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2018年7月

2018年7月 6日 (金)

ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54

 えーっと、ピアノ協奏曲についての本格的な解説はいずれ書きますが、その前に是非書いておきたかったことをやはり書いてしまいます。 

 「ウルトラセブン」最終話のピアノ協奏曲の使い方はたいへん過激なのは知る人ぞ知るところ。

「アンヌ、僕は人間じゃないんだ。M78星雲から来たウルトラセブンなんだ」

 その瞬間、逆光に照らし出されるアンヌとダン隊員とともに第一楽章冒頭が「ジャン!!」とはじまるあたりもかなりスゴいですが、同じ第1楽章の終結部に乗せて、セブンが怪獣にやられまくるあたりが一番凄いというのが同年代の知り合いの意見です。
 私は、地下を掘削しつつ驀進するドリルつきのタンクのシーンの背景で、第一楽章第一主題のあとの経過句が流れるあたりもたいへん好きなんですが。

 実は、私もこの曲が使われていたことそのものは忘れてしまっていたのです。しかし、一時期懐かしのテレビ番組の名(迷)シーンを次々さわりで見せる特番が流行った頃、頻繁にやってくれて、「そうだったのか!」。
 数年前に衛星放送でだったか全話再放送してくれたときに綿密に再確認しました。

 この「セブン」で使われたのは、往年のピアニストで早世した、ディヌ・リパッティのピアノ、カラヤン指揮/フィルハーモニア管弦楽のものです。

 

 当然最初見た小学校2,3年生の時点で私はこの曲のタイトルなど知りません。でも、曲が潜在意識に眠り続けていて、再会したとき(N響で中村紘子が弾いていた録画の教育テレビでの放送。中学2年の頃)に無意識を妙に衝き動かしたのは確かでしょう。

 ウルトラセブン、テーマも深かったし、隊員の服装や車のデザインが今見ても全然古くならないのです。たいてい、昔見た好きだった番組をもう一度見ると、記憶の中の生き生きとしたイメージとのギャップで興ざめするんですが、セブンはそんなことありません。

 などと、「どこがピアノ協奏曲の解説なんだ!」というあたりだけは、まずは書き残しておきたくて。

 念のためにいいますが、私はそんなにマニアックな特撮ファンではありません。「仮面ライダー」の頃から以降は見てませんから。それでも「マイティジャック」の音楽とかはかっこよかったなあ……。

「アイアンキング」のオープニングやエンディングも好きでしたし。

(98/9/2)

2018年7月 2日 (月)

ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44

作曲:1842年(P五重奏),1829年(P四重奏)
出版:1843年(P五重奏),1979年(P四重奏)


 

INDEX

1. 室内楽曲入門に最適?!

2. シューマンの室内楽への道

3. 曲の構成



1.室内楽入門に最適?!

そもそもこの「ロベルトの部屋」で、シューマンのそのジャンルにおける代表作、つまりシューマンの作品全体でもすでに普遍的に名曲視されている作品を取り上げるのは今回が初めてであろう。私が単なる「マニアック」という意識から曲を選んでいないつもりであることはすでに繰り返してきたとおりだが。

 なぜ私が連載当初有名曲を避けたのか。ひとつは、有名曲ならいろんな本にCDの紹介がでていて今更やらなくてもいいと思ったから。もう一つは、「親しみやすい曲なのになぜか無名の不憫な曲」の再評価ののろしを上げてやろうという思い。

***

 さて、皆さんは、もしここに、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンからチャイコフスキー・ドヴォルザーク、マーラーやブルックナーの有名曲、ストラヴィンスキーの3大バレエ音楽やらバルトークの管弦楽のための協奏曲や「弦・チェレ」ぐらいまでの曲を聴いてきた、一渡り入門期を脱しはしたが、室内楽曲となるとまだほとんど聴いてはいないというクラシックファンがいたとすれば、室内楽入門として何を薦めるだろうか。

 ちなみにここではバイオリンソナタ等のピアノ伴奏付きの二重奏曲は一応除外しよう。

 ハイドンやモーツァルトが好きならば、彼らの弦楽四重奏(五重奏)とかでもいいだろうが、はっきり言って現在の若い人達は、そういう形で室内楽を聴き始めてはいないのではないか。

 私は管弦楽になじんでいた人には、やはりかなり「シンフォニックな」聴き映えのする曲の方がなじみやすいのではないかと思う。しかもリズミックで構成が堅固で退屈する間がないくらいに音が詰まった変化に富んだ作品。

 ベートーヴェンでいえば「大公」トリオよりは「ラズモフスキー」の第3番、シューベルトとなれば、ご多分に漏れずだが、ピアノ五重奏曲「ます」、あるいは弦楽四重奏曲の「死と乙女」「四重奏断章」

 メンデルスゾーンでは、というより、ピアノ三重奏曲というジャンルの入門曲としては、やはり華麗で小気味いい第1番ニ短調。もちろん響きが分厚い弦楽八重奏曲でもいいのですが。ブラームスならば、ピアノ五重奏曲もいいが、最近シェーンベルクの管弦楽編曲版が結構でているピアノ四重奏曲第1番ト短調あたりならば、交響曲の延長として自然に聴けるはずである。ドヴォルザークとなると、あまりにありふれた選択だが、やはり弦楽四重奏曲「アメリカ」が、新世界交響曲との主題の類似性もあるのでなじみやすくて無難だろう。

 更に時代を下ってバルトークやストラヴィンスキーの管弦楽の有名曲が特に気に入った人は、いきなりバルトークの弦楽四重奏曲の4番あたりから挑んでもらうと、室内楽曲というのがこんなにも攻撃的でダイナミックで、多彩な音色の表現もできるジャンルということに新鮮さを感じられるかも。ショスタコビッチの交響曲に惹かれた人には弦楽四重奏曲の8番ピアノ三重奏曲の第2番

 何か、室内楽の永年のファンからすると、しょっちゅう聴いていたらくたびれそうな曲ばかり並べてしまった気がするが、私は何よりオーケストラ曲になじんでいる人の取っつき易さを優先したつもりである。

***

 そして、もう一つ忘れてはならない、室内楽入門のためのとっておきの推薦作が、我がロベルト・シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調Op.44なのである。

 すでに第1回でも書いたことだが、シューマンは古典的・構成的なソナタの枠組みで曲を作ろうとすると、きちんと作ろうとすればするほど、何かシューマン本来の奔放な楽想のはばたきの足を引っ張ってしまい、何か少し窮屈で中途半端な印象の作品を作ることが少なくなかった人である。交響曲ですら、あちこちで古典的ソナタの枠を逸脱させてシューマン自身の持ち味に引きつけて曲を作ったら作ったで、交響曲としての欠陥をいろいろと揚げ足取りされる始末。ピアノ協奏曲ですら、本来単一楽章のピアノと管弦楽のための幻想曲を拡張するという変則的な作られ方をする中で、幸運にも古典の足かせをかわすことに成功したのだと言ってもいいだろう。

