この記事は、もっぱらカウンセラーの皆様向けの記事かもしれませんが。
5月22日、福岡国際会議場で開催された、第82回日本産業衛生学会の関連行事、第2回産業心理技術研究会に参加してまいりました。
日本ブリーフセラピー学会元会長、長崎純心大学の児島達美先生を講師にお迎えして、
「産業保険活動をより効果的に進めるための心理的支援
-ブリーフ・セラピー、システムズアプローチの視点から-」
というテーマでのものでしたが、産業保健領域でのうつ病のクライエントさんの就労支援についての「ライブ・コンサルテーション」と呼ばれるものの実演に接したことが、私にとって非常に大きなインパクトになりました。
ここでなされている相互作用は、すこぶる、すこぶる、フォーカシング的なものだったのです!!
実はこの催しにあわせて、泥縄で、最近、日笠先生の監訳で邦訳が刊行されたばかりの、バラ・ジェイソン著、「解決指向フォーカシング療法―深いセラピーを短く・短いセラピーを深く」
を何とか斜め読みして間に合わせて臨んだのですが、そこから予想されていたものを遥かに超えた水準で、短期療法の達人(日本短期療法学会元会長)、児島先生のライブ・セッションは、成功裏に進むフォーカシング・セッションと、あまりに共通のマインドと、驚くべき「ライブ性」を備えていました。
私はバラの本の速読と、今回の日本産業衛生学会総会の催しでの、児島達美先生のレクチャーと、ライブ・コンサルテーションを通して、全くはじめて短期療法や解決指向心理療法について知ったというのが現実である。
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短期療法(ブリーフセラピー)というと、「セラピーを短期間で終わらせる療法」というふうにとられかねない。確かに「時間制限心理療法」という、最初から12回のセッションに限定する約束で行なう心理療法が、今日言う意味での「短期療法」の先駆みたいにして存在するんですけど、実は、この「時間制限心理療法」の「外面的な」設定についてだけが教科書的な知識として広まったおかげで、ブリーフセラピーは、クライエント中心療法や精神分析的技法などの、長期間かけて人格の変容を促す技法を主に学んだ人たちから、不要な偏見にさらされることになったように思える。
念のためにいうと、「短期療法」というのは、ある特定の心理療法流派というより、一群の心理療法流派が共有する特性を総括したグループ分けのようなものと見たほうがいいようだ。
代表的なものとしては、狭い意味では、
○ミルトン・エリクソンの心理療法
○神経言語プログラミング(NLP)
○解決志向(指向)心理療法
○家族療法のうちのいくつかの流派
○ナラティブ・セラピー
こうしたあたりを指すことになり、広義に解釈される場合には、
○論理療法
○認知行動療法
○応用行動分析
などまで枠を広げることになるようだ。
しかし、児島先生のレクチャーとデモに接して痛感したのは次の点である。
短期療法とは単に心理療法の分類でもなければ流派でもない。
むしろ、現実の臨床実践(コンサルテーション)場面で、クライエントさんや、クライエントさんと関わる当事者(家族や上司)、そしてカウンセラーという3者が、いかに不毛な堂々巡りを(それぞれの中で、それぞれの相互間で)し過ぎることなく、悪循環的な相互作用を脱し、良循環的相互作用の関係に転じることを、無理なく、自然に、しかも現実的に必要な「そこそこの」水準で成し遂げていくか、そしてそのことのために、最小限の介入でありながら、使えるものは何でも使うというスピリットに基づいてなさていれば、それは短期療法的アプローチである。
・・・・・このように定義するのがアクティブでリアルな理解だ!! ということだった。
どうも、
「効率性」
「過去でなくて現在をテーマとする」
「洞察や気づきではなく、問題解決重視」
などという言葉を下手に振り回すと、実は短期療法についての誤解を広めるだけだとすら感じました。
短期療法の中でも、クライエントさんは深い気づきや洞察は体験することは決して珍しくはないですし、クライエントさんを単に受身に服従させるだけの効率性重視など、まがいものの、一番唾棄されるべき短期療法のあり方だと見なされている気がします。
もとより、洞察や気づきが生じることを自己目的的に礼賛することは短期療法ではあり得ないわけですが。
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いずれにしても、上に述べたベースラインを踏み外してしまったならば、認知行動療法の名の下になされる場合ですら、「短期療法」の名に値しないし、逆に、ある「フォーカシング指向心理療法セラピスト」によって、この点をしっかり押さえて実践されていれば、「フォーカシング指向心理療法」だって、立派な「短期療法」であるといえるのである。
