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2018年6月27日 (水)

ロベルト・シューマンの生涯について

Schumann1     

 作曲家への道

 ロベルト・シューマン Robert Schumann は、ウェーバー・シューベルト・メンデルスゾーンと並ぶ、ドイツ・前期ロマン派の代表的な作曲家である。
 ロベルトは、まだベートーヴェンやシューベルトが在世中の1810年、ツィッカウで出版業を営む父アウグストと母ヨハンナのもとに生まれた。小さい頃から音楽的才能を示し、12歳の頃には自己流でオーケストラ付きの大規模な合唱曲すら作曲していた。
 家族の勧めもあり、ライプチヒ大学の法科に進むが、文学やちょうど死去したばかりのベートーヴェンやシューベルトの音楽への情熱は抑え難く、当時著名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークの門をたたく。このヴィーク家の娘、クララは、シューマンと出会った時、まだ10歳に満たない少女であったが、現代でいえば「ステージ・パパ」そのものの父親のフリードリヒの手ほどきを受けて、天才少女ピアニストとして有名になっていく。
 シューマンは、当時「悪魔のバイオリニスト」といわれたパガニーニの演奏を聴き、その超絶技巧をピアノで表現できるピアニストになることをめざす。だが、指に器具をとりつける無理な練習をした結果、指を痛め、ピアニストを断念、作曲家を目指すようになる。(なお、この指の機能障害については、放蕩の果てに感染した進行麻痺(梅毒)の初期症状ではないかという研究もある)

Schumann2

ロベルトとクララ



     許されぬ恋の結晶

 次第に成熟していくクララとの間に愛が生まれる。二人は結婚を望むが父親のフリードリヒは頑強に反対。遂には訴訟沙汰となる。しかし、この裁判がシューマン・クララ側の勝訴に終わり結婚に至る1840年までの数年に及ぶ緊張した恋愛関係は、シューマンの創作意欲をかき立て、今日一般にシューマンの名作として「幅広く」知られる諸作品の実に大半を、あふれるような勢いで生み出す原動力となる。
  すなわち、ピアノ曲でいうと、、ピアノ学習者がその「かっこよさ」に自分も弾けたらと一度は憧れるという小品「飛翔」を含む「幻想小曲集」Op.12、「交響的練習曲」Op.13、超有名曲「トロイメライ」を含む「子どもの情景」Op.15、「クライスレリアーナ」Op.16、 「幻想曲」Op.17、「アラベスク」Op.18など、あるいは歌曲集「女の愛と生涯」Op.42、「詩人の恋」Op.48など、すべてこのクララとの結婚までの恋愛期の作品である。
 シューマンが熱烈な感情を込めて曲と共にクララに送った手紙の数々が今も残されている。シューマンのピアノ曲は、まさに名ピアニストでもある愛するクララに弾いてもらうという前提で書かれていく。そこには、「アベック変奏曲」Op.1にはじまる作品番号1桁台の、それはそれで非凡ではあるピアノ曲にすらまだ見られなかった、壮絶な実存的燃焼度が込められているのである。

  ここからしばらく、シューマンの伝記を追うことから離れて、この時期のシューマンのピアノ曲の位置づけについて考察してみたい。
 純粋に独創性と同時代の水準からの離脱度という点からすると、シューマンのピアノ曲はショパンやリストより際だってすらいたのではないかと、私は思う。シューマンの特にこのクララとの恋愛期のピアノ曲は、例えばメンデルスゾーンの「無言歌集」と同列の、詩的・文学的なタイトルがついた単なるロマン的小品集として捕らえられがちかもしれない。
 しかしシューマンのピアノ曲集は単なる小曲の花束ではないのである。個々の部分は、いわばソナタのひとつひとつの楽章のように、全体を有機的に構成するように実に周到に配慮されている。
 