 ところが、ここに、唯一の例外がある。基本的にはむしろ明快というのに近いくらいに古典ソナタ形式の作曲法を逸脱していない点では交響曲以上。にもかかわらず、およそ楽想とその展開のすべてにシューマンの個性が刻印され、しかもはじめて聴いた人にも奔放で新鮮なインパクトを与えるだけのたいへんな「聴き映え」をもった「一目惚れ」しやすい作品。そしておよそその楽器編成の曲種において古今東西のすべての曲の代表作としての評価に値する普遍的完成度を持つ逸品、それがシューマンのピアノ五重奏曲なのである。

 そもそも、この作品は、意外にも、弦楽四重奏にピアノを加えたピアノ五重奏曲というジャンルの歴史上はじめての成功作なのである。シューベルトの「ます」五重奏曲は第2バイオリンがなくて代わりにコントラバスが使われている以上、楽器編成としてはむしろ変則的なものである。

 バイオリンが一台だけのピアノ四重奏曲というジャンルならばすでに頻繁に作曲され、モーツァルトのト短調という超一級の名曲すら存在していた(この曲も室内楽入門に推薦です)。恐らく弦楽四重奏とピアノを組み合わせようという試みそのものはかなり以前から試みられていたはずだ(モーツァルトのピアノ協奏曲などしばしば弦楽四重奏のみの伴奏で演奏された形跡があることは、最近CDも発売されているので、ご存じの方も少なくないかもしれない)。だが、弦楽四重奏とピアノのために最初から作られたシューマン以前の作品は、ことごとく歴史に淘汰されてしまった。

ところが、シューマンのこの作品の後には、ブラームス、ドヴォルジャーク、フランク、フォーレ、ショスタコピッチなど、ビアノ五重奏曲の名曲は目白押しとなる。しかし、そうした中で一番親しまれているのは文句なくシューマンのそれだろう。

 この編成の成功作が出るのが遅れたのは、合奏曲としては最も簡潔で完成された形式と言われる弦楽四重奏に、ピアノというそれ一台だけでひとつの世界を持つ楽器を調和させて拮抗させるというノウハウを確立することのたいへんさにもあったのではないかと思う。

 しかも、ピアノという楽器そのものが、当時メカニカルな機構の点で日進月歩に改良され、オーケストラとも拮抗しうる派手な表現力の楽器へと変化しつつあった。リストのようなとてつもない天才的な演奏技巧の持ち主が現れ、ピアノは最も「センセーショナルな」楽器となっていった。

 現実に演奏会に行かれた方はご存じのように、録音の際に音量バランスを調整できるCD等とは異なり、ピアノという楽器とソロの弦楽器の音量差は実は大変大きなものなのである。ひとつ間違うと弦楽四重奏の方がピアノの添え物的伴奏に過ぎなくなる。弦楽四重奏そのものがすべての声部を調和よく表現する形式である以上、ピアノという楽器が「浮いて」しまう危険は大変大きいのである。

 後述するように、シューマンは弦楽四重奏のための習作には実に早くからチャレンジし、ハイドンやベートーヴェンをとことん研究していた。そして「室内楽の年」1842年には、一気に3曲の弦楽四重奏曲をごく短期間にたて続けに作曲して、Op.41という作品番号を与えて公刊することとなる。

 それらの四重奏曲は、十分に練り上げられた構成力にシューマンらしさが見事に融合したかなり優秀な作品ではあるが、聴いていて何か奇妙な物足りなさが残る。これはベートーヴェンの場合には全く感じないことなのだ。「何かが足りない」。シューマンは結局その奇妙な欠落感を、自分が得意とするピアノという楽器で埋めるしかないと自然に考えるに至ったのだろう。ある伝記作家は「弦楽四重奏では家庭音楽会でクララに出番がなくなるので」と述べているが。

***

 このピアノ五重奏曲を最初に聴いた経験は、私としては珍しく有名演奏家たちのライブである。中学時代、我が故郷、福岡県久留米市の、音響の良さで知られる石橋文化ホールに、「ヴィーン八重奏団」が訪れたのだ。この楽団の実体は、CDでいうところの「ヴィーン室内合奏団」だったのではないかと思う。第一バイオリンが、テレビのライブ中継でもおなじみの、先頃山歩き中の墜落事故という不幸な最期を遂げたヴィーン・フィルの名コンサートマスター、ゲルハルト・ヘッツェルだったのをはっきりと覚えている。ピアノはデムス。曲は地方での巡業公演らしく、モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークの弦楽四重奏版、シューマンのピアノ五重奏曲、そしてシューベルトの「ます」五重奏曲という超ポピュラーなもの。

 当時の私は室内楽曲は聴き始めたばかり、「ます」五重奏曲、「アメリカ」、ベートーヴェンのラズモフスキーの3番ぐらいしか意識的に聴いたことがなかった。「アイネ・クライネ」の、いまにして思えば何とも贅沢な弦楽四重奏版の小粋な演奏の後、ビアノのデムスが登場して、はじめと聴くシューマンのピアノ五重奏曲がなり始めた瞬間の「身体の感じ」を私は実によく覚えている。モーツァルトの時にはまるで感じられなかった分厚い和音の圧力が、予想もしないくらいの強さで身体を圧迫してきたのである。ほとんど骨が振動するような響きで。

 実はこのときのシューマンの曲の印象は、今やこの部分しか残っていない。いまにして思えばこの曲とするとずいぶんゆったりとした演奏だったように記憶する。しかし、室内楽の響きもこれだけ「身体に響く」ものになり得るという体験は私の中にしっかりと刻印されたのである。

 この曲との再会は大学学部生時代にFMで聴いたゼルキン/ブダペストQの演奏で、このときはじめて私はこの曲の真の虜となる。

2.シューマンの室内楽への道 

 クララの父、フリードリヒ・ヴィークとの訴訟に勝ち、クララと結婚した1840年、ロベルトは突然それまでのピアノ独奏曲一辺倒をやめ、歌曲ばかりを作曲する。この年が俗に「歌の年」と呼ばれるのはよく知られたとおりである。そしてその翌年、1841年には一転して交響楽的作品の作曲のみに集中したため、「交響曲の年」と呼ばれる。これには、第3回で述べた、1938-9年のロベルトのヴィーンの滞在期間中に、シューベルトの「ザ・グレート」を発見したことの刺激が大きいと一般にはいわれるが、「作曲家として認められるには交響曲で認められないと」とクララがけしかけたという側面も大きいらしい。

 その更に翌年、1842「室内楽の年」と呼ばれることになるが、この引き金は、ひとつには、新婚のシューマン家で友人たちを招いて頻繁に催されるようになった家庭音楽会の影響が大きいらしい。できあがった曲をすぐに試奏して手直しできるという環境が、シューマンの室内楽作品に、他のジャンルの作品に比べると推敲が行き届き、奔放さよりも緻密さやまとまりが勝った曲を多く生み出す原因にもなったろう。同じライブツィヒで活躍するメンデルスゾーンとの親友関係の深まりの中で、メンデルスゾーンの完成された古典的教養に基づく様々な示唆も刺激を与えたようである。

