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« ロベルト・シューマンの生涯について | トップページ | バイオリン協奏曲 遺作 »

2018年6月27日 (水)

序曲、スケルツォとフィナーレ Op.52

 

1.シューマンの交響作品の独自性

 私は何より「交響曲作曲家」としてのシューマンが好きである。普通ならばピアノ曲や歌曲といわれるであろう。
 とかくシューマンの交響作品には何か一言難癖をつけた上でないと認めてもらえない趨勢がある。曰く、「管弦楽法が未熟である」「ピアノ的な書法が目立つ」ナドナド。
 管弦楽法や曲の構成力についてのこうした「誤解」については、世界的なシューマン研究家、前田昭雄氏らによる非常に熱心な考究によって、今やかなり覆されてきたかもしれない。しかしそれでも、すでに「シューマンの生涯」の項でも述べたように、ベートーヴェンの次の「偉大な」交響曲作曲家はプラームスであり、「未完成」という超例外を除いたシューベルト、メンデルスゾーン、シューマンの交響曲は、それなりの地位は与えられつつも、何となく超一流とは言えないかのような扱いを受けてきているといっていいであろう。
 しかし、私は敢えて、少なくともシューベルトとメンデルスゾーンの交響曲と比較する限り、シューマンの交響曲は明らかに一歩前進した独自の様式を確立していると言いたい。

 すでによくいわれることであるが、交響曲に限らず、シューベルトとメンデルスゾーンのソナタ的な作品は、実はベートーヴェンの後継というよりも、ハイドンの後継と言う方がすんなり納得がいくような様式感覚をそのベースに持っている。もとより2人ともベートーヴェンを尊敬し、いろんな意味でインスパイアーされていたことは疑いないし、ハイドンに比べると遥かにロマン主義的・文学的な風土の中に育っている、別の時代の人間である。
 しかしそれにもかかわらず、シューベルトとメンデルスゾーンが、ベートーヴェンからは引き継げなかった重大な資質がある。私はそれをここで借りに「伸縮する”時間”感覚」と名付けてみたいのである。シューベルトとメンデルスゾーンの場合、序奏やコーダを別にすると、一つの楽章なら一つの楽章全体が、実は同じテンポの歩みで構成されていることが多い。曲の途中で次第次第にテンポを速めたりゆるめたりするアチェレランドやデュミネンドは、メンデルスゾーンでは稀れ、シューベルトに至っては皆無に近いのではなかろうか。
正直に言ってスコアまで見たことがある曲はごく一部なのだが、例えば未完成交響曲の、聴感上の拍節感がまるで違う第一主題と第二主題の間ですら、シューベルトはスコアに何も変化を指定していなかったように記憶する。

 このようにいうと、例えばメンデルスゾーンの実質的に最後の交響曲である第3番「スコットランド」の第1楽章の内部には、楽譜に明瞭に表記されたテンポや拍子のの切り替えが、単に序奏と主部の間みならず、他にも途中に幾つもあるではないかといわれるかもしれない。しかし、メンデルスゾーンがこの手口をここまで鮮やかに使えたのは、まさに最後の交響曲たる第3番においてなのである。そいうえば、バイオリン協奏曲も第一楽章で何回もあからさまにテンポの変更を求めたかもしれないけれども、この曲もまた、「スコットランド」交響曲と同様に、メンデルスゾーンの早すぎた晩年、最円熟期の作品である。
 実質的に交響的カンタータというべき第2番「賛歌」を脇に置くならば、メンデルスゾーンの正式の番号付きの交響曲は、作曲年代順にいうと、第1番、第5番「宗教改革」、第4番「イタリア」、そして第3番「スコットランド」の順であるが、そのロマン的文学趣味にもかかわらず、第4番までの3曲は、ハイドンの交響曲の構成図式ですっぽり理解できてしまう。
  第3番「スコットランド」と第4番「イタリア」をはじめて比較して聴いた時、「イタリア」の方が予想外に保守的で古典的、「ハイドン的」な交響曲の枠をでておらず、「スコットランド」の方が遥かにモダンな曲に聴こえた人も少なくないのではなかろうか。メンデルスゾーンは明らかにこの2曲の間で大きく成長して、ある限界はあるかもしれないが、ともかく古典派の呪縛を脱してきている。
 だが、メンデルスゾーンをこの呪縛から解き放させる刺激は誰が与えたのだろうか? それはまさに、すでに親密に交際して互いに影響を与えあうことが大きかったシューマンからの影響というべきではなかろうか。裕福な家に生まれ、完璧な音楽的教育を受け、子どもの頃ゲーテに可愛がられるなど、洗練の極といっていい古典的教養を身につけていたメンデルスゾーンに「羽目を外させた」のは、シューマン(あるいはベルリオーズ)という本質的に奔放な天才型の友人からの感化ではなかったかと思える。

 シューベルトの交響曲に至っては、「未完成」を別格的な例外とするならば、メンデルスゾーン以上に、交響曲形式としてはほぼ完璧にハイドンの次元に縛られている。第6番までの作品...個人的にはどの曲も素朴だがチャーミングで大好きなのだが....など、聴いたことがない人にはじめて聴かせたら「ハイドンの曲? 僕は「ザロモン・セット」以外の曲はほとんど知らなくて」などと言い出される確率はかなり高いだろう。
 何しろシューベルトはベートーヴェンの死の翌年に死んだ人である。ベートーヴェンという同時代のスターにあこがれ、刺激をうけつつも、学んだ曲の作り方は完全にハイドン時代そのままとしても仕方がない。もし歌曲が世に知られず、「未完成」と「ザ・グレート」という例外的作品が作られなかったら、シューベルトは、「ハイドン・シンパのそれなりにいい曲を書いた交響曲作家のひとり」というあたりの評価に落ちついたかもしれない。
 もしシューベルトの初期交響曲を聴いていない人がいたら、少なくとも第5番変ロ長調だけは聞いてみていただきたい。シューベルトにしかできない歌心に満ちながらも、完璧といっていいハイドン的な古典的様式感を持った逸品であることに驚かれるかもしれない。これほど「人なつっこい」交響曲は珍しい。

