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2008年8月

2008年8月19日 (火)

変わりたいのも、変わりたくないのも、ほんとうの気持ち

飛べないハードルを 負けない気持ちで クリアーしてきたけど 出し切れない実力は、誰のせい?

(田村直美「ゆずれない願い」)

たいていの人は、自分の現状に不満を持っていると思います。  ....そう、人は、変化し、成長したい生き物です。

それと同時に、今やっている日常を「変えないままで繰り返せたら」とも心のどこかで感じています。  ....そう、人は何の変化もないまま、現状が漫然と続くことを求める生き物でもあるのです。

そして。自分が何もしなくとも、状況が変わったり、周囲がお膳立てしてくれることで自体が解決することを期待しています。  ....そう、人は、自分からは行動を起こさないままで事態が変わることを期待する生き物です;

しかしそれと同時に、今の自分が、別人に「変えさせられてしまう」ことをすごく恐れていると思います。   ....そう、人は、他人に無理やり変えさせられるくらいなら、自分で人生の運命を変えたい生き物です。

 「変化」を実感するには、  変化する前と後とでも  あい変わらず「同じ自分」が  自分の中に確かに「継続」しているという安心感も  必要なのではないでしょうか。

 「気がついたら、以前困難を感じていた状況をある程度普通に乗り越えることができている。人前であがることを気にせず発言できることが増えていたような。これは私がいつの間にか「変わった」ということなのだろうか? 私はその間、だいたいのところは、同じ自分の延長線上にあるままもがいているくらいに感じてやっていた。でも、今、同じ事態を同じに感じずに済んでいるということは、何かが変わったんですよね?」

 「一度ブレイクして人気が出てしまったら、周囲の自分を見る目が変わっていた。でも私って、私のままじゃない? テレビの中に写っているのは、どうも私みたいだけど、ほんとうにテレビを見ているこの私という気がしない。この運命は、私が自分から生み出した変化なの? それとも、周囲がいつの間にか私をここに連れてきたの? 昔と同じように私を受け止めてくれる人がいないのがつらい」

…この違いはどこから生じるのでしょう?

バードルを飛べた途端に、 人は今度は、 そのハードルを乗り越えるのが当たり前の存在に 「変化をしてしまった」はずという プレッシャーと直面し始めることも多い。

.......今、ここで書いてきたことの中に、カウンセリングの大事な本質が含まれている気がします


追記:

 この記事、北京オリンピックの中継を観ている中で、思いついたものです。

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欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている

さて、「欝」の人というと、皆さんはどんなイメージをもたれますか?

げっそりとやつれ込んでいて、何にもやる気が出ず、「自分がこんな状態では周りに申し訳がない、死んでしまうしかない」と、切々と涙をこぼしながら訴える人?

いいえ、

「客観的に見ればその人が疲れ果てたり、泣き言を人に言いたくなるような状況下においても、全く平気そうに、明るくすら振舞い、精力的に勉強や仕事を続けている人」

がいたら、その人はすでに「欝」にはまりつつある、と私なら判断します。

つまり、「自分がつらい筈のに、つらいという自己認識が、その人から『1,2週間以上』失われてしまった」ら、その時点で、その人は、欝への道をまっさかさまに突き進んでいます。


人間に限らず、動物一般には、体内・脳内の状態を「非常事態切り抜けモード」に切り替える自動スイッチのようなものがあります。自然の大災害や命の危険にさらされると、それが発動して、いわゆる「火事場のクソ力」状態になります。

長時間睡眠とかをとらなくても移動し続けたり、頭の回転が鈍らなくなるのです。

大地震の直後、一気に途方にくれて何もできなくなる人ばかりかというと、そうではなく、むしろ普段は発揮されないくらいに冷静に、不眠不休の活動をし続け、善意の相互扶助のコミュニティを広げ、自然に活動を続ける人が意外なまでに多いというのは、結構知られたことでしょう。

あるいは、兵士は、最前線での戦いのさなかなら、一週間の不眠不休の戦闘や行軍にも耐えられてしまいます。

しかし、この「非常事態モード」は、多くの場合、1週間ぐらいしか持たないものです。

ハリケーンにせよ、大洪水にせよ、たいていの自然災害というのは、どんなに巨大なものでも、一週間以上、そのピークが続くものはありません。生き残れた、移動できる動物は、1週間のうちに、安全な土地に移動しているでしょう。

動物の体内スイッチは再び「非常事態切り抜けモード」から自然と「オフ」になり、むしろ「休息しながらの充電モード」になり、次第に「日常モード」に復帰するでしょう。

人間も、この「動物的」メカニズムを受け継いでいるだけなんですね。

人間にも、種の保存のため、この「非常事態」への耐性が特に強い遺伝子を受け継いだ人たちかいると思います。


ところが、人間は、必ずしも自然の摂理に一致しない「文化」というものを築いてしまいました。そして、客観的に見れば「生存の必要性からすればそこまでしなくても生きていけるはず」の社会活動や仕事に、まるで「非常事態モード」にはまった場合と同じように、不眠不休で打ち込み続ける泥沼から抜け出せなくなる人も出てくるという問題を抱え込むようになったのです。

典型例。

配置転換されたり、昇任して、仕事の量がぐっと増えた。ある時期まではそれを本人は大変だ、睡眠不足になってきた思いつつも、歯を食いしばってがんばった。そのうち、同じ役職にある周囲の人は身体の病気になったり、する休みをはじめたり、仕事をやめてしまったりしてもその人はがんばった。

いよいよその人の「勤勉さ」への周囲の期待と依存は高まる。

その頃になり、気がついてみると、睡眠時間が非常に少なくても疲れを感じなくなる。

その人は、自分の「気力」が勝った!! などと思いつつ、それから2,3ヶ月は明るい顔で元気いっぱいで働き続ける。

数ヵ月後、何かのきっかけで、彼は「うつ病」と診断される。

「やれます! がんばれます」

と本人はそのことを受け入れない。ほんとにやれそうな気でいるのである。

それでも彼の状態が心配な人事課長は、会社の産業医との面接を勧めて、産業医の説得で、しぶしぶ休職を受け入れる。

その2,3日のうちに、彼は、自分が何をするのにも億劫で、トイレや、1,2メートル先の冷蔵庫の食べ物の扉を開けようとしても、身体が動かないまま、いつの間にか日が暮れているのに気づく。

「非常事態切り抜けモード」のスイッチが、自然に、ブレーカーが落ちるように落ちるのが、この人の場合、あまりにも遅すぎたのです。

そのブレーカーが、休息と薬の助けと自然治癒力の中である程度回復するのに、数ヶ月から年単位かかるわけです。

世間の人々は、この状態に陥った「後の」人の「欝」についてのイメージしかありません。

彼は、とうの昔に、「非常事態切り抜けモード」のブレーカーが再びOFFに自然に切り替わることができなくなった時点で、すでに病気だったともいえます。


だから、欝の人は、見かけ上人よりすごく「元気」で「社交的」だったりする場合も多いという「逆説」があります。

「見かけは」元気そうでも、「言っている言葉の内容を文字通りに受け止めると」、この人、つらい状況にあるはずなのに、と、そこにある種の、態度と言ってることの「不自然なギャップ」を感じたら、その相手は欝にすでにかなりはまっている可能性があります。

回復後も、無理をせずに休息を取るベースをわきまえるまでが、通常のケースではいへんです。欝病者とは「無理をしたがる」ものですから。

そして、上司や同僚も、元気だった頃の彼のイメージ(そっちの方が「スーパーマン」過ぎた「異常事態」だったのに!!)だけを引きずって、

「もう『治った』のなら、フルに働いてもらう」ということを要求しやすい。

パソコンや自動車が「修理」されてきたのとは違うんですけどね!!

なぜ、鬱病は、回復期の上昇カーブにかかったあたりで自殺率が高いといわれるのかも、こうした理由によります。

少し調子を取り戻したつもりで、仕事に復帰したら、まだ思うように仕事ができない、すぐに疲れ果てる自分に直面して悲観するわけですね。

一度欝はまった人が、ちょうどいいペースで仕事をするとはどういうことかを、少しずつ社会復帰しながら自分なりのスタイルを完成させていく、というのは、ものすごく大変なことです。

周囲の期待と、「元通りに働きたい」という「焦り」に押し流されず、前ほど「お人よし」で「便利な人」「いい人」であることを放棄して、マイ・ペースの生き方に切り替えていく。

もし、そのことに本当にうまく成功して、新たなライフスタイルにたどり着けたら、ひょっとしたらその人は、前ほど「しゃにむに」働かないけど、一回り大きくなり、ほんとうの資質を開花させ、真の意味で組織や社会に「必要な」人間に脱皮しさえするかもしれません。


こうしたことへの認識がもっと広まれば、そういう「『働け』過ぎ」の人に、実は依存して、彼らを犠牲者として成り立っている、現代社会も少しすつ変わるのに、という思いを込め思いつつ、私なりの言葉で書いてみました。

少しでもこれが世間の「欝」についての著作より「新鮮に」響けば幸いです。

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欝の人は、「祭りの後」に生きている

 以前書いた、欝についての私の代表的な記事続編として、欝に陥った皆様にお会いしていて、私が、少なからぬケースにおいて特徴的だと感じられることをもうひとつ述べてみたいと思います。

 欝の人は、自分の未来を思い描く際に、「新しい未来」という方向ではなく、実はひたすら「過去の再現」を志向していることが少なくない、というお話です。


*****


 欝になりかけの頃(こうした人は、「その頃がすでになりかけだったのだ」と、後になって、すでに欝が重くなり、生活や働くことに大きな支障が出始め、医者にはっきり「欝状態」と診断されて治療が始まっ時点で、はじめて徐々に認識できることが多いのですが)、努力と根気で切り抜けられると固く信じていた人が少なくないと思います。

