 げるくらいでいいかもしれません。その感じの中に入って味わうというより、そこらへんに(注意が)行くとそういう感じがあるんだなあ・・・くらいで。
  • その感じがどうして生じているのかなあ・・・ということについてのいろんな連想がすでに生じている方のあるかも知れません。今は「そういうことも関係あるのかもしれないしなあ・・・それだけではないかもしれないなあ」くらいで受け止めておいて上げるのでいいのではないかとも思います。

 ここまで進めて来て、私は、全くのアドリブで、次のことを付け加えてみました。

  • 自分が今どんな心地で座っているのかを、すでに感じておられる方も少なくないかと思いますが、次のようなことを試してみることもできるかもしれません。

    「今の自分は、ここで取りあえずこんな感じではいられているけれども、もし、理想的に可能だったら、ホントは、どんな感じでここに座っていたいのかなあ」・・・という実感を想像して、感じてみてるのも面白いかもしれませんね。

    ・・・・・そうした上で、今の実際の居心地と、理想状態の居心地の実感を行ったり来たりして、比較しながら味わってみることもできるかもしれません。

 この試みには、フォーカシングのセッションや集いの場に対して私が常々感じている問題意識が反映していたように思います。

 私たちは、セッションや集いの中で、場のフェルトセンスを感じているという中でしか、自分のフェルトセンスを感じていられないのです。フォーカサーが自分の内面に注意を向けている時、実はこの当たり前の事柄には意識が向きにくいのですが。

 それは、純粋に、セッションを行なう場の物理的な環境要因にも影響を受けているものですし、そのセッションの場にたどり着くまでの空間で体験した、一見些細な出来事の影響も受けています。当然ながら、会場にたどり着いてから、主催者である私や、他の参加者とのさりげないやり取りの中で積み重なったものも、フォー カサーがその場で感じていることに大きく影響を与え、その影響を大きく受けながらしか、その人のボディ・センスが生起していないのです。

 セッションや集いの場を離れたら、その会場を後にしたその瞬間から、その人は、ひとりぼっちで自分のボディ・センスと向き合うことになります。もし、その人が、場の中で、場のフェルトセンスが自分にどれだけ影響を与えているのかを消化しきれないままだと、場の中で「自分の実感と向き合って」体験したつもりのはずのものが、日常との連続性を失い、自分自身に統合できなくなる場合があります。これは人によってはかなり危機的な状態になると私は判断しています。

 これを回避するにはどうしたらいいのだろう? ということに私は心配りをしてきたのですが、先日の集いを実際に始めた最中に思いついたこのアイデ アは、「ほんとうは、この場の中で、自分はどんな心地でいたいか」と、「実際に味わえている居心地」と照合しながらも、敢えて意識に上らせることにより、 実際に体験している場の空気を受け身に感受することを超越した形で、自分のボディ・センスが求めている「どのようにそこにいたいのか」を自覚するプロセスを、集いの開始段階という、非常に早い段階で体験してもらい、その後の相互作用の中で一貫して、場の空気からの相対的な独立性があるものとしてボディ・センスを体験する状態を継続するさりげないきっかけを参加者に提供することになるのではないかと思えました。

 これは、一見些細なことに思えますが、集いの場でのその後のその人の相互作用のあり方に微妙に影響すると思います。しかも、そういう態勢をすべての参加者がそれぞれ少しずつでも持ちながら、その後の集いの場に参与し続けたら? 参加者一人ひとりにとっても、集い全体にとっても、好ましい場の空気が、参加者全員の協力の中で、積極的に醸成されることになると思えたのです。

****

 さて、このようにして、集いの場で最初に車座を組んだ時点で、自分の居心地をしばらく味わってもらった後で、私は、

 「今、体験していたことの中で、この場で他の参加者に伝えたいことだけで結構ですから、それぞれの皆さんの自己紹介も兼ねて、シェアしていく時間を取りたいと思います」

と提案しました。

 ここで、私は参加者の皆さんがひとりずつ語ることに対して、インタラクティブ・フォーカシングのリスニングで特に強調されてきた、「相手の身になって、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスを通して出て来た言葉で応答する」というスタイルを一貫してみました。

ジャネット・クライン/インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー―カウンセラーの力量アップのために

 これは、ロジャーズの来談者中心療法における単なる傾聴と伝え返しよりも一歩踏み込んだスタンスになりますが、私がカウンセリングでクライエントさんとやり取りするする際にも、特にこの1,2年、全く普段使いの傾聴と応答のスタイルになっています。

 誤解されかねないのですが、これは別に、「あなたは、身体の中の胸の辺りで〇〇な感じがしているんじゃないかと」などどいうふうに応答することではありません。

 続編では、このあたりのことを、少し詳しく解説したいと思います。

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フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(2)

 前回の続きです。

 語り手の話を傾聴する時に、

  • 語り手の語った言葉を丁寧に伝え返していくこと
  • その際に、特に語り手が感じているであろう感情(feeling)について大事に受け止め、伝え返していくこと

 このことは、ロジャーズにはじまる、来談者中心療法カウンセリングにおけるベースラインとして強調されてきたことなのですが、ひとつ間違うと、語り手が語った内容を表面的に「鸚鵡返し」するだけになりかねません。

 そうした表面的・機械的にルーティン化した傾聴に留まる場には、話し手の側にも、聴き手の側にも、独特の「のっぺりとした」場の空気と居心地が徐々に生じてきて、話し手も聴き手も、苦しさと物足りなさを感じなからも、頑張って、話をしていき、傾聴していくという状態に徐々に陥いがちなものです。

 話し手の側は「ほんとうに聴いてもらっているという気がしない」と感じ始めるし、聴き手の側は「話を受容的・共感的に聞き続けて、伝え返していくのが苦しい」と感じ始めることが少なくないわけです。

 ロジャーズふうにいえば、語り手も、聴き手も、自分自身がありのままにそこにいるという「自己一致」した感覚が、やり取りの中で徐々に失われていくことを、実感の上で漠然と察知しているものです。

 話し手も聴き手も、辛抱しながらそういうやりとりを重ねているのですから、両者の中にある、「カウンセリングを受ける(する)こと」への義務感 や、そこからいい結果が生じることへの「一抹の期待感」「盲目的な信頼感」だけが場の支えになっているような状態に近くなっていることも、決して少なくな いかと思います。

**** 

 オーソドックスなロジャーズ派のカウンセラーの中にも、これだけではほんとうに生産的なカウンセリングが進んでいるとはいえないことを十分承知 し、それを超えた次元のやりとりを実際にできる人たちも少なくないのですがフォーカシング(におけるリスナーやガイドの傾聴においては、こうした平板なや りとりをいかに克服するのかについての、積極的な「勘所」を身につけて行くことが大事にされています(・・・・・の、筈です(^^;)

 これについては以前も書いたことがあるのですが、今回改めて、今の私なりの新鮮な言葉で表現しなおしてみましょうしょう。

 1.聴き手は、今、自分が、話し手を前にして(あるいは、話し手と
実際に面会する前の段階すら)、どんな居心地や気分や身体の漠然とした感じを感じながらたたずんでいるのかについて、十分に内側にセンサーを張って、モニタリングし続けている必要がある。

