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2008年9月

2008年9月 1日 (月)

私の個人ケーススーパービジョン ~実践編~

 さて、ケーススーパービジョン論、後編。

 これまで私が自分のカウンセリングルームでやってきた、実際の個人ケーススーパービジョン(ケーススーパーバイズ)の手法を公開してしまう、ということをこれからやってみます。

*****

 幸いにして、というか、私にスーパービジョンを求めにこられた方は、若い方が多く、現場でのカウンセリングのケース量(担当クライエント数)もまだそんなに多くない方が、多いです。そして、特定のケーズについて、せいぜい数回の面接の展開について助言を求められることが多い。

 そこで、ここでは、そういう若いなりたてカウンセラーへの、クライエントさんとの面接回数がまだ少ない場合を前提に書いてみましょう。

 ケースたくさんになると、ケーススーパービジョンや事例検討会のための、面接記録のまとめなおしそのものが、忙しい中、膨大な手間と労力がかかる作業になってしまうんですよね。

 私はできればその種の「ケース提出者」」になることはもうあまりやりたくないです(^^;)。

 でも、まだ持ちケースが少ないうちに、特定の事例について細かくまとめなおし、検討する機会を持つことはたいへんな勉強になります。

*****

 私は、基本的にはスーパーバイジー(助言を求めに来たカウンセラーさん)のニーズを伺い、それに沿った進め方を柔軟にとるつもりです、何なら、ケース記録のまとめなしで、口頭で、気になるケースについて思いつくままにお話になってもかまいません。

 しかし、「スタイルは先生に任せます」と一任されたら、ケース記録を作って来れる方には、次のような要請をします。

1.クライエントさんの語ったことについてだけではなく、その時クライエントさんに、カウンセラーとしてのあなたがどう応答していたかも、要所要所でいいから、書いてきて欲しい。

 .......よく、事例検討会や、学会の事例発表とかで、クライエントさんが言ったことばかりを延々と書き連ねて来る方が居ます。

 あの~、カウンセラーとしての「あなた」は、「そこに-いた」わけでしょ? そして何らかの反応をしたわけでしょ? その結果としてクライエントさんの反応の展開がこうなった、という相互作用の過程全体を振り返る必要があると思うんですけど、といいたくなります。

 中には、

「私はここでこのクライエントの治療者への負の『転移』感情について『解釈』した」

とだけ書いてあったりする。

 あの~、その「転移感情の解釈」とやらを、どういうタイミングで、どういう言い方でしたんですか?

 私は、面接場面全体が彷彿としてリアルに伝わってくるような事例提示が、「どんな流派でも」必要だと思っています。

****

2. できれば、クライエントさんのやり取りのさなかにカウンセラー自身が感じていた漠然とした居心地や、色々な連想も、思い出せる範囲で書いてきてもらうと助かる。

(例えば、

「ここで私は、『しまった、動揺して、苦し紛れにこんなこと言ってる!』と感じていた」

とか、素朴な書き方で十分)

 つまり、面接をしながらのカウンセラーの内面の「実況中継」も書いてきてもらうと助かるのです。

 もちろん、それを訊いてみたくなったら、書いてきてもらってなくても、私は、スーパーバイズのその場で尋ねますが。

****

 次に、実際のスーパーバイズの場で、スーパーバイジーのカウンセラーさんと、私がどんなやり取りを進めているか、です。

1.適当な、あまり長くはならない区切りで止めて、

「ここまでの部分で、あなた自身、この面接の展開を、今、どう思う?」

 これに対して、例えば、

 「この部分で自分がこんな言い方をしなくてもよかったかなと思います」とスーパーバイジーさんが言うのなら、

 「じゃあ、どういう言い方をすれば、もっとよかったと思う?」

「うーん......」

とスーパーバイジーさんが考え込み、ためらいがちに自分なりのアイディアを見つけ、語りだすのを私はじっと待っています。

 私も、自分の中で、「どんなふうに対処するのがもっとよかったか」を探して、見つけようとしていくのですが、スーパーバイジーさんより先にそれを告げることはしません

 不思議ですが、こういう、沈黙しながら共に考え、感じてみる時間を、スーパーバイジーさんと共にすると、スーパーバイジーさんは、決して、というのに近い確率で、「どうにも頓珍漢な」改良案とかは言い出しません

 それどころか、私が自分で考えていたのとはまったく別のアングルから、私も感心するくらいの新鮮な改定案を提示してくることもすくなくありません。最悪でも、”2nd choice"というか、「次善」の策、あるいは「『害のない』」案を出してきます。

*****

3.次に、そのスーパーバイジーさんなりのアイデアとその長所を具体的に感想として述べ、それについて多少やり取りをした後で、まるでおまけのように、

「あなたのもいいけど、私なら、例えば、こう言葉を返したかも」

と、私の考えていた答えを伝えます。

 そして、

「でも、私のの方がいい、という意味ではない。面接にはカウンセラーその人のあり方に応じたいろんな対処があるし、どんなカウンセラーでも、一回の面接で、すべて最良の応答なんてできてないから」

とか、言い添えます。

*****

4.こんなことを、例えば、

「この部分で、クライエントさんはどんな気持ちでいたんだろうね?」

「この部分で、もっとよく対応できたと感じるのはどの部分?」

「この部分で、あなたが結構うまく対応できたと感じるとすれば、どの部分?」

「この部分では、何が面接の展開の鍵だったと思う?」

みたいなバリエーションで繰り返します。

****

 つまり、スーパーバイザーの私が「どうすればいいか」を教えるのではなく、可能な限り、スーパーバイジーのカウンセラーさん自身に、自分の面接を、丁寧に感じなおし、しかも自由な発想で振り返り、答えを見つけるように促すのです。

 私はこれを

  「スーパーバイジー・センタードのスーパービジョン」

と呼んでいます。

 このやり方は、そのカウンセラーの中に、早い段階から、

自分なりの「内なるスーパーバイザー」

つまり、「カウンセラーとしての自分」「クライエントさん」の面接の相互作用全体「俯瞰」し、冷静に、しかし「両者」に思いやりをもちながら(!)見守る、「第3の目」を育成するための訓練のつもりです。

 あと、現段階では詳しい説明までは控えますが、私なりのこのスーパービジョンのスタイルの成熟に、「藤嶽法」と、インタラクティヴ・フォーカシングの影響があることを書き添えさせていただきます。

*****

 最後に一言。若い臨床家に。

 何がクライエントさんのためになるのかを、自分自身で、試行錯誤しながらでいいから、クライエントさんと共に感じ、考えられるカウンセラーを目指してください。

 「大先生」や、指導教授や、スーパーバイザーに「気に入られる」かどうかを、クライエントさんを大事にすることより大事にしている段階からは、早く卒業して下さいね。

 そうでないと、あなたのクライエントさんは、カウンセラーである「あなた」に「気にいられ」たい、という「呪縛」を超えられず、ほんとうの、その人なりの成長を、あなたは援助できないでしょうから。

 さもないと、あなたはそのクライエントさんがカウンセラーになるためのモデルしか提供できないことになるでしょう。そんな「ネズミ講的構造」にはめさせることばかり多いカウンセラーにはならないでくださいね!!

 「先生のような、カウンセラーを目指すことにしました」

あまりに多くのクライエントさんに言わせ始めたら、あなたはプロじゃないんですよ。

 クライエントさんが、自分なりの人生を主体的に歩み出す自由を侵害しないようなカウンセリングをして下さい。

 それでもなお、「カウンセラーになりたい」なんて言い出すのは、100人に一人の変わり者でいいんですよ。

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スーパーバイザーとカウンセラーの関係は、カウンセラーとクライエントさんの関係の「写像」となる?

 ケーススーパービジョンを受けているカウンセラーであるあなたが、ケーススーパーバイザーである先輩カウンセラーに「気にいられたい」と思い、「本当はスーパーバイザーの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺しているのだとすれば、

1.あなたのクライエントさんは、カウンセラーであるあなたに「気にいられたい」という呪縛を抜けられず、「本当はカウンセラーであるあなたの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺している可能性が高いと思います。

 あるいは、

2.カウンセラーであるあなたは、クライエントさんに「気にいられたい」という呪縛を抜けられず、「本当はクライエントさんの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺している可能性が高いと思います。

*****

 スーパーバイザーの先生に、

「先生の言ったとおりにクライエントさんに接したら、事態は余計悪化してしまいました」

と不平を述べた時の、スーパーバイザーの先生の反応に注意して下さい。

A:「それはあなたの言い方(やり方)が悪かったんだ」

とかいうふうにして、更にカウンセラーであるあなたのやり方を責めてくるか。


それとも、

B:「そうか。きっと、私たち二人は、クライエントさんの言ったことについて、まだまだ検討不足だったのだろう。こういう時、私たち二人が二人ともまだ『見落として』いることがあることが多いと思う。
 あなたがまだここで語ってくれていない事柄の中に、重要な鍵があるのかもしれない。
 これはあなたを責めているのではないよ。私(スーパーバイザー)がある仮説や感想を述べたものだから、その後、あなたが自然と口にしたかもしれないことを私が結果的に話せなくしたのかもしれないからね」

というのに近い反応をしてくれるか。

 後者のタイプのスーパーバイザーに、若きカウンセラーの皆様が巡り会えることを。

 以上、自戒を込めて。

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2008年9月 3日 (水)

申込用紙、改訂いたしました。

当カウンセリングルームへの申込用紙を改訂致しました。

こちらのページをご参照ください。

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個人情報のお取り扱いについての申し合わせ

久留米フォーカシング・カウンセリングルームにおける

個人情報のお取り扱いについての申し合わせ


1.カウンセラー(以下「甲」とする)は、来談者(以下、乙とする)からの相談申し込み時に申込書に記載された内容、および具体的相談内容、およびその紙媒体および電子媒体による文字および音声・映像記録(以下、「面接内容・記録」とする)について、以下の項目5.6.に該当する場合を除き、乙の事前の承諾を得ることなく、決して外部に公開せず、情報を厳重に管理し、外部に漏洩しないようにいたします。

2.面接終結後満 5 年を経過した面接内容・記録については、特に甲あるいは乙から記録の半永久的保存を要請した場合を除いては、調査統計用の匿名的な数値を除き、すみやかにシュレッダー等による判読不明な状態にしての破棄、記録媒体消去の処分をいたします(甲が死亡あるいは廃業した場合は、甲あるいはその法的代理人は、乙希望の場合、乙本人に返却します。乙にその希望がない場合は、厳正にそれらの記録を処分いたします。

3.甲は、乙の関係者(例えばご家族・医師・別機関の担当カウンセラー・上司・教員等)に、以下の項目 5.に該当する場合を除き、相談内容および相談を受理している事実を、乙の承諾を得ることなくお伝えすることはありません。そのような問い合わせ、情報提供依頼を乙の関係者から受けた事実については、以下の項目5.に該当する例外を除き、乙 自身に速やかに伝達いたします。

4.甲は、乙の関係者に甲側から連絡を取るのがふさわしいとみなした場合、以下の項目 5.に該当する場合を除き、相 談内容および相談を受理している事実を、乙 の事前の承諾を得てお伝えします。

5.甲は、乙自身および他者の心身や生命に危害が及ぶ危険があると判断した場合も、できるだけ乙自身とのお話し合いの上で承諾を得た上で、必要な関係者に、相談内容と乙の状況をお伝えするように努めます。しかし、甲が、事態が緊急を要すると特に判断した場合には、乙の承諾なしに関係者に情報提供する場合もあります(「 個人情報の保護に関する法律」第 14 条3 項の2,3参照)。

6.甲は、日本臨床心理士資格認定協会が認可した事例検討会およびスーパーバイズに、進行中の乙のケースの進め方について適切なアドバイスを得るために、乙との相談内容を、検討会参加メンバーおよびスーパーバイザーに、乙の承諾を得ないまま提示することがあります。しかしその場合も、名前、出身地、現住所、職業等、個人を特定できる情報は守秘し、事例検討等に必要な相談内容以外は提示しません(たとえば横浜市在住の人について「Y 市」、 「浩一郎」という名前の人について「K さん」と表記、口頭説明することもいたしません)。 これらの事例検討会参加者およびスーパーバイザーは、甲の報告する乙の相談内容について外部に守秘する義務を負います。これらの事例検討の際に参考資料として配布した資料は、甲の責任ですべて回収し、シュレッダー等で適切な処分をいたします。

7.甲は、学会発表や著作等に、乙との相談内容を具体的に事例として記述する場合には、乙の許可を受けて公表します。その場合も、乙との相談が終結して原則として満 1 年を経過した事例についてのみ公表します。乙 には事前に発表内容について閲覧し、甲 に修正を求める権利があります。公表の際、聴衆や読者に乙という特定の人物が推測・同定できない水準まで、個人情報の一部を改変・省略して公表するように努めます。

8.以上について甲と乙の間で同意に達した場合のみ、甲 ・乙両者署名の元で面接関係を開始します。


※PDFファイルとしてダウンロード

お申し込みはこちら

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2008年9月 4日 (木)

カウンセラーとクライエントの「こころ」が共同で生み出した「物語」への尊厳

 私のカウンセリングルームでの「個人情報のお取り扱いについて」に関連した、カウンセリングの専門家に向けての問題提起です。

7.甲(カウンセラー)は、学会発表や著作等に、乙(来談者)との相談内容を具体的に事例として記述する場合には、乙の許可を受けて公表します。その場合も、乙との相談が終結して原則として満 1 年を経過した事例についてのみ公表します。乙 には事前に発表内容について閲覧し、甲に修正を求める権利があります。公表の際、聴衆や読者に乙という特定の人物が推測・同定できない水準まで、個人情報の一部を改変・省略して公表するように努めます。

 こちらの方は、すでに臨床心理士の共通理解として定着したものです。

 私も異論はありません。個人情報保護の観点からみても、必要なことですし。

 たいていのカウンセラーが実践しているのは、「発表についてクライエントさんの承諾をいただく」という水準のことかもしれません。

 しかし、特に日本心理臨床学会大会の多くの個人口頭事例発表に参加して気がついたのは、近年、クライエントさんに、発表草稿全体を文書の形で全文クライエントさんに読んでいただき、いただいた感想まで含めて発表なさるカウンセラーの皆さんが徐々に増えて来ている気がするということです。

 私はこうした発表者の姿勢に心から敬服しています。


*****


 一方、クライエントさん本人に「発表すること」の許諾は求めても「発表内容」全体までクライエントさんに開陳することには踏み切れないでおられるカウンセラーの皆様は、少なくないかと思います。

 
*****


 個人情報保護の観点ではなく、純粋に臨床的観点から考えた場合、「発表することをクライエントさんに許諾していただく」ということそのものが、治療的に悪影響を与えないか、という不安を、多くのカウンセラーは一度は抱くと思います。 クライエントさんの症状が再び悪化したらどうしよう?....などと。

 確かにこれは大変デリケートな問題なのですが、少なくとも、「発表の草稿をお読みいただくこともできます」と選択肢を提示したり、「私としては、むしろ一度お読みいただきたいのです。よろしければ、感想やご意見、間違いの指摘などをいただきたいのです」と、カウンセラーの側から提案することは、フランクになされていいのではないかと感じます。

 カウンセラーの方によっては、むしろ、これを「フォローアップ面接」のいい機会と受け止めておられる方もあるかもしれません。

 もちろん、こうした、発表についてのクライエントさんとの話し合いの中で、クライエントさんが発表に難色を示した場合には、どれだけ発表したくてもおやめになるカウンセラーの方が多いと思います。

 特に「成功事例」と考えるものを発表する場合、そこには、カウンセラーの中にある「評価を受けたい欲求」という厄介なものが介入していることも少なくないかもしれません。しかし、それが発表者の「記憶そのもの」を変容させる可能性は,確かにあると思います。

 しかし、「失敗事例」「中断事例」とカウンセラーご自身が考えているものを敢えて学会で発表したり、論文で書こうとされているカウンセラーも増えて来ているように思います。こうしたことは、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、こうした事例で的確な考察がなされているもの、あるいは、座長やフロアの参加者と活発な議論がなされた上で、それも大事にして論文におまとめになることは、他の臨床家にとっても、大きな学びの場を提供して下さることとなり、敬意を表しています。


*****


 更に、事例研究発表を考える際に忘れてはならないのは、発表するために、記録に基づき再度事例を振り返り、まとめ直し、考察する過程そのものが、実は、カウンセラー自身による、面接過程の「再話」であり、「物語化」であるということです。

 私はこれを、必ずしも否定的な意味で述べているのではありません。そうした再検討の過程で、記録の中の、完全に忘れていたさりげないエピソードに気づくことをきっかけに、以前から頭の中で思っていたのとは別の形で事例全体が見えてくることは、実によくあることだからです(臨床家の皆さん、経験がありますよね?)