 もちろん、以前よりも無理を重ね、少しずつふんばりが効かなくなりつつことに心のどこかで不安を募らせ始めてもいるのですが、

 「このままではいずれもっと働けなくなる危険もある。そうなる前に何とかしないと」

という方向で、「転ばぬ先の杖」として、無理にならないように自制したり、早いうちから治療に自分から足を運ぶことは少ないのですね。

 周囲が心配しても、「大丈夫です」。

 本人も、大丈夫なつもりでいる。少なくとも、大丈夫だと強く自分に言い聞かせているものです。

 そして、更に無理を重ねた挙句、ほんとうに行き詰ったところで、はじめてそうした自分と直面するけれども、そういう自分をなかなか率直に身近な人に打ち明けない。

 そういう人は、その段階でも、全くの孤独ということはなく、普段は、友人や家族や同僚たちと、一見打ち解けた、親しい関係を維持していることも多いのです。

 しかし、肝心要の、自分の中に迫りつつある破滅への恐怖や、ものすごい焦りを、素直に周囲に告白しないままのことが多いのですね。

 そうした挙句、自分だけで抱え込んでほんとうに絶望すると、いきなり自殺を考えたり、実行してしまったりすることも少なくないことになります。

 そういう意味で、欝の深みにはまりつつある人は自分の「近未来」に「迫りくる、切迫しているはずの危機」に対しては、見かけ上、「奇妙なまでの楽観主義者」であるかのようだとも言えるのですね(あくまでも、ひとつの逆説です)。

 「大丈夫、大丈夫」と自分に暗示をかけ続け、ほんとうにエンストを起こすまでは、ひたすらパワーを上げ続ける。

 ある意味で、自分の心身の未来予測能力という点では、とても客観的とはいえない、ほとんど麻痺している状態にはまり込みがちです。


*****

 
  そもそも、多少なりとも欝の素質がある人たちが、近代社会においては多数派を占めています。

 つまり、実際に欝にならなくても、普段から

  「近い将来に起こる可能性がある大破局」

に対する危機感を抱きにくく、多少それが脳裏を掠めても、すぐにそのことを意識から排除してしまう。

 まさに、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」ですね。
 
  「昨日と同じように今日があり、
   今日と同じように明日は続くだろう」

 ....という、
 まったりとした日常の繰り返しに対する、奇妙なまでの信頼感を支えに生きています。
 要するに「立ち直りが早く」て、くよくよしない。


 多少何かがうまくいかなくても、そのことがむやみと後を引くことはなく、すぐに立ち直り、

 「明日は大丈夫だろう」
 「明日には挽回できる」

という、大いなる日常への期待と信頼をもって、あまりぐらつき過ずに生きていくのです。

 これはある意味で、基本的に平穏な日々が続く限り、社会を安定して維持する上では、むしろ、小さな行き詰まりから容易にリバウンド(立ち直り)ができるという意味で、そうした人たちが多数派を占めることは、ふさわしい、適応的なあり方ということになります。

 その代わり、将来に生じうる大変化を前々から察知し、先回りして予防したり、対策を立てて実現するとう点では、アンテナが鈍い。

 そうやって先の見通しを失って、悪あがきを重ねた挙句、心身の疲労でどうにもやれなくなった現実に直面してはじめて、もはや「後の祭り」だ、単なる「建て直し」は不可能ということを、かろうじて徐々に受け入れ始めることができるともいえます。

 バブル崩壊やら、グローバル化の流れの中での、日本の政治・経済の後手後手の対応を見ていると、なるほど、「徐々に追い詰められて、従来のやり方が通用しなくなってきているのは目に見えているのに、未来に向けて先手を打つことがなかなかできない」という点で、うつ病に実際に落ちいって行く個々の人たちと同じようなことが国全体のレヴェルで進行している気もします。


******


 ある意味で、欝傾向のある人は、「建設的に未来を切り開く」というのが、苦手なんです。

 先例に倣って、社会の中で、ある段階まで十分役割を果たせる状態まで到達すると、そうやって到達した「調子のいいときの水準」を維持すること、そして、多少の波があっても、以前の「調子がいい時」の状態を「取り戻す」ことを第一とします。


 欝的な人にとっての「未来」というのは、
 得てして、

   「過去にすでに経験した、
    調子のいい時を再び回復する(維持する)

 ということでしかないのです。


 つまり「新しい未来」なるものを構想し、予測し、実現する力に乏しい。


******

 .....からだの病気を含めて、およそ病気からの「回復」というものを、「以前のように健康に戻れる」ことととらえるのは、一見当たり前のことでしょう。

 しかし、 ことカウンセリングの領域では、必ずしもこうしたとらえ方はメジャーではありません。

 単なる「回復」ではなく、 
 「変化」し、「成長」して行けた時に
 成果が上がったという発想の方がむしろ主流でしょう。

 単に以前に戻ることを理想とする、と発想しない。

 心理療法の先駆者、フロイト自身、さまざまな症状が治まるのには、その人の中で、まだ未成熟なままだった部分が成長し、自我に統合されるという、「それまでになかったその人の成長」が生じた時だということを発見したわけです。 


*****


 ところが、この点で、「うつ病的」な人、そして、いろいろなストレスが身体の素質的に弱い部分に噴き出した「心身症」傾向の強い人は、「新しい自分に成長する」というイメージをリアルに描けない場合も少なくないのですね。

(ある観点からすると、うつ病とは、ストレスが、もっぱら中枢神経(脳や神経系)に「身体症状」が出た心身症のようなものともいえます)

 「以前と同じように働けるようになれば」

 あるいは

 「今回は欝に陥ったが、
  回復したら、
  今度は同じように頑張っても『欝(心身症)』にならない
  より強い人間に成長したい」

と、更に「超人化」することを期待することが多い。


 つまり、

 「病気になるまでの過去の自分のあり方そのものは全肯定」

という点ではすごく頑固な方が少なくない気がします。


  「これを機会に新たな人生へと進んでください」


などといわれても、内心では、


 「ごもっとも。でもちょっときれいごとの言い方だな」


と感じておられることも少なくないかと思います(^^)


 「変化しろ??? あのさあ、これまでの自分の人生を否定して生まれ変われっていうの?、何とも偉そうなご宣託だね」

 控えめな方でも、

 「そんなこと言われたって、これまでやってきた生き方(働き方)以外に、私がどうやって生きて行けるしょう? もう青年時代に戻れるわけではないし、今更やり直せといわれても無理だよ」

......このへんが本音でしょう。

 これは、実は「欝をきっかけに新たな人生の再出発」みたいな言葉をカウンセラーや精神科医から安易に投げつけられた皆様の、実は当然のお気持ちではないかと、今の私は思うようになりました。

 以前の記事でも書きましたが、自分の生き方の変化や心の変化を、他人に押し付けられることに反発するというのは、ある意味で健康な心情だ、という前提に、われわれカウンセラーも、謙虚に立ち返らなければならない気がします。


*****


 そうした一方で、世の中には、(比較的少数派ですが)、これまでの自分、今の自分に耐えられないことにこそ悩んでいる皆様もたくさんおられるでしょう。

 別な自分、理想の自分に成長することこそが目標、でも、それをうまくやれないことに悩んでいる皆様です。

 こうした人たちは、これからの自分に不安を感じたり、このままの自分では駄目になるという予感を、むしろ強烈に実感しています。その意味では、欝傾向の人とは正反対に、「未来」に本当の自分はあると感じる傾向が強いわけですね。

 自分は、まだ人生の真の「祭り」に到達していない、いつまでたっても「祭りの前」にしかいられないと感じているわけです。

 そして、自分の人生にも「祭り」の時が訪れるかどうか、という無力感と焦りの中でこそ「落ちこむ」わけです。

 これは、いわゆる欝傾向の典型の人の陥る「うつ状態」と、(似た面もありますけど)かなり違った性質のものでもあります。

 恐らく、未来への「焦り」と不安が空回りして、不器用な形で挑戦しては失敗を繰り返してみたり、本当に現実に可能な自分を変えていくやり方を地道に、あるいは、自分に可能なペースをつかんで腰をすえてしぶとく経験値を上げることができないのでしょう。

 .....しかし。

 実はこうした皆様の中にも、実はその、つらいはずの現状を変えていくことへの、単なる変化への不安にとどまらない、「今のままでいたい」という心情、それどころか「あの日に帰りたい」という思いが隠れていることも少なくない気がします。


******


 さて、あなたは、もっぱら「以前のように順調に」と願う「祭りの後」形人間でしょうか?

 それとも、もっぱら「自分の未来にこそ希望を賭けつつも実現できないまま」であることに苦しんでいる「祭りの前」人間でしょうか?

 それとも、「いや、私の中には両方の面があるな」とお感じでしょうか?


 皆様が、自分の悩みの性質、特に、一見「落ち込んだ」状態、欝っぽいかに感じられる状態がどんな性質ものかを見つめなおしてご覧になる上で、ささやかなヒントになれば幸いです。

【追記】:この、「祭りの前」「祭りの後」というのは、精神科医の木村敏先生が提唱されたもので、木村先生の後輩にあたる中井久夫先生の著作にもずいぶん出てきます。それを参考に、私なりにかみ砕いて書いてみたつもりです。

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2008年8月20日 (水)

5分診療の神経科・心療内科の現実といかに対処するか

地域のたいていの開業医は、待合室に十数人の患者さんが寿司詰め、お医者さんと話ができるのは数分間という状況で運営されています。

これは、精神神経科や心療内科でも同じことでして、

カウンセリングに来る方から「通っている病院では十分話を聞いてもらえないから、ここに着た」という話をよく聞きます。

実は、病院でのカウンセリングの「保険点数」はきわめて低く、それで2,30分も保険診療の枠内で一人の患者さんにかけていたら、病院の経営が成り立たないわけです。

仮に、そのクリニックが別にカウンセラーを雇っていても、実はカウンセラーを雇う経費という点だけからすれば赤字になるのを覚悟で雇っているところが多い。

******

そこで、日本では、現実的には、医療とカウンセリングが「別の場所」となる役割分担と相互の連携が必要なクライエントさんがたいへん多いはずということになります。

しかし、こうした「通院中のクライエントさんに、カウンセラーがどういうサポートができるか」という問題について、本当に徹底した議論がなされてきたとは私には思えません。

薬はお医者さんに任せ、カウンセリングするだけ、

大変になりすぎた時だけ、「お医者さんに『ゆだねて』しまう

といったことが、まだかなり多い気がします

(ちょっと皮肉を込めたつもりですが....)