 実際、完成した室内楽曲をまずはメンデルスゾーンに見てもらうということが少なくなかったようである。そもそもこの年完成された3曲の弦楽四重奏曲はメンデルスゾーンに献呈されている。少し後の時期になるが、すでに先ほど述べたメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番ニ短調を、ロベルト自身「楽器間のバランスがすばらしい」と絶賛しており、自身のピアノ三重奏曲第1番ニ短調Op.63を執筆する引き金となったことは有名である。すでにヴィーン時代に始まったシューマンの古典主義への傾斜はかなりの程度メンデルスゾーンへの私淑の影響だろう。

***

 だが、シューマンの室内楽へのチャレンジは、この1842年に突然ふって湧いたわけではない。十代のうちから数限りなく試みられていたのである。友人たちや恋人時代のクララへの手紙にも、繰り返し、「今弦楽四重奏曲を書いている」という言及はある。「まだ習作だけれども」と書いたときもあれば、「今度のはハイドンと同じくらいにすばらしい」と自賛したりもしている。しかしそれらは皆完成作として世に問われることはなかった。

 唯一、1842年より遥か以前に作曲されて、ほとんど公刊寸前までいった室内楽曲がある。それは、1829年、まだロベルトが18歳の時に書いたピアノ四重奏曲ハ短調である。この曲は後に一度Op.5の番号を与えて出版することも考えたようだが、結局取り消された。この曲は1979年というかなり最近まで出版されなかったが、ついに1991年、プレヴィンのピアノにバイオリンのヤン・ウク・キムら若手が参加した豪華メンバーでついに世界初録音がなされた(BMG 09026-61384-2。国内盤あり。カップリングはOp.47有名な方のピアノ四重奏曲)。

 このピアノ四重奏曲は、同じ頃、第2楽章まで書かれてロベルト自身の指揮で初演までされた、俗称「ツヴィッガウ交響曲」(インバル盤[連載第1回参照]、マリナー盤[独カブリッチョ 10 094]があるが、第2楽章はマリナー盤のみ)の散漫さ(特に第2楽章はやろうとしたことは当時の水準を超える斬新な「交響詩的」展開の自由さはあるが、途中で収拾がつかなくなり、ものの見事に空中分解する)と比べれば遥かに聴き映えのする、一度お聴きになっても損はない作品である。

 確かに、いかにもシューマンという作風はまだほとんど見られず、何も知らずに聴かされたら「シューベルトの曲」という人が断然多いであろう。曲に洗練された構成美を与えるのが苦手で、どこか無骨でぎこちないところまでシューベルトの平均的な室内楽曲と本当によく似ている。もとよりシューベルトの和声の微妙な移ろいの味には欠けるが。

 ぎこちないなりに、かなりベートーヴェンあたりを自己流で研究した後が見られ、第2楽章の、一応メヌエットと題されてはいるがプレストの速さで実質スケルツォの楽章など、やや紋切り型で未整理ではあるが、妙にベートーヴェンとシューベルトののスケルツォを足して2で割ったような響きがある。

 第1楽章の開始など、ベートーヴェンのように劇的にやりたい気持ちは痛いほど伝わるが、如何せん、技法が完全に素人臭くて、ドタドタと無骨でぎこちないことこの上ないが、妙にその若気の至りの単細胞加減がほほえましい。第1主題を弦のトレモロの伴奏の上で悲愴に歌わせようとするあたりの発想はすでにいかにもロマン派的である。第2主題の旋律の歌わせ方が妙に初期のショパンと似ている瞬間があるのもおもしろい。終わりの方は結構やるナアというくらいにアパッショネートに盛り上がる。その割には最後の最後の「決め」に芸がないのはご愛敬。第3楽章のアンダンテの沈んだ感傷的な歌は、このようなむき出しのメロディは後年のシューマンは使わなくなったので、その「直接性」が妙に感性に訴える。

 第4楽章のロンドなど、ほとんどシューベルトの終楽章のセンスに近い(幸いシューベルトほど冗長ではない)が、例によって付点音符のついたスキップするリズムの和声のところどころに、私たちのなじんでいる後年のシューマネクな香りがほのかに漂う瞬間があるのは妙にうれしいものがある。

 後のシューマンの透き通るような独特のツヤ消しされた旋律美の代わりに、個性には乏しいが、いかにもドイツの多感な若者が精一杯赤裸々に歌い上げる初々しいメロディに、純真なのびのびとした美しさはある。まだ音楽教育がひどく不完全な素人に毛が生えた程度の18歳の若者の作品として見れば、はっきり言ってこれだけ書ければ「うらやましい」といいたくなる。やはりこの時点でこのくらいは書けないと後年のような作品は生まれようがないだろう。モーツァルトやメンデルスゾーンのような英才教育付きの早熟児ではないにしても、やはり凡人とは異次元である。今後演奏会で、ある程度取り上げられてもいい水準の曲ではなかろうか。音楽学校の学生あたりも、その青臭さ自体を面白がって気楽に弾くかも。

 もとより、作品1の「アベック変奏曲」や作品2の「蝶々」といったピアノ曲がすでに到達している歴然としたシューマンの個性や独創性、完成度からすれば、まだ花もつぼみの作品と言うべきで、シューマンが「作品5」の番号を与えるのを取り下げてしまったのは致し方のないところだろう。(ちなみにプレヴィン盤のカップリングの成熟したOp.47のピアノ四重奏曲の方は非常に洗練された名演で、ともに録音もきわめていいことを付け加えておきたい。)

***

 さて、1842年の「室内楽の年」に話を戻そう。

 作品42の3曲の弦楽四重奏曲は、6月2日から7月5日の間に第1番と第2番をほぼ並行して行きつ戻りつしながら作曲し、7月5日から22日の間に第3番に専心するという、非常に集中した形で書き進められている。ロベルトはこの曲の直前にベートーヴェンの後期の四重奏曲を熱心に研究した形跡があり、なるほど、形式的にはベートーヴェンほど自由ではなくてむしろ型にはまっているのだが、響きの作り方や和声の移ろいの質などの点で、ふとベートーヴェン後期のニオイが漂う瞬間があるのも確かである。

 第1番イ短調はそうした中では一番古典的なソナタの形式に気を使いながら書いた作品で、その分主題の推移や展開をきちんと技術的にこなすことにエネルギーが割かれ、やや杓子定規な堅苦しさ・平板さもあるが、第一楽章の序奏に続く主部の冒頭のファンファーレはいかにもシューマネスク、その後に続く第1主題のツヤ消しされたなめらかな歌い回しは完璧にシューマンの美学である。第2楽章スケルツォはピアノ曲などで見られるあのカッコのいいシャキッとした前のめりのリズム感。シューマンが聴いて感激したマルシュナーのビアノ三重奏曲ト短調に影響されているとのことである。終楽章の第一主題のドラマ性など、「クライスレリアーナ」のある種の曲の悲愴美に通じる。第2主題が、低音部がスコットランドのバグパイプの持続音のような独特の効果を持つのもおもしろい。

 私はこの曲を弦楽合奏版で弾いてみたら結構生えるのではないかという気もする。それどころかシューマン風のツヤ消しされた楽器法で管弦楽編曲版を作ってみてもおもしろいかもしれないと思うのだが。是非第一楽章の第一主題を大オーケストラのたゆとう弦楽器群で聴いてみたいのである。