  「幻想小曲集」「クライスレリアーナ」「謝肉祭」Op.9,「子どもの情景」などは、曲集全体をひとつの有機的構造体として構成する集約度において、ピアノソナタ並に高い。このような構成的な「ピアノ曲集」というものに歴史上はじめて成功したのはシューマンといっていいだろう。
 一応「主題と幾つかの変奏」という形式であるかに見える「交響的練習曲」ですら、聴いた上での実感としては「謝肉祭」「クライスレリアーナ」等と非常に近い「ピアノ曲集」形式として聴こえてくるのも興味深い。
 こうした有機的「ピアノ曲集」形式の直接の先駆は、ベートーヴェンが晩年に書いたバガテル集Op.124の、単なる小品集を越えた全体の構成力や、シューマン自身評論の対象としたシューベルトの二組の「即興曲集」があげられるかもしれない。もとよりシューベルトの即興曲は、シューマン自身が推定したとおり、古典派のピアノソナタに近く、シューマンの曲集のような、せいぜい3,4分の曲の連鎖の中で次々とギアチェンジしながらドラマが展開していくような「ジェットコースター性」はない。シューベルトに崇拝に近い感情を抱いていたシューマンではあるが、実の所この二人の「時間」についての感覚は根本から異なる気がする(この「時間」感覚の違いについては、後続の交響作品についての分析の中で、シューベルト、メンデルスゾーンとシューマンの比較論として詳しく取り上げるつもりなのでここでは割愛したい)。
 メンデルスゾーンの「無言歌集」は、好きな数曲を任意に選んでどんな順序で演奏してもいいだろう。ショパンすら「24の前奏曲」を唯一の例外とすると、このような構成力の強い組曲風の作品はひとつも書いていない(私は24の前奏曲は全曲通して演奏してはじめて本来の意図が伝わる作品だと信じる。その点ではまさにシューマンのピアノ曲集に近い)。リストに至っては、たとえば「超絶技巧練習曲」を全曲通して弾く必然性は何もないだろう。
 このような、単なる小曲の束ではない「ピアノ曲集」形式の、シューマン以降の後継者探しにも実は苦労する。まず思い当たるのはムソルグスキーの「展覧会の絵」ぐらいであろうか。この後は更に時代を下って、印象派のドビュッシー・ラヴェルの傑作群まで待たねばならない。
 結局、盛期ロマン派時代において、この「ピアノ曲集」形式はまさにシューマンの独壇場の世界というのに近いだろう。(念のためにいうと、シューマンの場合でも、ただの小品の寄せ集めに近いピアノ曲集もたくさんある。ただしそうしたものの多くは、前述の作品たちに比べると次席の位置を占めるに過ぎない作品群だろう)。
 
 おもしろいのは、シューベルトにしろ、シューマンにしろ、「ビアノソナタ」という形式的枠組みを意識的に取ろうとすると逆にぎこちない構成力しか発揮できなかったということである。シューベルトの「即興曲集」や「さすらい人幻想曲」、シューマンの「幻想曲」や「ヴィーンの謝肉祭の道化」Op.26の方が、彼らが「ビアノソナタ」の名のもとに作曲した作品よりもはるかに「ピアノソナタ」っぽい自然な構成感を持つと感じる人は実に多いはずである。
 もとより、構成的には冗長以外の何者でもないシューベルトのピアノソナタの中に、あの最後の第21番に代表される、実に不思議な魅力に満ちた深みのある傑作がいくつもあることは、私も認めるつもりである。しかし、シューマンのピアノソナタにシューベルトの上質のピアノソナタを越える価値を見出すことは困難だろう。シューマンの場合、前述の「ピアノ曲集」と同じ、生涯で一番生産性の高い時期にピアノソナタを3曲とも作曲しているのだが、奇妙に形式に縛られた不自然さがつきまとい、一般にはあまり成功した作品とみなされていないのである。まあ、構成を極度に切り詰めたピアノソナタ第2番Op.22は「かなりの線」とは思うが、「クラリスレリアーナ」や「交響的練習曲」の超天才性があるかといえば、結局、既成の形式の中に自分を押し込めた窮屈さから抜け切れていないというしかなくなるだろう。
 もとより、実のところ、ピアノソナタという形式をとことんプラスに活用して創造性を最高度に発揮出来た作品を書いたのは、実はベートーヴェンが最後だったという見方もできるかもしれない。ブラームスですら、ピアノソナタのジャンルでは「今二つ」だったのである。シューマンのピアノソナタだけ責めてもどうにもならないだろう(P.S.「スクリャービンやプロコフィエフのピアノソナタを忘れているのではないか」という、山田琢磨様からのメールを頂きました。ごもっともです。訂正します。貴重なご指摘ありがとうございました)。ベートーヴェンの「熱情」ソナタの後継者は、むしろ非-ソナタのはずの「クライスレリアーナ」の方なのである。
 結局シューマンは、ピアノ作品に限らず、自らを古典ソナタの枠組みに止める必要がないときに限ってはじめて全体の有機的構成力を発揮できた。ただし、例外もある。一応古典ソナタの枠組みに従いながらも奔放に振る舞い、シューマンらしさを微塵も失わなかった偉大な例外、それが4曲の交響曲とピアノ協奏曲、そしてピアノ五重奏曲のように思う。もとよりそれを可能にしたのは、特に前二者においては、古典ソナタ形式の徹底的な換骨奪胎なのであるが、この点については今後、折りに触れて述べたいと思う。