最近、「ナラティヴ(説話、あるいは「物語ること」)」という社会構成主義の観点からカウンセリング過程を検討することが盛んになっています。私は、実は未だにこの用語についてほんとうに納得できたと感じたことはない不勉強なものなので、以下の内容はこの概念の奥行きを理解していない浅学な者の引きつけ方かもしれませんが、ともかくナラティヴという概念も連想した、私個人の素朴な考えというぐらいのつもりで以下の内容をお読みいただければ感謝いたします。
 

*****

 
1. そもそも、クライエントさんが、カウンセラーに語り出す内容そのものが、すでに、クライエントさんが無意識のうちに創造したた「物語」だともいえます。

2. クライエントさんの周辺の人たちが、クライエントさんをどう見ているか、というのも、ひとつの「物語」です。

3. 更に「周囲の人たちが自分をどう見ているのか」というクライエントさんの「物語」という次元がある訳ですね。

4. カウンセラーがクライエントさんの話をどのように理解するかも「物語化」の過程です。

5. カウンセラーにどのように理解されているのか、というのも、クライエントさんの「物語」です。

6. そして、こうしたこと全体が複雑に相互作用している多元的なトポス(場)として、治療場面は存在します。


 いずれにしても、「事例発表」は、質のよい事例発表ですら、クライエントさんが聴いたらびっくりたまげかねないような「カウンセラーの物語」になっている可能性はたいへん高い。これは、カウンセラーが誠実であろうとしているか、などと言った次元でなく、生身の人間ゆえの限界でしょう。

 現実には、事例発表の段階で、すでにそのカウンセラーを直接指導する先生や、スーパーバイザー、事例検討会に参加した他の参加者の紡ぎだす「物語」との相互作用が進んでいるわけで、それらをもとに学会発表された時点ではすでにもの凄い「物語化」が生じているわけですね。

 それを学会で口頭発表する際に、クライエントさんの感想も聞く。

 更に、学会発表の際の座長やコメンテーターの先生や、フロアからの発言。

 それに輪をかけて、論文を投稿した後の、査読の3人の匿名の委員の先生との文書によるやり取りの繰り返し。

 ......果たして、これらがほんとうに、カウンセラーの見地を「より真実に迫らせた」といえるかどうか????

 何しろ、ロジャーズ派や一部の家族療法を除いては、面接の過程の記録を、録音や録画の形で検証可能な状態にないのが普通です。仮にそれらが存在したとしても、リアルタイムで面接と同じ時間をかけて)再生し、それらを全検討者が検証するというのは非現実的であり過ぎます。どこかで「圧縮」が必要なのです。


*****


 だとすると、最低限どのラインで、「物語化の副作用」を抑止し、修正することでけじめをつけるか。

 私の答えは、面接過程の中で、折々、クライエントさんと、それまでの面接過程について小刻みに振り返り、クライエントさんがそれまで感じていたけどコトバにならなかった違和感などを、面接のなかで取り上げて互いに納得いくまで相互作用することを繰り返し、学会発表のための草稿をまとめる時点でその一応の総決算をしておくことだろうと思います。

 まずは、このことがカウンセラーとクライエントさんとの相互作用の中で、丁寧になされていること。


 敢えて言います。

1. カウンセリングの過程をどう受け止めるかは、究極的にはまずはクライエントさんの内心の自由であること。

2. 続いて言えば、カウンセリング過程の直接の当事者であるクライエントさんとカウンセラーの共有物であるということ。

3. もし、カウンセラーとスーパーバイザーや指導者との共通理解の方が、2.よりも長期にわたって優先するようになったら、もはや注意すべき状態ではないかということ(たとえ、いわゆる「現実吟味」が低下している重症精神障害や認知症や発達障害の場合ですら!!)。

4.時として、カウンセラーとクライエントさんの間のいわゆる「転移/逆転移」関係の中で、一度お互いに何らかの意味で「クレージーな」状態を経過するリスクを幸いうまく切り抜けられたので、活路が開けるということもままあることである。指導者やスーパーバイザーは、そうした可能性を一方で必要な時点で示唆することを忘れるべきではないが、クライエントさんとの相互作用のただ中で、両者が自発的に脱錯覚していく権利は保証されるのが望ましいのではないか。


******


 面接過程は、担当カウンセラーとクライエントさんの共同作品です。

 いかなる権威も、指導者も、二人の関係に、ある「尊厳」を感じ、「抱え」の姿勢で見守る、フィロバティックな姿勢を堅持してこそ、自律的な、責任感ある、経験を消化する力の高い、良き治療者は育つのだと思います。


*****


 私は、6年ほど前、福岡在住で、ウィニコット、ビオンをはじめとするイギリス対象関係論のもっとも誠実な日本での指導者であり、現場カウンセラーとしては、重度の摂食障害患者との入院治療で知られた、松木邦裕先生に、かつて、大会場での事例のコメンテーターをお願いするという、怖い者知らずなことをいたしました(カウンセリング関係者なら、これがいかに無謀か、ご想像できるかと)。

 結局、例のごとく、カミソリで痛みもなく斬られました(^^;)。

 先生の見解にすべて納得したわけではありません。

 しかし、先生の


 「クライエントさんを汚しちゃいけないよ」 


という言葉だけは深い印象に残っています。

 ......ここからの自由連想なのですが、


 「クライエントさんと、カウンセラーの関係を、汚しちゃいけない」 


とも言えるのではないか。


 .......日本中のカウンセラーの指導者の先生方に向けて。


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2008年9月 6日 (土)

フォーカシングについて

 私が専門とするフォーカシング技法については、いずれこのサイト独自のわかりやすいコンテンツを執筆いたします。

 それまでは、以下の記事をご参照ください。


●フォーカシング入門(私が個人サイトに書いたものです)

●フォーカシングって何?(日本フォーカシング協会サイトの記事)


 後者は、フォーカシングの名トレーナー、アメリカのアン・ワイザー=コーネルさんの、一般の皆様向けのフォーカシング入門書、「やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方(The Power of Focusing)」の最初の章を、アンさんや翻訳者、出版社のご許可をいただき、全文転載させたいただいたものです。

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夢フォーカシングについて

 フォーカシングを活用した夢分析。

 それは、この世に多く出回っている「夢解釈」のように、「海に浮かぶ」=「おかあさんの子宮の中に戻りたい」みたいな、夢の内容から、まるで「辞書を引くように」答えを見つけるものではありません。

 あなたと一緒に、夢の中でどんな「感じ」でいたかを丁寧に振り返る中で、あなたもびっくり、カウンセラーの私もびっくり!! みたいな、予想もしない答えを一緒に見つけていくものです。

 フォーカシングの経験がなくても大丈夫です。
 占い気分でやってみたら、あなたをスリルとサスペンスと爆笑にみちた、アドベンチャーゲームにご案内します。

一限さん大歓迎です!

 このカウンセリングルームで、1時間 4,500円でお引き受けしています。


*****

 詳しくは、当面、

●夢フォーカシングについて(私の個人サイトの記事)

をご参照ください。


●参考文献:

ジェンドリン 「夢とフォーカシング―からだによる夢解釈」

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2008年9月 9日 (火)

読売新聞での紹介記事

●読売新聞 朝刊 2008年1月25日版

うつノート 回復めざして 第4回 「心は更地 安らぐ表現」

   ※カウンセラー相性も大切※

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 吉田恭子さん[仮名、27])は高校時代から、うつ症状で悩んでいた。2005年末には会社を退職。06年には、慢性的な軽いうつ病である「気分変調症」という診断を受けた。入院し、休養と薬物療法を受けたが、気持ちの平安はなかなか得られなかった。「元の私に戻りたい」という気持ちにとらわれていた。

 治療の転機になったのは、カウンセリングだった。

 「病気で何もかも失ってしまった。自分は空っぽ。魅力がないし、何の可能性もない。自分は『無』だと感じる」。

 カウンセラーにそう話すと、

 「自分を『更地』のように感じているのではないか」

と問いかけられたという。

「更地」という言葉を聞き、「更地だから何もないけど、どんな花を植えようと自由なんだ」という居心地のいいイメージがわいてきた。不安感や焦燥感が薄れた。

 現在、うつ病の治療では、薬物療法が主流だ。しかし、心理療法を求める患者は多い。

 古田さんは「フォーカシング」というカウンセリングの方法が性に合った。フォーカシングは、自分の実感に当て、言い表すことで、心を理解しようとする心理療法。

 「更地」の心境でしぱらくすごしているうちに、元気になった吉田さんは昨年、週1回、派遣で事務の仕事を始め、週3回まで増やした。
 しかし、作業の能率は落ちていた。気持ちに波があり、疲れやすい。

  「以前のように仕事できない」
  「自分は人から遅れてしまった」

というプレッシャーを感じて、気分も落ち込んだ。仕事は半年ほどでやめた。

 それでも、以前とは違う。以前は休養していても、焦りや不安で心の中は嵐のようで、心は休めていなかった。カウンセリングによって、自分の感情を扱いやすくなり、休養中、平安を取り戻すことができるようになった」と吉田さん。現在は、ウォーオーキングをしたり、ジムに通ったりしながら、体力をつけ、生活リズムを整えることを大事にしている。

 フォーカシングの専門家である関西大学教授、池見陽(いけみあきら)さんは、

「健康なときは、職場で嫌なことがあっても帰りの電車の中で忘れることができる。しかし、ストレスが強くなると、寝ても忘れられなくなる。カウンセラーとともに、自分の感情との距離のとり方の練習をすることが必要」

と話す。

 「感情は本来、移り変わっていくもの。感情に名前をつけて、ちょっと距離をおいて観察してみる。すると、感情も変わってくるかもしれない」

 吉田さんは、自分の焦燥感に「せっかち君」と名前をづけた。

 「せっかち君が顔をのぞかせたな」と思ったらら、心の中でせっかち君と会話すると、せっかち君は引っ込むようになった。

 池見さんは、

薬と休養でよくなってきた段階で心理療法を併用するのは効果が期待できる。性格的な問題があるケースや、働き過ぎなどの生活状態の問題がある場合に、有効だと考えられる。療法よりもカウンセラーとの相性が重要だと思う。主治医に相談してほしい」

とアドバイスする。

******

 この記事での池見先生のコメントについての更なる注釈を、池見先生ご自身が個人サイトで公開しておられます。こちらをご覧下さい。

 この記事は、私が「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」時代に担当した事例です。

 この記事に関して、私は直接取材を一切受けていません。

 「私のうつノート」に感想を送っていたクライエントさんの方が取材の対象で、私の方がクライエントさんから、自分が取材に応じることについての承諾を打診されるという、思わぬ展開でした。

【追伸 09/08/15】

この時の記事は、その後本になった、「私のうつノート」(読売新聞生活情報部 編著)に、全文そのまま転載されていたことに、やっと気がつきました(p.122-4)。

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2008年9月11日 (木)

クライエントさんからの注文や不信の念の表明といかに対峙できるか

 九州・鹿児島の伊敷病院でずっと勤務されつつ、精神神経科現場臨床に密着した実践的な「面接のコツ」に関する講演や著作で、精神科医・診療内科医にとどまらず、全国のカウンセラーから篤く崇敬を集めているのが、神田橋條治先生です。

 この先生ががおっしゃった、「自閉する能力」という概念があります。

 これは更に普遍化されて、

 「症状」という言い方をする時に、「.....する能力」と読み替えてみたら?

