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2009年6月

2009年6月 1日 (月)

NHKのクローズアップ現代・「抗うつ薬の死角 ~転換迫られるうつ病治療~」について(第3版)

 本日(6/1)19:30に放送された内容に基づいて、速報します。

 SSRIの副作用として稀に見られる、衝動性・暴力性誘発という問題について踏み込むと言うことは事前に知っていましたが、それでも全体としては、当ブログでも大々的に連載を組み、ご愛読いただき続けている、3/7放送のNHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」の補足的・復習的続編という色彩が強いだろうとは思っていました。

 その意味では、番組の構成的にも全く予想通りに進行してしまって、押さえて欲しかったポイントはほぼすべて押さえてくれ、前回の番組で誤解を招きかなかった側面(認知行動療法だけを積極的に描きすぎていた面)はうまく調整されていたと思います。

 医者や臨床心理士や看護士にとどまらず、栄養士すら含むさまざまな役割のスタッフが、皆、患者さんをケアし、見守る援助資源であり、誤診や状態の変化に対応できるチーム医療の上でいかに重要かを改めて強調していた点についても好意が持てました(薬を必要以上に出さないことは大事ですが、この番組後半で紹介されていた事例が、画面を見る限り、入院治療である点に注意すべきかと思いますし、薬物療法をやはり大事にしている点も見逃すべきではありません)。

 また、番組内でも繰り返しテロップすら出して強調されたのは、この番組を観て不安にかられるあまり、自分だけの判断で薬にやめてしまうと非常に危険なので、疑問があればお医者さんに相談してください、ということでした。これも適切な配慮でしょう。

*****

 さて、今回の番組の前半で中心として取り上げられたのは、先述の、抗うつ、SSRI)が、人によっては、攻撃性や衝動性を誘発する副作用が出る可能性があることを、この4月に、厚生労働省が、製薬会社に注意書きとして掲載することを義務付ける通達を出したという点でした。

 日本では、SSRIの投与が現実の衝動的な暴力事件と因果関係を厚生省が正式に認定されたケース事件はまだ4件しかありません。

 この番組でも紹介された、1999年の、機長を殺害し、精神鑑定の結果無期懲役に減刑された、全日空61便ハイジャック事件で、抗うつ剤大量服用による心神耗弱が無期懲役への減刑理由となったことはかなり知られているかと思います。

 全日空事件に関しては、そもそも、通院していた医者の当初の診断も理解しかねる(統合失調症ではなくて、この段階では詐病していた疑いがあることは当時も報道されたかと)し、結果として出されていた薬のリストを見ると、医者ではない、限られた知識の私の目から見ても、もう、どういう判断でこうした薬がここまで大量に出ていたのか、目を疑う内容が列挙されていますので、判決のように「『抗うつ剤』の大量服用の副作用」だけ認定したというのは何か腑に落ちないといいますか、医者の診断と投薬のあり方そのものが大きく問われる事例と思えてならないあたりが、今回の番組では不十分な描き方と思えますが、その部分を詳しく描きすぎても番組のバランスを崩したでしょうから、敢えてクレームをつけるに及ばないかと思います。

 そして、アメリカの、あの「コロンバイン高校銃乱射事件」(1999年)の犯人のひとりもまた、犯行直前に、大量のルボックスを服用していたことが、この番組で紹介されます(wikipediaによれば、犯人の遺族からの製薬会社の告訴による訴訟においては、薬との因果関係は立証されなかったものの、2002年にこの薬はアメリカ国内では販売中止になっているそうです)

 アメリカでは、すでに2004年の段階で、SSRIがその副作用として攻撃性を誘発するか可能性があることを注意書きに明記する命令が製薬会社に出されていました。

*****

 もとより、こうしたSSRIが攻撃性を誘発する副作用を人によっては発揮する可能性については、こうした大犯罪事件のみならず、数多くの、もっと地味な犯罪・警察沙汰の事件、そして現場医療の中で気がつかれた患者さんの衝動性の高まりなどの行動変化についての、少なからぬ症例に基づいて浮かび上がってきた事柄です。

 番組では、日本での2つのケース、すなわちパキシル投与後、言動が攻撃的になり、ついにはコンビニに包丁を持って強盗に押し入り、現金20万円を奪取した事件、そして、配偶者を殴って10針の傷を負わせた事件という、2つの事件における、診断と投薬の過程の問題点が、ご本人と家族への取材映像を含めて紹介されていました。

 前者のケースは、投薬開始後早い段階から、家族に対して衝動性・攻撃性が増していたにもかかわらず、医者は、まずはパキシルを3倍にまで2段階かけて増量し、その段階で「効かないから」という訴えを受けて、一転して投与全体を中止。それから数週間後には再び、かなりの量の投与を再開、更に増量(当初の4倍)という、実に頻繁な投与量の増減がなされていた点が、番組で、重要な問題点として指摘されました。

 SSRIを飲むことを「急にやめてしまう」ことは、実は非常に危険であり、身体面でのリバウンドの危険も大きいばかりか本人を更に不安定にする引き金ともなるのです。ですから、患者さんが勝手な判断で飲むのをやめてしまうことは是非避けるべきです。お医者さんの指導の下で徐々に減薬していった上で、別の薬等の治療に置き換えて行くのが適切です。

 もうひとつの後者のケースは、すでに以前もご紹介したように、実は双極性障害の「うつ状態」のはずなのに、単極性障害とのみ誤診され、気分調整剤ではなくてSSRIのみが中心的に処方されたケースでした。この患者さんは、おかげで躁鬱の波が余計に悪化するというパターンにはまって、奥さんに暴力を振るってしまったのですね。

↓「NHKスペシャル」で用いられた図の再掲です。今回の番組で掲載されたのは「双極型障害Ⅰ型」についてのもので、躁状態方向への波の振幅も高まっていたので、少し違う図になるのですが、参考までに転載します。
Bp2b_2
Bp2c_2

 この番組の中で、単にSSRIそのものに不安や緊張の低下と同時に、衝動性抑制の神経伝達物質代謝まで緩んでしまう作用を起こす可能性の示唆にとどまらず、お医者さんの側に、適切な診断の下で、薬を的確に使いこなせていない未熟さがまだ見られることが大きな原因であることを強調していた点は、重視すべきでしょう。

 この取材に応じ下さった患者さんお二人が異口同音に語った事柄が印象的です。

「そういう時には、まるで自分が自分ではないみたいな、独特の感じなんです」

「何かにムカついてきて、イライラが高まる時のイライラとは全然違うものなんですよ」

****

 今回の番組の中で、ゲストの医療ジャーナリストの小出五郎氏は、日本の薬事法における、薬の副作用についての国への報告システムの問題点を指摘していました。製薬会社や大病院からそうした副作用報告を吸い上げるパイプは制度として整備されているのですが、個々の医師(開業医を含む)や患者・家族から、そうした、薬の副作用についての情報を、たとえ曖昧で確証がなくてもいいから吸い上げるまでの公式のシステムが制度的に存在しないそうです。 

「副作用情報はいったい誰のためのものかということです。何よりまずは患者さん、そしてご家族にとってなくてはならないはずのはず。そうした情報を専門家と共有するためのネットワークの整備が制度的にも急務」

というのが、小出さんが最後に強調した点でした。

*****

 この番組の更に後に放送された、NHK「ためしてガッテン -うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療-」についての感想はこちら

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2009年6月 5日 (金)

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第2話

○鬱になると、以前だとさらさらと何気にできたことがひどく不器用になり、失敗しやすくなる。

○「事務的な」書類を書くことというのは特に億劫になりやすいので、そうした書類をなかなか書けないことを「簡単な筈でしょ?」などと突き放した形で急かす形にならないように家族は要注意。

○特に休職した直後の時期など、何かひとつの行動をやろうとしたら、本人も気がつかないうちに、ほとんど「ストップモーション」にはまり、気がつくと同じ(座った)姿勢のままで数時間経過していた・・・・などという経験は結構見られるかと思う。

○うつとは「心の病気」という言い方をしない方がいいと私も思う。ただ、ドラマでのように、「脳の病気」という言い方でも抵抗感がある人もあろうかと思う。私個人は「脳の心身症」という言い方を好んでいる。「脳の慢性のストレス性の消耗による障害」ぐらいの意味である。

○「自分はイグアナにも劣る」というセリフは決してコメディではない。確か中井久夫先生の本に「自分はイモムシにも劣る」と罪責感に浸る患者さんの例があった。

○ドラマで描かれているように、鬱状態が強い時には、アナウンサーのような単調な声の番組の方が心が休まるというのはある意味で真実であろう。エモーショナルな揺れが大きい音楽というのも結構負担になるものであり、意外とクラシック(特にオーケストラ曲)があわないというのは、本来クラシック好きの私の経験。随分長く、好きなはずの音楽そのものを遠ざけた時期もあったと思う。