 ・・・思わずシューマン前期の「ピアノ曲集」形式の独自の意味についての分析に長居してしまい、この論考そのものの形式的統一性を損ないかけてしまった(笑)。シューマンの生涯についての概説を先に進めたい。
 ただ、これだけはここでつけ加えてみたい。シューマン自身はピアニストを断念したからこそ、そしてそれにも関わらず自分の曲を最高度に理解し、しかもそれを現実に高水準で演奏してくれる当代一流のピアニスト・クララを恋人にしたからこそ、シューマンはピアノ曲の世界で、あそこまで高く「翔べた」のではなかろうか?
  
 ロベルトは、結婚直後の幸せの中で、1841年は交響曲第1番「春」Op.38、後に第4交響曲Op.120となる作品の初稿、「序曲、スケルツォとフィナーレ」Op.52などの管弦楽作品、翌1842年は、室内楽史上屈指の名作「ピアノ五重奏曲」Op.44を含む室内楽作品の集中的作曲へと、作品の幅を拡げていく。この数年間のシューマンの創作意欲と霊感のほとばしりは、何か桁外れのものを感じさせる。



     ジャーナリストとしてのシューマン

 シューマンはそうした作曲活動と並行して、父親ゆずりのジャーナリストとしての才能も示し、「音楽新報」をただ一人で編集・刊行。音楽批評家としての活動はシューマンの全生涯にわたり継続され、作曲による収入の不安定さを補った。(同時代、「幻想交響曲」で有名な、おとなりフランスのもう一人の交響曲の大家、ベルリオーズもまた、そのような作曲家とジャーナリストの二足の草鞋をはいていた点も興味深い)。
 そうした執筆活動の中で、シューマンは、ショパンやベルリオーズらをドイツにはじめて本格的に紹介したり(特にまだごく初期の作品しか発表していないポーランド人ショパンを発掘した。「諸君、帽子をとりたまえ、天才が現れた」。

 あるいは、これはシューマンの晩年に近いことではあるが、当時無名の若きブラームスの訪問を受け、作品と演奏に接するや、その類希な才能を見抜き、「新しい道」と題する記事を書いた。

「彼のピアノソナタはまるで偽装した交響曲である」

「彼が魔法の杖を振り下ろすことになれば、合唱とオーケストラの大群の威力が力を借り、そこには神々の世界の神秘の最も素晴らしい眺めが、われわれの前に広がるであろう(井上節子訳)」。