 例えば、カウンセラーがそうやって面接を始めようとしているのに、いまひとつ乗り気でない自分に気付き、自分の中にある「乗り気ではない部分」を 認めてあげて、「乗り気でない」気持ちのそばに、ちょっとだけたたずんであげてみる、セルフ・フォーカシングを、ちょっとだけしてみることは大きな意味が あります。

 その際に、別に「なぜ乗り気ではないのか」について分析したり、セルフ・フォーカシングで内側にシフトを起こして、面接に生き生きと臨める体制を作り上げねばならないとまでみなして、必死にセルフ・フォーカシングしてしまう必要まではないのですね。

 フォーカシングを、自分がある程度体験的に学び、身につけてきているという手応えがある人なら、経験的に、次のことを知っているはずです。すなわち、「十分OKな感じでいららない」自分に気がつき、それを、対象化して、それを自分の中でちょっとだけ認識しておく(気づいておく)だけで、心の中にわずかなスペースが生まれ、ちょっとだけ自分を取り戻せることが多いことはご存知のはずです。

 (自分の中の、面接に乗り気でない気持ちを受容しようとする、などという大それたことはできなくていいのですね。 フォーカシングの名トレーナー、アン・ワイザーのいう"Acknowledging"=「(自分の中で)気づいておいてあげる」とは、この水準のことで す。・・・・・こうした過程を「体験的に距離を取る(make a space,make a distance)」という言い方でとらえるのを好む人たちもありますが、少なくとも私自身は「距離をとる」という言い方をあまり好みません。それは「距 離を取れねばならない」という強迫性のようなものを喚起するという意味で本末転倒になりやすいと感じています。「距離が取れない」自分に気がつけているだけで、実はその時可能な範囲で、そこそこ「距離が取れている」ことになるのですね。自分をセルフモニタリングする「立ち位置」を自分中で確保できているわけですから、すでにその段階で、単に「巻き込まれて、自分を見失ってしまっている」わけではないのです。最低限、それで十分かと思います)

 2.語り手とのやり取りを進める中で、

  • 聴き手としての自分個人が、話し手を前にして、どんな居心地を感じていて、どんなフェルトセンスが生じてきているか、どん な連想が生じているか(どんな分析を勝手にしてしまっているか、どういう部分に違和感や抵抗や不安を感じているか、自分のどういう体験と引き付けてとらえ ようとしているか、それどころか、「なぜか面接室の冷房の音が気になっているな」とか、「その聴き手の面接とは無関係のはずの別の事柄が脳裏を掠めている な」などを含めて)をしているのかについて絶えずセンサーを向け、そうした連想や「感じ」を、次々と対象化する形で、「気づいておく」ようにすること(繰 り返しますが、とりあえず「気づいておく」以上の内的処理は不要です)。
  • 話し手の「身になる」モード。話し手語る内容、話しぶり、たたずまいなどをから感受されるものを、聴き手が身体に響かせ、聴き手自身の身体感覚をくぐらせるようにして味わい、「話し手は、話をしている事柄に関して、今、どんな実感を感じつつ、話しているのか」そのものに、あたかも自分自身の体験している実感であるかのように、自分の身体感覚自体をチューニングするつもりで傾聴していくこと。
  • 上記の二つのモードを別々に自覚し、時々行き来しながら、それぞれに気づいておく主体としての、「第3の立ち位置」・・・「内なるスーパーバイザー」の視点のようなものを確保し続けること。

(・・・・・以上、2.で述べてきたことは、すでに、

伊藤研一・阿世賀浩一郎 編/現代のエスプリ 410 特集「治療者にとってのフォーカシング」 至文堂 2001

の中の、

●阿世賀浩一郎/面接場面でクライエントの「容れもの(container)」として機能するための技法の試み ~カウンセリング場面で治療者自身の体験過程を生かし続けるためのベースライン~(pp.65-73)

で詳しく述べさせていただいている事柄のエッセンスの要約です)

 このように書いてくると、何か複雑なことのようですが、過去の経験の中で「自分自身を保ちながらも、相手に積極的に関心を向け、相手の身になって 話を聴いていられる」余裕ある状態でいられた時の体験をふりかえってみれば、実はこうしたことを無理なくできていたようだということは、フォーカシングを 学んだ皆様に留まらず、およそどんな現場臨床家の皆様にも共通する体験ではないかと想像します。

 例えば、精神分析的にいえば、「平等に漂う注意」を維持できる状態というのに類似しているかと思います。

 ここで重要なのは、「相手の身になって」感じてみるモードと、相手との関わりの中で「自分個人の中に」生じてきたものを「感じ分ける」姿勢を維持し続けることです。

 そして、聴き手は、この2つのことを、話し手にとってはっきりと区別できる形で別々に提示できることが必要ではないかと思います。

 例えば、話し手が、家族に気持ちがうまく通じない時、何があったかとか、どんな思いが生じたかについて話し続けている際に、聴き手であるあなたの中に、自分が、大事な人との関係の中で生じた、気持ちが行き違った時の体験もまざまざと思い出され、そうした時の心境も生き生きと実感され始めるかもしれません。

 しかし、話し手と聴き手の体験している「気持ちが通じない時の」辛さや気傷つきが、すっかり同じ体験であるということを保障するものは何もないのです。

 このブログで引用するのは何回目かもうわからなくなりましたが(^^)、

>あの時 同じは花を見て、美しいといった二人の

(「あのすばらしい愛をもう一度」 作詞:北山修)

感じていた、「美しい」という実感そのものが、共通のテイストのものであることを証明するものは何もないわけですね。

 このことの厳しい自覚こそが、聴き手(カウンセラー)が、話し手(クライエントさん)を独立した個人として尊重するということのベースラインに一番必要なものだと思います。

 そして、その峻別は、話し手の体験世界を、より深い次元で理解し、共有しようとする上での基盤となるのです。

 

 続 きの部分では、話し手の身になって傾聴し、伝え返すこと、更には、話し手の実感にそれを照合してもらい、しっくりと来なかったら修正してもらうという相互 作用を進める中で、話し手の体験世界に次第に寄り添っていくプロセスについて、もう少し具体的に書いてみたいと思います。

(続く)

2009年7月18日 (土)

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(3)

さて、前回に引き続き、今回は、「聴き手が、話し手のいうことを、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスを通して伝え返しをする」ということが、具体的にどういうことなのか、示して行ってみたいと思います。

 これから述べることは、基本的には、この前ご紹介した、

ジャネット・クライン/インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー―カウンセラーの力量アップのために

で解説されている傾聴技法に準拠していますが、

アン・ワイザー・コーネル/フォーカシングガイド・マニュアル

で解説されている傾聴のあり方も融合させて解説することになるでしょう。

****

 聴き手が、話し手の話を、自分のボディ・センスを通して傾聴するということ・・・・これを「体験的傾聴」などと呼ぶ場合もあるのですが、こういう言い方だけでは、初めての人には、いったい何のことだかまるでわかりませんよね(^^;)

 まず、ちょっと狼のことを連想ししてみてください。

 一匹の狼が、闇の中で「ワオーーーーン!!」と吼えます。

 すると、しばらくすると、闇の彼方のどこかから、「ワオーーーーン!!」という泣き声が、まるで木魂のように返っています。

 最初の狼は、再び「ワオーーーーン!!」と叫び消すかもしれません。

 闇の彼方の狼は、さっきより早く「ワオーーーーン!!」と鳴き返し、次第に2匹の「ワオーーーーン!!」は、まるで輪唱かデュエットのように折り重なり、そのうちに3匹目、4匹目の狼の「ワオーーーーン!!」すら加わってくるかもしれませんね。

 同じような調子の声で、同じように鳴き交わす。

 まるで、相手の声の調子を模倣して返していくこと自体に、大きな意味があるかのようです。

 これが、動物同士のコミュニケーションの原点なのだと思います。

 そこには、敢えて言えば「同類がここにいるぞ!!」ということを相互確認すること自体に大きな意味があるのかもしれません。

 ・・・・でも、どうでしょうか?