 しかしシューベルトは自分のそういう小市民的な気質にコンプレックスもいだいてしまうという宿命を持っていた。ベートーヴェンのようなドラマとパトスに満ちた大曲を自分も作りたい。「そのためならば歌曲の作曲なんてやめてもいい」とすら口走ることがあったのである。
 だが、どんなに真似ようとしても、シューベルトは、自分の中にある、人の歩むスピードでゆっくり歩む「等速の時間感覚」、まさにシューベルト歌曲お得意の「さすらい」の歩み、ドイツ語でいうところのwandelnの「時間感覚」が肌に染み着いていた。ベートーヴェンのような空間的飛翔感とほとんどバロック的と言える「伸縮する時間感覚」は体質にないものだったのであろう。例えば晩年のピアノソナタ第19番ハ短調は「ベートーヴェン的」とよくいわれる。なるほど、他の曲と比べると明らかにそうかもしれない。しかし、何か非常に基本的なところで「もったり」している。ベートーヴェンにある機敏さ、そしてここでいう「伸縮する時間感覚」の決定的な欠落のせいである。
 シューベルトぐらい、未完成の挫折した草稿が遺され、しかもその多くの断片それ自体が愛しまれて聴かれている作曲家は珍しい。あの「未完成」交響曲以外にも幾つもの「未完成」なピアノ曲や室内楽曲が名曲視されている。
  恐らくシューベルト自身には全くコントロールできないような形で、自我を突き破ってもう一人の悪魔的自分が噴出する瞬間があった。そういう時に書かれた曲は、習い覚えた曲の構成原理などまるで無視して一気に楽想として吹き出す。かなりの場合はソナタ形式の展開部の中途ぐらいで挫折する。運が良ければ特定の楽章ぐらいは、ものすごい凝縮した内容のユニットとして完成にこぎ着けられる。こうして生き延びた逸品が「未完成」交響曲であり、「四重奏断章」なのである。これらの曲では、ほとんどシューベルトの中の別の人格が曲を作っているのでないかといいたくなる不思議な自在さ、気紛れさ、めくるめくドラマがある。しかし、曲の構造分析をするならば、予想外に保守的な枠を守っていることがわかる。
 晩年のシューベルトは独特の開きなおりを見せる。さながら「曲が冗長になってもいい。俺はおれのペースで「歩く」んだ」と宣言しているかのよう。
 そうなった時、奇跡が起こる。もはや型にはまった形式の限界は放置されたまま、それでも異様な深みと心の陰影がデリケートに移ろう。
 こうして最晩年の長大なピアノソナタ、弦楽五重奏曲、そして、交響曲「ザ・グレート」という、シューベルトの器楽曲の至宝というべき作品群が生まれる。
 
 そしてまさにシューマンが「発掘」してこの世に送り出し、自身の第1交響曲「春」を書かずにいられなくなる起爆剤となったのがこの「ザ・グレート」である。第1楽章冒頭の金管の旋律や、第2主題の楽想の持つ雰囲気など、シューマンの第1交響曲のあちこちに、ほとんどあからさまな「ザ・グレート」の影響のあとがある
 だが、この二曲には歴然とした違いがある。それは、シューベルトの曲の方には、同一楽章内部でテンポを切り替えるための指示が、第一楽章の序奏と主部の転換点以外何もないということだ。私がこの曲と出会って以来の愛聴盤のカール・ベーム/ベルリン・フィルの演奏(独グラモフォン 419 318-2 シューベルト交響曲全集)など、第一楽章の内部だけでも、楽想が変わる度に実に細やかなテンポの変更が加えられていて、恐らくこの曲のドイツ伝統の演奏スタイルを見事に洗練させたものといえるであろう、まだ老いの陰がないベームの演奏の持つ味わいを私は今でも愛している。
 だが、しかしこの往年の名盤への最近の批評では、まさにこの「楽譜に書かれてもいないテンポの変化」という点が批判されることが少なくないようだ。ベームをはじめとするドイツの伝統的演奏解釈では、序奏部から主部に入るところで猛然とアチェレランドをかけ、序奏部よりかなりはやいテンポで演奏する主部へと「なだれ込ませる」ことが少なくないのである。一転、第2主題部に入ると、見事なセンスっでテンポを少し緩める。
  原典至上主義の現在ではまさにこの点が「恣意的」というそしりをうける。私からすると、ことシューベルトに限っていえば、本人自身が、楽想の変化に応じて、演奏者が自然とテンポをあげたりゆるめたりすることはむしろ当然のこととして期待していたと思うけれども。もとより恣意的でこれ見よがしな緩急の付け方はシューベルトの趣味ではなかったろう。山道を歩き、少し上り坂になったり、急に視界が開けたりしたら、自然と歩みのテンポが変わる...そのくらいのことはあたりまえのように期待していたろうということである。

 実をいうと、このように第一楽章序奏部から主部に入るときに、鮮やかなアチェレランドを期待して実際に曲を構成しているのはシューマンの第一交響曲の方である。一時期のドイツでの「ザ・グレート」解釈は、ひょっとしたらシューマンの交響曲の様式を、本来シューマンが手本にした「ザ・グレート」の方に逆適用したものではなかったろうか。ちなみに、既に述べたように、シューマンが自分の第1交響曲の特に第1楽章で「ザ・グレート」の楽想の影響をもろにさらしているあたりからすると、少なくともシューマンが頭の中で鳴らしていた「ザ・グレート」序奏から主部への「入り」は、猛然とアチェレランドさせていたのではあるまいか。シューベルト自身はいざ知らず、その発掘の功労者シューマン自身は「ザ・グレート」のアチェレランドを支持する御墨付きを出していた可能性は高いと思う。仮にそれが「シューマンの中にいるシューベルト」の判断に過ぎないとしても。