恐らくこのことは、ひとつの独立した技法体型としてのフォーカシングのトレーニングのことしか知らず、フォーカシング指向心理療法を、単にそれを現場臨床場面に適用・応用したものであるかに過ぎないように認識されている専門家の皆様には、寝耳に水の、思いもよらない事柄かもしれない。
フォーカシング指向心理療法は、いったいこれのどこがフォーカシングなのか、ほとんど痕跡をとどめないくらいに解体され、カスタマイズされ得るのである。そしてそれがブリーフ・セラピー的な技法と自由に行き来できるところま到達したら、熟達したブリーフ・セラピストの実践と、全く判別不能の域になってしまうだろう。
私は、児島先生の発言や、ライブ・セッションから、そのことを痛烈に感じ取ることになる。
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コンサルテーションとは、クライエントにあたる人物とカウンセラーの直接の一対一の面接ではなく、むしろ問題を抱えた人物=いわゆるクライエントと関わる、援助的側面を持つ当事者(カウンセラー、上司、家族、配偶者、友人など)に対して、専門家が、クライエントさんにいかに対応するのかについて助言する場合を指す。
(私の書いたこの記事における分類をご参照ください)
助言する専門家のことをコンサルタントと呼び、助言を受ける人物のことをコンサルティーと呼ぶ。
つまり、コンサルテーションにおいては、通常のカウンセリングとは異なり、クライエント/クライエントに関わる援助者(コンサルティー)/助言する専門家(コンサルタント)・・・という三者関係が布置されていることになる(クライエントさん自身はその場に同席しなくても)。
これは、クライエントさんとの面接過程について、カウンセラーが、更に経験あるカウンセラーに有料契約で助言を求める、ケーススーパービジョンと呼ばれる枠組み基本的には共通である。つまり、
スーパーバイザー=コンサルタント
スーパーパイジー=コンサルティー
と読み替えて、一応差し支えはない。
ただ、通常のケーススーパービジョンと異なるのは、
1.仮に事前にケース記録をまとめてきたとしても、コンサルティー(助言を受ける人)は、それを読み上げるのではなくて、あくまでもライブで話せる範囲で、今、クライエントとの関わりで生じている行き詰まりや、何を解決したいのかを物語る。コンサルタント側も、その内容について、文書等を含めて、事前に一切予備情報を受け取らない。
2.コンサルタントは、事例に対する助言をするというよりも、いわば「ある人との対人関係に悩んでいるクライエント」に応対するかのように、短期療法的な面接過程そのものを、コンサルティーとの間で繰り広げていく(そこには、間接的に、コンサルティ自身をクライエントの身に置いて役割交換をした上での、間接的だが体験的な技法の学習を暗々裏に促すという側面が内包されることになる)。
3.短期療法の性質上、それは「問題の原因探し」的な探求や分析ではなく、コンサルティーが「今、何に、どう困っているか」「これからどうしたいのか」という点に絞ってやり取りは勧められていく。
4.私の見たところ、コンサルタントは、コンサルティーの発言を受容的・共感的に受け止め、コンサルティーの発言の流れを押しとどめて水を差すことはむしろ回避しているが、さりげなく話しに水を向ける際に「あなたはそれをどう感じ(思い、考え)ましたか」などと内省を深める方向に焦点を絞るのではなく、「それで、あなたは、クライエントさんにその後どう振舞いましたか」などという、その人の認知・思考・行動面での「問題解決」のありようの話題を引き出そうとしているように見えた。
5.しかし、そうした際に、はた目から観て、そのコンサルティの問題解決様式に一定のかたくなな固着があり、クライエントさんとの間に悪循環的な相互作用があっても、コンサルタントである児島先生はそれをすぐさま指摘して修正を促すことはしていない。まるで、そうしたコンサルティーの認知の固着や、相互作用的な悪循環が繰り返し自然と浮かび上がり、コンサルティー自身が、その悪循環について暗々裏に少しずつ気づき始めるまでは、むしろそうした悪循環パターンそのものを思うがままに自由に語らせ、ふるまうに任せ、それをやさしく「抱える」ようなスタンスで応対されているかのように感じた。この点での児島先生の、どっしりとした、安心感を漂わせた、少しユーモアすら漂わせたプレゼンスには、臨床家として、大いに見習うべきものを感じた。