 もし人間が、

「あなたは私の同類ですか?」

「ええ、同類です」

という、言語的(verbal)なやり取りをしていたとしても、それだけでは、狼同士の鳴き交わしのような、恐らく実存そのものを背負った連帯の絆は確立できていないであろうということ。

 身体に響かせ、vocal(音声的)に「鳴き交わすこと」にこそ、相互承認、相互連帯、世界の中で自分は一人ではない、お互いが繋がっているという感覚、そして、相互理解の実存的な基盤があるのだということ。

 ちょっと神田橋先生風の比喩にもなりましたが、確か、ジェンドリン自身も、「プロセス・モデル」という論文の中で、これと似たことを書いていると伝え聞いたことがあります。

 話し手の語りを身体を通して傾聴し、身体を通した言葉で応答していくということのベースラインには、こうした視点を持っている必要がある気がします。

**** 

 さて、この「ボディ・センスを通しての傾聴と応答のうち、今回はもっぱら傾聴のことを話題にします。これが、通り一遍の、共感的な「伝え返し」に留まる状態と、どのように異なるのか?

 ・・・・・ちょっと大胆な試みかもしれず、逆に困惑してしまう読者の皆さんが出てくるのを承知で、試しに、私がそうした「身体を通した」傾聴をしているときの実感そのものを描写してみますね(^^)

 相手の人が私に対して話をはじめました。私にはその「響き」が到達しています。私の「耳の鼓膜」は振動しているでしょうし、私の「頭の中」では、相手が話す言葉や、その脈絡に込めた「意味」を「理解しよう」とする働きが始まります。

 しかし、同時に、相手の言葉の響きは、相手の人と対峙している、私の身体の正面寄りの部分全体にも同時に響いて来ているわけです。私は、あたかも耳の鼓膜以上に、腹膜で、相手の話を聴いているようなつもりになってみることが少なくないです。

 腹膜を通して私の胴体という空洞に伝達された相手からの「響き」は、胴体全体を振動させ、共鳴させます。

 私はそうやって、自分の胴体が相手からの響きに共振ないし共鳴するのを自分に許した上で、そうした身体の振動にセンサーをめぐらせて、話し手の心境を「感受」し、読み取ろうとしていく「主体としての私」も堅持しています。

 今、「共鳴」という言葉を使いましたが、これはカウンセリングで使い古された「共鳴」という述語よりも、本来の意味、つまり、音響学的な現象としての「共鳴」というのに近い意味で使っています。

 つまり、話し手という「音響発生体」(?)の中で、一定の周波数で音叉が鳴ったとします。その音波は「空気伝染」して、私の身体の中の、同じ周波数の音叉を鳴らすことになります。

 相手と同じ周波数の音叉が共鳴するがままに任せるためには、私の方で勝手に自分の中の音叉を鳴らしてしまってはなりません。

 これが、私なりの実感としての、「相手の身になって」傾聴するということです。

 受容と共感、話し手の言葉を正確に伝え返すことは、ロジャーズ派に限らず、多くのカウンセラーの基本的な傾聴のあり方として実践されていますが、正直なところ、多くのクライエントさんはそうした傾聴をしてもらうでけではうんざりしています(^^;) 

 その理由は、単に、カウンセラーが「どうすればいいのか」の答えをくれないなどということだけではなく、クライエントさんの実感では、そもそも、カウンセラーに「話を本当に聴いてもらっている気がしない」という状態にすでになっているのですね。

 なぜか?・・・・私は、カウンセラーが、単に「耳の鼓膜で」聴いていて、耳のすぐそばの「脳で」理解しようとしているだけだからだと思います。

 つまり、多くのカウンセラーは、首から上だけでクライエントさんと関わって、首から上だけで共感したつもりになっているのです。

 しかし、クライエントさんの側は、自分の悩みや言葉にならないモヤモヤをを、身体で一身に背負って面接室を訪れているはずです(別に身体症状がない人ですら、そうです)。

(フォーカシング関係者で、それぞれ「私の実感の上では、もう少し違う比喩がぴったりだ」という方がおられてもおかしくありませんが^^;)

*****

 こうして、身体を通して(くぐらせて)傾聴した上で、語り手に伝え返しをしようとすると、一見ロジャーズ派的な「反射的」な伝え返しに似ているかに見えて、単に「耳で」聴き、「頭で」理解したものを伝え返す場合とは、自ずから、若干スタンスが異なってくる気がしています。

 語り手が次々と繰り広げる、出来事についての語りや言葉の「意味内容」を、単に几帳面に追いながら克明に伝え返すことが、むしろ何か不自然なことであるかのように感じられ始めます。

 (もちろん、場面によっては、むしろそうした丁寧な受け止めと逐語的に近い伝え返しが必要なひと時もあります。でも、そこそこ経験を積むと、そう いう伝え返しをこそ語り手が必要としている時はまさに今だ!!ということを、かなりの程度感受できるようになるものです。例えば、語り手自身、慎重に、自分の中の言葉にならない実感と照合しながら、言葉を少しずつ紡ぎだしているような場面です)

 語り手が、個人的な心境や気持ちの綾を込めて語っている部分については、語調や言い回し、話すスピードや間合いすら同調させながら、丁寧に、大事に投げ返す。

 しかし、それ以外の部分については、その語り手が物語る状況について基本的に誤解していないことの確認という意味で、ストーリーをなぞる最小限の必要性が出て来る点を別にすると、かなり簡素に要約された伝え返しでも、語り手の側は特に不満を感じないことが少なくないようです。

****

 フォーカシング的な傾聴を学んで来た皆さんは、フォーカサーが用いた言葉を、同じ意味に思えるからといって別の言葉にリスナーが勝手に置き換えて伝え返すべきではないことをご存知でしょう。

 人が語る言葉には、その言葉を媒介としてはじめて注意を向けることができている、非常にパーソナルな、「実感それ自体」の領域があります。言葉とは単なる「記号」ではなく、その時のその人にとって、非言語的に感受された経験の暗黙の全体性を意識につなぎとめ、保持するための、その人だけの「とりあえずの荷札」(フェルトセンスをつなぎとめておくための「取っ手」)という側面があります。