 ブラームスがまさにこの予言そのものの存在になっていったのはご存じの通りである。いや、むしろこの予言に「呪縛」されたからこそ、第一交響曲を50歳過ぎるまで書けなくなったと言うべきか。後述するようにブラームスの生涯は、シューマンと、その妻クララとの関わり抜きに語ることはできない。
 また、ヴィーンを訪問した際に、今は亡きシューベルトの兄の元に遺されていたハ長調の大交響曲、すなわち、今日、「未完成」交響曲と並ぶ傑作、「ザ・グレート」として交響曲史に不朽の名を残す作品の自筆譜を発見した。(現在のクラシック音楽ファンのかなりの部分は、この交響曲を、後期ロマン派のブルックナーの大交響曲の先駆として、もはや「未完成」交響曲以上に愛好しはじめている)。
 シューマンは早速「この曲はジャン・パウルの長編小説の如く、天国的に長い」という、この交響曲に今でも必ずついて回る名文句で誌面に紹介する一方で、当時ライプチヒのゲバントハウス管弦楽団の指揮者を勤めていてシューマンと親交を深めていたメンデルスゾーンに初演を依頼した。これもまた、ジャーナリスト・シューマンの音楽史上の功績の一つである。
 シューベルト自身、この曲の執筆当時「これからは歌曲を作るのはやめた。ベートーヴェンのような大交響曲を書くんだ!」と周囲に漏らしていたという。そしてこのシューベルトのハ長調交響曲からシューマンがうけた刺激が、それまで何度か試みつつも挫折していた、シューマン自身の交響曲を書きたいという野望を再燃させ、第1交響曲「春」Op.38を完成させるきっかけともなるのである。そして、そのシューマンがブラームスを世に出した。
  後に完成されたブラームス自身の第1交響曲を聴いて、当時ドイツ第一の名指揮者だったのハンス・フォン・ビューローは、「この曲はベートーヴェンの”第9”の次の”第10”交響曲だ」などと、まるでベートーヴェン以降数十年にわたり大交響曲の作曲家が不在であったかのような言い方をしてしまい、この捉え方は現在のクラシックファンのかなりの部分すら呪縛している気がする。だが、忘れてはならない。交響曲作家としてのベートーヴェンとブラームスをリンクさせたのは、他ならぬシューマンあってのことなのだ。
  しかもそれは単にシューマンのジャーナリストとしての活動が果たした意味だけには止まらない。シューマンそのものが、ベートーヴェンとブラームスの間にそびえ立つ「交響曲の大作曲家」として位置づけられるべきなのである。恐らくこの最後の点については、私がこれからの連載の中で、個々の作品に即しながら繰り返し指摘したいポイントの一つである。



     内なる戦いの果てに

 クララとの結婚後、作曲家シューマンは次々と名作を生み出し、幸せな日々が続くかに見えたが、クララとのロシアへの演奏旅行や、若き日からの宿願たる、ゲーテの「ファウスト」のための音楽の作曲の心身の消耗の中で、徐々に精神障害の兆候が見られるようになる。その精神障害との戦いと克服の軌跡として、一度は中断されかけた第2交響曲Op.61を完成させる。あるいは数年前ピアノと管弦楽のための単一楽章の幻想曲として完成された作品を手直しし、新たに第2、第3楽章を追加作曲して、あのロマン派のピアノ協奏曲の白眉というべきOp.54が生まれるのである。
 1844年、シューマン一家はドレスデンに移住。合唱団を組織し、そのための曲を数多く書いた。更に1850年、デュッセルドルフの歌劇場の指揮者として赴任した。俗に「ライン」と呼ばれる第3交響曲Op.97を完成させ、シューマンの心身は小康を得たかに見えたが、その内向的性格ゆえに指揮者としては徐々に聴衆や楽団員の信望を失い、次第に世間から身を引く生活にはいる。 

  そして1854年、決定的な破局。「天使が与えてくれた」とクララに語ったメロディに基づくピアノ変奏曲を完成させた直後、ライン川に身を投げる。幸い救出されるが、そのままボン郊外、エンデニヒの精神病院に収容。その後の療養生活の中では、医者に面会を禁じられたクララに代わり、ブラームス、ヨアヒムらの繰り返しの再訪も受け、小康を得た時期もあったが、1856年、遂に入院したまま生涯を閉じる。クララがロベルトを見舞うことができたのはロベルトの死の前日だった。
 