○患者さん以上に、患者さんと密接なかかわりがあるパートナー(配偶者、恋人、親等)の方が、実は否定的思考の持ち主であることは、実は結構多い。パートナーのそういうマイナス指向の部分すらケアし、包み込むようにしてやさしく支えて「いた」のが、実は「うつになる前の」その人だった・・・・という構造は、確かに頻繁に観察される気がする。

○欝の回復には波があり、本人も周囲も思いもよらない形で「ぶりかえす」ことを繰り返す中で徐々に軽快して行くことが多い。そのことに、本人や家族は振り回されやすい。一喜一憂し過ぎないで、一緒に、潮の満ち引きを揺れることができるかどうか。

○うつの人を直接支える側の人の方が、いつの間にか無理をしがちになりやすいので、そういう支え手が安心できる相談相手が公私共にいることは大事である。


・・・・以上、思いつくままに。


第1話についてはこちらです。

第3話についてはこちらです。

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「すべてのことには、時がある」

 このような不況のご時世にあると、私がカウンセリングをしている中でお会いするクライエントさんの中で、新たな派遣先を探しておられる方や、病気からの社会復帰を模索する中で求職活動をしておられる方の少なからぬ部分は、例えば1年前と比べても厳しい雇用情勢の中で、希望する求人そのものがなかなかないという次元で、すでにじりじりとした日々を送っておられる方が少なからずいます。

 ところが、そうした方の堂々巡りの重苦しい心情を労(ねぎら)い(compliment)ながらも、二人して焦りの負のスパイラルに巻き込まれる形にだけはならないように配慮しながら面接を続けていくと、思いもよらない時に、しかもカウンセラーの私から見ても予想だにしない早いタイミングで、突如明るい声で連絡をいただけることがあります。

 「昨晩までは面接に全然乗り気になれなかったのに、朝になったら起きられてしまった。電車に乗って見てから考えようと思って出発してみたら、車内で、存外に気持ちのもやもやはほどけ、面接でこんなことを聞かれたらこう答えよう、みたいな方針が定まってしまった。行ってみたら、先日の、あのいやらしい圧迫面接の担当者とは打って変わって、いい面接官に出会えました。職場の空気もよかった」

 ・・・・などといった具合である。

 そうした時には、カウンセラーである私のほうが、その人の中にある健全なエネルギーの潜在力について見くびっていたのではないかと、少し恥じ入りたくなるような思いにとらわれることがある。

*****

 すでに最近の記事で繰り返し書かさせていただいて来たことではあるが、人間、何とかしようとむやみにもがくばかりになると、自分自身という泥沼にひたすら沈んでいくことが少なくないように思える。

 以下は、あるフォーカサーの体験である(もちろん掲載許可をいただいている):

 その人は、そうやって求職活動がうまくいかない中で生じている自分の中の焦りや不安や鬱的な感覚の全体についてフェルトセンスをつかんでいった。

 すると、背中から肩甲骨の辺りの凝りや痛み、きしみのようなものとして受け止められた。

 その感じに「そこにいるのはわかったよ」と声をかけてあげ(アン・ワイザー技法でいうacknowledging)ると、「弱弱しくはあるけど、うなづいてはくれ」、そのそばにしばらくたたずんでいてあげてみるように私が提案すると、しばらくの沈黙を経て、

 「さっきよりはその背中の感じは緩んできましたが、自分がそれを苦痛に感じることには変わりがありません

との答え。

 そこで私はここで、次のようなasking(フェルトセンスに問いかける)の提案をしてみた。

「では、もし、その背中の感じがなかったらどうだろう?・・・・ということを想像してみて、身体で感じてみることを許してあげてみてはいかがでしょう?」

 「なかったら?・・・ですか?」

 その人は一瞬当惑した。しかし、しばらくすると、その人の中で、どうもその人にとって思いもよらない動きが生じ始めているらしいことが見てとれた。

(どうしたんです?)

 「あの、いえ、こんなこといっていいんでしょうか?・・・・・実は『なかったとしたら』という先生の言葉を聞いた瞬間、その背中のあたりにいる『何か』が、その言葉に一気にムカついたらくて」

(むかついた?)

「そうなんですよ。『なんだと? オレに消えてしまえというのか?』壮絶な抗議を始めた見たいな様子に、私のほうが驚いてしまって。そして、その背中の痛みのあたりから、まるで腸の管のようなものが、ズルズルズルってどんどん自己増殖してあふれ出すみたいなイメージまでわいてきて・・・・・最初、わ!! グロいなあ、とも思ったんだけど、そのがん細胞の急激な増殖みたいなのが、ホントに、『なくなったとしたら』なんて声かけられたものだから、それにムカつくあまり、思わず『なくなってたまるか!! そんな言われ方するなら、嫌がらせに、増えてやるもんね!!』と訴えている見たいに感じられ来て。・・・・・私は、その、まるで聞かん坊のガキみたいなツッパリかたにむしろ苦笑するといいますか(笑)・・・・・『もう!、わかったわかったわかった!!』といってあげたくなって」

(今の言われ方に、何かその急激に増殖した腸の管みたいなものに対する「愛おしみ」のようなものすら感じました)

「・・・・・・・そうしてあげたら、シュルシュルシュルと、増殖した腸の管を、そいつは、まるで巻尺のボタンを押したみたいに一気に『撤収』いたしまして(笑い)・・・・・・・・『オレが痛みとして訴えて続けてブレーキをかけてあげているから、てめえは、焦りに任せて色々手を出しすぎる無茶をせずに済んでいるだよ、ありがたく思えよな』・・・・みたいなことを言ってくるんですよ。

 思うんですけど、私の中に、

 1.自分の中に不快感や不全感がある
2.私の中に「問題」がある
3.その問題を「除去」するための「対策」として、何か行動に移すべし!!

・・・・・みたいな問題への対処法を自明にしていたところがある気がして。フォーカシングを学んでも、そういうところは堂々巡りしたままだったのかなと思います。

 でも、ほんとうは、私の性分からすると、そうやってアクティブに活路を切り開こうとすると、自分が自分でなくなる不安が強いところがどうしてもある気がします。ズルイかもしれないけど、私は、条件が整うのを待つタイプなんです。ここぞというところでは結構勝負を賭ける自信はあります。まるで巣に近寄ってきた虫を土蜘蛛がサッと巣のふたを開けて引きずり込むみたいな、そういう抜け目なさですね(笑い)・・・・・そういうライフスタイルだけでやっていけるとも思いませんけど、ひとつのとりえだってことには、もっと開き直っていいのかも・・・・って」

 ここまで私が話を聴いていて、彼女に献呈したくなったのは、バラ・ジェイソンが、「解決指向フォーカシング療法」で、座右の銘として書いている(邦訳p.219)次の言葉だった。

「すべてのことには時がある」

 正確には、

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」

(旧約聖書 コヘレトの言葉[伝道の書]3:1 新共同訳)

小型聖書 - 新共同訳

 カウンセリングにおける「効率性」を重視しているかにみえる短期療法系の訓練を受けたバラが、この、人間が自分の判断と努力だけで活路を開こうとすることの空しさを説いたとされる、ソロモン王に帰された言葉を大事にしているというのは、ひとつのパラドクスともいえますが、そもそもマジカルなまでのパラドクスの使い手であるということは、ミルトン・エリクソンにはじまる短期療法のセラピストの本質にも関わるわけでして(^^)

 そして、カウンセリングを不毛な悪循環から脱却させるための「魔法の言葉」は、まさに「時を得た」」瞬間に、カウンセラーが狙い済まして「操縦しようとする」ような邪心すら超越して、まるで神の命に従うかのように、言葉として差し出すもののようであることを、日々の面接の中で、私はどことなく、ある畏怖を込めて意識しているつもりではあります。

 その言葉の権威を、私に帰すことは回避せよ・・・・と。

 今回、この場面、この脈絡だから、

 「その感じがなかったとしたら」

などどいう、いつになく直截(ちょくせつ)な言い方を思わず私は使ったんだと思います。

 いつもの私だと、

「その感じがすっかり解消されたと想像してみましょう」

・・・・・なーんていう言い方をしているのです。

 でも、その場合には、まず間違いなく、あの、背中の痛みからの「大増殖を伴う猛抗議」などというドラマ性のある展開は生じなかったでしょうから。

アン・ワイザー・コーネル/フォーカシング入門マニュアル

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2009年6月 8日 (月)

「フェルトセンスに問いかける」教示についてのヒント(第2版)

 フォーカシングにおいて、ジェンドリン自身のオリジナルな技法(『フォーカシング』)において「第5の動き(movement)」として位置づけられているのが、フェルトセンスに「問いかける(asking)」の教示です。

 フォーカシング技法とは、別に、

第1の動き:空間づくり(clearing a space)
第2の動き:フェルトセンスをつかむ
第3の動き:フェルトセンスにとりあえずフィットする言葉やイメージを見つける(get a handle)
第4の動き:フェルトセンスと、見つけ出した言葉やイメージを響き合わせる(Resonating)