カウンセラーは、単に5分診療のお医者さんに話せないクライエントさんの、もっと話したい欲求を「埋め合わせる」ためにのみ機能すべきではないし、

かといって、反対に、単なる「カウンセリング」や「心理療法」をする存在にとどまってはならないと思います。

*****

敢えて結論から言います。

そのお医者さんとの「5分間」でクライエントさんが何をお医者さんに伝えると「効果的」かについての「コーチ」役、

ということがまだ忘れられてはいないでしょうか。

何しろ50分から1時間の話をクライエントさんから聞けるのです。一見主訴とは関係なさそうな話題をクライエントさんは山のように話しているはずです。

いつも主訴に関わる話題だけになるクライエントさんとしか会っていないカウンセラーは、クライエントさんにひどく窮屈な思いをさせて、「カウンセラー中心療法」をしているのでは? と疑いたくなります。

そうした中で、クライエントさんは、カウンセラーがクライエントさんの「状況を俯瞰して」みる限り、もしそのことを医者が知らないままとすれば、あまりにもったいない、といいたくなる話を、なんともさりげなく始めたりします。

クライエントさんご本人も、それが自分の主訴の治療に関係ないとすら思っている場合の方が多い。

例えば、うつ状態の改善をめざして通院しつつもカウンセリングに通っている患者さんが、

「実は一緒に住んでる母が、今度入院して手術を受けることになったんです」

「実は親父がリストラで会社を首になったんです」

などという話を、何かのきっかけで話したとします。

「それ、あなたの会っているお医者さんに伝えた?」

というと、

たいてい「いいえ」といわれます。

回復期の欝の人に限らず、およそ通院が必要な水準まで心の問題を抱えている人は、それを支えている家族の他の誰か一人が家の中で機能しなくなるとか、「実家の」経済基盤に大きな変化が生じるというだけで、実は相当なストレス要因、あるいは「余裕の喪失」を抱え込むことになります。薬がそれに応じて変更されたとしても何もおかしくありません。

あるいは、精神症状と一見無関係な一見些細な身体症状の変化

「風邪を引いて2日仕事を休みました」

「最近下痢が増えました」

とか。

私は、こうした時、よほど特別な場合を除いては、お医者さんに宛てて「○○クリニック ○○先生 御机下」に始まる「公式の『経過報告書』」を書いて、クライエントさんに持たせるということもしません。

「1.○○○があった
 2.△△△になった
 3.身体の調子が□□□だ

この三点だけは、「絶対」、今度お医者さんに会ったらお伝えするようにしてね。

私は医者じゃないから、確言できないけど、ひょっとしたら薬の処方とか、変わるかもよ」

念のために、それらを箇条書きにして「メモ用紙に」書いたものと、私の名刺一枚を、クライエントさんに渡して、

「お医者さんに渡してね。お医者さんが、私からもっと詳しい状況を聞きたければ、『いつでもお電話下さってかまいませんと、カウンセラーが言っていました』とも伝えてもらってもいいから」

ということまですることもありますが。

******

私は、特別な場合を除き、こうしたことをお医者さんに伝えることを、クライエントさん本人に委ねます。

カウンセラー自身が、クライエントさんの許可を受けた上だとしても、クライエントさんの「頭越しに」医療機関へと連絡を取るのは、ほんとうにこのままでは本人の心身に多大な悪影響が出る可能性が高い水準の「危機介入」が必要な場合と考えています。

もっとも、本人があまりに心細そうだったら

「あなたの了解の下に、お医者さんに電話を入れてもいいよ」

とも、わりとあっさり応じますが。

(もとより、カウンセリングのはじめに、通院していると知った時点で、「カウンセリングを始めたことは、お医者さんに伝えて欲しい」とは、名刺を渡して必ず言い添えています)

*******

こうしてお医者さんの「5分間診療」の密度を上げ

「そうか、こんなことをお医者さんに伝えればいいんだ」

ということをクライエントさんに「身につけて」もらう為にも、

ほんとは、こんなふうな、

「コーチ役」

カウンセラーにとって、大事な役割だと思ってます。

これは、そんなに高度な医学についての専門知識がカウンセラーになくても、できる筈のことです。

ちなみに、カウンセリングを始めてからお医者さんを紹介する時は、原則的にきちんとした『紹介状』を書きますよ。

(すでに信頼関係と過去の実績があり、紹介状なしでもそのクライエントさんに間違いのない対応をして下さる確信が私の中にある、ほんの2、3の開業医の方を除いては)

クライエントさん本人にも読んでもらい、納得してもらえる形でのものにします。

*****

【追記】

 私が実際の開業心理臨床の現場で、通院中のクライエントさんのために、いったいどのくらい、精神医療との関わりについてのサポートをしているのかについての具体例を、次の記事で詳しく書きました。

●薬をやめることをお焦りにならない方がいいですよ
(当サイト)

 よろしければ、ご参照ください

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医者という名の薬(第2版)

 関東を離れる前、お別れ会を兼ねて、知り合いと行きつけだった、その地方で結構名の通った蕎麦屋に、2,3ヶ月ぶりに行った時のことです。

 店に入り、私たちが桟敷席に座った直後、もう一組のグループが店に入ってきて、隣の桟敷に座りました。

 店のおねーさんは、まず最初に、その、後から入ってきた席の方に、水を持ってきました。

 その後、私たちは話に花を咲かせていたのですが、数分後、気がついてみると、私たちのテーブルにはまだ水を置きに来ていない。

 私の連れは、おねーさんを呼び、水を頼んだのですが、そのあと水を持ってくるまでに2分かかる。

 更に、煮込みそばを注文したが、店がそこそこ空いていたにもかかわらず、注文品がなかなか来ない。

 やっと注文が届いてみると、、今度は、「れんげ」が食卓にない!!

 待っていても来ないので、これまた持って来いと頼む始末。


「この店、店長が代わったみたい」


と知り合いの一人。


 実際に口にした煮込みそばは、以前も食べたことがあるのに、やや麺が延びていて、何かしら生ぬるく、味付けもイマイチと私たちは皆感じた。


*****


 新店長の意識が低いと、「実際に」味も落ち、おねーさんへの接客教育も不行き届きになる。それは確かかもしれない。

 しかし、その時ふと思ったのは、おねーさんの「あの」接客態度だけで、「実際よりも」そばがまずく感じたかもしれないということ。

 これだけで、「その店にはもう通いたくない」と感じるお客さんも多いと思うのです。


*****

 そして、これと同じようなことは、お医者さんと薬の効き目のあいだにもあるように思える。


 「医者と言う名の薬」


 これは、イギリスの精神分析家、ウィニコットという人が言い出した言葉です。


 「薬の効き目の半分は、その薬を出すお医者さんといい関係にあるかどうかで決まる」

という意味で、日本では精神科医の中井久夫先生が著作の中でよくお使いになります。

****


 ご本人が悩んでいる症状〈不眠、不安、緊張、気分の落ち込みなど)そのものがどの程度、どのくらいの期間で効いてくる可能性があるのか。副作用としてはどのようなものがあり得るか、そうした時にとりあえずどういう対策を採ったらいいかについて、患者さんに理解できる形で丁寧に説明してくださるのがいいお医者さんです。

 例えば、


 「この薬を飲むと眠気を感じ、集中力が落ちると感じることもあるかもしれません。しかし、この薬は、あなたがついつい無理をし過ぎずに、ゆっくりと穏やかな気持ちで心身を休めることで、あなたの身体の自然な自己治癒能力が賦活することを狙って出しているのです。症状をただ抑えて、「無理が利く」ようにする薬を処方したら、その反動で、あなたの身体の自力はいよいよ衰えて、結局は症状がひどくなるだけですから」


 .....などと具体的に説明してもらっていれば、患者さんも安心すると思いませんか?