 いずれにしても、こと純粋器楽曲の分野で、曲の途中で刻々とテンポや拍子を速めたりゆるめたりなどという「はしたのない」ことを臆面もなく楽譜の中で繰り返し指示しているのは古典派ではベートーヴェンぐらいのものである。曲の途中で部分的に拍子を変えたり(「英雄」交響曲のスケルツォ楽章の再現部で唐突に挿入される二拍子の部分)、あるいは8分の6拍子と4分の3拍子のリズム構造を読み変えて、あたかも拍子やテンポそのものを急に切り替えたかのような、ヘミオラと呼ばれる二重のリズム構造を採用する・・・ちなみにこれはシューマンやブラームスになくてはならない得意技となる・・・とか、あの交響曲の歴史で一番論理的な構造物であるかに見える第五交響曲の第一楽章再現部で唐突に挿入されるオーボエのゆっくりしたカデンツァなど。
 スケルツォやメヌエットでトリオをまったく別のテンポや拍子にしてしまうように楽譜の上ではっきりと指示したのもベートーヴェンが最初ではないのか? モーツァルトの一部の協奏曲のロンド楽章にはそれに似た仕掛けもあるけれども、これはダイナミズムの変化というより接続曲的な舞曲のノリだろう。更に言うと、これらのダイナミックな伸縮がベートーヴェン後期のピアノソナタや弦楽四重奏でどれだけ縦横無尽に活用されるかは言うまでもないだろう。
 ベートーヴェンだけが時間の伸び縮みを意図的なダイナミズムの効果として狙っていたのだ。これはオーソドックスな古典派的音楽教育から出てくるものではなく、劇音楽や、むしろ時間を遡及してバロックの様式などから咀嚼したものだろう。何よりベートーヴェン自身が若いまだ耳の聞こえた頃はピアノの即興演奏の大家として有名だったのだ。

 どういうわけか、シューベルトメンデルスゾーンはこの手口を少なくとも純粋器楽曲の分野で使うことはほとんど全く控えてしまっていた(メンデルスゾーンには。意識的にバロックのオルガン曲に接近させた様式の器楽曲がかなりの数存在するようだが、未聴である)。いや、むしろベートーヴェンだけが突き抜けたことをし過ぎていて、二人はいくらまねようとしてもついていけなかったのだろう。この二人の音楽では、多少の自然な曲想の揺れば別として、あるフレームの中では等速に時間が流れるという前提で曲を書いていた気がする。
 「真夏の夜の夢」の序曲やスケルツォに代表されるメンデルスゾーンお得意の妖精のような軽快で饒舌なまでに音が多い音楽に至っては、むしろその等速の音響空間の中ではじめてその真価を発揮する
 メンデルスゾーンで曲の一部でテンポを不用意に揺らすと非常に安っぽく下品にしか聴こえない。「スコットランド」ですら、最近古楽器による演奏スタイルが見直されるまでは、メンデルスゾーン自身が要求したとはとても思えない厚化粧な演奏が少なくなかった気がする(例えばカラヤンやバーンスタイン)。メンデルスゾーンの交響曲を重厚壮大にやろうとするのは何か間違っている
 
 恐らくシューマンは、その音楽教育を受ける最初から、ベートーヴェンの業績を手本とすることが自然に可能だった最初の世代である。器楽曲の中で、頻繁にテンポや拍子や楽想を動かして曲のドラマを盛り上げるベートーヴェンのダイナミズムを素直に受け継ぐことになる(ついでにいうと、ベートーヴェン的な、小さな動機の徹底的な展開という技法もまた、シューベルト・メンデルスゾーン、シューマンの3人の中では文句なくシューマンが一番うまかった気がするのだが)。
 時代のロマン主義の更なる深まり、劇音楽の影響、そしてリストやパガニーニの即興的巨匠芸の影響、そして何よりシューマン自身に内在したむら気なまでの奔放な一面など、いろんな要素があったろう。だが、総合的に見て、ベートーヴェンの業績を一番まともに継承したのはシューマンだったのではないかという気がしてならない。もとよりシューマンは、それを古典的ソナタ形式に拘泥しない、別な形式的統一感のもとで生かすのである。

 シューマンの場合、交響曲等の構成的な作品では、その曲想変化に伴うテンポ上の指示などをかなり細かく書き込んでいる。第1・第4交響曲の第1楽章や 第4交響曲の終楽章の序奏部から主部に向けては、非常に芝居がかった緊張感あふれる「なだれ込み」を活用したし、また、逆に、むしろ曲や楽章のの終わりの方でかなり長めの静かでゆっくりした部分を確保し、余韻を込めて終わるやり方も好んでいる。「詩人の恋」の最後の曲のピアノによる長大なエピローグや、第一交響曲のスケルツォ楽章(!)のおわりのゆっくりした部分などは、ベートーヴェンすら思いもよらない手法だろう。
 しかし、シューマンにもまた、その奔放な楽想にもかかわらず、単なる技巧のための技巧を嫌い、表面的な華美さを嫌う独特のストイシズムが同居している。ゆえに楽譜に指定してもいない不要に大げさな表情をつけるとむしろ決然とした美しさを損なわれる場合も多い。恐らくこの点は、これから私が個々の作品の演奏を論じる上で一つのポイントとして行くであろう。

2.「交響曲全集」に入れてもらえない佳作

 さて、シューマンの作品について連載するにあたって、この、「序曲,スケルツォとフィナーレ」Op.52からはじめるなどというアイデアは、よほどのシューマン好きでも思いつかないフェイント攻撃であると自負している。シューマン通ならば、例えば私がいきなり「ファウストの情景」バイオリン協奏曲「ミニョンのためのレクイエム」Op.98b「楽園とペリ」Op.50バイオリンソナタ第3番交響曲第4番の第一稿とかからはじめても、「なるほどね」とニヤリとされて納得されてしまうかもしれない(笑)。ちなみに私は上記の曲のCDはすべて保有しているし、その中には何枚も集めている大好きな曲もあるので上記の中の幾つかは遠からず登場させるつもりである。