という段取りを順々に進めていき、その後で、この、フェルトセンスに「問いかける(asking)という部分に進んではじめてシフト(気づきと身体的ナな緩み)が生じ、その成果を、

第6の動き:受け止める(receiving)

で受け止めて完成! といったものではないことは、これまでこのブログでも繰り返し申し上げてきました。

 自分の中にその時の自分のフェルトセンスに直接注意を向けられることに気がついたら、わざわざクリアリング・ア・スペースをやらないままに、早速フォーカシングを進めてもいいのです。

 そういう形でフェルトセンスに関わろうとしても、何かうまくいかないで、心を乱すいろいろな何かがありそうだと気がついた時点で、クリアリング・ア・スペース・・・・今の自分を不調にしている気がかりについて、ひとつひとつ確認して脇に積み上げていく、「たな卸し」作業に立ち戻ってもいいのです。

 クリアリング・ア・スペースを進める中で、「そうか、自分にとっての今の本当の気がかりはこのことだったんだ!」と、思いもよらない新鮮な形で「気がつける」だけで心が大きく解放されるということも珍しくないわけで、その場合には、いかなり、ジェンドリン法で言う、6.「受け止める」に進んでも何も差し支えもない。

 フェルトセンスにぴったりの言葉やイメージが見つからなくても、「この」感じ、などという直接指示語で、本人にとってその感じをつなぎとめ続けるのに何も苦労しないのなら、それ以上、ぴったりの言葉やイメージ探しに過剰に強迫的にこだわることは、百害あって一利なしです。

 そして、アン・ワイザーさんが、自分の技法を形成する際に、「フェルトセンスと共にいる」ことを重視し、独立した教示とし、フェルトセンスに何かを引き起こそうとする、ありがちな性急な誘惑に乗らないままでいたほうが、変化が自然と生じるべき時に生じる(そのセッションの中ではっきりとした気づきが生じることはなくてもいい)事を重視したことは、画期的な業績でした。

(もっとも、ジェンドリン自身フェルトセンスのそばにしばらくの間じっくりと留まってみることの重要性は、繰り返し、繰り返し強調しているのです。簡便化されたショート・マニュアルなどでは抜け落ちてしまいがちなだけのことなのです)

****

 アンさんは、フェルトセンスとの「内的な関係作り(inner relationship)」を重視しましたので、ジェンドリンのオリジナル技法で言う、「フェルトセンスに問いかける」を、オプショナルなものとみなし、あまり重視しません。

 日本では、アンさんのトレーニングの影響が濃いために、そもそもジェンドリンの「フェルトセンスに問いかける」という教示を実際にセッションで普段使いしているフォーカシング・トレーナーや学習者がかなり少ないという印象があります。

(公開ライブ・セッションを拝見した限り、唯一の例外が、ジェンドリンの直弟子である池見陽先生で、私が拝見した時には、当意即妙のセンスで柔軟にaskingを使って、フォーカサーのプロセスに無理のない小さな刺激材を供給しておられました)

****

 今も述べましたが、このaskingの教示そのものが、実は、フォーカシングのプロセスが、第4の動き(ここまでが繰り返しなされるうちに展開が生じることも多いです)まででは、何かあと一歩プロセスが進まないときの、小さな刺激剤的な提案としてなされるものに他なりません。

 フォーカシングの技法の発展史に詳しい若手研究者にきいたところ、このaskingの技法そのものが、ジェンドリンの教示体系の中では、一番最後の段階で付加されたものであるようです。

 つまり、そもそも、必要不可欠ではない。敢えて言えば、料理の最後にお好みでふりかけてみる香辛料程度のもの、つまり、食卓テーブルの上の「スパイス」です。

 しかし、「スパイスこそが料理の成否を決める」という人もいるでしょう(^^)

 そして、こうしたスパイスには何通りもお好みの品が取り揃えられているわけです。他の人がスパイスとしてあまり使わないものすら、フォーカシングの学習者やトレーナーごとに、色々工夫して、調合して、臨機応変に使い分けるストックがあっていいわけですね。

 ジェンドリン自身が『フォーカシング』の中で、この「問いかける」の教示について詳しく説明しているのは、第9章「何もシフトしない時は」です(邦訳p.pp138-146)。この部分で例としてあげているものは、意外とそっけないまでのリストだったりします(^^;)

「これは何だろう、いったい全体?」(阿世賀訳:「ほんとのところ、それって何?」

「この核心は何か?」

「それが最悪だとどうなる?」(誤訳。「その(感じの)中の何が最悪なの?」)

「一番悩まされているのは、それらのうちのどの2,3点なのか?」

(↑【注】何ともこなれない訳である。
"What are the two or three things about it that trouble me the most?"
・・・・・私なりの意訳案:
「あなたにとって一番厄介だと感じている事柄をそこまで行き詰まらせているのは、実は、そのことと関係した、いくつかの一見些細な事柄かもしれません。そういうものがあるとすれば何でしょうか?」)

「それの下に何があるか? それは何をしているのか?(後半を阿世賀訳:そこでは何が進行しているのか?)」

「 それについて何が起こったら私にとっていいのか?」

「いい気持ちになるにはどうなったらいいいのだろう?」

*****

 この教示を使う際に重要なのは、この問いを、リスナー/ガイドは、フォーカサーに、この質問に頭で考えて答えを返してもらうために発しているのではないということです。

 むしろ、フォーカサーが、自分のフェルトセンスに対して、こうした問いを投げかけてみて、しばらくそのまま佇(たたず)んでみることを提案しているに過ぎません。

 すると、最初は非常にかそけき形で、そしてしばらくするうちに思いもよらない方向へと、自分のフェルトセンスが変化しする場合もなります。

 それが2,3分以内に生じない場合には、あっさりとその問いかけは諦めてしまい、他の教示を試してみるか、あるいは、フェルトセンスと再び共にいる態勢に戻るくらいの、「ちょっとした試み」というセンスが肝心でしょう。

 フォーカサーの側から、

「何か、この後の私のプロセスを進めるために役に立ちそうな教示を、2,3提案していただけませんか」

などとヘルプを出されたタイミングで、いくつかメニューとして、控えめに提示する・・・みたいな関係性がすでに形成されている中で活用されるのが、一番成功率が高いようです。

 つまり、フォーカシングをどうすすめるかに関して、ガイド側にまだ依存している度合いが高いフォーカサーに安易にaskingの教示を提案すると、成功率が低く、仮に見かけ上そこでプロセスが動いたとしても、本当の意味でフォーカサーのプロセスに寄り添わないままとなり「セッションの場の中でだけのシフト体験」となり、フォーカサーの日常の体験過程のプロセスとしっくり溶け合わないというリバウンドを背負った、「早すぎた、突出しすぎのシフト体験」になることが多いというのが、トレーナーとしての私の反省でもあります。

 ですから、実は、askingの教示が重宝するのは、意外にも、セルフ・フォーカシングの場面であるということも、私の経験からいえます。

*****

 そして、この教示は、フォーカサー自身が、まだ自分でフェルトセンスとの相互作用(対話)を先に進めていこうとしている最中に、リスナー/ガイド側からの性急な介入としてなされるべきものではありません

 セッションの経過に、焦っている、せっかちになっている、不安になっているのは、フォーカサーなのか、むしろリスナー自身のほうなのか、ということをきちんと「感じ分けて」ください。

 リスナーの側が自分の中に「焦っている自分」を見出せれば、それを自分の中で「認めてあげて(acknowledging)」みるだけでも少し余裕が取り戻せるばかりか、驚くべきことに、リスナーの側がそうした内的作業を終えた直後に、まるでそうしたリスナー側の余裕感の回復が「空気伝染」するかのようにして、フォーカサーのプロセスが自然に無理なく動き出すこともごくありふれたことです。

 それでもなお、フォーカサーが自分と格闘して堂々巡りになっていと感じられ、ただそれをリスニングし続けるのは「何かが違う!!」というメッセージがリスナーの内側から響いて柄来るようなら、もはや教示の提案をあれこれ工夫するとかリスニングするといった態勢にのみこだわるのがもはやふさわしくはないのかもしれない。

「・・・・・ちょっといいですか?(などと断りを入れた上で)・・・・さっきから、自分の内側の感じと必死に格闘しておられるあなたの様子が伝わってきます。ただ、そのご様子を拝見していていて、そのことがおつらくなって来ているのではないかとも感じられてきました。もっとも、今のままであとしばらく自分なりに思う存分内側と関わっていろいろ試してみたいと言うお気持ちがあるのでしたら、喜んでおつきあいします」

などと、リスナー側が自分の気持ちを、アサーティブに率直に伝える方がいい場合もあるかと思います。

*****

 さて、さきほど例を並べましたが、askingの教示というのは、実はフォーカシング技法の中では、本には書かれていない無数のバリエーションがあり、フォーカシングを学ぶ一人ひとりが、自分にとってのお気に入りのasking教示のレパートリーを「道具箱」に蓄えておいていいものです。