 その人は「悲しい」と言っている時に、単に「悲しみ」という、ユニット化された感情を感じているのではありません。「とりあえず『悲しみ』と名づけてみたけれども、悲しみと言う言い方だけでは汲み尽くせない、もろもろの思いを含んでいそうな『何か』(something)」を感じている。その『何か』それ自体を大事にするようにさりげなく促すのが、フォーカシング的な態度です。

 だから、そうした際に、

「そのことについて、あなたは、悲しんでいる」

などと言葉を返す代わりに、

「そのことをめぐって、あなたは、何か『悲しみ』のようなものを感じているんですね」

などと、感情についての意味づけを固定することなく、感じている実感そのものにさりげなく注意を向けてもらう返し方をすることに、フォーカシングを学んだ人は慣れているし、普通のカウンセリング場面ですら普段使いしている方も少なくないかと思います。

 しかし、こうした言葉の返し方が、聞き手の中での単なる「応答テクニック」に留まるべきではないはずです。

 聴き手は、そこまで語り手が話してきた事件のてん末について想像し、そうした場面に自分が「身を置いた」ら、どんな居心地になり、どんな場の空気肌に感じ、どんな心境になるのかを、「あたかも」自分が体験しているフェルトセンスである「かのようにして」身体を通して感受しようとしていく必要があります。

 もとより、そうした際に、聴き手は勝手に妄想を膨らませていいというわけではありません。

 あくまでも、語り手が新たに紡ぎ出していく言葉のニュアンスや語調、表情の変化などを身体をくぐらせて感受し、それと照合し、修正していく中で、聴き手の中の、語り手の身になった「感情移入的フェルトセンス」が、その時の語り手に更に寄り添う方向に、刻々と変化していくことを許していく中で紡ぎだされた応答へと刻々と繋がっていく必要があります。

 つまり、語り手の実感そのものに更に寄り添う応答になっていく必要がある。

 そうなった時にはじめて、語り手にとって、聴き手の応答が、ある安全感を感じさせ、まるで語り手自身の身体の延長であるかのように自由に活用できる「鏡」=自分の「実感」そのものと、実際に自分ができている「言語表現」を、自然発生的に、無理のない範囲で「照合」し、語り手自身が味わい直し、より的確な言語表現を、自分なりに、深い実感の中から紡ぎだしていく手がかりになるのだと思います。

 聴き手は絶えず旅の過程で、身体性を伴う存在感(presence)を持って「そこに-いて」くれているのです。

*****

  ところが、こうやって「身体を通して傾聴し、身体を通して言葉を返す」というあり方が身についてくると、伝え返しの際に定石とされてきた一般原則のひとつを、ある程度緩めてもいいという心境に私はなりました。

 それは、「伝え返しの際、語り手が実際には使ってもいない表現で提示してもいいのか」という点について、私の中の禁則が緩んだということです。

 これをどう説明するかということは、私にとってかなりチャレンジングな未踏の領域(?)ですが、次回、何とか挑んで見ましょう。

(続く)

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2009年7月19日 (日)

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(4)

 この連載、前回に続いて、ついに4回目に突入しましたが、私自身にとっても、私が日々のカウンセリングにおいて(・・・・いや、それだけではなく、個人的に本当に大事にし たい人たちとの対人関係で、相手の気持ちときちっと向き合いたい時に)、いったいどういう関わり方をしているのかを自分で再確認してみることにもなってい て、興味深い場になっています(^^)

******

 私のそうした場面での傾聴と応答の際には、どうやら、実にシンプルに習慣化された、4つのステージが構造化されているようです: 

Stage1.ベースラインモード

 話し手が個人的な含蓄を込めて、実感に触れながら語っている「かのように」私に感受できた言葉や言い回し(実感を伴うキーワード)を、私自身の身体に響かせ、話し手が体験している言語以前の漠然とした「感覚」そのものを私の身体の中に徐々に醸成するかのようなつもりで、決して言い換えることなく、「点(話し手の用いた、実感を伴うキーワード)」「線(語り手の語った状況説明の大枠や、接続詞)」を大切につなぎながら、言葉として投げ返していく。

 私が、そうやって、話し手にとっての実感上のキーワードや言い回しを、私自身の身体に響かせること自体が、私の中に、話し手の身になった「感情移入的フェルトセンス」一層醸成させることに貢献するのであり、話し手がどういう実感を体験していたのかに、更に身体ごとチューニングしていく上で役に立つのです。

 これが、傾聴と応答全体の6-7割で堅持されている基本スタンス、ベースラインモードなんですね。

 たいていの人は、何かを人に語り出す時に、

  • 自分の体験している実感そのものを相手が共有してくれることを期待している。
  • すでに多少の程度は自分の実感に触れる中から言葉を紡ぎだそうとしている

・・・・この2つの前提に立った方がいいと思います。

 話し手の話が一息つくたびに、私の方から、こういう、身体を通して身になる聴き方を経た伝え返しの応答を差し挟んでいくとしていくと、それだけで、話し手は、自分が今言葉にしてきた言い方が、自分の実感としっくり来るものなのかどうかを、自然派生的に内側で照合し、自分にとって更にしっくりする言い方に置き換えていったり、あるいは、自分の抱えた問題の中の、本当に伝えたい局面を物語ろうとして行ってくれることが多いようです。

 こうした聴き方をしていると、話し手も、いつの間にか、私に向けて自分の気持ちを語ることに没頭し始めるのですね。そして、その時のその人なりに無理のない範囲で、自分の中の実感に触れながら言葉を紡いでいく傾向が、しなやかに「少しだけ」喚起されることになることが少なくないと思います。

 つまり、まずは聴き手の側が、率先して、語り手の語りをじっくりと「身体を通して」傾聴して、語り手の語った、語り手の実感がこもっていそうな言葉や言い回しを「拾い上げ」、伝え返していくを姿勢を繰り返しとることで、どういうわけか、そうした聴き手の「身体を通す」スタンスそのものが話し手自身の、「自分の」実感へのかかわり方へと「伝染する」(あるいは「非言語的な次元での模倣」を喚起する)ことに、かなりの程度信を置いていいと思っています。

 そうした一方、(連載2回目でも書きましたが)、私はそうやって、私自身の身体の中に、話し手の「身になって」体感しつつある「感情移入的」フェルトセンスを感じる部分とは別に、話し手を前にして、話を聴く中で、「私個人の中に」生じてくる実感や連想や思いを受け止めるためのスペースを、いわば2重抱えでしつらえています(聴き手自身の中での、いわばマルチタスクのフォーカシングモードです)。

 敢えて言うと、あくまでも相手の身になって実感を感じようとしているのはは、相手と対面している、私の身体の正面寄りの部分に、仮想的に設定されたし身体領域です(半分は私の身体に埋没し、半分は正面寄りの空間に張り出しているイメージでしょうか)。

 その後ろの方の身体領域に、「相手の話を聴いて私個人がどう身体で感じているか」を味わうための、もうひとつの身体領域があるつもりになっています。

 そこでは、語り手の話を聴いて行く中で私自身に生じた不安や緊張、違和感や時には嫌悪、そして、私個人の中に勝手に沸き起こってきた感想や連想や、私自身の体験と勝手に引き付けてとらえようとする心の動きや、「批評家的」な感想や分析の類が次々と沸き起こることを私は許しています。