と提言されています。

「引き籠もり」症状ではなくて、「引き籠もる」能力
「人目が気になる」症状ではなくて、「人目を気にする」能力、
「すぐに風俗に通う」問題行動ではなくて、「風俗に通える」能力、
「人にお節介を焼くことで、その相手を自分の人形のように依存させる」能力
「ずる休みをする」問題行動ではなくて、「する休みできる」能力
「解離」症状ではなくて「解離できる」能力
「鬱」症状ではなくて、鬱に陥れる「能力」
「本当の自分を出せない」悩みではなくて、「本当の自分を出さずに済ませる」能力

......と言った具合ですね。

(これだけ並べると、むしろ少なからず多くの人に確かにある程度ある、「適応」能力にすら見えてくるから不思議です)


******


 これは決して単なるポジティヴ・シンキングなどではない

 そのようにすることで、
 クライエントさんは、かろうじてここまでやって来れたのであり、

 もしそういう能力がなければ、
 もっと悪い状態に陥って「いた」かもしれない、

......と、考える余裕を治療者は持て、ということだと私は理解しています。


*******


 この「.....する能力」の応用問題として、神田橋先生の直弟子である、長年福岡の産業医科大学で勤務された、増井武士先生と、その増井先生の兄弟分である、九州大学の田嶌誠一先生が共に強調する事柄に、

「拒否能力」

更に、

「注文をつける能力」

という、現場臨床的に見て画期的な概念があります。

鬱病圏にせよ、統合失調症圏にせよ、神経症圏にせよ、日常の中で、あるいは職場や親などの「重要な他者」との関わりにおいて、こうした能力に乏しい方が多いことを実感し得る現場セラピストは多いからです。

 受容、共感とよく言われますけど、殊に日本人の場合、受容されればされるほど、むしろカウンセラーにほんとうの思いを言えなくなるクライエントさんは、ありがちです。

 わかりやすく言えば、ずっと「人に嫌われないいい子」であろうとしてきた人は、カウンセラーの前でもそれを当然繰り返します

 カウンセラーを信頼すればするほど、


「嫌われたらどうしよう」症状、

もとい、

「嫌われたらどうしよう」と思える能力


が発動するのですね。

 ......そのことに気づかないままでいるカウンセラーなど滅多にいないと信じますが(^^)


 あるいは、人に対する(あるいは、それまでのカウンセラーに対する)不信感が強いあまり、最初からカウンセラーをいろいろ試みるクライエントさんがいるのも、「援助を求めたい相手に、安易に気を許さない防衛能力」といえるかと思います。


*****


 いずれにしても、

それまであまり苦情やカウンセリングの進め方について
違和感や苦情を言わなかったクライエントさんが、
敢えてそれを口にした時

あるいは、

これまで面接の中で取り扱わなかったテーマを
敢えて取り上げたいと自分から申し出る時
には、
それ相応の覚悟を決めていたり、
勇気をふるっていることが多い。

 少なくとも、そのカウンセラーを信じたいという気持ちと不信感がギリギリのところでせめぎ合っていることが多い。

 この時のカウンセラー側の態度如何で、より面接が深まるか、それとも堂々巡りしたり、突如中断したりするかの分岐点になることが多いのは確かです。

 見え透いた「注文歓迎」の姿勢や、「お茶を濁す」態度、あるいは議論のすり替えなどは、容易にクライエントさんに見破られます。


*****


 以前にも書きましたが、こうしたことへの感受性は、少なからぬ場合、カウンセラー自身のカウンセリングの師匠(たとえばスーパーバイザーに)対して感じた違和感を自分でどのように見つめ、対処してきたのかが如実に反映します。

 得てして、カウンセラーは、自分のカウンセリングの師匠の嫌な部分だけを無自覚に取り入れるという「反復強迫(やりたくもないし、用心しているのに、実はそのことをいつのまにか繰り返してしまうこと)」を持っています。

 これは、多くの一般の人が、親を反面教師にしようと懸命に努めてきたのに、いつの間にか、自分の子供が自分のことを、かつての自分と同じように嫌っている事実に直面してショックを受けるのと全く同じ次元でのことなのです。

 そういう意味では、そういうカウンセラーになってしまった責任は、実は師匠との関係性の質に大きく影響される(どちらが悪いとは言えませんが)。

 ただ、師匠に全責任はないにしても、そういう「スーパービジョン」や「教育カウンセリング」経験、あるいは師匠が弟子に研究室の日常の中でどう接したかという「トラウマ」を背負うあまりに、クライエントさんとの関係で苦しみ続け、堂々巡りを続けるカウンセラーがこの世にたくさんいることも確かなようです。

 だから、カウンセラーにどうしても違和感があり、どう伝えても通じない壁があると感じたら、そのカウンセラーは、よほどたちの悪い「師匠」や「先輩」に負わされたトラウマに無自覚なままだ、と発想しているのも、いいかもしれません(^^;)


*****


 何より、自戒を込めて。

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2008年9月12日 (金)

素朴な夢分析でもカウンセリングに生かせる

 夢フォーカシングのコースは、私が湘南での開業時代、ご利用される方が少なかったのが残念なコースのひとつでした。

 自分の得意分野について吹聴して宣伝するのは控えめにしたい私ですが、こと「夢フォーカシング」とは、ちまたにあふれる「夢占い」サイトや、「夢分析」を開業のメニューに加えたカウンセリングルームの多くとは「隔絶」する域の技法であると、胸を張って言えることは、臨床専門家にも、ましてや、一般の皆様には認識されていないように思います。

 私以外でただおひとり、夢フォーカシング技法への積極的な関心を維持し、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」などで小ワークショップを繰り返されているのは、福岡大学田村隆一先生(私と同じ、日本に13人しかいないThe Focusing Instituteのコーディネーター)です。

 フォーカシング関係者の間でも「「夢フォーカシング」は、いまや「流行からはずれて」いまして(^^;)、夢フォーカシングに特化したワークショップやセミナーは、関東地区では、いまや全くに近く行なわれていないのが現状です。

*****

 「夢フォーカシング」については、フォーカシングの創始者である、ジェンドリン自身による著作の邦訳が、すでに10年以上前に、

●ジェンドリン/夢とフォーカシング

と題して刊行されています:

 ここでは、「夢フォーカシング」そのものを体系的な技法としてお伝えするのではなく、流派に関係なく、現場カウンセラーにお使いいただける実践的なアドバイスとして書いてみましょう。

 もとより、そこにはジェンドリンの夢フォーカシング技法のエッセンスを十分に盛り込んでいます(^^)

******

 そもそも、カウンセラーなら、流派を問わず、面接の中でクライエントさんが報告する夢を、面接内で役立てることは実はそんなに難しいことではないではないはず。

 クライエントさんが夢を語った場合に、それを単に受容的に聴き、面接記録にとどめ、事例検討会やスーパーバイザーに、「この夢にはどんな意味があるのか」と問いかけるだけしかしないカウンセラーの方は、現実には少なくないようである。

 たいていのカウンセラーは、見た夢の意味についてクライエントさんに面接の最中に問いかけられたら「引いて」しまい、その場ではj柔軟かつ積極的には取り扱えないという現実があるように思う。

 これからカウンセリングを受けようという皆様。
 意外かもしれないけども、この点では期待はずれに終わることが少なくないと覚悟したほうがいいと思います(^^;)

*****

 はっきりと断言したいが、フロイトやユングの夢分析についての体系をきちんと学ばなくても、現場カウンセラーとしてそこそこの域にある人は、クライエントさんの夢を面接場面で生産的に活用できる。

 面接場面での夢の扱いにおいて、解釈のための知識ほとんどまったく必要ないと断言したい。

*****

 夢の意味を知るとは、夢に意味について、まるで辞書を引くようにして答えを出すこととはほとんど関係ない

 たとえば、

A:「狭い洞窟(や長い穴)をもがきながら必死にどこかに行こうとしている」

という夢を見たからといって、

「子宮から膣を通って外に出ようとしている。親離れしたい気持ち、生まれなおし、死と再生」

などという知識を単に「知っている」ということだけでは、ほとんど何の意味もないと思う。

 カウンセラーは、クライエントさんが、その夢の中で、具体的にどんな気持ちで、どんな風に実感しながらその体験をしていたかに、身体ごとクライエントさんの身になって追体験して味わってみるつもりになるといい。

A1:「井戸みたいなところを登ろうとしていて、地上から光がかすかに差しているんだけど、上から誰かが土を少しずつ入れて来るのか、口のなかに土が入ってきて、ジャリジャリして、それを吐き出すだけで、一向に登れないんです」

.......とクライエントさんが夢体験を語る場合と、

A2:「私の身体は横向きみたいなんだけど、壁は何かゴムみたいで、ぬるぬるしていて、いくら前に進もうとしてもなかなか進まない。でも、私はそのぬるぬるを感じながら、少しは前に進めるかなともがいているだけでも、何か希望のようなものは感じていて、その状態が、不安というより、何か心地いいんですよ」

.......と語る場合とでは、実感の上でかなり別次元の、その時そのクライエントさんなりの実感体験を夢の中でしていた可能性があるのではなかろうか。

 いきなりその人の夢体験を、一般化、抽象化し過ぎないことである。

******

 カウンセラーが、クライエントさんの夢を実感を持って具体的に追体験できるためには、クライエントさんがまさにその夢の中でどんな体験をしていたのかについて更に語ってもらう必要があることが少なくないたろう。

●「その夢を観て自分ではどう思った?」
●「夢の中ではどんな気持ちでいたの?」

 この水準の問いかけですら、クライエントさんに試みていないことが少なくないようにも思う。

 これだけですら、夢についての更に詳細な本人の描写や、夢の中での(あるいは、夢についての)本人の気持ちが語られ、(現実のクライエントさんの状況を含めた)クライエントさんの心情の理解が深まることは多い。

******

 また、を本人がどう受け止めるかそのものに、その人がすでにカウンセリングの中で語ってきた現実状況の受け止め方と共通の認知様式が見出せることも少なくないものである。

 更に、クライエントさんの夢の中での体験の実感を、カウンセラーが自分の身体に呼び起こすつもりで受け止めていたら、それだけでいろんな連想がカウンセラーの中にも生じるはず。

 そこから、クライエントさんに何らかの応答をする糸口が開けるはずです。

******

*そういう時の、カウンセラー側からの誘発的な質問のヒント:

●1.夢の中のどの部分が一番印象的だった?

 長い夢でも短い夢でも、クライエントさんにこのように聞いてみると、カウンセラー側の想像とは別の、あらすじからは省略そうな一見地味な部分をクライエントさんは語り出する場合があります。

A1:の場合だと、

例えば、

ア:「地上からさし続ける一筋の光が何より印象的でした」

イ:「その光が時々さえぎられてチラチラするのが不思議と面白かったです」

ウ:「実は光そのものではなくて、紺碧の空の色に惹かれていたことに気がついた」
(井の中のかわず大海を知らず、されど空の青さを知る.....などとカウンセラーが連想したりして)

エ:「実は口の中に入ってくる土のじゃりじゃりする感じはうっとおしかったけど、上から土を投げ入れる人らしきもの......実は姿は見えないんです......への恐怖とか憎しみとか、このまま埋まってしまうじゃないかという不安は感じていなかったんですよ」

..........などと、カウンセラーの予想外のことを言い出す可能性があります。

 こうした場合、カウンセラーが自分なりの解釈のこだわりとしての「これが重要だ」という理解に固執するべきではないと思います。

 そではもはやクライエントさん自身の夢体験を大事にしながら相手をしているのではなくなります。

 カウンセラーは、クライエントさんの反応に基づき、改めて感じなおして味わってみる必要が出てくるかもしれません、その結果、それまで自分なりに身になって感じてみていた感覚それ自体が大幅に変化するかもしれません。

 そして、仮に今述べた、エ:のパターンだったとすると、

Co:「ジャリジャリ感が印象的だった?」
Cl:「ええ、それをウザイと感じたんですけどね」

......ここまでシェアできれば、クライエントさんからうかがわなければとてもカウンセラー側には想像もできなかった、クライエントさんの夢体験の具体的な心象風景まで共有できたことになります。

****

 ここで、

●ヒント2:夢の中での実感と同じような感じを現実場面でも味わったことがあるかどうか?

夢の中で感じてたような、そういうウザさって、最近でもいいし、以前にでもいいけど、実際に感じたことありそう? ちょっと探してみるのも面白いかも」

 これに対して、クライエントさんは、例えば、

そういうウザさ........そうですねえ。ある気がする。すぐにおもいうかばないけど」

カウンセラー:「しばらく探してみたら?」

「こういうウザさか。.......(沈黙20秒)......何か言おうとすると、いろんな横槍が入るように感じるんです。横槍って言っても、その人たちは私を言い負かそうとか、押しとどめるとか、批判しているしているわけではなくて、私と関係ない話を自然に投げ出しているだけ。......そう、そういう人たちは、ごみをゴミだめの穴にポイと捨てるような世間話のつもりで話しているだけで、その下に私がいるとかも気がついていない。......そういう世間話を聞くだけで、ウザイんですよね。最初言いたかったことをそのまま口をついて出なくなって。そういう人たちを別に憎いとは思わないんだけど、それくらいで言いよどむ自分が情けなくて。なぜそういう世間話だけでウザイのかとなると自分でもわからなくて」

などと話し始めるかもしれません!

 夢の中での体験が、その人の現実生活の暗喩になっていることをクライエントさんが鮮やかに語りだすわけですね。

 こうなると、カウンセラーが多少更にアシストさえすれば、もはやカウンセラーのありきたりの解釈では到達不能で、ひょっとしたらそれまでのカウンセリング全体で話題にすらなっていなかった、

 週刊誌的な俗っぽい話を耳にするだけで調子が狂う自分って潔癖すぎるの? 

 私の仕事への姿勢は純粋すぎるのだろうか? もっと「『泥』臭さ」も必要?

 仕事にも恋にも、「清『濁』あわせ呑む」したたかさがいいのだろうか?

 .......などというさまざまなテーマについて、カウンセリングが進み出すきっかけになるかもしれないのです。

*****

 同じシチュエーションで可能そうな、カウンセラーからの別の問いかけ:

●ヒント3:クライエントさんの実感に即して、夢のストーリーを三題話くらいに要約して提案してみることもできます:

「何かを必死にやっていた。
 一歩足を踏み外すとおしまいだ(奈落の底に落ちてしまう)と感じている。
 何かが自分に降りかかってくるのがウザイ」

 すると、クライエントさんのほうは、

「いや、夢の中では、そんなに一歩誤ればおしまいになるような恐怖はないんです。結構「踏ん張れている」なと。多少はいろいろ降りかかってはくるけど、口の中のシャラシャラがウザイ、ぺっぺっ、くらいでしのげている自分がいるんですねえ」

 こういう展開でも、何も問題がない。

 カウンセラーにとって、思いのほかしたたかなクライエントさんの一面にはじめて気がつくきっかけになるかもしれません。これだけでも生産的でしょう。

*****

 ●最後にもうひとつ、これはクライエントさんの対話では直接言わないとしても、役立つヒント:

 クライエントさんの語るいくつかの夢を、シリーズとして捕らえてみることはいろいろな連想を生みます。

 特に、内容が一見別の夢のようでも、実は共通のパターンが隠れていることがあります。

 「自分が再受験をして、思いもよらないくらいにいい大学に入れた夢を見ました。学生や教授も歓迎してくれます。でも、私は、いつ、自分の能力がその大学にふさわしいものではないか、化けの皮がはがれることを少し恐れているようです」

 「私は戦闘ゲームの世界の住人になっています。自分の身体にビームが打ちこまれる痛みを何回も感じているのですが、なぜか死なないでゲームに参加し続けているみたいです。幽霊になったのかな? それだけでも凄い急迫した恐ろしい体験なのに、そのゲームがバージョン・アップしたらしく、敵の攻撃が更に恐ろしい兵器に変わって行くのです」

この二つの夢の共通パターンとして、あなたは何を連想しますか?