 「ジェンドリンのこのasking教示の具体例を私は意味がそもそもわかんないし、うまく使えたことがない」

 としても、そのことは別に気にしなくてもいいことです。

 もとより私のように25年もやっていれば、普段は全く使わないaskingの教示が結構効いた!! という経験が出てきていて、そもそも本に書いてあるフォーカシングの教示で使ったことがないものはほとんどまるでないという事態に結果的になっています。

 しかし、私はそもそも、フォーカシングを学ぶ最初から、自分にとってその存在意味がピンと来ないフォーカシングの教示は全然使わず、使える教示だけ日常の中で使い込み、それだけではうまくいかなくなった時に、はじめて「頭では覚えていた」フォーカシングの教示を、苦し紛れに使ってみて、予想外に活路が開けるという経験の繰り返しのなかで、フォーカシングの技法の幅を広げてきた人間です。

 そして、そうした際に、教示や技法というものが、その場でふさわしい形に、柔軟にカスタマイズされていく必要性があることを身に染みています。

 そもそも、ガイドをはじめる際に、「いつも使っている、なじんでいるはずのやり方」ではじめようとして、身体が違和感を訴える場合には、もう、それだけで、恐らく、そのままでは、フォーカサーの援助になるガイディングをできる態勢にないと判断しています。

(そうした時にどうやって私が解決するのか・・・・というのは、企業秘密です^^; 最近やっと発見した「コロンブスの卵」ですが、これは私のもとにフォーカシングを学びにおいでの方だけにお明かししています)

*****

 私個人としてお勧めのaskingの教示は、

「その感じの下の方(beneath)に、もうひとつ別の感じの層が隠れていると仮定してみてください。そこらへんは、どんな感じでしょう?」

というものです。

 英語に詳しいフォーカシング学習者にこのことを伝えると、

「単に、『下にあるのは何?』といわれても、何ことなのかピンと来なかったと思う。でも"beneath"ならピンとくる!! "beneath"って前置詞そのものに、「・・・・に隠れて」「・・・・の裏に」みたいな含蓄があって、表面の皮みたいなものの下にあるものっていうニュアンスだから」

と言ってもらえました。

 その人にとって、それまで必死に関わろうとしていたフェルトセンスは、容易に名前もつかないし、その感じのそばに佇んでいることもなかなか難しい、でも、その人の人生の長い期間にわたってずっと暗々裏に感じ続けてい「いた」けれども、自分の存在のありようを根本的に不自由にしていた、文字通りの"background feeling"でした。

 そのフェルトセンスの"beneath"にその人が見出し、感じられた感じというのは、それまで直接その感じに触れて味わったことがない、たいへん新鮮なフェルトセンス体験で、実にあっさりと、大きな気づきの引き金になったようです。

*****

 ジェンドリンのaskingの教示集にある

「このことの核心(crux)は何?」

というのも、ピンと来にくく、フェルトセンスからではなくて、頭で考えたことを答えそうなものなのですが、これについては、私は、フォーカシングのガイドを学ぶ人に、時には、次のように説明してみています。

「私は、これを、曖昧で漠然とした広がりを持つフェルトセンスが、いわばゆで卵の白身黄身のような二層構造を持つと仮定してもらい、その中の黄身の部分の感じを感じ分けてもらう・・・・ぐらいのつもりのものだと理解しています。フェルトセンスを更に細やかに感じてみてもらうための刺激剤のバリエーションなんですね。だから、私は、

『その感じの奥の方に、その感じの源泉(あるいは泉の吹き出し口)のようなものがあると想像してみてはいかがでしょう? その源泉のあたりの感じはどんなものでしょうか?』

などという言い方で使ってみることがあります」

 ・・・・・この話を聴いていた学習者は、この話を聴いているさなかに、すでに、その時の自分の中のフェルトセンスの「源泉」をいきいきと新鮮に見出し、身体で感じていました(^^)

*****

 もうひとつ、これはジェンドリンの『フォーカシング』には書いてないけれども、実は私なりに、同じジェンドリンの『夢とフォーカシング』の「質問」項目からアレンジしたaskingの例。

「その感じそのものになってみるということもできるかもしれません。誤解なきように言いますけど、これはその感じに浸りきるということとは違います。あなたは、子供のための舞台演劇で、その感じのを、子供のために、大げさに誇張しながら、喜劇的に演じるつもりになるのです。これなら、どんな怪物でも、不快なものでも、その役になりきって感じてみるのは、あまり抵抗ないかもしれません」

 これは、あるフォーカシング学習者が、

「もうすでに何日もその感じの相手をしてみたんですけど。その感じは絶対に私に口を聞いてくれないんです!! 一緒にいるだけで、私ももういやなんです!!」

と訴えた際、その人に提案したら、その場でその人はやってみて、すんなりと次の展開が生じました(^^)

*****

 ・・・・・このように、カスタマイズが大事です!!

 あと、一般論として申し添えれば、フォーカサーとしての自分に試してみて、効き目がまだ実感できない教示を、ガイディングの際に使うと、そのわずかな「おぼつかなさ」はフォーカサーに伝染し、プロセスを停滞させると思ってください。

 「おぼつかない教示」でも、フォーカサーがそこから成果を上げられるとすれば、それはフォーカサー自身の力に助けてもらっているというだけのことです。

 もとより、いつも書きますように、およそこの世の中のカウンセラーに、クライエントさんからの感情移入と思いやりと忍耐によってはじめてカウンセリング関係が可能になっているわけではないほどにすばらしいカウンセラーは、実は存在しませんが(^^;)

*****

 なお、フォーカシング技法についてのウェブ上の入門としては、すでに定評をいただいている、私の

●フォーカシング入門

をご参照ください。

 これまで、まさにasking以降の部分が欠けていたのですが、この記事をもって、取りあえず補完したものとさせていただきます(^^)

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2009年6月12日 (金)

壷イメージ療法とフォーカシング(第2版)

 以前にもご紹介したかとも思うのですが、改めて、現在九州大学で奉職されている、田嶌誠一先生(研究室情報はこちら。先生のメッセージもあります)の開発した「壷イメージ療法」について取り上げてみたいと思います。

 まず、壷イメージ療法についての田嶌先生ご自身の著作(単著、およびそれに準ずる著作)は次の二つです。

壷イメージ療法―その生いたちと事例研究(成瀬悟策監修)

 専門家向けの包括的な著作としては結局この本に勝るものはないのですが、中古市場でたいへんな高値がつく状況です。もちろん、伝統ある臨床心理系の大学院のある図書館には結構所蔵されている可能性が高いでしょう。

 研究会の、シンポジウム形式での発表と討論の記録という体裁をとっているのですが、そこで討論者に指定された先生方が超豪華です。

 倉戸ヨシヤ先生・栗山一八先生・中井久夫先生・増井武士先生・(我が恩師、亡き)村瀬孝雄先生。(司会はもちろん田嶌先生の恩師、成瀬悟策先生です)

 ・・・・もう、これだけで、一読したい若手臨床家の皆さんは少なくないかと(^^)

イメージ体験の心理学 (講談社現代新書)

 この本は、壷イメージ療法についての解説書というよりも、イメージ体験全般が人の変化に持つ意味についての平易な解説書という側面が強いので、「壷イメージ療法」の臨床現場での適用についての解説本を期待された読者には少し物足りないかと思います。

 ただ、田嶌先生の「イメージの体験様式の変化」論について、そのおおよそを掌握したい人には向いているかと思います。

*****

 この中の前者の著作で書かれていますが、壷イメージ療法のルーツは、あくまでも、田嶌先生の恩師である成瀬悟策先生のイメージ療法催眠療法です。いつの間にかフォーカシングのバリエーションとして生み出された技法であるかのように受けとめる人が増えていますが、この点は安易に混同すべきではないでしょう。

 更に、壷イメージ療法を、

1.気になる事柄について、
2.それを入れるのにぴったりの壷を思い浮かべて、
3.の中にその気がかりを入れて
4.蓋をして封印して、
5.置き場所を決めて「距離をとる」

・・・・そういう技法だと思い込んでいる皆様も少なくないようです。

 すでに10年以上前になりますが、私は、田嶌先生ご自身が講師のワークショップに参加して、こうした理解がいかに一面的だったかに重々気づかせていただきました。

 それ以来、私は、フォーカシングのインサイダーであるにもかかわらず、壷イメージ療法を行なう際には、田嶌先生のエッセンスを絶対に外さない、オリジナルほぼそのままを使うようにしています。

 現場の日常のカウンセリングでも「壷イメージ療法」は全くの「普段使い」の技法のひとつですし、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」や「フォーカシング個別指導」の場でも、ご希望があれば、いつでも「オリジナル・バージョン」のままでお伝えしています(^^)

 そこで、ネット上にいくつかある、「壷イメージ療法」についての解説記事よりも更にメリハリを明確にして、できるだけシンプルに、この技法の勘所の私なりの解説を試みてみたいとお思います。