 しかし、私は(アンさんの技法風に言えば)それらひとつひとつに「なるほど、そういう感覚や連想も生じてきているわけね、わかったわかった。必要 あれば後で相手してあげるから」と一声ずつかけて("Acknowledging")、脇にひかえていてもらうことを果てしなくやっていき、そうした「私 個人の」内側からの訴えがとりあえず静まったら、「相手の身になっている部分」の方に注意を戻してしまうわけですね。

 この「相手の身になっている」仮想身体と、「私個人が相手との関係で感じている」ことを受け止めるための仮想身体は、あたかも2つの地層のように、私の身体の中で隣接しているわけです。しかし、この2つの層の間のバウンダリー(障壁)は、人の話を真剣に聴こうとする際には、非常に強固に維持しようとしています。

 敢えて言うと、一方の層の血管に流れている血液は、めぐりめぐってもう一方の層にも流入するので、間接的な相互作用は生じているという相互影響過程は当然ありますが。

 そして、少なくとも、今言及しつつある、1番目の「ベースモード」の聴き方をしている時には、「私個人がどう感じているかを体感する仮想身体」の方の直接的発言権は、厳重に管理され、その会話の日常的な自然さを保つのに必要な、比較的些細な内容を除くと、「ほぼ」封印することになります。

 こうして、私は「相手の身になりつつも、同時に私自身であり続ける」という形で、相手の前に身をさらして話を聴いているわけですが、このようにするのは、単に「相手に巻き込まれてしまわないため」などという理由に留まりません。

 むしろ私として申し上げたいのは、私が、相手の話を傾聴しながらも、私の体の中の一方の層の中で、ある意味で情け容赦がないくらいに、話を聴きな がら私個人がどういう実感でいて、どんな連想をしているのかを、ことごとく自覚して、認めておこうとしている(アンさんの著書の原題タイトル、"Radical Acceptance of Everything"を想起します)から「こそ」、それと安易に混同しない、より純粋な形で、「相手自身は」どんな実感でいるのかに丁寧に関心を向け、感じてみようという余裕(自分の中のスペース)が一層生まれるのだと思っています。

 単に自分個人の実感を自分の中で押し殺そうとしているだけだと、「相手の身になる」心の余裕はどんどんそがれていく・・・・なのに、ひたすらその「フリをする」ことに没頭する自己不一致状態になるのではないかと思います。治療者側の自己不一致は、クライエント側の自己不一致を誘導することは、ロジャーズ派カウンセリングの基本原理でしょう。

 更に言えば、話し手側には、聴き手の私が、私個人として、どのようなことを感じているかの内容的な実態は、その段階では具体的にはほとんど全く感受できていないかもしれませんが、私が、聴き手の身になろうと務めながらも、どういうわけか、私としての自然な存在感(presence)を維持しつつ、しっかりと安定して「そこに-いる」ということは伝わると思います。このことそのものが、話し手に、話をしても大丈夫だという安心感と信頼感を醸成するのではないかと思います。

(続く)

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2009年7月22日 (水)

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(5)

前回の続きです。

Stage2.感情移入的なフェルトセンスからの応答を、挿入的に最小限織り交ぜる場合


 話し手が話すことが、かなり込み入った感情について、断片的に次々と繰り出される形になり、しかもその込み入ったひとつひとつの表現をたどって応答していくと、何かしら几帳面過ぎて、語り手の語る話の流れをむしろ妨害して、むしろ、語り手がとりあえず口にしたに過ぎない表現の枝葉末節に語り手を拘泥させるきっかけになりそうな時、私は、語り手の、せいぜい30秒から1分程度までの語りの中に語り手が込めていた気持ち全体(表情や語調を含めた全体)をとらえることになりそうだけれども、語り手自身は使わなかった言葉を、語り手の身になってちょっとだけ感じてみて、そっと差し出すことがあります。

 これは、私の応答の中で、せいぜい10%から20%しか占めません。前述の、語り手の用いた個人的含蓄の深そうな言葉をそのまま大事にした応答、すなわち、「ベースラインモード」の合い間合い間に、ごく挿入的にしか用いられない形になるのが自然だと思います。

 むやみに使いすぎると、語り手は、自分自身の言葉で内面に注意を向けながら物語ろうという自然な内的道筋を見失ってしまいやすいからです。

 これは、一見、ロジャーズ版の技法でいう「明確化」だとか、「要約」といわれる返し方に外見上は類似しているのですが、私はそうした際に、私なりに言い返して投げ返す応答が、語り手本人が込めてそうな含蓄を、単に一般化、平板化しかねない言葉に置き換われないように、細心の注意を払います。

 私は、これを、聴き手である私の側の「感情移入的なフェルトセンス」を活用した、最小単位の「代理フォーカシング」のようなものとして位置づけています。

 多くの話し手は、こうした言葉を伝え返した時、

A: 少しはっとするような調子で、

  「そう!〇〇です」

などとその言葉を繰り返し、その後の話の流れでは、私の差し出したその言葉を、自分の言葉の一部として取り入れて全く自然に使い始めるか、

B:「〇〇というより・・・・そうですね、◇◇というほうがいいかな」

などと、自分なりの言葉に置き換えて、更に自分の話の続きを、さっきまでよりは少しだけ生き生きと展開していくことが多いです。

 そして、現実には、どちらかというと、この中のBパターン、つまり、私の差し出した言葉は話し手本人の実感に響く、新たな言葉に言い換えられて、はじめて、その後の話を展開する上でのキーワードとして動き出すことの方が多いように思います。

 私が「代理フォーカシング」して差し出した表現は、話し手本人の実感と自然と照合されて、反して本人が、ひとりだけではなかなかたどり着けなかったぴったりの表現を見つけ出すための照合体、あるいは触媒としてそこそこ機能していれば、それで十分なのですね。

 こうしたことが円滑に機能する言葉は、そこまでの部分で、聴き手としての私が、「ベースラインモード」、すなわち、語り手が使った表現や言い回し だけを慎重に使い続け、なおかつその言葉を私自身の身体に響かせる中で、語り手の身になった「感情移入的フェルトセンス」を刻々と形成する中て語り手の実 感世界に徹底的に寄り添うことを続けた中から、最小限必要と感じられた場合にのみ「差し出された」言葉だからこそ、語り手にとって「当たらずとも遠からず」の表現となり、語り手も、それが実感上しっくりと来なかったら、自分の言葉に置き換えてしまうことを、全く自然にできてしまうのだと思います。

 こうした際に、聴き手が、話し手の身になって、身体を通して出てきた言葉を提示しないと、話し手の側もそれを再び自然と身体ごとで感じている実感をくぐらせて照合するということが生じにくく、単に「頭で」もっともそうかどうかだけを「判断」するに過ぎない次元へと引き戻しがちなようです。

*****

 (この水準での活用の場合、滅多に生じないことですが)、もし万が一、私から差し出したその表現に、話し手側がひどく戸惑ってしまったら?