 第2番へ長調は形式的にはより自由であり、第一楽章でもその分旋律がのびのびと草書体で歌いまくるという印象がある。弦の音の絡み合いも第1番より自然な「濃さ」があるようにも思う。第3楽章のスケルツォがいかにもシューマンにしかできない、大胆に音程が上り下りしながら「這い回る」不思議な幻想味があるもの。伴奏部のアクセントの臨機応変なずらし方がおもしろい。終楽章は一転してハイドン風の常動曲的な軽快なもの。しかしこの旋律の歌わせ方や、和声の移ろいの質は完全にシューマンのものである。

 第3番イ長調は、1番と2番の作曲が終わってから直ぐに着手したにも関わらず、曲に込められた叙情の自在な深さという点でははっきりとした進歩が見られ、形式的にもより独自性が増している。いろんな意味でプラームスの室内楽曲に通じる響きがあちこちで見られる曲という点でも興味深い。

 第1楽章は、一見前の2曲よりも渋い世界だが、ベートーヴェン後期の叙情性に一番迫る質がある気がする。3曲の中でこの曲が一番いいと私が思い始めたのはごく最近である。かなり通好みな世界だとは思うが。ちなみに冒頭のla-reの下降動機は、例によってClaraの名前を読み込んだものである。

 第2楽章のスケルツォが何とも独創的。何と変奏曲である。この変奏が進むに連れて響きがどんどんブラームスじみてくるあたりに驚かれる方もあるかもしれない。第4変奏の「大の男のすすり泣き」のような情熱の質など、ここだけ取り出したらブラームスの曲の一部と思う人が多いだろう。確かブラームス晩年のクラリネット(ヴィオラ)ソナタの中にかなりこの楽章と似た響きの変奏曲の楽章があったと記憶する。第3楽章の渋くて枯れた歌い回しなども、かなりブラームスに通じる響き。これは私の勘に過ぎないが、ブラームスはこの第3番の曲から学んだものが実に多いのではないか。

……一転して終楽章は、ここまでのくすんだ渋さを投げ捨て、突然ぎらぎらとした日差しの世界に回帰する。完璧にシューマンそのものの大胆極まりないシンコペーションと付点音符の競演というべき独創的なリズムの、ノリノリな風通しのいい明快そのものの明るい躁的な楽章。このリズムのノリは一度聴くとクセになる。ただ、やはり、この弾むリズムは、発想がどうみても弦楽器的ではない。弦楽器の深い線的な絡みの叙情の世界を自分なりに深め尽くした途端、突然シューマンの中に、久々にピアノの打楽器的な機敏なリズムの快感への虫がうずきだしたのではないか。

 なるほど、この次には、ピアノ付きの室内楽を作るしかなくなるのである。弦楽四重奏曲第3番の脱稿が7月22日。それからちょうど2ヶ月後、9月23日にピアノ五重奏曲の最初の草稿が書き始められる。

***

3.曲の構成

  • 第1楽章 アレグロ・ブリランテ 変ホ長調 2/2 ソナタ形式

 まさに「輝かしいアレグロ」そのもののダイナミックな楽章。変ホ長調といえば、ベートーヴェンの例を持ち出すまでもなく、ヒロイックな「英雄」の調性でもある。

 冒頭から全楽器の総奏で和音を踏みしめるようにして、豪快で輝かしい第1主題が登場する。私が実演で、その分厚い和音に「身体で圧力を感じた」と先ほど述べた部分である。この主題は全曲を統一するモットーとして形を変えながら繰り返して登場する。いわばこの作品の核となる部分である。

 冒頭の数小節の華麗さと豪快さは、この時点までの室内楽の多くの常識をはみ出すシンフォニックなものがあるように思う。そしてこの主題にこの作品の性格全体が見事に現れているのである。実はこの第1主題の冒頭の二分音符の四音に続く八個の四分音符をどのような表情とアクセントと歌い回しで弾くかは演奏者の解釈によってずいぶん異なり(巧妙に弾ませたり、かなりレガートにしたり、一音ごとに表情を微妙に変えたり、ピアノと弦楽部で表情を別のものにしたり、実にいろいろである)、その部分の解釈で曲全体をどういうトーンで演奏しようとしているか予測がつくくらいなので、聴き比べる場合には注目していい部分である。

 この第1主題は数回形を変えて繰り返され、続いてこの主題から引き出された、より柔和な旋律がまずはピアノで出て、ビオラ、第2バイオリン、第1バイオリンと受け継がれるうちに少しずつ高揚する。そこで、ピアノソロに、新しいリズミックな動機が、まるで「合いの手」を入れるかのように出る。この動機、最後の音がシャープ記号で半音しかあがらないあたりに、何かじらされるような独特のチャーミングさがあるが、ここからはじまる第2主題の叙情的な雰囲気に切り替えるための「つなぎ」として絶妙な効果を発揮するのである。

 第2主題は、少し速度を緩め、チェロヴィオラが2小節おきに対話する、何とも優美なメロディである。ピアノはそれをタタン、タというシンコペーションのシンプルなリズムの繰り返し和音で控えめに支える。この、チェロとビオラの受け渡しのあたりは、二人の演奏者の息を合わせるセンスのデリカシーが問われる聴かせどころのひとつだろう。まるでひとつの楽器のようにシームレスに。しかしよく聴くと、歳の離れていない兄弟の対話であるかのように、あるいは実体と影との対話であるかのように響かないとなならない。弦楽四重奏団の各楽器の音色や奏法、技量の統一性の度合いが非常によくわかる部分である。この楽器間の対話は、再び先ほどのピアノの「合いの手」を挟んで、今度はバイオリンの対旋律を加えて少し高揚した形で反復され、更にもう一度ピアノの「合いの手」。

 ここで唐突に第一主題冒頭のテンポに戻り、冒頭の動機に基づく少し緊張した楽器間の音のやりとりの後、シューマンお得意のヘミオラ的なリズムがピアノにきらめいて、そのまま第一主題を中心とする、全楽器によるダイナミックで晴れやかな小結尾に至る。

 提示部を反復する場合にはこの小結尾がそのまま和声を転じて全楽器が華やかに「なだれ落ちる」ダイナミックな接続部を経由して再び冒頭の主題に回帰する。このあたりは何とも効果的な輝かしいパッセージなので、この曲に関しては提示部の反復をしないのは何とももったいないということになると思う。幸い殆どの演奏がこの提示部は反復するようである。

 展開部は、提示部の総終止のあとで、まるで仕切り直すかのようにして、短調のゆっくりとした下降旋律がまずはピアノに出て、チェロ、ヴィオラ、バイオリンにに受け渡されていく。ここまでの華やかな快速さに急ブレーキをかけて、あたりの空気が急に憂鬱なトーンを帯びる。