 私は何もマニアックな曲を選んだつもりはない。それどころか、シューマンの中でももっとも親しみやすい曲の一つとしてこの曲を推薦するのである。ところがシューマンの交響曲を高校時代から大好きだったこの私が、この曲だけは実にほんの2年ぐらい前まで実物を聴いたことがなかったのである。交響曲第4番の第一稿すら以前から何通りも聴いていたのにである。何しろ交響曲ト短調断章(ツヴイッカウ交響曲)という未完の習作の方が先に聴けたくらいである。 「序曲、スケルツォとフィナーレ」は、ある時期まで、そもそも輸入盤を含めたCD屋で全く姿をみかけなかったのだ。

 それをついに聞けたのは、偶然見た教育テレビでのサバリツシュ指揮のN響ライブでやってくれたからである。聴いて(見て)みて、あまりに素直にいい曲だと思えてしまったので、シューマン交響曲マニアを自負していた私にとって、この曲をそれまでの人生で知らないままでいたことが残念でならなかった。そしてこの曲の国内盤が皆無な状態を生み出した日本のレコード会社全体を呪詛した。
 だが、ちょうどそのころから、それこそ一度発売された音源ならどんなにマイナーなのでもCDになってしまうという傾向が進んでくれたおかげで、徐々に店頭で輸入盤の形ならばこの曲が手にはいるようになった。
 ただしこの「輸入盤の形でなら」というのが私に日本のレコード会社を更に呪詛させる要因となる。もとより私は東京在住なので石丸でもタワーレコードでも通勤帰りに行ける。日本語の解説が付いてるより安いのが嬉しいというタイプであるから手にはいるのが輸入盤で大いに結構である。

 問題なのは、次の点だ。この曲は得てしてシューマンの交響曲全集の2枚組か3枚組の余白についてくる。シューマンの交響曲全集ならひたすらコレクションする私なのでそのことはかまわない。ところが、その同じ輸入盤と同じ内容のものが国内盤で出る(出ている)場合、この曲がカットされている例がいくつかあったのである。シューマンの交響曲全集の代表的名盤とされてきたサバリッシュ/ドレスデン国立管弦楽団盤しかり。廉価版で出たインバル/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団盤しかり。
 更にいえば、例えば天下のカラヤン/ベルリンフィルやショルティ/ウイーン・フィルがシューマンの交響曲全集を録音して最初にLPで発売された当時、ちゃんとこの曲も収録されていた事実が判明すると、どうしてCD化の際に省略したんだと言いたくなってしまった。たとえマイナーな曲でも、カラヤン/ベルリンフィルの録音があるのならば出してくれてもいいではないか。カラヤンのシューマン全集は世間の評価は今一つかもしれないが、私個人は少なくとも2番と3番は名盤の中に加えてあげたいと思っている。この「序曲、スケルツォとフィナーレ」にもカラヤンのがあるなら聴きたいよー、どうしていつもこうシューマンの交響作品は虐待されるんだ、どうせ僕なんてこの世に生まれてこなければよかったんだ・・・などと、不敏なこの曲に思わず同一化してまったのであった。

 「シューマンに似ている」と言う宣伝に釣られてベルワルドと言うスウェーデンの作曲家の交響曲全集すら買ってしまった私である。でもこの曲の方がまだしもベルワルドよりも幅広い聞き手の耳を喜ばせるだけの魅力に満ちていることは明白に思えた。
 「CD二枚組で収録すると収録時間が足りなくなるんです」などといういいわけは通用しない。現に輸入盤の方では二枚組でこの曲を余白に納められているではないか。別に三枚組にすることを強制する気はない。中には交響曲4曲の演奏時間が長めで本当に二枚組の余白に収録不可能な演奏もあるかもしれない。しかし、その後、国内盤の新譜で最初からこの曲を全集の2枚組の余白に入れられている新しい演奏が出てきたりすると、要は「この曲はマイナーだから関心を引かないだろう」というレコード会社の思いこみに原因があるとしか言いようがなくなってくるのである(これはインターネットでたまたま読んで下さっているレコード会社のクラシック担当の人とかがいてくれれば助かると思いつつ書いてること)。
  
 私の思いは天に通じた。何と問題のカラヤンのこの曲のCDが輸入盤でならば出ていること偶然気がついたのだ。しかもそれは全集の余白などではなく、何とプラームスの交響曲第1番のベルリン・フィルとの一度目の録音の余白に収録という、予想もしない形で出ていることに偶然店頭で手にして気がついたのだ。更に、ショルティ/ウイーン・フィルの演奏に関しては、スッペ序曲集とのだきあわせというこれまた予想外の形で、これはいきなり国内盤で出てくれた。その後、最新盤のシノーポリ/ドレスデン国立管弦楽団の演奏に至るまで、徐々にこの曲のCDは国内盤水準でも増加しつつあり、この曲を私は今や10種類近く保有しているのである。

 それでも、バーンスタインやレヴァインの全集をはじめとして、この曲をそもそもシューマン全集録音の際に録音しないアーチストが少なくないようである。全集の余白に何か入れてもたいてい「マンフレッド」序曲「4本のホルンのための小協奏曲」Op.86止まりで代わりにこの曲にするという発想はまだ珍しいようだ。
 ホルン小協奏曲は珍しい編成だけど演奏効果も高くて楽団のホルン奏者全員が目立てて喜ぶかもしれないので常任指揮者になったばかりの指揮者が録音すると御利益があるかもしれない、というのはジョークで、室内楽の名曲、「アダージョとアレグロ」Op.70と並んで、作曲当時楽器が急速に改良され高性能化が進みつつあったホルンという楽器のためにシューマンが遺してくれた、ホルン独奏のための数少ない名曲と思いますから、これが全集の余白を埋めるためによくチョイスされることは好意的に受けとめましょう。
 「マンフレッド」序曲も、もしそれが名演奏ならば私も無茶苦茶好きだけれども、正直言ってこの序曲を本当に効果的に演奏するのは至難、よほどのシューマン好きでないと、このひたすらネクラな情念が徘徊するような曲を、普通のクラシックファンはうっとおしくて遠ざけるだけとおもうわけです。

 むしろ「マンフレッド」の正反対、ひたすらさわやかでキュートなこの「序曲、スケルツォとフィナーレ」の方が一服の清涼剤として喜ばれること請け合いだと思うのですが。

     


   
     
3.もとはといえばシューマンの命名がよくない?