 その時には、話し手がその直前に話していたことを、話し手自身が使った言葉を大事にしながら、ある程度もう一度投げ返してあげるところに立ち戻る 方がよく、聴き手の方から、次から次へと、更に別の言い方を新たを繰り出すことなく、再び「ベースラインモード」の傾聴に戻る方がいいように思います。

 少なくとも、聴き手の側から使った表現に、聴き手の側だけがこだわり続けるパターンにはまることは、できるだけ避けた方がいいと思います。

****

 なお、このstage2で行なった水準での、聴き手としての私の感情移入的フェストセンスを活用した言葉の返し方をする場合には、語り手の話の流れを妨げない自然さを最大限尊重するため、後述のstage 3以降の場合のように、「今、あなたがどんな心境なのかなと私なりに感じてみて出て来た、私なりの言葉(イメージ)なんだけど・・・・」ということまで、語り手に予め断った上ではじめて語り出すだすことまでは、通常だと、あまりしません。

 慎重を期したい時には、「こういうこととして受け止めていいのかな? つまり・・・・」ぐらいの前フリをさりげなく入れますが。

 ・・・・・こうして理屈だけで説明すると、どのあたりのことをすることなのか見当がつきにくい方もあるかもしれません(^^;) しかも、話の場の場のライブでさりげなく使っていくことが多いので、その場で面接記録を取っていても残らないくらいの次元のものなのですね。

****

 ちなみに、私は面接記録を、面接のただ中で取るタイプです。

 そういう際に、できるだけ、語り手自身が自発的に用いた表現と、私が、今述べてきたstage2水準で提示した言葉を区別できる表記になるように工夫しています(具体的に言うと、前者は「 」入り、後者は< >入りで記入します)

 面接が終わってから記録を取ると、得てして、話し手が使った、個人的に含蓄を込めた言葉(フェルトセンスのハンドルに当たる言葉)を、聴き手である私の側が、平板で一般的な表現に置き換えてしまいがちです。

 前回述べたことを繰り返しますが、同じような意味だからと言って、話し手の実感に響かない別の言葉に置き換えてしまうと、話し手がその言葉を媒介として伝えようとしていた含蓄の大半は見失われます。

 ところが、聴き手にとっても、語り手自身の表現というのは、やり取りをしているその瞬間を遠ざかるにつれて、記憶に残りにくくなるものなのです。

 ところが、面接場面での相互作用の核心部分は、そうした、話し手自身が使った言葉や表現をどのように聴き手としての私が受け止め、ここまで述べて きた「ベーシックモード」と「聴き手の身になった言葉での伝え返しを最小限していく」水準での応答を、話し手がどのように自分の中で自然と再吟味して、新 たな言葉を紡いでいくかという、たいへんミニマムな水準での相互作用のステップの進展の繰り返しの中で築、実にさりげなく築き上げられていくことのように 思えてなりません。

 面接の流れがちょっと袋小路になった時に、語り手がさっきまで話していたパーソナルな脈絡にもう一度立ち返ってみるように促すことが役に立つことがあります。そういう時に、「さっきまで、そういう時には〇〇だと感じる・・・とお話しでしたが」と、話し手自身が使ったvocal(音声的)な言葉を具体的に再提示して差し上げると、語り手は、先ほどまではつかんでいて、いつの間にか見失っていた、自分の体験過程に触れながら言葉を紡ぐ軌道を、再び取り戻せる場合があります。

 そういう際に、話を聴きながら刻々とメモし続けてきた話し手の言葉を活用できることの意味は大きい気がしています。

(続く)

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フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(6)【第2版】

 前回の続きです。

Stage3.語り手がそこまで語った全体について、聴き手の感情移入的なフェルトセンスからの応答を提示してみる

 話し手の話が自然と一区切りついた間合いを見計らって行ないます。そこまでに、語り手の話は短くても5,6分、長い場合には10分前後は続き、聴いている私はstage1ないし2の形で、話し手の話の流れをできるだけ妨げない形で、専ら聴き役に徹してきていたことになります。

 私は、そこまで話し手の話を聴いてきて私の側に生じた印象や感想や意見を述べる前に、たいてい次のことをします。

 「あなたの話を聴いてきて、あなたはこんな感じでいる(いた)んじゃないかと私には感じられてきているんだけど、聴いてくれる?」

・・・・という前フリをして、暗に「これから語るのは、あなたの実感について、あくまで私があなたの身になって感じてみたものを提示するに過ぎないので、あなたにとってピンと来ないなら、払いのけたり、修正してくれてかまわない」ことを示唆した上で、

1.ひとつの単語、せいい2,3の語句
2.ひとつの比喩的なイメージ(についての要を得た解説)

の形で提示します。

 この際に、決してくどくどしい説明にしないことが大事です。

 なぜなら、長い表現になったら、焦点が曖昧になってしまって話し手がそれを、そこまで話してきた自分の実感全体と響き合わせて照合するということを端的かつ直感的にやりにくくしかならないからです。

 ここでもまた、stage2と同様に、聴き手は、話し手の身になりつつも、話し手自身は使ってもいない言葉や表現を見つけ出して使うことになります。

 やっていることはstage2と似ているのですが、stage2がミニマムで小刻みに、流れの中でさりげなく使うのに比べると、そこまでの話全体について、二人で一緒に振り返って味わいなおすように促すという点で、よりメリハリがついた提示の仕方といえます。

****

 このように説明すると、インタラクティブ・フォーカシングにおいて、「二重の共感の時(double empathic moment)」の後で、まずは聴き手の方から、語り手の身になって感じてみた言葉やフレーズやイメージを返してみる時のやり方と非常に類似していることにお気づきのフォーカシング学習者もおられるかと思います。

 敢えて違いを述べれば、語り手にはそこまで離したこと全体を身体で味わっていてもらい、その間に聴き手である私は話して身になって、ぴったりに言葉やイメージを捜すための沈黙の時をとりましょう、というはっきりした提案とセッティングまではしないまま使うことが多いということでしょう。

 私がここでこれまで述べてきたのは、通常のカウンセリング場面や、親密な知り合いの相談事を日常の中で聴いていくという「普段使いの」際に、さり げないエンジンオイルとして役立てるやり方です。特定のフォーカシング技法を「双方が身につける」ことを目指してはいません。しかし、この程度の「緩め た」使い方でも効果が十分発揮されるのです。

 私の場合、いったん傾聴モードで相手の話を聴きはじめたら、数分ないし十分ぐらいの無理のない一区切りの時に、このstage3次元での、相手の身になった端的な言葉やイメージを投げ返す時がやってくるという前提でずっと話を聴いています。ですから、私の中で、stage3のタイミングで投げ返す言葉やイメージは徐々に暖めらて来ていることになります。stage3を試みようという時にはじめて相手の身になってみて言葉を捜すのではないのですね。だから私には沈黙の時は今更不要なのですね。

 私はそうやって話し手の身になった言葉やイメージを実際に提示した後でも、私は更に、

「・・・・・これはあくまでも、私の側が、あなたはそんなそんな感じでいるのかなと想像したに過ぎないことなので、あなたの側でどう感じているかは別かもしれないけど・・・・」