 例えば、

「この人は、自分が、実力を超えているかもしれない地位や役割を果たしたいと思っている(あるいは、すでにそうした立場に就いている)と感じている。そして、更に高い要求水準を求められたら行きづまるのではないかという不安と、でもそうした新たなステップにチャレンジしたいという思いとの間の葛藤の最中にいるのかな?」

などと、カウンセラーが連想するまでなら、流派に関係なく、そこそこ経験をつんだカウンセラーなら、おできになる可能性があるでしょう。

 私は、これをクライエントさんに直接「解釈」として伝えなくても、カウンセラーが自分の中でreverie(もの思い。精神分析対象関係学派のビオンの概念)していれば十分という立場ですが、個々のカウンセラーの皆様のご判断にお任せいたします。

****

 私が、クライエントさんが見た夢を題材にしてカウンセリングを深めるのには「知識」は要らないと申し上げた意図が、少しは伝わればと感じています。

 必要なのは、もっと別の種類のカウンセラーの柔軟さと感性の豊かさなんですね。

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2008年9月13日 (土)

出張講師もいたします。

※場所などの確保をして下さる代表責任者の方がおられましたら、

「久留米でフォーカシングを学ぶ会」と同じような催し
○多人数向けの講義中心の催し
○カウンンセリングについての講演

......などを、全国各地に出張して開催いたします。


 フォーカシングの特定の技法やテーマについてのご依頼にもお応えします。

 大規模大学学生相談センター現場チーフのキャリアもあります。

 その他、テーマとしてお引き受けできそうなものとしては、次のようなものがあります:
 
○鬱
○青年期
○インターネットとの関わり
○精神科/心療内科医療との連携
○フォーカシングを用いた絵画療法
○夢分析
○アニメをはじめとする、いわゆる「おたく」文化について
○浜崎あゆみ論


 私は、TAE(Thinking At The Edge)と「子供のためのフォーカシング」以外のすべてのフォーカシング諸技法について、当日のご注文に臨機応変にお応えできます。

 日時も、祝日(=休業日)・定休日の木曜日も考慮いたします。

 2,3時間のレクチャー、2日間セミナーなどもお引き受けします。

 講師費用は、仔細はご相談に応じますが、5時間-8時間拘束、人数10名程度までの場合、参加「予定」人数×3000円+交通費+食事代(+宿泊代)+1日あたり6000円(福岡県.佐賀県、熊本県、山口県西部以外は8,000円以上)を一応の目安にして下さい。

 10名以上の大人数の場合にはこの限りではありません。

 公共機関やNPO、ボランティア組織・相談機関等からお招聘いただける場合には別途考慮いたします。

 詳細はご相談の上で。

TEL & FAX 0942 48-8797
email:kurumefocusing@live.jp

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2008年9月19日 (金)

NHKスペシャル「戦場 心の傷」を観て (増補改訂版)

 2008年9月14日(日)、15日(祝)に二夜連続で放映された、

NHKスペシャル「戦場 心の傷

(1)兵士はどう戦わされてきたか
(2)ママはイラクへ行った

は、戦争がもたらす広範な社会的影響について、従来とは異なる、リアリスティックで、私たちの日常に隣接した問題提起をしたドキュメンタリーであったと思う。


Watch NHKã�¹ã��ã�·ã�£ã�«ã��æ�¦å ´ã��å¿�ã�®å�·ï¼�ï¼�ï¼�å�µå£«ã�¯ã�©ã��æ�¦ã��ã��ã��ã�¦ã��ã��ã��ã�� in ã��ã�­ã�¥ã�¡ã�³ã�¿ã�ªã�¼  |  View More Free Videos Online at Veoh.com

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 このドキュメンタリーは、まずは、アメリカ海兵隊の新兵訓練(Boot Camp)において、イラクの派兵された対テロ市街戦を想定した、ハリウッドの協力を得た、映画撮影さながらの大規模セットを駆使しての、戦闘訓練の様子から始まり、続いて、イラク帰還兵のPTSDの深刻な現状をダイジェストで紹介する。

 そして、古い記録映像を駆使して、戦場での兵士が、当時「砲弾ショック(shell shock)」といわれた、精神的な傷を背負い、戦闘不能に陥り、心身に深刻な後遺症を残すという問題が、第1次世界大戦の頃から注目されるようになったことから解説をはじめ、それが、第2次世界大戦の頃には「戦争神経症」と呼ばれ、更に、ベトナム戦争後、ロバート・リフトンによる帰還兵士への大量の面接記録から、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)」としてDSM-3(アメリカ精神医学会診断基準第3版)に記載されるまでの歴史を、コンパクトに紹介していく。

 そうした際に、日本の陸軍病院に残された膨大な精神科診察記録を元に、第2次世界大戦当時の日本兵においても、今日で言うPTSDと全く共通の症状と患者の生々しい証言が記載されていたことを紹介してもいる。日本軍兵士ですら、「支那人」ひとりを殺すことに、これだけナイーブな反応をしていたのだ。


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 このドキュメンタリーを観ていると、PTSDというのが、摩訶不思議な症状ではなく、そのときの環境に適応するために、高等哺乳類なら成熟に達しでも発揮する「学習」の過程の「後遺症」であり、パブロフ的な、実にシンプルな「条件付け」の結果として成立することが理解できる。

 帰還しても、大きな音が突然すると、戦場での爆裂音と時と同じように恐怖体験になってしまう。もはやそれは「ここは戦場ではない」などと頭で納得しようとしても、身体が条件反射を起こしてしまうことなのである。

 一見平和に見える通りや公園で遭遇する通行人が、実はテロリストであるという不安と緊張が、何かの弾みで止めようもなく生じて来る。

 これが繰り返しのパニック障害的な反応になるだけでも本人には苦しいのであるが、最悪の場合、「テロリストに包囲されている」という幻覚妄想状態になり、手にしていた銃で、銃弾を発射してしまうといった事件もまた、こうした「戦場での恐怖体験の刻印づけ」によるものとみなすとわかりやすい。

 DSMの診断基準の「統合失調症」の項の鑑別基準において「PTSDの条件には当てはならないこと」ということが特記されているのはこうしたためである。


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 特に、戦場で民間人を誤射して殺してしまったときの体験は、兵士の中で深刻に後を引く。

 多くの映画やドラマでは描かれていないが、人をひとり殺すということは、それだけで深刻なトラウマとなるのだ。

 第1時世界大戦初期の頃、兵士が戦闘場面でどのくらい実弾を発砲したかについての膨大な聞き取り調査がなされた。その結果、発砲経験がある兵士は、実際には2割いないという予想外の結果に軍は驚くこととなる。

 一般の兵士ですら、そのようにナイーブな存在なのだ

 そこで、その調査をした研究者は、軍に次のように提案する。

 兵士に実際に実弾を人に向けて発射することに慣れさせるためには、従来の、静止した的(まと)の真ん中を狙わせるような射撃訓練ではもはや意味がない。人型のシルエットを持った標的を、戦場を模した演習場に配置し、突如物陰から立ち上がり、命中したら倒れるという仕掛けにする。そうした標的を相手に反復練習させるなが望ましい....と。

 そうすれば、戦場で人影を観たら無意識のうちにも射撃するという「条件反射」が兵士の中に形成される.....とも。
 
 今日、映画やドラマで誰もがおなじみの射撃訓練のやり方である。


*****


 こうした訓練の改良の結果、朝鮮戦争時のアメリカ軍の前線の兵士の実弾射撃率は5割に達し、その研究者はアメリカ陸軍から勲章をもらうことになる。

 その後、ベトナム戦争において、一般民衆に紛れてゲリラ戦術を取るベトナム解放戦線相手の戦いの中で、いかに「戦争の大儀」を確信していた兵士でも、一般住民を誤認し、それこそ「条件反射的に」実弾発射、結果的に殺害したことで深刻な罪悪感に悩む兵士が続出する。相手の死ぬときの記憶映像や、近づいて一般住民と確認できたときの衝撃、その死体のむごたらしさの記憶などが、その兵士の脳裏に繰り返し繰り返し「頭に圧入されるように」よみがえることが止めようもなくなるのである。いわゆる「フラッシュバック」である。

 これもまた、高等ほ乳類なら、成熟した後でも、危機的な事態に体験したことだと、たとえ一回であっても身体に刻み込んでしまうという、生存本能に導かれた「刻印付け」なのだ。

 (飼い犬が、一度虐待して来た人間には、二度と決して愛想を向けなくなるのを思い出して欲しい)

 帰国後も、こうした罪悪感とフラッシュバック、突然の感情発作、抑うつなどに苦しむ中で、アルコールや薬物に手を出し、暴力や犯罪行為に走る帰還兵士が深刻な社会問題となる。良心的徴兵拒否者も増加する。

 こうしたベトナム帰還兵問題の深刻化の中で社会に高まる厭戦ムードと反戦運動の激化の中で 兵士の接近銃撃戦を回避し、上空からの爆弾投下などの戦術に切り替えないと、もはや兵士のなり手がなくなるという事態に直面しする。

 徴兵制も志願兵制に切り替えざるを得なくなり、当時独立した働き口に乏しかった女性の兵役志願、更には前線への派遣にも依存するようになる。

 更にアメリカは、トマホークなどのハイテクミサイル誘導兵器による攻撃に戦闘の主軸を移すことになる。

 ある意味で、帰還兵のPTSDが引き起こす社会問題が、アメリカの戦術そのものの変化を後押ししたのである。単なる科学技術の進歩の帰結などではないのだ。


*****


 ところが、9.11テロをきっかけに、戦争の様式が、再びベトナム戦争当時と同じようなゲリラ戦抜きには考えられなくなる。 

 そこで、アメリカ軍は、冒頭に紹介したような、一般人とゲリラ兵士を的確に識別するための、実戦さなからの訓練というところまで戦闘訓練を高度化するしかなくなったのである。

 こうして、母国での軍隊の訓練と現実の戦場との間で「条件付け」のいたちごっこが果てしなく続く。

 しかし、決して兵士による民間人の誤射がなくなるわけではない。むしろ、民間人とテロリストを識別せよということが絶対の軍規として兵士に教育される中で、誤射した兵士の罪悪感とPTSDの症状一層増幅するという悪循環が生じるのである。

 アメリカ軍はPTSDに陥った兵士の治療に力を入れるようになる。

 しかし、あくまでもそれは、そうした実戦経験のある兵士を再び戦場に送り出し、勇敢に戦ってもらうためなのである。

 兵士は、修理しては現場に戻される「ロボット」ななる。

 そうした動きに、精神療法や精神医療の一部も協力する。


 元々非人間的な状況に、あたかも健康人であるかのように適応できることそのものが、まさに歪みの蓄積に他ならないこと。


 ......これは、私が、自身の鬱体験と、鬱状態のクライエントさんとのカウンセリングの中で、深刻に直面した問題である。

 心理療法や精神療法の目的とは何なのか、深刻に考えさせられる。

 誤解なきように言えば、誠意ある治療者の行なう「行動療法」は、このようなものではない。単に自分を思ったとおりに「改造する」ものでもない、ましてや、他者を強制的に、自分たちの思う理想像に向けて改善するものでもない。私はそのことを山上敏子先生の行動療法から学んだ。


*****


 しかし、このドキュメンタリーを見る限り、兵士ではなくて、ひとりの一般市民としての日常の中での兵士のメンタルヘルス、夫婦や家族関係への影響という視点は、セラピー先進国であるアメリカですら、まだ現在手が行き届いていないように思えた。

 こうした帰還兵士の家族問題全体に積極的に介入する「家族療法的なアプローチ」が、ただの一例も、このドキュメンタリーでは描かれていなかったのである。

 現実には、帰還兵士自身やパートナー、子供、老いた親などの個人的な努力でこうした問題を切り抜けている例しか紹介されなかったのである。

(10歳の眼鏡っ娘の少女が、故郷へのお里帰りの際に、飛行機に乗ってパニックを起こしそうな予期不安を抱える母親を細かく気使うシーンを見ていると、私は、こうした「世代逆転」的な形で「娘が母親の母親役」を演じ続けなければならない家族関係は、この娘さんが将来アダルトチルドレンに育ってしまいかねないなと感じて、痛々しかった)

 しかし、そうした個人的な努力には限界がある。

 戦場から帰還して、一歳になる息子に愛情ある態度を取れなくなってしまったことに苦しんでいる母親の例が紹介されていた。公園での散歩の様子も描かれていたが、歩き始めたばかりの子供がちょっと石いじりをはじめるだけで、まるで新兵の行儀悪さをこまめに注意するような言葉をどうしても連発してしまう母親。

 彼女は、そのように振舞ってしまう自分に、本当は、涙ながらに深刻に自己嫌悪している。実際に子供を前にすると、理性ではとても統御できない振る舞いをしてしまうのである。

 しかし、彼女たちは、それを、あまりに不器用な次元での、「話し合いによる解決」で何とかしようとする泥沼に陥っている。彼女らの背後に、家族関係についてまで援助しようとする、専門的な援助的専門家がいる形跡が、全く感じられないのである。

 「愛している」と言葉では伝え、抱き上げる母親に対して、幼い息子の方は、決してアイコンタクトをしないようすが悲惨であった。


 この夫婦は、協議離婚の相談を始めている。

 恐らく、養育権は父親という形での。


*******

 
 日本において、PTSDが引き合いに出される場合、地震などの不慮の大規模災害の被害者や、 残虐な犯罪に巻き込まれた人の心の傷について論じるケースにのみ、ある意味で偏っているように思う。

 アメリカでのPTSD概念の確立の歴史は、第1次大戦、第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、9.11後のイラクヘの介入という、ほとんど途切れることなく続いた兵士の実戦への参加の中で、大量に生み出された帰還兵の精神状態の悪化が、犯罪や薬物汚染、DVを含む家族関係や子供の成長に大きな影を落とすという、「近所にいる誰か、友人の誰かそういう状態にある」という、一見平和な社会の日常に深く根を張った問題に結びついているからこそ、先進的な研究と対策の対象となりえたものである。

 どうもそうした背景については、日本の一般市民の常識のレヴェルには浸透していない。

 日本も、集団安全保障の観点から、自衛隊の海外派兵が更に広がったり、ましてや憲法第9条の改正がされたら、こうしたアメリカ社会の状況は、帰還した自衛官の社会復帰過程でそのまま日本社会でも現実化し、子供の成長から犯罪まで、深刻な社会不安を引き起こす可能性があるという視点など、今日、ほとんど論じられていないといっていいのではなかろうか。

 あえて言えば、海外派兵にほとんどの自衛官が関与しない現状においてですら、戦闘訓練の過程で、自衛隊員の心身にこうした問題が生じ、深刻な家族関係の危機をすでに引き起されている可能性など、あえて言えば、「闇に葬られている」問題のように思われてならない。

 その一端が、自衛隊員の自殺や、隊内でのいじめの問題としてのみ、今日語られているのではないか。

 例えば、駐留アメリカ軍兵士の婦女暴行等の問題を考える際に、もちろん、被害者の悲惨は言うまでもないが、単に「軍の規律を引き締める」ように要請するなどという次元を超えた、こうした深刻な問題が潜んでいる可能性について、論じられた記事を私は読んだことがない。

 ひとりひとりの生身の人間であり、親であり、パートナーの伴侶であり、家族の一員であるという視点から、兵士のメンタルヘルスをとらえ、社会問題として波及していく可能性というシミュレーションに目が届かないまま、戦争と平和について語られることの空しさを、このドキュメンタリーを通して感じた。