*****

1.深呼吸などをして、リラックスできる態勢を作ってもらう。

2.「あなたのこころの中のことが入っているた、壷のような『容れもの』があると想像してみるのはいかがでしょうか?・・・・・・しばらくすると、浮かんできますよ」。

【Tips 2-1】・・・・・ここで肝心なのは、標準技法においては、先に、「こころの中のこと」が具体的に何なのか想像してもらい、次に、それを入れる壷を想像してもらうのではないということです(このことは、田嶌先生に直接ご質問してはっきりと確認済みです)。

 のっけから「自分のこころの中のことが入っている壷」をいきなり想像してもらうわけですね、こころの「内容(content)」は何なのかに意識的に注意を向けるように誘導することをむしろ回避し、contentは曖昧のまま、それを包含する「容れもの(container)」の方をイメージしてもらう方向に仕向けているあたりに大きな鍵があります。

 もちろん、こうした教示の結果、クライエントさん自身が、壷のイメージを見つけ出す前にせよ、見つけ出した後にせよ、自分から、「これは、○○についての壷」などと命名することはあるかと思いますし、それは当然受容的に受け止めていくことになりますが、それが何についての壷なのか、クライエントさん自身にずっとピンとこないままでも、壷イメージ療法を進める上では何も障害にはなりません。

 田嶌先生は、「あなたのこころの中のことが入っている」って何? と怪訝な様子のクライエントさんには、そこすらすっ飛ばして、ともかく壷を思い描いてみることを勧めてみることすらあると言われていたと記憶します。

(もちろん、応用編として、具体的な、扱いづらい課題や感情について、それを入れる壷を思い浮かべるという方法はあり得るわけですが)

【Tips 2-2】・・・・・「壷」という指定イメージは、たいていの人にとって思い浮かべやすいものなのですが、「いれもの」のようなものであれば、壷ではなくて、ビンだとか、袋だとか、箱だとか、ともかく、「容器めいた形状」であればいいことを多少示唆するサポートが役に立つクライエントさんも少なくないようです。

******

3.壷が浮かんできたら、少なからぬクライエントさんは、簡単な誘いかけだけで、「どんな壷か」について、形状や、そのたたずまい(かもし出す雰囲気)、更には、眺めているとどんな気持になるか、それに似た壷を以前どこかで見たことがある・・・・・などという話を、自分から物語り始めるので、それを受容的に受け止める(ロールシャハでいう「自由反応段階」みたいなもの)。

【Tips3-1】 大きさや形、色、陶器か磁器か、表面の材質、触り心地の感触など、いくつかの具体的観点から、セラピスト側から、控えめに若干質問してみるくらいはいいだろう。

 私(阿世賀)個人は、こういう時に、「どんな『感じ』がしますが」という言い方をオープン・クエスチョンで一般的な形で軽率に使いすぎること自体を回避したい気持ちが強い。それなら、せめて、「壷を眺めていてどんな気持ちがしますか」ぐらいに設定を明確にしたい。

 なお、私は、フォーカシングの場合には、フォーカサーがイメージ的な象徴化をしても、イメージそれ自体について、「大きさは?」「色は?」などどいう、イメージの具体的な詳細化を直接求める問いかけをすることをほとんど禁忌とすらしている。 

 フォーカシングにおいてイメージは不可欠に必要な過程ではない。アン・ワイザーのいうがごとく、イメージは、身体感覚や情動や、気になる事柄についての具体的な語りなど、フェルトセンスが響きあういくつかの側面の中のひとつであるに過ぎない。

 フェルトセンスをとりあえずつなぎとめるためのハンドルとして生起したイメージは、リスナーやガイドからの具体的な詳細化の求めがあると、フォーカサーのフェルトセンスから離れて「一人歩き」し始める、むしろフォーカサーに体験過程の軌道を見失わせるからである。

 ところが、壷イメージ療法の場合には、壷のイメージをリアルに具体化させる方向に若干誘導することそのものが、促進的なブロセスとみなしていいようだ(そもそも、壷という課題を提示したのは治療者の側であるため、クライエントさんの中で固有のイメージ化のプロセスを具体的に促進する援助が必要ということにもなるのだろう)

 この点で、私は壷イメージ療法とフォーカシングとでは、そもそもイメージについての質問や応答のしかたそのものをはっきりと使い分けている。

 もっとも、クライエントさんの語りを丁寧に受け止めていけば、そのような喚起的質問は最小限でも、クライエントさんは、思いの外自発的に、細やかにこうした語りを紡いでいくものであり、性急に質問を繰り出すのは、本人のプロセスを妨害するだけであることは、両技法共に変わりがない。

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4. 「他にも浮かんでくる壷はないか?」と問いかけ、2..-3.までの段取りを繰り返す。

 田嶌先生自身、「ひとつしか壷が思い浮かばない人の場合の方が注意を要する」と、1つ目の著作でお書きである(p.57)。「1つの壷の中に多様なものを含みすぎている状態であろうと思われる。ただし、『他にもあるけどはっきりしない』とか『たくさんあるけど一個だけはっきりしてる』という場合はこの限りではない」(pp.57-8)という示唆は興味深い。

 私の経験では、意外と少ないのは、個数が2個で終わるケースである。3個や4個というケースは、壷の形状とそこから語られる連想もバラエディに富み、セッションとしてまとまりがいい気がする。「序・破・急」あるいは「起・承・転・結」ということを連想させる不思議な順序で壷自体が浮かぶのである。

 つまり、単にこころのいろんな側面の表れというより、新たな壷について語られ出した時、新たな体験過程のステージが開かれていくばかりか、治療者がそれにうまく付き添う限り、新たな壷の登場そのものが、そのセッションで可能な範囲での無理のない「人格再統合」すら暗々裏に指向しているかのようなのである。

 (ここまでは田嶌先生は言われていない。ただ、私の場合、フォーカシングにおいても、clearing a spaceを進めていくことは、思いよらない新たな気がかりに『気づいて』いくことであり、丁寧にclearing a spaceが進むと、すべてを積み出した時には、単にすっきりしたというのを超えた大きな気づきを伴うシフト体験にすでになっていて、それ以降のフォーカシングの部分は不要とフォーカサーも感じていることが少なくない現象を早くから指摘してきた立場(阿世賀,1992)なので、私が療法家として新たな壷を思い浮かべていってもらう過程でも、類似のことが生じやすいとも想定できるかもしれない)

******

 5. とりあえずの、ちょうどいいいくらいの壷の「置き場所」について「相互調整」してもらう。

 【Tips4-1】田嶌先生のオリジナルに従えば、一つ一つの壷に「ちょっと入ってみて」配置を決めるのだが、私は、壷を眺めていての心地だけで決めてもらうことしかやったことがない。

 一般的に言えば、なじみやすい壷を手前に置くことになるだろう。「ちょっと奥に置いて眺めてみるのもいいし、右手寄りでもいいし、左手よりでもいいし・・・・」ぐらいの曖昧な示唆しか与えない。置き場所に高低の「段差」があったほうがいいので「台」や「棚」や「スロープ」を自発的に設定してしまう人もいる。

 この段階で、自発的に、「実家の土間に置いてあるイメージが浮かぶ」とか、自発的に具体的なことを語る人も出てくるし、中には「腕の中に抱えていたい」などと、思いもよらないことを言い出す人もあるが、受け入れている。

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6.一番入りやすそうな壷を選んでもらい、壷の中にゆっくりと入ってみて、じばらく中の居心地を味わってみる→出てきてもらう→壷に蓋(ふた)をする

 田嶌先生自身、これは無理な人にやってもらう必要はないことを強調している。このステップを最初から省略する前提でもいいように思う。田嶌先生自身短いワークショップではこの部分を割愛している。

 この「入ってもらう」体験は、一般に思われているよりは、恐ろしい体験として本人に体験されることは少ないようである。

 ただし、仮に壷に「入ってもらわない」ままで済ませたとしても、個々の壷との関わりの終了の前に、「蓋(ふた)を見つけてもらう」ように促すことは大事なことである点は強調したい。

 しかも、どんな蓋がいいかを吟味してもらうプロセスが大事である。 コルクの栓という人もいれば、油紙やラップを何重にも重ねたものを壷の口に載せ、紐でぐるぐる縛りあげる人もあるかもしれない。

 このことと延長して、壷そのものの「梱包」まで進むのが自然な人も少なくない。「壷が本来入っていた木箱に納めたい」というような人も少なくない。

 私の場合には、個々の壷の栓のしかたと、その日のセッションの段階でのその壷の「置き場所探し」は、連続的な手続きとして進めてもらうことが多い。

 「置き場所探し」に関して、私は「それは現実の場所でもいいですし、空想上の場所でもいいです。この面接室の中のどこかでもいいです。(小さな壷の場合)もし、持ち歩きたいというのでしたら、それを入れるための空想上のバックやポーチをしつらえてもいいですよ」

などとアドバイスします。少し変わった例では、「その壷を置いた建物の『外観』を写真に撮ってパスカードに入れて持ち歩くつもりでいたい」というような例もあった。

 「栓のしかた」と「置き場所探し」は、私の見たところでは、実は別々のことではなくて、多くの人にとって、相互補完的なワン・セットの段取りのように思う。

 中には、「別に蓋をしなくても大丈夫です、実家の神棚のお神酒のところに置いてあるつもりになれば」などと、置き場所にだけこだわれば十分という人も珍しくはないように思う。これは、私の場合、以下に述べるとおり、壷に「入ってもらう」ことを滅多に行なわないことも深く結びついているのではないかとも思えている。

 実は、私の場合、この「入ってもらう」段階は、面接現場ではほとんどの場合省略している。それは、ここまでのプロセスですでに十分すぎるほどのことがクライエントさんとの間で進んでいる気がしてならないことが多いからである。

 少なくとも、この「入ってもらう」部分を、壷イメージ療法におけるクライマックスとして想定する必要はなく、むしろ、可能な人向けの追加オプションと見なしてもいいのではないかとすら私は判断している。

 では、壷イメージ療法の中で一番肝心なことが生じているのは?