 実はこの展開部冒頭に入るまで、曲は一貫して長調の和声中心に進んでいたので、ここでいきなり始まる短調の沈み込む楽器のやりとりは雰囲気を急変させる大変劇的な効果を上げる。私はこの部分で、ベートーヴェンの「悲愴」ソナタの提示部の後半の華やかな長調の展開のあとで、それを断ち切るかのように再び冒頭の序奏部の短調の悲壮感あふれる部分が回帰するときの効果を思い出す。もとよりシューマンのこの曲には最初の序奏部はないのだが、このような劇的な「仕切直し」のスタイルは、「悲愴」ソナタを意識しているかどうかは別にしても、明らかにベートーヴェン的な発想のように思う。

 この展開部冒頭の沈み込んだゆったりした部分で鬱積し、堰き止められたエネルギーは、冒頭主題を短調にしたモティーフの提示の部分から一気に放出されはじめる。
 引き続き、ピアノの延々とした分散和音のパッセージ……これ自体が実は提示部のあの優美な第二主題の変形……が駆け続けるのを弦楽器の長く引きのばした和声が支え、激流を一気に流れ下っていく。この展開部のぐいぐい流れていく表現スタイルは交響曲第4番の第1楽章の展開部のスタイルとも似ている(第4交響曲の第1稿はこの五重奏曲の約1年前に作曲されている)。途中1回だけ更に冒頭主題を短調で再現した後も延々とどす黒い情念の「激流下り」が続く。時々弦楽器やピアノが流れが岩ににぶつかって砕け散るように叫びをあげ、更にとうとうと流れ下る。

 だが、その流れが次第に長調の和声を準備する明るさの兆しを帯びはじめたかと思うと、そのまま再現部のあの輝かしい第1主題へと怒濤のように流れ込むのである。

 再現部は完全に型どおりに進んだ後、そのまま自然に明るいコーダにつながって終結する。

 ピアノと弦楽器群を、時には重ね合わせて分厚いシンフォニックな響きを出し、時には対等な形で「競奏的」に(「協奏的」に非ず)渡り合わせ、むしろソロの見せ場の多くをチェロやヴィオラに与えることによって、ピアノの華やかな音に弦楽器群が圧倒されないように配慮する(当時のピアノと弦楽の室内楽で、弦楽の低声部がピアノから独立した動きをとることはまだ少なかった)。
 ピアノは時には前に出て、時には背景で控えめな伴奏の役に回るが、全体としてみると、独奏曲の時ほど和音を重ねず、適度にシンプルな鳴らし方にすることによって弦楽部に対して出しゃばり過ぎない節度を保つ(といっても、シューベルトの「ます」五重奏曲が、オクターブの音ばかり両手で弾いて、まるでひとつの声部に過ぎないのような控えめな役割しか果たさない場面が多いのに比べるとかなり積極的。「ます」五重奏曲のピアノパートは妙に「軽く」できている)。
 ピアノをうまくソナタ形式の各部分の「合いの手」に使うことで、曲のひとつひとつの部分に異なる性格を与えて、次々と曲想が変わる、めくるめく多様性を内包させることに成功している。

 シューマンはソナタ形式を用いる実に多くの場合、再現部の一部を省略することが多かったのであるが、ここでは型どおりの再現部である。
 すでに述べたように、提示部と再現部をひたすら長調中心、展開部を短調のみと描き分けたことも、型どおりのソナタ形式にもかかわらず、再現部が冗長という印象を与えずに済んでいる。もちろん提示部自体旋律がみんな魅力的で、提示部内部の構成も実に対比効果の鮮烈な起伏に富んだものなので、自然と「もう一度」聴きたくなるせいもあるが。ベートーヴェン以降、ソナタ形式の展開部が肥大して見せ場の中心になる中で、再現部がやや冗長な部分になり始める中で、むしろ展開部の膨張を抑制しつつ提示部・再現部と対比度が強い内容にして、ソナタ形式の原型としてのA-B-Aの三部形式に回帰しているともとれる。シューマンの書いたソナタ形式の提示部としては最高の成功作のひとつだろう。

  • 第2楽章 イン・モード・ドゥナ・マルチア、ウン・ポコ・ラルガメンテ ハ短調 2/2 A-B-A-C-A-B-Aの、自由なロンド形式ともいえるが、それに緩-急-緩の三部形式の側面が巧妙に当てはめられたもの

 冒頭に静かに現れるピアノの分散和音は第1楽章冒頭のモットーの変形である。それに続いて始まる、しずしずと進む葬送行進曲の歩み(A)。時々冒頭のピアノのモットーが繰り返し「合いの手」として控えめに入る。

 しかしこの行進はショパンやベートーヴェンの葬送行進曲のムードともまた違う。音がひとつ二つ出る度に、弦楽器とピアノがすべて一斉に八分休符を挟む。沈黙を挟みながら「ぶつ切り」にぽつりぽつりと奏でられる旋律の、独特の「むっつりとした」肌触りは、一度聴くと忘れられないだろう。ここまで「休符」の沈黙の効果を、それこそ「サウンド・オブ・サイレンス」として生かし抜いた音楽は前期ロマン派当時では滅多にない。何かその休符の間隙を覗き込むと憂鬱な底なし沼が広がっているような。敢えていうと、シューマンの交響曲第4番の第2楽章にも、これにかなり近い孤独な沈黙のトーンがある気がする。この不気味なまでの沈黙感が、あの輝かしい第1楽章の後に来るというコントラストの大きさ。

 再び冒頭のピアノのモットーが出ると、この葬送行進曲はすぐ後でピチカートで終結する。そして今度は、ピアノの控えめな分散和音の伴奏の上で、弦楽器がなだらかな副主題の旋律を長い線を描きながら互いに織りなしながら静かに奏する(B)。そこには静かな悲しみの中にも淡い慰めの感触がある。

 そして再び葬送行進曲(A)の回帰。

 この行進曲が再び沈黙の中に消えた時、チェロに不穏な持続音が後を引く。そしてピアノの低い音が更に深くポツンポツンと奈落の底に落ちていく(この下降モティーフは第1楽章の展開部の入り口と共通のものである! そのために、普段頭の中でこの曲を口ずさんでいると、この部分からもうひとつの楽章にすり替わってしまうことが私にはよくある)。

 ここで曲は突然ヘ短調に転じてアジタート、テンポをアップしてピアノと弦楽器が「競奏的」に荒れ狂うドラマチックな対位法的やりとりをはじめる(C)。ここでモティーフとなる旋律は三連符と通常の八分音符を織り交ぜた、ぎくしゃくしたすんなり流れないものなのだが、それが一層弦とピアノの応酬を非常に葛藤的なものにする。弦楽器群の方はシューマンお得意の切分音を多用してズレを感じさせながらピアノに応酬しようとするが、なかなか応じきれない。

……沈黙の葬送行進曲の中から突然この不安定な焦燥感のあるアジタートの部分が始まるときの衝撃波は大きい。この部分、一度完成・試演した後で、この試演の際に身重のクララに変わってピアノを弾いたメンデルスゾーンの忠告を聞きながらかなり推敲し直したらしい。しかし曲想のはらむ深い「鬱」感覚とムラ気さは、根が上品なメンデルスゾーンには不可能な次元のものだろう。弦楽四重奏を献呈された時には「こいつもなかなかやるな」と見ていられたろうが、このピアノ五重奏を聴いたときには、自分にはないロベルトの資質に驚愕したのではなかろうか。