****


 昔、日本でも欧米でも、そうやって戦場でのトラウマで戦闘能力を失う兵士は、「根性なし」で「精神が弱い」人間であるとして蔑まれていた。

 実は今日においてもかなりの程度そのように思われおり、それは、子供や、企業で働く「戦士」としての、サラリーマンたちの不適応問題においても、無意識のうちに陥りがちな偏見であるように思われる。

 しかし、実は、そういう社会の中で一見適応的にやれて「生き残って」、見かけ上平穏な暮らしを送っている子供や親たちによって構成されている家族においても、隠れた形でそのひずみは蓄積して、さまざまな問題を引き起こしている可能性が高いだろう。


*****


 以下は、この番組を見た、アメリカへの留学経験がある知り合いから昨晩聞いたことである。

 その人は、ホームステイ先の近所に、同じように外国からの留学生(日本人ではない)のホームステイを受け入れている家庭があり、その留学生や、オーナーの家族ともつきあいがあったそうである。

 その友人の留学生のオーナーご夫婦は、二人とも退役した軍人であった。もっとも、戦場に出た経験はなかったという。

 夫妻は、たいへん親切でないい人たちではあったが、家に、十数丁ものライフルや銃が、人目に触れるところに陳列されていた、そして、当時まだ小学生低学年ぐらいだった男の子へのしつけの際の言動や教育方針が、何か「大人じゃあるまいし、そこまでこの年齢の子には理解し、やらせるのは無理では?」と、一抹の違和感を感じていたという。

 私の知り合いがアメリカから帰国して数年後、その留学生からのメールで、思春期になったその男の子が、自宅に並んでいたその拳銃で自殺したことを知らされたという。


*****
  

 これはひとつの例であるに過ぎない。引き付け過ぎかもしれないが、戦場での殺戮とは無縁で、一見問題がない両親であったとしても、兵士の家庭に、こうした「PTSDにならないままサバイバルできた」がゆえの、さりげない歪みが蓄積され、子供の成長に大きく影響していることも少なくないのではないかとも想像させるのである。 


******


 なお、このNHKスペシャルの前に、2008年8月にBS-hiで放送していた「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組に関して、モラルハラスト問題のカウンセラーである惠美さんが、ご自身のブログで、モラハラの家族力動と兵士のおかれた状況を比較する形で、たいへんまとまりのいい考察をなされているので、ご紹介します。

●録画してあった「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組をやっと見た (カウンセラーママの日々つれづれ)

 私は、この惠美さんの記事に触発されて、今回のNHKスペシャルを観ました。

 ここに感謝申し上げます。


*******


※ なお、私の専門とするフォーカシング技法とトラウマ治療に関しての序論的な紹介が、

●フォーカシングとトラウマについて
(The Focusing institute日本語版公式サイト)
http://www.focusing.org/jp/jp_trauma.htm

で読めます。


******

追記:

 敢えていえば、ここで私が書いたことは、家族内の暴力や性虐待、モラルハラストメントなどによって生じるPTSDをあまり扱っていないという点で誤解を招く難点があるかと思います。

 しかし、DVやモラハラ問題において、真の解決は、単に加害者を悪人視して、被害者の「救済」、加害者の「更生」という形で問題をとらえる段階を超えつつあるのではないかというのが私の認識です。

 自分の様々な心身不調が、DVやモラハラの加害者から受けた仕打ちの影響の元で生じたというメカニズムを理解することは治療的にも極めて大事でしょう。しかし、それが単なる「悪者探し」になるのだとすれば、それは明らかに反治療的です。

 被害者も、「加害者によって人生を狂わされた」という観点にのみとらわれ、自分の人生を築いていくことの妨げになる場合もあると思います。いわば「被害者」という「否定的同一性」が逆にその人のその後の人生を必要以上に支配してしまう危険があるのですね。

 もとより、被害者と加害者が互いに接触できないように緊急隔離することは重要ですが、それを単に「被害者の」保護という観点からのみとらえるのはおかしい。

 敢えて大胆にいえば、暴力を振るわざるを得ない加害者を、更に暴力を振るい続け、深刻な事態に陥る可能性から隔離するという、「加害者の人権保護」でもある筈です。

 DVやモラハラの「加害者」になってしまった側の人間の、その後の人生に対するメンタルケアの体制となると、現状はあまりにも立ち後れているといわざるを得ません。

 被害者と加害者の間に生じた相互作用の悪循環そのものをそれぞれに洞察してもらえる機会を提供し、別居・離婚後、別々に人生を歩みだすそれぞれのメンタル面をサポートするシステムの構築となると、あまりにもお寒いのではないでしょうか。

 すでに"Identified Patient"(見なし患者)という言葉が普及している中で、一見一番問題があるかにみえる人物、病的な状態に陥っているかに見える人物を、単にその個人の病理という観点からのみとらえて、治療していくことの限界については、今日、家族療法や応用行動分析の分野を通して、カウンセラーの間でも幅広く認知されつつあります。

 その病理的な人物が、その周囲の人間たちが一見「正常に」生きていくための犠牲になって病理を引き受けている可能性があるのです。

 病理そのものに生得的な要因や脳の器質変化がうかがわれる場合ですら、それによる「一次症状」に対して、家族や教師をはじめとする周囲の人間がどう関わるかそのものが、本人を更に不適応にさせ、「二次症状」を生み出し、更にそれが「本来の病理」と混同されていく可能性については、自閉症や学習障害、ADHD、更には精神遅滞についての臨床研究で重視されてきました。

 その「悪循環の連鎖」を断ち切るために、患者の周囲のいろいろな立場の人を含めた治療的なサポートが必要という認識が、今日専門家の間に広まって来ています。

 これは、統合失調症患者や鬱病患者の治療においても重要であることは、中井久夫氏をはじめとする現場精神科医によって、かなり早くから提唱されて、今日に至ります。

 ですから、ここでPTSDの「原点」である、戦場から帰還した兵士の問題に立ち返り、それが具体的な社会的相互作用の悪循環の連鎖の中で形成、維持され、家族を当惑させる中で「二次症状」化し、本人を追いつめ、むしろ社会問題を引き起こしているという可能性という視点を提供することは、たいへん大事なのでないかと思う次第です。

 反戦運動で、戦場から帰還した兵士を侮蔑するとしたら、その方が彼らを窮地に陥れるのみ。軍隊は、上官に絶対服従の世界です。そこから脱走しても、周囲は自分を殺そうとする敵ばかりかもしれない。

以前、個人サイトの方で、

●戦争には、「犠牲者」しかいない

という、ロバート・レッドフォード監督の映画「父親たちの星条旗」への感想でも書きましたが、戦場から帰還したひとりひとりの兵士に対しては、そういう意味で、労りと敬意を払うのが当然だと思うのです。

 英雄として祭り上げるのでもなく、俗世間への再適応に苦労する彼ら、彼女らを、「厄介者扱い」することもなく。

 彼ら/彼女らこそ、我々の代わりに罪を犯し、十字架を背負った人であることを、「銃後」の私たちは忘れずに!!


******


<9/23増補改訂の内容>

* 上記の「追記」の内容全体

* 若干の誤字修正

* 定着までに何十回もの刺激と反応の対提示を必要とするパブロフ的な「古典的条件づけ」と、一回の刺激対提示で条件づけが定着する可能性がある「刻印づけ」という用語法の違いについて、心理学の専門家でない皆様に誤解されないような、最低限の記述の修正。

(行動心理学、動物行動学、学習心理学の専門家の方へ:私はここで「刻印づけ」と「生得的触発規制」を、共通項も持ちつつも「別の概念」として認識しています。「刻印づけ」の中でも発達上の臨界期がない特殊ケースをここで問題としているのです)

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カウンセラーだって、人生に悩み、傷つき続けている

 そもそも心理の専門家を目指す時点で、自分自身の心の問題を意識していなかった人って、少数派と思うんです。

カウンセラーって「専門職」、かっこいい!! 

とか、

「人の役に立つ仕事をしたいけど、私は全然精神的に健康そのものなの。その心の健康を皆様にも分けてあげたいのよ、おーっほっほっほ!!」

だとか、

「カウンセラーになったら昼飯にビフテキが食べられるに違いない」

という思いからこの職を目指す人は少ない。

少なくとも、そういうことを期待すると、現実は全く異なるということぐらいは、いまや幅広く認識されていると思います。


****


つまり、カウンセラー志望者の多くは、他ならぬ自分自身が救われたいとか癒されたいという思いを、少なくとも心の片隅に感じながらこの業界を目指しての研修を始めている。

でも、現実はというと、大学院にはじまる、カウンセリングの研修の世界に入ることそのものが、俗世間と似たり寄ったりであり、なおかつ、俗世間の原理では理解不能な「人間関係」の世界に参入することそのもの

だから、その研修の世界に「適応」でき、何とか「サバイバル」できて、少なくとも博士前期課程を修了して、現場でのささやかな職や、臨床心理士の少なくとも受験資格を獲得した頃には、そういうカウンセラーの卵たちは、すでに、「カウンセラーの世界」という「社会への参入」だけで「満身創痍」であり、トラウマと歪みと新たなる悩みを抱え込みまくり状態で立ち尽くしているんだと思う。

この業界に入ったことで、自分はほんとうに自分自身についてですら,以前よりも「よく理解できるようになり」、「人とうまく関われるようになった」か?????

......No.

でも、もうここまで来たら、つぶしもきかないし、ともかくカウンセラーとして「食っていく」しかないではないか.....と、ぼろぼろな心と疲れた足を引きずりながら、前に進み始める.....

そんな人も多いと思うんです。

ユング派の巨匠、クッゲンビュール=クレイヴが「心理療法の光と影」で述べている言い方に従うと、私たちは皆、「傷ついた癒し手」としての、引き裂かれた元型のもとを歩んでいるのです。

その宿命と対峙し、格闘していく中から、治療者の力は高まります。

しかし、その過程で、傷ついていくばかりのカウンセラーを見るのも忍びないものです。

そうしたカウンセラーの皆様のお役に立てればとも思っています。

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2008年9月25日 (木)

「憧れ」から「ねたみ」、そして「うらやましい」と思えるようになるまで

私の場合、

単なる「憧れ」

から

「うらやましい」

「進化」するまでというのが、

実はかなりの「飛躍」を伴う、大事な過程だったのかなと思います。


単なる「憧れ」は

「とても自分はその人のようになれるわけがない」

が暗黙のうちに含まれている。

「私もそうなりたい」は、あったとしても小さな部分。

******

次のステップが「ねたましい」かな。

自分もそうなりたいけど、なれそうにない「悔しさ」から、心のどこかで、相手をむしろ何かのきっかけで足を引っ張り、自分と同じ地平に「引きずり降ろす」といいますか、化けの皮を剥ぎたがるといいますか(その「化けの皮」という「光背」をそのひとにかぶせて「理想化」したのはご当人なのに)。

「どうせああいう人たちは○○」なんだから

という、イソップの「酸っぱい葡萄」的「合理化」というか、「価値の引き下げ(dincount)」をはじめる。

これじゃ、

I,m not OK,
You are not OK

にはまり込んだことになる。

******

ほんとうに「うらやましい」って思えるためには、

「自分にも相手と同じようになれる資格があるんだ!!」

という、ひょっとしたら向こう見ずかもしれない「自己の可能性への信頼」がもてる必要があるのだと思う。

自分の相手へのジェラシー、「ねたましさ」の中に潜在している「私だってあの人のようになれるかもしれない」という思いを素直に肯定した時、

はじめてほんとうに心から、

「うらやましい」

と思えるんだと思う。

I,m OK
You are OK

の「うらやましさ」の境地に。

******

最近の私は、自分が自分にない何かを持っている人にモヤモヤした屈折した感情

(例えば、「つまらん学会発表しかしてないのにどうしてこの人が大学教授なんだ!!」とか(^^;)

を感じた時、

そうか、私はこの人が「うらやましい」わけだ!!

とあっさり「認知の再構成化」をはかることを習慣にしています。

そうすると、むしろその人の学会発表の「いい点」についてコメントしたあと、いわば「修正意見」として、欠点をさりげな~くgentleに「付加的に」述べる、みたいなオトナの態度かとれ(^^;)、

「うーむ、こいつ鋭いところをさりげなくついてきているが、私の体面はつぶさなかった。こいつのことはどこかで覚えておこう」

とかなったりして。

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無遅刻無欠席の哲学科学生だった私が「カウンセラー」になった途端に一度見失ったものとは?

私が大学の学生相談をしていた頃、非常に頻繁にうけた相談の一つは、

「友達ができない。まわりの連中はお互いにノートの貸し借りとかをして試験を受けているのに、自分はノートを『貸す』側にしかまわったことがない。大学のどこにいても『居場所』がない」

などというものでした。

実は私もそのタイプで、学部生時代、知り合いの代理で一日だけ国際交流の催しに出た1日を別にすると、
何と「無遅刻無欠席」で4年間を過ごしました(^^;)

しかも、教室が開いている限り、早い時間からその教室で過ごすのが恒例だったので、講義開始直前になっても私が教室にいないと、「休講掲示」が出ていないかとマジで掲示板を見に走る学生もいたとか。これは同期生の間ではささやかな「伝説」と化しています。

当然、成績はAが多かったです。だいたい、他人の書いたノートなんかを読むだけでテストでいい点が取れる奴らもいるというのが信じられなかったですが。

それなりに友達はいました。いつでもつるんでる友達も2人いました。

でも、周囲の学生たちの「恋愛談義」とかになると全然入ってはいけず、そういう自分にものすごい劣等感を感じていました、そして心理系の読書や音楽やアニメやオーディオの世界に没頭していたんですね

ちなみに、学部は法政の哲学科です。
専攻は「記号論理学」、ウィトゲンシュタインでした(^^;)

今から振り返れば、ある意味で、何とももったいない4年間の使い方だったかな、もし、「今の私」が今の私の経験値と感性のままで人生やリ直せるなら、自分からもっと幅広い経験をして、いろんなタイプの友達とも付き合い、恋愛と幾つかもしたかなとも思いますが、でも、決して「後悔」はしていません

******

学生相談を始めたばかりの頃は、私は最初のような相談に対して、もっぱら「友達ができない孤独感や劣等感」に共感ばかりしていた気がします。

でも、その学生の劣等感や孤独感の更に奥深くにある、

「普通に周囲と楽しくやれている学生たち」

に対する

ものすごい「嫉妬心」

や、

ほとんど「怒り」の域に達した、

「のけものにされているかのような思い」、

自分は「普通の人間」にはなれない、

社会人としてもやっていけないのではないかという「絶望感」

まで汲み取ってあげていたかなという反省があります。

*******

私自身、ともかくも「カウンセラー」という職業に就け、

「一人前の社会人のふり」

ができるようになった段階で、

本当はその「カウンセラー」という

「外面(そとづら)」

の背後に、あいも変わらず深刻な形で存在する

圧倒的な疎外感や

他人への「逆恨み」的攻撃性(=ねたましい)

が隠れていることに自分で直面できなくなっていたんですね。

カウンセラーが、自分で直面できてもいないものについて、クライエントさんに真の共感を向けられるはずがない。

******

それが、前の記事で書いたような次元での「うらやましい」につき抜けるまでは、更に数年要したわけです。

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相談に来た方の話を「受容しよう」と「がんばる」ばかりのカウンセラー

特に、カール・ロジャーズのクライエント中心療法的なカウンセリングの教育を受けたカウンセラーの陥りがちなジレンマは、

クライエントさんを受容しよう、しようと「がんばる」

ばかりとなり、

クライエントさんを「受容できない」カウンセラーとしての自分を、まだ「未熟だ」と責め苛(さいな)む悪循環にはまりやすいことです。

これが、もともと、他の人の顔色を伺い、本音を出せず、自分の気持ちを押し殺して順応する傾向が強かった人がカウンセラー修行を始めた場合、どうにもならない行き詰まりを生み出すことがあります。


私は、


カウンセラーの、クライエントさんへの共感的理解とは、『努力』して『達成』するものではなく、

カウンセラー自身が、

ありのままの自分=ありのままの「世界」

に開かれていれば、『向こうから自然とやって来る』ものではないか


と感じ始めています。


*******


このように言うと、少しカウンセリングを勉強した人だと、


受容、共感だけではなくて、カウンセラーが「自己一致」していること、

つまり、自分の経験と感情に開かれた、自分に正直でいられることと両立しないとならない、

とは、ロジャーズが「治療の3要件」として述べている。

そのことでしょ?」


とお感じかもしれません。


なるほど、私は、これまで言い習わされてきた言い方で言うところの、

「カウンセラーの自己一致」

「共感」「受容」のジレンマという問題について述べているつもりです。


では、現実のカウンセリング場面で、カウンセラーとしての「あなたにとって」、自己一致する、とは、どのようなことですか?