・・・・などともう一度付け加えて、その人が、私が提示したものを自由に修正する権利を保障すすことを暗に示唆することが少なくありません。

 もっともそこまでやらないうちに、私からの当の言葉を聞いた時点で、

「うん、そう、そうなんだ!!その〇〇だよ!!」

と、打てば響きように言ってくれる人も少なくないですし、

「〇〇というより、◇◇かな。・・・・・という点では〇〇だともいえるけど、・・・・・という面が私にとっては強いから」

などと、自分の心境に更にぴったりな言葉を更に新たに見つけ出したり、それまではっきり語ってはいなかった、自分の気持ちの別の側面や、関連する話題を語り始めるケースはたいへ多いといえます。

 後になってみると、そこまで聞き届けないうちに、相手に、自分の側だけの感想や意見を言わなくてよかった!!と感じることがたいへん多い気がします。

 語り手がこうして、それまでよりは更に進んだ方向や別の局面へとへ話の展開を始めたら、私はstage1ないし2に立ちかえり、もっぱら相手の話を傾聴しているモードに戻ることになります。すると、しばらくして、再びstage3を試みたくなる時がめぐってきます。

 前回述べたことを繰り返しますが、相手の身になった言葉やイメージを提示するのは、あくまでも相手が自分の実感を更に深く多面的に吟味するための触媒として機能するためです。相手の気持ちを「言い当てる」ことを目指すものではありません!!

****

 語り手が、話を続けてきたあげく、

「これを聴いていて、あなたはどう思いますか?」

・・・・と、私に意見を求めてきた場合にも、私はいきなり私の側の印象や感想や意見を返すことはしません。

 まずは、このstage3の次元での応答、つまり、

「あなたの話を聴いていると、あなたはこんな感じでいるのではないかと思えてきたんですけど・・・・」

 という形で、あくまでも話し手の身になった、感情移入的フェルトセンスから浮かび上がる言葉やイメージを、手短に差し出してみることを優先します。

 それに対する語り手の更なる反応・・・・・そこでどれだけ意外なことを語り手は更に語り出してくれることが多いか!!・・・・まで受け止めてでないと、私個人の感想や意見は言わないことにしています。

****

 こうして、まずは相手の身になっての言葉やイメージの提示をした上でないと、相手の話への私の感想や意見は言わないということが、私には随分身についたものになってきています。それについては次のstage4で解説します。

(続く)

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2009年7月25日 (土)

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(7)

 前回の続きです。

Stage4.語り手がそこまで語った全体についての聴き手の側の印象を言葉にしてみる

 Stage3までのやりとりは、もう一度Stage1にまで戻って、話し手の話の様々な局面について自然と展開が広がる形で繰り返されることが少なくないのですが、そうしたやりとりが自然とひとまとまりがついてところではじめて、話し手の話を聴いていた私の側が、そうした話にどういう印象を持っていたかを語ります。

 すでに述べたように、私はここまでの展開の中で、話し手の「身になって」自分の中に感情移入的フェルトセンスを刻々と醸成していくモードと、話し手の話を聴いた私の側にどんな思いや違和感や身体感覚が生じていくかに刻々と気づいて受け止めていくモードという、2重の仮想身体を抱えているつもりで、その2つをはっきりと内側で区別しながら傾聴し続けています。

 しかし、こうした2重のモニタリングを維持しながらstage3までを丁寧に進めて来ていた場合、私が当初は感じていた、語り手への違和感の多くは氷解する方向へと、語り手はいろんなことを話してくれていることが多い気がします。

 この私の中での「氷解」を決定的に進めるのは、私がその違和感を「早まって」(?)口にすることではないのですね。stage3で、そこまでの相 手の話の全体について、相手の身になった言葉やイメージを返してみた後で、話し手がそれを自分の実感と照合しながら、更に語り勧めてくれる中ではじめて聴 けた話に、しっくりと感情移入できるという形で生じることが少なくないようです。

 ですから、私は、stage4において、「最初に」感じていた違和感にまで遡って言葉にすることはほとんどありません。そこまで話を聴いて来て「どうしても残る」違和感については触れることも多いのですが、そうした際にも、「あなたから何かまだ肝心なところまで話を聴けていないから(あるいは、あなたの側では「伝えたはず」だけど、聴き手である私の方が 肝心な点を受け止め損なっているので)、私の側がそうした違和感を感じているだけではないか」といったことを、言外に示唆するか、直接伝えることが少なくないですね。

 こうしたスタンスを維持する限り、こうした私のstage4水準での表明を受けて、更に語り手が反してくれることは、更に理解を深め合う方向へと 進むことこそあれ、語り手の側に、私に何かが「通じなかった」「受け止めてもらえなかった」という方向に留まることは少ないと感じています。

 要は、私が語り手に返した事柄について、語り手の側がピンとこなかったら、いくらでも修正を入れてくれていいというスタンスが伝わるかどうかだとも思えます。

*****

 こうしたstage4水準での応答において、「語り手の体験していること(とその際に生じているもろもろの感情)が、聴き手である私の過去の体験(とその時の感情)とどこかで「通じ合う」かのように自然と感じられた」ということを伝えることも少なくありません。

 しかし、私はそうした時に、「あなたがそういう体験の中で感じたことと安易に重ね合わせ過ぎる形になることは私も望まない。これはあくまでも私の側が勝手に重ね合わせたことであるに過ぎない」というメッセージも必ず同時に付け加えます。

 ちまたにありがちな、「そういうことって、あるよねー」式の、安易に自分の体験に引き付けた「理解し、共感したフリ」のエールの送り方が、相手自身が体験している状況と個人的な感情に更に付き合うことを妨げる浅薄なものであるかを重視したいためです。

*****

 さて、ここでやっと、先日の「久留米でフォーカシングを学ぶ会」というグループの中で、主催者の私が、会の最初に実際に試みたこととの関連に話題を戻せます(^^;)

「まずは、この場にこうして座ってみて、皆さんひとりひとりが、今、どんな感じで座っているのかな・・・というのを、ちょっとだけ味わってみる時間を取りたいと思いますが、いかがでしょうか?」

(この問いかけの際に私が付加した、さまざまなアングルからこのことを試してむることができることについての具体的な提案の細目は、こちらの記事をもう一度参照してみてください)。

 数分が経過し、ひとりひとりの参加者から、「あくまでこの場で参加者の皆さんとシェアしたい事柄だけでいいので」と伝えた上で、その数分間の沈黙の間に体験していたことを語ってもたったのですが、ひとりあたり2,3分からせいぜい5分でした。

 私は、ひとりの参加者の話を聴くごとに、こうして述べてきたstage1からstage4までの応答次元をすべて含めた形で傾聴し、応答することを意識的に進めていったのです。

 つまり、ひとりの参加者の話を聴いていて、私がその参加者の話を「身になって」聴いていて生じてきた、参加者の実感にしっくり来そうな言葉やイメージを手短に呈示し、それについてやり取りし(stage3)、それに続いて、私の側の感想や、私の体験との接点(と、私に感じられたもの)についての控えめな呈示と、それに基づくやり取り(stagae4)まで、その参加者と進めるということを、コンパクトに進めたわけです(その参加者とのやり取りをしている間、他の参加者はあくまでも静かにそれを聴いています)。