*****


 薬の効き目や副作用というのは、個人差がたいへん大きなもので、良心的なお医者さんだと、最初の頃は1週間ごとに通院してもらい、患者さんからの話に基づき効き目やき目や副作用の状態をチェックして、薬の種類や量を再調整したり、新たなアドバイスをしてくださることが多いと思います。

 いいお医者さんなら、求めれば、更に詳しく丁寧に、しかしツボを押さえたわかりやすい表現で、説明を補足して下さることも少なくないと思います。


****


 心の状態は、聴診器を当てても喉の奥を観察しても伝わらないということも念頭に置いてご覧になることをお勧めします。

 もちろん、表情や話しぶりからお医者さんには読み取れることも多いでしょうし、薬に効き目について見分けるポイントになる適切な問診もして下さるのがいいお医者さんでしょう。

 しかし、いいお医者さんであっても千里眼ではありません。患者さんのほうからが、最近の体調や薬を飲んでからの効き具合、特に、薬を飲み始めた後で突然生じたストレスのかかる重大事件について、お医者さんに遠慮し過ぎることなく、具体的に詳してはじめて、お医者さんの注意を引く事柄が、薬の処方にも影響する可能性があるわけですね。

 いいお医者さんなら、あなたが言葉にした、「こんなこと関係あるのかな?」とすら感じられる素朴な気がかりを丁寧に受け止めて、参考にして下さる筈です。


******


 薬の効き方が自分の期待や予想とあまりにギャップがあり、その時のお医者さんと意思疎通がうまく行かないままになったりすると、薬を飲むという体験そのものが、その人の中でひとつの「トラウマ」となり、後になって別のお医者さんに投薬を進められた時に抵抗を感じたり、そういう「薬へのトラウマ体験」そのものが、二次的な心身の不安定を誘発し、薬の効き目を変えてしまう、あるいは副作用のほうを強くする、などということは大いにあり得ると思います。

 同じ成分の物質でも、それを身体が摂取した時の状態次第で、後になっても身体の受けつけ方が変化してしまうということは結構あることなのですね。

 例えば、何かを食べたあと体調を手ひどく崩した経験がある人は、仮にそれまで好きな食べ物であった場合でも、もう匂いをかぐのも嫌、お腹に入れてもしっくり来ないということを、特に子供時代から思春期に体験した記憶をお持ちの方は少なくないでしょう。

 そもそも、人間の心身というものは同じ物質が身体の中に入ればいつでも同じ反応が身体に生じると言うには、あまりにデリケートなものだと思います。


******


 更に言えば、特に心の状態を変える薬とされるものを飲むとなると、他人(しかも「医者」という、自分の運命を託す「権威」)によって心を思いもよらない方向に操られてしまうことへの不安を感じて当然なので、ただでさえ心身にアンバランスな状態にあるからこそ病院に来談した人を更にデリケートな「ストレス状況」に一度追い込むともいえるわけですね。

 また、変化というものは、たとえ「いい変化」のきっかけとなるものであっても、そこまでの過程を、共にしてくれるパートナーの態度によっては心を大きく揺らすものです。
 例えば習い事やスポーツをはじめる際にも、師匠やコーチ自身のセンスや人柄ひとつで、それが苦しくてつまらない単調な基礎練習の繰り返しになるか、上達していくのを心待ちにしながらの、新鮮で、好奇心に満ちた、やる気を保てる体験になり、その習い事やスポーツそのものを好きになるかにも大きく影響するでしょう。

 患者さんが医者に不信感と不安を大きく抱えたままだったら、いろいろな体調の変化をポジティヴに受け止められず、薬による身体感覚変化を悪い方向にだけ感じ取る可能性もあります。


*****


 それがそのお医者さんとのやり取りの中で解決されないままだと、別の機会に別のお医者さんに薬をもらう際にも、同じようになるのではないかという不安があらかじめ準備されていることになります。

そこでの医者の応対が再び不満足で、心を傷つけ、体調を混乱させるものにとどまったら、もはや患者さんの身体の中に、悪い「条件反射」が形成される悪循環が始まるかもしれません。

 つまり、パブロフの犬が、ベルが鳴ると唾液を出すようになるのと同じように、薬を構成する「ある物質」からの刺激を舌や胃の粘膜が感受すると、強く不安を感じたり、以前と同じ身体症状が生じたり、副作用の方だけのスイッチが入るというメカニズムが身体に「定着」してしまう可能性もあると思います。


******


 カウンセラーとしての私は、適切なタイミングで薬を処方するなしで事態を改善するのは非常にむずかしい、難しいいくつかの心の病気があることも知っています。そうした薬によって心身を休め、心穏やかに過ごせるようになって、心身の自然な回復力が賦活しはじめて、はじめてカウンセリングが役立つようになることも多いのですね。

(統合失調症の発症の直後の混乱期や重たいうつ病が典型的なものです)。

(※ 当相談室においでの方が、そうした状態にある可能性があると感じられた場合には、カウンセリングをすることよりも、まずは医師の診断と処方を受けることをお勧めします。ご不安を感じないような形で病院に向かえるようなサポートもさせていただきます。

(※ 病院にすでに通院しておられる方からのご相談については、原則として、カウンセリングにお通いになることについて、お医者様に伝えていただくようにお願いしています。申し込み前ではなく、実際に来談され、当カウンセリングルームでカウンセリングを継続的に受けてみようという決心がおつきになってからで結構ですが)


 軽症の患者さんや、薬との相性が特に良かった人の場合には、飲むだけで当面の苦痛から開放され、副作用もなく、以前と同じように働いたり日常生活を送るのに不自由しなくなる場合もあるのは事実です。

 また、「心理療法の方が薬物療法より『高尚な』ことで、セラピーは薬の代わりになる」というのは、大きな誤解だと思います。

 フロイトですら、「ともかく効果的な治療法」を探した結果、神経症に効果があるものとしての「精神分析療法」を開発しただけであり、現代に生まれていたら、現代における向精神薬の発展を心から歓迎し、医者として積極活用しただろうといわれています。

 通院をはじめ、お薬を処方されるようになっても、カウンセリングの継続をお勧めになる、あるいは許してくださるお医者さんも少なくないかと思います。


*****


 そして、そもそも、誰にとっても、自分の内面を見つめるということそのものが、実は心身の「大仕事」なんだと思います。

 来談された皆様にとって、そのような「大仕事」をカウンセリングの中で私と共にしていくこと自体が心身のストレスとなり、いわばカウンセリングの「副作用」となる可能性に気を配り、バランスに配慮しながら、面接を進めていくことを私は大事にしています。この点では薬物療法の際のお医者さんの姿勢と何の変わりがないともいえます。

 「あちらかこちらか」ではなく、薬物療法と心裡療法が互いをサポートし、相乗効果を発揮するバランスが何より大事だと思うのですね。

 日本のフォーカシング指向心理療法の権威、医学博士でもある、関西大学の池見陽先生がお書きになった、この記事もご参照ください。

●読売新聞のコメント(池見陽研究室)

*****


 お医者さんと患者さんとの関わり作りへのサポートも、医師にしてはじめて許される診断や治療には抵触しない範囲に厳しく限定していますが、開業カウンセラーとしての私が大事にしていることなのです。
 
 そして、薬を飲む人自身が、「薬を味方につけて」ライフスタイルを調整しようという主体的な意識もあった時、薬が自分の「味方」と感じられるようになることも少なくないのではないかと思います。


 ※医師の資格のない臨床心理士が、薬を処方することは法律で禁じられています。そのことが露見すると、日本臨床心理士資格認定協会からも、資格停止すら含む、厳重な処罰がなされています。


*******

●この本が参考になります:


「心に働くくすりは信頼関係があってこそ効く」

中井久夫著作集 5 病者と社会(岩崎学術出版) 所収 p.163-168

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心に効く薬と「眼鏡」のように付き合うサイボーグ

 さて、薬物療法に対する不安というのにはいくつかの次元がある気がします

1.自分の感情や意識を、薬の力で別次元のものに「変えられて」しまうという不安
2.身体的・精神的副作用への不安
3.仮に薬で心身のいいバランスが得られたとしても、薬を飲まなかったらそうは行かないのだから、薬をやめられるまでの自分はほんとうには健康だといえないのだという思い。

 私自身、以前、「適応障害」という診断を受け、欝を体験していますし、投薬治療も受けています。

 私は幸い、副作用に苦しんだということはありません。

 薬というものを、自分の無理が利かなくしてくれるもの、休息をじっくりとらせてくれるための大事な「サポーター」、「相棒」だと思っています。

 飲んでから30分後には自分の心身に徐々に生じはじめる、心身の微妙な変化そのものと対話しながら日々を送ってきたつもりです。

*****

 副作用に苦しんでいる皆様に、そういう、薬と「仲良しになれた」人間のいい気な言い草と非難されるてしまうのを覚悟で、敢えて次のことを書いてみたくなりました。

 例えば、生活習慣病や心臓病で薬をもらっている人は、薬を自分が全く飲まないで済む状態が来ることをあまり期待しないだろうと思います、

 私は、薬があって、以前ほどの無理はできないかもしれないけど、薬の力を借りれば自分のおおかれた状況の中でまずまず力を発揮できるとしたら、それはそれで「サイボーグ」として、多少の不自由さを感じながらも生きていくのでいいのではないかと思っています。

 ある意味では、「眼鏡をかけて」生きることや、緑内障の治療のために人工水晶体入れてしまうことは、すでに自分の身体を「サイボーグ」化する第一歩とも言えるかと思います。

 なお、ここでいう「サイボーグ」とは、通常の人間には不可能な超人になること、という意味では使っていません。生身の身体機能の一部を人工的なものによって置き換えたり、補完したりしている存在、というぐらいの意味です(wikipedia参照)。

 すでにかなりの昔から、人類におけるサイボーグ化の普及は、義足や眼鏡という形ですでにかなりの水準で進行しているという見方もできるかと思います。それなら、向精神薬ですらそのような「人工的な補助ツール」にたとえてもいいのではないかという、拡張した発想に立ってみたのです。

 そのような意味で「サイボーグ」化してしか生活を送れないことを、完璧に健康ではないとは誰も思わないでしょう?

+++++

 
 私は、薬を飲まなくなれた時にはじめて健康に戻れたのだとは思わないように生きていこうと思っています。

 ひょっとしたら、数年後には、もともとコレステロールの多い、脳梗塞と心疾患で亡くなる親類ばかりの家系ですから、血管のための薬を何か飲み始めているかもしれないですしね(^^)

 このことを、私は、こと「心に効く」とされる薬となると、とたんに偏見の塊となることが少なくない、一般の皆様に向けて書いているつもりです。

 果たして、「昔のように戻れる」ことが健康なのか?