 
しかし、そもそもこの佳曲をマイナーにしてしまったのはシューマン自身が悪いのである・・・・などと、矛先を元も子もなく急展開。
 曲自体はすごくいいんです。ある意味では4曲の交響曲より幅広い層にウケてもおかしくないくらいの、いい意味での大衆性がある。個人的には、この曲には、
「シューマンの”アイネ・クライネ・ナハトムジーク”」というキャッチフレーズを与えたい。モーツァルトの「あの」曲は、とらえようによってはモーツァルトの後期の6大交響曲より親しめるばかりか、内容的に見てもセレナードとしては異様に引き締まったシンフォニックな構成力の確かさがある。つまりモーツァルトの交響曲よりすごい名曲とすら言える。シューマンの交響曲とこの曲の関係にも似たようなところがある気がするから。
 問題は、「序曲、スケルツォとフィナーレ」という何とも愛想の悪い曲名をシューマンが最終的に選択したところにある気がする。これじゃまるで、「通常なら第二楽章にあたる遅いテンポの楽章を作り損なって残りの三つの楽章のみが遺された、交響曲の未完のトルソ」みたいに思いこまれるではないか。

 事実はそうではないのだ。(やっとまともにこの曲そのものの解説をするぞ)。

 この曲は、シューマンが例のシューベルトの「ザ・グレート」交響曲を発見し、雑誌で紹介してメンデルスゾーンに初演までさせたのをきっかけにして「自分も交響曲を作ろう!」と丸一年燃えに燃えた、いわゆる「交響曲の年」、1841年に、第1交響曲「春」の完成と初演の成功の余勢を駆って、引き続いてはじめられた新たな2つの交響曲作曲の試みのうちのひとつなのだ(もう一つの試みが後に改訂されて第4交響曲となった曲の第1稿)。
  実際この「序曲、スケルツォとフィナーレ」という曲には、シューマンの4つの交響曲の中でも第1交響曲にしかない、あのさわやかさと素直な素朴さのエッセンスを抽出して、シューベルトの「ザ・グレート」からの影響とか、最初の交響曲故の力みみたいなものを全部捨象して純化するとまさにこうなりますと言いたくなるところがある。だから、第1交響曲を既に聴いていて好きな人ならば、ちょうどキュートな妹分ができるみたいなものだから絶対に気に入る(長年つき合った姉貴から妹に心がわりするかもしれぬ)。
 ところが、そうやって前作のエッセンスだけを純化してサラサラサラッと書いてしまったものだから、気がついてみると、「交響曲」と名付けるにはコンパクト過ぎる。敢えて遅い楽章をもう一つ書くのも何か不要に思える。シューマン自身タイトルには困ったらしい。「第2交響曲」「組曲」「シンフォネッタ(小交響曲)」などの案を立てたらしい。でも最終的には、現在の、一番説明的で愛想の悪い「序曲、スケルツォとフィナーレ」としてしまう過ち(?)を犯したのである。
 私に言わせると、せめて「シンフォネッタ」としておけば、ヤナーチェクの曲の次に有名ぐらいには今でもなれていたかもしれないと思う。私が最初から命名するならば、どことなくエルガーの弦楽セレナードに通じるインティメートな魅力もあるので、「管弦楽のためのセレナード」というのはどうかと思う。この世の中には通称と作曲者自身がつけたタイトルが別という曲はいくらでもあるから、天国のシューマンが許してくれるならば、このインターネットをきっかけに全世界にこの名称を提案しよう!(英語版もないのに?)。
 そういえばドビュッシーの初期の作品に「小組曲」という何ともキュートでかわいい3つの曲でできたピアノ連弾組曲があり、ビュッセルという人の編曲でオーケストラ版も作られ、誰もが絶対CMとかを通して繰り返し耳にしているはずである。その曲にも通じるピュアーさがある気もする。
 そういえばシューマンはこの頃クララとの新婚ホヤホヤだったはず。ここまでシューマンが管弦楽でひたすら希望に満ちた楽しい曲を書いたことはこれきりなのは当然かも。ここには、後年の「ライン」交響曲のような、一見明るい晴れやかな中に秘められた深い屈折と葛藤は微塵もない。

4.各楽章の構成

 
だからこの曲は、1.序曲、2.スケルツォ、3.フィナーレ・・・以上3つの楽章からできています・・・・と、これだけでは説明になってない!

   1.序曲

 アンダンテ・マ・コン・モート、ホ短調 4/4拍子のあまり長くない序奏にはじまります。最初のバイオリンの静かな動きの下の方から突然チェロが一発カマしてくるあたりは一瞬ゾクッとして根のクラいやっちゃと思うかもしれませんが、シューマンのオーケストラ曲の短調の緩やかな導入部を持つものの中では一番深刻味がなくて、むしろ甘美なものが支配的という気もします。
 でも、この序奏がそんなに延々続かない内に、あっさりと明るくて快速な主部が始まります。この作品がクラいのはここまでです。
 主部はアレグロ ホ長調 2/2拍子。いよいよ軽やかでインティメートなセレナードの幕開けです。こうやってシラーッとさりげなく弾むリズムで脇の方から入って来るみたいに曲の主部をはじめるのはピアノ曲とかでシューマンお得意の口説きの手練手管です。
 曲は簡潔なソナタ形式を取って、提示部-展開部-再現部と進みますが、シューマンが交響作品でこんなに肩の力を抜いた簡素な形式で「第1楽章」を書いたことは他にありません。これを作ってしまってから「交響曲」をイメージさせるタイトルをシューマンが結局つける決心が付かなかった気持ちも分かります。後続の二楽章はそんなに軽すぎると感じずにすむだろうから。