 その結果得られた参加者からの振り返りの感想が、以前お書きしたように、

  「シェアリングの中で他の参加者の方が自分の体験の中で感じていたことを聴いていく中で、それを自分の実感と自然と照合するプロセスが進んで行き、そうしたグループの場の空気に助けられて、自分の身体の内側からの反応をしっかりと確かめられた」 

となったことを、私はたいへん興味深く思えました。

 これは、個々の参加者と主催者であるとの間で繰り広げていた、お互いの実感を照合する相互作用のプロセスが、他の参加者が自分の実感に触れ、再吟味していくプロセスに、ほとんど非言語的な次元で、ひとつのモデルとして影響を与えていたということかとも理解できるとも思えます。

****

 もう一度繰り返しておきますと、ここで述べてきたことは、私のカウンセリングおよび、プライベートな人間関係で真剣に相手の話を聴く時の傾聴と応答の様式として当たり前になってきていたことを、これを機会にまとめなおしてみたものです。

 もちろん、このことを常に完璧に実現できているわけではなくて、こうしたススタンスが崩れることもあります。 

 そして、ネット上で文字だけでコミュニケーションをする場合には、こうしたやり方まではほとんど使っていません。電話など、音声だけのやりとりでも、不十分にしか発揮できないように思います。

 ここでは、実例を呈示しないままに説明を進めてきたので、読者の中には、どういうあたりのことを指すのかつかみづらいと感じた皆様もあるかもしせ んが、一度ここでこうしてまとめておくことが、今後私にとって、今後何かの際に役立ちそうだという予感に導かれるまま、とりあえずの見取り図として書いて みた次第です。

(とりあえずこの項終わり)

2009年7月29日 (水)

単に「無理をしなくていいんだよ」と言われても、鬱の人は・・・・

 欝状態に陥り、仕事も辞めて、しばらく投薬を受けながら休養を取っていて、小康を取り戻したと思えた人が、「少しは働き始めてもいいかな」と思っ て、まずは、限られた日に限られた時間だけ、負担も少なそうなバイトを始めることから社会復帰の道を探るという形をとることは、言うまでもなく、非常に多 い。

 しかし、ことはなかなかうまく運ばないものである。

 例えば、以前の自分であれば何なくやり遂げることができたと思える作業で、予想外に消耗する。

 注意力が乏しくなっていて、些細なことでミスをしやすい。

 特に、同時に幾つものことに気を配るということがうまくできなくなっていることに自分でも驚いてしまう。

 結構普通に業務をできているかなと思ったら、まるで「魔がさす」かのように、いとも簡単に、ものを置き忘れたり、必要なものを持っていくのを忘れるなどが生じる。

 最初の2,3時間は調子よく業務をやれても、思いもよらないぐらいに早い時間が過ぎると、突如、怒涛のように疲労が襲い掛かる。

 職場環境は悪くない。同僚も上司も結構いい人たちである。

 なのに・・・・数日仕事を続けるうちに、朝、起きてみると、重苦しい気分の中で、「もう、仕事に行けない!!」という、強烈な思いが押し寄せてくる。

 それでも頑張ってしばらく通い続けたものの、ついに力尽きる。

 こうして、バイトをやめる決断をする。

***** 

 一度鬱になった人の困惑するひとつの現実は、欝になる前までのような形で、「自分がどのくらい無理をしたら、どのくらい疲れるのか(=どのくらい「無理が効く」か)」「一度疲れたら、どのくらい休息を取れば、そこから回復するのか」という、実感的な経験値に基づくシミレーションの「勘」が、まるであてにならなくなるということである(この記事も参照)。

 「結構やれている」という状態が数日ないし1,2ヶ月続いても、それが瞬く間の間に崩れ去り、以前の欝状態に舞い戻る場合もある。

 そうなってくると、もう、自分の中の何を判断基準として自分の活動水準を制御したらいいのか、まるでわからなくなる。そういう人も少なくないのである。

 お医者さんは、「私はこれからの一週間、働いても大丈夫でしょうか?」ということに直接答えを出してくれる存在ではない(その人がよほど無理をしていることが明白な場合は別であろうが)。

 こういうことが度重なると、

「自分は実は結構やれるはずなのに、やらないでいるだけではないのか」

「でも、またはじめてみて、この前と同じように結局無理になって働けなくなってしまったら?」

という2つの気持ちに挟まれたディレンマの中で、どのように自分のスタンスを定めたらいいのか、悶々とした状態になり、休養しているはずなのに心は休まらないという宙ぶらりんな状態のまま日々を送ることそのものが更に辛くなっていくのである。

 このようにして生じたきた鬱っぽさを、私は「本態としての鬱」ではなくて、「鬱状態をどのようにして生きていくか」というストレスから生じた二次的な鬱」としてとらえている。実は、この二次的な鬱状態の方に、より大きく振り回されていると言えそうな人が少なからずを占めているのではないかという気がする。

****

 さて、先ほどのようにして、始めたバイトを中断せざるを得なくなった人に対して、家族は「無理はしなくていいよ」と言ってくれたとしましょう。

 恐らく家族は、それなりの善意と思いやりをもって「無理はしなくていいよ」と口にしたのであろう。しかし、その人は、そうした家族の対応にむしろ気持ちの通じなさ疎外感を感じて、死にたいとすら感じ始める・・・・・そうしたことは、確かに少なからずあるのではないかと思う。

 なぜなら、その人は、今度こそと思って仕事を始めてみたのに、もろくも崩れ去るしかなかった自分に深い絶望と「無念さ」を感じているのである。そ の人は、そうやって仕事の再開を志した時の自分、しかし実際に始めてみると、抗し難い力で自分に生じてきた「もう働きたくない」という思い、そしてその挫 折の無念、そうした経過全体から生じた「心の痛み」そのものを、身になって「共にして」くれること(com-passion)、思いやってくれる相手をこそ、周囲に求めていたのである。

 話し手には突き放す意図はなかったとしても、 「そういう経過になることはよくあること」「そうなっても仕方ないね」とだけ言われてしまうと、まるで、ひとりだけ見捨てられ、諦められ、打ち捨てられ、放置されているかのようにしか感じられないのである。

 こうして、その人は、いよいよ死にたくすらなってしまうわけである。

 私はこれを、うつの人にありがちな認知特性の問題に還元するに留まることに違和感を覚える。ご本人の実感の世界に身をおいて共有しようとすれば、我が身にでも生じかねない思いであることを、かなりの程度汲み取れるはずだからである。

 非専門家である家族にまで多くの責任を負わせることはできまい。しかし、少なくとも、うつの人に接する援助的専門家なら、医師でも、カウンセラーでも、まずはこうした次元で気持ちを丁寧に汲むことから降りてはならないだろう。

 鬱とは、単に欝状態になった人個人の内側にあるものではない。その人と接する具体的な人間との相互作用の中で生じている悪循環現象総体である。

 脳内で神経伝達物質の代謝異常の問題が確かに生じているにしても、それは「原因」であると同時に「結果」なのだ。本来ならばかなり適切な筈の薬物 が投与されていたとしても、医師やカウンセラーの日ごろの面接での態度次第でその効き目は大幅に異なったものになることは言うまでもないことである。

 これは、「〇〇療法」以前の問題であろう。

 そして、これは何もうつ病に限った話ではないことも、察していただけるであろう。

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