 私は、欝になるなる前のほうが、よほど不健康な、今の私から見たら未熟そのものの生き方をしていた気がしてなりませんが。

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日常次元での「治療的副作用」への想像力

 例えば、歯医者さんに通うということは、歯の痛みをはじめとする苦痛から解放されるためのものなのですが、そのために長期間に及ぶ時間とお金、更に治療過程での苦痛代償とすることが少なくないわけですね。

 なるほど、抜歯をするときは麻酔を注射してもらいます。しかし、あの注射には独特の凄い痛みがありますよね。

 .....私なら、

「歯ぐきに何か<<痛みの塊>>みないなものを膨張する形で『圧入』される感じ」

といいたくなりますが。

(こういうひどく「感覚的な」事柄について伝える比喩のセンスの向上に,フォーカシングを「身につける」ことは貢献します.....と自己宣伝)

....私は子供の頃、これが嫌で歯医者でワンワン泣いていた一時期があります。
 
 これそのものが、麻酔の最初の「副作用」だと思います。

 そして、麻酔の効きがイマイチだと、痛い部分を,思いもよらない瞬間に、どんでもない痛みで、ぐわわわわーーーーんと「掘削工事」されはじめる事態になる。そして更にあの「痛い注射」が追加される!!

 痛みが消えて治療が進む間も、なんか知らんけど、ドリルやら、トンカチめいた衝撃が伝わるものや、やっとこみたいな「工具」で、自分の口の中が「工事」され、削られた歯の粉末の独特のにおいや血の味、膿のにおいがしているのを感じ取るだけで、身体にただならぬ緊張が走る。

 麻酔は数十分後には切れ始め、痛み止めをもらっても、傷のうずきがまるでないということなどない。数日間はそのうずきというストレスに耐えことになる
 
 特に奥歯の抜歯の後は、仮に縫合されていても、何かを食べるとなったらかなり痛むどころか、そこに食べ物の一部が引っかかったままになった時の痛みは結構凄いもの。

 そして、抜糸をした後も、歯ぐきには空洞が残るわけで、普段は気にならなくなってきても、ご飯粒ひとつがズポッと入り込んだりしたら最後、激痛になる場合もある。

 そして、歯ぐきの肉が盛り上がり、入れ歯の型を作れるようになるまでの間、数週間、それまであった歯がそこにないゆえのぎくしゃくした食べ方に耐えることになる(徐々に慣れはしますが)。

 そして、あの型を取るための石膏のようなものにかぶせる「歯ぐき型の網状の金属」が歯ぐきにあたったまま10分は耐えるというのがこれが痛い。

 更に、入れ歯ができても、歯ぐきと合わないと歯ぐきは痛い。特に食べ物がはさまると最悪。部分入れ歯は、得てしてそれをひっかける歯に何らかの痛みを感じさせることも多い。

 そして、口の中の空間が狭くなることの違和感と最初はかなり戦うはめになるし、何らかの意味で言葉を発音する際に以前のような舌の使い方では発音できない苦痛というのがあります。

 .....これだけの難行苦行を乗り越えて、自分の身体の一部のようになり、普段はつけているのを忘れるくらいの入れ歯に巡り会えた人は幸せです(^^)。得てして、いくら修正しても、歯ぐきが痛んだり、簡単にスポッと外れる現象が生じる。

 
 こうして身体の実感から細かく「想像して」みると、歯科治療においてですら、人がどれだけの「副作用」としての「苦痛」を代償としている面があるのかがわかります。 


******


 日本語で「セラピー」というと、何か「癒し」と結びつくポジティブなイメージがあります。

 しかし、現実には、何らかのたいへんな状態にある人にとって、そもそも日常の中の一定の時間を割いて、精神科、心療内科やカウンセラーのある「場所」に「定期的に移動する」という行為そのものが何らかのストレスになることも多いでしょう。

 自分の普段の生活圏内に無理なく治療機関・相談機関が「所在」する環境に恵まれている方は必ずしも多くないと思います。鬱の人が重い足を引きずり病院にたどり着くまでのストレス。閉所恐怖、対人恐怖の人が長時間待合室で待つストレス。予約制でも、その予約時間に確実にたどり着くことそのものがストレスになる状態の人は稀ではないでしょう。

 (もっとも、中には、そうやって治療機関に通うための特別な寄り道の「行程」そのものが、すでに苦しみに満ちた現実の単調さから自分をほんのひととき救ってくれるオアシスのような息抜きになるという皆様もおられるかもしれません)。

 そして、実際には、面接の場でのやりとりというのは、仮に話をうまく聴いてくれるいい先生であった場合ですら、クライエントさんは実は結構「疲れる」ものです。

 親切な先生であっても、自分が本当に伝えたいことを伝えることの難しさ。
 
思いもよらない瞬間に先生の反応に当惑したりショックを受けることが全くないままということはなかなかない。

 そこまでいかなくても、面接の後、何となく疲れたとか、それどころか「退屈感」、それまで感じなかった新たな不安がわき起こることもないわけではない。

 仮に心穏やかに家路につけても、家に帰ると、あるいは翌日になると、また苦悩のもとのストレスフルな日常世界、ないし、日常生活から「疎外されている」と感じさせられる居場所が待っている。その「ギャップ」を自分で支えねばならない。

 お金と時間をそのために使っているということもストレス要因。

 治療やカウンセリングに通うということそのものが、家族にせよ、職場にせよ、周囲の人間との「何らかの」新たな摩擦や軋轢(あつれき)というストレス要因になることも少なくないのです。

 下手に治療やカウンセリングの内容を家族や友人にそのまま話すと、ああだこうだ勝手な感想を言われまくるのもすごいストレスになることがあります。

 逆に、治療やカウンセリングに通っているのを「隠している」というだけでもストレスになる方も多いでしょう。


*****


 医療に限らず、カウンセリングや心理療法の「副作用」を考える際には、まずはこうした次元でクライエントさんが体験するストレスに対する「想像力」からスタートしないとならないと思います。

 それらの「反作用」「ストレス」にもかかわらず、でも、通っただけの甲斐があった、と、最終的に感じてもらえるために、医者やカウンセラーは、いつどの時点で、どういう配慮をしなければならないのか?(面接や通院を取りあえず休むことや、他の機関への紹介のあり方すら含めて)


......こうしたことを思いつつ、日々の精進を重ねている私です。

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楽しいことでも疲れる。

 これは、精神科医の中井久夫先生が、まずは、主として、すでにかなり回復してきた統合失調症の患者さんに対する教訓として言われ始めたものです。

 しかし、これは私たちの日常でも、しばしば体験される事柄ではないでしょうか。

 感動する映画を見た後でも、恋人とのほんとうに心安らぐデートの後でも、爽快なスポーツの後でも、有給休暇をとっての楽しい旅行の後でもいいです。その時は、楽しくて、爽快で、心癒される体験をして、ひたすら「気持ちよくて」、疲れをあまり残していないかに感じられていたとしても、それから日常に戻った後、そのいい影響が、しばらく後まで残ってくれるとは限らないものですよね? 

 まるで「揺り戻し」「反動」のように、気持ちが沈んだり、突如空しくなったり、あるいは、じんわりと心身の消耗が感じられてくるのを、皆様も少なからず体験されたことがあると思うのです。

*****

 これは、カウンセリングなどで、「話しをしてすっきりした」とか、「長年の悩みが解決した」「心が癒された」という体験をした際にも生じがちなことなのです。

 ですから、面接室においでになった時の表情とは一変して、生き生きとした明るい表情で立ち去ろうとする来談者の方に、私も一緒になって舞い上がってしまい過ぎないように心がけています。


 「面接室を一歩出たら、あなたは日々の日常に帰っていくのです。カウンセリングの中で感じていたことに違和感が生じたり、言えなかった肝心なことを思い出したり、突如この面接室の中での体験の実感が抜け落ちてしまってが、空虚で、非現実的感じがし始めてしまうことって、よくあります。

 あなたのこの面接室での体験はすばらしい、これまでにないものかもしれません。それだけでも貴重で、後に残り、あなたの日常にもいい影響を与え続けることになるかもしれませんが、あなたが目指しているのは、実施の日常にもどったご自身が以前と変化していて、そのいい影響が残り続けることでしょう? 

 私は、あなたが面接室に現れない(予約が一週間に一度だとすれば)6日と23時間に、あなたがどう過ごせているのかに心を配りたいと思っています。

 ですから、この面接の帰りがけや、家に帰って一人になった時に、そういう「反動」に襲われて「なんだ、これじゃ以前と同じ日常が待っていて、以前と同じような苦しさを感じているだけでないか」とか、「今頃になったら、先生の言ったことがうそ臭く感じられはじめた」とかいったことを、どうか次回面接では、ご遠慮なく私に伝えてくださいね」


.....などと、別れ際に実際に申し上げてみること、少なくとも心の中ではそう念じていることは少なくありません。


*****


 それまでなかなか活路が見出せず、膠着していた面接に、急に活路が開かれて、来談された方だけではなくて、カウンセラーである私の方も「ぬか喜び」した直後の次の回までにの間に限って、クライエントさんの側に、それまでは表面化していなかった深刻な事態が生じてみたり、体調を崩しになったりということがいかに多いかを、私はカウンセリングの現場で体験してきました。

 人が急激に変化する時とは、同時に、新たな危機や不安定や何らかの無理をはらんでいます。以前までの自分自身や、自分の置かれた環境と不釣合いな、その人の一面だけが「突出して」変化し始めたに過ぎない場合が多いのですね。

 あなたの中の「別な部分」には、今のところは黙っているだけの、その変化に対する、根強い「抵抗勢力」も隠れていて、足を引っ張る機会をうかがっているかもません。

 あるいは、急に変わり出したあなたを、周囲の人物が受け入れてくれないで、別の誤解をしてくることもあるでしょう。


「お母さん、あれほど私が引きこもりから回復することを望んでいたはずなのに!! どうして働き出した仕事にあそこまで文句を言うのかしら?」


......などというお話をうかがうことも、よくありますしね。

 何かが前よりできるようになると、以前と同じままの環境や人間関係でいることが耐え難くなったり、あるいは、実際に前に進めそうとなると、それに伴い、それまで未経験だった領域に実際にチャレンジすることへの不安が出てくることも多いでしょう。

 ちょうど、やっとお気に入りの靴がみつかったのに、新しく買った靴では歩きにくく、靴ズレを起こしてしまうのにも似ています。「一点豪華主義」になってしまっていて、その靴が似合うファッション全体を新たにそろえたくなる場合もありますよね。


*****


 変化や成長は、特に急に事態がいい方向に展開したかにみえる直後に、ご本人も当惑させる「揺り戻し」に、カウンセラーとクライエントさんの両方が直面すことが多いのです。

 その結果として生じる新たな事態や新たな思いに、両者が真剣に向き合って、更にカウンセリングを進められた時にこそ、はじめて安定した成果として享受できる段階に進むことも少なくないのです。

 そのことを心しながら、「次においでになる時(まで)に何が起こっても(起こらなくても)驚かないぞ」という気持ちで、日々お会いしようと努めている私です(^^)

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「一緒に考えて行きましょう」.....