 シューマンにとっては、結局交響曲というのはベートーヴェンの曲のようなホットで力みかえったものでないとならないという先入観が抜けなかったんでしょうね。ブラームスが第1交響曲であそこまで力んでしまっても、その余勢を駆ってサラサラと作りはじめた第2交響曲では、あっさりと静かで女性的で肩の力が抜けた優しい作品になって、「それでもこれも交響曲」と開き直れたのとはずいぶん違う(あっちは大曲ではありますが)。
 いずれにしても、この曲、深刻ぶったり力んだりしなくてよかったから、弦楽合奏が完全に中心、木管も彩りの一部、金管楽器はあくまでも隠し味度に控えめに使っている。こんな淡泊であっさりしたオーケストレーションは他の交響曲や管弦楽曲ではシューマンはやれていない。このくらいヘルシーにしていれば、「シューマンの管弦楽法は音を重ねすぎて効果的ではない」とかいう例の陰口たたかれずに済んだろう。でも「こんな」曲ばかりは作れず、新婚直後の幸せな時期が過ぎるとまたもや暗い情念との戦いに帰っていき、ついには力尽きるあたりはシューマンの宿命なのかも。
 ・・・さて、再現部が終わると、曲はリズムパターンを変えてウン・ポコ・アニマートと少しだけギアチェンジ、更に快速の軽やかで喜ばしい終結部に入ります。この、実に気持ちのいいシャキシャキッとしたリズム感こそが、前期のシューマンが「ゴキゲン」な表情を見せるときの最大の魅力でしょう。
  この終結部のラストのラストでは、少しだけオーケストラ全体に大見得を切らせて「交響曲」っぽく終わらせるのですが、ほんとうに終わる直前、フッとゆるめる部分があります。まるでスカートの両裾をつまんで少女が「おじさま、それではとりあえずお席をはずさせて頂きます」みたいにしゃなりと柔らかく「しなを作って」いく。このあたりもシューマンのニクイニクイ常套テクなんです。

 

   2.スケルツォ

ヴィーヴォ 主部 ホ長調 6/8拍子-トリオ 変ニ長調 2/4拍子

 シューマンお得意の付点音符のついた弾むリズムのスケルツォ。少しだけほの暗い響きで始まりますが、そのうちに日差しが差してきて・・・またシューマンの手口である。何かブラームスの「大学祝典序曲」の冒頭のつぶやくような語り口にもにています。
 中間部のトリオでは二拍子系の平明な短いメロディが最初は木管で出て次々受け渡されていきますが、受け渡される度に、一見単純なメロディをただ繰り返していると見せかけて、非常に新鮮な方向に和声が刻々移ろうという仕掛けがしてあります。これはかの「トロイメライ」でシューマンが使っているのと同じ仕掛けです。
 もう一度主部の弾むスケルツォが少し圧縮されつつも型どおりに回帰し、更にもう一度トリオに手短に回帰したあと、スケルツォが同じテンポで戻るはずのところで、そのまま終結部に入り、ここまでの主要な旋律の断片が緩やかなテンポで回想されます。
 実はスケルツォ楽章の終わりの方でこのような、何らかの意味で安らいだ静かな部分が入るというのは、他のシューマンの交響曲や室内楽曲のスケルツォ楽章でも見られる独創的な手口ですが、特にこの作品には遅い楽章がないので、ここで一息つくと、次の快活な終楽章とのコントラストが生えると言えるかもしれません。ダンスを終えた女の子が「今度こそホントにおいとましますね」と、第一楽章の終わりの時より更に丁寧にしなを作るとでもいいますか。
 ただし、この遅い部分は軽やかにさりげなくやるのがいいのであって、べったりと表情を付けて止まらんばかりのテンポまで落とす演奏解釈は、シューマンの様式をわかっていない恣意的な味付けだと思います。

 

   3.フィナーレ

 アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ ホ長調 2/2拍子 ソナタ形式

 曲は家の中庭から外の広い野原へと一気に駆け出す。
 オケ全体の総奏による力強い和音の柱が2つ投げつけられるのに続いて、まさにこの曲の白眉としかいいようがない、素晴らしい快活さのさわやかでリズミックなカノンがまずはバイオリンからはじまり、次々別の楽器にバトンタッチされていく。ひとつ新しい声部が重なる度に、言い様のない幸福感がどんどん広がっていく。
 その音の重なりが一つの頂点に達したとき、今度は突然思いも寄らないほど流麗でチャーミングな、歌う旋律が、第2主題として、何とも人なつっこくまとよりついてくる。私など、この瞬間は何度聴いてもゾクゾクさせられる。
 短く簡潔だが素朴な力強さを秘めた展開部のあと、またあの何とも心うきうきさせる楽器間の対話が再現部で帰ってくる。
 そして、終結部。ここまでの主題が、ちょうど倍に引き延ばされたゆっくりした形で、最初は高らかなファンファーレの形で、後半はしみじみと柔らかく、もういちどだけ歌われる。何ともなつかしい風情を漂わせて帰ってくる。特に第二主題の歌うメロディがしみじみと回帰する瞬間、至福の境地に酔える人は少なくないのではなかろうか。
 曲は最後にもう一度元のリズムに戻り、あくまでも快活に、でもどこか不思議な名残惜しさを感じさせつつ、余韻ある輝きの中に終わる。何かここには、「となりのトトロ」のエンディングが流れ出す瞬間と共通するような至福がある。

 こうして克明に曲の流れを解説していて再び思った。
ロベルト、どうしてこんなチャーミングな素晴らしい曲に、あんな野暮なタイトルを付けたんだ?