 もっとも、リストがシューマン家を訪問してこの曲を聴いた時、「ライプツィヒ風だね」と言ったのがクララたちには相当気に障ったらしい。「ライブツィヒ風」とは、「あのユダヤ人のメンデルスゾーンごときの亜流」というニュアンスが込められていることになる。ロベルトとリストは、互いの作風の違いを越えて個人的には互いを認めあい、リストはあのピアノソナタをロベルトに、ロベルトは「幻想曲」をリストにと、それぞれの最も独創的な代表作のひとつを互いに献呈しあっているのであるが、特にクララは「私、あの人好きになれませんわ!」だったようだ。

 話を五重奏曲の第2楽章の中間の激しいアジタートの部分に戻そう。この弦とピアノとの激しい対位法的やりとり(C)の後、曲は、何とこのアジタートのテンポと激しい雰囲気を引きずったままで、葬送行進曲の部分に回帰するのである(A。ここではチェロのソロが、実に雄弁に葬送行進曲の主題を奏し、続いてその旋律の後半はヴィオラ・ソロに託される。背景にはさざ波のようなピアノの伴奏。手の空いた弦楽器はトレモロの持続音と、(C)の部分の激しい音の動きを「合いの手」として入れる。

 結局、(C)と(A)の部分はこの曲の中間部・展開部としての効果を持つのだが、それが(C)のみならば一種のロンドソナタ形式として自然と納得できる。ところがここではそれに続く(A)までが展開部的役割を果たすあたりが異色である。ちなみにこの部分の演奏に関しては、パウル・グルダ/ハーゲン弦楽四重奏が、グールドもびっくりの、他の演奏と全く異なる過激な解釈をしていて、恐らく賛否両論だろう。

 ここまで来て曲はやっと本来の緩やかなテンポに回帰して、再び(B)の柔らかい主題を奏するのだが、直前の部分の激情の余韻を多少引きずる形で、一度目の登場の時よりもじっくりと歌い込まれる演奏が多いように思う。

 曲は最後に再び最初の形に近い、ポツリポツリとした響きの葬送行進曲(A)に回帰する。しかしこの最後の回のみが調性はヘ短調ではじまり、途中から実にさりげなくハ短調に復帰する。しかも旋律を受け持つ楽器以外はこの回のみピチカートで伴奏する。ロンド形式で主要主題の(途中はともかく)最後再現の際、途中まで調性が異なるというのはかなりの破格である。

 この葬送行進曲の最後の再現は、それまでよりも一層深い寂寥感を引きずりながらも、抑鬱の中に沈むというより、か細い中にも悲しみを「表に出して」歌い上げていくようにも感じられる。悲しみを受け入れる「喪の儀式」は終わったのだ。

 曲は終わりのほう、ハ長調の和声に徐々に傾いていき、弱々しいが、かすかな希望の光を感じるハ長調の弦の高い音域での主和音で終結する。この終結のかすかな明るさは、次の第3楽章へのつながりという点でも実に効果的である。

 ともかく破格のロンドソナタ形式であり、一応既成の枠を生かしているかに見せかけつつ、それを換骨奪胎して自分独自の表現に引きつけている。シューマンの書いた最も独創的なソナタ楽章のひとつであることは間違いない。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の第2楽章の独創性にも比肩する。

  • 第3楽章 スケルツォ モルト・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 A-B-A-C-A 6/8 ただしCのみ2/4

 シューマンの書いた最も輝かしくて独創的なスケルツォ楽章。

 冒頭からピアノが音階を駆け上がっては駆け下りる、まるで機関銃のようなダイナミックな打鍵のリズムの連打を繰り広げ、それに弦楽器群が分厚い和音で絶妙の合いの手を入れる。そのうちに弦楽部もピアノに負けじと、時には一緒になって、時には「競奏的」に、このダイナミックな音階の往復運動に参加し始める。このあたりのほとんどアクロバティックでスリリングで交響的な書法のリズミックな奔放さは、まさにベートーヴェンが引きずり出したスケルツォという書法の持つアグレッシヴでダイナミックな側面を極限まで生かし抜いた、圧倒的な音響空間である。室内楽曲がここまで徹底的に外向的で奔放な「サウンド」の饗宴となったことは歴史的にもそれまでなかったことだろう。これはもはや「家庭音楽」としての室内楽ではない。大ホール向けの音響の世界である。

 変ト長調の第1トリオは一転してなだらかな印象ピアノも控えめに背後に回る。しかしそれは突然のバイオリンの激しい三拍子の刻みを先触れにして再びあの華麗なスケルツォの部分に回帰する。

 このスケルツォの再現の後の第2トリオ!! 拍子は突然2拍子系に戻り、変イ短調、弦楽器になる常動曲的なパッセージが延々と続くのを、ピアノがまたもやタタン、タのリズムで支えていく。そのうちにピアノも常動曲的リズムに参加するようになり、弦楽器もピチカートの上昇音階でピアノに応酬する。そうこうするうちにこのリズミックな常動曲は独特のトランス状態の中に盛り上がるのである。

 このせかせかとしたタタン・タのピアノのリズムの強迫性と弦楽器群の小刻みな常動曲的リズムが絡み合う時の律動感、一見淡々としているようでいて奇妙にそこに何か無意識の底から衝き動かされ陶酔させられるものがある。敢えて不謹慎を承知で言えば、この律動感はまさに「性的律動」のそれなのだ。もっと露骨に言えば「ピストン運動」ですね(笑)。こういう印象を残したクラシックの音楽は滅多にない。「トリスタンとイゾルデ」にはピストン運動はないもんね。

 で、イクところまで行ったところで(笑)、そこまでの二拍子系の弦の刻みが突然スケルツォの3拍子系の刻みに切り替わるところのガクンと変速ギアを入れるリズムの切り替えの瞬間が、この楽章で私がいつも一番楽しみな部分である。いきなり三拍子の主題をはじめるのではなくて、まずは先触れの伴奏の弦の刻みをガクンと切り替えるというあたりが、何とも近代的な印象がある。

 この曲に限らず、シューマンはスケルツォ楽章で主部とトリオで二拍子系と三拍子系を対比的に用いるのが大好きだったが、私は少なくとも中期ロマン派までにおいて、曲の途中での三拍子糸と二拍子系の切り替えに関して、単純にしてこの曲ほど効果的な事例を他に知らない。

 曲は型どおりにスケルツォを再現した上で、ピアノがオクターブを往復して激しく打ち鳴らず和声に導かれる短いけれども華やかなコーダとともに終わる。

 ベートーヴェンの「セリオーソ」の最初の楽章やスケルツォ楽章、「ラズモフスキー第3」のフガート風常動曲の終楽章と並び、こと室内楽の分野において、殆ど打楽器的とすらいえる集中力に満ちたダイナミックなリズムの交響的饗宴としては、結局バルトークが登場するまで誰にも越えられなかった、「奇跡の楽章」のひとつだろう。