●カウンセラーと来談された方の「共同作業」とは何か


 誰が悪いのかを言い当てて
 どうすればいいかを書き立てて
 評論家やカウンセラーが米を買う
 迷える子羊たちは彼らほど賢いものはいないと思う
 あとをついて行けば何とかなると思う
 見えることとできることは別物だと米を買う


 これは、若き日の中島みゆきの傑作アルバム、「寒水魚」に収録された「時刻表」という歌です。

 かなり皮肉っぽい脈絡で「カウンセラー」が引き合いに出されています。

 もし、カウンセラーというものが、社会の大多数の人から、クライエントさん(カウンセリングに来られた一般の皆様)から悩み相談を受ければ、答え一発、適切なアドバイスをしてくれて、それに従っていれば問題や悩みは見事解決、というふうな存在として、すでに信頼されて来ていたとすれば、カウンセラーは、とうの昔に、弁護士以上に人気が集まり、収入も多い、専門職の筆頭になっていたことでしょうね。


*****


 でも、だからといって、カウンセリングをはじめるにあたって、カウンセラーの方から、


「カウンセリングとはそのような魔法ではありません」


とか、


「あなた自身が答えを見つけていくお手伝いをするのです」

「本当の答えはあなた自身の中に眠っているのです」


などと前もって解説してしまうことに、私は大きな違和感があります。


 やっぱり、どこか、クライエントさんの機先を制して、過剰な期待を抱かないように前もって警告することで、カウンセラーが「自己防衛」しているかのような漠然とした居心地悪さを、カウンセラーである私自身が感じてしまって。


*****


 一見これと似ていますが、
 カウンセリングを始める時に、


「これから、時間をかけて、一緒に考えて行きましょう」


という言い方を添えることもよくなされています。

 私は、この言い方の方がまだしもいいかなとは感じています(^^)


 しかし、そもそも「一緒に考えていく」とはどういうことなのかについて、そのカウンセラーに明快なビジョンがあるのでしょうか?

 少なくとも、一般の人同士が「お互いに知恵を絞って解決策を探す」ということを超えた、カウンセラー側の専門性を生かした「何か」をも意味するはずです。

 このことについての、私なりのとらえ方をこれから述べてみたいと思います。


*****


●カウンセラー側の「思い込み」が少しずつ壊されていくことが、好ましいカウンセリングの必要条件


 カウンセラーにとって重要なのは、学んだ知識とそれまでの様々な現場でのカウンセリング体験に基づき、クライエントさんのや、やり取りの中での反応に基づき、そのクライエントさんについての的確な「見立て」を立てて、「仮説」を刻々と形成していく能力と、その後の展開に即してそうした一度立てた「仮説」を刻々と「修正」し、それに応じて更にクライエントさんへの対応を調整していく能力だと思います。

 仮説を立てる際には、カウンセラーは知識と過去の経験を総動員して、クライエントさんをある「タイプ」に類型化し、シミュレーションしようとします。

 そうした仮説を「修正する」とは何か? それは、カウンセラーが、そうしたいったん立てた仮説と「矛盾する」とも感じられることをクライエントさんの反応や発言から敏感に感受し、拾い上げるということです。

 これは、カウンセラー自身が、それまでの、クライエントさんについての自分自身のそれまでの「思い込み」「錯覚」から目覚める(「脱錯覚」する)ことを自分に許すことができるかどうかというセンスです。

 つまり、クライエントさんの反応が、カウンセラーの予想を裏切る「意外な」方向に向かうという刺激がある程度ないと、カウンセラーは「その」クライエントさん固有の状況や心理に更に迫ることはできない。

 素朴な例を出しましょう。

 名門とされる中高一貫女子校、エリートを輩出し、洗練された人間が多いという大学に入学し、しかも在学中に1年間の留学経験もして外資系企業に勤務した女性がいたとします。見た目も話しぶりも「いいところのお穣さん」ふう。こうなると、カウンセラーといえども、「彼女は裕福な中流以上の家の恵まれた環境で育った」という方向に思い込みやすいわけですね。

 ところが、その彼女が、かなり田舎の酒屋の娘であり、父母ともに際立った高学歴でもなく、酒屋の経営は不安定だった、などということも話し出したら、カウンセラーといえども一瞬戸惑うのが自然でしょう?

 カウンセラー自身がいつの間にか思い描いていた「幻想」=クライエントさんについての「思い込み」が大いに揺るがされるわけですね。

 こうした「理解を超えた矛盾した事実」に直面したときに、冷静さを失わず、むしろ彼女の真実に更に迫れるチャンスを得たことに感謝すらしながら、こうした見かけ上の「矛盾」を大事に抱えながら面接を続け、適切なやり取りを重ねる中で、そうした「矛盾」に適切な「補助線」を引いてくれる事柄をクライエントさんから自然に引き出せるやり取りができてこそ、カウンセラーの専門性なんですね。

 そして、こうしたやり取りの中で、クライエントさん自身の自己理解が深まり、その結果、更に、クライエントさんにも思いもよらないことが思い出され、語られたりして、それがまたもや、カウンセラーに、自明の前提として立てていた仮説の何らかの見直しの必要を感じさせる.....といったジグザグの相互作用が進んでいくのが、クライエントさんにとっても、カウンセラーにとっても好ましい、カウンセリングの展開だと思います。

 こうして、いわば正-反-合の「弁証法的な」相互作用が進んでいくということが、カウンセリングがカウンセラーとクライエントさんの「共同作業」の本質だと私が考えているものなのです。

 敢えて言うと、カウンセラーの「予想を覆す」ことをクライエントさんが語るということが、ある程度以上頻繁に生じてこない面接過程というのは、むしろ何かおかしな状態に面接全体がはまり込みつつある可能性が高いと思います。

 あるいは、カウンセラー側の「思い込み」に反することを、クライエントさんが何も言葉にできなくなっているのかもしれない。

 例えば、カウンセラーの方が、自分の仮説で引っ張り過ぎているために、カウンセラーの仮説を補強する方向の話題しか拾い上げられず、そうでなければ、クライエントさんが自然と語りだしたかもしれない方向にわだいがそもそも向かわなくなっているのかもしれません。

 あるいは、クライエントさんの語ったさりげない言葉の中に含まれている含蓄に気がつかないままでいたり、同じ「ええ、そうですね...」といった応答の声の調子に含まれる、「一応そうとはいえるけど、それだけではない」だとか、微妙な違和感のトーンを拾いきれないままになっている場合も考えられます。

 クライエントさんは、カウンセラーを「先生」と思っていることが少なくないので、一応うなづいて、そのまま受け入れてみようとすることも少なくないであろうことも配慮せねばなりません。カウンセラーの語ることを修正したり、否定したり、話題を転じることだけでも、クライエントさんにとってはなかなか勇気がいったり、タイミングがつかめないものです。

 ことに、カウンセラーの指摘が、そのクライエントさんが普段から思い悩んだり、「そこを衝(つ)かれたら痛い」と感じている点だったりしたら、なおさらのことです。

 仮に、クライエントさんが否定的にのみとらえすぎている点を、さりげなく評価する発言だったとしても、その段階のクライエントさんが受け入れるには、まだ早すぎるという場合もあるでしょう。「先取りのし過ぎ」も、面接の流れをおかしくすることがあるのです。


****


 実は、カウンセリングの醍醐味は、カウンセラーのいかなる予想とも、クライエントさん自身のいかなる予想とも異なるけれども、思いもよらない新鮮な次元で二人とも納得でき、専門家であるはずのカウンセラー自身のそれまでの人間観や臨床的経験知にすら微妙な変化が生じるような展開が直後のやり取りの中で生じることなのだと私は常々思っています。

 クライエントさんだけでも、カウンセラーだけでも、注意を向けなかったようなところにどちらからともなく立ち止まり、それをきっかけに新たな認識の地平を二人が共有できる、小さなステップが小刻みに進むのがいい面接なのだとおもいます。

 二人とも、思いもよらない新鮮な次元で二人とも納得でき、カウンセラー自身のそれまでの人間観や臨床的経験知にすら微妙な変化が生じるような、新たな地平を二人が共有できる、小さなステップが小刻みに進むのがいい面接なのだとおもいます。