6.こうした流れの中で、まるで「時が満ちた」間合いを見計らうかのようにして、児島先生は、「ところで、○○さん、ちょっと次のようなことを、今、ここで試してみてはどうかと思うんですけど?」というような調子で、コンサルティーに、独特の「思考実験」のようなものを提案する。それは独特の意外性があり、まるで、面白いゲームに誘(いざな)うような問いかけである(後で知ったが、こういうのを「ミラクル・クエスチョン」というんですね。)
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この部分から、実際に目の前でなされたライブ・コンサルテーションの内容をご報告するのがふさわしいだろう。
クライエントさんは、企業に勤める中年のサラリーマンであり、うつ病で、休職と復職を繰り返してきた。産業医は、ともかく毎日会社に通うことが習慣化することを、EAPカウンセラーであるコンサルティーに求めている。しかし、クライエントさん自身も激務に復帰することに不安を抱いているし、その一方、上司の自分への対応に不満を抱いてもいる。コンサルティーは、そうしたクライエントさんにどのように対応していくのが援助的かに、さまざまな迷いを抱き、時にはクライエントさんに色々反論したり意見したくなる衝動と戦ってもいる。
・・・・・この水準までなら、EAP(従業員援助プログラム)領域でのサラリーマンの復職支援として、非常に典型的な状況ですから、個人が特定できる心配は全くないかと思います(^^;)
さて、児島先生は、上記の1.から5.にあたるやりとりが、20分ほどかけて進んできたあたりで、水を向けるわけですね。
6.「どころで、今、ここまで私たちがこの場で繰り広げてきたやりとりを、○○さん(クライエントさんの仮名。その場でつけてもらうあたりも興味深かったが)が、実は私たちのうしろの「このへん」にいて、みんな聴いていたと想像してみるのはいかがでしょう? ○○さんは、どんな感想を言ってくれると思いますか?」
コンサルティーのAさんは答えます:
「そうですねえ、うーん・・・・・・○○さんは、いつでも、私との面接の後で、お礼を言ってきます。きっと、いままでの私の話を聴いていても、『いえいえ、カウンセリングは十分に役に立っていますから』などと、答えてくださるのではないでしょうか?・・・・・・(沈黙)・・・・・・・でも、ほんとうのところ、そのように感じてくださっているかというと、自信がないんですよ」
児島先生は、もう一度、類似の質問を投げかけます。
「なるほど・・・・・・それでは、今度は、今、お話になった、そのことまで○○さんが、このやりとりのそばにいて、お聴きになっていたたとしますね。 ○○さんは、どんな感想を言って下さると思いますか?」
「きっと、『いえいえ、本当に感謝していますから』と言ってくださるとは思うんですが・・・・・・(この後、Aさんに思い出された、関連事項についての記憶については割愛します)」
児島先生は、更にもう一度(!)、類似の質問を投げかけます。
「なるほど・・・・・・それでは、もう一度やってみましょう、今、お話になった、そのことまで○○さんが、このやりとりのそばにいて、お聴きになっていたとしますね。 ○○さんは、どんな感想を言って下さると思いますか?」
「・・・・・・どうも私は、○○さんが実際に示している態度や言っていることを、額面どおり信じられない、ほんとうは、凄く違和感や欲求不満をを感じているのに、それを言えないまま溜め込んでいるはずだとどうしても感じてしまうんですよ。そして、私は、そうした○○さんの求めにどう答えていいか、困惑してしまっているようですね」
ここで児島先生は、突如、ご自身の経験談を問わず語りにお始めになります:
「私が若い頃、スーパーバイザーの先生に事例の報告をしている時、『クライエントさんの本当の気持ちがわからない』ということをふと漏らしたんですよ。そうしたら、先生が次のように言われたのが凄く印象的でした。
『クライエントさんの本当に気持ちを確かめることって、それほど重要なことなのかね?』
そのように言われたことが、私の頭の中に意外なくらいに残り続けていましてね。そうこうするうちに、クライエントさんの言葉の「ウラを読もう」という構えが私の中からいつの間にか抜け落ちていったみたいでね。・・・・・気がついてみると、そういう私の側のスタンスの微妙な変化みたいなものが、何となくクライエントさんに面接室で伝わるようになって行ったんじゃないかとも思うけど、クライエントさんも感じたままに私の前で思ったことを言ってくれているなと思えることがいつの間にか増えて、面接の力みが、いい意味で抜けて行った気がしているんですよ」