 こういう楽章になると、現代曲も得意な近代的でヴィルトゥオーゾな弦楽四重奏団の演奏が絶対有利である。曲そのものが全体の構成として実に効果的にできているために演奏の出来不出来の差が目立ちにくいこの作品の演奏で、練習や技巧の不足等で露骨にボロが出るとすれば、たいていこの楽章の演奏でであるといっていいようにおもう。

  • 第4楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ 変ホ長調 2/2 変則的なソナタ形式

 いきなり弦楽器の分厚いハ短調の主和音のスフォルツアンドの一撃で始まるこの曲の冒頭。弦はこの一撃の直後からすぐに背景に回り、小刻みな八分音符の同音反復の伴奏できれいなさざ波の絨毯を引いて、ピアノによる、あのあまりにもパンチ力があるリズミックな第1主題の到来を支える。

 そもそもこの変ホ長調を主調とする曲の終楽章がハ短調で決然と始まることそのもののインパクトはきわめて大きい。最初の楽章は短調で始まり、フィナーレが長調になるというのならば、モーツァルトのト短調ピアノ四重奏曲もそうだし、ベートーヴェンの第5交響曲以降ありふれた手法となる(メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲もそう)が、ここではその逆である。私が知る有名曲では、他ならぬシューマンの盟友、メンデルスゾーンの「イタリア」交響曲が、この、終楽章で短調に転ずる数少ない実例である。

 なぜシューマンはここでフィナーレを短調ではじめたのか。それはひとつには直前の第3楽章が明るくて華やかなので、シューマンが意識的に仕組んだフェイント攻撃なのだろう。恐らくたいていの作曲家だと、終楽章の序奏にゆったりとした短調の部分を置いて、おもむろに主部の第1主題は長調で……という形で問題を解決するところを(ベートーヴェンの七重奏曲やブラームスの交響曲第1番の終楽章等、事例は枚挙にいとまない)、シューマンはより大胆にしてインパクトの強い戦略で臨んだ。

 かといって、この終楽章が悲劇的かというとそうではない。この短調の主題の特異な魅力は実際聴いていただくしかないだろう。暗くも悲しくもない。なのに独特の軽佻浮薄さがあるのだ。

 私はこのピアノの主題を聴くと、いつもまるで女性にキツイ一言で突き放され、肘鉄を食らうような気分になる。別に前の第3楽章の第2トリオの「ファック・シーン」の後で、「フン、へたくそ!」とか「早すぎるわ!」となじられるわけではないにせよ(笑)、思わず、「あんた、なんか私にゃ10年早いわよ」とか何とか、節を付けて歌いたくなる。

 しかもこの終楽章のとくに第1主題の部分全体が、伴奏も含めて、非常にリズミックで「ビートが利いている」。それはこの主題が実は二拍子の二拍目から開始することで、見かけ上完全に「あと打ち」のリズム構造を持っているせいだろう。ほとんどディスコ・ミュージックにしても通用しそうな、何とも現代的でポピュラーチックな、思わず身体を揺すりたくなるノリの良さを持っている。しかし私が知る限り、この曲の旋律を使ったポピュラーソングはザ・ピーナッツもビリー・ジョエルもやっていないようである。昭和40年代の歌謡曲になってしまう危険はあるが、内田有紀のような、ちょっとだけつっぱったところがある若いアイドルにこのメロディで歌わせてあげたい気もするのだが。

 当初弦の伴奏でピアノのみで始まったこの圧倒的な魅力を秘めたリズミックな第1主題。実はこの主題は第1楽章冒頭のあの華やかな長調の第1主題の音を組み替えて短調にしたものである。この主題は、繰り返されるうちに、第1バイオリンあたりも実に激しいアタックでピアノに寄り添うように歌おうとするのだが、それすらこのピアノははねつけてしまう。何ともタカビーなメロディである。この曲の中でピアノが他の弦楽部をここまで完璧に伴奏に回して自分だけ目立とうとするのはこの終楽章の第一主題のみである。しかしそのピアノを支える伴奏部そのものが何とも効果的な快適そのものの音の絨毯の敷き具合。

気がついてみると、ピアノに次に出る、ならだらかな進行の旋律は長調になっている。それに今度はト短調でバイオリン・ソロが第1主題を気取ったタッチで弾いて、ピアノの方が和音で合いの手を入れるという役割交換。そしてさっきのピアノの長調のなだらかな上昇旋律がもう一度優しく包み込むようにそれを受けとめる。

 ここから経過句。ほのかに暖かい優しい親密な空気が流れはじめる。さっきの冷たく突き放すような態度は愛情の裏返しだったんだね(世間はそんなに甘くないやい)。ピアノはさりげなくはぐらかすように軽やかな動きで弦のピチカートの「合いの手」が絡む動きをはじめ、調性を移ろっていく、そこで最初はヴィオラに登場するなだらかなト長調の旋律が第2主題である。

 この第2主題は次々と他の楽器に引き継がれてフガート風に展開され、最後にはもう一度ヴィオラで歌われた後、全楽器による登り詰めるような激しい憧れに満ちた上昇の繰り返しを経て、短調の第1主題のピアノによる決然とした再現につながる。少し会話に乗ってきて心を許しはじめたかと思っていたら突然また「これ」だ。

 ここで曲想が転換、展開部に入る。この展開部は、シューマンがピアノ協奏曲の第1楽章の展開部の前半やバイオリン協奏曲の第1楽章のそれで見せたのに近い、寧ろ緊張から解放された詩的・散文的な「つかの間の安らぎの空間」という感じで、そんなに長くない(後述するように、この曲の真の展開部は、むしろ、延々と拡大されたコーダの部分なのだ)。

 一休みするように誘いかけるような穏やかな響きが、弦の中声部以下で奏でられる。それを受けるピアノとチェロの生み出す三連符を含むモティーフは、明らかにホルンの角笛の響きを模したしたものだろう。それにバイオリンが優しく応えたところで一度リタルランド。しかしまだどこかで何かが胎動していることを、チェロの旋律の断片とピアノの小刻みなゴロゴロ言う音の動きの断片が告げる。このバイオリンの「休みましょうよ」というようなやさしい下降旋律とピアノのゴロゴロはもう一度やりとりが繰り返され、ここでやっと全楽器が一度ゆったりとした安らぎのもとにリタルランドして小休止。

 ここでヴィオラを伴奏にしてバイオリンが全く新たな長調の旋律(コーダでもう一度出てくるので仮にとしておく)を伸びやかに歌い始め、他の楽器もそれに唱和するのだが、再び忍び寄るように短調の足音が次第に強く刻まれはじめる。

 そして嬰ハ短調で第1主題の再現。ここからが再現部であるが、提示部のハ短調の半音上からというのが何とも大胆。しかしここからは基本的には提示部と同じ形で再現部が構成され、第1主題が再現されて小結尾にいたる。

 ここで、まるで仕切直すかのように全楽器で長調で第1主題に基づく上昇音階が華麗に奏でられる(d)