  
     
5.私が持っているこの曲のCD(98/03/29増補改訂)

1.サバリッシュ/ドレスデン国立管弦楽団 (英EMI 7 64815 2/シューマン交響曲全集)

2.ヤルヴィ/ロンドン・フィル(英シャンドス CHAN6548/シューマン序曲集)

3.ヴィルトナー/ポーランド放送交響楽団(香港ナクソス 8.550608/シューマン序曲集)

4.カラヤン/ベルリン・フィル(独グラモフォン 431 161-2/ブラームス交響曲第1番)

5.シュヴァルツ/シアトル交響楽団(米デロス DE 3084/交響曲第1番/ホルン小協奏曲)

6.レパード/インディアナポリス交響楽団(米コス KC-2213/「ゲノヴェーヴァ」序曲/交響曲第1番)

7.グッドマン/ハノーヴァー・バンド(米BMG 09026-91931-2/交響曲全集)

8.マリナー/シュトゥットガルト放送交響楽団(独カブリッチョ  10 063/交響曲第1番/「マンフレッド」序曲)

9.マズア/ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団(米BMG 74321 34172 2/交響曲全集/「ヘルマンとドロテア」序曲)

10.シノーポリ/ドレスデン国立管弦楽団(グラモフォン POGC-1932/3 /楽園とペリ)

11.インバル/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(蘭フィリップス 426 186-2/交響曲全集/「ツヴィッガウ交響曲」)

12.ショルティ/ヴィーン・フィル(ロンドン POCL-9570/スッペ・シューマン序曲集)

13.コンヴィチュニー/ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団(独ベルリン・クラシックス 0320 016/交響曲全集/序曲集/ホルン小協奏曲)

 順番は一応推薦順とみなしていただいていいです。

 1.サバリッシュの全集はシューマン交響曲の定番といわれていますが、少し洗練させ過ぎで(受け取りようによればカラヤン盤以上にカラヤン的)、食いつきが今一つと感じることがあります。ドレスデン・シューターツカペレを使った割には録音が少し外面的かなという気もします。残響がお風呂場みたい。が、これはCD化の際のマスタリングの問題もあるのではないかと思う。ただ、この曲に関しては総合的に見て一番熟した演奏という気はします。ただし、国内盤のシューマン全集には入っていない!

 2.突如発掘できた意外な伏兵。ヤルヴィ盤には驚いた。録音は超優秀ハイファイ録音。繊細でクリアーで透明でダイナミックレンジが実に広い。演奏も細部まで磨き抜かれた全く隙がない、超正統派・完璧な完成度である。この曲としては立派に演奏しすぎているのではないかというくらい。正直に言って私はヤルヴィという指揮者を、CDはやたらと作るけれども決定盤に推したくなる演奏がない指揮者と思っていた。しかしこの演奏を最初に聴いたとき理屈抜きに圧倒された。あわててサバリッシュ盤を聴き直したのだが、録音・演奏ともに驚くほどそっくりなのである。ただ、微妙な楽器間のバランスや歌い回しという点でサバリッシュ盤の方がわずかに一層のコクがある。ただその差は実に微妙なものである。ここに至り、むしろサバリッシュがいかにドイツの伝統に寄りかからずにインターナショナルで清新な演奏を心がけていたのかがよくわかった。「ドレスデンらしくない」印象はむしろそれだけサバリッシュのコントロールが凄いということでもある。そしてそのサバリッシュにここまで肉薄できる演奏をヤルヴィがロンドンのオケで生み出せた。シューマンにドイツ的な重厚さとか霞がかかったような味わいを期待しないでいい人にとっては恐らくこの演奏こそが最も完璧と映るだろう。メジャーレーベルにはこれより遥かにおざなりの微温的な水準の演奏や録音で良しとしている「有名指揮者」が五万といる。欠点は「シューマン序曲集」と銘打ちつつもこの曲の外に序曲が比較的入手しやすい3曲のみ(後述のヴィルトナー盤は6曲)、CD全演奏時間がわずか47分という点。ただしその3曲の序曲も、曲をワーグナーの前奏曲のスケールで聴かせてしまう名演揃いである。シューマン好き必聴の隠れた特選盤としたい。

 3.ヴィルトナー盤は大穴。何しろナクソスだから安い。まあ、スケルツォの終わりは減速し過ぎかもしれないけど、むしろそれを気に入る人もいるだろう。その他の点では演奏もすごく素直で流動感もあり、好感が持てる。実は私が普段一番聴い来たのはこの演奏です。一緒に入っているのが、ひょっとしたら現在世界で唯一のほぼ完璧なシューマン序曲集(この序曲集に入っていないシューマンの序曲は他に「祝典序曲」Op.123のみ。シューマンの序曲についてはいずれ「全曲」取り上げます)というあたり、よほどのシューマンおたく向けの、何とも渋い選曲ですが、店によっては1000円以下で買えますので。唯一イライラするのは、なぜか3楽章全体をまとめてひとつのトラックにしてあること。私の大好きなフィナーレだけを一発呼び出しできない!

 4.そして問題のカラヤン盤。流麗でクリィミーな響きの美しさという点では最高。楽団の格の違いを感じる。ただ、少しだけ芸が細かすぎるかなと思う部分もある。変なところでじっくりテンポを落としたりもするし。でも一般にはこの演奏が一番ウケそうな気もする。もっともフィナーレの提示部の反復はして欲しかった。既に述べたように全集盤には入ってないので探すのに意外と苦労するかも。カップリングのブラームスの1番はカラヤンの同曲演奏では個人的には一番素直で好きです。廉価版だし、その意味ではお薦めですね。

 5.シュワルツ盤も、かなりの穴です。ここでの録音はナチュラル、むしろヨーロッパ的にシックで飾り気がないけど繊細なのが実にいい。その点ではサバリッシュ盤がこの音ならいいのにとおもってしまう。演奏は特に個性的ではないのだけれども、ともかくキチンとまとめていて好感度は極めて高いです。曲を聴くならばこれが一番いいかも、ただし容易に入手できるのかな?