 実は、壷を思い浮かべて、無理のない距離感で、しばらく壷の様子を味わった、その段階だと私は思っています(^^)

 この点では、フォーカシングにおいて、フェルトセンスをつかまえ、無理なくしばらくそのそばに『共に-居られた』経験それ自体を繰り返し可能になれることが大事で、後のことは無理して引き起こすことではないというのと似ているかと思います。

******

 
7. 次の壷に入りたければ、6.と同じようにして入ってもらう→壷の置き場所を見つけてもらう。

8.そのセッションで相手をしなかった壷についても、蓋をしたり、置き場所を見つけたりが必要なものもあるだろう。強迫的にすべての壷の封印や置き場所探しは不要で、「目を開ければ消えてしまう」ということでいいという壷もあるかもしれない。

 しかし、セッションの中で不快な、あるいは不気味な印象のみを残したり、混乱させたり、後味の悪い壷については、封印や置き場所探し、あるいは、田嶌先生自らが「補助的技法」として紹介している「金庫に入れて、鍵は治療者が預かる」という厳重なやり方、更には「次にこの面接室に来て、また開ける気になった時まで、その壷を一人で家で開けてみたりは決してしない」という約束などが重要なこととなるだろう。

 私は、この「この面接室だけで壷の蓋を開けよう」という約束を興味深く思っている。面接室の中で、クライエントさんが壷との関わりでそこそこ安全な体験をできたのも、実は、治療者がクライエントさんの内面の"container"(ビオン的な意味を込めてもらっていい)としての役割を果たし、更に、面接室とい特殊な心理=社会的かつ物理的な「容れもの」空間にも保護されていたからだと言えるかと思う。

 面接室の一歩外に出たら、あの冷たい世間の風なのだ。あるいは、家に帰ったら、家族との関わりの中で心の壁にたくさんの弾痕ができている人も多い。そういう人が、面接室と同じような調子で壷のふたを開けたら、自分自身のこころのcontainerだけでは中からあふれ出してくるものに対応できない可能性は高い。仮に時折壷を思い出しても、外側から眺めたり、撫でてみる程度までにとどまっていれば、実は安全度が高い形で、日常に裏面的なプロセスを持ち帰っていることになると思える。

******

 壷イメージ療法の最大の逆説は、心の"内容(content)"に具体的に注意を向け、言語化し、表現し、説明・分析していくという、対話的心理療法の方向性を逆手に取り、「壷」という、誰にとっても視覚イメージが喚起しやすいばかりか、ディティールが細やかで皮膚感触的な感覚性も高く、太古的・原型的で、人間の身体構造のアナロジーともなる絶妙な指定イメージのもつ、

「具体的な中身(content)を包み隠しつつも安全に保持するが、密閉はされていない『容れもの(container)』」

を思い浮かべて味わうことに、巧妙にすり替えている点だと思う。

 「すり替えて」という言葉は今の私にとってもぴったりではないが暫定的に採用したい。

 少なくともここで私が言う「すり替えて」とは、いい意味での「すり替え」なのだ。ただのガムの銀紙を金箔に「すり替える」みたいな方向での。

 目に見え、触ることもできる『容れもの』をイメージ的・身体感覚的に観照し、味わい、体験することは、ユング風に言えば、その『容れもの』の中で胚胎され、発酵していく、たましい(soul)そのものの変容過程という、目に見えないし、言葉で説明しきれないものに関わるのだと思う。

 神田橋先生ふうに言えば、実はファントムに過ぎない「言語化まみれ」の泥沼から「こころ」を救出し、大事に守り育てるためのひとつの営みなのだと思う。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念

 壷イメージ療法の効能について、旧来の心理学や精神医学の力を借りればさまざまな説明ができる。でも、それらによって説明し尽くそうとすることと、この優れたアプローチを、現場で臨床家がどう職人的に役立て得るかは別次元の問題であろう。

 どうも、フォーカシングの方が、壷イメージ療法よりも「難易度が高い」技法のようだとは、私すらも感じています(^^;)

****

 なお、田嶌先生が理事長をお務めになる形で、NPO法人として、開業カウンセリングルームが、福岡市の西新プラザで開設されています。

 詳しくは、

●九州大学こころとそだちの相談室

サイトをご覧下さい。 

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2009年6月13日 (土)

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第3話

 これで全3話完結です。(第1話) (第2話)

 最初の方に出てくる、風吹ジュンさん演じるお医者さんの言葉:

「動物は調子が悪ければ、じっとしているだけ。
でも、ヒトは言葉なんていうものを持っているから考えてしまう」

 この前半は私が鬱をとらえる上でのモットーで、このサイトの記事の中でも似たことを何回か言及したことがありますし、先日「こころ相談.com」のインタビューでも使わせていただきました。

 鹿児島に在住の、日本を代表する、「民族派(?)」精神科医の大御所、神田橋條治先生は、「こころ」とは、コトバが生み出した「ファントム(幻影)」であるという、過激なまでの逆説的問題提起をして、従来の精神療法のあり方を見直そうとされています。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念

実は、別に鬱についてと限定して先生はお語りだったのはないのですが、「動物は調子が悪ければ、『元気がなくなり』、じっとしているだけ」という言葉に私が出会って、心引かれたきっかけも、この本なんですね(・・・・と、やっと「元ネタ」を明かします)。


******


 このドラマのこの回でも描かれているように、鬱には波があり、もう大丈夫かと思ったら突然ぶり返すこともごく普通です。そのことに本人も家族も動揺したり落胆したりしがちです。

 しかし、本当は、波があるのが普通である、という前提に立ち、波がないことのほうがおかしいという前提で、人間や動物が、四季の移り変わりや、年毎の旱魃や長雨に対応するために、五感を働かせて刻々とチューニングし、そこそこに無理のないラインで生活できていくことの方が自然なのだと思います。

 ある観点からすると、人間が高性能を維持して故障のない機械になれることこそ理想の労働力とみなされ、日々の生活においても、一年中空調の聴いた部屋の中で、季節の収穫と無関係に同じようなものを食べられて当然と思い込み始める中で、退化し、鈍くなり、自分を年から年中同じ状態にあるかのように欺くのがうまくなったことの裏返しとして、自分の置かれた状況の変化に不感症になり、無理を無理と感じなくなり、鬱の準備状態にはまっているのに、まだそのことに気がつかない人も増えたのかなとも思います。

 一度本格的に鬱を経過すると、以前よりも、自分の無理の兆候や、逆にややハイになっている兆候、そして、欝っぽくなっている兆候にはるかに敏感になります。

 そうした自分の些細なまでの敏感さそのものにむしろ苛立ちを覚え、むしろそれに振り回されて困っている方たちもたくさんおられるかと思います。

 でも、その敏感さが、むしろしなやかで柔軟な、新たなライフスタイルをあなたに導くための羅針盤にもなるはずです。

 羅針盤とは、どっちが北でどっちが南かを見失わないためのものです。多少、航路から外れてきたなと気がついたら、その段階で航路を「完全補正」するのではなく、風向きや地形や気象や波の状態も配慮しながら、そこそこ回り道をして目的地に向かうのも大事な「航海術」かと思います。

 そうした皆様に、その羅針盤を共に見守って、航海を共にしてくれるような人たち(専門家・非専門家問わず)との出会い(出会いなおし)がありますことを。

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2009年6月17日 (水)

NHK「ためしてガッテン」、-「うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療」- (第2版)

 最近のNHKの、ほとんど畳み込むような、うつ関連の番組の連発には敬服するしかない。

 今回は、のっけから、

 「うつ病は心の風邪」

という、あの、よく使われるキャッチフレーズに対して、実際の鬱病の患者さんたちの多くが、いかに違和感を感じているかを、調査結果に基づき紹介することから開始した点は買いたい。