例えば、クライエントさんの語ることがあなたにとって不快なときに、


「あなたのそんな話を聴いていると嫌な気分になります」


と告げることですか?

それをやったら、今度は「受容」の方の条件が満たされなくなりますよね?


「自己開示」

という言葉が最近安易に使われる傾向がある気がします。

私がこの言葉がうさんくさくて大嫌いだ、ただの美辞麗句に過ぎないと感じているんですね。


ひとは「そこにーいる」というだけで、すでに自分の存在を世界に曝(さら)しています。

これは以前、心理臨床学会での青山学院大学の北村文昭先生「カウンセリングにおける身体性」と題するご発表で、アフォーダンスと関連付けて述べられたことを会場で聞かせていただいた私が報告した時にも、北村先生自身のご発言からを引用したとおり、

「『非』言語的コミュニケーション」とは、ほんとうは「顛倒した」言い方であり、「身体性を持ってそこに存在し続けている」カウンセラーとクライエントさんが、まず先に「そこに-共にーある」

ここからは私の感想も入りますが、カウンセラーとクライエントさんの「言語的相互作用」なんて、その身体性の上に「乗っかってる」やり取りに過ぎないわけですね。

敏感なクライエントさんは、カウンセラーの語る「意味内容」と、声の調子やそぶり、漂わせる雰囲気が「一致していない」ことを、何となく察知しているものです

もとより、クライエントさんによっては、すごい、歪曲された形でそれを「意味づけ、カウンセラーの『本心』を決め付けてくる」ことも多いのですが、それはクライエントさんの生育暦や素質のせいばかりではなく、その火種は、必ずカウンセラー自身も、たいてい「見え透いた、形だけの、薄っぺらな受容」という形で蒔いています。

私は、クライエントさんが、えらく根の深い、ある種のボーダーライン性や妄想性を持つ場合は、「薄っぺらの」受容、あるいは「無理を重ねた」受容しかしなかった「歴代」カウンセラー、精神科医によって、「引き出され」、「増悪された」繰り返しの結果の可能性があると思います。

だから、私は、みゆきの中島みゆき/Singles 2000「空と君のあいだに」を引き合いに出して、


> 君の心がわかると、たやすく誓える男(=カウンセラー)に
> なぜ女(=クライエントさん)はついていくのだろう、そして泣くのだろう

といいたくなるわけです。


*****


では、私の考える、実際の臨床現場での、真の「受容・共感」と「自己一致」との共存とは何か?

それについては、続編で論じます。


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「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)

さて、前回の、カウンセリング場面で、クライエントさんを受容・共感することと、カウンセラー自身が「自己一致」していることをどうやって両立させていくかについて、私がカウンセリングの現場で用いている技法について具体的に説明していきます。


まずは、「共感的理解」についての、私なりの入門講座からスタートします。


*****


私は、「共感」ということは、一般に考えられているより、はるかに精緻な事柄と思っています。

これは、すでに"7.11 Asega Doctrine"のなかでも、その中の「プロ・カウンセラーの第3の条件」として書いていることにもつながるのですが、

例えば、恋人に振られて「傷ついて」いる人がいるとして、その人に「共感的理解」を示すとは、とういうことを指しますか?


1.同情深げに、ともかく相手の話を「うん、うん」と聴いてあげることでしょうか?


なるほど、自分の意見を差し挟まずに、まずは相手に話したいだけ話させてあげること、それは「受容的傾聴」の基本です。

現実の友人関係とかでは、相手の話途中でさえぎって自分の意見を述べたり、

「あたしの場合はね~」

......とかいう調子で、「自分の」失恋談義に「すり替えて」しまう(^^;)とかが普通です。


カウンセラーは、まずはそういう聴き方を「超える」ことができねば「存在意義」はありません。


ただ、できれば、一方的に、「うん、うん」というだけで延々黙って聴いているのではなく、

時々、「クライエントさんの身になって」、自分の解釈や意見を差し挟まずにクライエントさん自身が使ったキーワードはそのまま大事にしながら、要点だけでも「伝え返し」をして、カウンセラーの理解と、クライエントさんの伝えたいことにズレが出てきていないかを照合することは大事です。

今、「クライエントさんが使ったキーワードはそのまま大事にしながら」と書きました。

例えば、クライエントさんが

「悔しくて」

という言葉を使ったところについて、カウンセラーが不用意に、

「腹が立って」

置き換えてしまうのは、実質的には無害なことも多いですが、時には、それだけでも、いつのまにかクライエントさんとの間に気持ちの溝ができてしまうこともあります。

ただし、こういう「言い換え」の微妙な危うさ、カウンセラーが体験的な実感として理解していないうちに、ただ「相手の言ったことをそのまま『鸚鵡返し』する」ようなことをドグマのようにカウンセラーの卵に教え込むのは、クライエントさんにカウンセラーが、非人間的な、ただの「鸚鵡返しロボット」のように感じさせてしまい、話を「聴いてもらっている」気がしない状態に陥らせる危険があります。

カウンセラーは、クライエントさんの気持ちに「触れようとする」という基本姿勢を失ってはならず、言葉の上での「理解」や「言葉の返し方」の技術講座になっては意味がありませんから。

この辺の勘所をつかむには、カウンセラーがフォーカシングをフォーカサーとして学ぶ経験を積み上げると、その「塩梅(あんばい)」が体験的に身につきます。

一言で言えば、カウンセラーがクライエントさんに同じ言葉で伝え返しをするのは、クライエントさんにその言い方で自分の実感にぴったりか照合してもらうためだけではなくてカウンセラー自身が、自分の身体にそのクライエントさんの言葉を発声しながら「響かせる」ことによって、クライエントさんへの「感情移入的なフェルトセンス」カウンセラーの中に「擬似的に」喚起するための手助けである、と私は考えています。

このことはたしかすでに治療者にとってのフォーカシング「現代のエスプリ 治療者にとってのフォーカシング」のどこかで私は書きました。

*****


2.「共感的理解」とは、クライエントさんの失恋体験とカウンセラー自身の失恋体験と重ね合わせて、その傷つきを共有することでしょうか?

カウンセラーとクライエントさんの心は、パソコン同士がネットワークでつながっているようにつながっているわけではありませんので(^^;)、クライエントさんの感じている「傷つき」を、カウンセラーに「転送」するわけにはいきませんよね。

その意味では、カウンセラーは、クライエントさんの話の内容や話しぶり、声の調子、身体言語などから受け止められるものを、自分の想像力と感受性を総動員して、自分の過去の類似の体験の時に自分がどんな「感じ」になったかとも重ね合わせながら「擬似的に」追体験しようとするしかありません。

場合によっては、クライエントさんが振られるまでの、具体的なエピソードとか、その時その時の思いを、さらに詳しく話しをしてもらうように、クライエントさんに促さないと、カウンセラーは、十分なリアリティと臨場感のある形で、クライエントさんの失恋の傷つきを「追体験」して「感じ取ろうとする」ことはできないかもしれません。


*****


しかし、忘れないでくださいね。

どこまで行っても、カウンセラーの「失恋体験」と、クライエントさんの「失恋体験」は、別のものだということ。

 今や日本を代表する精神分析の大家となった、九州大学の北山修先生が、かつてはフォーク/歌謡曲の世界で大作詞家であったことをご存知の方は少なくないかもしれません。

 先生の著書に「幻滅論」という著作があります。

 先生は、この著作の中で、浮世絵に多い、母と子が同じ月を見上げ、子が月を指差しているている構図に注目し、「共同注視」という概念を提唱されています。

 そして、(まさに北山先生の特権、独壇場と申し上げる島ありませんが、自作の杉田二郎&因幡晃 - SHAKE THE MUSIC LIVE ~杉田二郎&因幡晃~ - あの素晴しい愛をもう一度「あの素晴しい愛をもう一度」の歌詞を引用されています。つまり、


あの時 同じ花を見て 美しいといった二人の


感じていた「美しさ」すら、実は「同じ」体験ではないのかもしれない。

それはひとつの「共同幻想」、「錯覚(illusion)」なのであるが、人間にとって大事なものであると。


恋する二人においてですらそうなのです。

まして、カウンセラーであるあなたの「花(恋愛体験)」とその人の「花(恋愛体験)」は別々のものでしょう?

でも、カウンセラーがそのことを謙虚にわきまえながら、なおも、クライエントさんの失恋体験の話を共感的に傾聴し続けている時、クライエントさんの間に、ある独特の「絆」が生まれ始めることが多いのは確かです。

******

次回は、この、受容と・共感的理解が、できなくなって行く方向に追い詰められていく、現場カウンセラーの赤裸々な現実を暴露しましょう。

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2008年9月26日 (金)

カウンセラーは、クライエントさんの話を「受容・共感」できない方向に、徐々に追い詰められていくことも多い

さて、カウンセリングにおける受容・共感についての入門編であった前回の続きなんですが。

受容・共感していくつもりで話を聞いていくと、カウンセラーであるあなたは、必ずといっていいほど、途中で、ある葛藤と壁にぶつかります。

クライエントさんが、あなたが受容も共感もしにくいことを話し始めるわけです。

例えば、やや極端な例で言えば、

「死にたくて、その方法を色々考えているんですよ」

「実は、私は同姓のほうを好きで、性転換手術を真剣に考えてお金を貯めています」


なんてその典型です。

そこまで行かなくても、

「大学を辞めてしまいたい。この大学の人たちってちゃらちゃらしている奴が多い。あんな連中ばかりじゃ友達もできない。授業も退屈で。やはり第一志望だった大学に入りなおそうかと、仮面浪人を考えています」


なんて話を聴いていたら、あなたの中に、思わず


「どこの大学だって似たようなものだよ」
「友達ができないのは、あなたの受け身な性格のせいもあるのでは?」
「まじめな学生や、いい先生とまだめぐり合えてないだけだよ」
「友達が大学でできなくったって、バイト先とかでいい友達にめぐり合えればいいじゃないか。実際私はそうだったし」
「辞めることで高い入学金や授業料、アパート代とかを払ってくれた実家の親に申し訳ないと思わないのかしら」



などなどという、いろんな思いがあなたの中を駆け巡り、それが、

「クライエントさんの言うことは、まずは『受容・共感』して聴いてあげないと」

という、カウンセラーであるあなたの中のドグマ(「カウンセラー教」の、神聖にして犯さざるべき「絶対的教義」)葛藤を起こし始めるかもしれません。

*****

こういう時、とりあえず無難な切り抜け方は、

カウンセラーとしても受容・共感しやすい切り口から、クライエントさんに更に詳しく話してもらう方向に促すことです。

「そんなに死にたくなるようにつらいんだ。そのつらさについてもっと話してくれる?」
「自分が男(女)であることへの違和感って、どういうあたりから感じ始めたの?」
「授業がつまらない、って、たとえばどんなふうに?」

こうやって、クライエントさんに事情や状況を更に詳しく話してもらうだけで、クライエントさんがそれまで語っていなかった、カウンセラーにとっても予想外の、受容・共感しやすいエピソードが語られ始めることも少なくありません。

*********

しかし。こうした「更に詳しく話を聴くこと」で、クライエントさんに共感しやすい接点が見つかる場合ばかりとは限りません。

聴けば聴くほど、いよいよ受容・共感「しにくい」話を繰り広げ始めるクライエントさんも沢山います!!

あるいは、前回の面接で、理解しあえる接点が見つかったと思ったら、次の面接ですべては振り出し、ということもあります。

例えば、今度は、自分がどのように死のうとしているかについての具体的な計画をいよいよ延々と具体的に話し始めるかもしれません。

カウンセラーとしてのあなたは、正直うんざりし、無力感すら感じながら、

それでも「負けてたまるか!」とばかりに、

(おいおい、あんたはクライエントさんと「勝ち負け」争ってるわけ?)>

「このクライエントさんを受容・共感してみせる!!

という使命感に燃え

表面上はニコッとした優しい顔で、

がんばって話を聴き続けるかもしれません(^^;)

あるいは、

「こういう『希死年慮』が強いクライエントさんは精神医療との連携を考えるべきである」

という方向に一気に考え出すかもしれません。

(半分皮肉なの、わかりますよね)

*******

なにか、こういうあけすけな次元で、カウンセラーの葛藤をリアルに書いた文献ってあまりない気がしてきました。

次回、請うご期待!!

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自分が相手に共感できて「いない」ことを「自己『共感』」すればいいのだ!!

さて、「受容と共感」と「自己一致」の相克シリーズ前回の続きです。

前回は、クライエントさんを受容できなくなっていくカウンセラーの内面を赤裸々に暴露しすぎて(^^;)世間一般の人へのカウンセラーが人格者であることへの幻想を打ち砕き、がっかりさせてしまったかもしれませんが、

カウンセラーは「聖人」ではありません!!

むしろ、普通の人がプロとしての職人芸を磨いたものなんです。

むしろ、その「職人芸」の実際に感心してもらえることを私は目指しています。


****


実は、前回書いたようなところまで、カウンセラーははっきり「自覚しないまま」、ただ、やみむもに、我を忘れてクライエントさんを受容しよう、しようとがんばっていることが多いんですね。

だから、このブログをお読みのカウンセラーの皆様も、私のコメディタッチのカウンセラーの内面描写を、むしろ爆笑しながら


「そうそう! そうなんだよな~」


と、それこそ「共感しながら」読んでくださったものと信じます(^^)。


*******


では、どうすればこのジレンマから抜け出せるか?