ここから、もはや第2展開部としか言いようがない壮大なコーダが始まる。

 このコーダそのものがご丁寧にもA-B-A-結尾の二重構造になっている。この、ベートーヴェンの第5交響曲の終楽章のそれにも匹敵する、どこまでも別れを惜しむかのような終結部の膨張は、シューマン自身のピアノ協奏曲の終楽章でも見られるものであるが、このピアノ五重奏曲の終結部の長大化にははっきりした別の要因も絡んでいる。シューマン自身が一度10月12日にひとまず完成させた後で、先程述べたにあたる部分を10月16日に加筆したのだ。そのためにもう一度Aの部分を「再現」して終結させる必要が出てきたようなのである。

 まずはピアノにあかるく朗らかで和やかな旋律(A)が出るが、一見単純な四分音符の連なりのなだらかな旋律のようでいて、何か妙に余韻のある、半歩遅れて打ち込まれるような響きがしていることに気づいている人がどれくらいいるだろうか? シューマンお得意の切分音のさりげない活用で、八分音符ひとつ分だけ絶えず後ろにずれて小節線をまたいでメロディが書かれているのである。このメロディに途中から重なる弦楽器群の方は切分音なしで素直に弾いているのでこのズレの感覚はわかりやすいだろう。

 推測で言うのだが、この(A)のメロディが終わったところでそのまま結尾の盛り上がりに直進というのが、試演当時のこの作品の原型に違いない。例によって鼻歌で歌っていると思わずそうしてしまうのできっとそうである(と独断する)。

 ところが現実にはここからもう一度第1主題がピアノで歌い出されるのである。しかしここで弦楽器はピアノの第1主題を伴奏するのではなくて、この主要主題に基づくフガートとしてビアノにからみつき、徐々に展開されていくのである。ここからが前述の、後に追加されたコーダ(B)の部分。

 しかしこのフガートは実はまだ前座である。70%ぐらい盛り上がったところであっさり打ち切られ、展開部後半で用いられたの旋律がピアノに出てくつろいだ気分を作る。

 しかしそれも長くは続かない。徐々に「来るべきな何か」を準備するかのように徐々に力を蓄えて高揚していくのだ。その中で、華やかにはね回るピアノの背後でいつの間にかバイオリンに第1楽章冒頭のあのモットーがはっきりと奏されている。そう、この後で何かが起こるのだ。

 全楽器が盛り上がり、壮麗に和音を鳴らしてフェルマータ、偽終止する(演奏会でここで拍手をしたらひんしゅくものだけど、過去にこの過ちを犯し赤恥をかいたた聴衆は世界に数百人なんてものではないだろう)。

 ここから全曲を締めくくるにふさわしい壮麗な二重フーガが始まるのだ。ピアノにまず二倍の遅さにのばされた第1楽章第1主題冒頭が単音で出る。その伴奏でもあるかのようにして途中から付き従う第2バイオリンの旋律は、よく聴くとまさにこの第4楽章の第1主題を長調にしたものに基づいている。この二つの旋律の両方を同時に並行させて対位法的に処理して各楽器で徐々に編み上げられていくフーガ。まさに全曲をひとつに統一する壮麗なモニュメントである。

 これが終わって再びコーダの入り口、全楽器による第4楽章第1主題に基づく上昇音階に回帰。切分音の旋律(A)がまたもやピアノに出てそっくりそのまま再現され、さっきと同じ形で盛り上がり、今度はそのままストレートに結尾部へ。この終楽章の第1主題を長調に移して加工したモチーフを全楽器で明るく盛り上げて、楽しげに終結する。

……果たしてコーダ(B)のフガートが絶対必要だったかどうかには意見が分かれるかもしれない。人によってはくどいとしか感じないだろう。しかし、この曲全体のスケールの大きさからすると、(A)の部分一回だけで型どおりに素直に終結したのでは終楽章はバランス的にかなり竜頭蛇尾になってしまったといえるかもしれない。何しろ楽章開始からこのコーダに突入する再現部終了までの所要時間がわずか3分47秒。ここから先、コーダ全体は延々と更に3分33秒も続いている!(パウル・グルダ/ハーゲンQ盤による)。

 いずれにしても、この曲の終楽章、実はシューマンの前期のすべての作品の中で、私が二番目に好きな楽章である。特に冒頭主題の奔放さは、いかにシューマンといえどもそう滅多に書けなかった圧倒的な魅力を秘めていると思います。クラシック嫌いの人でも、生きのいい演奏で聴けば、この終楽章、そして第3楽章の新鮮な魅力には気づけるのでないかと思う。

***


 シューマンがこの曲で切り開いた室内楽の枠を越えた劇的で交響的な音の世界とドラマチックで力動的な曲の構成は、過去の伝統から飛躍した何かを秘めているように思える。もとよりベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」やチェロソナタの3番以降、「ラズモフスギー」の3曲、「セリオーソ」には、従来の「家庭音楽」の枠をはみ出す劇的ダイナミズムとシンフォニックな響きの追求があり、シューマンは明らかにこれらの曲の大きな影響を受けていた。

 だが、大ピアニストでもあったベートーヴェンですら、ピアノを加えた3つ以上の楽器による室内楽の世界では、ここまで交響的・劇的ダイナミズムを追求する作品は結局書かなかったのである。弦楽四重奏という抽象度が高い編成のみが、ベートーヴェンが一番過激な実験を試みる場になっていく。もしベートーヴェンの耳がピアニストをやめる必要があるくらいまで悪化しなければ、自分で演奏会で弾けるとなれば、チャレンジ精神旺盛な彼もきっとこの試みに挑んだとは思うが。

 まさにシューマンは、この曲で、ピアノと弦楽四重奏の完ぺきな融合という、ベートーヴェンがやり残した課題を成し遂げ、室内楽の歴史を一歩前に進めたのである。

 シューマンの交響曲をあまり評価しない人も、この曲は認めるだろう。もとより、人によっては、一見地味だが、室内楽的書法の緻密さという点では更に円熟した、次に書かれる、「室内楽の年」最後の大作、ピアノ四重奏曲変ホ長調Op.47の方を評価するかもしれない。ロベルト自身もピアノ四重奏の方が完成度が高く効果的だと見ていたようである。

 しかし、シューマンはこの曲の中に時代を超えた新鮮な印象を与える面があることには自分では気づかなかったのかもしれない。ピアノ四重奏の方は、いかに書法が円熟していても、どうみても「室内楽曲」の枠の中に収まってしまう。

 だが、五重奏の方は大ホールを湧かせられるだけの圧倒的な放出するエネルギーを秘めているのだ。現代の聴き手を1回目から引きずり込むインパクトの大きさという点では、文句なしにこのピアノ五重奏曲の方が上であろう。

***

*なお、この項の執筆においては、「作曲家別名曲ライブラリー 23 シューマン」前田昭雄編 音楽の友社 1995 における、門馬直美氏によるシューマンのピアノ五重奏曲の解説(pp.71-76)と、ユボー(P)/ヴィア・ノヴァ四重奏団を中心とする「シューマン室内楽全集(エラート B23D-3911015の、同じく門馬直美氏によるライナーノーツを大幅に参考にさせていただきました。

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