     後期シューマンをどのように評価するか

 「ピアノ協奏曲」と、小品「予言の鳥」を含むピアノ曲集「森の情景」Op.82、そして実は「トロイメライ」以上にそのメロディを知らない人がない「楽しい農夫」を含む「子どものためのアルバム」Op.79あたりを例外として、一般に、こうした後半生のシューマンの諸作品は、クララとの恋愛時代の作品ほどには幅広い人気を持ってはいない。
 「ライン」交響曲ですら、その一見朗らかな明るさにも関わらず、第1交響曲「春」などに比べると、ブラームスやチャイコフスキーやドボルザークの有名交響曲に十分耳がなじんだ入門期を脱した程度のクラシックファンにとって、奇妙なとらえにくさを感じさせるかもしれない。
 2曲のバイオリン・ソナタOp.105&121なども、ブラームスの3曲程は愛好されないにしても、以前よりは弾かれる機会が増えたように思われるし、「チェロ協奏曲」Op.129に至っては以前からハイドン・ボッケリーニ・ドヴォルジャークやエルガーの曲と並んで、このジャンルの傑作、チェリスト必須のレパートリーとされてはいるが、たとえばピアノ協奏曲の圧倒的知名度に比べると遥かに地味な存在だろう。
 確かに、前述のピアノ協奏曲や「ライン」交響曲のあたりを一つの折り返し点として、精神障害の進行と共に、かつてはそのくるくる変わる機敏な表情の変化と奔放さが魅力だったシューマンの作風に大きな変化が生じていく。それは大衆性に乏しく、前期の作品に比べると渋くて重々しく、晦渋でモノトーンな世界に沈んで行くところがある。これは明らかに他の作曲家が若い時代を過ぎて徐々に枯れていくのとは異次元の「変質」である。
 奇妙な単調さ。以前であれば、ちょうど現代のロックのリズム感にも通じる心地よい、ほとんど「性的律動」に近い疾走感と感じられた、シューマン独特の、単なる当時の舞曲のリズムの受け売りではない、より抽象化されたリズムの執拗な繰り返しが、後期作品では、まるでしつこい繰り言のように空虚に響きはじめる。飛翔したいのに、飛翔しきれないもどかしさのようなもの。
 しかし、ごく近年になって、晩年の宗教曲バイオリン協奏曲生涯の大作「ファウストの情景」などにすら、再評価が進み、CDも増えつつある。実際そうした晩年の作品の中にも、単なるマニアの好奇心を越えて、私自身個人的に好きな愛着ある作品はいくつかあるので、今後このシリーズの中ですすんで取り上げて行くつもりである。
 
 シューマンの死後、生涯独身で過ごしたブラームスと未亡人クララとの間に30年にわたり続いたプラトニックな関係も有名である(もっとも、シューマンの最晩年に生まれたクララの最後の子供、フェリックスが、実はブラームスとの間の子供ではないかという遺族の証言もある。この証言については今日の研究では疑問視されてはいるが)。

 ブラームスが、ロベルトとクララとの出会い以降、ものの見事にエディプス状況にはまり、「父親」ロベルトの妻、「母親」クララを寝取りたいという願望と罪意識に引き裂かれ、自分は「父親」ロベルトを越える大作曲家になることでその権利を当然のものとして主張したいという衝動に突き動かされていたのは確かだろう。そのために、クララすら洗脳して、「バイオリン協奏曲」をはじめとするシューマン晩年の作品の幾つかを必要以上に無価値として公表しないようにし向けた疑いもある。

 もとよりワーグナーやリストのような例外を除いては、このようなスキャンダラスな恋愛に対する世間の目に耐えることは当時容易ではなかったろう。リストですら人妻との結婚が法王庁に許されない壁にぶつかり、俗世を捨てて僧籍に入った時代である(もとより当時の社交界では「クララとブラームスはもうできている」という噂には事欠かなかったことだろう)。ロベルトは「父親」フリードリヒ・ヴィークから娘クララを奪い取ったという罪意識の中で、今度は「息子」ブラームスにクララを奪われていくという因果応報に耐えきれずに、最晩年の精神障害を更に悪化させたと解釈する人も多いようだ。

 クララはまさに19世紀を代表する名ピアニストとしての生涯を送る。二人は作曲と演奏で密接な協力関係を結んだまま、共に老い、クララが1896年、ブラームスが1897年という、20世紀をあと少しで迎えるという年に、相次いで世を去っている。ブラームスがクララの危篤の報を受け取るもの、乗る汽車を間違えて間に合わなかったエピソードも著名である。

***

(以上の執筆の際には、音楽之友社発行 「作曲家別名曲解説ライブラリー23 シューマン」(1995)の、世界的なシューマン研究者、前田昭雄氏による小伝と巻末の作品目録を、事実確認のために改めて参考にさせていただきました)。

(追記*ラオホフライシュ「ロベルト・シューマン ~引き裂かれた精神~」井上節子訳 音楽之友社 により、以前の本ページにあった若干の伝記的事実の誤りを修正しています 96/06/23。更に97/02

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