 これは、カウンセラーとクライエントが「共に流される」ことと似ているようで、実は異なる「何か」です


 つまり、カウンセラーにとってですら、それまでのやり方がそのまま通用し、何ら新鮮な体験を伴わないような面接が繰り返されるようなら、それはカウンセリング経験が深まり、ある一定の境地に達した結果などではなく、むしろそのカウンセラーのカウンセリング能力が「硬直」し、「形骸化」する弊害の方が大きくなり始めた兆候であるとすら、私は考えます。

 カウンセラーの言った事に対して、クライエントさんが「いや、そうではなくて....」と口にして言ってくれたら、むしろそのことをクライエントさんが与えてくれた絶好のチャンスと感じられること。
「まさにそのとおりです」といわれたら、クライエントさんは無理してカウンセラーに迎合している可能性も一応疑ってかかるくらいが、いい塩梅(あんばい)だと私個人は感じています。

 .......もっとも、このことを大事な信念としているはずの私であるにもかかわらず、いまだに「思い込み」のままに面接を進め、クライエントさんに違和やご不満くすぶっているケースもまだ結構見られる気がいたします。

 どうか、そういう際には、面接の中で、遠慮なくご指摘いただけることを祈っています。


*****


 こうして私は、面接の中で、クライエントさんによって、カウンセラーですらも、自分の思い込みから少しずつ目覚めさせられていくものだということを述べてきました。

 これは、カウンセリングとは、カウンセラーの方が、客観的な見方をできていて、クライエントさんの方は、自分の一面的な、あるいは、歪んだものの見方を修正されていくもの、という、常識的な考え方に敢えて一石を投じるつもりで書いてみたものです。

 
*****


 例えば、行動療法ですら、行動計画をクライエントさんが実現できない壁にぶつかった時に、クライエントさんに実現可能そうな、更に小さな行動ステップをクライエントさんに「創造的に」提案し、新鮮に受け止めてもらえ、セラピストとクライエントが協力して達成しようという関係性が成立した時に効果が目覚しいのではないか。

 山上敏子先生の行動療法の事例報告に触れる度に私が感じることですが。


 認知行動療法のセラピストですら、ほんとうの達人の先生方は、このこと....つまり、クライエントさんからの話を謙虚に傾聴し、思いもよらない次元の話をたくさん聞かせてもらってはじめて、そのクライエントさんの心情や状況にほんとうにフィットする、無理のない提案ができ、クライエントさんにも、率先してやってみようと感じてもらえ、モチベーションを高めてもらえることを、よくわきまえておられる気がしてなりません。
 


*******


◇この問題について更に関心を深めたい人にお勧めの本:

●ユング「心理療法論」林道義 編訳 みすず書房

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2008年8月26日 (火)

カウンセリングに熱を入れすぎると欝症状が悪化する?

 タイトルでお書きしたこと、実は、医者やカウンセラーの間で結構言われることなんです。

 「カウンセリングに熱が入り、クライエントさん自身も深く内面を語ることを進んでやっている場合でも、その直後に、まるでその反動のように、欝が悪化することも多いことに用心せよ」


そして、


 「内面を深く掘り下げたり、洞察や気づきをめざすような、毎回1時間におよぶ心理療法的アプローチは欝の患者には適さない。認知行動療法のみがその弊害が少ない」


ともよく言われます。


 このような考え方を重んじるお医者さんの中には、それゆえ、患者さんがカウンセリングを受たいと言い出すといい顔をしない先生もかなりいます。

 同様にして、カウンセラーの中にも、その人が欝だと知ると、カウンセリングよりもまずは「病院とつながる」ことをクライエントさんに勧め、病院とつながった後カウンセリングに来なくなったら胸をなでおろしていさえするのではないかと誤解されかねない方々も、少なからず見受けられる気がします。


******


 欝傾向のあるクライエントさんには、お医者さんの受診も勧め、必要ならば投薬治療も受けてもらうことが大事です。

 カウンセラーとしての私も、まずは通院も並行してお始めになってみること(あるいは通院の再開)をお勧めすることが多いです。

 お医者さんの「休養を要す」という診断書が出された場合、ある程度じっくり休養に専念されからカウンセリングを再開した方がいい場合も少なくないのは事実ですね。

 カウンセリングルームに通い、カウンセラーに話をすることそのものがご本人の「無理」と「負担」とストレスにばかりなるようでは反治療的なのはいうまでもありません。


*****


 しかし、かなり重たい欝で、どれだけ通うのがたいへんでもカウンセリングルームにも通いたいと願うクライエントさんもかなりの数おられます。


 別な記事でも書きましたが、そもそも

「頑張らなくてもいい」
「何事もそこそこに」
「ゆっくりと休養をとって」

などといわれると、どう過ごしたらいいのか見当がつかなくなり、焦りが空回りしやすく、その挙句に追い込まれて孤独の中で絶望しやすいのが、欝になるクライエントさんには見られがちな傾向です。

 そして、欝のクライエントさんの多くは、心が通じる信頼できる人との交わりに支えられていることを、一方で強く求めているものなのです。


****


 欝傾向の強いクライエントさんご本人が望みもしないのに、内面に深く触れ、深く見つめる方向にカウンセラーが導くことは確かに危険だと私も思います。

 しかし、クライエントさんが自らの内面を深く語りたいと欲し、自然とそれをお語りになれる時、それが悪い形にリバウンドしないように援助できるかどうかは、ひとえにカウンセラー側の傾聴の仕方、間柄の作り方のセンスだと思えます。

****

 ひとつ言えるのは、「無理をしやすい」欝のクライエントさんの相手をするカウンセラーも、いつの間にか「頑張って、無理をして」、クライエントさんの心情に共感し、理解しようと知らず知らずのうちに「無理をして」頑張り、サービスしようという方向に引き込まれやすいのですね。

 そして、しばらくそれを続けた挙句、少し疲れた頃に、まずはカウンセラーの側の無理が続かなくなり、些細なきっかけで、それまでのクライエントへの丁寧さを保てなくなり、そういうときに限って、クライエントさんとの信頼関係に水を差すようなコミュニケーションの行き違いが生じることが少なくない気がします。

 まずは、カウンセラーの方が、自分の無理に敏感に気づき、自分自身にとっても、クライエントさんにとっても無理にならない水準でのやりとりを見極めることができるだけの「心の余裕」を取り戻す必要がある気がします。

 すると、そういう「余裕」がクライエントさんにも伝染し、その時「無理をしてでも」語り尽くしてしまおうという衝動が緩むという、いい循環がはじまる気がします。


*****


 要は、カウンセラーが、面接の場の中での自分の心身の状態全体を緩やかに味わえるだけの余裕ある「間合い」を自分自身との間に見つけていければ、それはクライエントさん側の、自分の心身との適切な「間合い」として反映するということです。

 こうして、気持ちを整理して、適切な間合いを見出しすことを重視するアプローチは、産業医科大学の増井武士先生の「心の整理法」や九州大学の田嶌誠一先生の「壷イメージ療法」をはじめとして、九州・福岡発のアプローチが全国で注目を浴びています。

 しかし、こうした技法も、杓子定規に形だけなされたら、患者さんのストレスや物足りなさにつながるようにも思います。

 治療者が面接場面での自分の心身で感じることを余裕ある間合いで味わえることがベースラインになってはじめて効果を発揮するのだと思います。


 私の専門であるフォーカシング技法においても、"clearing a space"という、個々の気がかりな事柄に巻き込まれることなく、それを一渡り見渡して、その存在を自分で認めてあげた上で、適切な距離から俯瞰する技法が大事にされています。


 「スープの匂いをかぐためには、スープの中に鼻先を突っ込んではうまくいかない」


.....フォーカシング技法の創始者、ユージン・ジェンドリンの言葉です。


 これは、まずは、面接の場で刻々と心身に感じられて来ることに対して、まずはカウンセラー側に必要な、場の「抱え」のスタンスだと思えます。


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 認知行動療法の場合でも、ひとつ間違うと、欝のクライエントさんはその課題を果たすことそのものを相当ストレスに感じたり、あるいはいつの間にか「熱心になり過ぎて」リバウンドにはまる危険という点では、根本的な違いはない、というのが、カウンセラーとしての私が、すでに認知行動療法のプログラムを最後までやり遂げた経歴のあるクライエントさんと何人もお会いする中で感じてきたことです。

 学会や臨床心理士の研修会などで、事例発表を拝聴させていただいても、認知行動療法系のカウンセラーの方で、確かに成果を上げ、現場カウンセラーとしても有能と感じさせる先生の持つ臨床センスは、結局他の療法のカウンセラーにとってもセンスあると思われる、技法として明文化されていない、隠し味的で、流派を超えて普遍的に共有可能な、患者さんとのコミュニケーション・スキルに支えられているように思えます。

 つまり、カウンセラーの側も、いい意味での心身の余裕を保ちつつ、クライエントさんとの関係全体を、緩やかに抱えるというバランス感覚をお持ちのことが多い気がします。
 

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ユングの「心理療法論」より

 「弁証法」とは、古くは古代ギリシャのソクラテスが、単に深窓の閉じた部屋の中で古今の書物を相手に熟考するのではなく、ポリスの街角で意見の対立する相手と具体的な議論をする中ではじめて、その相手にも納得してもらえると考え、実践したことにはじまる。これらは「対話篇」と呼ばれる一群の著作として伝承される。

 近代に至り、ドイツのヘーゲルがそれを更に発展させ、ある考え方(正命題)に対して、それと矛盾対立するする考え方(反命題)が定立され、それを更に高次元で統合する第3の考え方が生じることではじめて解決〈止揚)されることを「弁証法」と呼ぶようになった。