 つまり、「ツカみはOK!!」だったとは思います(^^)

 なぜなら、うつ病の治療は、風邪薬を飲んで静養していれば、特別な場合を除いて、長期の場合でも1,2週間で回復するようなわけにはいかない。

 何回も途中で調子を崩したり入院したりして、数年以上闘病している人もたくさんいるからである。

 私も、この、「心の風邪」という言い方がはっきりいって嫌いな人間である。

 この番組では、この言い方は、「誰もが欝になる可能性がある」ということ以上に、

「病院の門をくぐるまでに迷ってしまう人たちに、早期に受診してもらうため」

のキャッチフレーズであるに過ぎないことを強調していた。

 もとより精神科や心療内科に通い始めることを躊躇したまま頑張っていると、欝の回復が長引いてしまうことは確かだ。

 「このくらいのことでホントに病院に行ってもいいのか?」と迷いを感じるくらいのタイミングで受診するほうが、経過はいいのである。

 このことは、「こころ相談.com」の私へのインタビュー記事でも述べさせていただいたとおりである。


 ・・・・・しかし、やはり思う。

 もはや、「うつ病は、心の風邪」というキャッチフレーズよりも、もっとましなものが普及すべきであるとは。

 私ならば、例えば、

「無理のし過ぎで、脳が消耗しすぎて、脳のある特殊なエンジンオイルが切れて、脳のピストンも歯車も痛みかかっている状態です。そう簡単にはその特殊オイルを補給することもできないようなものでして、歯車やピストンも一度動かすのを止めて、メインテナンスに出して磨きなおす必要があります」

などと言ってみるかもしれない。

 番組の前半は、この「心の風邪」という言い方への違和という問題を鍵として、相当な密度で展開して、満足度は高かった。

****

 SSRI、三環系、四環系抗うつ剤の持つ、「セロトニン再取り込み阻害」作用の仕掛けは、恐らく多くの鬱の患者さんにとっては、すでに十分知れ渡ったことをうまく噛み砕いて説明してくれているとしか感じられないかもしれない。

 しかし、一般の人たちへの幅広い啓蒙という意味では、この番組恒例の「着ぐるみ」登場のバラエティのノリで、わかりやすく説明する役割を引き受けてくれたことには意味があるかもしれない。

*****

 ・・・・そうそう、パネラーの山瀬まみさんが、「なぜ心の風邪と呼ばれるか」という質問に、

「症状を抑える薬はあっても、根本を治す薬がないという点で風邪の治療薬に似ているから」

という、なかなか思いつけない答えをしていた点を買います。

 答えが正しいかどうかではなくて、そういう着想をできることが得がたいセンスなんですよ。これは単なるヤラセではなくて、彼女の事前情報収集と感性の産物かと思います(^^)

******

 番組後半は、何かしら密度感が低下したようにも感じられたが、

●認知行動療法が、薬物療法や休息を経て、すでにかなりの程度の回復期に達した人においてはじめて効果を上げる可能性があること(私の知るところによれば、中程度以上に重い欝の人や、不安障害を伴う人への認知行動療法は、むしろ鬱を悪化させる場合もあるとも言われています)。

●運動や外出もまた、かなりの回復期になり、本人にも興味が出てきたタイミングで無理なく導入したほうがいいものであること(それは、体力回復のためというより、むしろ脳にいい刺激を与えて、神経伝達物質作用を高めるためであること。私見を言えば、番組で紹介されたような凝った体操でなくても、犬の散歩でも、自転車に乗って平衡感覚を刺激するのでもいいと思いますよ)

 ・・・・・これらを指摘していたことも評価したい。

 一直線に、エレベーターを一気に登るような形で回復することを期待するのではなく、行きつ戻りつ、途中の「踊り場」で余裕を取り戻しながら、じっくり鬱と向き合う姿勢こそ、この番組が最終的に強調したかったことかと思えた。

*****

 ただ、なぜなんでしょう???

  この番組、終わりの方まで観ていくと、鬱の人にとって、だんだんと気分が鬱になりかねない、すっきりしないものを淀ませるところがある気がします。  

ひとつにはタイトルがよくないのでは?

 「うつ病よサラバ!」????

 ・・・・・この番組の内容が伝えていたのは、実は、うつ病とは容易にはおサラバできないものなんだよ!! というメッセージになってしまったから。

*****

 それと、あと数点、バラエティ番組に対しては要求水準が高すぎる、揚げ足取りを覚悟で数点言及すれば、

  1. この番組では、「NHKスペシャル」での場合と異なり、多剤処方の問題や誤診(鑑別診断のたいへんさ)の問題はきれいに素通りしていること。

     
  2. 欝のときにもらう薬のすべてが「抗うつ薬」ではない筈なのに、その点で早合点されるかもしれない(睡眠導入剤や抗不安薬、気分スタビライザーは「抗うつ薬」ではないのだから)

     
  3. 抗鬱剤の処方において、「副作用の少なそうな薬から、単剤処方で、ひとつずつ順に試していくのが標準的なやり方になっている(ひとつの薬あたり原則3ヶ月、薬によっては1ヶ月ほど使用中止して、他の薬に切り替える場合もある)」と述べられていたが、これは医療現場の現実とあまりにも遊離したものではないか。

     腕のいいお医者さんだと、無意味な多剤処方は回避しながらも、診療のかなり早い段階から、複数の抗うつ薬を見事にカクテルにして出すことを現状でもできているものである(もっとも、SSRIを同時に2種類出すことをよしとしている「良いお医者さん」は滅多にいないはずとは言える)。

     
  4. お医者さんとの信頼関係+治療に影響するほんとうに必要な情報のコミュニケーションが患者さんと相互にオープンになされていることが鬱治療にどれだけ影響を与えるかという点は素通りされている。

     
  5. 同様にして、たいていのうつの患者さんが、幾つもの病院を渡り歩いてもなかなか納得のいく病院にたどり着けない問題も素通り。「鬱の人が夢のような回復過程を望んで、辛抱が足りないのが問題なのだ」というメッセージを発しているように感じた視聴者もかなりおられたのではないか。

  6. 「病院によっては認知行動療法を行なっていないところもあります」とキャプションが入ったけれども、現実の日本では、認知行動療法をやっていない医療機関の方がずっと多いはずなので、病院にとってもむしろ迷惑なキャプションだったのでは?

     
  7. この番組の中で、鬱の悪化で脳の中の海馬の萎縮が生じる可能性、そして抗うつ薬でその萎縮が改善される可能性についての研究が紹介されていたが、これはいずれも現状ではごくごく一部のうつ病患者において確認できる水準のものでしかない臨床研究なので、視聴者に不要なな不安をあおった可能性があるだろう。今後の研究の進展によって、こうした海馬の萎縮現象が、ある特定の因子を持つうつ病の患者さんにのみ生起する可能性があることがはっきりしてくるのではないかと思う。

     私が知る範囲では、ある種のてんかんの患者さんに海馬の萎縮が見られる問題と、どこかでクロスする形で、今後特定の遺伝的な因子が解明されていく可能性があるのではないかとも思える。

     ただ、一部の視聴者に、この「海馬の萎縮」の問題と、この番組の今回のサブタイトルの「脳が変わる」という言葉が重なってしまい、無神経とすら感じさせてしまった可能性まで心配するのは、私の妄想し過ぎであろうか?

****

 いずれにしても、ここしばらくのNHKの鬱関連番組は、それらすべてを観てバランスが取れるような側面はやはりあると思う。それは、テレビ番組という媒体の宿命であろう。

【第2版で追加】

 一晩明けてみたら、私が、この番組に感じていたモヤモヤが随分とはっきりと言葉になってきましたので、少し遠慮なく書いてみました。

 この記事には、私の元クライエントさんから私に寄せられたこの番組への感想も反映しています(感謝)。

 もし、まだ思いつくことがあれば、更に増補したいと思います。

●番組公式ホームページ

*****

* 本サイトにおける、NHKの一連の鬱関連番組関連記事リンク集:

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2009年6月18日 (木)

「治療」と「養生」の違い。人類は鬱になった人に「恩」を感じ、「感謝」を忘れてはならないということ(第4版)

 精神科医、神田橋條治先生の用いるキーワードのひとつとして、「養生」という言葉があることは、臨床家に知れ渡っているかもしれない。

 この言葉は、広く使われる、「治療」という言葉に対するアンチテーゼとしての側面を強く持っている。

 「治療」とは、

  1. 専門の治療者(医師、セラピスト)が、患者(クライエント)に対して施す行為。
  2. 「治療」行為の具体は、特別な専門家のみが継承する「秘儀」としての性格を持つ。
  3. 「健康な」状態を「正常」とみなし、それが傷害されたり、失調した「異常な」状態を「病気」とみなす。「健康」状態は、まるで生命が永遠に続くかのようにして維持されることを理想とする。
  4. 治療とは、その「異常な」状態から、以前の「正常な」状態に「回復」させる行為。
  5. 「異常な」状態は、いわば機械の故障や部品の脱落のようなものであり、それを専門家が「修理」しない限りは「回復」しない。
  6. 治療行為は、非日常的な、専門家がいる「特殊空間」で、「回復」するまでなされる、終わりある、一時的行為である。