これを聴いていた、コンサルティーのAさんは、ふと思い立つように、次のように語りだします:
「先生のお話を聴きながら、私が○○さんの言うことを「信じられない」のはなぜかなあ?・・・・と思いを巡らせていたんですが・・・・・いま、ふと、思い浮かんだのは、そもそも私のほうが、○○さんに、感じたままのこと、思ったままのことを全然言っていないじゃないか?・・・・・って」
******
フォーカシング的に言えば、児島先生が3回繰り出した問いかけ(私が質問タイムに確認したところ、この質問は、短期療法の世界で「関係性の質問」と呼ばれるもののバリエーションンだそうである)は、フォーカシング技法でいう「フェルトセンスに問いかける(asking)」と実に似通った質問である。
フォーカシングの場合には、内的な対象としての、フェルトセンス=身体の感じそのものからの応答を誘発するものであるのに対して、児島先生のなさったのは、その場にいないクライエントさんと、イメージ上で対話するという形でこそあれ、外的な現実の他者、しかも3人目の他者がどのように応答してくるかという実験である点に重要な違いがある。
しかし、例えば、フォーカシングで、
ガイド:「何かが『引っ込んで』いる・・・・・そういう言い方でしっくりくるかな? とお腹の感じに尋ねてあげてみたらいかがでしょうか」
フォーカサー:「・・・・・(沈黙)・・・・・『一応はいいよ』と答えてくれています」
ガイド:「なるほど、『一応はいよ』と答えてくれているんですね。それでは、『何かがそこに引っ込んでいるんだね、わかったよ、そこにいるのは』みたいに声をかけてがげてみるのはいかがでしょう」
フォーカサー:「・・・・・(沈黙)・・・・・何か感じが変わってきました」
ガイド:「・・・ほう、・・・・というと?」
フォーカサー:「・・・・・さっきまでは、引っ込まないでいると傷つくので、やむなく引っ込むという感じで、きゅうっと締まるような苦しさが先にたっていたんですけど・・・・・・どういうわけか、さっき、「そこにいるのはわかったよ」といってあげてみたら、その部分が何か緩んで、少しずつ暖かくなってきたんです。・・・・・おや?「いやいや、引っ込んでみているのも結構いいものだよ」とまで言ってくる(笑い)」
・・・・などという展開が生じる時の、体験過程のステップの刻まれ方とあまりに似ていると思えたのです。
別の質問者が、「児島先生が途中からご自身の体験談という形にされたことが印象的でした。そこにもひとつの大事な意味がありそうだと思ったのですが?」と水を向けると、
「こういう時に『それはひとつの気づきですねえ』なーんていうふうに、上から押し付けるようなあり方はどうかな?と思っています。コンサルティーにとってそれがこのライブ・セッションの中ではっきりと定着した理解になるかどうかなんて、本当に大事なことなんでしょうか? だから、私は、自分にもそういうことがあったんだよ、という、コンサルティと同じ目線での経験談という間接的な示唆にとどめて、そこから何を汲み取るかは、お任せしてしまいたいと言う気持ちもあったんだと思います。・・・・ここまで説明してしまうと、これ自体があと付けの理屈っぽくなりますけど」
ここで更に、司会もなさっていた島根大学の足立智昭先生(同じ島根の、「こころの天気」
で著名な土江正司さん・・・・フォーカシング関係者にはおなじみ・・・・・の盟友でもあります)が、
「児島先生は、ここで、ご自身のスーパービジョンの先生という「4人目」をライブセッションの場の中に呼び込まれたということが大事なのではないでしょうか?」
という絶妙の示唆をして下さいました。
コンサルティーのAさんも、
「これまでの事例検討を受けて一度も味わったこともない不思議な体験をしました」
と感慨深げでした。
思うに、同じ事例を分析系の事例検討会が扱えば、転移や逆転移、投影同一視などという用語が果てしなく飛び交うに関わらず、
「この事例って、むずかしい事例だよねえ・・・・」
という徒労感が、参加者全体の中にどよーんと覆い尽くすことが必至の事例だったと思います。
その意味で、この「公開ライブ・コンサルテーション」、わずか40分ほどでしたが、まさに「奇跡(ミラクル)の40分」、短期療法の真髄を見せていただけたと感じております。
改めて、講師の児島先生、事例提供者のA先生、この企画をご準備くださった、産業衛生学会産業心理技術研究会のスタッフの諸先生方に、厚く御礼申し上げます。



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