 6.レパード盤もなぜか録音も解釈もシュワルツ盤と似ています。アメリカの地方オケの方がヨーロッパ的な古風な響きを録音面でも解釈面でも手抜きなく演出できているのは妙なものです。ただ、旋律をここぞというところでのびのびと歌わせるという点ではシュワルツ盤の方が壺を得ている気がしたので順位はこうなった。ちなみに「コス」レーベルとはヘッドフォンで有名なあのKOSSのことです。ここがレコード制作もしているとは全く知らなかった。タワーレコード渋谷店は思いもよらないものを置いてくれている。恐らくこのCDはかなり日本での入手は難しいのではないかと思います。

 グッドマン盤は国内盤でも出ています。確かノリントン盤に続く二番目のオリジナル楽器によるシューマン全集。この「序曲、スケルツォとフィナーレ」に関してはオリジナル楽器の風通しのいい音は非常にフィットします。実に気持ちがいい。新しい録音でもありますし。カップリングの交響曲の方は少しだけ食い足りないですけども。

 8.マリナー盤は演奏そのものはマリナーの入れた一連のシューマン録音の中では平凡なものだと思います。しかし、この音色の魅力はたいしたもの。何ともサラサラとした透明感のある音。録音は「ひたすらさわやかでキュート」です。バイオリンの倍音成分のあたりに不思議なフェロモンがあって脳髄をくすぐる。こんな何の陰もウエットさもない淡泊で清潔でヘルシーでベジタリアンみたいな音はシューマンではないという人もあるかもしれませんが、私自身は、このようなピュアーな音質でサラサラと演奏した時はじめて引き出されるシューマンの魅力というものがひとつのスタイルとしてはあってもおかしくないと以前から夢想していたのです。その音がまさにここに実現されているという感じなので、「こんなのも悪くないな」と妙に味方してしまいます。シューマンはほんとうはこういう軽やかな「天上の音色」を心の中では聴いていたのかもしれないと。

 9.マズア盤は交響曲全集の旧盤に付いているもの。交響曲全集としては、同じゲバントハウスを振った後述のコンヴィチュニーに比べると、録音はいいものの、何か醒めた演奏という気もするが、基本的には同じ傾向で、ドイツの伝統的などっしりとしたスタイルを踏襲、こちらの方が端整で楽しめるという人もあるだろう。この「序曲と……」に関していえば、序曲は後述のコンヴィチュニーのようにもったりしてはいない点はいいが、スケルツォは、丁寧ではあるが少し醒めすぎている気はする。フィナーレは快速で無難にまとめている。あとひとつ夢が欲しいなあという思いはあるが、全体として悪い演奏ではない。

 10.録音の新しさという点ではシノーポリ盤が一番。国内盤も出たばかり。その意味では今は入手しやすいだろう。ただしこれは先に出た交響曲全集ではなくて、カンタータ「楽園とペリ」などという一般の人には未知の大曲と組まれているので、シノーポリなら何でも買いますという人や私のようなシューマンおたくはともかく、「序曲、スケルツォとフィナーレ」を取りあえず聴いてみたい人のためには大冒険となる。フィナーレの部分、少し表現がスタティック過ぎて、もう少しピチピチしたものも欲しくなるが、解釈自体としては明快で現代的で筋は通ったものがあると思う。この演奏で十分満足という人も少なくないだろう。ただ、何か妙に響きに潤いと余裕と厚みと解け合いが乏しいのはどういうことだろう。妙に痩せぎすでこじんまりとした印象はどこから来るのか。単に録音のせいなのか。それとも、ひょつとしたらドイツ統合後のドレスデンのオケ、サバリッシュ盤の頃より練り込みが落ちているという可能性もあるのか。私はそもそもシノーポリ/ドレスデンの組み合わせにピンときたことがありません。正直に言ってヤルヴィ盤を聴いてしまうと果たしてどちらが名指揮者なのかすら判断に苦しむことになるのではないかと。これが単にシノーポリと楽団の現時点での相性の問題にすぎないことを祈ります。互いの個性を殺し合う形になっていないか? ウイーン・フィルとの第2交響曲は確かに新鮮な演奏だったから。

 11.インバルの演奏は、オーケストラそのものの響きの練り込みが少し不足かと思う。若い頃のインバルの解釈そのものは少しそっけないかなとは思いますけど、曲を知る上では十分でしょう。他にマリナー盤ぐらいしか出ていない、初期の習作交響曲が聴けるメリットもある。ただし、国内盤の廉価版での全集では交響曲以外のすべての曲が切られました。

 12.スッペ序曲集などという思いも寄らないものと抱き合わせで国内でも廉価版でリリースされたショルティの少し古めの録音は、当時のショルティの、たとえ相手がウィーンフィルであろうとお構いなしの力尽くで直情な演奏スタイルがどうしても気になる。どうしてこの曲でフォルテの部分をこんなに肩いからせないとならないのか。ただ、少しでもおとなしい演奏が嫌いになりそうだという人は、最初からこの盤を選ぶのも一つの手かもしれない。私からするとこの演奏、かなり牛刀で鶏口を・・・なんだけど。

 13.コンヴィチュニーは、私が高校時代にはじめてシューマンの交響曲に接するきっかけを作ってくれて以来、ことシューマン演奏に関しては特別な愛着の対象で今もあり続けているのだけれども、この曲に限っては、特に第1楽章の何とも「もったり」した語り口が、この曲に本来必要な軽やかな流動感を殺している気がしてならないのです。聞き込んでくるとこれはこれで味があるのですが、ファーストチョイスとしてはどうかと思います。他の演奏とは歴然と異次元というあたりはおもしろいんですが。交響曲全集自体は、録音は古めになりましたが、ドイツの香りムンムンの超名演だと今も思います。

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