答えはある意味でシンブルなんですよ。


「カウンセラーとクライエントさんは、自分と別の人格を持った個人なんだから、相手の言うことにすべて共感できないのは当たり前だ


という前提に立つことです!!


ただ、普通の人と違うのは、そうやって「相手に共感できない自分」「対象化」して、「自分の中にもそういう『共感できない』部分が『いる』」ことを、共感を持って(爆)、静かに「自己受容」するスキルを磨ける、という点にあります。


「今私は、一方で、クライエントさんの気持ちに寄り添って理解しようとしている、そういう『私』の気持ちって、当然だよな、『共感』できる」

「でも、もう一方で、クライエントさんの言ってることに、むかつき始めている。そりゃ、前回に続いて、今度はどのように死にたいかまで詳しく話し始めるんだものな。『こっちが必死に心配しているのに、何だこいつは』といらだち始める、『もうひとりの私』がいて、これも当然だし、『共感』できる


この時点で、カウンセラーは、自分の気持ちに正直になれています。

つまり、「自己一致」できているんです!!


*****


不思議なもので、カウンセラーが、そうやって、自分の中の『二人の自分』の両方に共感できた時点で、カウンセラーの気持ちも楽になり、心にある種の余裕すら生まれます


「ま、あとしばらく、クライエントさんの言い分を聴いていると、共感の糸口となること、話してくれるかもな」


・・・・・・驚くべきことに、これはそれから「数十秒から数分のうちに」、現実になることが多いです!!

クライエントさんが、それまで話していなかった、予想外の話題を突然話し始め、それを聴いたら、以前より、クライエントさんの心境に、実際、「共感」しやすくなるのです。

面白いのは、クライエントさんの側には、そんな重要なことを話したという自覚はなく、「何となく」話題をそちらに向けたという自覚しか、少なくとも当初はないことです。

しかし、その「何となく」の「余裕」を、クライエントさんに生み出したのは、実は、さっきまで「受容できないものを受容しようと必死にがんばっていた」カウンセラー自身が、さっきのような「自己共感」の段取りを内面で進行させて、「余裕」を取り戻したことが、カウンセリングの「場の雰囲気」を通して、クライエントさんに「空気伝染」したからではないかと、私は考えています。

「空気伝染」というのは、半分ジョークですが(^^;)、人と人とは、非言語的な「気配」でコミュニケーションしている部分が、実は一般に思われているより大きいのではないかと思います。

早い話、カウンセラーが「強情なまでにがんばって」話を無理して聴いていたら、クライエントさんも「強情に言い募る」と思いませんか?

***

さて、次回は、このカウンセラーの「共感できない自分」の自己受容を、さらに積極的に「活用」して、面接を生産的にするコツのことを書きましょう。そこまでくると、カウンセラーとしては「中級編」の技能に属することですが。

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クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと

さて、ここから延々続いてきている、「受容・共感と自己一致の相克」シリーズ、前回からの続きです。

*******

前回、クライエントさんに「共感しようとがんばる『自分』」と「共感しようとしても感じられる、違和感や苛立ちなど、クライエントさんに対して生じてくるnegativeともいえる感情を抱く『もう一人の自分』の両方を、カウンセラーが、自分の中でどちらも「俯瞰して」眺めて、「対象化」し、

「どちらの気持ちも自然だよなあ、『共感』できる」

と静かに自己受容、自己『共感』して見つめる第3の視点を確保できるだけでも、カウンセラーの中の葛藤は静まり、それこそまさにロジャーズの言う「自己一致」そのものなのではないかと述べ、

そういうカウンセラーの自己一致の達成は、カウンセラーが何も言語化しなくても、カウンセラーの非言語的なメッセージや態度が、2人の「場の雰囲気」を通して「空気伝染」し、数十秒から2,3分の沈黙の後に、クライエントさんもそれまで自分を縛っていた「何か」ほどけ出して、ほとんど無意識のうちに、本人自身それまであまり重大と考えていなかった、一見話が脇道にそれるような形で、むしろカウンセラーがクライエントさんに共感を深める上で結果的に決定的ともいえることを語り始める中で、二人の絆が深まる糸口が見つかることが実は多いということを書きました。

(これくらい「前回のあらすじ」をここで書いておかないと、ちょっと時間が空きましたものね)


******

さて、このことの応用形として、カウンセラーとしては「中級篇」かもしれないことを次に書くと約束していました。

「中級篇」というのは、ここまで私が書いてきたことを全く自然なものとして面接現場でできるようになる前に、以下のことにチャレンジすると、一見似たようなことができたかに見えて。実はクライエントさんにはまだ早すぎる「勇み足」となり、弊害がでることもあるからです。

「『害がない』ことこそが一番の治療である」

確か中井久夫先生神田橋條治先生が繰り返されてきた「逆説的」名言です。

あまり新しい技法の活用への「色気」に乗らないことです

私の中には、実は、この「色気」に屈しようとしている時の自分への厳しい「嗅覚」があります。

.......ということはその「色気」に屈して、痛い思いをしたことが私自身何度となく重ねてきたからこそ成立した「嫌悪条件づけ」のようなものが出来上がっているに過ぎないということなんですが(^^;)。

逆に、

「おい、ここでそんなことクライエントさんに言って大丈夫かよ!!」

と私の内なる声(内なる「批評家(critic)」とフォーカシングの世界では言います)がどれだけかびすましく、一見合理的な理由付けで引きとめようと、私のはるか上空から、

進め!

絶対命令が聞き取れたら、「御心のままに」一気に突っ走る、そしてそういう時はなぜか失敗しない、「ジャンヌダルク」こういちろうなんですが(^^;)

(ミラ・ジョヴォヴィッチ主演、リュック・ベッソン監督の「この」映画は、カウンセラー、特に精神分析系の人にはお勧め!!)


*****


などと余計な薀蓄はこれくらいにして、その「中級篇」の具体とは?

クライエントさんに共感できない自分を「もう一人の自分」として「内なる<第3の視点>から」、静かに「自己共感」するところまでは同じです。

次に、そこで感じている自分のクライエントさんへの「共感できなさ」のモヤモヤした感じに、感覚的にぴったりの手短なことばをじっくり捜します。

「え? それって、面接の最中に、カウンセラー自身が自分の内面にフォーカシングはじめちゃうわけ?」

そういうことになりますが、フォーカシングを一人フォーカシングが自分の現実生活に役立つぐらいにまで身につければ、あなたも必ずできるようになります!!

(クライエントさんとの話が沈黙に入った瞬間でもいいですが、慣れてくると、クライエントさんの話を聴き、伝え返しをすることをしながら「マルチタスクで」このことをできるようにもなります)


例えば、その結果カウンセラーの内面に浮かび上がってきたぴったりの言葉が

「いらいらする」

だったとしましょうかね。

カウンセラーも、クライエントさんの発言に「いらいらする」ことがあるのだ、とここではっきり書いてしまうことそのものに反感に近いものすら感じる方が、同業者の中にもあるかもしれません。しかし、私は、いわゆる「カウンセラー的な」、やさしく、美しい、達観して、人の心のことなら何でもわかっているような言葉を書き連ねるあり方そのものが大きらいなもので。むしろ「自分を含めて、人の<心>とはそんなに容易にわかりえない"something"だからこそ、生きた生身のひとりひとりの人間に宿る、尊重に値するものと思っています。つまり「わからない」「共感できない」「理解できない」ことを自分の中で認めるところから、はじめて、自分や他者の<心>に寄り添い、交流する糸口が生まれるのです。)


さて、

「いらいら」しながら話を聴いているカウンセラーとしての私がそこにいる。

ある意味では、クライエントさんに「いらいら『させられて』いる」と感じている私がいる。

その「いらいら」をクライエントさんのせいにする(attribute)形で決め付けるのはよくないのはいうまでもあるまい。

「この人、やっぱり『ボーダー』ね。こうやって治療者を巻き込もうとする」

・・・・・なーんて内側で連想する「気休め」はじめるカウンセラーなんて最悪ですね。

その瞬間に、上っ面はどんなに受容的でも、カウンセラーである「あなた」の体が発散する「気」が、クライエントさんに「見捨てられ体験」をひきおこしはじめていたりして(などと、少し「中級篇の」皮肉^^;)

****


1.しかし、「この」クライエントさんが、「私」をいらいら『させる』形でしか、今は私に伝える術(すべ)をもたないのだとしたら?


そういう発想をするだけで、また少し、カウンセラーである私の中に、少しの「心の余裕」が増加します。

******

2.次に、

ひょっとしたら、「この」クライエントさんは、

家族や親しい友人やそれまでのカウンセラーとも

私が今、「こんなふうに」感じているような形で、

相手を『いらいら』させる結果、関係が悪化するという

「堂々巡り」

をしてきたのではないか、


仮定して、感じてみる。


これでまた、カウンセラーの中に、クライエントさんへのむしろ「同情心」すら感じる余裕が、さらにできます。


*****


3.更に、


「クライエントさんが、こんな不器用なやり方で、まわりに伝えたいのに、結局果たせないで来た<思い>って、何だろう?」

と、クライエントさんの「身になった」感情移入的フォーカシングを虚心にしてみる。

例えば、


『わがまま』?


........うーん、何か違う。


『頑(かたく)な』?


........お! かなりいい線行ってるけど、あと一息欲しいナア.........


『頑固』


........うん、こっちの方がいい!!

たいてい、カウンセラーの中でほんとうにしっくりくる言葉は、こうした、2,3回の試行錯誤の過程で出て来るんですよね(フォーカシング一般がそうですけど)。

次に、そういう試行錯誤のプロセスで「棄却された」言葉すら活用する!!


*****


4.なぜ『わがまま』ではだめで、『頑固』だとOKなんだろう」

と、カウンセラーは再び自らのフェルトセンスに問いかける。


「..........『頑固』っていうと、何か、本人が自分の意志で、石のように動かない、っていうエネルギー溢れる「何か」が含まれている気がする。そういう含蓄は『わがまま』だけでは感じにくいような........」


実はこの「ぴったりの言葉を捜す過程で棄却した言葉(ここでは『わがまま』)を、最終的に選択した言葉(ここでは『頑固』)と比較する形で味わい、最終選択した言葉の固有の含蓄を更に深く見出す技法は、私もまだ既成のフォーカシングの技法書では読んだことがありません。

これを機会に『差分的照合』と命名し、著作権主張しておきますか! (c)阿世賀浩一郎

もっとも、この技法の先駆に当たることは、他ならぬ私自身が、13年も前の駆け出しの頃に「学会誌処女原著論文」でに書いているのですが。

(「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 人間性心理学研究  第9号 1992 研究業績目録参照)


******


5.こうした比較の中でさらに鮮明に浮かび上がった、この『頑固』という言葉ではじめてしっくりくる固有の感覚の質を、カウンセラー自身の身体に、そして面接現場の場の雰囲気に響かせるつもりで味わう。


......まあ、面接のやり取りを進めるただ中で(!)、カウンセラーが、こうしたことをマルチタスクで、あるいは沈黙の中でのショートフォーカシングとしてやっていたら、それは「場の雰囲気」として「空気伝染」して、そのころにはクライエントさんとのやりとりは、「どういうわけか」生産的なものに変化しているでしょう!!

『頑固』という言葉そのものは結局クライエントさんに語られないままなのです。


仮に言葉にするとしても、それは、ちょうどいいタイミングがくるまで、「クライエントさんに無理なく伝わる言い方」を更にフォーカシングして探して、暖めておきます。

それは例えば、

「あなたの話を聴いていたら、あなたの中に、どうしても守り抜きたい『何か』があって、それを、デン!と座って、必死にかかえて『守って』いるような気がしてきたんだけど」

という言い方になるかもしれません。


思わす、これを書いている「今」、ayuの、


> ガラクタを守り抜く腕は どんなに痛かったことだろう
> 何を犠牲にしてきたのだろう


と、

浜崎あゆみ/A BALLADS "TO BE"

の歌詞が思わず浮かびましたが、

私はこういう時、


「あなたayu知ってるかな」


といって、一節歌ったりするんです。

すると、思わす目頭を熱くし始めるクライエントさんも、時にはいます。


*******


以上、実はすべて、過去の経験からシミュレーションした、「架空の例」です。

そっくりそのまま「ああ、自分とのカウンセリングだ」と当てはまるクライエントさんはいないはず。

でも、自分とのカウンセリングも、「これに似た」形で進められていたのかな、と、思い返すクライエントさんは少なくないかもしれませんね。


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面接中、クライエントさんは、カウンセラーに対して「感情移入的理解」を向け続けている!!

 このタイトルだけで、

............え? あ? ん?

    何と言う人を食ったことを!!

と、一瞬の「沈黙」を経て、思えた人は、カウンセリングの基本的な勉強をなさった皆様です(^^)

 一般の皆様向けに説明しますと、日本でカウンセラー教育の基礎の基礎として今でも、多くの場合、大事にされている(はずな)のが、来談者中心療法の祖、カール・ロジャーズ(我がフォーカシングのジェンドリンの「共同研究者」です)が言い出した、

  「セラピーの三要件」

と呼ばれるものです。


*******


その、ロジャーズのいう、「セラピーの三要件」とは、

.
1.クライエントさんへの「無条件の肯定的関心(unconditional positive regard)」

2.クライエントさんへの「感情移入的(empathic)理解」

3.カウンセラー自身の「純粋性(genuinness)・自己一致(self congruence)」

のことです。

******

 さて、今、ここで問題にしようとしているのは、この3要件のうち、2番目の、

       「感情移入的(共感的)理解」

ですね。

 ロジャーズは、これについて次のように注釈しています。

「ここでいう『感情移入的』理解というのは、あたかも(as if)その人(=クライエントさん)であるかのように、という状態を失わず、(いわばクライエントさんの感情に巻き込まれることなく)、クライエントさんのパーソナルな世界を、セラピストが感じようとすることである」。

 これを、フォーカシング指向心理療法ふうにいいかえれば、

「クライエントさんが、自分で内側に注意を向ければ感じているであろう漠然とした曖昧な感覚(=フェルトセンス)は『どんな感覚』なのかそれ自体を、カウンセラーは『擬似的に』自分の身体で感じてみようとするようなつもりで傾聴すること。しかし、それを、面接のその場でカウンセラー「個人が」感じているフェルトセンスと混同せず『感じ分ける』こともできなばならない」

となるかと思います。

 (これだけで、

「あ、勉強になりました。フォーカシングとロジャーズ派カウンセリングの接点は「そこ」なんだな、とはじめて気づきました」

と感じていただける臨床系の学生さんや、勉強を深めておられる現場カウンセラーの皆様がおられると、私は光栄に思います。)

 ちなみにここまでのことは、このブログで、「受容・共感と自己一致の相克シリーズ」という連作で、もっとかみくだいた言葉で書いてみてますので、その第1回はここからです。ご一読ください。

******

さて、ここでもう一度、今回の記事のタイトルに戻りましょう。

面接中、クライエントさんは、カウンセラーに対して「感情移入的理解」を向け続けている

というのが、専門家が読んだら一瞬ぎょっとする「逆説」的問題提起だということは、これで、ある程度幅広い層の皆様にも理解していただけるかもしれません。

でも、よーく考えてみてくださいね。

    面接の、少なくとも初期2,3回の段階で、
    「相手に気を使い」
    「相手にどう思われているのかに注意を向けている」
    のは、
    カウンセラーと、クライエントさんとの、
    どちらが強いでしょう??