・・・・・おおよそ、こうした含意があるように思える。

 これに対して、「養生」とは、

  1. 養生する主体は一般の生活者自身である(「養生の助言者」は存在し得るにしても)。
  2. 養生の心得は生活者の間で伝承される「オープンな生活の知恵」の一部である。
  3. およそ、生命体は、ある一定の状態を維持するものではなく、内的・外的な要因で絶えず「調子の波」があるものとみなす。そして、その「調子の波」が、何かの弾みで「調子がよすぎる」方向や「調子が悪すぎる」方向にはまり込み、容易に抜け出せなくなることは、誰にでも生じる可能性があり、生涯のうちに何らかの形でこうした状況に陥り、乗り切る必要がことが出てくることは、必然であるとみなす(その最大のものは、誰にでも寿命があるということである)。
  4. 養生においては、状態が悪くなる以前の状態にまで復することを必ずしも求めない。以前とは別なライフスタイルとなり、以前よりも制限された生き方しかできなくても受けとめる。これは単に「耐え忍ぶ」「諦める」ということではなく、以前無理が効いて何でも思い通りにできた頃の自分のライフスタイルこそ、バランスを欠き、「不養生」だったからこそ可能だったものに過ぎないとすら達観する。敢えて言えば、「養生しつつ生きる」人間の方が、「健康な」ライフスタイルに到達したとみなす逆説がある。
  5. 生体は、調子を崩すと、自然と、普段の活動状態から退却し、休息をとったり、身体に必要な滋養を補給しながら、自然な回復力が徐々に発現するまで「無理をしない」ことをおのずから行なうものであるという前提がある。人間は本来持っている筈の自然な自己治癒力が「退化」した存在なので、文化として「養生」術が伝承されるしかなくなった存在であるに過ぎない。
  6. 「養生」は、生活場面の中、あるいはせいぜいその延長といえる領域まで出向くのに留まる形で、形を変えながらも生涯続く「生活術の一部」として、なされ続ける。

 これは、私なりの理解をまとめなおしたもので、神田橋先生の著作のどこにも、そっくりそのままの部分は出てこないかと思います(^^)

神田橋條治/精神科養生のコツ 改訂版

 

*****

 私は、実は「単に『健康で』あり続ける人間」よりも、「『養生』しながら、新たなライフスタイルを模索してきた人間」の方が、無用な紛争や経済的な軋轢を生み出さず、多様な他者のあり方を受容し、痛みを分かち合い、地球環境も大事にする、これからの人類に必要な資質に富んだ人たちだとすら思いますが。

 

・・・・実は淘汰される弱者ではなくて、「どっこい生きてる」生存率の高い遺伝子保持者であるとすら。

 中井久夫先生が『分裂病と人類』でお書きですが、確か、ダーウィン派の進化学者、ジュリアン・ハックスレーが、「なぜ統合失調症の人は遺伝的に淘汰されず、一定の比率で生まれ続けるか?」という命題を掲げ、それに「h貧窮困苦への耐性」という仮説を立てたそうです。

 これに対して、中井先生自身は、自ら「性的伴侶の獲得において有利な形質を持つから」ではないかと述べ、社会が大きな危機に瀕し時、社会の前景に躍り出て、先例にとらわれず、かすかな兆候から、変化を刻々と先読みしながら(=微分回路認知能力)、先見の明で時代を切り開けるは「S(分裂病)親和者」であるから・・・という仮説を提示したわけですが。

中井久夫/分裂病と人類

 

 

 うつ病になってしまうほどの几帳面に努力できるまじめな人たちに実は有形無形で支えられていたから、多くの家族や集団や企業は成り立っていた。

 上司や同僚は、まずは何より、「それまでの」その人の働きと功績に心からの「感謝」を伝え、労(ねぎら)いの言葉を形にすべきです(この実はシンプルなはずのことが、現実にはいかに抜け落ちたままのことが多いか)。「早く良くなって帰ってきてね」も余計です。

  極論を申し上げると、もし、鬱の素質がある人を全部最初から遺伝子レヴェルで受精直後に排除したりしたら、人類の滅亡は更に急速に早くなるでしょうね(・・・・勘違いしないで下さいね、鬱の皆さん。これは、あくまでも、鬱の人への恩を忘れ、困ったものだとみなす人たちへの皮肉です^^)

 これは、おそらく、いわゆる「こころの病気」を持つ人全体に言えることでしょう。

 ヒトゲノム計画における遺伝子の「意味づけ」って、実は常に一面的な意味づけであり、一見「病気を引き起こす因子」と見えるものが、同時に、「ある特定の状況下では、その個体をサバイバルさせる因子」、あるいは少なくとも、「自分は犠牲になっても他の個体を生かすための活動ができる因子(人類という種全体を維持しようとする因子)」としても働くという、「両価的な」ものである可能性が見過ごされないか、心配です。

 優生学とヒトゲノム計画を安易に同一視するつもりはありませんが、遺伝子の選別、いや場合によっては「遺伝子『治療』」という発想を常に注視しなければならないのは、それが単に人間の平等や人権に反する危険があるからばかりではないと思います。

 実は、上記の理由で、人類が存続するのに実は必要な大事な「表裏一体の」形質の遺伝子を「修正してしまう」結果、気がついたら、システムとしての人類全体を「弱体化」させるというパラドクスを秘めている可能性があることまで考えねばなならない。

 神ならぬ人間自身の浅知恵なんて、そんな水準のものを容易に越えられないのではないかと。

 仮に、人類が、いずれ衰亡するする運命にあるにしても(^^;)、そうした、人類全体への「治療」めいた形で、いよいよ衰亡を早めることなく、スロー・ライフで「養生しながら」地球と共存して生き長らえるのでいいのではないかと。

*****

 誤解なきように最後に言い添えますが、私が基本的に薬物療法の積極的支持者であることはこのブログで明言し続けている通りです。神田橋先生自身が、薬物療法の「超職人的な」使い手であることを忘れてはならないかと。

 しかし、ある物質を体内に投入しさえすれば精神疾患が治療できるというのは、恐らくどんな時代が来ても夢のまた夢でしょう。

 なぜなら、精神疾患に親和的な人たちとは、常に、文明と文化が生み出す歪みの結果であり、なおかつ、新たな文明と文化を生み出し、維持するエネルギーとなる人たちの供給源であり続けると考えられるからです(この発想の点では、私は中井先生の影響を強く受け続けていますね)。

 そして、薬という「異物」によって心身に生じる反応は本人に「違和」を引き起こしがちなものです。そういう薬剤によって変化させられる心身の反応を患者さん本人が「受容し」「消化して」、自我に統合し続ける過程というものが、結局は薬の効能の成否を決めるものであり、それを支えるのは、やはり、薬の効能にも通じた治療者との関係性であり、更に言えば、薬物療法を理解しながら見守る、家族やパートナーとの日常的な信頼関係なのだと思います。

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2009年6月22日 (月)

泉谷閑示氏の連載:「8人に1人が苦しんでいる! 「うつ」にまつわる24の誤解」シリーズのご紹介

●8人に1人が苦しんでいる! 「うつ」にまつわる24の誤解(by 泉谷閑示 Diamond online)

 この連載、まだ連載は完結していないのですが、とりあえず今、ざっと目を通した段階ですが、ここで書かれている、精神科医の泉屋先生の一連のご指摘は、少なくとも私がこれまで目にした欝関連のネット上の記事の中では、出色の高水準のものであることは間違いないと感じました。

 まずは、NHK「ためしてガッテン」の内容と重なる直接の記事として、

●「ウツ」を“心の風邪”と喩えることの落とし穴 ――「うつ」にまつわる誤解 その(4)

この記事からだけでもお読みになることをお勧めしたいと思います。


 他の記事をつまみ読みした範囲でも、西洋医学的な「治療」論への批判、「身体からのメッセージ」として症状をとらえることへの勧めなど、私にとっても、これから精読する意欲をかき立てる、全くエキサイティングなコンテンツだと思います。

 ・・・・・以上、とりあえず速報まで。

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久留米でフォーカシングを学ぶ会、次回7/12(日)開催分、定員に達しました。

 「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、次回、通例通り第2日曜、7/12(日)に開催しますが、定員の8名様にエントリーが到達いたしました(感謝!!)

 12日分の申し込みを停止させていただき、引き続き、2週間後の7/26(日)の臨時開催枠で募集を続けさせていただきます。

 フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。


 もし、7/12日枠でエントリーのキャンセルが生じましたら、このサイトで告知させていただきます。 


 詳しくは、こちらをご覧下さい。

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