 この「弁証法」的プロセスが前に進むことを、一般に「正-反-合」などと呼ぶ。

 一方が正しく、他方が間違っているというのでも、単なる「妥協」でもない、新しい次元で解決されていく筈というもの。

 わかりやすく言えば、「白」か「黒」かでの議論は、〈単なる「灰色」ではなくて)、「黄色」という高次元の答えが見出されるというのが「弁証法」のプロセスである。「色つき」という次元を想定していなかったという点では、「白」だけでも「黒」だけでも制約されていたことになる。

 ヘーゲルは、これを哲学的な議論にとどまらず、社会現象や歴史の動きのダイナミズムという現実事象そのものにも適用した。

 それを再解釈して、経済学や共産主義革命理論を作り上げたのがマルクス以降の人たちである。

 ユングはこうした「弁証法」プロセスを心理療法的な相互作用の次元に応用し、専門家の心理療法家の方が、患者(クライエント)よりも、経験や専門知識によって、患者の心の問題をよりよく理解でき、解決への処方箋を持っているというわけではなく、かといって患者自身のほうが自分のことをよくわかっていて、自分で出していく答えの方が正しいというわけでもなく、心理療法の場で、二人のあいだで生じる相互作用過程の中で、双方が先入観にとらわれるだけではないやり取りをして、それぞれが知的にも情緒的にも揺さぶられたり困惑したりを乗り越えようとする「相互作用」の過程で、はじめて、患者も成長し、療法家自身も成長すると考えたのである。

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※ 以下の引用は、すべて、ユング「心理療法論」林道義訳 みすず書房 1989に所収の論文より。

 この著作は、林道義氏によって選ばれたユングの個別の論文の選集である。

 未確認だが、恐らく個々の論文は、現在の、より新しい「ユング著作集」などでは各巻にばらばらに新訳で掲載されているかもしれない。この時の邦訳にしか掲載されていないものもあるかもしれないが。

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 「いやしくも個性的な人間を心理的に治療しようとする限り、私はよかれあしかれ自分の方がよく知っているとか権威をもっているという気持ちや影響を与えようという気持ちをすべて捨て去らねばならない。
 私は必然的に弁証法的なやり方をとらねばならないが、これは相互の見方を比較するということを前提としている。

 しかしこのことは、私が相手[=患者]に、私の予見によって制限されることなく自分の内容を十分に表現する機会を与えるときに、はじめて可能になる。この表現によって彼の体系が私の体系に関連させられ、それによって私の体系に反応が引き起こされる。
 
 この反応は、私が個人として正当に私の患者に対置することができる唯一のものである。

 (中略)この態度から少しでも外れると暗示療法を意味するが、(中略)暗示療法とは、他の人の個性について知っているとか解釈できると僭称し、それを実際に行なうあらゆる方法を指している。

(「臨床的心理療法の基本」 邦訳p.7-8)

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 「医師は一般に感染やその他の職業的危険にさらされているが、同じように、心理療法家も恐ろしい心理感染の危険を背負っている。こうして彼は一方で患者の神経症に巻き込まれるという危険の中におり、他方では個人として患者の影響を遮断しなければならないが、あまり遮断しようとすると治療する力を奪われてしまう。

(同 邦訳p.29-30)」

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成功から心理療法家が学ぶことはほとんどまったくない、というのも成功はよりによって自らの誤りを正当化してしまうからである。そして失敗は極めて貴重な経験である、というのも経験にはよりよい真理への道がひらかれているのみならず、それによってわれわれが自分の見解や方法を変えざるを得なくなるからである。

(「心理療法の目標」 邦訳p.37)」

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 「心理療法においては、医師が確固とした目標をいっさいもたないほうが実のところ賢明であるように私には思われる。医師はおそらく自然や患者の生きる意志ほどには、その目標をよく知ることはできないであろう。人間の生が下す偉大な決定には、一般に意識的な恣意や善悪の分別よりも、はるかに多く本能その他の神秘的無意識的な要因に従っている。ある人にぴったりする靴は他の人には窮屈であり、普遍的に該当する生の処方箋など存在しない。一人一人がおそらく自分自身の中に自らの生の形式・非合理的な形式・をもっており、それより他の形式の方が優るなどということはありえないのである」

(同 邦訳p.41-42)

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 「世界観[価値観]は療法家の人生を導き彼の治療の精神をかたちづくる。それは最も厳密な客観性をもっているとはいえ、なによりも主観的なものであるため、恐らく何度となく患者の真実に触れて砕かれ、そしてその真実によって新たに再建される。すなわち、信念は容易に自身に変わりそこから悪くすると硬直に変わる。硬直したのでは生きているとはいえない。信念は強いと言うことは、それが柔軟で修正が効くということであり、あらゆる高度な心理と同様に、信念が皆に認められるのは自らの誤りを認めることによってである

(「心理療法と世界観」邦訳p.68)

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 「(前略)このような場合には、療法家が患者の真実にふれて自分の信念が壊れてもいいと思っているかどうかという問題が浮かび上がってくる。もし患者を引き続いて治療したいと思うならば、彼は患者とともに先入観なしに探求の旅に出て、その激情状態にふさわしい、宗教的・哲学的信念を発見しなければならない。

 (中略)しかし療法家が患者のために自分の信念を俎上にのせることを嫌うと、彼の基本姿勢が頑(かたく)ななのではないかという疑問が当然頭をもたげてくる。彼は恐らく自信を失いたくないので譲歩することができない。しかしその自信によって彼は硬直化の危機にさらされているのである」

(同 邦訳p.70)

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2008年8月27日 (水)

「ケーススーパービジョン」とは何だろう 〜入門編〜

 まず、一般の皆様のために説明いたしましますと、「ケーススーパーバイズ(ケーススーパービジョン)」とは、カウンセラーが、自分のクライエントさんとのカウンセリングのついて助言と指導を受けるために、経験豊かなカウンセラーに、一定の時間と時刻を決めて、一定料金を払い、多くの場合、ある程度継続的・定期的に相談することをいいます。

 これに対して、カウンセラーが、自分のカウンセラーとしての資質を自己修養するために、自分の流派の先達をカウンセラーとして、実際に「本物の心理療法」を本気でみっちり継続的に受けること「教育カウンセリング〈教育分析)」といいます。


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 日本の心裡臨床家の世界では、この「スーパーバイズ」「教育カウンセリング」ということが混同なされていることがまだ少なくなく、クライエントさんとの関わり方について助言を受けに来たカウンセラーが、

「このクライエントさんとうまく行かないのは自分の性格にまだ未熟なところがあるためだ」

という「自虐的」モード(!)にはまりやすいのですが、


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 私は「スーパービジョン」「教育カウンセリング」は、本来、別人の先達に、切り離して受けるのが正しいという考え方に立っています。

 少し厳しいことを言うようですが、プロって、結果がすべて、「自分の性格がまだ至らないからだ」といくら弁解しても、言い訳にならないでしょうし。 


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 「スーパービジョン」とは、あくまでも、すでにプロの(あるいは、プロになりつつある)カウンセラーが、自分のカウンセリングの技量を磨くための場です

 その一方、「教育分析」は、本当に情け容赦なく自分が「クライエントになって」自分を見つめなおすことです。

 カウンセリング技量の向上と、カウンセラーの人格的成熟、この二つには、当然切り離しえない側面もあります。しかし、どちらが主で、どちらが「背後で暗黙のうちに結果的に伸びていくこと」なのかは、はっきり区別する「別の設定」がある方が生産的と思います。

 もっとも、教育カウンセラーとスーパーバイザーの考え方があまりに異質だと、若いカウンセラーの皆さんは混乱するだけになるとは思いますから、そのあたりは先輩や指導教授と話し合って決めるのがいいかもしれませんね。


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「ケーススーパーバイズ」が先で、「教育カウンセリング」は後から始めるのでも、何も問題ないと思いますよ。「完璧に成熟した、性格的欠点のない人」なんてこの世に居ませんから、改めて自己修養の必要を感じた時点で「教育カウンセリング」を始めるのでも一向構わないと思います。

 付け加えますと、「スーパーバイズ」も、「教育カウンセリング」も、大学の自分の直接の指導教授には受けないのが、正しいあり方です。

社会的に直接の「上下関係」にあるもの同士では「本当の修行」になりません!! 時には別の流派の先達に教育分析やスーパーバイズを受ける方が効果的なこともあります。、


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 さて、ケーススーパービジョンにおいて助言を求められるカウンセラーは「スーパーバイザー」と呼ばれます。

 実は、スーパーバイザーをするには、そのための特別な資格があるわけではあません。敢えて言えば、助言を求めに来たカウンセラー(「スーパーバイジー」といいます)が「臨床心理士」なら、「スーパーバイザー」も「臨床心理士」でないと、臨床心理士としての資格更新(5年毎)のための研修「実績」と認定されない、というくらいでしょうか。


 実は、私、湘南ではじめて開業した時に、開業の先輩に、

 「スーパーバイザーになるには何か資格認定協会に特別な書類を出して選考を受ける必要があるんでしょうか?」

とお尋ねしたんですね。そしたら、

「特にない」

とあっさり言われて拍子抜けしました。


 もっとも、個々の心理療法流派によっては、「その流派の心理療法の」正式な指導資格がある指導者を定めている場合もあると思います。

 あるいは、ある程度の規模を持つ相談機関では、機関内部での事例についての報告とスタッフ間での検討、あるいはその相談機関指定のスーパーバイザーのスーパービジョンを受けることが職務上の規定となっている場合もあるでしょう。

 しかし、流派や所属機関を超えて(並行して)スーパービジョンを受ける権利は、臨床家に保障されています。


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 私は、フォーカシングの研修暦があるなしとは関係なく、「流派を問わず」、スーパービジョンをお引き受けしています


 流派に関係なく共通する、カウンセリングのエッセンスというものの基本を学んでもらうことが可能と信じているからです。


 私のスーパーバイズの具体的な進め方については、続編として独立した記事にします。

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