 おそらく駆け出しのカウンセラーの頃を別にすれば、たいていの場合、

    クライエントさんの方が、
    カウンセラーに『ほんとは』どう思われているか

に、戦々恐々としていて、当たり前だと思いませんか?

 自分が本当は話したい悩みのことすら

   「ここまで話したら、
   さすがにカウンセラーさんにでも軽蔑されるかなあ」

 とか、迷いつつ言葉を選んでいるでしょうし、

     「あ、私の長年の『秘密』口にしたとたんに、
     カウンセラーの先生の顔の表情が一瞬硬くなった。
     やっぱり、こういう秘密を持つ私を、
     カウンセラーさんは心の中で軽蔑し、
     嫌悪を感じた
んだろうな。
     そのあとは、
     いかにもにこやかに話を聞いてくれたけれども、
     あの一瞬で、
     もう、私は取り返しのつかないミスをした。
     次の面接、何か理由をつけて断ってしまおうか」

こうして、その人は別のカウンセラーを捜し歩く日々をくりかえしていましたとさ。

.........などという例、多いと思います。

 そういうふうに「人の顔色」を気にしすぎ、すぐに嫌われた、あるいは「傷つけた」と思いこんでしまうのが、そのクライエントさんの「病理(嫌な言葉ですが)」といえばそれまででしょう。

 でも、そういう「被害念慮的な対人恐怖」を何とかしたいから、そのクライエントさんはカウンセリングの扉をたたいたはずです!!

*****

  面接のさなかに、

「実は、先生は私のことを心の底では馬鹿にしているとずっとこれまで思って来たんです」

「前回、私は少し見栄を張って、『少し元気になった』と言ってしまったんです。私の中の、先生に褒めてもらいたい気持ちがそれを言わせたんです。だから面接から家に戻って、すごく落ちこみました。先生は、きっと、この前の私が、そうやって『無理して』元気なふりしていたの、実はその場で見抜いておられたようにも感じられてきて、また落ち込んで以前と同じに逆戻りした私をみて、『やっぱり無理してたんだね。仕方ないな。』といわれそうで、ほんとは今日、ここへくるのが怖かったんですよ」

..........みたいなことまではっきり言い出してくれたら、実は継続的カウンセリングとしては「第3クォーター」の深さまで進んで生じることが多いでしょう。

 私は、こうしたことを語りはじめてくれたクライエントさんに、ある厳粛な畏敬と、感謝の念すら感じることがあります。

******

  とにかく、敢えて多くのカウンセラーのみなさまにお勧めします。

     日頃の面接の中で、
     カウンセラーとしての自分の方が、
     クライエントさんに「気を使わせ」続けて
     いないかどうか?

....と、振り返ってみることを。

 これだけで、「転移」「逆転移」とかの概念の「頭での」お勉強より、クライエントさんとの「関係性」の問題の本質的な核心に一気に気がつけるかもしれませんよ。

******

Esprit410hyoushi
 なお、今回述べた、

「面接の最中、クライエントさんもカウンセラーに刻々と『感情移入』している」

という問題について私が論じた初出は、

現代のエスプリ 410 「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一・阿世賀浩一郎 編 )

所収の、拙論、

「クライエントの体験過程を抱える『容れもの』として機能する技法の試み」

にあります。

 でも、今回の「二番箭じ」の方が、5歳経験を重ねた分だけ、問題の核心に要領よく迫れているかもしれません。

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「思い込みが過ぎる」ことを、実社会を生きるしたたかなシミュレーション能力に「変換」させよう!!

さて、対人恐怖気味の人の陥りがちな、認知と行動の特性は、一言で言えば、

1,「最悪のシミュレーション」「楽観的なシミュレーション」

二つしかしないこと。

2.シミュレーションばかりして、現実の行動としては、ひどく受身で消極的であることにあります。

具体的に例を上げると、

ある典型的なオタクファッションをした人が、街を歩いていて、通りすがりの2人の女の子が、すれ違いざまに

「嫌ねぇ」

といわれたように「聞こえて」、ズキンと傷ついたとします。

さあ、彼の頭の中で何が始まるか?

******

{仮説1}あ、やっぱりこんな風体でこんなむさい顔立ちしかしていなかったら、オタクだと「見破られるん」だ

→「自己嫌悪」

あるいは、

「どうせ俺はオタクだよ!!」という「自己嫌悪的開き直り」、

あるいは

「最近は典型的なオタクファッションではない、むしろ凄くカッコのいい人とか一流企業に勤めるバリバリのスーツ来たビジネスマンがオタクのことなんていくららでもあるのに、認識不足ですね。ああいう人たち

という、「話題のすり替え型開き直り」(その人がほんとにファッションに凝る時や、一流企業に勤めているのなら、当然こう思う資格アリですが)

*****

{仮説2}いや、あれは僕についての話ではないはずだ、空耳か、そうでなくても、僕ではなくて、きっと僕とは全然関係ない女友達の噂話か何かずっとしていて、通りすがりざまに「嫌ねえ」の部分だけ聞こえただっただけなんだ。

→世間の人がいちいち自分なんかに関心向けるわけないよ。そういう思いに一瞬でもとらわれた僕の方が、実は「自意識過剰」なだけなんだ」

******

{仮説3}仮にあの女の子たちが僕のことを指して「嫌ねえ」と言ったのだとしても、僕は特に何の「損失を被(こうむる)わけではないではないか。通りすがりのあの人たちと僕は2度と出会わないかもしれない

ましてや、僕は決して浮浪者のような風体をしていたわけでもないから、10分後には彼女らの脳裏から忘れ去られ、喫茶店での話題に種にもならないだろう。

むしろ、ああいうことを言われたと「感じる」たび、傷ついて半日も落ち込んでしまう自分の方を「困った奴っちゃなあ~」と『苦笑』しながら笑い飛ばせるぐらいが、自然なあり方なのではないか」

*******

さて、今のを読んで、あなたはどう感じますか?

A.「そこまでいろいろ考えるわけ? 疲れる奴っちゃな~」

B.「僕は{仮説1}の最初のところでいつも堂々巡りしていた。こんなにいろんなとらえ方が可能とは気づかなかった。視野が広がり、参考になった」

C.「そういうふうにいろいろと考えてみると、『その時』は少しは気が楽になるんだけど、結局、気がついてみると自己嫌悪の堂々巡りに舞い戻っちゃうンですよ。『似たような』場面に遭遇すると、また半日ぐらい落ち込んでしまって、出口がないんです」

私は、多かれ少なかれ、感想はこの3つのパターンのどれかに当てはまる確率、70%とシミュレーションします。

*****

思い込みに走りやすい人というのには、実は「ものすごい脳のパワー」の持ち主である可能性があると思います。
そのパワーが、いわば「エンジンは優秀」でも、それを車軸に伝達する部分やハンドルなどの他の部分がそのエンジンの性能に追いつかないでいるために、「レース完走」できないFIマシンみたいなものと考えればいいと思います。

いわば、シャッターが下りたガレージの中でのアイドリングだけしかできないうちに、一酸化炭素中毒になってバテるようなものですね

そのエンジンのパワーをもっと「有効活用」することは、かなりの場合に可能なのではないかと思います。

ですから

一方の極

「一度『特定の』思い込みにとらわれると、ひたすらそっちの方向に突っ走る、『硬い心』だけど『ガラスのようなもろさ』と背中合わせのタイプの人」

がいて、

他方の極には、

「一つだけではなくて、さまざまなシュミレーションを、

白、黒、抹茶、赤、青、黄色、金銀パールプレゼント!!(古い)

とばかりにあれこれ考え直してシミュレーションしてみることをどこかで『楽しむ』境地に達するばかりか、

「しかし私のシミュレーションは、私がただの不完全な生身の人間である限り、決して完璧では「ない」に違いない。

でもそいれでもいいじゃん!! 自分のシミュレーションを超えた思ってもみない事態に直面するたびに、僕の「経験値」は上がり、次の場面では更にシミュレーション能力に磨きがかかるわけだから、「予想外の展開」大歓迎だ!!

シュミレーションを超えたことが次々起こるにどのように対応していくか、こそ、人生の「スリル」だし、生きる「醍醐味」ではないか

........とまで開き直れる、

「柔軟で臨機応変で、数手先まで様々なシミュレーションをしては現実に行動し、刻々と修正していく、実は『タフな』タイプ」

を両極端にしているのではないかと思います。

後者型はこあ~いですよ。

一見お人よし(状況を観察し、掌握するために、まずは「場の雰囲気」に逆らわないで多角的に「サーチ」をかけるから)、ところがいざとなると、数手先まで、普通の人か考えないような可能性までシミュレーションして、ことに臨むから、何が起こっても冷静、

しかも予想外の展開になったらいよいよ、

「自分の実力を伸ばすチャ~~~ンス!!」

といよいよ元気になり、むしろ醒めたまなざしで、脳力100パーセント「やっと」使いはじめる余裕を残している。

創造性が高いし、他者への共感能力も高い。

そして、

いざとなると、

涼しい顔して、「権謀術枢」の限りを尽くす、隙のない「策士」

となる。

******

もちろん、

このようになれるためには、何か不可欠な"something"かあるのではないか?

というのは認めます。

でも、一方には、

「これを読んだだけでもモヤモヤが少し晴れて元気が出てきた」

と感じて下さる読者の方も少なからずいることを、私は信じています。

******


こういう「ゲーム」や「シミュレーション」を『空しく』感じる人と、『人生のスリル』と感じる人の違いは何か?


このことこそ、ほんとうの"something"なんですよね!!


私は、「シミュレーションし尽した

という

「自己愛的引きこもり(ユング風に言えば、「孤高」に酔う「自我肥大」)を「超え」、

自分の「孤高」意識の背後にある「寂しさ」に直面しつつ、

その寂しさに「もう一人の自分」が、やさしく『自己共感』できること

と、

「何か」関係あるはず、とは思います。

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トロントの思い出

NHKドキュメンタリー、「戦場 心の傷」の記事を書いて、思い出したこと。

 フォーカシング国際会議が、来年(2009年)の5月に、日本の淡路島で開かれます。

 このことに関しては、すでにこの記事等でご紹介してまいりましたが、私は2005年5月、カナダ、トロントでのフォーカシング国際会議に参加しました。

 その時の現地からの記事はこちらからご覧いただけます。また、その時の写真集「トロントだより」もこのブログに併設しています。

 この、トロントで、世界各地で活躍する、フォーカシングのトレーナーの皆さんから、そのこれまでの生き様を含めて直接お話をうかがえたことは、その後の私にたいへん大きな影響を残しました。


******


 その中のお一人からうかがったお話。

 深刻なトラウマへのフォーカシングの適用の代表的人物の一人というべき女性。
 私より20歳近く年長ですが、私と同じ、世界に百数十名いる、フォーカシングの国際資格に認定資格者(TFIコーディネータ)のお一人でした。

 その方がお若い頃。196-70年代、アメリカには公民権運動の渦中にありました。彼女も、アメリカ国内で差別されている人種・民族のために積極的に活動する活動家のひとりでした。

 ところが、ある日、思いもよらない事件が起ります。

 彼女が車で自宅に帰宅し、玄関のドアの鍵を開けようとそうると、突如拳銃を突きつけられ、顔のそばで発射されてしまいます。

 彼女は、顔面の3分の1を吹き飛ばされる重症を負いました。

 逃走したのはひとりの少年でした。

 しかも、その少年は、彼女が人権運動の中で貧困と差別を受けているとして擁護していた、まさにその人種の少年だったのですね。

 彼女は、単に長期間を要した顔の整形修復手術の苦しみに耐えるみならず、突如発砲された衝撃から、PTSDに陥ります

 それに輪をかけたのが、その発砲の犯人が、まさに彼女が人権運動活動家として擁護していた人種の少年だったということから、深刻なアイデンティティの危機に陥ります。

 いろいろ回復の手だてを求めていくうちに、彼女はフォーカシングに出会いました。

 そこで癒されたことが、彼女をフォーカシングのトレーナーとしての道に進ませたのでした。


*****


 この方に限らず、フォーカシングにおける今日の代表的な指導者たちの中には、ベトナム戦争当時の騒然としたアメリカ社会の中で、未来を模索した、最も先鋭なグループに属し、そうした活動そのものの中で、心身共にぼろぼろになった経歴をお持ちの方がたくさんいることに気がつきました。

 私は、正直にいいて、

 「こうした人たちにはかなわない」

と感じました。


 スケールが違いすぎる。

 運動の中にコミットし、理想と現実とのギャップに傷ついていくプロセスの凄惨さと切実度が、日本の学生運動と比べても次元が違うと感じさせられたのです。

 
 今でも、世界の紛争地域に、国際協力隊員として赴いたり、あるいは第3世界(特に中南米)の厳しい現実の中で、フォーカシングを生かすことに命をかけておられる人たちが、たくさんいる。

 その時から、私は日本のフォーカシング運動そのものが、なんともちまちました箱庭スケールのものに見えて仕方がなくなったのでした。

(個々のフォーカシング関係者の中には、難しい現場のシビアな最前線で奮闘しておられる方も少なくないと信じています。そうした方々を誹謗する意図はもちろんございません)


*****


 トロントに行ったのは、私自身、人生の中で、これまでにない苦しい状況に直面していた、まさにその時でした。

 私は,その状況の解決のための援助として、ひとりのクライエントとしてカウンセリングに通い、「適応障害」の診断を受け、鬱状態で心療内科医療の治療も受けていました。

 しかし、そうした日本の現状での援助的専門職からのサポートではどうしても埋め難しい、自らの深い心の傷と空洞に、まずは、「私自身のための」フォーカシング教師として成長し続けるしかないことを、胸に沁みる思いで重ねました。

 大学所属の常勤カウンセラーから、湘南地域の、一開業開業カウンセラーとしてし働くようになる中で、個々のクライエントさんにとって、代金に値するだけの援助をしていくということはどういうことかということにも直面しました。


 フォーカシングは、何よりも私自身のために。

 しかしそれは、即、

 個々の来談される方のために、現場臨床家としてどこまで心を尽くせるか

 ということと表裏一体になるものとして。


 ......そのような信念が私の中に形成されて来たのです。


******


 もとより、私はまだまだ発展途上、さまざまな未熟さを抱えているとも感じていますが(^^)

 いつも申し上げますように、思いつくままにご意見や注文をいただけますことこそ、私が望んでいることです。

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